「よくぞお帰りになられました、我らがM」
「うむ。君の方こそ無事で良かったぞ四ツ橋君。今回は迷惑を掛けてしまいすまなかったな」
「滅相もございません。それに私が胸襟を開いた同志達は予め本社から退避させておりました。
有事の際に狙われる可能性も加味しての措置でしたが…今回は吉と出たようだ」
「助かるよ。尤も…今後もこれまでのような社会戦が出来るかは微妙だがね」
四皇ビッグ・マムと百獣の
カイドウの襲撃。
そして同盟者であった
松坂さとうの叔母とそのサーヴァントの乱心。
二つの荒事を超えた敵連合は中野区を訪れていた。
デトネラットは国内はおろか、世界にもその名を轟かせる大企業だ。
当然子会社や関連会社の類は東京中に存在している。
今回四ツ橋が連合の新たな拠点として用意したのは要するにそういう会社だった。
流石に本社程壮観ではないものの、それでも立派な高層ビルだ。
四ツ橋力也という男がどれだけ方々に顔が利くか、モリアーティは改めて実感させられた。
「時にだ。要望の通りの部屋を整えてくれたかね」
「出来る範囲ではありますが。それにしても厄介なものですな、正体不明の盗聴手段を持つ敵とは」
こうして新たな拠点を得られたはいいが問題はまだ残っている。
四皇ビッグ・マムは…彼女達の陣営は、一体如何にして自分達の居所を特定したのか。
先んじてデトネラット本社を訪れていたアルターエゴが絡んでいるとすればさしたる理由付けは無意味に思えるが、そこで思考停止はしなかった。
リンボから聞き出した情報を元にして、連中は何かしらの形で裏を取ったと考えるのが妥当だ。
常に最悪の想定をするのは戦争の基礎。
「電波ジャミングの類は抜かりなくやっているね?」
「はい、それは勿論。私の息の届く建造物には全てジャミング工作を行わせていただいております」
「では必然…まともな理屈による盗聴ではないということだ」
即ち異能による超常的盗聴。
一見すると手の打ちようがなく思えるし、実際もしも敵の傍受手段が完全なノーリスクの賜物だったならモリアーティとしてもお手上げである。
が、恐らくそうではないだろうと彼は考えていた。
「我々が盗聴の道具としてはまず考えないだろう物が利用されている可能性が高いネ。
それに彼らは先程一つミスを冒している。子供達の潜在性を見誤ったこと以外にもだ」
「…と言うと?」
「ガムテと呼ばれた少年…ビッグ・マム女史のマスターに顔を出させたことさ。彼は突然現れた。何の前触れもなく突然だ」
「それは……」
「息を潜めて足音を殺していたからなどとは言うまいね、四ツ橋君。それなら私は気付いたさ」
どれだけの手練れであったとしても人間は人間だ。
シャーロック・ホームズに唯一対抗し得た犯罪王を技術一つで欺けるとは思えないし、そうはされない自負がモリアーティにはあった。
そうなると問題はトリックだ。
どのようにして殺し屋ガムテは犯罪王
ジェームズ・モリアーティの糸を掻い潜ってあの場に姿を現したか?
「恐らく彼が突然現れた手段と盗聴の絡繰はニコイチだ。
平時はその物体を介して情報を盗み、いざとなればそれをゲートにして相手の陣地に出現する。
それこそその気になればあの女史を直接放り込むことも可能なのだろう。
頭の痛い話だが……しかし人間が行き来するゲートの役目を果たし得る物体となると大分絞られてくる」
「ロッカー…はあの爆発で建物が倒壊していることを思うと難しいですね。
間違いなく巻き込まれて壊れてしまう。多少損傷しても出入り口の機能を果たせそうな物というと……テレビ等でしょうか?」
「いい答えだね、しかし私が考えるのは少し違う。私が思うに…恐らく彼らが用いているのは鏡だ」
ジェームズ・モリアーティは名探偵シャーロック・ホームズの宿敵である。
モリアーティの頭脳はホームズに並ぶ。
部分的には彼に上を行かれる部分もあろうが、それはあちらの側にも言えることだ。
世界に名高き名探偵と互角に渡り合い頭脳戦の限りを尽くしたこの男ならば。
与えられたわずかな手掛かりと証拠から仮説という名の最適解を算出することは容易であった。
「単に物品としての鏡を指すのではないよ。此処で言うのは鏡面のことだ。
君の推理したようにテレビやパソコン等家電製品の液晶もそうだし、極論水洗便所の水面のようなものでも使えるのかもしれない。
応用の幅は無限大だネ。まったく洒落にならん」
「今すぐ客室の鏡を取り払わせましょう。またあのような襲撃をされては洒落になりません」
「いや、当分は今のままで構わない。デトネラットと関係のある会社は表に出回っている情報だけでも無数だろう?
