そこは、舞台の下の奈落の底のようでもあり。
あるいは、冥府と呼ばれる銀河の何もない最果てのようでもあり。
鬼に食われた者、鬼に殺された者が、今際のきわに落ちる彼岸と此岸の境界のようでもあり。
いるのは、己一人きりだった。
つい先刻まで、修羅や獣や兵士達が跋扈し、少女たちが励まし合う激戦地の只中だったというのに。
ここが誰とも繋がっていない場所だと、分かってしまう。
誰も手を掴んでくれることはない、真っ暗闇に来たことが分かってしまう。
張りのあるバリトンボイスに、振り返る。
己と同じほどの体格の人影が放つ、わずかな煌き。
太陽も星もない世界で微かに光沢を見せるもの。
それは人影をふちどるように並ぶ、虫眼鏡の影だった。
なるほどと理解し、一礼の仕草を取る。
「初めまして、『もう一人の』ミスター・シャーロック・ホームズ」
「私は君とは会った事がないはずだがね」
「コナン・ドイル先生が作り上げた『シャーロック・ホームズ』氏に鑑みれば、人柄のほどは分かります。
僕は『彼』の友人ですが、ドイル先生とあなたのファンでもありますから」
「『分かります』……というからには、私が実際の当人でないことは、既に理解しているのだね」
「私は……最期の話し相手として、あの『M』を仮想人格(イマジナリー・フレンド)に据えるほど、心が強くない。
そして、最期だけでも『あなたではない方の彼』を相手に話ができるほど、都合のいい夢は見られない」
「夢だと、理解しているのかね」
「夢であるも何も」
此処に堕ちるきっかけは、何だっただろうか?
たった一日で、追う側から追われる側に回り。
追い詰められた強敵、現実ならば数多くあったけれど。
敢えて、ここに至る分岐点を挙げるならば。
セイバー・
宮本武蔵の到着が間に合ったこと。
ランサー・
猗窩座が戦場に残っていたこと。
どちらにせよ、そこで決まった。
己で決めてしまった。
その戦いの死者は一人に決定づけられた、と。
「つまり走馬灯でしょう。此処は」
そう、死者は一人。
結末は決まっているから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
世田谷区の大地が炎に包まれ、空中を携行型の破壊兵器でも散らしたような花火以上の爆破が埋めた。
そこに無数に存在していた『一般人の生命』が全て死に絶えた。
爆炎と破砕をまとった謎の人影が二つ三つ宙を飛び、地獄を更地にして地盤の崩落が全てを飲み込んだ。
それらの報告を、その男はサーヴァントに庇われて舞い戻った鏡の世界でただ聞くしかなかった。
夕刻に新宿を飲み込んだ災厄でさえ朧げにしか伝わらなかった彼にとって、その光景は。
晴天の霹靂だったことは、語る余地もなく。
だが、起こったことの正体は別として、彼我の関係については明瞭だった。
世田谷区に少女たちとサーヴァントの巣窟があることを嗅ぎ付けた主従が、割れた子ども達の他にもあったということ。
そして集中放火を敢行した討ち手には、己のように『マスターだけは逃がしたい』という心算は持たないのだろうということ。
だからこそ。
崩落の被害が及んでいない地域に目算をつけて。
目標だったアパートから最も近い隣区へと通じる鏡を、ランサーと、チェスの兵士達に探らせ。
『万が一にもアイドルが連絡を取ろうとするかもしれない』と、ランサーに持たせていた密告用の携帯電話を密かに預かり。
杉並区の公園にそれらしい集団がいると一報を受けて。
集った少女たちの中に、『限りなく同じ少女がふたり』いたと報せがあった。
――そのことは予期せぬ驚きのようでもあり、予想されてしかるべき納得のようでもあったが。
その時は、不動の覚悟ばかりでなく、目論みもあった。
ここで犯罪卿を始めとして、サーヴァントだけを討ち倒した上で。
海賊女帝と殺しの王子様には『敵は壊滅させた』と戦果を告げる。
それが為せれば、アイドルの少女たちをもう傷つかないままに戦場から降ろすことは、可能であるかもしれないと。
であれば、覚悟と目論みに基づいて、放たれた令呪に則って。
戦えと、口火を切るのは即断だった。
彼のサーヴァントは轟音の狼煙とともに、願いに応えてくれた。
チェスの兵士たちは極力ランサーの援護に追従し、そば近くに残す護衛と監視は最小限にとどまった。
世田谷区に先行して突撃させたことで、かなりの人数が減ってしまったこともあった上に。
ランサー単騎で集団を相手にするのであれば、戦力を少しでも足しておくに越したことは無い。
