「実を言うと……」
記憶の大図書館。
マインド・パレス(知識の宮殿)。
膨大な知識を詰められるだけ詰め込んだ図書館。
実践的な知恵の美術館でもある広大にして複雑な迷宮。
それは、現実には一つの頭脳の形をしていた。
たった一つの人格に宿っていた。
そして、今その一室は、漆黒に塗り固められていた。
生死の境界にある走馬灯で、即座にそれは展開されて、心の私室を作り上げる。
そして、もう間もなくして、全てが失われるがごとく荒れ果てている。
宮殿の大半は打ち壊され、押し潰され、消灯して閉館も寸前。
もはやその一室。
手近にある直近の記憶と、申し訳程度の来客しか残されていない。
「あの人のサーヴァントが襲来した時点で、弱い考え方を持っていたことは事実でした」
その来客、物語の探偵(イマジナリー・フレンド)に、宮殿の主は語り始める。
ここに至るまでの思惑を、裏側を、懊悩を。
「彼ならば、自分の命を差し出す代わりに、それ以外を見逃すような取り引きが通じるかもしれない、といった提案だね?」
「恥ずかしながら」
時を世田谷区の戦いまで遡り、他者に明かさなかった思惑を語ると。
少女達から悪魔と形容され、実際もまたそうである蠅の王を撃退した時点では、二つの可能性があった。
世田谷区消失の余波によって、『海賊と子どもたちの襲撃』の予定も、また中座された可能性。
世田谷区消失をものともせずに、世田谷区のアパートを囲んでいた追っ手が、引き続きの襲撃者を送ってくる可能性。
常識的な判断であれば前者ではあったが、後者の可能性は無くもなかった。
そして、襲撃のタイミングを予告するメールが届いた以上、その尖兵が『彼』になっていることは、予想の一つとしてはあった。
いずれも当たってほしくはなかったが。
だから、襲撃があると密告を受けたメールのアドレスに返信する形で。
プロデューサーに送るメッセージを用意するだけはしていた。
世田谷区直下の爆弾を、盛大に起爆させた後で。
マスター達も含めた一同と、杉並区緑地公園で合流するよりも以前に。
『もし私が討たれたら、盟主を討ちとり集団を崩すことに成功したものとして、そこで引き上げてはもらえないだろうか』という未送信メールをストックしていた。
少なくとも、プロデューサーのサーヴァントと連戦を重ねて、激戦を乗り越えたばかりの戦力を削られるよりは。
密告を受けた時にまず単独で囮になろうとしたように、自分以外を逃がす事も考えた。
それに、もっと大きな理由があった。
仮にその場を、プロデューサーのサーヴァントを、これまた見事に撃退できたとして。
さらに誰の犠牲も出さず、二度目の奇跡を起こしたまま戦いが終わったとして。
こちらのマスター達にとっては、それも大変宜しくないのだ。
「果たしてプロデューサーのサーヴァントが誰一人殺せずに帰ってきたら、海賊たちの陣営は彼に見切りをつける事をしないだろうか、と」
それが、気がかりだった。
明らかに規格外のサーヴァント同士の激突を起こした陣営の生き残りに、それでもプロデューサーをぶつけたということは。
海賊と子どもたちは、最悪、プロデューサーが捨て石になっても、それで敵わないと思っている。
少なくとも、尖兵なるようにと命令を発したであろう、子どもたちか海賊かの一方は。
その上で、283プロを削るだけの力は発揮すると見込んで送り出している。
ならば、283プロの陣営が誰も死ななかった時に。
プロデューサーは『期待外れ』としての扱いを受けることになる。
下手をすれば『情を残しているから殺せなかったのか』と裏切りを勘繰られ、その処遇と命が危うくなることは、想像に難くない。
そしてプロデューサーの死は、七草にちかや
田中摩美々ら、彼女達のもっとも望まないものであり。
『有効だと思っていたプロデューサー派兵さえ失敗したのだから、いよいよ慢心せずに総攻撃をかけよう』という、輪をかけて最悪の結果を招いてしまう。
それを防ぐためには。
誰かがその場で犠牲になるしかなく。
それは、戦力としては最も力になれない上で、『賞金首』としては最も目立っている、『蜘蛛/犯罪卿』を置いて他になかった。
「けれど、彼のサーヴァントを一見して、やはりそれはできないと悟りました」
「できる限り多くのサーヴァントを削る、という確かな殺意があったからだね」
「理由のひとつは、その通りです。私を標的に定めていることは確かだったが、私だけを仕留めたところで止まる余地はないと分かった。
彼の覚悟を想えば、むしろそこまで思い定めていると確信すべきだった」
その時点で、プロデューサーがやりたくもない襲撃を、ガムテ側に強要されているという線は消えた。
その主従は己の意志をもった戦士として、アイドルたちの安全のために、犯罪卿を始めとするサーヴァントに消えてもらうより他にないと信じている。
