「すまないが、その依頼には応えられないな」
 時は吉良吉廣が田中一を捕捉するよりも前へと遡る。
 伏黒甚爾の要求もとい依頼をモリアーティは即答で突っ撥ねた。
 甚爾は小さく笑って肩を竦める。
 予想通りだ、とでも言うような仕草だった。
「一応理由を聞かせてくれるか。言っとくが撤回するなら今の内だぞ。
 こっちも色々あってな…奴さんの身柄を確保しないと面倒臭ぇんだわ」
「それは怖い。君が只の間諜でないことは此方も察しが付いていてネ。
 できれば此処での争いは避けたいが…さて。どう思う、我がマスター。我らが王よ」
 モリアーティと甚爾。
 二人の視線が弔へと移った。
 彼は溜息を一つついてから口を開く。
「テメェの事情なんか知らねぇよ。交渉に来て頭も下げねぇ野郎が、なんで言うこと聞いて貰えると思った?」
「元を辿れば先に不義理かましたのはそっちだろうが。それも含めて矛を収めてやるって言ってんだ」
「大した自信だな。敵陣のド真ん中でそこまでイキれるか? 普通」
 嫌な奴を思い出すね。
 そう言って弔は自分が過去に嵌められ、そして全てを奪うことで報復したヤクザ者の顔を回想する。
 奴の手で殺された同胞の顔も脳裏に浮かんだ。
「土下座して靴でも舐めてみろよ単細胞の猿野郎。そしたら考えてやる」
「理解できねぇな」
 甚爾は挑発に乗るでもなく、心底分からないというような様子だった。
「話に聞く限りじゃ田中って男はとんだ無能だろ。
 サーヴァントもねぇ、魔術も使えねぇ。頭が切れる訳でもねぇ。
 俺は自他共に認める能無しの猿だけどよ、奴さんも大概じゃねえか」
 敵連合は大した組織だ。
 今やMの存在を除いても彼らは侮れない。
 死柄木弔とあのチェンソーの"呪い"。
 彼らが同じ方向を向いて並んでいるというだけで危険視の理由としては十分だった。
 だがそんな組織に田中一という凡夫は本当に必要なのか。
 実のところ甚爾は驚いていた。
 聡明なMのことだ。
 マスターが何と言おうが合理を優先して――妙な条件をつけてくる可能性もあったが――田中を此方へ引き渡すものと高を括っていた。
「悪いことは言わないからゴミは捨てときな、連合の王様よ。
 只でさえ悪目立ちしたばかりなんだ。この期に及んで事を荒立てれば…いよいよ崩壊は近いぜ」
「分かってるさ。組織を作れば自然とゴミは涌いてくる。何処からともなくやって来るんだよな、あいつらは」
 死柄木弔にとって。
 敵連合という組織を受け持ったのは此処が初めてではない。
 元の世界でも彼は同じ名の組織を任されていた。
 いろいろな奴が居た。
 数は増えたり減ったりを繰り返した。
「何考えてんだか分からない奴」
 顔の焼け焦げた青年を思い出す。
「社会に適合できる訳もねえ奴」
 人の血を吸って笑う少女を思い出す。
「バカだが愉快な奴」
 マスクを被った男を思い出す。
「ヤクザ如きに片腕飛ばされやがった奴」
 頑なに自分の正体を明かさなかった仮面の男を思い出す。
「大した才能もない…多少話が合うくらいしか評価点のねえ奴」
 異形型として排斥され、その結果ヒーロー殺しにかぶれたやけに気の合う奴を思い出す。
 思えばゴミの集まりだった。
 よくもまああんな奴らと一緒にやって来られたものだと思う。
 だが不思議と。
 呆れはしても憎いと思う気持ちはなかった。
 社会の全てを憎み続けた人生だったというのに。
「だが、まぁ…ゴミも使いようだ」
 田中一が連合へ近付いた当初の理由はどうあれ。
 弔は覚えていた。
 自分の作った崩壊の地平を見る彼の眼差し。
 そこに確かな憧れと感動の色があったことを。
 であれば資格は十分だ。
 それを美しいと思えるならば。
 己の夢に付き合う資格はある。
「明日にでもまた訪ねてこいよ。気が変わってるかもしれないからな」
「そうか」
 仕方ねえな。
 そう言ったのと、甚爾がその殺気を露わにしたのはほぼ同時だった。
 本当なら荒事になる事態は避けたかった。
 が、相手が頑ななことを理由に引き下がれる状況にはない。
 伏黒甚爾もまた呪われている。
 紙越空魚がその胸に抱きしめた呪いに巻き込まれている。
 だからこそ彼は不合理を冒すしかない。
 それが間違いであると分かっていても。
 彼は、紙越空魚のサーヴァントなのだから。
「じゃあ此処からは暴力だ。吐いた唾飲みたくなったら土下座してくれ。靴底をご馳走してやるよ」
「寝言は寝て言えクソ猿。人里に降りてきた害獣は駆除しなくちゃな」

