アサシンとしてのウィリアム・ジェームズ・モリアーティに、『最後の事件』から先の記憶はない。
厳密には、『犯罪卿としての側面で召喚されるために、記憶に枷があるのだろう』と当人は思っている。

というのも【英霊は死亡時までの記憶を持ってはいるが、全盛期の姿で召喚される】という基本に鑑みれば。
自分の場合は、『シャーロック・ホームズに敗北して改心した後』の記憶を持っていることは、
どう足掻いても再び犯罪に手を染める邪魔にしかならないだろうからだ。
だから、若き姿のモリアーティが覚えているのは、【犯罪卿】としては死んだときまでのこと。
たった一人の友達に救われ、孤独だった世界に手が差し伸べられ。
世界のすべてに色がついた朝のことまでだ。

もちろん最後の事件当時の、疲弊しきった精神のままで英霊としての活動に支障が生じる、などという事態は起こらないよう。
死亡時からある程度の時間が経過したかのような達観はあり。
現在のことを『最後の事件直後に界聖杯に来た』ではなく、生前の昔のことだったと認識する時間感覚は担保されていたけれど。

果たして、本来は宿敵であるはずだった男とともに、その後の人生を生きる物語があったのか。
あるいはテムズ河の川底に沈むことを贖罪として、人生にエンドマークが打たれていたのか。
さすがに小説のホームズではそのあたりを知るすべがなく、ただ、『彼にまた会いたい』という願いはつのるばかりだったけれど。

それでも、犯罪卿の視点ではあり得ないこともあった。
世界には、彩りがついていた。
運命の夜明けに救われて、『お前には友と生きたいと願う人の心があり、それは俺も同じだ』と教わった時から。
たった一人の彼(探偵)にだけ色がついていて他のものが色あせていた孤独は、もう無かった。

世界の色は、心で視るものだった。
そんな人並みのことに気付いてから見渡した世界は、美しく愛おしかった。
十九世紀のロンドンよりもずっと笑顔が増えていて、人類はゆっくりではあれど前に進んでいた。
マスターたる田中摩美々にとって、界聖杯内界が最善の世界ではないことは分かっていたけれども、その上で。

黄色い星。
橙色の最高潮。
桃色の幸福論。
紅い迷光。
蒼い航海。
そして紫色をした鍵。
虹のうち一色が欠けていたことは残念だったけれど。
始めて世界に色彩を貰った人間が眼にするには、その個性達(カラーズ)はあまりに眩しすぎた。

そして、マスターがその事務所を離れたくないと望んだことは。
ウィリアムにとって『マスターの居場所と心を守るためには、事務所ごと守らねばならない』という理屈での大義名分になってしまった。
少しずつ目立たぬよう、攻撃されぬよう、彼女達が世間に触れる機会を減らしていく一方で。
仕事としての見守りはしても、直接に接触はしないように気を付ける一方で。
それを一か月も続けるうちに、少女の姿をした宝石たちは、慈しむべき希望になっていた。
戦争をしている限り、いずれそこにも破局(カタストロフ)が降りかかると予想していたにも関わらず。

そこにマスター『ガムテ』が、『奴は事務所を護ろうとしている』と気づいてからの察しは早かった。
直観もあったのだろう。
戦争の真っ最中だというのに、絶対に戦力にはならない、しないようなNPCを守ることに腐心するなら。
そいつは犯罪卿の一面とはまた別に、もう一側面ではきっと、やわくて脆いものを持っているはずだと。
ちょうど彼が犯罪卿と重ねた悪のカリスマが、プライベートでは全く違う顔を持っていたように。
それを『病気(ビョーキ)』にしてから殺すには。
その悪の華の尊厳を奪うには、蜘蛛の手足を捥ぐように、花弁を一枚一枚と毟り取るように。
守ろうとする偶像たちの、血と涙と悲鳴をもたらすのが特効だ、と。
果たして、そう望んだとおりに刺さった。
護るべき宝石たちが一斉に粉々にされて。
事前に調べていた殺し屋たちの『やり口』についての情報もそこに交えれば。
彼女達がおよそ考えられる、もっとも残酷な仕打ちを受けたと理解したことは。
彼の魂を深く傷つけ、絶望という病に至らしめるものだった。
心を砕かれ。
体を自責と後悔の鎖で縛られ。
身柄は無数の鏡という檻に囚われ。
瞳の緋色を末期のように虚ろに濁らせて。
あとは、引きずり出され愚かな抵抗者として磔刑にされるのを待つばかり。
本来であれば、そこに処刑人と化した狛犬たちが強襲して、それを担っているはずだった。