そして、その男を、そのように駆り立てたのは。
「プロデューサーは、マスターでないアイドル達が全滅したことを、把握していた。
……つまり、彼は見せつけられた。護るべき少女達が手をかけられた惨劇を、ありのまま」
それはガムテならば見せたであろうし、むしろ見せない理由がなかった。
『プロデューサーにアイドルを襲わせる』という絶望を演出する仕込みの為にも。
また、『効果的ににプロデューサーを尖兵に仕立て上げる』という路線を取る為にも。
「……絶望させて殺すと、指名を受けたのは私だった。
彼が連行された惨劇は、本来、私が見せられるはずのものだった。
本当なら、犠牲を目の当たりにするのも、『お前の無力さが招いた結果だ』と嗤われるのも、『犯罪卿』が背負うことだった」
あなた一人だけのせいだなんて思わないで、と摩美々は言った。
でも、それは、己だけのせいではないと言われた、その結果を。
プロデューサー一人だけに背負わせてもいいという事にも、絶対にならないというのに。
「では、もう一つの理由とは?」
『彼ではないホームズ』が、話題を進めた。
対話人格として彼を選んだのは、淡々と起こった事実だけを整理してくれそうでもあったからだ。
「一人で勝手に決めて、一人で犠牲になってはいけないと言われたので。
…………新しい友人からも、護るべきはずの人達からも」
あなたの手は私が掴んでいないといけないから、一緒に戦うことを選んでほしいと。
その言葉は、たしかな楔になっていた。
孤独な退場を許さないという願掛けだった。
その言葉があったから、彼は戦場で役に立たない不甲斐なさのなかでも、連戦を潜り抜けられた。
「それに、逃げることはするなと、咎められたことがあるので」
死を、消滅を、楽になるための逃げ場所にしてはいけないと、叫んでくれた友がいた。
もし、安易に命を放り出す選択をすれば、マスターを生還させるという責任と、残った同盟者たちをとりまとめる役目は。
その一番大変なところを、脱出を提言するHたちに押し付けたまま去ることになってしまうだろう。
あまりに身勝手で、どうしたって酷だった。
「だから…………アーチャーさんの選択に任せることにした。
『戦いによって、想いをぶつけることで、プロデューサーさんを引っ張り出す』という道を模索できるなら、と」
けれど、その選択は。
結果的にはアーチャー・キュアスターの脱落と、少女・七草にちかの犠牲を生じさせてしまった。
アーチャーの言葉が何も響かなかったとは思いたくないし、響いたと信じたいけれど。
おそらく、これでプロデューサーは、この戦いで引っ張り出されることはなくなった。
「H君は諦めずに対話を試みていたようだが、なにか根拠があって確信したのかね?」
Hがそれでもサーヴァントに訴えかけようとしたことに、一切の認識不足はないだろう。
交渉でも戦いでも、相手からよそ見をすることが最大の禁忌(タブー)であり、今その集中は対峙するランサーに向いている。
プロデューサーのサーヴァントが対面を拒絶していることが第一の関門であり、それを突破すべくサーヴァント同士の会話をしようとしている。
でも、だからこそ。
「使われた令呪が推定一画きりにしては、効力の持続時間が長すぎる。
アーチャーとの戦闘中に、令呪のかさねがけが行われたと見ていい。
つまりプロデューサーは、一度の戦闘に令呪を二画も切るような判断ができる程度には、戦況を把握していたことになる」
プロデューサー当人が戦闘を見守っていた、というなら。
プロデューサー自信が引っ張り出されるつもりでいるかどうか、その心境を察することはできる。
田中摩美々からは、あなたと同じだと答えをもらったから。
独りで、無理して全部引き受けようとする。
そういう人だと考えていいのだと、言われたから。
畏れなくても、救けたいと思ってもいいんだと、教えてもらったから。
「今の彼は、『
櫻木真乃さんの大切な人を奪った』ことも背負っている」
そういう人なら、気付いていないはずが無い。
283プロダクションに、一か月もそばにいて守ろうとしてくれた者を無碍にできる少女は、1人もいないことを。
たとえプロデューサーにとっては、サーヴァントこそがアイドルたちを殺し合いに巻きこむ障害だったとしても。
アイドル達にとっては、守護者であり、パートナーであり、1人の人間だということを。
自分の間違いに折り合いがつけられないから、君達のところに戻れないと言っていたところに。
アイドル達を襲い、その大切な人達を奪うという行いを重ねてしまった。
「しかし、それでも彼のことを救いたいというのが君の大切な少女達の願いだったはずだ。
ただの予想だけで、彼の気持ちを決めつけて説得をとりやめるのは尚早な判断ではないかな?」
「いくらでも説得に時間を費やしていいなら、言葉を尽くしたでしょう。