    ◆ ◆ ◆

 先に動いたのは死柄木弔の方だった。
 躊躇のない踏み込みは自信の表れ。
 伸ばした掌は甚爾に軽く弾かれるが。
 そのあっさりとした結果とは裏腹に捌いた側である甚爾は驚きを覚えることになった。
“速いな。人間の動きじゃねぇ”
 天与呪縛により生まれながらに超人である甚爾。
 その彼がこの評価を下すことの意味は言わずもがな大きい。
 そして此処で甚爾は連合の王に対する認識を改めた。
“薬か異能か。目元の痣を見るに恐らく前者だな”
 崩壊の力だけではない。
 何をしたかは知らないが、肉体の基本性能もまた超人の域。
 前述した崩壊の異能を加味すれば…純粋な脅威度で言えばサーヴァントに匹敵して余りあるだろう。
「避けんなよ」
 それに加えて大元のセンスにも恵まれている。
 本能と執念だけを武器にした我流の動きは喧嘩殺法すら超えた殺し合いの為だけの技巧だ。
 只の徒手空拳でさえ個性という超常を乗せて放たれている以上迂闊には貰えない。
 それどころか豊島での惨状を見るに、一撃食らっただけでも即死と考えて動いた方が合理的だろう。
「筋は悪くねぇ。が」
 では甚爾は逃げの一辺倒に徹する以外ないのか。
 異能を持たず、霊体化することすらできない木偶の坊たる彼は。
 人に追い立てられる猿のように為す術なく逃げ回るしかできないのか。
「必殺を名乗るには遅すぎるな」
「――ガ…!」
 答えは否。
 確かに彼は猿を名乗る。
 非才の凡愚。
 生まれながらに呪われた木偶。
 但し猿ではあってもそれ以前に。
 彼は――
「撃ってみろよ、全力で。撃てるもんならな」
 暴君である。
 天与の呪縛。
 非才という名の才に呪われた"人間"。
 であれば当然、可能である。
 地獄への回数券で強化され、最低でも人類の頂点級の身体能力を得た悪意の申し子の魔手を視認してから避け。
 更に超人レベルの動体視力をしても追い付けない速度で。
 的確な反撃の拳を下顎――急所に叩き込み魔王の肢体を竹蜻蛉のように殴り飛ばすことも。
 甚爾にしてみれば赤子の手を捻るよりも更に数段は容易な芸当であった。
「撃てねえよな。此処でじゃ撃てねえ。色んなものを巻き込んじまう」
 此処は敵陣のド真ん中だ。
 弔が崩壊を放つには障害物が多すぎる。
 都市一つを瞬く間に滅ぼす崩壊の個性も使えなければ只の虚仮威し。
 とはいえそれでも脅威は脅威だ。
 真の意味での必殺。
 触れれば終わる、当たれば終わる。
 それが正面戦闘の土俵でどれ程大きな価値を持つかは語るまでもない。
 そこの部分は大前提。
 しかし。
「リーダーは多いよな。守るものが」
「ッ…語ってんじゃねぇぞ猿が……!」
 その点は至極単純な理屈で解決できる。
 当たらなければいいのだ。
 当たりさえしなければそれは単なる風車でしかない。
 一撃必殺の崩壊を与える手、大したものだ。
 ――で、だから?
“顎の骨を完全に砕いた手応えはあったが、それにしては復帰が早すぎる。
 身体能力の単純強化に加えて回復力も相当引き上げられてやがるな”
 たかが必殺。
 恐るるに足らぬ。
 まして全霊を発揮できない状態ともなれば尚更だ。
 異端の忌み子とはいえ呪術の大家に生を受けた身である甚爾は当然知っている。
 領域展開――必中必殺の脅威を。
 それに比べれば"触れてはいけない"だけの魔手というのはあまりに微温かった。
 野獣のように低く身を屈めて迫る弔の手が床面に触れる。
 途端に生ずる崩壊は靴底で触れただけでも致死に繋がる超常。
 呪わしき"個性"。
 その対処法として甚爾が取った行動は単純だった。
「足場をありがとよ」
「ッ…!」
 間近にあった弔の頭部を踏み台として空中へ逃れる。
 そのまま蛍光灯の縁に驚異的なピッチ力で掴まれば崩壊が過ぎ去るまでの数瞬を其処で待機。
 しつつ片手は、自分の背後からずるずる湧き出た異形の霊体の口内へ突っ込む。
 術師殺しを真に脅威たらしめる呪具の数々を収めた――無色透明の武器庫呪霊。
「ハァ…ハァ……何だその気色悪ィのは。人の会社に汚物持ち込んでんじゃねぇぞ」
「そっちの蜘蛛爺もそろそろ茶々入れて来そうなんでな。
 ガキとインドア老人相手にちと大人気ねぇが、道具を使わせてもらう」
 甚爾がそう言ってそこから抜き出した道具。
 それを弔は杭だと思った。
 しかし彼の言葉の通り介入を試みようとしていたモリアーティの認識は少々違う。
 彼にはそれが、想定された用途を無視して中心でへし折られた――三節棍のようなものに見えた。
「いよいよ加減はできねぇ。最後のチャンスだ、もう一度だけ聞いてやるよ」
「学習しろよ。猿にくれてやる資源はねぇ」
「そうか」
 名を游雲。
 現代社会基準で五億の値は下らないと品評される特級呪具だ。
 呪具とは言ってもそこに術式効果は付与されていない。
 いわば純粋なる力の塊。
 そしてそれ故にその威力は、使用者の膂力に大きく左右される。
「じゃあ死ね」
 ではこれを。
 天に愛され呪われた男。
 呪力の代わりに武力を授けられた彼が担えばどうなるのか。
 約束された悪夢が顕現する瞬間が一瞬後の未来に確約された――その瞬間だった。
 空間を切り裂く破裂音と共に。
 伏黒甚爾の眼球と喉笛、頚椎の隙間を走るとある点。
 その三箇所に向かって正確無比なる弾丸が飛来したのは。