闘気探知によれば取り立てて強者はいない集団とのことだった。
だが、それでも世田谷という街ひとつを巻き添えにした激闘から生き延びた実績がある。
常の状況であれば、ホーミーズにとっても『監視の目を薄くすることで寝返られる隙が大きくなる』とリスクのある判断だったが。
世田谷区の破壊者という不測の事態が、その判断を後押しした。
戦いの火ぶたが切られるより先んじて、ランサーの種族特性による、視覚の共有を行っていた。
危なくなった時に令呪を切らねばならない役目があるのは元より。
たとえアイドル達に対して修羅として振る舞うのがマスターではなくサーヴァントなのだとしても。
それは、己の罪から眼を背けていい理由になるはずがないから。
だから、その男は全員をその眼に焼きつけていた。
後方に控える美青年をランサーが『犯罪卿』だと特定したことで、君がそうなのかと異名に容姿が当てはまった。
守られる
櫻木真乃と
田中摩美々の姿を見とがめて、『アイドルのマスター』とは君達だったのかと、独り言ちた。
2人の七草にちかが言葉を交わし合っているのを見て、その姿を目にするのはいつぶりだろうかと言葉に詰まった。
そして少女の片方が、『アイドルをやると伝えてください』と言い出したときは、呼吸が止まった。
己の知っているにちかと同じ少女かどうかは、さておいても。
少なくとも君の方は、『283でアイドルを志していた』にちかだったのだと胸が熱くなり。
ランサーが容赦なくそれを拒絶した時には、にちかを傷つける言動そのものよりも。
そこで、己の代弁者たらんとする彼の思いが理解できてしまった。
それ対して反発を向けられるのが己でなくランサーであることが申し訳なく、にちかにそう言わせてしまう巡り合わせが歯がゆかった。
たしかにアイドルだった七草にちかならば、そう言うのかもしれない。
なぜなら君は、他人を犠牲にしてアイドルになれるような子ではないのだから。
プロデューサーだった男を止めようとすれば、聖杯に頼らずアイドルになると言うしかない。
いや、もしも本心からそう志すことができるようになったのだとしても。
もとより、昔から七草にちかへの対応で、正解を出せたと思えたことはなかった。
ならば、今となっては正しい結果が出るまで続けるしかない。
その先で彼女は何もなかったように、輝くステージに立ってほしい。
ランサーの視界を通して『プロデューサーさん』と呼びかけられた男は。
そこから幕を開ける戦いの全てを目にしていた。
一方でチェスの兵士たちが、三人の少女だけは葬ることが無いようにと、密かに願いながら。
リンボがアイドル達への攻撃にかかった時は、彼女達を死なせない望みが潰えたことに絶望しながら。
それでもランサーは横やりに伴う怒りまでもを脇に置き、一刻も早くアーチャーを倒してリンボの戦場に割って入ることを是としてくれた。
己の代わりに、少女のアーチャーから恨まれる役目を、引き受けようとしてくれた。
アーチャーがランサーを『やさしい人』と言ってくれたことに、「そうなんだよ」と心から頷いた。
確かに蓄積される疲労感に、魔力消費――ランサーがひたすらに奮戦している証――をたしかに感じ取りながら。
そうまで奮戦せねばならないほど、少女が櫻木真乃を想っていることを実感しながら。
ランサーが敗北することだけは避けねばならないと、令呪を切ることに踏み切った。
そして、少女をこれ以上苦しませぬようにという偽善で、令呪を残り一画にした。
重ねての命令がともなった、ランサーの全力が出し切られた後で。
リンボによって踏み荒らされた惨状を目の当たりにすることになった。
そこには、283の陣営に助太刀をする少女の剣士が1人と。
もはや助からないことが見て取れる、『七草にちかの1人』が血だまりに沈む姿。
聖杯で救うべき『ではない方の』七草にちか、だった。
ランサーに曰く、闘気の探知は生きている者にしかできない。
だが、眼前にある遺体の区別であれば、服装などから明瞭であった。
ランサーに対して声をかけ、『偶像(アイドル)になりたい七草にちか』だと説得しようとした少女は。
遺体の傍で膝をついてはいるが、無事であった。
そのことに対して、去来したのは。
(彼女の方で、良かった)
『アイドル』が誰も死んでいないことへの、安堵であり。
アイドルもそうでない人も、己のせいで地獄へ放り込んでいる現状に対して。
先ほど、一家揃っての惨殺遺体と対面した時に抱いたのと同じ罪の意識であり。
