新宿という都市が事実上の崩壊を迎えてから早数時間が経過した。
 正確な被害の規模を推し量ることすら難しい未曾有の都市圏災害。
 事態の全貌が掴めていない以上は自衛隊や医療機関による救助の手も慎重にならざるを得ない。
 結果、この地獄絵図の中にはまだ結構な数の人間が取り残されていた。
 災害時特有のパニックに加え疫病が出たという出処不明の風聞までも出現。
 元凶である破壊の権化二体が消えても未だ新宿区は混沌の中にあった。
 そんな混沌の中では誰も気付かない。
 避難民同士で集まって救助の手を待っていた集団が、突如忽然とその姿を消してしまったとしても。

    ◆ ◆ ◆

「どうだいキング。調子の程は」
「霊基の確かな高まりを感じる。普通の人間を喰らっていたのではこうはいかないだろうな」
 第一次実験は支障なく完了した。
 避難民を鬼ヶ島に取り込んで覚醒させ、百獣海賊団の中でも最強格である大看板の誰かにそれを喰らわせる。
 今回白羽の矢が立ったのはカイドウの右腕でもある火災のキングだった。
 覚醒したとはいえ人間は人間。
 キングという災害を前に彼らはものの数秒と持ち堪えられずぶち撒けられた血袋に姿を変えた。
 そして帰還したキングの霊基反応は…本人が言うように実験前に比べて大きく向上していた。
「お前の実験は成功というわけだ」
「安心したよ。万一これで失敗だったとなればいよいよ俺の立場も首も危うかったんでね」
 そう言って皮下は実験に同伴していたリップを一瞥する。
 リップは不遜に鼻を鳴らしてそれに応じた。
 皮下とリップの関係は決して穏当なものではないのだ。
 もしも実験が失敗、皮下の仮説は全くの的外れだったとなれば彼は容赦なく皮下に牙を剥いただろう。
 もちろんそうなったら速やかに鬼ヶ島から彼らを追放するなり何なりするつもりだったが、それでも皮下の被る損害は大きい。
 おまけにあれだけ自信満々に理屈を並べていたのだ、カイドウからの信用も大きく失墜していただろう。
 それどころか最悪怒り狂った彼の制裁を受ける羽目になっていたかもしれない。
 数刻前は挑発的に笑ってリップ達に大立ち回りを演じた皮下だが、この実験の成功には心の底から安堵していた。
「人間ってのは危機に曝されると一箇所に集まる生き物なんだよな。万物の霊長も所詮動物だ」
 災禍の二次波があっても纏まって対応できるという意味ではもちろん合理的だ。
 しかしその生存戦略は皮下真という外道にとってはこの上なく都合がいい。
 わざわざ何度も鬼ヶ島のポータルを開閉してちまちま実験動物を集めなくて済むからだ。
 群れで泳ぐ小魚の群れを投網で一気に浚うように、哀れな被災者達は鬼ヶ島という死地(ラボ)へ招待される。
「手頃な集団を見つけ次第二回目の実験をやる。それで再現性が確認できりゃ晴れて俺の理論は実証されるってわけだ」
 覚醒者喰いの効果が実証できれば霊地の獲得競争においても皮下陣営は大きな利を得られるだろう。
 ただでさえ無二の凶悪さを持つカイドウが更なる怪物になるのだ。
 手のつけようなどあるわけもないし、首尾よく霊地の確保に成功しようものならその優位は更に絶対的なものになろう。
「そういや峰津院のボンボンに電話はしなくていいのか? そろそろ制限時間だろ」
「まだお前の論が正しいと決まったわけじゃない。二回目の実験結果次第だ」
「素直じゃねぇなあ。お前頭良いんだからもう分かってんだろ?」
「無駄口叩く前に仕事しろ。癒えない傷に苦しみたくなけりゃな」
「へいへい」
 口ではあくまで憮然とした物言いを貫いているリップだが、実のところは皮下の指摘した通りだった。
 もう分かっている。
 皮下真の唱えた覚醒者喰いの理論は恐らく正しい。
 リップもまた皮下と同じく聖杯戦争のマスターなのだ、火災のキングの霊基が向上していることははっきり分かった。
 二回目の実験もこの分ならば問題なく成功するだろう。
 配られたカードによるものではない確固たる自我を見出した無辜の人々の命を糧に、皮下は自分達の価値を証明する。
“…今更迷うつもりもねぇ。腹は決まった”
 峰津院大和の誘いを突っぱねることに対する抵抗はそう大きくない。
 大和は確かに皮下以上に優秀な男だ。
 自分が勝利した暁にはリップの願いも受容するという言葉にもきっと嘘はないのだろうと思う。
 だがそれでも、やはり最上なのは自分達が最後の一組まで生き残って聖杯を手に入れる結末なのだ。
 願いのリードを他人に委ねるのは最後の手段。
 自分達の敗北が確定した瞬間になって初めてありがたみが生まれる保険のようなものである。
“当面の勝ち馬は皮下の方だ。峰津院のランサーは皮下のデカブツに負けず劣らず怪物だが、奴らはあまりに孤立しすぎてる”
 聖杯戦争がもしも自分と皮下、そして峰津院の三人のマスターのみによるものだったなら話は変わったかもしれない。
 しかし現実はそうではない。
 自分達以外にもこの東京には数多のマスターが存在している。
 峰津院は社会的な地位の高さも含めて文句なしに有数の精強さを誇る陣営だが、その分露払いの能力には悖っているのだ。
 その上で皮下が提唱からの実践というプロセスを踏み実際に成功させてのけた"覚醒者喰い"プランの存在を加味すると、付くべき陣営は見えてくる。
“まぁ足元を見られても困る。この旨を皮下に伝えるのはもう少し渋らねぇとな”
 気取られない程度に小さく溜息をつく。
 直に第二回実験は幕を開けるだろう。
 無辜の犠牲者達を鬼ヶ島に引きずり込んで。
 無形の知恵の実を食わせて覚醒させて。
 その上で魂ごと食い殺す。
 皮下真はそうやって自分に己の価値を証明する筈だ。
 それを止めようとする善意なんてリップにはない。
 けれど心は痛んでいた。
 リップは既に覚悟を決めている。
 腹を括っている。
 今更見ず知らずの誰か、それも界聖杯によって創られた存在(コピー)などに情を覚えて手を鈍らせるなどあり得ない。
 では彼は誰のために心を痛めているのか。
 胸が痛いとそう感じているのか。
 その答えは、言わずもがな――。
「よし。準備完了だ」
 皮下がぱんぱんと二度手を鳴らす。
 次は誰が行く? と傍らに控える三人の巨漢に水を向ければ、挙手したのは疫害の大看板だった。