「よう、アサシン。久しぶりだな」
「クソヤクザか。よくぬけぬけと顔出せたもんだ」
 遊びも手抜かりもない即死もたらす精密射撃。
 余人なら何が起きたのかも理解できない内に死んでいただろうそれを破損した游雲で事も無く打ち払いながら。
 甚爾は乱入者のライダー…極道、殺島飛露鬼を睥睨した。
「おぉっと勘違いすんなよ。こっちに戦(や)る気はねぇ」
「殺(や)る気はあるってか?」
「ハハ、まぁあわよくば…な」
 そう上手くは行かねえか。
 言って頭をボリボリ掻く殺島に対する甚爾の視線は厳しい。
 それもその筈だろう。
 彼ら主従は甚爾達との同盟を結んだ舌の根も乾かぬ内に、此方に一言の相談もなく連合へ加入する手を取ったのだ。
 実質煮え湯を飲まされた形である。
 これで友好的な対応などできるわけはないし、その上状況も状況だ。
「フー…やれやれ肝を冷やしたぞ。だが間に合ったようだ」
 一触即発の空気の中でモリアーティのみが安堵したように息を吐く。
 それを受けた殺島は眉間に皺を寄せた。
「おいおい。まさかアンタ…」
「禪院君が田中一の身柄を要求してくる状況には正直驚いたが、しかし理由は実に明白だ。
 田中君が一方的に離別を突き付けたサーヴァントが彼に接触し働きかけた。これ以外には考えられん」
 滔々と語るモリアーティに殺島は肩を竦めるより他なかった。
「が…自分の手の者を伴わせず、何らかの手段で懐柔した相手のみを交渉の場に寄越すなど不合理にも程がある。
 禪院君程のやり手を懐柔してのける弁舌と頭を持った手合いならばそれに気付かないとも思えない。
 だから私はこう考えた。交渉の席を囮に据えて、標的である田中君に直接接触を試みる伏兵が潜んでいる筈だ――とネ」
 伏黒甚爾の来訪は完全なアクシデントだった。
 嘘はない。
 これに関して言えばモリアーティは本当に肝を冷やしていた。
 が…そこは蜘蛛糸の犯罪王。
 散りばめられた不合理の輝きを逃さず拾い集め、計略ではなく推理の糸を編むことで状況の全体像を灰色の脳細胞の内側に描き上げ。
 甚爾に敢えて矛を抜かせ、上階で蠢いているであろう曲者への加勢をどんな形であれさせないことを目指したのだ。
 危険な賭けだが勝算はある。
 時間さえ稼げば必ずや状況は好転するだろうと彼は信じ、任せた。
 上階で田中と一緒に居る連合の共犯者達に。
「私の推理は当たっているかな、禪院君」
「…チッ。あんだけ大口叩いといてしくじるかよ普通」
「正解できていたようで何よりだ。探偵役はあまり経験が無くてね」
 智謀の怪物。
 直接対面してより深く理解できるその異様さ。
 生死を越えて尚保ち続けた過保護な親子愛も。
 天禀と収斂の両方で丹念に編み上げられた蜘蛛の巣の前では毒々しい蛾の一匹でしかなかったらしい。
「改めてお手柄だ。感謝するよライダー君」
「どういたしまして。あ…もう呼んでいいッスかね。張本人、一応連れてきてるんですが」
 殺島は話しながら懐から一枚の丸めた紙を取り出していた。
 何やら喚く声が聞こえてくる。
 甚爾も聞き覚えのある、あの"写真のおやじ"の声だった。
 だが殺島が言う所の張本人とやらは彼ともまた違う。
 本当の意味での張本人。
 それは連合に今回の問題を持ち込んだ…ある、非力で無力な男のこと。
「彼が居なければ話が始まらない。呼んでくれ」
「了解(りょ)。…お~い、此処はもう安全だぜ。出てこいよ田中」
 ロビーに集った面々の全員の視線がその男に注がれる。
「…ど、どうも……。すんません、お騒がせして……」
 田中一
 中途半端な狂気と中途半端な行動力と。
 そしてその身には不相応な憧れを抱く者。
 そんなそもそも本戦まで生き残れたこと自体が奇跡のような男が。
 今夜開かれる交渉の席での、何とも華のない主役だった。