その中からザッピングして特定するとなればさしもの彼らと言えど手間だろうし、何より敵も知恵者だ。
中身のわからない箱に迂闊に手を突っ込んで痛い目を見せられた結果を軽んじるとは思えないのでね。
此処はあちらの頭脳と思慮を信頼して、敢えて悠長な手を取ろう」
全く反則技だ。
情報戦も糞もない。
しかしそれならそれで受け入れ手を打とう。
考慮に置いた上で次の手を指そう。
戦争において敵の兵站の豊かさを嘆く程不毛なことはないのだから。
「聞いていたね、
死柄木弔。つまりそういうわけだ。納得できたかな」
「つくづくふざけたチート野郎共だな。テメエらが楽しけりゃ何してもいいと思ってんのか」
それはこの青年らしからぬ諧謔(ジョーク)だった。
自分が楽しければ何をしてもいいと思っているのは彼、死柄木弔も同じだ。
強いて言うなら志を同じくする仲間は多少別腹だというだけで。
弔が破壊の地平線を目指すことに何ら大義のようなものはない。
彼が気に入らないから。
彼が愉しいから壊すのだ。
「その後具合はどうかね。不調があるようならすぐに言うんだぞ」
「安心しろよ、すこぶる良い。人生で一番気分が良いかもだ」
「それは何よりだ。もう少し経過を見たいが、しお君やアイ君にも持たせるべきかもしれないな」
回復した肉体はあの戦闘を経る前よりも健康なくらいだった。
今の弔はもはや他のマスター達にとっての悪夢に等しい。
驚異の再生能力と都市レベルでの崩壊を放てる火力を併せ持った、まごうことなき最強のマスターの一人。
「で…どうすんだよこれから。今度はこっちからあのババアの居所にカチ込むのか」
「時期尚早だ。先刻は今は亡き…、……何だったか。
とにかく今は亡き"彼"がもう一人の皇帝の相手を買ってくれたから凌げたようなものだよ。まともにぶつかればこちらが負ける」
ビッグ・マムは殺す。
連合の王の決定にモリアーティとしても異存はない。
だが問題は時期だ。
今はまだ、それを可能とできるだけの備えがない。
状況が整っていない。
だから待てをする。
目前で漲り脈動する悪の赤色矮星へ、理屈という名の首輪をつける。
「じゃあどうすんだよ。まさかまたあいつらの子守をしてろって言うつもりじゃねぇだろうな」
そう言ってしお達の居る客室の方を見やる弔。
とはいえ彼の言うことももっともだ。
折角闇の太陽へと躍進を遂げた彼の意欲と暴威を無為にするのは最早純粋に損失である。
停滞はあり得ない。
絶えず動き続け、来たる終局的犯罪(カタストロフ・クライム)に向けて時計の針を進めなければ。
「早合点は君の悪癖だよ弔」
「御託はいいからさっさと答えを言え。アンタは"先生"じゃねぇんだ」
「割れた子供達は殲滅する。徹底的に駆逐し、そこに皇帝の墓標を一つ築く。
戦いを止めて他の物事に水を向けている暇はない。よそ見をしながら相手取るには敵は大きすぎる」
では、具体的にどうするか。
「何も正面から挑まなくたって良いだろう。弱者には弱者の戦い方というものがある、それを見せてやるのさ」
モリアーティは滔々と語る。
弱者は何でも使う。
あらゆるものを利用する。
全ては最後に勝って終わる為に。
憎き強者の喉笛を確実に噛み千切ってやるために。
それを人は古来よりこう呼んだ。
逆襲劇――と。
「おあつらえ向きの陰謀を編んでいる曲者を一人知っている。
私や君が進んで何かせずとも…彼が嵐を起こすのはまず間違いない」
そう。
これは逆襲なのだ。
死柄木弔という社会の塵が。
敵連合という烏合の衆が。
偉大な皇帝の首を描き切る逆襲劇(ヴェンデッタ)。
必ずや死柄木弔はビッグ・マムの魂を冥界の底へ落とすだろう。
モリアーティの頭脳は既にその光景を算出し終えていた。
「…なら文句はない。精々陰謀野郎の手腕に期待して待つぜ」
「聞き分けが良くなったネ。以前の君なら不貞腐れるか捨て台詞を吐いて去るかだったろうに」
「別に改心しちゃいないさ。ただ……前よりかは見えるようになったんだ。いろいろな」
視覚的な話をしているのではない。