(でも、苦しまずに逝けたのなら良かった)
遺体の顔が安らかなものだったことを見ての、せめてもの幸いだった。
彼女よりも遥かにむごい苦しみを味わったアイドルたちがいる中で、一つの安楽な死を喜ぶのは偽善かもしれなかろうとも。
その男は七草にちかを殺そうとしていたけれど。
彼女もまた七草にちかの側面であり、一つの命だという事実までは否定するつもりがなかったから。
(最後まで、縁が切れてしまったな)
その追悼を抱く間にも、ランサーは主命を果たすための戦いを続けてくれていた。
だが、それは同時にマスターとして判断を迫られる時でもあった。
犯罪卿陣営に加勢した少女は、それまでと別格の強者である。
少なくともランサーはそう見立てた。
そしてリンボも撤退を選択したことから、それは二人のサーヴァントによるお墨付きという事になる。
リンボの言いようから判断しても、ランサーを退かせたところで戦果不足とはみなされないだろう。
その上で、真乃のアーチャーが痛ましいほど強く戦ったことで、主従ともに消耗させられた事実がある。
すでに一度の出撃で、二画の令呪が費やされている。
その、重ねがけの令呪の効力は未だに残存しているとはいえ。
そもそもこの戦いは、聖杯を獲るために最後の一騎となるまで残らねばならない前提だ。
これ以上の継戦を重ねるのは、傍目に見ても愚策なのだろう。
だが、退けない理由は存在していた。
(まだ犯罪卿が、場に残っている)
もともと、彼が殺し屋集団の尖兵となるにあたって、彼のことは絶対に消さなければならなかった。
子ども達の長から私怨を持たれているばかりではなく、アイドルたちの連合の盟主と見なされている存在。
彼がそばにいる限り、真乃、摩美々、にちか達が、危険に晒され続ける。
そして。
この場を退いた『その次』の戦いでは、今度こそ『サーヴァントだけを倒す』という企みを持つ余地さえないだろう。
リンボの加勢によって『アイドル』が誰も死ななかったことは、奇跡以外の何物でもなかった。
マスターならざる彼女たちが惨殺の限りを尽くされる中で、何も動けていなかった無力さを償うためにも。
彼女たちの戦いを終わらせるために己の裁量で動ける、最後の機会を逃さないためにも。
(犯罪卿は仕留めたい。そして、それが叶わないならせめて今戦っているサーヴァント――にちかのサーヴァントは、倒したい)
たとえ、強者であるという女剣士のそば近くにいる犯罪卿を倒すことは敵わなくとも。
これまでの戦いで、疲弊しきっている灰髪の剣士を倒すことができれば。
護りたい少女は、マスターたる資格を失うのだ。
当然、亡くなったにちかに付いていた方のサーヴァントと再契約を果たされるリスクはあるにせよ。
それまで傍近くにいたサーヴァントを失えば、七草にちかの戦意が失われる期待は大きい。
(ランサー)
(奥の手は、まだ残っている)
葛藤に応えるように、確信めいた重さのある念話が返ってきた。
それまでの戦いも、十分に全力であるように見受けられたが。
その上でなお残っている奥の手とは何なのか。
続くサーヴァントからの情報を受け取りながら、それを元に勝算を図りながら。
場を退こうとするリンボが、我らは海賊だと口上をあげる中に、己の二つ名も含まれるのを聴きながら。
戦場の少女たちに『プロデューサー』と呼びかけられる男は、判断の岐路に立つ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
嘲笑する獣が舞台から退場し、争いを臨むのは拳の鬼のみとなった戦場にて。
「何だかあの拳闘士さん、夕方に会った六つ目の鬼さんと似たような再生をしてるわね」
『感じ』も近いし同族なのかしらとつぶやく間に、戦況確認を終えて。
うら若き女の姿をした剣の鬼が、獣への行き場を失った刀を残敵に向けようとしていた。
彼女の脚で駆ければ数瞬で埋められる程度の距離をあけて。
火花と血潮がしぶきのように散る舞踏が、未だ続いている。
彼女の同盟者たる灰髪のライダーが、推し通らんとする赤髪の修羅を相手取っている。
それを助けんとする二振りの刀を制したのは、行く手を遮るように差し伸べられた黒外套の片腕だった。
「加勢はとてもありがたいのですが、あのサーヴァントを殺してはいけません」
腕の先には泥と返り血に濡れた金髪の紳士が、いたたまれない顔をしている。
それがリンボに追い詰められていたサーヴァント達の一騎、ライダーの同盟者だと武蔵は認識している。