    ◆ ◆ ◆

「最初に言っとくぞ。もうこの時点で俺目線じゃ交渉は決裂してる」
 よくもあれだけ偉そうに言ってくれたもんだと甚爾は内心で吉良吉廣を侮蔑した。
 田中一の確保も説得も最悪の形で失敗。
 今や彼は無残に丸められた、チリ紙のような格好で床を転がっている。
 何かあればすぐにでも抑え込めるように殺島の靴底でその場に縫い止められた状態だ。
 しかしこうしている今も彼は。
 愛する息子…田中のサーヴァントである殺人鬼に念話を飛ばすことができる筈。
 そしてその殺人鬼は仁科鳥子という、甚爾のマスターにとって無二の価値を持つ女の生殺与奪を間近で握っている。
 状況としては限りなく最悪。
 それが伏黒甚爾の現在だった。
「先刻も言ったがこっちの要求はそこのシケた男の身柄だ。
 そいつを渡せば大人しく帰るし、場合によっちゃ今後も連合(おまえら)とビジネスライクに付き合い続けてやってもいい」
「だがそこからは一歩も譲れない、と」
「そういうことだな」
「では単刀直入に進言しよう」
 モリアーティの眼鏡の奥の眼光がギラリと輝いた。
 彼の前で隠し事をすることに意味はない。
 秘めた目的や事情など犯罪王の眼光は容易く暴く。
 宿敵(ホームズ)程ではないにしろ、彼も解き明かすことには多少覚えがあるのだ。
「彼らとは手を切りなさい。君が今乗っているのは沈みかけの泥船だ」
 沈黙する甚爾。
 殺島の足元で丸められた写真が何かを喚いていたが、生憎くぐもった内容までは聞き取れない。
「最初はマスターでも人質に取られているのかと思ったが…それならもっと切羽詰まって動くだろうからね。
 とはいえ状況的に君が何かの弱みを握られ、そこの写真の御仁らに利用されていることは間違いない。
 人質かそれともまた別の込み入った事情があるのか。君のこれまでの言動を思えば、思い浮かぶ名前は一つあるが」
「……」
「しかし何にせよその悩みはすぐにでも取り払うことができる。
 事実君も…田中君の確保に成功次第、そのアプローチを行おうと考えていたのではないかな」
 前述の理由により、伏黒甚爾は吉良吉廣に協力するしかない。
 だが彼もただ使われるのみではない。
 殺し殺されの世界で生きてきた裏の人間であれば誰もが知っている。
 誰かの道具に堕ちるということは、いずれ必ず破滅を招くと。
 だから甚爾は吉廣に従う体を取りつつもある案を考えていた。
「――あぁ、そうだよ」
 即ち。
「そいつに令呪を使わせられればそれで全部事足りるからな。
 説得でも拷問でも構わねぇが、どうにかして殺人鬼野郎を自害なり無力化させる命令を引き出すつもりだった」
「…貴様ッ! 正気で言っておるのかそれはッ!? ワシらが貴様の何を握っているのか、忘れたわけでは――!」
 あまりに許容できない言葉だったのかチリ紙状態で吉廣が叫んだ。
 その台詞を最後まで言い終える前に彼は本格的に踏み潰されて発話不能に陥ってしまったが、これで状況は最悪だ。
“奴の息子には俺の叛意が伝わっただろう。そうなると取引の土台が崩れる。
 仁科鳥子の身の安全を担保するものはこれで一切無くなったことになる…が”
 しかし――そもそもの話である。
 吉良吉廣の"息子"は本当に仁科鳥子を殺せるのか?
 甚爾の裏切りの代償を、彼は瞬時に取り立てられるのか?
 仁科鳥子のサーヴァントはフォーリナー。
 名をアビゲイル・ウィリアムズ
 リンボなるアルターエゴの妄言に曰く…地獄界曼荼羅計画の中核を成す規格外(領域外)のサーヴァント。
「知っての通りうちのマスターは仁科鳥子に随分とご執心でな」
「それは…彼女が傍に侍らせる"力"の存在を欲してのことかな?」
「いいや、此処に来る前からの縁らしい。詳しくは知らねぇし興味もねぇが」
 鳥子の名をモリアーティが最初に聞いたのは他でもない伏黒甚爾の口からだ。
 だがその後、彼は暗躍する妖星の口から全く別な形で彼女の名を聞かされることになった。
 窮極の地獄界曼荼羅なる頭痛を覚えそうな名の計画。
 それを実行に移す段階で排除し、善良な少女の殻を被った怪物の真価を呼び起こすのだと道化師は彼に語った。
 点と点だった二つが線で繋がる。
「リンボ君のことは伝えていたね。ならば君も此処までの道中で考え至ったか」
「そうなるな。まぁサーヴァントってのは雇われ商売だ。
 可能な限りは雇い主(クライアント)の意向に添うつもりだったが…」
 そう、いざという時は。
「俺が田中一を殺して、仁科達に殺人鬼を倒させることも考えてた。
 仁科鳥子と地獄を描き得るサーヴァント、フォーリナー。奴らの実力を信用してな」
 鳥子は只の囚われの姫ではない。
 彼女の傍らには強大な戦力があり。
 そして仁科鳥子の死は必然、アルターエゴ・リンボの野望の成就に繋がる。
「なぁ写真の爺。テメェらはリンボを殺して地獄界曼荼羅を止めてぇんだったよな」
「……!」
 考えてみればおかしいではないか。
 吉良吉廣とその息子は窮極の地獄界曼荼羅の完成を阻止しようとしている。
「じゃあ逆じゃねぇか。テメェらは一番仁科鳥子を殺したくない立場だ」
 なのに指示に従わなければ鳥子とフォーリナーを始末する?
 世界を破壊できる程強力な潜在性を持つサーヴァントをただの殺人鬼が単独で始末するのは至難だろう。
 となると必然、マスターである鳥子を先に殺すなり人質に取るなりして、フォーリナーを追い詰める必要がある。
 令呪の存在を鑑みれば吉影が取れる選択肢は前者のみと言ってもいい。
 しかしそれはアルターエゴ・リンボの目論見に塩を送る愚行。
 自分達があれ程忌み嫌っていた混沌の方へ喜び勇んで突き進むようなものだ。
 勿論この理屈に従って行動するのにはリスクも伴う。
 依然として鳥子の生殺与奪がアサシン陣営の手にあるのは変わらないのだ。
 相手方の考え次第では、手の内次第では…むしろ甚爾の方が道化になりかねない。
 だから当初甚爾は当面大人しく従い、田中を確保次第彼に令呪を使わせアサシン陣営を排除するつもりでいた。
 しかしこうなった以上はそちらの方がむしろリスキーだ。
 恨むならテメェの不手際を恨め。
 甚爾は吉廣の有様を鼻で笑った。
 重ねて言うが甚爾も、本当はこうなって欲しくはなかったのだから。
 吉廣が仕事を果たせてさえいれば。
 彼らの命運が尽きる瞬間はもう少し先延ばしにされていた筈なのだから。
「では」
「いいぜ。望み通り、交渉成立の条件を変えてやる」
 空魚が知れば本気で怒るだろう。
 何してんですか貴方はと声を荒げる姿が目に浮かぶ。
 面倒臭ぇな。
 甚爾は心の中で吐き捨てたが、こうなった以上は最早仕方がない。
 呪いを受け入れると吠えたなら多少の胃痛は覚悟しとけと開き直って。
 甚爾はモリアーティに新たな交渉条件を告げた。
「そこのボンクラにサーヴァントの自害を命じさせろ。それで手を打ってやる」
 そして殺島の靴の下で喚く哀れな"父親"に王手を。
 顔も知らない仁科鳥子の命運を内心激励しつつ、伏黒甚爾の役目は終了する。
 席の主役は彼ではなく、殺島と共にこの場に現れた冴えない男。
 殺人鬼のアサシンを召喚し…相互理解を果たすことなく断絶して今回の騒動を招いた張本人。
 田中一へと移る。