その、『慕っていたプロデューサーを尖兵としてぶつけられる』という状況作りは。
アイドル達にとっては残酷なようでいて、その内実としては手ぬるいとも言える演出だ。
ガムテの眼から見てもプロデューサーはいずれ寝返ることが自明であり。
『サーヴァントだけを殺害してアイドルには手を出させない』という旗幟を鮮明にしていた。
そして『プロデューサーはアイドルを傷つけるつもりがない』ことは、襲撃を体感すればすぐに分かるのだから。

だが、【犯罪卿は絶望させて殺す】という予告を成就させるためには、もっとも目的に適ったピースだった。
アイドルを護ろうとする【本来の283プロにいるはずだった】プロデューサーが、【アイドルの安全を確保するために】犯罪卿を殺しにかかってくることは。
283プロダクションを守ろうとしていた者にとって。
『アイドル達を死に至らしめようとしているのはお前だ』という皮肉であり、ただでさえ心砕かれていた標的を根本的に否定する凶器と化す。
それは、彼が聖杯戦争さえなければ、最悪の大人にして最強の父親にもたらしていた【破壊】と、同じ趣向だった。
お前が大切に愛でているものこそが、お前がその手で殺そうとしている者なのだと。
その皮肉にお前だけが気付いていなかったのだと暴露するための、陥穽だった。

だが。
はぐれた偶像の生き残りとなった双つの星は、寄り添ってくれた。
すぐそばで全てを見ていた紫の蝶が、迎えにきてくれた。

誰もあなたに追い詰められたなんて、思ってない。
誰もあなたに傷ついてほしいなんて、もっと思ってない。
みんな、ありがとうと思っているから。

星々の少女たちは、重荷をともに背負うと、守ることを受け持った。
紫色をはばたかせる蝶は、あなたを傷つけないでと、押し潰されないようにウィリアムを支えた。

月も星も見えない夜だったけれど。それはたしかに光だった。
砕かれた心を、拾い集めて。
それは自縄自縛だと、鎖を解いて。
争わせようとする思惑に乗ることはないと、囚われた枷を外して。

守らなければと思っていた少女たちは。
見守っていたつもりの彼女たちは、己などよりよほど答えを持っていた。
立ち塞ぐ残酷が口を開けても、あなたと一緒なら呑まれてみせるという強い意志があり。
だからプロデューサーに思いを届けることも、諦めていなかった。

そこにたった一人との出会いのような予定調和(うんめい)はなくとも、揃いの気持ちは確かにあった。
プロデューサーにも、貴方にも。
どちらも『役立たず』などと、私たちは誰も思っていないよ、と。

それに対して、胸に抱いたのは納得だった。
やはり私は、星だとか偶像(ヒーロー)だとかになるより、影のままでいい。影がいい。
影に隠れているだけだと思ったことはないけれど。
輝くものの背中を押せたことは、生前の行いでも数少ない『悪くない』時間だったのだから。
その時間だけは、もう一人の教授には無い、僕にだけある特権だから。
ずっとずっと、星を観ていた。落ちてきた星を、抱きしめた。

私はきっと、「託す」側なのだろう。
共に生きるか生きられないかとはまた別に。
闇に光を照らす主人公たちを、ずっと愛していたいから。

だから。
やろうとすることに、行動としての躊躇いは無い。
でも、是非としての迷いと、罪悪感と、哀しみがあった。

その答えをくれた優しい少女が眼を覚ました時に。
友人ウィリアムは何の断りもなしに彼女の元を去り。
誰かの犠牲を引き受けるように、自ら炎の中に消えていることになるのだから。