大局であったり、もっと奥深いものであったり。
鬱屈としたものを抱えながら子供の癇癪じみた破壊を撒くばかりだった頃の弔には無かった視座が今の彼には備わっていた。
覚醒とはよく言ったもの。
あの瞬間死柄木弔というヴィランは、間違いなく一つ上のステージへと進化を遂げたのだ。
「その調子で頑張ってくれ。望みの景色が見たけりゃな」
「無論だとも。未来の魔王よ」
そう言って弔は踵を返そうとする。
向かう先はしお達の許か、それとも一人でこれから壊す街でも眺めに最上階へ向かうのか。
その答えを知るのは彼だけであったろうが…結果的に彼の足は何処にも向かうことなくその場で止まることになった。
「…む? 君はまさか――」
来客があったからだ。
入口の自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。
彼の面影に弔は覚えがなかったが。
しかし碌でもない相手らしいことはすぐに分かった。
「よう。実際会うのは初めてだよな、"M"」
新調したばかりの潜伏先をアポ無しで訪ねてくる相手。
おまけにMたるモリアーティをして直接会うのは初めてだという、そんな相手が。
真っ当な目的でやって来ていると考えるのは、少々楽観的が過ぎるというものだろう。
「禪院君か。よく来てくれたネ、歓迎しよう。
君には不義理を働いて迷惑をかけた。その埋め合わせもしたかったところだ」
「そいつは殊勝な心がけだな。じゃあ挨拶もそこそこで悪いが一つ頼まれてくれや」
その男はしかし、弔には普通の人間にしか見えなかった。
何しろステータスも見えない。
魔力の波長も感じない。
にも関わらずすぐに警戒態勢へ移れたのは先述の理由に加えて一つ。
死柄木弔は既に…人間のようにしか見えないしそうとしか感じられないサーヴァントというモノに、覚えがあった。
「聞こう。どんな依頼かな」
「田中とかいうマスターを仲間に加えただろ。そいつをこっちに渡せ」
この段階で油断を捨てられたことは弔にとって幸運だったに違いない。
彼を前にした人間は誰もが失敗してきた。
判断を誤ってきた。
それは彼と血の繋がった親族でさえも例外ではない。
術師殺し――アサシン、
伏黒甚爾。
天与の暴君は威風堂々たる足取りで蜘蛛の新たな巣穴へと侵入を果たした。
◆ ◆ ◆
「前のところのほうがよかったねぇ」
新しくあてがわれた客室の中でしおはそう言った。
此処にはゲーム機もなければ前ほど豊富な量のお菓子もない。
急拵えで用意してもらえただけでも感謝しなければならないと分かってはいるが、多少見劣りしてしまうのは事実だった。
そんな彼女の言葉に対し
デンジは何を言うべきか迷うように頭を掻く。
本来なら真っ先に不平を漏らすのは彼だろうに、此処に来てからというもの彼は随分と無口であった。
「どうしたのらいだーくん? おなかいたい? それともつかれちゃった?」
「それもあるけどよ…。あー、その……何だ。しお、お前さ……」
「? なぁに?」
「もう大丈夫なのかよ?」
しおは首を傾げる。
言葉の意図がわからないようだった。
そんな彼女にデンジは続ける。
「あの女だよ。さとちゃんの叔母とかいうヤツ」
「おばさんがどうかしたの?」
「死んじまったんだぞ、アイツ」
松坂さとうの叔母。
デンジは結局最後の最後まで彼女に良い印象は持てなかった。
感想としては"気持ち悪い女だった"に尽きる。
あのにやけ面も話し方も声色も態度も全てが気持ち悪かった。
まるで背中を得体のしれない虫が這い回ってるような、そんな生理的嫌悪感があった。
死んでほしくなかったなんて気持ちは正直全くない。
それどころか、出来れば俺と関係のないところで死んでほしかったと思っている程だ。
デンジにとって彼女はその程度の相手だったが。
しかししおにとってはそうではないだろうことを、デンジはちゃんと理解していた。
「ポチタが殺したんだ。まぁ…俺が殺したみたいなもんだよ」
申し訳ないとは思っていない。
彼女はそもそもしおを殺そうとしたのだ。