「ムハハハハ! 大した効率の良さじゃねえか皮下テメェ! キングのバカだけに独占させるにゃ惜しいぜ、次はおれにやらせろ!」
「OKOK。ジャックもそれでいいか?」
 象に化ける能力者は反論するでもなく無言で頷く。
 次の捕食者の人選はこれで決まった。
 疫害のクイーン。
 大看板の中でも最悪の二文字が一番似合うであろう腐れ外道。
 ある意味では先刻のキングよりも捕食役が相応しい男であった。
「ザコ共を手当り次第に殺すだけで手っ取り早く強くなれるたぁいい時代になったもんだ。
 おう、いつでもいいぜ皮下! 準備万端だ、さっさとエサを放り込みやがれ!」
「あいよ。じゃあ行くぞー。宝具限定展開、っと…」
 カイドウの宝具『明王鬼界・鬼ヶ島』。
 現世から完全に隔絶された異界という規格外の宝具。
 マスターである皮下の一存でその入口を自由自在に展開できるというのも含めて冗談のような性能だった。
 何せ新宿事変で皮下医院という社会ロールの基盤を吹っ飛ばされても極論それほど痛くはないのだ、この空間に籠もってさえいれば。
 そしてこの宝具は外の人間を無理やり内へ引っ張り込むことにも使える。
 第二回実験の対象となった哀れな避難民達の群れている座標に展開されるポータル。
 それはその場に居合わせた人畜無害なNPC達の全てを、問答無用に鬼ヶ島へと引きずり込む。
「えー、皆さん初めまして」
 ニコリと人当たりのよさそうな笑みを浮かべながら皮下がマイクを手に取る。
 表の社会に出ていた頃は老若男女を問わず魅了し、誰も彼もの信頼を根こそぎ勝ち取ってきた笑顔。
 されどそれは人のために浮かべる表情などでは断じてない。
 彼はこの百年以上の時間いつだとて、自分と――自分が真に大切と想う者のためだけに笑ってきた。
「突然のことでさぞかし驚かれたと思います。
 しかし案ずることはありません。これから皆さんに、この界聖杯(セカイ)の真実を――」
 リップは皮下をただの外道だと思ってきたし、その印象自体は今も変わらない。
 皮下は間違いなく屑だ。
 願い云々の話を抜きにしても、間違いなく生かしておいてはならない人間だと断言できる。
 だからこそリップは思う。
 知りたくなかったと。
 こんな奴のバックボーンなどそれが何であれ胸糞悪くなるだけなのだ。
 分かっているからこそ、皮下の走り出した理由を知ってしまったことは痛恨だと今もそう感じていた。
「…と。失礼、ちょっと別件だ」
 今まさに真実を。
 そういう名前で呼ばれる猛毒を振り撒こうとした皮下がおもむろに踵を返した。
 どうしたんだと目だけで訊くリップ。
 そんな彼に皮下は苦笑して答えた。
「ハクジャ側の準備が整ったらしい。例の会談だ」
「実験はどうするんだよ。こちとら峰津院との約束の時間まで時間がないんだぞ」
「何も先生役は俺じゃなくたっていいだろ。お前に任せるよ、リップ。
 喰うのは大看板の…そうだな。先刻はキングだったから今度はクイーンにでも任せてやってくれ」
「………」
「それとも」
 皮下が足を止めて振り向く。
 その顔には笑みが貼り付いていた。
 ムカつく程爽やかで、しかしリップを試すような笑みだった。
「まさか絆されたわけじゃねぇよな」
「無駄口を叩くなよ。死にたくなければな」
「おー怖。別に煽ったつもりはないさ。先輩としてちょっと釘刺しただけだよ」
 ひらひらと手を振りながら会談へと向かう皮下。
 リップの静かな殺意を背中に感じながら、しかし彼はあえてもう一言口にした。
「叶えたいなら夢だけは見るな。俺らは理想(そっち)にゃ行けねぇんだ」
 その言葉にリップは何も言い返せなかった。
 ただ忸怩たるものを胸の内に渦巻かせるばかりだった。
 アーチャーと、シュヴィと過ごした時間を反射で脳裏に過ぎらせながら。
 リップは顔を上げた。
 覚悟と決意の据わった瞳で、男は現世から吸い上げられた哀れなNPC達を見下ろした。

    ◆ ◆ ◆

「よう。話は聞いてたぜ、梨花ちゃんだったっけ?」
 ハクジャを伴って会談へと赴いた古手梨花
 虚空に開いたポータルの中へ踏み入る顔には緊張の色が滲み出ていたが、出た先で待っていた男は予想外の軽薄さで笑っていた。
 部下に命じて体裁だけでも整えさせたのか。
 会談場所と呼ぶに相応しい円卓が鬼ヶ島の岩を切り出したような無骨な室内に置かれ、男の席を除いた空席が二つある。
 梨花と武蔵のものであるのは言うまでもない。
 ハクジャやアイ達も今回に限っては当事者だが、それでも彼らはNPCだ。
 覚醒を果たしているとはいえ主役ではない。
 可能性の器と呼ばれる者とその従者同士でなければ会談の席に座らせる理由はないのだ。
 少なくとも皮下はそう考えていた。
 この男らしい考えなのだった。
「…はい。古手梨花と言いますです。こっちは――」
「セイバー。よろしくね、院長さん?」
「そういうわけです。まずはボク達の申し出に応えてくれてありがとうございますなのです」
 ぺこりと頭を下げる梨花。
 それに皮下は「お~、年の割に礼儀ができてんな!」とまた笑う。
 梨花は頭を上げる一方で改めて皮下真という男の実像を注視していた。
 タンポポの綿毛を思わせる頭髪と甘いマスク。
 医者らしい白衣に身を包んではいるものの雰囲気は非常に軽い。
 梨花と一番縁の深かった医師であったあのメイド好きと比べてもかなり軽薄な部類だと言えるだろう。
「皮下真だ。茶も出せないで申し訳ないが、まぁ我慢してくれ」
「…皮下。あなたのサーヴァントはどうしたのですか?」
「あー…色々あってな~……。いつ戻ってくるか分からんし戻ってきても話が通じるかどうか……」
 はぁと溜息をつく皮下。
 その様子を見た梨花が武蔵に念話を送った。
“セイバー。これは好機だと見るべきでしょうか”
“こっちから仕掛けるのには正直賛同できないわ”
 伏魔殿の主たる龍が不在。
 会談の前提そのものを壊してしまうことにはなるがこれは紛れもない好機だ。
 此処で皮下を押さえられれば状況は確実に前進する。
 そう思って武蔵に意見を求めた梨花だったが、彼女の答えは難色。
“考えてみて? 自軍の戦力の要が不在なのにむざむざと敵を自陣に招き入れる、そんな間抜けがいると思う?”
