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     昨今、世界は頽廃している。この世の終末が間違いなく近づいている

            ――古代アッシリアから発掘された楔形文字の粘土板。約5000年前の物とされる






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 その男の帰還を目の当たりにした時、誰もが、死人が目の前で蘇ったのを目の当たりにしたような驚愕の表情を浮かべていた。
ロングコートを着流す、銀髪の美青年。大の大人であってもたじろぐ程の威圧感をオーラのように纏わせ、それが嫌味でも何でもなく様になる男。
この邸宅に働く者達の中に在って、青年の態度や言動を咎める者は誰も居ない。それが許される立場であるから。――それが許される、絶対的な支配者であるから。その倨傲に相応しいだけの才覚を持ち、カリスマを持ち、知性を持つ。峰津院財閥の構成員達から見た、峰津院大和とは、そんな人物だった。

 皇帝を意味する言葉であるところの、カイザーの語源となった男、カエサルですら、その名誉と名声を絶頂にまで押し上げ、
王としての才能の全盛に至らせたのは、頭の毛が薄くなり禿散らかって来た50過ぎの事である。
大和は、違う。生まれながらの帝王であり、賢者だった。日毎に、全盛期を刷新して行く末恐ろしい時代の寵児だった。
やがては財閥と言う組織の枠すら超え、総理大臣をも超える新たなる国政のリーダーとしてのポジションを創設し、其処に君臨し得る何者かに至り得る、神の子でもあった。

 その大和が、もしや死んだかも知れないと言う報告が上がった時には、財閥は一時騒然となった。
新宿区を揺るがした、未曽有の大事件。その情報は勿論、峰津院財閥のネットワークにも引っかかっていた。
……と言うより、これは最早引っかかったとか以前の問題である。どこぞの誇大妄想狂(メガロマニア)が大通りで刃物を振り回して人を殺した、等とは訳が違う。
建造物が幾つも倒壊し、何百人を容易く超える都民及び外国人旅行者達が命を失うと言う、人災を遥かに飛び越えた域の大事件が起こっているのだから。
事件の沿革は勿論の事、正式な死亡者・死傷者の数すら判別出来ない。何せ数分経過する度に、死者の数が何十人と増えて行き、軽・重を問わぬ負傷者の数に至っては、
これに数倍する形で増加していくのだ。倒壊した建造物の数は何百棟をも容易く超え、これによって生じた土煙があまりに酷過ぎて視界不明瞭に陥る為、
現場に入ると捜査すらままならないのだ。事件の全貌も、被害の規模がどれ位なのかの見通しも立たず、しかし、それが嘗て前例が存在しない程の重大なインシデントである事が誰にでも解る。これは最早、天災の域を超えた、『厄災』そのものであった。

 その災厄の真っただ中に、峰津院大和が巻き込まれているかも知れないと言う可能性を考慮した時、財閥は大パニックに陥った。
財閥の構成員の中には、大和のスケジュールを理解している者もいる。当日になって初めて知らされる者もいる。そもそも、知らされないような下っ端もいる。
大和の本日の予定を知る、所謂上級幹部から、パニックは広まった。何て事はない、スケジュールから逆算すれば明らかだ。
新宿を巻き込んだ大災害、それが勃発したと思しき時間近辺には、大和はその場所で会合を行っている筈なのだから。

 峰津院財閥は確かに、大和が居なくとも回る組織である。それは、組織と言う仕組み、システムが完成している事を意味する。
だがそれは、峰津院大和と言う当主が文字通り存在しない――死んでいても回る、と言う事ではないのだ。当たり前の話ながら。
大和が生きていて、当主と言うポジションに収まっている上で、彼が仕事をしなくとも回る組織であるのだ。頭の大和が死んでしまえば、文字通り財閥は機能不全になる。
諸所の雑務であるのならば兎も角、大和の意志と手がなければ回らない重大な業務が存在する為である。例えばそれは、意思決定であったり、対外機関との折衝であったり。
峰津院大和とは、峰津院財閥における、まさに欠くべかざる脳(ブレーン)。彼の判断の下で、財閥の手足となる様々な会社や機関は動くのであり、これを欠けばどうなるのかなど、言うに及ばずだ。