だが、それも許されない事情が訪れた。
古手梨花さんとそのセイバーの窮地が、察せられたことです」
決め手は、古手梨花のセイバーが、合流したことだった。
それまで、283陣営にとっても猫箱(ロスト)に位置付けられていたHの同盟者。
『皮下院長に交渉を試みる』という方針を伝えてから、行方知れずであった少女。
@DOCTOR.K ・6時間 …
283プロダクションのアイドル達はマスターであり、聖杯戦争からの脱出を狙っている。
そして、それが達成された場合、聖杯戦争は中途閉幕となり残存マスターは全て消去される。
その情報が投下されたのは、古手梨花が皮下のもとに来訪したであろう前後のことだった。
この時点で、古手梨花という少女がその後どう動いたのかについては、二択の想像があった。
一つは、皮下が話し合いの通じる手合いでないと知るや無事に逃走を果たし、同盟者たちに会わせる顔が無いという保身によって合流を避け続けている場合。
一つは、皮下の元に囚われ、283プロダクションの陣容や脱出計画とやらの詳細など吐き出せと、尋問なり拷問なりを受けている場合。
後者であれば、こちらの情報を引き出すための手段はまず穏当なものにならないだろうと予想できる。
つまり、古手梨花が囚われてから時間が経過していくごとに。
Hを経由して古手梨花に伝わった情報は強制的に露呈していくことになる。
そして彼女のセイバーが救援に駆け付けたことで、まさにそういう事態が進行していることが分かった。
『古手梨花は囚われの身になっているのか』という確認を済ませた須臾の思考時間で。
ウィリアムは、その意味について考え尽くしていた。
【狡知の首を余に捧げよ】
【そこか。"犯罪卿"】
世田谷区での集中放火から始まった、一連の襲撃において。
峰津院の擁していた悪魔も。
プロデューサーのサーヴァントも。
『蜘蛛/犯罪卿』こそが第一の標的だと、思い定めていた。
『全てをご破算にしようとする脱出計画の実行者は誰だ』とは、詰問されなかった。
彼らにとって283プロダクションの陣営とは、『まず狡知の蜘蛛を潰すべき集団』のままであった。
もともと七草にちかのアーチャーに使わせていたバイクには、盗聴器と収音器を仕込んでいた。
(他の主従に限りある資材を貸すのだから、そのぐらいは当然のことだ)
悪魔のサーヴァントがバイクを破壊した時も、それらは爆散するより先に転倒事故によって剥離していたために稼働しており。
また、櫻木真乃のアーチャーことキュアスターにも、こちらは「戦況把握のため」と暴露した上で同様の小型機器を衣類に忍ばせてもらっていた。
ともあれ、その結果として。
【実際にこの場へ呼び出すのでも、余にその居所を伝えるのでも構わん。狡知に繋がる道を示せ】
田中摩美々が見届けていた一部始終を、ウィリアムは伝えられていた。
だからこそ、理解している。あの要求によって発生した、わずかな時間が無ければどうなっていたことか。
アーチャー・キュアスターの到着は間に合わず。
声をあげた田中摩美々の制止もむなしく七草にちかが踏み躙られ。
それによってライダーの覚醒を招くことはなくなり。
マスターも含めての全滅に繋がっていた。
あの時点で、【方舟の提唱者】が露見していなかったからこそ。
古手梨花が、孤独に囚われている中でなお黙秘してくれたからこそ、あの場にいた全員の命が救われていた。
保身のために幾らでも283プロダクションの面々を売ったところで責められない状況下において。
ウィリアムが会った事もないその少女は、『アイドル達やHの主従は、庇うに値する人達だ』と信用したのだ。
ならば、その少女に助力しないということはできない。
ウィリアムのような者と違って、そこまで人を信じられる少女には、救いの手が伸ばされてほしい。
さらにこれは、そういった感情論を排した利害による考えだが。
古手梨花の身に万一のことがあれば、現状を打破する戦力としての救世主となってくれた存在が。
剣士のセイバーが、消えるなり、当人の意に沿わない命令を飲まされるなり、してしまう。
今そんなことが起こってしまえば、リンボひとりが再来しただけでも全滅に転じてしまう。
よって、目標の優先順位は切り替わる。
理では、今後の戦いを生き残る為に、古手梨花とそのセイバーを欠かしてはならないから。
心では、方舟にいる全員の恩人である少女と、同じく全員の恩人である剣士を失いたくないから。
――まして、サーヴァントの方は『彼ではない彼』の同胞だというならば、その人間性には聊かの疑念もない。
「何もプロデューサーの説得を諦めるわけではない。順番の問題です。
プロデューサーの命は、今回の戦いの戦果があれば早急に無碍にはされない。対して、古手梨花さんの命は今まさに危ない」