    ◆ ◆ ◆

 吉良吉影とその父親、吉廣。
 彼ら親子と田中の間に存在する対立関係はほぼ形式だけのものと言って差し支えない。
 田中が彼らに愛想を尽かして出奔した時吉影は傍に居なかった。
 もしも吉影が居合わせていたなら多少強引な手段を使ってでも田中の令呪を不能にせんと行動しただろう。
 しかし吉影はその時仁科鳥子の許に居り。
 頼みの綱の吉廣はリンボによって半ば不意討ちで人事不省に陥らされ、結果田中は三画もの令呪を抱えたまま親子から逃げ出すことに成功した。
 して、しまった。
 そしてこの時点で吉良親子はほぼほぼ詰んでおり。
 今この瞬間まで茶番じみた追跡劇を演じられていたことが奇跡に思える程絶望的な状況に追いやられていた。
「話は聞いていたね? 田中君」
「あ…は、はい」
「私としては行動に縛りを加えて駒にするのも悪くないと思うのだがネ。
 しかし今宵の客人はそれでは足りないと言う。君のサーヴァントの完全な消滅。この世界からの退去をお望みらしい」
 後ろ盾がない状態であるならいざ知らず。
 敵連合という巨大勢力に加入する僥倖に恵まれた以上、次の契約相手にありつける可能性も高い。
 要するに吉影達を生かしておく理由が田中にはもう無いのだ。
 吉廣はそれに気付いていたし彼から念話で連絡を受け取っているだろう吉影もそうであるに違いない。
 令呪を発動して一言命じれば全てが終わる。
 とことんまで気に入らない殺人鬼と、死して尚子離れのできない狂った父親。
 彼らを一方的にこの界聖杯から追放し英霊の座に送り返すことができる。
 そして今。
 とうとう狂った親子はまな板の鯉と化した。
「無論替えのサーヴァントを見繕うことには力を尽くそう。
 我々としてもその方が戦力の増強になるからね。頼まれてくれるかな――田中君」
 彼は今や絶対的強者だ。
 高笑いでもしながら散々自分を見下してきた親子に引導を渡してやればいい。
 だというのに。
「……」
「…田中君?」
「あ、…その、えっと……やっぱ、そうなりますよね」
 当の田中はと言えば。
 それを喜ぶでもなく冷や汗を掻いていた。
 自分が取れる最適解は吉良親子を、自分のサーヴァントを令呪で正式に切り捨てることであるという事実。
 まるでそこからずっと目を背けていたかのような。
 目を背け続けていた事実を此処に来てとうとう直視せざるを得なくなったような。
 そして――そんな反応から希望を見出す者がただ一人だけ存在した。


