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アンドリュー・フォンテイン
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プロフィール
本名 | アンドリュー・ダグラス・アルジャーノン・マクリーン・フォンテイン(Andrew Douglas Algernon Maclean Fountaine) |
生存期間 | 1918年12月7日~1997年9月14日 |
出身地 | イギリス、ノーフォーク |
職業 | ノーフォークの地主、極右活動家 |
関係人物 | ジョン・ビーン、A・K・チェスタートン、コリン・ジョーダン、ジョン・ティンダル、マーティン・ウェブスター |
登場作品 | The New Order(連合王国、思想派指導者) |
アンドリュー・フォンテインはイギリスの極右活動家として知られている。
軍務を経た後、保守党に入党し一時は議会候補者にも選ばれたが、その過激な見解により党から見放された。
その後、複数の右翼過激派運動に関与し、1967年には国民戦線(National Front, NF)の創設メンバーの一人となった。党内でいくつかの役職を歴任し、多くの内部抗争に関わった後、1979年に離党。短期間自身の分派政党を率いた後、政界から引退した。
経歴
- 1918年12月7日: ノーフォークの地主の家庭に生まれる。
父は国王ジョージ5世の海軍武官を務めたチャールズ・フォンテイン海軍中将。先祖には美術収集家もいた。
- 1935年: イギリス海軍に入隊、第二次エチオピア戦争でアビシニア(エチオピア)側で救急車を運転。
数ヶ月でリウマチ熱のため傷病除隊となった。
- 学生時代: ケンブリッジ大学で自然科学を学びつつ、再び海軍を目指すも8回の健康診断で不合格
- 第二次世界大戦勃発後、絶望の末、自身と容姿が酷似した友人に身代わりで健康診断を受けさせ、二等水兵として海軍に復帰
太平洋戦線で航空母艦HMSインディファティガブルの砲術士官(最終階級は海軍少佐)として勤務した。
- 1945年4月: 神風特攻による攻撃で負傷し、健康診断での身代わりがバレて、海軍を除隊
- 1940年代後半: 保守党に関与するようになる
1947年と1948年の保守党大会で扇動的な演説を行った。
特に、1948年の党大会では、アトリー労働党政権を「良心的兵役拒否者、国家反逆者、半外国人の雑種、両性具有の共産主義者の集団」と痛烈に批判した。
特に、1948年の党大会では、アトリー労働党政権を「良心的兵役拒否者、国家反逆者、半外国人の雑種、両性具有の共産主義者の集団」と痛烈に批判した。
- 1949年: 次期総選挙のチョーリー選挙区における保守党候補に選出されるも、取り消される
ただし、同年の党大会での演説が反ユダヤ的と見なされたため。
労働党現職にわずか361票差で敗れ、地方保守党にも見放される。
労働党現職にわずか361票差で敗れ、地方保守党にも見放される。
- 保守党離党後: 自身のグループ「国民戦線運動(National Front Movement)」をチョーリーに設立するが、短命に終わる
- 帝国ロイヤリスト同盟(League of Empire Loyalists、LEL)に参加
その後ジョン・ビーンと共に離脱。
- 国民労働党(National Labour Party, NLP)の創設メンバーとなり、名目上の党首に
ただし、実権はビーンが握っていた。
- 1960年代: ジョン・ビーンを支持し、初期のイギリス国民党(British National Party, BNP)で党総裁に
この時期、自身の土地をコリン・ジョーダンやジョン・ティンダル指導下の「スピアヘッド」訓練のために提供していた。
- 1967年: 国民戦線(National Front, NF)の創設メンバーとなる。
フォンテインは、様々な分派的な右翼・ネオナチ組織に統合する上で主導的役割を果たした。
当初からA・K・チェスタートンとの関係は険悪だった。フォンテインが公然の反ユダヤ主義者ではなかったためとされる。
当初からA・K・チェスタートンとの関係は険悪だった。フォンテインが公然の反ユダヤ主義者ではなかったためとされる。
- 1968年: アクトン選挙区の補欠選挙にNFから初めての議会候補として出馬し、1400票(得票率5%以上)を獲得し4位に
- 同年: 革命や内戦の際にはNFメンバーに警察に協力するよう指示し、チェスタートンにより除名される。
ただし、フォンテインは裁判所命令で除名を覆した。
- 同年: 同年の党大会でチェスタートンに党首選で挑戦するも大敗
チェスタートン316票に対しフォンテイン20票だった。その後、NF全国理事会を辞任した。
- 1974年頃: ジョン・ティンダルが率いるNF内派閥のティンダル派から支持を求められ協力
- 1975年: 党大会で、ティンダルが支持する党首選挙制度の変更案を提案し、僅差で否決
その変更案は、全国理事会メンバーだけでなく全党員の投票へと変更する党内民主主義的なものだった。
同年11月、ティンダルが除名され、フォンテインとマーティン・ウェブスターは、活動停止処分を受けるが、翌月には裁判所命令により全員復党した。
同年11月、ティンダルが除名され、フォンテインとマーティン・ウェブスターは、活動停止処分を受けるが、翌月には裁判所命令により全員復党した。
- 1976年: コベントリー北西補欠選挙にNF候補として出馬。得票率3%にとどまる
- 1978年までには: NF内の反体制派の中心人物に
ティンダルとの同盟も長続きせず、ティンダルとウェブスターのネオナチズム的傾向や、人種差別主義者のスキンヘッドやフーリガンなどの勧誘を公然と批判するようになる。
- 1979年: 総選挙でノリッジ南選挙区からNF候補として出馬し、264票(0.7%)で落選。
- 同年: 総選挙でのNFの敗北後、ティンダルと決裂し党首選に挑戦するも敗北
その後、NFを離党し、国民戦線立憲運動(National Front Constitutional Movement)、後の国民党(Nationalist Party)を結成。
新党は1980年1月までに2,000人の党員を有したとされる。機関紙は『エクスカリバー』。
- 1981年: 極右の内紛に幻滅し、政界から引退
スワファム北西にあるナードフォード・ホールの自邸で植林に専念するようになる。
- 1997年9月14日: ノーフォークのキングズ・リンにて死去。享年78歳。
思想
反ユダヤ主義の傾向
保守党時代には、その演説が反ユダヤ的であると見なされ、候補者指名を取り消された経緯がある。
しかし、チェスタートンに嫌われたり、ティンダルとウェブスターをネオナチ的と批判したりしたことから分かるように、少なくとも表向きには反ユダヤ主義者を自称してはなかった。
作品
- 1960年~1965年: Meaning of an Enemy(ジョン・ビーンの雑誌『Combat』に連載。2012年にOstara Publicationsより書籍化 ISBN 978-1-291-19752-5)
TIPS
- 第一次世界大戦後の英国首相ハロルド・マクミランの自宅に定期的に電話をかけ、移民を阻止するためにもっと行動するよう伝えていたと後に主張している。マクミランはフォンテインの声を聞くとすぐに電話を切ったとも。
- 1999年にノーフォークの自宅で強盗を射殺し大きな注目を集めた農夫トニー・マーティン(Anthony Edward Martin)は、フォンテインの義理の甥(妻の甥)にあたる。
参考文献
- Wikipedia - Andrew Fountaine
- Andrew Fountaine; Obituary
https://go.gale.com/ps/i.do?p=AONE&u=wikipedia&id=GALE%7CA59856296&v=2.1&it=r&sid=AONE&asid=cdbcd61f