「念話は通じない、令呪はどうなったか知れない、おまけにセイバーが不自然に泳がされている以上、現状でさえ罠の可能性もある」
「今、彼女のセイバーを失えばどうなるかは、先の戦闘で明らか。
ここは、早々に戦闘を切り上げて、疲弊しきった皆に休息を取らせる。
その上で古手嬢の救出について話し合うのが最善です」
「だが、状況はそれを許してくれそうになかった」
「プロデューサーは、【犯罪卿(わたし)】の排除に固執することを、継戦を選んだ」
それは客観的に見れば、無茶な行動選択だと眼に写るかもしれない。
セイバーの参戦とリンボの撤退によって、形勢が逆転したことは明らかであるのだから。
だが、決して愚かな選択だとは言えないだろう。
なぜなら。
「きっと、プロデューサーはまだ知らない。
皮下院長の流した情報によって、脱出希望者こそが全員の敵だと祀り上げられたこと。
今のアイドルたちは、犯罪卿と海賊達の対立を抜きにしても、排除すべき存在と化していること」
【犯罪卿さえ潰せば、まずは一幕が終わる】と認識しているから、犯罪卿の首級を狙うことを堅持している。
サーヴァントを排した後のアイドルたちは、子ども達の約束破りといった私怨などを除けば狙われないと踏んで、令呪を複数切る判断をしている。
「その場で、大声でそれを伝達して、プロデューサーやH君たちに、これ以上の戦いは不毛だと呼びかけることはしないのかね?」
「もし伝えてしまったら、プロデューサー主従の第一の標的が、その場で犯罪卿からH君に変わってしまう。
昨日の日中の時点ではまったく浮上していなかった脱出計画が急に現れたというなら、新参者がその計画を持ち込んだことは明白ですから」
プロデューサーは昨夕に七草にちかとメールで待ち合わせをしている。
つまり、少なくとも夕刻の時点では、七草にちかとそのサーヴァントが283陣営に組み込まれていなかったと知っている。
寝耳に水のごとく、そのような新情報を流しこんでしまったら。
『こんなサーヴァントがアイドル達と共にいては危険すぎる』という意識だけはそのままに、標的がウィリアムからHへとスライドする。
「かといって、プロデューサー主従ならばきっと『奥の手』を持っているから侮るなと、警告もできなかった……」
「私の友人たるセイバーとの間に、間違いが起こりかねないからだね」
「はい。当面の彼女は、我々の『サーヴァントを殺したくない』という要望を訊き入れてくれていた。
彼女のマスターも人質とされている以上、他人ごとではありませんからね。
けど、絶対に油断ならない相手だと伝えてしまっては……」
敵対サーヴァントを仕留めることも視野に入ってくる…………という風に転ぶことを、冷徹とは言えない。
結果的に283プロ自体の同盟者のようになってしまったものの、もともと彼女はHとの同盟者だったのだ。
そのHの安否は、セイバーにとってもマスター救助のための生命線だ。
条件として『味方をやられるぐらいなら、手加減できません』と言われたのは、むしろしごく真っ当な判断であるとさえ言える。
「そして、プロデューサーのサーヴァントがこの戦いで失われでもすれば。
……彼はいよいよ、自発的にアイドルの元に戻ってくるという道が失われる」
「その根拠とは? 283陣営に戻ってくる方が賢明であるように思うのだが」
本来ならば、ありえないのだ。
戦力にも成り得ると見込まれたことで人質から尖兵へと昇格(プロモーション)した者が、その戦力を失えば。
己を担保するものが無くなってしまうのだから、帰ってくればいいのにという声かけもしたくなってしまう。
だが、プロデューサーが『独りでぜんぶを背負おうとしている』ような者だった場合は。
「かつての縁者と決別するための戦いで、その陣営に敗れてサーヴァントを犠牲にしてしまったとしたら。
こちら側に戻ってくれば、『決別しないなら、何のためにサーヴァントは犠牲になったんだ』ということになってしまう」
ウィリアムならば、できなかっただろう。
もし、最後の事件に至るためのどこかで、モリアーティ家の誰かが犠牲になっていたとしたら。
果たして、『死ぬことは贖罪にならないから共に来い』という手を取ることが、できたかどうか。
「もっとも、一手を間違えれば詰むマスターのサーヴァントを倒した時点で、こちらには殺意が有ると言う者もいるかもしれませんが」
「なるほど。どちらにせよ仮説推論は一通りそろったようだ。こちらの王手(チェック)を確かめようじゃないか」
前提は出そろった。
古手梨花とそのセイバーを見捨てられない。
今ここでプロデューサーを取り戻すことに固執はできない。
全員疲弊しており、早く決着させて立て直さなければいけない。
この3つのどれか一つでもしくじれば、今度こそ状況は詰みに転がる。
そして、この戦いを決着させるにあたって。