彼女たちのことを裏切らなければ詰むというなら。
それこそ今、プロデューサーが止められていることと、まったく違わないというのに。

ほんとうに。
ほんとうに、いつも大罪を犯すことでしか解決できない、犯罪卿(わたし)が嫌になる。

けれど、だからこそ。
優しい狛犬たちまで、これ以上の重荷を背負って、悪魔と同じ境地にまで堕ちてしまわないように。
せめて、この場で自分以外を死なせないという、最後の仕事だけは。
どうか、最後まで私が完遂できるように在ってください。


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致命傷の一打が穿たれたのと、ほぼ同時。

羅針による雪の結晶が描かれた足場を、飲み込むがごとく。
顔から血の華を大きく咲かせたアサシンと、猗窩座を中心として大きな輪を描くように。
駆け寄る剣士たち二人にさえ、襲いかかるかの如く。
炎の海が、双方ともを飲み込んだ。



「自爆宝具か……っ!!」



察知すると同時、猗窩座が抉り取った男の血肉も、チリチリと魔力を帯びた火花に焦がされる。

おそらく宝具の使用者を爆ぜさせるのではなく、使用者ごと炎の中に閉じ込めて葬るような爆散が起こるのだろう。
あたかも可燃液体まみれの屋敷の中で火を点けられ、徐々に炎に包囲されるがごとく。
あるいは激闘によって飛散していた魔力の残滓をぱっと点火するかのような、燃性を持つがごとくだったのか。
人形兵士たちや黒き太陽が残していった瘴気によって密度に濃淡を生じさせながらも。

炎熱の塊が、一帯をぐるりと。
地に伏そうとする犯罪卿と、剣士たちを迎え撃とうとしていた修羅とを取り巻いていた。

固有結界ではない。
炎の流出はあれど、現実のルールが変わったわけではない。
だがその亜種ではあるのか、心象風景が滲んでいることは紛れもない。
犯罪卿(ロード・オブ・クライム)としての終わりの光景。墜落した先の、奈落の底。
恨みはなくとも、死んでください。全ての終わりに、私も死ぬので。
第二宝具の壊れた幻想化であるという性質が色濃いそれは、悪性存在に対して凶暴さを増した魔炎であり。
それこそ、悪鬼殺しのヒノカミ神楽のように鬼には刺さりやすい熱を帯びた。
しかし、現象としては、ただの『神秘を帯びた大火』に留まるものでもある。

(回避に徹すればいいだけだ)

両足をばねとして高く高く上空に跳ぶことを、猗窩座は苦も無く選ぶところだった。
刹那の火焔に驚いているのは剣士たちとて同じであり、混沌の隙をついて灰髪の剣士に一撃を狙えるやもしれぬと。

だが。
首元に。
音もなく異物感が滑り込んだ。
何、と一言で不可解が漏れる。

「行かせ、ない………!!」

絞り出す喘鳴。
信じがたい立ち姿。
左の眼球を失い、顔を血肉で汚したアサシンのサーヴァントが。
右の緋の眼を鬼よりも鬼らしい眼光で燃やしながら。
顔を大きく抉られ、悪殺しの火の粉に外套を焼かれ、自壊によって崩れ始めている霊基を抱えたまま。
左手の仕込み杖を地面に突き刺し、支えとしながら。
仕込み杖を持たぬ右手で、猗窩座の頸筋を掴んで、動きを留めようとしていた。

いや、有り得ないだろう。
眼球を潰した感触は、確かにあり。
とすると今まで弱卒サーヴァントでしかなかった何者かは、左眼球を破壊されながら一切ひるまずに立て直した事になる。
握力そのものは、大した力ではない。
掴まれ動きを止められているよいうより、縋りつかれているといったような有様だ。