今はもう思い出せなくなりつつあるが、ひたすら傍迷惑なサーヴァントを暴れさせて。
その上でそいつの味方をした。
しおの首に手を掛けた。
それを殺したポチタの判断が間違いだったとデンジは一切思わない。
死んでも誰も悲しまないような奴だったとすら思っている。
「お前、あの色ボケ女に懐いてただろ。気落ちしたりしねぇのかよ」
「かなしいよ。おばさんがしんじゃって、いっぱいかなしい」
それでもデンジは少女の言葉を聞いていた。
――いままで、ありがとうございました。
――おやすみなさい、おばさん。
その言葉を聞いていたからこそ。
目を覚ました後のしおがいつも通り過ぎて、そこを気にかけずにはいられなかったのだ。
幼年期の終わりには痛みが伴う。
だから案じた。
兄のように。
家族のように心配した。
しかし。
「でも…おばさん、さいごに私に笑ったんだ」
「……笑ったあ?」
「うん。笑ってくれたの」
しおは見ていた。
宙に舞う首だけになっても。
さとうの叔母はしおに笑いかけていた。
「たぶんだけどね。おばさんは…」
その笑顔の意味がしおには分かった。
「私とさとちゃんに、しあわせになってね――って。そう言いたかったんだとおもう」
だってあの人は私達の味方で居てくれたから。
大人として私達を助けてくれたから。
元の世界でもそうだしこの世界でもそう。
その姿を今思い返して、しおはこう思った。
おかあさんみたいな人だったな。と。
「だったらしあわせにならなくちゃ。おばさんはきっと私達にそうしてほしいとおもうんだ」
「…悲しいとかさ。そういうの、ねぇの?」
「ぜんぶ終わったらさとちゃんといっしょにちゃんとかなしむよ。でも今は、まだがまん」
感謝している。
出会えてよかったとそう思う。
死んでしまって悲しい。
その言葉にも嘘はない。
だけど。
そう思うならばこそ――私達は勝たなくちゃいけない。
しおは、そう考えていた。
「勝たなきゃいけない理由がまたふえちゃった。
おばさんのお葬式してあげられるの、たぶん私とさとちゃんだけだから」
「……はあ~~~。お前さ、やっぱ頭おかしいわ。心配して損したぜ。
そうだな、お前はそういう奴だもんなあ!」
その答えを聞いたデンジは心底バカバカしくなって声を張り上げる。
神戸しおはまともではない。
頭のおかしいガキだ。
精々小学生くらいだろうに意中の相手が居て、そいつの為なら誰だろうとブチ殺せる。
そんなあれこれブッ飛んだガキなのだ。
釈迦に説法…いや、馬の耳に念仏だった。
それを悟ったデンジのことを見てくすくすと笑う声がある。
その声を聞くなり、デンジの表情はぱっと綻んだ。ついでに鼻の下もまぁまぁ伸びた。
「そ、そんなに面白かったですかあ~?」
「いや、ごめんね。あんまりにもサーヴァントらしくなかったから面白くって」
「よかったねぇらいだーくん。アイさんたのしそうだよ~」
星野アイ。
かつては絶世のアイドル。
今は敵連合の構成員の一人。
先の戦端をきっかけにしてアイの心は連合の側へ傾いた。
それもその筈だ。
連合の王、死柄木弔があの戦いで見せた"崩壊"。
あれを見て連合を切り捨てる判断をすることが出来る者などそうは居まい。
「しおちゃんとライダーくんはなかよしなんだね」
「い…いやぁそんなことないっすよ? ただちょっと付き合いが長いだけで……」
アイドルとしての顔で笑うアイだが。
その実彼女の内心は、冷静に目の前の二人を分析していた。
“…当面は大丈夫そうだけど。やっぱり油断ならないなー……この子たち”
ビッグ・マムをすら追い詰めたチェンソーの怪物。
それも恐れる要素の一つなのは間違いない。
だがアイにとっての警戒すべき相手は彼だけでなく、デンジとポチタの二人(ふたつ)を使役する神戸しおもまた然りだった。
アイは覚えている。
芸能界で鍛え抜かれた嘘の匠である筈の自分ですら余裕を保てなかった相手を前に。
顔を青褪めさせて吐き気を堪えながらも立ち続け、屈しようとしなかった少女の姿を。
“さとちゃん…だっけ。どんな子なんだろうなぁ。もしかしたらこの界聖杯に居たりして”