 もちろん梨花もそんな風には思わない。
 思わないからこそこうして武蔵へ意見を乞うたというのもあった。
 皮下は十中八九この空間に最低限サーヴァント戦が可能なレベルの戦力を隠している。
 それが単純な同盟者なのか、全く別な何かなのか…そこまでは分からないが。
“感じるのですか。何か”
“えぇ。距離はある程度離れてるみたいだけど…”
 武蔵の目が、眼が。
 皮下の遥か後方を見据えていた。
 生粋の武人であり剣豪である彼女の感覚に触れるその気配。
 武者震いと戦慄が一緒くたに押し寄せる、慣れ親しんだ感覚が女武蔵の霊基を駆け抜ける。
“何人かヤバいのがいるわ。私でも骨が折れるかも”
 梨花はうんざりしたように瞑目した。
 やはり世の中都合のいい近道などないのだと実感する。
 生粋の無鉄砲と向こう見ずを併発させているこの剣豪がこうまで言っているのに我を押し通せる程梨花は命知らずではない。
 欲張ったプランを大人しく放り捨てて、皮下との会談という予定通りの展開に甘んじることにした。
「俺はな、あんまり他人は信用しないんだ」
 いざ口を開かんとした梨花にしかし皮下が先んじた。
「俺のいた世界じゃスパイだとか工作員だとかそういう連中が幅を利かせててなぁ。
 だけどその点、そのハクジャは義理堅い。どうあっても俺を裏切らないと信頼してる」
 梨花達は彼女がそうなるに至った経緯を知らない。
 だが皮下の認識は至極正しかった。
 形はどうあれ自分を死への旅路から救ってくれた皮下。
 ハクジャはそれを裏切れない。
 彼女が完全に梨花や此処にはいない幽谷霧子達の味方になるなどという未来はあり得ない。
「だから驚いたんだぜ? 正直さ。
 そのハクジャが会談相手を連れてくるって言うんだもんよ。
 有無を言わさず殺しておくべきだろとは思ったが…同時に、だからこそ興味も湧いた。
 コイツをしてそんな行動に出させる奴らってのはどんな人間で、そして何を考えてんだろうってな」
 この時既に皮下はハクジャ達の胸の内を見抜いていた。
 彼女達は古手梨花らが企てている脱出計画に相乗りしようとしている。
 そうでなければわざわざ会談などする意味がない。
 ハクジャはあの時の通話ではそのことを伏せていたが、それで欺かれる程皮下は容易い男ではない。
 幼いアイならば兎も角。
 ハクジャとミズキの二人までもが古手梨花らの脱出計画に感化されている。
 何ともまぁ頭の痛くなる話だった。
「あぁ、界聖杯に介入して中身を改竄するって話は聞いてるぜ。
 俺が聞きたいのはお前達がなんだってそんなことを考え出したかだ。
 願いもねぇのに呼ばれちまったってんなら確かに災難だけどよ、だからって他人にまで手を差し伸べる理由があるか?」
「…その力を持ってるサーヴァントは生憎私じゃないわ。
 信用に値する男だと私達は思ってるけど、彼の正確な胸の内までは分からない」
 でも、と武蔵。
 継ぐ句を紡いだのは彼女ではなかった。
 少女らしからぬ意思の光を瞳に宿して梨花が続く。
「ボク達はこう考えています。
 何処かに帰りたいというその願いを競い合わせる必要はないと」
「眩しいことだ。ウチの大事な人材を誑かした理由もそれかい?」
 皮下以外の全員の顔にわずかな緊張が走ったのが分かった。
 彼女達とてこの展開を全く予想していなかったわけではないだろうが、やはり現実として突き付けられると心持ちも違うらしい。
 しかし梨花は皮下に対して怯まず「はい」と頷いた。
 これでハクジャ達を間者にする手は取れなくなったがそれでもやること自体は変わらない。
 そして――目指す未来もだ。
「生きたいと願う気持ちには…嘘も真もないのですよ、皮下」
「コイツらの存在そのものが世界にとっての噓八百だろ」
 界聖杯の中だけで存在を許された命。
 界聖杯という規格外の願望器を構成するリソースがたまたま人間の形をしているだけ。
 それがハクジャ達NPCを最も端的に語る形容方法であることを皮下は知っていた。
「それでもそう思う気持ちは変わらないのか?」
「同じことを何度も言わせないで頂戴。答えは"はい"よ」
 皮下の言い草が気に食わなかったのか梨花の目つきが剣呑さを帯びる。
 ひらひらと両手を振ってそれを宥める皮下。
 生きたいと願う気持ち、か…。彼は思う。
 成程確かにそれだけは張りぼてではないのだろう。
 生きるということには確かに嘘も真もない。
 それがその人間にとって救いであるにせよ、呪いであるにせよ。
 皮下真はそれを見てきた。
 百年もの間ずっと見てきた。
「じゃあ今度は俺たちに会談を申し込んだ理由を聞かせてくれ。
 まぁ想像はつくけどよ、こういうのは相手の口から直接聞くことに意味があるからな」
「…あなたがボク達の話に乗ってくるとは思っていませんです。
 そうなってくれたらこれ以上心強いことはないですが、ボクも現実は分かっているつもりです」
 それに、そうでなくても。
 梨花個人としても皮下を自軍に加えることはリスクが大きすぎると踏んでいた。
 ハクジャから伝え聞いた人物像と今実際に会談して垣間見た人間性。
 この男は危険だと、梨花がそう結論付けるには十分すぎるだけの根拠があった。
 皮下がもし此処で自分も一枚噛ませろなどと言ってきたらそっちの方がよほど恐ろしい。
「あなたが界聖杯に何を願うつもりかは知らないですし、あなたや他のマスター達に願いを諦めてボクらに従えなんて言うつもりはありません」
「ノアの箱舟か」
「はい。ボクらは"帰りたい"と思う人達と"生きたい"と願う僅かな命達と手を繋いで、この世界を去るつもりです」
 現実的な落とし所を見つけたもんだと皮下は素直に感心する。
 確かに会談なんてものを持ちかけてくるだけのことはあったし、それに。
 生への渇望を強く抱くハクジャやアイに対し強い父性愛を抱いているミズキが彼女らの話に惹かれた理由も分かった。