 肝心の大和に対して幹部達が連絡のTELを入れても、まるっきり反応がない。
ならば、と、大和の側近の一人である真琴に対してTELを入れても、これも繋がらない。
「新宿区に構成員を送り捜索を行うべきだ」、「いや警察や自衛隊を動かした方が良い」、「駄目だそれをやれば財閥に何か危機が起きたのだと感づかれる」。
その様な侃々諤々の議論を行い、何をすべきか、どのような判断を下すべきか紛糾していたその折に――新宿区は峰津院大和の邸宅に、そのオーナーがやって来たのである。

「……フッ。今までそれが当然だったから気にも留めなかったが……出迎えがないと言うのも新鮮だな。気分転換には丁度良いか」

 大和が本宅に帰還した場合、その10分前には、其処で働く構成員や使用人達は玄関先で整列し、大和を待ち構えなくてはならない。
そして、帰還と同時に、礼、だ。お辞儀のタイミング、角度、これを維持する時間。全てが皆、判で押したように同じ。統率の逸れたマスゲームを見ている気分になる。
そう言った慣習が当たり前の物と大和は認識していた為、ないならないで、新鮮な気持ちだった。

「如何した、何を呆けている。私が戻ってきたのだ。深々と頭を下げろとは言わんが、せめて軽くお辞儀位はしておけ」

 正門から堂々と入って来て、玄関先で慌ただしく動き回っていた無数の財閥職員達の姿を眺めながら、大和は言った。
其処で漸く皆、我を取り戻したらしい。一列に並ぶと言う事すら忘れ、その時自分が立っていた位置でそのまま、深々と一礼し始めた。

「ご、御当主様!!」

 黒いスーツを纏った、年配の構成員が此方に駆け寄って来る。父親の代から仕えていると言う、財閥の幹部クラスの一人だった。

「よ、よくぞご無事で……御身にお怪我は……?」

「息災だ。だが、流石に新宿から此処まで歩いてくるのは疲れた」

 背後を振り返り、朦々と土煙が立ち込めている新宿区の方角を見上げてから、目線を年配の幹部に移した。

「状況が状況だ、今日この後の私の予定は全てキャンセルだと、先方に伝えておけ」

「承知致しました」

「私は休息を取らせて貰う。キャンセルを伝え次第、新宿を筆頭とした23区内に起きた様々な異変……それによって滞りの生じた業務についての解決に当たれる職員に仕事を振れ」

「承知致しました」

「……迫からの連絡は来ているか?」

 思い出したかのように、大和は尋ねた。
迫真琴。大和の側近の一人だ。新宿があのような事態に陥るまでは、大和の秘書として付きっ切りであった。
戦いに巻き込まれて死んだ可能性もあるし、逃げおおせた可能性もある。或いは、大和の事を必死に捜索している可能性もゼロではない。
どちらにしても、その行方は杳として知れない。大和に連絡が行っていないからである

「さ、迫ですか……。申し訳御座いません、彼女からの連絡はまだ来ておりません」

「解った。奴から連絡があり次第、私に取り次ぐか、それが無理そうなら此処に来させろ。良いな」

「承知しました……」

「暫く一人にしてくれ。それと、昼を抜いてしまった。並行して、夕食も用意しておけ」

 其処で大和は確固とした足取りで邸宅の中に入って行き、この場を後にする。
彼の姿が邸内に消えるまで、財閥の関係者達は全員礼をしたままだった。彼が消えてもなお、数秒は、その態勢を維持し続けていた。王に対する礼儀が、そうであるかのように。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 執務室に、大和は戻って来た。
大和が主として使う部屋は特に、ハウスキーパーが細心の注意を払って掃除を行き届かせている。執務室もそんな場所の一つであり、そこには埃一つ見受けられなかった。
絨毯、本棚、スチルラック、来客用のソファにガラステーブルに、大和が執務に用いるマホガニーのデスク。
大和がいつみても、今しがた掃除を終え、ワックスでも塗ったかのように、ピカピカの状態を維持している。カーテンすらも毎日洗濯を欠かしていない。
いつだとて香るのは、太陽と洗剤の芳香。ハウスキーパーが一切、己の職務に手を抜いていない証拠が、此処にはあった。

 仕事ぶりは、いつも通り。
特に何かに目を配らせるでもなく、執務机であるマホガニーのデスクまで歩み寄る大和。
そこで身体の向きを彼は変えた。机に向かってではなく、入って来たドアの方に身体を向け、口を開く。