「どうして? このままだとライダー君が危ないように見えるけど」
制止する身のこなしは戦い方を身に着けた風ではあるが、強者ならば伝わってくる佇まいの『圧』はない。
そのようなサーヴァントでも、眼前の殺し合いの有利不利が分からぬわけではあるまい、という疑問。
剣士にとって、戦闘が長引くことによる疲労と息切れはそのまま技量の衰えに直結する。
衰えはそのまま回避率を低下させ、隙を晒す時間を増やす。
そしてそれは、身体を上手く扱えていない者ほど顕著になる。
少なくとも、武人としてのライダーは未熟以前の問題、ただの戦闘不向きである。
本戦一日目に緒戦相手となった天眼の剣士は、そのことを熟知している。
攻防一体の銀炎を周囲に散らすことによって剣閃に推進力を与え、回避できない一撃を防御することで維持しているだけのようだ、と。
一方で、拳鬼の持つ気配探知の特性を武蔵は知らないまでも。
その拳が疲弊してなお急所狙いを過たないものであることは、一目瞭然。
疲弊しているのは双方同じであっても、時間を追うごとに不利になっていくのは
アシュレイ・ホライゾンの方だ。
一方で新免武蔵が助勢に加われば、場の趨勢が一気に傾くことは疑いない。
しかし、それはあくまで戦闘の勝敗についてのみの話だ。
「実はあのサーヴァントのマスターは我々の関係者で、リンボの属する陣営から監視のもとに戦闘を命じられています。
そして今サーヴァントが脱落した場合、そのマスターが敵陣のただ中で孤立することになります」
もっともマスター達の味方かと言われると、また状況は複雑になるのだが。
そのあたりを完全に初耳となる女剣士に一から話すのは酷であり、時間もかかる。
だが、セイバーは既視感を得たかのように大きく目を見開いた。
「驚いた――あなた達にも、マスターの人質がいるの?」
そこで外套の男――ウィリアムは思い出した。
田中摩美々と念話で、世田谷のアパートから仕入れた情報を共有した時のことを。
Hの同盟者とそのセイバーが、
幽谷霧子の身代わりになるようにして、皮下病院に向かったという。
皮下の名前で『283プロダクションは脱出派の巣窟である』という布告があったのはその少し後のことで。
セイバーはここに来る道中の話で、『七草はづきは置いてきた』とは言ったが、『マスターと共に置いてきた』とは言わなかった。
つまりセイバーは、七草はづきと合流する前から、
古手梨花と共にいなかった、ということで。
――と、ここまでの回顧を、まばたきする間にこなした上で。
「あなた達『にも』ということは……古手梨花さんは、皮下院長に拉致されているのですね」
「あら、もう伝わってたか……はい、弁解の余地もなく敗北し、1人逃げ延びた身の上です」
眉をさげて心底悔やんだ顔つき。
決して無警戒に情報を拡散するつもりはなく『向こうが上手だった』結果ではあるのだろうとうかがえる。
「最初は話し合う余地があるかのように応接され、実のところ敵が罠を張っていた。
それは貴女以上の強敵であり辛くも逃亡、古手さんは身柄と令呪とを抑えられている、といった所ですか。
貴女が自由にされているところを見るに、皮下一派からの扱いは『利用する前提での保留』なのかもしれませんね」
「へぇ、まるで見てきたみたいに。お兄さん、バリツを使う探偵さんみたいな事を言うのね?」
ひとまずこの場で、梨花も含めて裏切者扱いされなかったことには安堵するも。
まるで、一を聞いて十を知るかのような物分かりの良さには覚えがあるなぁ、と。
藤丸立花の同僚。オリュンポスにおける参謀役であり戦友だったカルデア経営顧問を何気なく引き合いに出したに過ぎなかったが。
年若いアサシンは、緋色の瞳を大きく瞠った。
「――今、何と?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
とにかくプロデューサーのサーヴァントを殺さないまま、ライダーを助けてほしいと。
メロウリンクもまじえたサーヴァント三人が、そういう了解に達している様子だったのは察した。
けれど、その直後に三人の一人、もとい『W』が駆け寄ってきたのは、びっくりした。
少女・七草にちかの遺体に寄り添う、アイドル・七草にちかの元に。
マスターとしての令呪なりプロデューサー関係なりの危機かと身構えること、一瞬。
しかし彼は、にちかを通過してすぐ後方の草むらに腰を落とした。
見ればリンボへの投擲に使われた仕込み杖が、転がったままになっている。
……いや、武器取りに来ただけか!