「意識がないマスターも多数いる以上、逃げきることは現実的ではない。
相手方が勝算を持って挑んでいる以上、撤退を促すことは叶いそうにない。
そして、相手方にとっての【最優先で犯罪卿、次点で七草にちかのサーヴァント】という勝利条件は変えられない」
「つまり、このままでは前線にいるH君が脱落するか、プロデューサーのサーヴァントが脱落するかのいずれかになる」
「それは実質、H君が脱落するか、プロデューサーが脱落するかの二択と同じになる」
この二択は、どちらも絶対に回避しなければならない。
相槌役として作り上げた探偵役に、そう告げる。
「H君の脱落が、君のマスター、田中摩美々にとっての詰みに等しいことは、初歩的なまでに明らかだ。
だが、プロデューサーの喪失も、それと同等の損失に等しいと、君は考えているのだね?」
それはなぜ、という問いかけに、横に振る。
いいえ、そうじゃない。
「H君と、プロデューサーと。こればかりは、どちらの損失がよりベターかという問題じゃない。
その二人の損失は、まったく同じ問題なんですよ。
その二人のどちらを欠かしても、彼女たちは前を向いて進めない」
その重要性は、プロデューサーは彼なりにアイドル達のために立ち回って生存に寄与できるといった事より、もっとそれ以前の話だ。
また、彼を殺してしまえばアイドル達の心が折れるかもしれないといった事も当然に大事だが、もっと外側の話だ。
「時機として、今この時に、プロデューサーを返り討ちにしてしまうことは。
彼女らは、それまで慕っていた男を殺してでも脱出したいのだと。
そういう方針なら、手段さえ整えばすぐにでも脱出するだろうと。
それなら古手梨花だって人質としての生かす価値があるか怪しいと。
そういう解釈が成立してしまう」
『我々だって無益な殺戮を伴うような脱出は望みません』と、
愛に時間を要求するなら。
『現にプロデューサーを切り捨てようとしていない』という実例は、絶対に必要だ。
『元の世界で慕っていた人が襲ってきたので、殺してしまいました』という事実を前にして。
『もしも協力できるなら、そうしたい』という呼びかけに、何の説得力がともなうだろうか。
「古手嬢が、どうやってこちらの情報をギリギリで売らないまま、持ち堪えているかは分かりません。
案外、皮下陣営も峰津院が我々の方に引き付けられたことで忙しくなった、など理由は思いつきますが。
けれど、我々はすでに峰津院一派と海賊とにそれぞれ襲撃されて、犠牲者も出ているのが現状。
これでは皮下院長も勘繰るでしょう。『こうなっても脱出しないなら、脱出とはすぐにできることではない』と。
そうなれば、皮下一派が古手嬢を『我々への脅迫材料(ひとじち)』として人道的に扱うべき理由は、どんどん薄くなる」
いくらアイドル達が情のある子達だとはいえ。
きっと古手梨花の救助のために脱出しないのだろう、と考えてもらうには。
客観的に眺めたとしての、古手梨花とアイドル達のつながりが、まだお互いをよく知らないほどには浅すぎる。
「とはいえ、実際のところ、彼ら彼女らはすぐに脱出可能だったとしても、今すぐに逃げ出す者達ではないね?」
「はい……いちおう『私ならこう答える』という一案は残してきましたが。
最後に摩美々さんの様子を見たときに、彼女の手荷物に手紙を差し入れてきたので」
手紙といっても、それはあの土壇場で出現させた最後の『計画書』で、実質の遺言だが。
どうして『最後の悪企み』をしたのか書面を残しておかないと、彼らが分からないままにされてしまうから。
こういうものですと、その返信案を読み上げる。
残していく携帯端末のうち、捨てアカウントから送ることを想定したそれに、こちらの名乗りは無い。
そもそも、【計画書】の範囲は『最後の企み』についてだけで、それは魔力を使って強引に付け足した追伸のようなもの。
つまり、まだ送信されていないし。
送信されたところで、狙った通りの効力を発揮するかも定かではないけれど。
@******
DOCTOR.Kの来客の救助。
海賊陣営にいるプロデューサーとの決着。
この二つを果たす事なく、方舟は出航しない。
ハッタリではない、ブラフでも罠でもない、ただの事実。
今の彼らがプロデューサーを諦めることも、古手梨花を見捨てられないことも客観的には明白なのだから。
「さすがに『プロデューサーを救う』と書いてしまえば、プロデューサーも奪還されたがっているかのような誤解を招いてしまうので『決着』と書きましたが」
だが、深読みする者はいる。
こいつらは、『古手梨花やプロデューサーに手を出せば脱出によってリセットする』と示唆しているわけではあるまいな、とか。
やはりプロデューサーはアイドル達にとって重要人物で、283陣営の対抗馬として重用するのは正しい、とか。
「かえって逆手に取られたりすれば、どうする?