「構わんぞ」

 大和がそう告げた瞬間、殺意が爆風となって室内に荒れ狂った。
一瞬で実体化したベルゼバブは、大和の反射神経を容易く凌駕する速度で、彼の首根っこをガッとひっ掴む。
そのままデスクに背面から叩きつけて、行動を著しく制限させてしまった。制限と言っても、手足は動くのだが、そんな事はベルゼバブの前では些末な問題でしかない。
この状態での大和に出来る事などたかが知れているし、そもそも何かアクションを起こそうとした瞬間にベルゼバブがこれに反応して、殺しに掛かれるのだ。
要するに、この状態、大和にとっては限りなく詰みに近い状態である。生殺与奪は完全にベルゼバブが握っており、大和を生かすも殺すも、正しくこの鋼翼のランサーに全て掛かっている訳だ。

「……」

 大和から、此方を押し倒しているベルゼバブの顔が良く見える。
これ程まで、怒りに燃えている、と言う感情が、露骨な表情もあろうか。仏の怒りの発露であるところの、不動明王ですら、斯様なまでの表情はとるまい。
悪鬼羅刹ですら、こうも行かない。大和の事が、殺したくて殺したくて堪らない。そんなような表情を、ベルゼバブは浮かべている。
果たして今のこの様子を見て誰が、この主従こそが新宿に災禍を齎した片翼であり、現状の界聖杯における最強の主従の一人だと思おうか。
此処まで解りやすい仲間割れを引き起こし、消滅覚悟でマスターの事を殺そうとするサーヴァントの姿からは、とてもではないが、本戦まで生き残れる程の説得力を感じさせない。本来ならば、予選の時点で淘汰されて然るべき、程度の低い関係性であった。

「いや、驚いているぞ。貴様が其処まで辛抱強い性格だったとはな。正直な話、此処に来る途中の路地裏で、我慢出来ずに殺しに来ると思っていた」

「この状況下で其処までの軽口を叩けるとは。勇敢を通り越して、阿呆か貴様は?」

 現状を余りにも認識していない大和の言葉に、更にベルゼバブの心はささくれ立つ。
大和とベルゼバブ、互いに戦えば言うまでもなく勝利するのは、ベルゼバブの方だった。
それは、大和がケルベロスと言う規格外の存在を従えて戦って居てもなお、勝敗の構図が変わる事はない。
互いに万全の状態で戦って居てもこれであるのに、今のこの状況下において、大和が有利に転ずる可能性などゼロに等しい。ベルゼバブの意思一つで、峰津院大和の命は、消し飛ぶのである。

「余の言いたい事は解るな」

「それは此方の台詞だ。言いたい事など私だとて山ほどある」

 大和にかける力をベルゼバブが更に強めた。
ミシミシ、メキメキと、不吉な音が生じて行く。大和からではない。大和が押し付けられている、デスクから。

「余は貴様の発言を許可していない。死にたくなければその口を閉じろ羽虫」

「強がるなランサー。お前が私を殺せない事を見抜けぬと思っていたか?」

「此処で貴様を殺す事を余が躊躇する存在だと、思っているのなら随分余を下に見るものよ。貴様が如き羽虫、いつでも殺しても構わぬのだぞ」

「クックククク……笑わせてくれる。貴様を召喚して早一ヵ月、その間私を生かしていた事こそが、既に私を殺せぬ事の証拠よ」

 嘲笑。自分の命が、まさにゼロカンマの一瞬間の内に消えてなくなる様なこの状況に陥ってなお、峰津院大和と言う男は、余裕の態度を崩しすらしない。自分の命が潰えて消える、その可能性を、恐れてもいなかった。

「貴様も現実を理解しているだろう? 我々は何人の主従を屠って来た? 幾人のマスターを見て来た? なぁランサー、貴様の性格だ。貴様は私よりも遥かに優れた資質のマスターに鞍替えする事等、最終的な目的の為なら造作もない事だろう。何故それをしなかった?」

「――」

「『いなかった』のだろう? 私より優れたマスターが。その事を、実感したんじゃないか?」

「……羽虫めが……!!」

 大和の言葉は、痛い程に、ベルゼバブの急所を突いていた。
この銀髪の美青年の考察は、ベルゼバブ、と言う人物のパーソナリティを正確に捉えていた。
そうだ、ベルゼバブが大和、ひいてはマスターと言う立場の人間の意見を汲み、生かしておいているのは、マスターがベルゼバブと言うサーヴァントを現世に留め置く要石だと、
理解しているからに他ならない。もしもベルゼバブがマスターと言う存在が不要なまでのスタンドアローン性を得て、かつ、マスターに利用価値がないと判断したならば。
そして或いは、今のマスター以上に優秀にマスターが他にいたのであれば。峰津院大和と言う生意気な小僧など即座に殺してしまい、その優秀な方のマスターを利用とするだろうし、マスターがいらないレベルで単独行動出来る機会、つまり受肉の機会があっても同じように殺してしまっていただろう。