もっとも。
居たとしてもだ。
それを交渉材料にして脅すのはあまりにリスキーだと、そう言わざるを得まい。
神戸しおはただの幼子ではない。
連合の王が一目置き、そして彼女自身もその才覚を遺憾なく発揮し続けている。
雌雄を決するならば終盤。
ないしは王が斃れ、真の意味で連合が烏合の衆と化したその時か。
「よかったらいろいろお話聞かせてほしいな。しおちゃんって"さとちゃん"のことが好きなんだよね?」
「えへへ、そうだよー。私はどんなことがあってもさとちゃんのことがだいすきだし、さとちゃんもそうなんです」
「あはは。しおちゃんあのね、世間ではそれ"百合"っていうんだよ。おねロリとも言うかも」
一番の不穏分子であるアイがそうである以上。
連合の内部分裂は当分の間は見込めないと考えていいだろう。
それ程までに連合が示した功績は。
死柄木弔という頭が示した可能性は大きかった。
破壊の規模においてならばサーヴァントを含めても界聖杯に集った面々を遥か突き放して逸する彼。
それが頭を努める以上、そこには必然一定の信用が生ずる。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが。
かの恐るべき四皇ビッグ・マムは意図せずしてそれを果たしてしまったらしい。
「百合? おねろり? おはななの?」
「そうそう、お花。えっとね。女の子と女の子が…」
「アイさ~ん? ちょ、ちょ~っと年齢層がヤバいっすよ! それは! せめてあと五、六年は待ちましょ!」
敵連合は今や勝ち馬の一つだ。
星野アイは何処までも狡猾に、そして堅実に。
自分の与する勢力のことをそうみなしていた。
そして、それとは全く別に。
蚊帳の外にある男が一人。
田中一というその男は、連合の一員を名乗るにはあまりに役者が足りなかった。
“…アイドルにイカれたガキ。本当に俺の居場所は此処でいいのか?”
彼は見惚れた。
数km先にまで続く崩壊の道筋。
それを背に立つ白髪の破壊者の姿に。
死柄木弔の佇まいに、田中一は憧れた。
この世のしがらみや秩序、その全てを粉砕して嘲笑い立つ影。
彼の築く未来こそが己の望んだ混沌なのだとそう確信さえした。
だがしかしいざ連合へ加入してみれば。
露わになるのは己がどれ程しょうもない存在であるかという、客観視点からの事実ばかりだった。
“俺は…そんな大層な願いなんて抱いちゃいない。
ただ……気に入らないものが壊れればいいんだ。俺の知る退屈な世界がぶっ壊れてくれれば、それで……”
それこそが彼の理想。
彼の夢見る田中革命。
だがいざ加入した連合の構成員達はそれが幼稚に思える程見果てぬ未来を幻視していて。
だからこそ田中は劣等感と疑問を抱かずにはいられなかった。
「教えてくれよ……なあ」
死柄木の示した破壊は。
彼の描く未来は今も脳裏に焼き付いて離れない。
なればこそ、目の前の現実と理想の乖離が際立つのだ。
自分の夢見る混沌を背にして立つ彼に比べて。
彼が仲間と認めた者達に比べて…自分のこの有様は何なのだと。
そう思わずにはいられなかった。
そう思わずにいられる程、田中は恥知らずにはなれなかった。
いっそ何処までも無慙無愧になれればもっと幾らか生きやすかったろうに。
つくづく彼は生きることに向いていない男なのだった。
居心地の悪さに耐えかねたのもあるが、純粋に尿意を覚えて席を立ったのが数分前。
トイレに向かって用を足し終え、小さくぼやきながら客室へ戻らんと廊下を進んでいるのが現在だ。
世界はもう壊れ始めている。
田中の望んだ混沌はコールタールのようにどす黒くこの退屈な都市を染め上げつつある。
その真っ最中に居ながら田中は何も出来ていない。
理想と現実のギャップが彼を苦しめていた。
そして彼の受難は、そんなことでは終わらない。
「…え?」
客室に戻ろうとしていた足がぴたりと止まった。
目は見開かれ息は乱れ始める。
背筋をつうと伝った汗は雪解け水のように冷たかった。
“嘘だろ。アイツは…アイツは、リンボが封印してくれた筈……”