『古手梨花を殺されないためのハッタリであり、やはり脱出は眉唾だ』とか。
『二人も人質がいるなら、どちらかは殺してしまっても大丈夫なのだな』とか。
『人質を殺してから無事に監禁していますと嘘をついたところで、ばれやしないから殺してしまおう』とか。
そして、それらより、よほど有り得そうな反応だが。
……『いくらアイドルたちが善良でも、そこまでお人好しであるはずがない、嘘に決まっている』とか」
「おそらく、そうはならないかと」
もともと、相手方に主導権を預けるのは苦手なのですが……と前置いて。
「そういった逆手の取り方をするには、人質の片方、『プロデューサー』の存在が特異すぎる」
人質の片割れであるプロデューサーは、単なるアイドル達にとっての脅迫材料であるだけでなしに『戦力』だ。
それも、『やはり283陣営にぶつけることは効果的だった』と実証がされたばかりである。
何よりプロデューサー当人が、今は殺害、監禁などをされるわけにいかない状況にある。
プロデューサーの最終目的が聖杯である限り、いずれかの時点で海賊陣営に反旗を翻さなければならないのだから。
今よりも厳重な監視下に置かれるなり殺されるなり、身動きが取れなくなってしまうと厳しい。
となれば、プロデューサーとしては『自分をどうこうするよりも、アイドル達のサーヴァントを倒して計画を潰す方が早い』と提言するほかはなく。
そうなれば古手梨花を監禁している側は、人質の片方とそのサーヴァントが、のこのこ前線に出ているという事態に直面することになり。
『プロデューサーがどうにかなった時の保険』としての、古手梨花の存在価値は上がる。
「それに、もうすぐプロデューサーさんの元には『一度の襲撃で二騎のサーヴァントを葬り、そのうちの一騎は敵の盟主だった』という大手柄が担保される。
いくら理不尽がまかり通る集団であっても、その功績は軽視できない」
そうは言っても、実際に返信するかどうかはHとアイドル達が決める事だ。
プロデューサーがまったく危険な方に転ばないとは断言できないし、それを決める場にウィリアムはいないのだから。
「私がいなくなった後にどうしろとまでは、残していませんよ。
犯罪者は人物推定(プロファイリング)を人を追い詰めることに使う。
でも、探偵や交渉人は、人物推定(プロファイリング)を、寄り添うことに使う。
私は数学者なので。ベストアンサーがあったところで、解法(やりかた)がひとつだとは信じてません」
でも、無責任な送り出し方しかできないのを咎められるでしょうねと、心臓を刺すような声を吐き出した。
「君は、『プロデューサーも、H君も取られるわけにいかない以上、己が取られるしかない』と考えているのだね」
かくして、結論は定まってしまう。
「仮に自陣が危うい時、もう一人のモリアーティも同じように言うはずだ。
『この連合の王は私ではない』と」
うつむき、深く。
生気ごと吐き尽くすように、長い溜息を落とし。
「ただ、プロデューサーに伝えることは決めていました」
杉並区の公園に至るまでに書かれた未送信メールは、そのまま残っていた。
田中摩美々の元へ計画書を残していった時に、密かに送信予約のタップをしていた。
「先ほどの戦闘で私が早々に気配遮断を使ったのは、メールの着信をごまかすためでもある。
マスター狙いが視野に入ったことで、見張りがいたとしても意識は内側ではなく外側に向いたでしょう」
そこに打ち込まれていた文面は。
『このメールが届く頃には、すでに私はあなた達に霊核を差し出しているだろう』という、定型めいた文頭から始まっていた。
『もしもこのメールを受信した時点で戦闘がまだ続いていたなら、私の死をもって陣営の壊滅とし、退いてもらえないだろうか』という懇請。
『子ども達の長は、【犯罪卿】の討滅によって元が取れると考えているはずだ』と、敵方の意図を推測したことによる、戦果の保証。
そして。
「『もし私の首級があなた達主従のものになった暁には、引き受けてくれ』と依頼したのか」
「はい。他の主従から、『アイドル達の人格について問われる機会があれば、あなたの知っているままを答えてほしい』と」
『海賊達を裏切ったり、偽証をする余地はどこにもない。
あなたは、あなたの知る彼女たちがいかに慈しい心の持ち主で、
立場さえ確認できていない未知の主従に犠牲を強いるような者達ではないことを。
その時が来たら、ただありのまま証言してくれたらいい』
「取引の体をなしていないのですけどね。私の首一つに、『撤退してくれ』と『風聞を広めてくれ』という、二つの依頼を乗せている」