 大和の言う通りである。彼以上に優れたマスターが、いなかったのである。
マスターと言う観点から見た場合、大和と言う人物は極めて異常な存在である。単体でサーヴァントを相手に渡り合える程の戦闘能力もそうだが、何よりも特筆するべきはその魔力。
サーヴァントの強さと、彼らの活動の為に消費される魔力の量は正比例の関係にある。当たり前だ、優れたサーヴァントであるのに魔力の燃費も良く、
現界出来る時間もそれに応じて長いと言うのは、道理が通らない。強力なサーヴァントはその分、燃費も悪い。絶対に近しい法則である。
ベルゼバブとて、このサーヴァントとして召喚されている以上、この天則には逆らえない。本来、ベルゼバブレベルのサーヴァントを従えていながら、一ヵ月も、
魔力を枯渇させる事無く生活し続ける事など、並の魔術師には不可能な事柄である。普通であれば、霊体化を常時させておき魔力の消費を抑えておき、『ここぞ』の場面に備えるものだ。
勿論大和もそのセオリー通りに動いてはいたが、それでも、霊体化で節約出来る魔力の量以上に、サーヴァントを留め置く為に必要な魔力の方が多いのだ。
況して大和達は、本戦に至るまでのその過程で、20組を容易く超える主従をこの手で葬っている。にも拘らず、大和の魔力は不動。プールを越えて最早湖、それどころか海に形容され得る魔力量だった。

「今更、死に怯える私ではないが、それを抜きにしてもこの状況は恐れるに足りん。死なぬと解りきっているショーに対し、誰が怯える物だと言うか」

 普段の言動や態度から見ても明らかなように、ベルゼバブにとっては他人など、彼の語る通り羽虫である。
自分以外等しく、価値がない。敵か、道具、もしくは、塵。それでしかない。だが、それでは物事は進展しないし好転もしない、最強の道を歩み続ける事もまた難しい。
見るべきものなどまるでないと言いつつも、その実、他人を見ているし、区別している。だからこそ、新宿を破壊した片割れのライダーであるカイドウや、
月の兵器に良く似た少女であるシュヴィ・ドーラ、己が所業の報いだと言わんばかりの必罰の斬傷を刻んだ継国縁壱。本戦で戦い、或いは相見え、取り逃したサーヴァントの事は覚えている。
マスターにしても同じだ。ベルゼバブはサーヴァントとそのマスターの姿を見るや、マスターの素質を、その目で測っていたのである。

 ――話に、ならなかった。
他の聖杯戦争のマスターを見て、見聞を広げれば広げる程、峰津院大和の優秀さが浮き彫りになるだけだった。
最も肝要となる魔力の量と言う面では、殆ど全てのマスターが水溜まり程度の量でしかなく、ベルゼバブを満足に動かすには到底足りない。
ロール的な面に至っては、論外である。元々財閥の当主である大和に対して、ロール面で優位に立とうと思ったのならば、大企業の取締役だとか総株主、
と言うレベルでは最早効かない。大和の立場はそんな彼らを容易く上回る。どころか、下手な衆参の議員ならば、顎で使える立場なのだ。これより上のロールを所望するとなれば、最早総理大臣位しか択がない。

 見れば見る程、自分に相応しいマスターは、この世界に於いて大和一人のみ、と言う現実が露呈する。
立場も優れていれば魔力も潤沢、一々此方が世話を焼かないでも問題ない実力と機転を有し、極めつけには頭もキレる。
凡そ、マスターとしてはこれ以上とない優良物件。如何なるサーヴァントであろうとも、大和の下で戦うのであれば、何らの不足もあるまい。