 単なる理想主義者の戯言ではなかったのだ。
 彼女達は不可能を可能にするための手段と妥協点を存外賢く見積もっていた。
「ボク達は皮下の邪魔はしません。セイバーにも、ボクの仲間達にもよく言い聞かせますです」
「成程ね。望みは相互不干渉か」
 妥当な交渉材料だ。
 至って予想通りである。
 実際皮下達としても旨みのある話なのは間違いなかった。
 カイドウと百獣海賊団の戦力をもってすればすり潰せない敵などそうはいないだろうが…そこに度々"もしも"が挟まるのが聖杯戦争の厄介な所。
 大規模な戦闘の数を抑えつつ、マストで殺さなければならない相手の数も減らせる。
 労力的にもリスク的にも旨みしかない。
 複数の主従が一度に脱落したに等しいのだから、ケチの付け所を探す方が遥かに難しいだろう。
「損はしないと思いますですよ? ですよね、セイバー」
「私としてはちょっと惜しいけどねー。此処の大将さんとも一回くらい……」
「セイバー?」
「あっいえ。何でもないですえへへ」
「…まぁいいです。ついては、皮下。
 あなたに率直に聞きたいことがあるのですが…283プロというアイドル事務所についてはご存知ですよね?」
 歳の離れた姉妹のようなやり取りは実に微笑ましい。
 しかし新宿の惨状を目の当たりにしておきながらカイドウと戦いたいなどと考える辺り、この女剣士はなかなかに頭のネジがぶっ飛んでいるらしい。
 そしてその自信が身の程を弁えない井の中の蛙である故のものであるとも思えなかった。
 何しろ此処は敵地のど真ん中である。
 アウェー中のアウェーだ。
 にも関わらずこうして軽口を叩く余裕があるというのはつまり、この状況で臆せずいられる程の実力を持っているからに他なるまい。
“日本人でおまけに侍だろ? 性別はどうあれちと怖ぇよな。もしかするかもしれねー”
 義侠の風来坊。
 侍、光月おでんとの再戦に異常な執念を燃やすカイドウの姿を皮下は先刻見ている。
 その矢先に現れた女侍。女剣士。
 符号としてはなかなか不吉な部類だろう。
 ましてサーヴァントは逸話に縛られる。
 …実際のところは。
 カイドウは侍という存在にではなく光月おでんという一個人にのみ縛られているため、その心配は全くの無用であったのだが。
「話は分かった」
「…あの。283プロについては――」
「答えは決まったよ。ただその前に、俺から君達に一つ伝えときたいことがあるんだ」
「伝えたいこと……?」
「あぁ。つい先刻分かったことでな。多分梨花ちゃん達は知らねぇことだと思う」
 怪訝な顔をする梨花と沈痛そうに眉を顰める皮下。
 それを見る武蔵は一足先に険しい表情を浮かべていた。
 何かに警戒するような、備えるようなそんな表情。
 今までの彼女が浮かべていたものとはまるで意味の違う顔だった。
 恐らく武蔵は、皮下の沈痛げな顔を見た時点で気付いたのだろう。
 これから彼が話す"伝えたいこと"とやらが――自分達にとって致命になる猛毒であると。
 その根拠は簡単だ。
 これまで聞き、そして実際目にしてきた皮下真という人間の人物像。
 それを踏まえて考えれば簡単に分かる。
 皮下はそんな顔をするような人間ではないのだ。
 他者を慮る心を持たない彼がそんな顔をすることの意味はつまり。
 相手に致命か破滅を突き付ける時に浮かべるパフォーマンスの一環、それ以上でも以下でもない。
 分かっているからこそ武蔵は顔を顰めた。
 梨花は繰り返す者でこそあれどその精神性は至って未熟。
 それ故武蔵のように察し良くはできなかった。
 そんな少女に。
 百年を繰り返した旅人に――皮下は突き付ける。
 コウノトリの働きを信じる子女にポルノビデオを見せ付けるような下劣さで…この世界の真理を。
「界聖杯はノアの箱舟を認めないんだとさ」
「…え?」
「ウチは大所帯なことが強みの一つでな。
 詳細は明かせないが、界聖杯へのハッキングを可能とする程高性能な演算能力を持ったサーヴァントも抱えてんだ。
 ハクジャからの連絡を受けてすぐ、俺はそいつに誰かが内界からの脱出に成功した場合の界聖杯の反応を算出させた」
 頭を抱える皮下の動作は見ていて腹立たしくなる程のオーバーリアクションだった。
 まるで出来の悪いコメディリリーフ。
 あるいは成り損ないのジョーカー。
 それを見た瞬間梨花は言葉を失い、武蔵は全てを悟った。
 この男は最初からこちらの話に耳を貸すつもりなどなかったのだと。
「界聖杯は空の玉座に辿り着く者が現れることを望んでる。
 抜け道を使って一抜けする謀反者(チーター)なんぞ望んじゃいないんだよ」
 皮下が会談の場に現れたことの意味。
 彼が梨花に対し放っていた言葉の薄っぺらさ。
「そこで質問だ。自慢のゲーム盤をイカサマで台無しにされたガキは何をすると思う?」
 そして自分達の未来に立ち込める暗雲。
「ちゃぶ台返しだ。並べた駒を払い除けてそれでお終いさ」
「…! まさか!」
「もしも聖杯戦争進行中に複数の器(コマ)が中途で喪失した場合、界聖杯は聖杯戦争を畳む。
 もちろんそうなったら器共は宇宙の塵なり虚数のプランクトンなりそういう形で消え果てることになる」
 その全てを理解したからこそ武蔵は静かに席を立った。
 絶句する梨花をよそに今求められる最適解の行動を実行せんとする。
 が…。それすらも織り込み済みだとばかりに皮下は嗤う。
「残念だったな。この界聖杯には神がいるんだよ。界聖杯っていう絶対の唯一神がいる。
 そいつがダメだと言ってるんだ。そのクリア方法は気に入らないと不服がってるんだよ。
 お前達が一丁前にキメ顔でほざいてる救済論は、気の合うお友達以外全員を皆殺しにするファシストの思想だったってわけさ」
 帰りたいと願う者達とだけ手を繋ぐ?
 それ以外の願いまで轍に変えるつもりはない?