"彼"を落としてしまったことは把握していた。
デトネラットを目指して心も顔もぐしゃぐしゃにしながら進んでいた時だろうと思った。
まずいなとは思ったがそれ程深刻に考えてはいなかった。
リンボの施した術が生きているだろうから、どの道アイツは死んだようなものだと。
そう高を括っていたからだ。
しかし今、田中は確かに"彼"の気配を感じていた。
田中は腐っても彼ら親子のマスターだ。
その魔力の波長は誰よりも鋭敏に感じ取れる。
「――見つけたぞ、愚か者めが」
「ひッ」
信じられない程情けない声が出た。
それと同時に腰が抜けた。
尻餅をつく田中に迫ってくるのは一枚の写真。
そこから半身を乗り出し鬼の形相を浮かべた、怨霊のような老人だった。
手には一体何処から入手したのかクロスボウが握られている。
写真のおやじ…吉良吉廣は躊躇なくその矢を放ち。
鏃は無防備を晒す田中の耳を掠めて床に突き立った。
脅しのために持ってきたわけではないのは明らかだった。
これは実力行使で事を成す為に持参された道具。
吉良吉廣が田中一という人間に対して痺れも愛想も切らしていることの顕れだ。
「ど…どうやったんだよ……お、お前はリンボに封印された筈だろ……!?」
「あぁ確かにそうじゃ。一時凌ぎのごくごく軽いものであったがのう…!」
吉廣達にとって田中はもはや無能な味方ですらなくなった。
彼は今や敵だ。
親子の幸福を、息子の未来を妨げる害獣に成り下がった。
そして
吉良吉影の父親は息子を害そうとする人間に対して一切の容赦をしない。
狂的なまでの執念と情愛で死後も息子を守り続けた悪霊の前でその愚を冒せばどうなるか。
「哀れじゃな…田中一。貴様はあの生臭坊主にまんまと踊らされていたのだ。
しかしこればかりは奴を責められん。
貴様のようなド低能を本気で重用するような輩なぞ、三千世界の果てまで探しても一人も居らぬのだからなッ!」
「――ッ!」
吉影を脅かす存在は彼によって剪定される。
舞台が日常から聖杯戦争に変わっても例外はない。
その一点において吉良吉廣はずっと一貫している。
“欲を言えばアサシンに奪還させたい所だったが…あの白髪の足止めは奴にしか出来ぬ仕事。
わしが此処で此奴を抑えられれば、万一の時のリスクは極限まで削ぎ落とせるッ”
甚爾は上手くやってくれた。
彼の手際は実に迅速だった。
燃え落ちたデトネラット本社を後にした連合の行く手を追跡、彼らの新たな拠点を特定。
結果、吉廣は想定していたよりも遥かに速く出来損ないのマスターを捕まえる段階に移行することが出来た。
出来れば正面からの突入という手は取りたくはなかったが、生憎とあまり時間を掛けていられる状況ではないのだ。
こればかりは致し方ないと妥協した。
スマートな手ではないかもしれないが…息子に破滅をもたらしかねない徒花の芽を摘めると考えれば安いリスクだ。
「わ…分かってるのか!? 俺には令呪があるんだぞ!
い、いざとなれば……これでアンタのバカ息子を自害させたっていいんだぞ!?」
「貴様のような便所に吐き出されたタンカスのボケが"わが息子"の生殺与奪を握ったつもりか。
笑わせるわッ! おまえなぞにサーヴァントを失う度胸がある訳もないッ!」
「そんな…ことッ!」
続く言葉は出てこなかった。
やはりなと吉廣は唾棄する。
田中一は何処まで行っても月並みな小人物なのだ。
人としての一線を衝動に任せて超えただけで、後はただただ宙ぶらりんな状態のままでしかいられない小物。
そんな男に。
サーヴァントの喪失――実質的に自らの死を確定させるような真似が出来る筈はない。
“令呪でわが息子を縛られることだけは厄介だが…田中はその先には間違いなく踏み込めまい”
全く。
何故こんな男に。
この程度の男に、これほど振り回されねばならないのか。
吉廣はもはや怒りを通り越して呆れさえ抱いていた。
「お前ら親子が居なくたって…連合が俺に新しいサーヴァントを見繕ってくれるかもしれない。
そうだ、そうだよ……連合だ。俺には連合が付いてるんだぞ!