という内心のツッコミも冷めやらぬうちに、Wとその眼が合った。
申し訳なさそうな、少しだけの微笑。
なぜか、そこには『身構えさせてすいません』以外の感情があるように見えた。
すっきりした顔というか、綺麗さっぱり何かを終わらせた顔というか。
そういえば、世田谷のアパートで当のWと深刻な念話をした後の田中摩美々も、こんな顔だった。
チェス兵士に囲まれた中で話していた時も、場違いに笑うなぁと思っていたけど。
そう言えばライダーも一か月間、よく笑いかけてくれたなぁと思い出して。
気付いた。
あれもこれも、安心させようとする顔だ。
余裕の表れでもなんでもなくて、もしかしたら内心では曇り顔かもしれなくても。
プロデューサーも、よく『ははっ』と笑っていた。時には、だいぶ曖昧そうに。
そばにあった男(プロデューサー)のサーヴァントと、今もっともそばにいるサーヴァント(ライダー)が。
今まさに彼女のために殺し合っている状況を。
2人ともが遠くて、疾くて、彼女はその眼で追うことさえもできていない。
――知っているさ。少なくともお前よりは
私が知ろうとする前に、みんな隠して笑ってるじゃないですか、という反発と。
でも、死んだ彼女(わたし)はそうじゃなかった、と。
彼女は、他人(わたし)のことを分かろうとする勇気を持ってた、という気付きが胸のなかでぶつかった。
アサシンの方はと見れば、時間も惜しいだろうに近くで倒れている田中摩美々に近づき、その顔を一見してから立ち上がる。
外套の付属品だったらしいシルクハットを紫髪の下に敷いて。
きれいな髪が土で汚れないように、寝姿を整えていた。
まるで過保護な兄が弟妹にしてやるような丁重さで、それはなんだか別れでも惜しんでいるみたいだなぁ、と。
それだけの遣り取りとして、見ていた。
この時は。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大地に刻まれる、淡く儚い雪の結晶を形作った鬼血術の真上で。
拳を受け止める刃の灼熱が、拳闘士を防護する六花を溶かすがごとく。
剣(けん)と拳(けん)とが、火花を散らす。
攻勢を強いるのは、恒星を討ち取ったばかりの鬼の側だった。
撃ち抜く拳の連打は苛烈ながら、悲鳴のごとし。
滅殺の意志は天敵に向けるかのごとく、全身全霊。
アシュレイが語り掛ける、言葉の数々も拒絶したまま。
全ての言葉を、急所狙いの一撃によって応報する。
黙れ、お前はもう喋るな、殺すと、言葉よりも雄弁に返答にする。
「ずい、ぶんと……当たりが、きついなッ!」
一撃、一撃は未だに重く、そのたびに重心が崩されかける。
拳と刃の打ち合わせに、どうにか身体を追いつかせながら。
追いつけずに血を吐き、その内出血を即座に銀炎の貯蔵(ストック)で回復させるという全力稼働でしのぎながら。
湧き上がる思いは、『二人の』サーヴァントに向けた感嘆だった。
ああ、さっきアーチャーの女の子は、この拳が全力全盛の時に、全て受け止めきっていたのか。
どおりで轡を並べて悪魔と戦った時に、頼もしかったはずだ、と。
「アーチャーの子だって、俺よりずいぶんと粘ったんだ。
お前のマスターに話を繋いでくれたって、時間を使うのはさして変わらないんじゃないか?」
「口数を無駄にするよりはマシだ」
いざ己の身体を差し出せば、なるほどその『拳』をもって三騎士らしき座を冠するだけのことはある。
その拳圧だけで、銀炎の燃焼を揺らがせて威力を減衰させ。
本来は肉弾戦を行う者にとっての天敵であるはずの『炎の鎧』を、拳圧の弾丸によって怒涛の無敵貫通として抉る。
本来は距離をとって戦うときの技を転用した産物のようではあったが。
「でも、アンタが心まで冷たくないことは、もう分かってるよ」
これは、どちらが先に力尽きるかの食らい合いで、互いの技量をたたえ合う暖かい言葉が挟まる余地はどこにもなく。
にも関わらず。
限りなく純化された痛ましいほどの殺意。
そこに、世田谷での悪魔が滾らせていたようなエゴイズムはまるでなかった。