「余を、脅すか? 人の分際で」

「ほう、羽虫から人呼ばわりか。随分立場を上げてくれるな、粘り強くコミュニケーションを取り続けた私の苦労が実ったか」

 ――唯一にして最大の、ベルゼバブが大和を気に入らぬ理由。それはこの、大和の性格だった。
優秀さに裏打ちされた、その傲慢かつ驕り高ぶったその性格は、ベルゼバブの最も気に入らないそれであり、――ベルゼバブは死んでも認めなかろうが――同族嫌悪を想起させる。
要は、大和はベルゼバブをまるで恐れていない。彼を立てるでもなく、対等な立場で平気で指示を飛ばしてくる。
その指示が的確な内はまだ良かったが、ベルゼバブの想定していた理想を大幅に下回る働きしかこなさず、剰え、そのまま行けば楽に殺せていたであろう縁壱を相手に撤退を命じ、
勝利を譲る等と言う腸が煮えくり返らんばかりの行いすら許してしまった。この失態が、ベルゼバブの辛抱を爆発させてしまった。

 この、自分は殺されないと思っている、余裕な態度が、なによりもベルゼバブの神経を逆撫でさせる。
ベルゼバブが大和以上に優れた資質のマスターがいない事に気づいたように、大和もまた、自分以上に優れたマスターが居ない事に、とっくに気付いていたのである。
ベルゼバブが聖杯を望むその限り、自分が死ぬ事はない。大和の余裕の裏付けとなる考えであり、そしてそれが、真実であった。

「余が……界聖杯への未練で、貴様を殺す事を躊躇すると思っているか。見縊るなよ、峰津院大和……!!」

「……意外だな。私の名など当に忘れている物かと思ったが。存外、自分以外に興味があるじゃないか」

 これは本当に驚いていたらしい。大和にしては珍しい、驚きの表情だ。
まさかこのランサーが、人の名前を素直に口にするなど、思ってもいなかったからだ。

「その興味に対して敬意を払う。二度は言わん。肝に銘じて、自覚しろ」

 今にも命を失いかねないその態勢のまま、大和は口を開いて言い放った。

「貴様と契れるのは私だけだ。お前は何処にも行けはしない」

「――ヤ、マ……ト……ォ!!」

 大和が背中を押しあてられているその机が、凄まじい音を立てて、木っ端微塵に砕け散った。
数㎝単位にまで破砕されたマホガニーの木片は部屋中に飛散し、デスクの中に置かれていた重要機密書類もまた、子供が無我夢中で契って見せたような細やかな紙片となって舞い飛んだ。
絨毯に堆積する木片の上に、大和が押し倒された。後頭部を勢いよく打ち付けられるも、大和は苦悶の一つも上げる事がなかった。

「私の理想は知っていよう。強者にならば殺される事だとて是としている。貴様にならば殺されたとて、切歯扼腕する事もない」

「志半ばのこの状況下でも、か……!!」

「元より帰る場所も、魂が還る故郷もない。この世から命が一つ消えた所で何も不都合はないだろう。些細な事さ」

 肝の据わっている男だった。声になんの揺らぎもない。抑揚のない、淡々とした語調。
元より大和には、死をネタにした恫喝が一切通用しない事を、ベルゼバブは当に見抜いていた。これ以上の真似は、己の格を下げる事になると判断したか。
額に青筋を浮かべながら、大和の顔を睨み付けるベルゼバブ。数秒程、経過した頃だろうか。大和の胸元をガッと掴み、そのまま、背後に放り投げてしまった。
放物線を描いて大和は投げ飛ばされて行き、バンッ、と言う音を立てて、扉に勢いよく背面から衝突する。それでも、受け身は取っていたらしい。
両足からスタリと着地。そのまま、ドアに背を預けた態勢のまま、腕を組んで直立していた。

「才能に救われたな、羽虫……」

「そのようだ」

 目頭を押さえ、一息つく大和。受けた衝撃によって混濁気味の頭の中を、明瞭にさせる為であった。

「……契り、と言う言葉の意味と重みは私も知悉している。戯れには使わん」

「何が言いたい」

「私としても貴様以上のサーヴァントが見当たらなかったと言う事さ。貴様以外のサーヴァントに鞍替えするつもりはない」

 何て事はない。ベルゼバブが対峙したマスターの事を観察していたように、大和の方も、対峙したサーヴァントをよく見ていたと言う事である。
彼もまた多くのサーヴァントを眺め、ベルゼバブが乱心を起こした際に鞍替え出来る存在か如何かを判別していたが――結果は、ベルゼバブと同じだ。
誰も彼も、大和が共に理想を目指そうと誘いたくなるような手合いではなかった。ある者はこの聖杯戦争を勝ち抜けるだけの実力がないとして。
またある者は大和が掲げる実力主義を迎合出来るかと言う思想面で。大和が合格の印を出せる基準を満たすサーヴァントは、未だ存在しなかった。