「――そうじゃッ! 貴様の懸念は正しいぞ田中一ッ!」
 吉良吉廣だ。
 靴底で写真を踏み潰され体すら出せない状態。
 虫のように蠢くばかりの身になりさらばえた彼はしかし諦めてはいなかった。
 それもその筈。
 彼にとって世界の中心は息子であり、自分の全能力は息子のためにあるのだから。
 今更己の死など恐ろしくはない。
 ただ吉廣は息子の死を恐れていた。
 こんなつまらない凡夫の機嫌一つで愛する"わが息子"の夢が途絶えてしまう。
 他の何よりもその未来だけを恐れていた。
 であれば当然必死にもなる。
 まして此処に来て田中が再び無能を晒し。
 付け入る隙を見せてくれたのだ――此処で動かずしていつ動くというのか。
「こやつらにとって貴様は単なる道具! 便利な雑用役でしかないのじゃ!
 サーヴァントを失った貴様になぞ何の価値もない! 忽ち切り捨てられるぞッ!」
「ッ…!」
 殺島の足の力が強くなれば発声も難しくなる。
 だが吉廣は喉が張り裂けて血が噴き出すのも構わず叫び続けた。
 傍から見ればそれは敗者に落ちた者の無様な足掻き。
 されど器でも度胸でも彼らに数段劣る田中が相手であるならば、その足掻きも十分な価値を生み出してくれる。
“く、くく…! 今この瞬間だけは貴様が凡夫であることに感謝するぞ、田中……!”
 どれだけ調子づこうとも彼の根底には劣等感と己の無能さへの自覚が存在する。
 そこを突けば簡単に揺らいでくれるのだから楽なものだ。
 たとえ自分がこの場で殺され消滅しても、最悪田中が令呪を正しい形で使えれば勝機はある。
 令呪一画を使って吉影をこの場に呼び。
 更にもう一画を使って離脱を命ずる。
 田中はどうしようもなく愚鈍なマスターだが、それでもそのくらいの発想は考えつくだろう。
 平穏を愛する吉影にそんな真似をさせるのは胸が痛むが命には代えられない。
「吉影はおまえを許すと言っておる! もう一度わが息子の手を取るのじゃ、田中よッ!」
「や…やめろ、ふざけるな! 今更……どの口でそんなこと言ってんだよ糞爺ッ!」
「何を子供じみたことを喚いておるのだ! さもなくばお前は…この悪人共に死ぬまで利用され玩ばれることになるのだぞッ!?」
 何処までも不毛な口論が積み重なる。
 その光景を見ながらジェームズ・モリアーティは一人思案していた。


“無駄だな。既に君達は詰んでいるよ、写真のご老人”
 吉良吉廣の考えはあまりに形振り構わない急拵えの代物だ。
 仮に田中が愚かにも吉廣の口車に乗せられてしまったとしよう。
 それでも彼らの陣営の未来は変わらない。
 その時は殺島が、甚爾が、そして自分が。
 令呪を使う前に田中を始末するだけのことだ。
 そうすれば事実上吉良吉影は脱落が確定。
 田中一という人材を喪失することにはなるものの、それによって自分達が被る損害は決して大きなものではない。
 が…強いて言うとすれば。
“たとえ貧者であろうとも、生きたいと願う本能は時に予測不能の事態(アクシデント)を生むことがある”
 それに。
 純粋にマスターとして再雇用する余地のある人材を失うというのは痛手だ。
 聖杯戦争において人間とはリソース。
 マスターの資格を…この世界の理になぞらえて言うならば可能性を有するそれを放棄せねばならない事態は少々旨みに欠ける。
“とはいえ…こればかりは私が何を言った所で焼け石に水だろうからねェ……”
 彼の知性と先見性に賭けるしかないか。
 そう考えながらモリアーティは、有事に際してすぐに動ける態勢を既に整えている二体のサーヴァントを見て小さく嘆息した。