「そういうことなら、そもそも取引ですら無いだろう。君に頼まれなくたって、あの男性が、彼女らを悪しざまに言うはずがないのだから」
「それでも、『私の脱落は、私が申し出たことでもある』という形は必要なんです」
彼の心が、少しでも『これでよりいっそう引き返せなくなった』と抱え込んでしまわないように。
『犯罪卿を倒したことは、彼自身の望みでもあり、気にすることはない』ということにしなければ、いけなかった。
『事務所を乗っ取っていた侵入者が何を言うのだという不遜を承知で申し上げるなら。
彼女たちのことを悪く言われたら怒りを覚えるのは、あなたも同じだと思っているから、期待する』
『彼女たちの仲間を脱落させたのだから、よりいっそう戻れなくなった』とはなるべく思わないでほしい。
Hたちに『導きます』と契約したからには、プロデューサーへと繋がる道は少しでも残したいから。
ウィリアムもまた、利害さえ関係なければ、彼のような人には生きていてほしいから。
「それにどのみち、私の『賞金首』としての価値は、今が最高値でしょう。
この先、この界聖杯において『悪名』をとどろかせる羽目になるのは、まちがいなく……」
「『方舟を持っているサーヴァント』、になるだろうね」
「はい……重荷を背負うことになるのだから、少しでも楽をさせたいんですけど、残念ながらこれぐらいしか」
自分に変わるまとめ役としての期待はしていた。
だが、望んで重荷を背負わせたいわけでもなく、『彼』の面影を感じた人を苦しませたくもなかった。
そして彼らと行動をともにするであろう摩美々には、あなたを還しますという依頼を、最期まで守れなくなってしまった。
彼女が寂しいのを嫌がることは、ずっとそばにいて分かっていたのに。
「しかし、『彼女らは優しい人達です』と告げたところで、意味を持つだろうか。
リセット推奨主義者でないと触れ回ったところで、聖杯を狙う主従からすれば標的には変わりない。
『だからどうした。殺す』と返答される可能性の方が、よほど高いだろう」
「でも、どこかで言わなければならない。たとえ、効果のあるなしを一切抜きにしても。
この発言をしておく意味と意義はあるし、むしろ胸を張って界聖杯と戦うためには必要です」
なぜなら、彼女らが真に敵対するのは界聖杯なのだから。
悲しみの中でさえ、マスターとしての田中摩美々は、そう決めたのだから。
「彼らは命惜しさに今いる者達とだけ手を繋いで、それ以外の破滅を願うような差別主義者じゃない。
危害があるか決裂するかも、何も分かっていない相手を見捨てることはしないし、因縁を清算するまでは逃げたりしない。
そういうことさえ主張できなかったら、彼女らは胸を張れなくなってしまう」
善人かどうか悪人かどうかで命に区別をつけるような愚か者は、【犯罪卿】だけで充分。
それを公言することで己を呪わずに進めるなら、知った事かと笑う者がいたとしても、言うだけの価値は十分にある。
偶像(ヒーロー/アイドル)たちは、想いを届ける架け橋なのだから。
反論する機会がひとつも与えられないなんて、それこそ世界は閉塞していくだけだ。
「……君は、H君の方舟に賭け(ベット)をする、そう結論を出したと受け止めて構わないのかな?」
そもそも『脱出のための方舟にアテがある』という話は、君にとっても寝耳に水。
皮下院長からの暴露によって始めて知らされたことだったはずだ、と。
それなのに、急展開で知らされたそのようなプランにマスターの命を預けるのかと、理性(ホームズ)はそう問いかけている。
心(こたえ)は、決まっている。
「託してもいいと、思えるだけのものを見てしまったので」
世田谷で参戦した、ライダーの内側にいる【何者か】を、ウィリアムは知らない。
知るための前提知識が、圧倒的に不足している。
だが、其の場にいた
星奈ひかるはおよそ正確に察していた。
であれば、田中摩美々だって気付けないはずはない。
戦闘中はひかるよりもずっと距離を置いていたけれど。
摩美々の方がずっと長い間、『その何者かに似た者』と同じ時間を過ごし、過去夢によって追体験もしている。
【夢で見た“生前のアサシンさん”と、同じものです】
知識だけでなく、既視感によって理解した。
それを、決戦前にプロデューサーと、アサシンの相似性を伝えた時と同じように。
ウィリアムに対しても、似たような存在だと察する印象を伝えていたのだ。
それは、【悪の敵】だと。
『私達は誰も死んでない。あなたのおかげでみんな生きてる』とアーチャーに言われて。