はは、ははは。豊橋の惨状を見たか? あれも全部俺達の頭が――」
「ふはッ――たわけが。あぁ確かに奴らは強大じゃろう!
わしとてそこについては認めるより他にない。紛れもなく"脅威"じゃ!
だが…無い頭を絞って考えてみよ。そんな連中がきさまのような無能をそうも手厚く扱うと本気で思っているのか?」
田中は既に連合のメンツを知っている。
破壊の魔王、死柄木弔。
チェンソーの怪物を飼う少女、神戸しお。
東京に知らぬ者の居ないトップアイドル、星野アイ。
そして田中一。
異能の一つもなく頭も良いとは言えず、おまけに自分のサーヴァントの手綱すらまともに握れない穀潰し。
「ち…違う! そんなことは……」
「無いと断言できるのか? 見ない間に随分と思い上がったものじゃな。虎の威を借る狐とは貴様のことよ」
ニィと口角を上げて笑う吉廣の言葉をよそに。
田中は目眩と動悸に顔を青ざめさせる。
自分を連合に採用してくれたの他でもないあのMだ。
あの時の言葉は今も自分の中に成功体験の一つとして残っている。
あれが嘘だったとは思えない――いや。
それはただ、そう思いたくないだけなのではないのか。
「選べ。田中よ」
「何を…だよ。今更……」
「連合を抜けて元鞘に収まるか、命以外何もかもを失うか」
猫撫で声で突きつけた二択は方便だ。
田中がどの道を選んだ所で吉廣は彼の腕を切断し令呪を潰すつもりでいる。
とはいえこれ以上事を荒立てずに伏魔殿たるこのビルを抜け出すには、彼の意思で自分に同行して貰う方が都合が良かった。
“さぁ選べ愚か者。どの道貴様の末路は断崖の底だがな…!”
嗤う吉廣と言葉を出せない田中。
静寂が一瞬、廊下を満たす。
次に響いた声はしかしどちらのものでもなかった。
「田中ー? …え。何そいつ?」
「誰じゃッ!?」
「うわ。心霊写真が喋ってる」
連合の一員、星野アイ。
吉廣は舌打ちをする。
田中は未だに言葉を出せず、口を無意味に開閉させていた。
“愚図と喋っていたせいで時間を食いすぎたか…!
しかし慌てることはない。こやつらを出汁にして更に田中を揺さぶれば……”
連合にとって田中は決して価値の高い存在ではない。
それは間違いないのだ。
吉廣は冷静に思考を回し口を開いた。
だが。
「くく…丁度良い所に来てくれた。戦いの意思はない、ワシは……」
「ライダー」
アイは吉廣が話し終わる前にそれを遮った。
呼んだのはサーヴァントのクラス名。
その意味を彼が理解するよりも、名を呼ばれた男が動く方が遥かに速かった。
「あいよ。話すのは一発ハジいてからでもいいもんな」
破裂音。
一瞬吉廣は自分の身に何が起こったのかを理解出来なかった。
しかしそれも一瞬のこと。
人の肉体を捨てて久しい怨霊の体に…焼けるような痛みが込み上げれば。
否が応でも事の次第を理解する羽目になる。
「ぐ…ぉ、おおおおおッ!?」
ライダーと呼ばれた男が発砲した――恐らくは。
だが断言することまでは出来ない。
彼が銃を抜いて照準し発砲するまでの一連の動作があまりに速すぎて、目で追い切れなかったからだ。
「…へ、へへ。ざまあみろ……ざまあみろ、クソ爺が……!」
「おたくの手柄じゃねぇけどな。ま…悪い虫を早めに見つけられたのはアンタの功績と言えなくもないか」
クロスボウを持っていた吉廣の右腕。
その手首から先が、血煙と化して四散した。
ライダー…
殺島飛露鬼はあまりに的確な射撃(エイム)で即座に写真の彼を無力化。
この場の主導権を極道らしく理不尽に、有無を言わさず奪い返してのけたのである。
「た…田中ァッ! 貴様……よもや最初から……!」
「アンタが悪いんだよ。無駄話する前にさ…俺の喉なり何なり潰しとけばよかったんだ」
吉廣は頭の中で何かがブチブチと千切れる音を確かに聞いた。
憤死しかねない程の屈辱だった。
彼の言葉を聞いた田中が見せた動揺は恐らく真であったろう。
だがそれとは別に田中は吉廣を嵌めようと罠を張っていた。
大声での会話。
やり取りの要領を敢えて得ないことで時間を稼ぐ。
そうすれば不審に感じた誰かしらが出てくる。
助けてくれる。
そう思っての計算ずくだったのだ、始めから。
“あ…あり得ん……! このワシが……このような若造に! このような社会のゴミに……!”