“俺は…やっぱり利用されてる、のか……?”
 自分の貧困な脳髄では想像もできない程大きな悪からお墨付きを貰った。
 命からがら辿り着いた先で憧れを抱いた。
 だが連合へ加入を果たした自分を待ち受けていたのは激しい劣等感。
 本気で聖杯を目指し牙を研ぐ者達と、自分のサーヴァント一匹従えられない愚か者の格差。
 その苦い現実は彼の心を少なからず削っており。
 その傷に今吉廣が放った言葉は塩水のように鋭く滲みた。
“いや…そんな筈はない。追い詰められた爺の戯言だ、聞き流せ……”
 田中にも物の道理くらいは分かる。
 吉良吉廣は…あの殺人鬼の父親であるこの老人は親子共々追い詰められている。
 そんな相手の言うことに耳を貸す必要などない。
 分かっている。
 分かってはいるのだ。
 だけど。
「誰が貴様なぞに価値を見出すというのだ! 自分を知れッ!」
 その言葉が足を引く。
 その正論が肩を掴む。
「お前のような人間なぞ…この世にはごまんと居る!
 たまたまお前が扱いやすかっただけじゃ! だから甘い言葉で誘われたッ!
 後生大事にそれに縋っているようでは……お前はいずれゴミのように切り捨てられるぞッ!?」
 その正論が、心を鎖す。
“…あぁ、そうだな。分かってるよ。
 俺がしょうもない人間だってことくらい……誰よりさ”
 思えば初めからそうだった。
 顔は並かそれ以下。
 運動神経も上に同じ。
 勉強はできなかったわけじゃないが、それでも並の中での上澄み程度に収まった。
 子供なりに承認欲求を満たす手段を探して消しゴム集めに手を出して。
 挙げ句騙されてボコボコにされて心底悔いて。
 そんな子供時代から今に至るまで、田中一(じぶん)は何も変わっちゃいない。
 何一つ変わっちゃいない。
 ずっとそのままだ。
 何となくで就職先を選んで。
 ゲームに嵌って金と時間、自分にできる全てのリソースを注ぎ込んで。
 それ以外何も見えなくなって。
 自分の名前など覚えてもいないだろう因縁の相手に執着して。
 そうしてようやく手に入れた勝利の証を。念願のドードーを。
 手に入れて一分としない内にデータの海に逃がしてしまった。
“なら…俺がするべきことは……”
 界聖杯に来て童貞を捨てた。
 初めての殺人の味は今も覚えている。
 だがそんなもの所詮ただの自慰に過ぎなかった。
 その卒業は自分の何を変えてくれたわけでもなかった。
 負け犬は負け犬。
 凡夫は凡夫。
 その結果がこの現在だろう。
 常に後先考えない短絡な行動を繰り返し。
 信じた憧れすら貫けない。
 なまじ単純な頭をしているから誰からも軽んじられる。
 下らない人生だ。
 つまらない人生だ。
 何の価値もない命だ。
 でも死のうとは思えない。
 これだけ劣等感と無力感を味わってもまだ醜く足掻こうとしてしまう。
 ――そんな田中を見て吉廣は笑う。
“そうじゃ…! それでいい、おまえはそれでいいのじゃ田中……!”
 貴様などが欲を出した所で手に入れられるものなど何もない。
 欲の主に価値がないのだからそれは当然のこと。
 誰も田中一という個人に対して価値など見出しはしない。
 何故なら彼は凡庸だから。
 才能も憧れもその全てが並の域を出ないから。
 言うなれば彼は現代ではごくありふれた無敵の人。
 後先顧みないだけしか取り柄のない凡夫。
 そんな男を本気で大事にして重用しようなど、余程の馬鹿か人情家しかあり得ない。
 現に彼を引き入れたモリアーティですらこの場にあっては彼を切る未来を考えていた。
 わざわざ面接までして引き入れた男だとは言っても。
 その価値は…魔王の好敵手や微笑みの偶像に比べれば数段劣る。
 犯罪王の判断を糾することは誰にもできないだろう。
「確認せい田中ッ! お前にまだ残っておるものは何じゃ!」
 そんな田中の胸中は吉廣に言わせれば手に取るように分かる。
 伊達に予選期間、一ヶ月も面倒を見てはいないのだ。
 田中一には何もない。
 短慮の末にこんな所まで来てしまいはしたが、結局最後に残るのは令呪という唯一無二の呪縛で繋がれた親子だけだ。
“そうだ。俺にあるのは…”
“そうじゃ、お前にあるのは…!”
 自分の詰みすら見落とす程追い詰められた吉良吉廣。
 そんな彼の掌で踊らされる田中一
 短慮と劣等感の末に彼はとうとう答えを見つけ。
 取り返しのつかないことをするべく。
 右手に魔力を込めようとした。