「どういう、絡繰りだ……」

だから猗窩座の動きが止まったのは、力不足ではなく、驚きだった。
先刻、限界の無い闘志と輝きで猗窩座と互角以上に戦ったキュアスターでさえ。
左目を抉られた時は激痛にさいなまれた悲鳴をあげ、隙を生じた。
あの煉獄杏寿郎とて、左顔面を瞳ごと切り裂かれた時は、たたらを踏み、呻き声をあげた。
激痛を意志力で感じないようにできるなら、目の前の犯罪卿も、美貌が見る影をなくすほど顔を歪めてはいない。

「生前………左眼を失ったところまでは……覚えているので」

何を言っている。
失くしたことがあるから耐えられるなどという理屈が、まかり通るわけがないだろう。

「お前。今まさに死につつあるんだろう」

そう、指摘された通りだった。
頭部に致命的外傷。それに加え、第二宝具の意図的自己破壊による、魔力の周囲大量放出。霊基の維持不可。

(足りない……このぐらい、全く足りない……)

それでも、猗窩座を相手にして本当なら苛まれていた絶望には、まったく足りない。
摩美々たちが寄り添わなければ、ここで受け止めていたのは『全てお前が招いた災いなのだから死んで償え』という呪詛。
だがこの場にいた誰もが、誰かのせいでなく、大切な人達のために動いたものだと割り切った。
であれば、『たかが片目および頭蓋の損傷と生きながら焼き殺される激痛』のせいで、無駄な犠牲者を出しました、なんてことだけにはしない為に。
それも、ただプロデューサーが撤退を指示するわずかな時間を稼ぐためだけに、失敗はできない。

それに、一度体験した痛みだから耐えられるのとは、少し違う。
なぜなら一度目の時は、失明するのも石壁のような水面に叩きつけられるのも、痛みも懼れもしなかったからだ。
独りではなかったという、ただそれだけで。

(痛覚で私を止めたいなら、『あの時』以上を持って来い……!!)

たちまちに目減りしていく魔力と、少しでも均衡が崩れたら地に倒れる脚で、少しでも不敵に笑おうとする。

アーチャーの銃弾は飛んでこない。
立ち昇る炎に射線を切られているから、狙うことが敵わない。
炎の揺らめく向こうに眼を凝らせば、セイバーは切り込みにわずか躊躇っていた。
有害物質で爛れたような火傷の跡があったところを見ると、『魔力を伴った火傷』を重ねて負傷するのは厳しいのかもしれない。
……それ以前に、こちらの意図がまるきり不明で、割って入るべきか分からないという当然の疑問があるのだろうけど。
ライダーは、動揺していたように見えた。
理由は何となく察せる。おそらく、【悪の敵】なる者がはじめに発現した凶暴な炎に、幾らか性質の似たところがあったのだろう。
おそらく、彼と己の属性(アライメント)はいささか近いような気がしているから。

こうして四騎のサーヴァントがいずれも別の理由で動きをとめた数秒の間に、判断は降りた。
拳鬼がこちらの腕を強くふり払い、逃げの跳躍に徹する。
時間稼ぎとばかりに胸倉をつかまれ、炎の輪の外へと放物線を描くように投げつけられた。
逃げるための時間稼ぎだけでなく、あるいは炎の中で誰にも看取られず逝くことが無いようにという彼なりの親切かもしれない。

永遠のような一瞬。
滞空している間に走馬灯が流れ、放物線がガクンと落下に切り替わった時にそれも覚める。
炎の囲みを抜けて落ち始めるや、あたたかな両腕にどさりと身体が委ねられた。
ぱちぱちと暖炉にあたる時のような音が聞こえてきて、ライダーが銀炎をともなった腕で抱え込んだのだと分かる。

そうだ、もしマスターに繋がるなら、念話を。
せめて最期に、謝罪と、別れを言わないと。
そうでなければ、生前と同じように、家族に何も言えないままになってしまう。
そう思おうとしたけれど、力の全てを使い果たした身体と思惟は、もう少しも言うことを聞かなかった。
マスターの意識があるかを確かめようにも瞼は重たい。
せめて手を伸ばしたくても、持ちあげるだけの力さえない。

(マスター…………摩美々、さん)

自分から手を離したのに、今さら、最期に掴んでいたいと思うなんて。

(…………ごめん、なさい)