「命が惜しけりゃ何もすんなよ~…爺さん。
アンタが何者なのかはさっぱり分かんねぇけどよ、頭蓋(ドタマ)ぶち抜かれたら流石に死ぬだろ?」
殺島が嗤った。
嗤いながらもう一度引き金を引いた。
抵抗もままならない吉廣の左手が、さっきの焼き直しのように爆散する。
今度は吉廣が嗤われる番だった。
屈辱と怒りと、そして確かな焦り。
三つの感情に脳を焦がす彼をよそに。
騒ぎを聞きつけた残りの役者が暢気にのそのそやってくる。
「うわ。何やってんだよライダーのオッサン。老人虐待か?」
「お~チェンソーのにしおちゃんか。違ぇよ、そんな場末の介護施設(ホーム)みてぇな趣味持ってねぇさ」
満身創痍の吉廣がはみ出た写真を靴で踏みつけ動きを止めながら。
好青年めいた、良い意味で年齢を感じさせない笑顔で、殺島はやって来た同僚達に応じる。
「田中、こいつ何なの? サーヴァントじゃないみたいだけど…使い魔ってやつ?」
「あ、あぁ…。俺のサーヴァントの――アサシンの宝具だよ。
死んでもまだ息子の世話焼いて回ってるイカれた爺だ」
呼び捨て、継続してたのかよ。
そんなことを考えられる程度には田中の余裕も戻ったらしい。
彼の説明を聞くとチェンソーのライダー…デンジはうげ、という顔をした。
「面倒事持ち込んでくんなよなー。またビル吹っ飛ぶとかは勘弁してくれよ」
「田中さんかわいそう。おばけに追いかけられたらつらいよねぇ」
「俺やオッサンもほぼおばけだけどな」
「そういえばそっか。おばけ屋敷だねぇ、行ったことないけど」
ぽふぽふとまだ蹲ったままの田中の頭を撫でるしお。
何とも言えないむず痒さが込み上げるが、振り払うのも気が咎める。
窮地の打開も自分じゃ出来ない情けなさが沸いてくる前に、田中は口を開き続けた。
「俺はアサシンに追われてる。もしかしたらその内、アイツ自身が俺を連れ戻しに来るかもしれない」
「どんな野郎なんだ、お前のアサシンは」
何か喚いている吉廣は殺島に踏まれて何も出来ない。
ざまあみろと思いながら田中は答える。
「殺人鬼だ。アイツは触れた物を爆弾に変える。人間でもだ」
「…そりゃとんだ技巧(スキル)だな。前情報(チンコロ)貰えて助かった」
こと人を殺すことにかけて。
殺人という罪を犯すことにかけてあの男を上回る人間はそう存在しない。
一丁前に語れる程田中は殺人に対し熟達してはいなかったが、それでも断言出来る程。
あの吉良吉影というアサシンは"異常"だった。
何故あれだけの力を持っていてああもつまらなく生きられるのか…田中には未だに理解出来ない。
「俺はバカだからよく分かんねぇんだけどよ~…」
眉間に皺を寄せながら言うのはデンジだ。
田中のことを見ながら彼は、今の話を聞いて浮かんだ素直な感想を口にする。
「――さっさと殺しちまえばいいんじゃねぇの? お前、まだ令呪いっぱいあるじゃん」
最終更新:2022年05月02日 23:16