「田中」
 その時。
 声が響いた。
 青年の声だった。
 伏黒甚爾が矛を収めてからはずっと黙りこくっていた彼。
 連合の王たる白髪の魔王が、建物の柱に凭れた格好のままで口を開いていた。
「死柄、木…」
 抱いた憧れを否定され。
 衝動のままに全てを壊し。
 粉塵に塗れて燻り続けた社会の塵。
 かつてそうだった彼はもう此処には居ない。
 天上のそれを思わす漂白された白髪。
 傷に塗れた顔すら、今や貧しさを思わせはしない。
「何迷ってんだよ。お前はもう連合(こっち)の人間だろ」
 全てを壊し崩す手が田中に向けられる。
 手を取ろうと言っているのではないことはすぐに分かった。
 何故ならその手は、その手が生み出す景色には。
 田中一の夢見た全てがある。
 田中革命の真髄を更に先鋭化させ何処までも突き進ませた最果ての形。
 豊島区でそれを見せてくれた彼が自分に向けてその手を伸ばしている。
 そのことの意味はあまりにも大きくて。
 そして。
「勝手にどっか行くなよ。楽しいのはまだまだこれからなのに」
 死柄木弔は笑った。
 この界聖杯で恐らく最も可能性に乏しいだろう男に。
 不敵な眼光はそのままに、口元のみを歪めて笑いかけたのだ。
 その顔に打算や悪意は一切なく。
 あるのはただ…死柄木弔田中一の間に唯一共通して存在する理想のみ。
「――勝つのは俺だ。これでも不安か?」
 柱に凭れて立つその姿。
 この場でただ一人田中一へ手を差し伸べる姿。
 それを見た瞬間、田中は人生で味わったことのない電流めいた衝撃に意識を焦がされた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ぁ………………」
 脳内にフラッシュバックする忘れるべくもない光景。
 視界の果てまで続く崩壊を背に立つ魔王の面影。
 自分が未だかつてなく強い意思で憧れた男が自分へ微笑んでいる。
 手を差し伸べている。
 手を取れと命じるでもなく。
 自分に跪けと傲慢に言うでもなく。
 ただ一言。
 お前に憧憬(ゆめ)を見せてやると。
 言外にそう告げてそこに居る。
 そのことを認識し理解した瞬間。
 田中は涙を流した。
 そして自分が何をするべきなのか。
 誰の言葉を信じるべきなのかを、今度こそ完璧に理解した。
「色々勝手なこと言ったし…散々振り回したけどさ。悪かったな、写真のおやじ。
 アンタが俺の世話を焼いてくれてなかったら……俺は予選で死んでたかもしれない。
 そのことには素直に感謝してるよ。これだけは最後に言っておく」
「待…待て、田中! 何故今そんなことを言う!? まさか……まさか、貴様!」
「悪いな。おやじ」
 だからそれらしい決断をする。
 そう決めて田中は右手を掲げた。
「お別れだ」
 そして笑った。
 晴れ晴れとした笑顔だった。
「アサシン。令呪を以って命ずる」
「やめろォォ――ッ!」
 吉廣の絶叫が響き、そして。
「死」
 敵連合新拠点の一階に爆音と閃光が炸裂した。

    ◆ ◆ ◆

 田中の顔を見た吉廣は全てを悟った。
 結局最後の最後までこの男は自分達の味方になり得なかったこと。
 自分達は最初から間違えていたこと。
 自分達が真に取るべきだった行動は鞍替えの一択だったのだ。
 そこの部分を見誤ったからこそこうなった。
 取り返しのつかない後悔に身を焦がしながら…吉良吉廣は全身全霊を費やして殺島の靴底の下から飛び出した。
“すまぬ…すまぬ、すまぬッ! 吉影よ……無能な父を許してくれ……!”
 田中は既に連合の王の虜に堕ちた。
 であれば彼が次に取るだろう行動は推測できる。
 彼は吉良吉影を自害させるだろう。
 そしてそれは、吉廣にとって己の全てを費やしてでも止めなければならない事態であった。
“今度こそ…今度こそは、おまえが念願を叶えるまで寄り添ってやりたかったが……
 ワシは今度も結局、おまえを残して先に行くことになってしまった……!”
 殺島の拘束を抜け出した吉廣。
 そこに容赦のない銃撃が到達した。
 脳天を撃ち抜かれれば脳漿が散る。
 にも関わらず行動を続行できたのはひとえに彼の執念だろう。
 吉良吉廣は狂気の父。
 付ける薬がない程狂った息子をそれでも愛し続けた偏執狂なのだから。
 そんな彼は当然、息子の為なら限界だって超えられる。
 現世の軛から解き放たれた今なら尚更だ。
 致命傷を負いながら辿り着ける限界点まで進んだ吉廣に最早躊躇などという感情はなかった。
“だが…ワシは何処にいようとおまえを見守っているぞ……吉影。
 今度こそおまえは、おまえの幸せを掴むのじゃ……それだけが…ワシの、ただ一つの願いじゃ……!!”
 ――吉良吉廣は息子、吉良吉影の宝具という扱いでこの界聖杯に現界している。
 その性質が此処に来て活きた。
 殺島に撃たれ死の確定した彼は。
 自分の余力全てを使ってできる限り田中一に接近し、そして。
 自らを――"爆弾"に変えた。


 壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)。
 本来永遠の幻想である筈の宝具を自ら進んで自壊させることで即席の爆弾とする掟破りの使用法。
 だがそれはこの時確かに実を結んだ。
 即死には至らねど爆発に巻き込まれた田中は意識を失い、身を焼かれ。
 吉良吉廣の愛する息子は僅かなれど延命することが叶った。
 令呪による自死を逃れることができた。
 それが予期せぬ吉を生むのか。
 それともただ無意味な死への猶予として終わるのか。
 それはまだ――分からない。

【吉良吉廣(写真のおやじ)@ジョジョの奇妙な冒険  自爆】

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最終更新:2022年05月02日 23:18