最後の事件の時でさえ流れなかった涙が、閉ざされた右眼から一筋、落ちた。


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緋色の糸は風になびいて虚空へ飛んでいきそうな、そんな風当たり。
待ち合わせは、午前五時。
物語が終わろうとするのは、その少し後。

この過去夢なら、知っている。
けど、同じ夢を何度も何度も見たことは無かったので、あれと違和感を持って。

檀上に上がってきた探偵を見て、心臓の拍動が、大きく跳ねる。
その人も、もう知っている。
今この瞬間も、背景の夜空でさえ色あせているのに、なんと鮮やかに写ることか。
その顔が、とても辛そうでも、怒ってるようでも、切なそうでも、とにかくたくさんの必死な想いがこもっていたから。
過去夢にいる当人をすっ飛ばし、こちらを睨まれた気がして。
お前何やってんださっさと起きろと、どやされたように覚醒した。

意識が現実のそれに変わるのと同時に。
一か月前。初めてマスターという呼称で呼ばれた日から、密かにずっとあった。
皮膚の下でかすかにめぐっていた魔術回路の拍動が、とても弱く、儚いものになっていて、ぞわりとして。



――田中摩美々は、はっと飛び起きた。


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アサシンが、セイバーたちに何も断りをいれずにに奇襲で先んじてサーヴァントの始末に走り。
目算が甘すぎて失敗し、自爆で道連れにしようとしている。
外観だけで言えばそのように見える光景だった。
しかし、自分やセイバーに対して『来るな』と制するかのごとくに火柱が立ち上がったのを見て、アシュレイは別の事実を受け取った。

眼前で、何がやらかされたのかは分からない。
しかし、確信を持ったのは『自分が庇われた』ということ。

まず、また説明不要で何かをやらかされたという焦りはあるが、悪意については疑わなくていい。
あいにくと、こちらも『お前を救うと言われながら、致命傷を幾度も負わされるほどの殺意を向けられる』だったり。
あるいは、『どうか意中の人と幸せになれと言われながら残り寿命数日の身体で放り出される』だったり。
かつて経験したそれらに比べれば、それまでの言行と、今の行動とにそこまで落差はない。

それを前提に、さてこいつはどういう奴で、自分達はどういう関係で、何をされているのかと事実確認に走る。
雇用者(アサシン)と、使われる駒(アシュレイ・ホライゾン)。
いや、そうではない。
言葉の上での関係と、内実は違っていたことに、もうアシュレイは気付いている。


――お前は同じ役者としての俺に、何を求める?――
――私は貴方を、あくまで駒として考える。この大前提が揺らぐことはありません――
――それは残念だ。少しは考えも変わってくれてるものだと思ったんだけどな――
――少なくとも……"場合によっては"これまでの状況や立場を白紙にして殺し合う可能性のある相手に与えられる席ではない――

あの遣り取りは、策謀家としては全く論理的じゃない。
古手梨花のセイバーが、『七草はづきと行動をともにしていた』事実によって、それを確信した。
べつにセイバーが『七草はづきのことを恩に着せて助力を乞うつもりだったのではないか』とか、今さらそういう話をするつもりはない。
セイバーが現れなければとっくに全滅していた働きがある以上、そういうものは霞んでいる。

問題は、最初に接触してからこれまでずっと、『Wが一度も同じことを匂わせなかった』ことだ。
せいぜい昼間の事務所から七草はづきを避難させたことを、こちらの指摘によって不承不承に認めた程度。
283プロを守ったことによる結果的な恩恵とはいえ、予選での一か月にもわたり、Wは間接的に七草家の社会的生活(ロール)を維持していたことになる。
『駒』として繋ぐと公言する程度に突き放しているのに、それを話題に出すだけで限りなく見捨てにくくなるカードを、ずっと出さなかった。