 実に結構な理想だ。
 目眩がするような世迷言だ。
 そしてそれを界聖杯は許さない。
 望んでいない。
 界聖杯というこの世界における絶対の神の意向一つで古手梨花達の推進する計画(プラン)は破綻する。
 いや、正確には貫くこと自体はできるだろう。
 自分達以外のありとあらゆる命を礎に変えることでのみ…だが。
「それを踏まえて答えさせてもらうぜ。答えはイエスでもノーでもない。"死ね"だ」
 立てた親指を真下に向けると同時。
 皮下の瞳に浮かぶ、呪われた桜の光。
 これを見るなり武蔵は即座に反応。
 目の前の現状を火急の危機と判断。
 皮下に向けて容赦なく刀を抜く。
 そうした筈だったが。
「な――ッ」
 轟音が響いた。
 天蓋をぶち抜いて空から何かが落ちてきた。
 隕石の直撃でも受けたかと思う状況だったが、音の主は隕石などではなく。
 むしろ可憐な…浮世離れした少女の姿を象っていた。
「悪いなサムライソード。化物の相手は化物にさせるって決めてんだわ」
「梨花ちゃん! 令、」
 令呪を使ってと彼女はそう言おうとしたのだろう。
 しかしその声は乱入者の少女が発した声により遮られた。
 見た目は梨花とそう変わらない年頃の童女。
 されど彼女は人に非ず。
 人類種(イマニティ)など及びもつかない底なしの力と頭脳を秘めた機凱種(エクスマキナ)。
「――"偽典・天移(シュラポクリフェン)"」
 彼女の武装展開が行われると共に天元の花はあっさりとぶち壊された会談の席から消失する。
 梨花が目を見開いた。
 それも詮無きことだろう。
 セイバーの気配が一瞬にして遥か遠くまで吹き飛ばされたのだ。
 距離の概念を完全に無視した空間転移。
 梨花に魔術の知識があったならばその驚きはもっと大きかったに違いない。
 何故なら空間転移(それ)は、魔術の世界においては魔法とさえ形容される奇跡であったから。
 それだけの術を事もなく行使する。
 魔術に長けるキャスタークラスでもないのにも関わらず、だ。
「――セイバー! 令呪を以って命じるわ!」
「させねぇよ」
 梨花が声を張り上げる。
 皮下がそれをせせら笑って凶行に出る。
 前に突き出した右腕が変形し、伸縮自在の黒刃と化したのだ。
 虹花のメンバーにして稀代の殺人鬼"クロサワ"。
 その力を用いて皮下は梨花の幼い肢体を引き裂かんとする。
「……梨花ちゃん!」
 そうはさせじと動いたのはハクジャだった。
 アイも同時に行動を起こさんとしていたがミズキが抑えた。
 それは何も彼女の身を案じたからというだけが理由ではない。
 この状況に最も容易に対応できる力を持っているのはアイでも自分でもなくハクジャだと、そう理解していたからだ。
 要するに適材適所。
 だが――。
「おいおい…。お前はもうちょっと利口な女だと思ってたぜ、ハクジャよ」
 裏を返せばそれは。
 その最適な人材が仕事を仕損じた場合。
「俺と実験体(おまえ)の出力が同じだとか……もしかして夢見ちゃったか?」
 此処には一切の希望が存在しないということでもある。
 ハクジャが展開したのは髪の毛。
 葉桜の完全適合体である彼女の展開する防御は極めて堅牢。
 生半な超人では打ち破ることなど叶わない"異能"だが――
「ぁ…」
 絶望の声が響く。
 喪失の声が鳴る。
 ハクジャの髪の毛が守った筈の座標から。
 髪の壁は貫かれていた。
 硬く閉ざされた扉を力ずくでこじ開けるような無粋さでハクジャの庇護は破られた。
 彼女の体に流れるのは所詮は葉桜。
 どれだけ強くても所詮は偽物。
 本物の力にはあらゆる面で敵わない。
「さぁて。これでおっかないお侍さんが駆けつけてくる可能性は排除できた」
 桜の瞳が揺らめいて。
 まず破れた髪の壁の後ろで蹲り荒い息を吐く少女を見て。
 それから彼女に同行して此処まで来た三人の偽物を見やった。
「じゃあ始めるか、在庫処分」
 古手梨花の右腕が地面に落ちていた。
 令呪の刻印を残したまま血溜まりに浮かんでいた。
 彼女の声はもう新免武蔵へ届かない。

    ◆ ◆ ◆

 偽典・天移(シュラポクリフェン)。
 天翼種(フリューゲル)の空間転移を解析・再設計した超長距離跳躍武装。
 規模にして聖杯戦争の数十倍に達する十二種族の大戦においてなお最強格とされた光輪の神殺し達。
 その魔法を真似たこの転移は令呪の使用がなければ不可能な程の距離を一瞬で跳躍する。
 魔術ならぬ魔法の領分。
 それをシュヴィ・ドーラの同胞である機凱種達が、彼女亡き後に模倣した産物だった。
 初めて使う武装だというのに使い方がはっきりと理解できるのは死を超えた今も、シュヴィが連結体(クラスタ)の一部である証か。
“やってくれたわね…!”