優しい言葉と引き止める手に、たしかに動揺するだけの内省というものを持ちながら。
そういう慈しい人達が報われるようにと願うがために為に、人を殺す。
しかし、その脅威と危機への焦りとは別として。
【あの日お前が言った言葉を覚えている】
【お前が俺に見せてくれた世界を、覚えている】
【さらば蝋翼、我が半身。今こそ焔の総てを再び担おう】
すごいなぁ。うらやましいなぁ。
素直に、そう思った。
もちろん、その力に憧れたわけではない。
彼とライダーが、主張の相容れないままに比翼連理の関係だったらしいという、その事実に対して顔をほころばせた。
『悪の敵』なる者が、敵方の所業のみならず、ライダーの死によって激怒していたことは、降誕した際の言葉によって推察できた。
つまりその存在は、彼の体内に無理やり封じこめられていたわけではなく。彼と共存し、彼のために怒り、彼のために現界を控えていた者だったのだ。
正反対の主義主張を持っていた、『英雄(ヒーロー)』と『悪の敵』が、相容れないままに共存している。
英霊として型にはめられた後でも、同じ聖杯戦争で巡り合っている。
そんなものを見てしまったのなら。
この人達なら、信じられる。
らしくもなく、そう思うしかないじゃないか。
【悪の敵】さえ、かたわらにおいてくれるのなら。それは『僕のヒーロー』と同じなのだから。
「櫻木さんのアーチャーさんが言っていたことは、正しい。【悪の敵】では、もういけない」
「だが、彼女たちは君を求めていないわけではない」
それが分からないわけではないはずだ、と理性(ホームズ)が言う。
彼ら彼女らが、これまでの襲撃から、自分を庇おうとしてくれたことも覚えている。
摩美々のことを思えば、最低の手段だということも分かっている。
これから己は、『お前は絶対に最悪の病気(ビョーキ)にして殺す』という処刑宣告を、成就させに向かうのだから。
『犯罪卿の脱落』によって、プロデューサー主従と、アイドルたちと、いずれもの延命を図るためには。
『プロデューサーは仕事を最大限に成し遂げた』という物語が、ウソ偽りのない事実として必要になるのだから。
殺し屋と海賊の狙い通りに、『犯罪卿は追い詰められ、尖兵となった修羅に叩き潰されて救いのない最期を迎えた』という結末にしなければならない。
先刻、【悪の敵】と化したまま遠くに行こうとするライダーを、みんなが待ってるのだから行くなと制止した少女たちがいたことも。
そういう彼女たちの願いから冷たく目を背けて、孤独な決別に向かおうとしていることも、分かっている。
――それでも、『友達』にだけは生きて帰って欲しい。
そんな祈りが、勝手だということも、分かっている。
「あの場にいた皆さんは、引き留めてくれると分かっていた。だから、騙すような形で戦場に割り込むしかなかった」
「気配遮断でマスターを探すと偽ったまま接近し、敵サーヴァントの射線に飛び込んだ」
「驚かせてしまったのは、申し訳ないと思っています」
「目の前で君が討ち取られたら、ライダー君たちも動揺して、事故から余計な犠牲が出かねないのでは?」
「はい、だから私以外が死なないように、さらなるひと仕事が必要です」
「致命傷を受けた身で、何ができる?」
「即死はしないように、攻撃は誘導しました。襟の高い外套で露出をふせいで、心臓や首回りの攻撃を躊躇わせるなど」
それでも、そういった誘導がすべて外れる可能性はあったけれど。
一撃必殺を受けようとも、臨終の際にもわずかな意識は残してみせると。
そのあたりの執念だけは自信がある。
「たとえ一撃で仕留められても、第二宝具(わたしそのもの)を、自己破壊起動(ブロークン・ファンタズマ)にすることだけは仕損じない」
「それによって周りの者を撤退させ、停戦をはかろうというわけか」
「はい。壊れた幻想化は英霊として初体験ですが、その結果としてどうなるかは分かっている」
私が、『犯罪卿(わたし)』という宝具を破壊するのだから。
どのように壊れるのかを、ウィリアムは知識や体験ではなく、自己認識として知っている。
天井が崩れる。
探偵役の姿が消えていく。
永遠の一瞬とも言うべき、走馬灯は終わる。
あとは、界聖杯の炉に落ちるのを待つばかり。
魂だけは渡したくなかったんだけどなと、色彩ごとなくなったような虚ろな瞳で虚空を見上げ。
口元だけで、笑って告げた。
「さすがに私の魔力では生前ほど広範囲にはならないでしょうが――火事になります」
最終更新:2023年03月26日 19:48