もし『そのカードを出せば脅迫めいてしまう』と控えていたのなら、それこそ『場合によっては殺し合う可能性がある相手だ』などと話さなければいい。
電話でやりとりをしていた時点では七草はづきが遭難していなかった以上、『殺し合うかもしれない可能性もある』と匂わされては。
『NPCとはいえ家族の安否を握られているこちらが不利だ』という発想にもなってしまうのだから。
まして、その当時に『プロデューサーが聖杯を狙っていることに困っていた』というなら。
それこそ『唯一プロデューサーが執着している七草にちか』を囲い込むことは、Wの指針として必須になっていたはずだ。
言葉を濁してでも『どうか仲良くしましょう』と言うべきだったし、七草はづきがいた以上、そう言われては逃げにくかった。
少なくとも観客・七草にちかは、『仮にもお前のために戦っている人がいるのに、お前は何もしないのか』とかなり直球でアイドル・七草にちかに行動を促さざるをえないほどだった。

つまりWにとって、『七草はづきを守っていた』という事実は、カードでさえない。
そんな発想は全くない『当たり前のこと』だった。
それを確信に至ったから、アシュレイのなかで、人物像(プロファイル)がすとんと腑に落ちた。

――要するにただの、『お人好しの人間不信』だ。

他人のために尽力したり与えたりすることを、当たり前のことだと思っているのに。
他人が自分のために打算ぬきで尽力してくれることを、まったく期待しないし、期待が外れることを卑屈なまでに怖れてかかる。
七草にちかという同一人物が複数いる事実がマスターにとって良くない揺さぶりになるかもしれないならと、世田谷区のアパート周囲一帯に爆薬を仕掛ける一方で。
その七草にちかから依頼された『もう一人の私に会いたい』という要望については忙しい中でもかなり優先順位の上において至れり尽くせりのセッティングをして。
プロデューサーのことを『不穏分子過ぎる』と言い切り、有事の際には処分することも選択肢に入れていたことは間違いない一方で。
おそらく人間としてプロデューサーのことを高く評価し、マスター達の救いたい意志に便乗したことも間違ってない。
人を殺したいわけでも、殺さなければ生きられないわけでもないのに。
どころか、本当は誰のことも殺したくないと思っていようと。
己のことを塵屑だの悪魔だのと評価しながら、皆の笑顔(シロ)のためだと醜悪(クロ)になる。

だとすれば、とうてい言葉ほどには『駒』として扱っていなかったアシュレイが斬りかかろうとする場に割り込み。
彼らの攻防を中断させたのは、『そのまま続けさせることが危なかったから』という理由なのではないか。
Wが田中摩美々のもとに残していた計画書(かきおき)を読まないままに、そう決めてかかった。

だとすれば、こちらも炎を突破して助けに入らないわけにはいかないだろう。
少なくともアッシュの親友なら、間違いなくその関係を『対等(タメ)』でいいじゃないかと言う。

――ヘリオス、中和できるか?――
――先刻は加減を誤ったが、問題ない。むしろ己の出力を絞るのと近い――

一歩を踏み出そうとして感じられたのは、初めて天駆翔(ハイペリオン)の反動を受けた時と同様の、炎をじかに浴びてしまった痛みだった。
元来の天駆翔には、アシュレイの感情爆発、精神力、覚醒等の出力上昇に引っ張られて煌翼の側も出力を上げてしまうという特性があった。
それが似たような属性に当てられて、覚えたばかりの手加減が狂いかけたけれど、掴んでしまえばむしろ紅焔の炉心化に近い感覚でできる、ということらしい。

それを理解した上で火の海に入ろうとしたが、先に相手側から目当ての人間を、投げつけられた。
慌てて空中でどうにか抱えると、血塗れで表層を炭化させた身体は、おそろしく軽い。

「無茶どころじゃないだろ……」

体調によって体重が前後しないサーヴァントの身でそうであるなら、それは体を形作るエーテル体が崩れかけ、ということでもあった。
霊核に到達しているだろう外傷と、己を燃料にして燃やすような足止めの行使。
そして後者は、攻撃でもなんでもない、おそらく味方を巻き込まない為だけにやったこと。