 武蔵が歯噛みする。
 まさにこれは痛恨の一手だった。
 今武蔵が立っているのは鬼ヶ島ではなくその外縁部。
 言うなれば世界の端だ。
 四方を海に囲まれた鬼ヶ島の立地上、当然そこに足場などというものは存在しない。
 疎らに岩場があるだけの海上。
 そもそも人間が立つことのできない土俵の上に武蔵は放り出されたのだ。
 シュヴィは既に鬼ヶ島という固有結界について概ねの解析を済ませていた。
 皮下のように鬼ヶ島への入口を生み出すことまでは流石に不可能だが、しかしその逆ならできる。
 即ち内から外へ。
 鬼ヶ島から現世へと続く一方通行の出口を造ることすら今のシュヴィにとっては造作もない。
 そこまでこの異空間を知り尽くしているのならば、固有結界内の任意の空間に自分または他者を飛ばすことは朝飯前の児戯だった。
“梨花ちゃんの念話も聞こえない…令呪の発動もないってことは――”
 梨花の身が危ない。
 契約のパスが生きている以上一番最悪なことにはなっていないようだが、少なくとも令呪を行使できない状態であると考えるべきだ。
 武蔵は楽観視をしない。
 自分の至らなさに心底腹を立てながらも梨花を助けるためにどうするべきかを高速回転する思考回路で考える。
 しかし結局のところ。
 何をするにも、皮下に自分の撃滅を任じられた上空の彼女が障害となる。
 だから武蔵は悔しげに歯噛みし、空から自分を見下ろす少女(アーチャー)を睨みつけた。
「悪いけど退いてくれないかしら。お姉さん、今とっても余裕がないの。
 あなたの抱えてる事情の如何に関わらず――力ずくで排除させてもらうことになるわ」
「…答える必要は、ない……それに」
 少女はけんもほろろに武蔵の頼みを突っ撥ねた。 
 それもその筈だ。
「撤退を…勧告できる、立場……?」
 そうなるわよねと武蔵は小さく嘆息した。
 武蔵が彼女の立場でもきっと同じことを言う。
 予想通りの返しだったので落胆はなく。
「じゃあいいわ。穏便に済ませるのはもう諦めます。
 でもそれとは別に、一つだけ聞かせてくれないかしら」
 しかしもう一つ、こちらはできればちゃんと答えを聞いておきたかった。
 先の言葉の通り武蔵に加減する余裕はなかったが。
 この質問に対する答えを知れるのと知れないのとではやはり事情が変わる。
 可能性というものは多ければ多いほどいいに決まっているのだから。
「あなたはあの男の…皮下真の所業に対して、なんとも思わない?」
 仔細を突き止めたわけではない。
 だが対面していて分かった。
 あの男は多くの人間を殺している。
 殺人の数については武蔵も決して人のことは言えないが、それを承知で断ずる。
 皮下は間違いなく外道であると。
 武蔵がついぞ己の生涯では斬り得なかった因縁深い陰陽師のそれともまた違った悪性を、あの僅かな時間の中で武蔵は確かに見出していた。
「………」
 武蔵の問いに対してシュヴィは沈黙。
 しかしその眉が微かに動いたのを武蔵は見逃さなかった。
「なんだ」
 武蔵は笑う。
 ニヤリと笑う。
 そして言った。
 シュヴィ・ドーラという名の機械。
 外道の思惑が支配する鬼ヶ島の防人の一人。
 彼女がその思考中枢に抱える至極不合理な"感情"を見透かして――。
「案外まともなのね――あなた」
 シュヴィは言葉を返そうとはしなかった。
 代わりにシュヴィは、空中戦用の機翼によって滞空を保ったまま。
 主の明確な敵対者である剣豪新免武蔵へと此処でようやく武装の照準を合わせる。
 解析は今しがた終了した。
 眼下の敵に対し使える武装と使えない武装。
 そして使用可能武装の威力をどこまで絞ればいいのかも演算を完了している。
 懸念事項の全てを正攻法で消滅させたシュヴィに交戦を渋る理由は一つもなかった。
“ダメ元の挑発だったけど…やっぱ都合よく道を開けちゃくれないか”
 戦いを楽しんでいる余裕は今はない。
 重大な危険に曝されている梨花の許に駆けつけ彼女を助けること。
 それが優先順位の第一位だ。
 まんまとあちらにしてやられただけでも痛恨なのに、マスターをこのまま喪ったとあっては無様が過ぎる。
 しかし無論シュヴィに武蔵を逃がす理由はない。
 協力者である皮下の意向だからというだけではなく。
 武蔵達がこの聖杯戦争の根幹を、そしてシュヴィのマスターであるリップの願いまでもを脅かす脱出派であるというのも大きかった。
 脱出派という超弩級の危険分子。
 落とせる時に落としておくに越したことはあるまい。
 ひょっとするとそこには、先刻武蔵が彼女に行った"指摘"を脳裏から振り払いたい思いもあったのかもしれないが。
 それは彼女のみぞ知ることだ。
 重要なのはシュヴィが武蔵を逃すまいとしているというただそれだけの事実。
「サーヴァント、クラス【剣士(セイバー)】…撃滅行動を、開始する……」
 次の瞬間。
 空から海上に向けて火力の通り雨が降り注いだ。
 ――これはシュヴィに限った話ではないが。
 ディスボードにおけるかの"大戦"で彼女ら機凱種が銃やら砲やらを頼る機会は決して多くなかった。
 何故なら火力が足りなすぎるから。
 鉛玉などでは龍精種(ドラゴニア)の強固な鱗を貫けない。
 爆薬などをいくら浴びせても天翼種(フリューゲル)は涼しい顔で笑うばかり。
 唯一これらが通じる余地のある人類種(イマニティ)はそもそも脅威ですらない。
 だから戦時中シュヴィ達が単純な重火器に頼って戦う機会は極めて少なかった。
 のだが――シュヴィは今、それをこそ眼下のセイバーに対し用いるべき最適解であると判断している。
 彼女が満を持して繰り出す弾丸の雨、砲弾の嵐。
 それはまさに空襲だった。
 重力に逆らい空へと浮いたシュヴィは海上の武蔵を目掛けて銃弾とミサイル弾を掃射する。
 腐っても人の身である彼女には、まず水面を歩くという事自体が難業であるというのにだ。
「~~~~~!」
 武蔵が何か言っていたがその声は空のシュヴィには届かない。
 音をかき消す勢いで絶え間なく機銃掃射と爆撃が続いているからだ。
 銃声、銃声銃声銃声銃声銃声。
 爆音、爆音爆音爆音爆音爆音。
 サーヴァントに神秘の介在しない攻撃はいくら放っても実を結ばないのは常識である。
 しかし…サーヴァントであるシュヴィの武装として、魔力を消費し生み出されるほぼ無限に等しい弾薬は当然のように魔弾と化していた。
 一発一発がサーヴァントの肌を破り肉を抉り臓を貫く大盤振る舞いの魔弾空襲。
 当然焼夷弾やミサイル弾がばら撒く炎も霊体を焼く魔の焦熱として水面に残留し続けている。
 武蔵が転移の直後に足場としていた岩場は数秒足らずで爆散した。
 となれば後はAの岩場からBの岩場へ、それが壊れればCの岩場へを繰り返すジリ貧の状況になるのは自明である。
“く…っそ! やっぱりこうなるわよね、予想はしてた!”
 玉弾き程度の芸当なら武蔵には朝飯前。
 飛んでくるミサイルをそもそも起爆させない程の繊細な太刀で両断することも多分できる。
 が…それは相手にせねばならない弾の数が精々目視で数えられる次元に留まっている場合の話だ。
 シュヴィが上空に滞空したまま戦う気だという時点で嫌な予感はしていた。
 そしてその予感は、予測を遥かに上回る最悪の事態となって的中(キャリーオーバー)。
 そして武蔵は衝撃で砕け散った石塊を足がかりに次の足場へ移るという繊細極まりない工程を毎度要求されるのだ。
 誰がこの劣勢を無様と笑えるだろう。
 新免武蔵程の"何でもあり"な武芸者でなければとっくに海の藻屑と化している状況だというのに。
“やりにくいなんてもんじゃない…! ずっとこうやって戦うつもりだってんなら、間違いなく相性最悪よこの絡繰娘……!”