「……ふっ、フフフ……」

 顔を俯かせ、大和が、クツクツと笑い始めた。

「何がおかしい」

「笑いたくもなろう。私を捨てんと他のマスターを具に品定めし、誰も見つからなかった貴様。貴様が馬鹿な事を考えて裏切った時の為に、乗り換え先のサーヴァントを探そうとしていた私。結果はどうだ、双方共に目当ての物は見つからず、結局何処までも我々は組み続けるしかない」

 「――全く何処までも」

「歪で、皮肉な関係だと思わんか」

 互いに互いを利用しあう、ビジネスライクの関係。或いは、片方は信頼しているのに、片方は裏切りの算段を付けている関係。或いは、当初から、険悪な関係。
聖杯戦争に参加する主従が一蓮托生の間柄と言えど、究極の話、人と人だ。聖杯を勝ち取るその時まで、または脱落してしまうその時まで、仲良しこよしとは簡単に行くまい。
何処かで楔が打ち込まれる主従も居れば、亀裂に至る小さな傷が刻まれる者達もいるし、冷え切ってしまいそれどころじゃないタッグもいるであろう。
大和達はそれ以前の問題だ。亀裂など早い段階から生じていただろうし、互いが互いを利用し、互いが互いを裏切る算盤だとて、召喚当初から弾いていたに違ない
其処までやって至った結論が、組む事を貫くしかないと言うどうしようもないそれ。どれだけ互いを嫌悪しようとも、最早認めるしかない。

 大和が気に入らない。その性格に、嘗て自分を出し抜いた、腐れ縁にして唯一の友を、ベルゼバブは見出してしまう。
ベルゼバブが気に入らない。傲岸不遜とは、を象徴するこの驕慢児は、駒としては落第寸前だ。全く以て扱い難い。
だが、優秀なのだ。強いのだ。そして――自分自身の才能を最大限認めている存在なのだ。だから、裏切らないし裏切れない。
如何な綺麗言を並べ立てようが、聖杯戦争を勝ち抜く為に必要なのは慈愛の精神でもなければ互助の精神でもなく、況して分け隔てなく全てを救って見せるような善性ではない。
何処まで行っても、他を蹂躙し粉砕する暴力。奸計を練れる悪知恵。非情に徹せられる残酷な心持。そして、強靭で、決して折れない、不撓不屈のメンタリズム。
大和とベルゼバブは、これを有していた。それも、高すぎるレベルで。互いに優秀だから、組んでいる。要するに、利害の一致である。
だが利害の一致は時に、愛だとか信念だとか、友情と言う物に匹敵するかそれを上回る、強固かつ堅固な関係性となる。大和とベルゼバブはまさしくその関係性であり、致命的な歪みを抱えていながらもその実、先に戦ったおでんや縁壱、リップやシュヴィと並ぶ程の強い絆で結ばれている。だからこそ、大和とベルゼバブは、最強の座に限りなく近い主従の一組なのであった。

「……人の才能のなさには辟易する」

 怒りと、呆れの入り混じった低い声で、ベルゼバブが言った。

「羽虫。貴様の命、この一瞬間に奪った程度では、余の怒りは収まらん。界聖杯……それを目前にして、貴様は死ぬのだ。理想の世界を成就させる全て、それが手を伸ばせば届く距離で、貴様の命を潰えさせてくれる」

「その時が愉しみだ、ランサー。サーヴァントと言う、現世に投射された英霊達の影法師にして夢幻。貴様は、界聖杯の在る玉座に足を踏み入れたその瞬間、泡沫の夢のように溶けてなくなるのだ」」

「ほざけ」

 限りなく敵に近しい関係であり、限りなく運命共同体に近しい関係。聖杯戦争のサーヴァントとマスターの関係と言うよりは、最早一触即発の敵同士の会話であった。
大和はベルゼバブとの会話もそこそこに、右腕に巻かれた腕時計の時刻を確かめ、頃合いか、と呟いた。

「積もる話もあろう。が、此処で話すのも落ち着くまい。食事の席を用意してある。其処で話すとしよう」

「……良かろう」

 そう言う、事になったのだった。


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最終更新:2021年12月20日 05:23