「ライダー君、これって……」
「とりあえずセイバーは延焼にマスター達が巻き込まれないようにアーチャーと避難を頼む。俺は今からでも外傷をどうにかできないか――」

火の手がない芝の上にアサシンを寝かせながら、避難指示を出していた時だった。
マスター達がいたはずのところから、悲鳴が、あがった。
紫色の髪が、熱風に流れる。
先刻まで付けていた髪留めも壊れてしまったのか、その髪をまっすぐ背中に垂らした少女が。
アサシンのマスターをしていた田中摩美々が。
それまで、余裕があるときもない時も、ゆるゆるとした喋り方を崩さなかった彼女が。
家族が事故で轢かれでもしたように蒼白になっていた。
取り乱した声で真名らしき名前を呼び、足をもつれさせながら近寄ってくる。

「……リアム、さんっ。……ウィリアムさん!」

未だに火災に当てられた熱がある身体を躊躇なく揺さぶろうとしたものだから、アシュレイは慌ててその手を掴んだ。
アルテミスの効力下に彼女の手を包み、重ねるようにして触れさせる。

「こんな……なんでっ……」

目覚めたらアサシンが死にかかっていた、という以上に、絶句するしかない姿。
容貌を台無しにする顔の損壊と、炭化して剥がれた外套の下から顕わになる焦げ付いた身体の痛々しさを抜きにしても、一見してわかる致命傷。
無事である方の眼には涙一筋の跡があり、彼にしても不本意だったのではないかと察せられるのがかえって残酷だった。

「どうして……」

その涙の跡を銀色に染まった少女の手が、なぞるように撫でる。
顔をうつむかせ、彼女もまた涙によって発声がくずれた声で、呼びかける。

「どうしていつも、頑張っちゃうんですかぁ……」

状況はいっさい分かっていないだろうに。
『頑張った』結果だと断定することに、二人の間にある関係を察した。
アシュレイは己から炎の鎧をすべて剥がし、貯蔵魔力の火の粉すべてをアサシンの修復に包んだ。
紅焔之型による炭化さえたちまちに快癒させる癒しの炎で、どうにか原型と意識を取り戻そうと食い止めにかかる。

「来て、くださいよ……あなたが…………あなたがいたら、こんな事やってないんだから……」

とっさに口にした呼びかけは。
『行かないで』ではなく『来い』だった。
相方の絶命しかかった窮地に、なにか直観するところでもあったのか。
ここにいる存在ではなく、ここに必要な存在に対して彼女の訴えは向いていた。



「助けて、ください……ホームズさん……」



腕が、ファンデーションに隠された下から令呪の位置を示すように輝く。
アサシンの真名ではない何者かの存在を、名指しして向けられたはずの祈りは。
しかし、まぎれもなく【その人間に通用する命令】として令呪一画と化した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


魂を内界に繋がった炉心のどこかへ堕としながらの、自己消失。
秒刻みで粒子化するように薄れていく己の世界は、しかし唐突に切り替わった。

何もなく孤独だった漆黒の闇が、銀月の中空にやどる星空に、さっと塗り替わったのだ。
ただ底の無い奈落だった世界の果てが、凪いだ水面と、星の全てを観測できる絶景の箱庭へと変ずる。
墜落がふわりと上下移動のない体感に変わり、受け止められるように全てが見える。

そして熱源など無いのに、身体がとてもあたたかい。
あまりに優しくて、英雄も罪人も善も悪も例外なく感じ入るだろうほどに。
その力の源にだけは、身体を抱えられたことだけは覚えているので心当たりがあり。
そうか、先の戦いで、彼とともに戦った星のアーチャーは、こんな加護を受けていたのかとその揺ぎ無さに納得をする。
ならば、果たしてこの世界はどれほど持つのだろうかと。
現実において、その彼が何らかの奮闘をしてくれていることを察し、申し訳なさとありがたみを抱いた時だった。



――助けて、ください……ホームズさん……



はっきり令呪だと自覚できる声が世界に響き渡り、いよいよ彼の主観は激変した。

(――どうして…………?)

2人目の友人が、1人目の友人の名前を呼んだ。それはいい。
己の真名を知る彼女なのだから、その最愛の友人の名前だって知っている。



記憶の蓋が、抉じ開けられた。


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最終更新:2022年05月30日 20:23