 どれだけ優れた技を持っていようと当たらなければ意味はない。
 それは全ての武術に共通して言える極論の欠陥点。
 シュヴィが武蔵に対し一方的に突きつけているのはそれだった。
 最新型の戦闘機の相手は凄腕の竹槍使いでは務まらない。
 そんな当たり前の理屈を真顔で連打しているのが今のシュヴィだ。
 反撃しようにも武蔵の剣は、彼女のいる高度までは届かない。
 手段を凝らしてその難題を解決しようにも海に点々と散りばめられた岩場は時間の経過と反比例して数を減らしていく。
 仮に斬撃を飛ばすなどという離れ業に頼れたとしても、それでも彼女との間にある物理的な差を埋めるのは困難であった。

“そう…。あなたの剣は、絶対にシュヴィには届かない……”
 シュヴィは剣士ではない。
 剣技の粋も分からない。
 だから、付き合う義理もない。
 そっちの土俵じゃ戦わない。
 何処までも理不尽に。
 何処までも無粋に。
 あなたの剣が届かない遥か上空から。
 一方的にあなたの居場所を解析して。
 検知して。
 撃ち殺して、焼き殺す。
 そんな相性と状況の悪さに加えて武蔵は焦っている。
 皮下が梨花に何をしているか分からないからだ。
 令呪による転移が行われていない時点で、シュヴィは虹花の裏切り者達が梨花の護衛に失敗しただろうことを悟っていた。
 こうなると梨花の安否は猫箱の中。
 武蔵としては一刻も早くこの場を切り抜けて彼女の許に駆けつけたい、そういう思考になる。
 しかし相手はリソース無限の爆撃機。
 機銃掃射程度の魔力消費ならばシュヴィはあと何時間でも武蔵に付き合える。
 シュヴィは武蔵に一方的な詰め将棋を。
 彼女がよく知るゲームで言うならばチェス・プロブレムを仕掛け続けるだけでいい。
 何しろ一手躱し凌ぐのにも極限のパフォーマンスと判断が求められるのだ。
 焦燥に焦がされた脳でいつまでも最適解を選び続けられる筈はない。
“シュヴィに、負けても……皮下が、………あなたのマスターを殺しても………”
 一瞬だけ思考が鈍ったのは罪悪感だ。
 言い訳はしない。
 シュヴィ自身感情の正体は理解していた。
“あなたの、負け……だよ”
 誰も死なせずに勝つと豪語した男を知っている。
 彼の戦いをシュヴィは最後までは見届けられなかったが。
 その生き様を知っているからこそ、見てきたからこそ…罪の意識が新雪のように降り積もっていく。
 同時に情けなさもまた然りだった。
 誰かを殺して、死なせてゲームをクリアするなんて。
 彼(リク)はそんなプレイヤーじゃなかったのに、と。
 シュヴィは全然ダメだなぁと。
 戦況の優位さとは裏腹にそういう思いばかり募っていく。

「っ、ぐ…!」
 武蔵が呻く声がシュヴィへ届いていなかったのは幸運だった。
 英霊剣豪を超え原初神をすら斬った女武蔵も無敵ではない。
 万能ではないのだ。
 二天一流の極意を全て駆使したとして、現状で既に数千発以上打ち込まれているこの弾丸の雨を全て撃ち落とすことは不可能である。
 そしてシュヴィによる絨毯爆撃は彼女を相手に既に一定の成果をあげていた。
 武蔵の体のそこかしこに生まれた火傷や擦過傷がその証だ。
“そろそろ反撃に転じないと…ちょ~っとまずいかなぁ……ッ”
 砕けた岩を剣の峰で打つことで対空射撃の真似事も試みた。
 しかしシュヴィは冷静に、特別な動作一つ用いず弾道の操作だけで武蔵の起死回生の一手を粉砕してしまった。
 とはいえ四苦八苦している内に武蔵にも運が回ってきたらしい。
 爆風に吹き飛ばされた先に大きめの岩場があった。
 ちょっとした小島と呼んでもいいだろう面積だ。
“此処でなら…大丈夫そうね”
 武蔵の狙いは一つだった。
 空を飛ぶ爆撃機を海上から両断する手段などそれ以外に持ち合わせがない。
 すなわち宝具。
 乾坤一擲の斬撃を以って一撃でこの戦いを締め括る。
 そう踏んで飛び移ったはいいが、その狙いはシュヴィも瞬時に看破したらしい。
「"偽典・森空囁(ラウヴアポクリフェン)"」
 真空の刃が無数に解き放たれれば頼みの綱の小島もすぐさま塵と化した。
 次の瞬間、逃げ場を失くした武蔵へ殺到するのは都合数十発のミサイル弾。
 辞世の句を詠むことすら許さず炸裂した大爆発。
 それは武蔵を木端微塵に粉砕し、鬼ヶ島の魔力リソースの一部へと変えた…かに思われた。
「ッ――!?」
 しかし驚愕の声をあげたのはシュヴィの方だった。
 爆風の中から武蔵が空へ向けて飛び出したのだ。
 全身に決して小さくないダメージを負いながらそれでも目は死んでいない。
 確たる闘志と必ず斬るという意志力を灯して天眼を揺らめかせ、空中にありながら刀を構える。
“なんて、出鱈目……!”
 これにはシュヴィも驚いた。
 武蔵は爆風の中で多刀の利点を活かし阿修羅の如くに剣を振るったのだ。
 それで致命的な損傷を負うのを避けながら弾道ミサイル数十発分の風力のみを利用して宙へ舞い上がった。
 その発想に到達することはできても、実行に移そうなどと考えるのはまさに狂気の沙汰だ。
 馬鹿げているとしか思えない。
 少なくともシュヴィには。
 が――それがどうした。
 無茶も無法も新免武蔵の十八番。
 一歩でも誤れば即詰みとなる大博打を彼女はこの土壇場で苦もなく成功させる。
 粉塵と水飛沫で視界は不良もいいところだが生憎彼女の両目は魔眼。
 勝利の未来を収斂させる天眼――この局面であろうと彼女は迷わない。
 そして天眼はそれに応えるが如く、武蔵へ勝利の未来を…点のように小さな光明を視認させる。
 武蔵にとって敗北は身近なもので。
 本気で悔しがりこそすれど、許容できない痛みではなかった。
 むしろ普段なら迷わずそうしていただろう。
 それくらい、この海上を舞台にこのアーチャーと戦うのは分が悪すぎた。
 相手は極論適当に引き金を長押ししていればいいだけの勝負なんて誰が好き好んで続けるというのか。
 端的に言ってやってられない。
 現代のスラングで言うならクソゲー此処に極まれりだ。

 ――だけど。
 少女の剣となった武蔵は。
 その味わい慣れた苦みを認めるわけにはいかない。
“さ…それじゃいっちょ無茶しますかぁ!”
 武蔵はまだシュヴィ・ドーラというサーヴァントの手の内を半分も引き出せていない。
 だがそれでも分かった。
 鬼ヶ島に控える軍勢とその長。
 そこに彼女という戦力が加わっている事態は非常にまずい。
 梨花を助けねばならないことを除いても、次などと悠長なことは言っていられない。
 この好機を使って切り捨てられるのならそうしておくべきだと武蔵の中の本能がそう告げていた。
 許可は下りない。
 背中を押してくれる声はない。
 その声を取り戻すために武蔵は往く。
 であればもう憂いはない。
 確信をもって虚空に踏み出す。
 案の定そこにあった無形の足場、空気の塊を蹴って空中に躍り出る。
 最後の最後まで離れ業をやり抜いた武蔵にシュヴィはまたしても驚かされたが、その反応はやはりというべきか実に早かった。
“予想外、だけど…それならそれで、相応しい武装を使うだけ……!”
 一騎討ちの土俵に上がられること自体が予想外だったのは事実。
 だが見方を変えればこれも好機だ。
 銃だの徹甲弾だのと眠たいことを言わずに、対城級の火力を叩きつけて抹殺する。
 このセイバーは間違いなく危険だ。
 確実に此処で葬っておくべきだと今確信した。
 故に相応しい武装を用いよう。
 マスターの夢見るちっぽけな救済(すくい)を邪魔立てするのならば容赦しないと、シュヴィは尊い心を鬼にする。
「ようやく射程圏内に入ってくれたわねアーチャーちゃん。さぁ、いざ尋常に勝負といきましょう!」
「そんな、こと……するつもり、ない…………!」
 しかしその気構えは武蔵も同じだ。
 シュヴィは生かしておくには危険すぎる。
 何故なら彼女の強さは純粋な武力ではない。
 応用の幅と手数の量だ。
 彼女がその気になれば半日も要さずにこの東京を焼け野原に変えられると分かったからこそ武蔵は博打を挑むと決めた。
 心配せずとも策はある。
 だからこそ他の一切を脳裏から排して、天眼が導き出した斬殺達成のための究極手を此処で講じにかかる!
「【典開(レーゼン)】――!」
 シュヴィの小さな体に規格外の魔力が集約されていく。
 世界を彷徨する長い旅路の中で見えたことのある気配だった。
 竜種の気配。
 竜の吐息(ドラゴン・ブレス)が、それもとびきり凶悪な一発が放たれることを武蔵はこの時点で既に悟る。
 だが退かない。
 此処で空に立つは神をも斬った恐れ知らずの新免武蔵。
 不退転の勝負に挑むことへの恐怖など今更のこと。
 いざ天下分け目の大一番と柄を握る。刃を構える!
「南無、天満大自在天神。仁王倶利伽羅小天衝!」
 シュヴィは剣士を知らない。
 そもそも剣士の土俵で戦うつもりがなかった。
 しかし今、彼女は踏み込むつもりのなかったそこに引きずり出されている。
 足場なき空中で一刀を構える武蔵の姿とそこから立ち昇る鬼気。
 それを前にして初めてシュヴィは、彼女の秘める解析値(データ)を超えた強さを悟った。
“人類種(イマニティ)由来の英霊で、これだなんて……本当に、すごいなぁ………”
 場違いにもそのことを嬉しく感じてしまうシュヴィだったがそれも一瞬。
 次の瞬間には彼女の顔は敵手を撃滅する機凱種のそれへと戻る。
「――"偽典・焉龍哮(エンダーポクリフェン)"……!」
 かつて機凱種が乗り越えた焉龍(アランレイヴ)の咆哮。
 愛する人の故郷を奪ってしまった過去がシュヴィの心をチクリと刺すが、止めはしない。
 世界を穢す霊骸の嵐が。
 龍精種が自らの命と引き換えに放つ咆哮(ファークライ)が光を吹く。
 現世で打ったなら核弾頭の炸裂にも等しい焦熱と破壊を撒き散らす武装も此処でならば気兼ねなく放てた。
 剣士一人焼き払うには過剰火力、そう見える。
 が…相手はサーヴァント。
 念には念を入れるに越したことはないし過剰ということは決してない筈だ。
 そう思いながら放った一撃に対して武蔵は恐れることなく瞑目し、目を見開くと共に己も宝具を開帳した。
「――征くぞ、剣豪抜刀!」
 迫る炎に冷や汗が背を伝う。
 震える体はしかし武者震いだと断言できる。
 下総の英霊剣豪や異聞帯の強者と比べても遜色のない強者の気配に心は弾んでいた。
 その高揚を未来を見据えた殺意に変えて、武蔵はいざや至天の一刀を振り下ろす。
「伊舎那……大・天・象ォォォ――ッ!」
「…ッ!」
 シュヴィはその時確かに見た。
 武蔵の背後に佇む不動明王像を。
 それが存在しない世界の出身者であるにも関わらず幻視した。
 同時に改めて自分の危機を悟る。
 機械らしからぬ不確かな直感はしかし的中。
 偽典・焉龍哮の業炎を超えて、断ち切って。
 シュヴィへと迫る剣閃があった。
 戦慄がシュヴィの総身を支配するが、彼女の行動は迅速だった。
「偽典・天移(シュラポクリフェン)……!」
 あの斬撃は危険だと本能が告げる。
 この間合いまで…宝具を使えば斬れる程度の間合いまで踏み入らせた自分の失敗をシュヴィは呪った。
 空間転移が起動する。
 魔法級の芸当を苦もなく行いながら死線を脱そうとしたシュヴィ。
 だったが…
“――え”
 空間転移が完了するまでのその一瞬。
 そこでシュヴィは信じられないものを見た。
 過去に一度だけ覚えのある光景。
 閉じていく空間を無理やりに引き裂いて迫る剣閃。
 以前は力ずくで裂け目を押し広げられたのだったが…芸当の凄まじさなら遥かにこちらが上だった。
“しま、っ…!”
 セイバー、新免武蔵の宝具――六道五輪・倶利伽羅天象。
 空の概念を地で行き零の剣を体現する対人及び対因果宝具。
 あらゆる非業を、宿業を、呪いを、悲運すら一刀両断する仏の剣。
 原初神カオスすら斬り伏せた一刀は空間如き容易く切り裂く。
 逃亡完了までの一瞬を縫って迫った斬撃はシュヴィの矮躯を一閃し。
 そして…女武蔵と機凱種の革命児の戦いは一旦の幕引きを迎えた。

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最終更新:2022年03月22日 21:41