待っていた、よくぞ再び、殺してやろうという想いでさえも。
誰かの代わりに修羅になる役目を、男がひたすら誠実に代行していることは分かってしまって。
『昔のあなたが良かったのに、いったいどうしてそんな風になったんだ』と。
その時は、アシュレイの方こそが、止められようとする側だったけれど。
状況も相手もまったく違うのに、あの夜もたしかに、炎と氷との、代理戦争だったなぁと。
蝋翼と冷たい月との、再会の夜を想わせて。
一方で。
猗窩座が抱いていたのは不協和音だった。
(口数の無駄だと、言われる側ではなく言う側に回るとはな)
そう、あの夜は。
『炎の柱』との決闘に至った、あの夜は。
猗窩座こそが『君と話す理由はない』と言われる側だった。
戦いの途中にベラベラと敵に話しかけるのは、かつて己がしていたことだったな、と。
未だに己と話し合う余地があると思い違えているアシュレイ・ホライゾンにたしかな赫怒を覚えながらも。
存外、人間としての生前であれば、性格は似通っていたのかもしれないという雑念が芽生えて、消える。
話好きで、世話焼きで、女を泣かせてしまう己の不器用さが、イヤになったりするような。
「きっと、良い師匠がいたんだな」
仲間の元に行かせまいと接近戦を維持するように。
距離をとろうとする猗窩座へと、銀炎を推進剤にしてぶつかってきながら。
猗窩座の型を間近で見たアシュレイは、そのようにこぼした。
アシュレイと猗窩座がそばで対峙すれば、練度の差が見て取れるのは瞭然だ。
見本を示す達人がそば近くにあって、何年もその人を看取りながら鍛錬して、百年以上は独力で研鑽して。
始めに全ての型を教えた師がいなければ、ここまで確固たる一つの流派として完成するまい。
疲弊しきった末の防戦の中でもそんなことに思い馳せている男に、猗窩座は芯から呆れながらも。
「貴様も師にだけは恵まれたか」
「ああ、誇りだ」
一方で、猗窩座も見抜いていた。
昼間の決闘をした天眼の剣士がアッシュにつけた評価と、同様のものを。
この男は、武術の才能などからっきしだが、それに根気よく指導をして徹底的に型をつけた達人がいる。
そう、この男の戦い方はどこまでも真面目で、覚えこまされた型に忠実だ。
しかしだからこそ、すぐに『看取って慣れる』猗窩座との巧拙は大きくなる。
であれば、もう容易い。
炎立つ刀身を、素手で捕えた。
それは、型のある真剣白刃取りですらない。
ただ剣が食い込むことを厭わず素手で掴んだだけ。
「しまっ……」
気圧の刃だけにとどまらない、本物の貫き手による凶刃で、避けようもなく抉った。
自ら傷つくことを微塵も懼れない鋼の肉体に、炎の剣山鎧は打ち破られる。
鬼の腕力による速さ重さをそのままに、胴が裂かれた。
胴が両断されなかったのは、銀炎が男の足場で爆ぜて跳躍を速めていた結果だった。
「ごふっ……ぐ、ゥ」
銀炎さえ飲み込むほど、鮮血が華として身体と地を濡らす。
出血ぶりから回復が追いつかないことを見取り、しかし追撃は緩めない。
アダマンタイトの刀は日輪刀の多々良鉄よりも硬度が高く、すぐに折られてしまうということはない。
であればこのまま捕まえて、返す掌で今度こそ胴を貫いて潰そうと身を捻じらせる。
「煌赫、墜翔(ニュークリアスラスター)……」
紅色の焔は、月明の色に浄化を受けた後も、敵に対しては天駆翔(ハイペリオン)のままだ。
そして天駆翔(ハイペリオン)を燃やす時、その血液は引火性を帯びる。
紅焔の戦意による加熱はなくとも、貯蔵魔力による強化は働く。
「爆血(バースト)ッ――!」
穿たれた傷口が、着弾によって返り血を浴びた拳をも引火させて爆ぜた。
本来は加速推進装置(ブースター)として機能させる、戦闘中に流した血液を。
性質が銀炎(アルテミス)に転じたことで、己の傷口は焼かないまま。
反撃(カウンター)であり、かつ追撃から逃れる離脱手段として起爆させたのだ。
片手で腹部を抑えながら、なお膝をつかずに再対峙が構えられる。
焼け焦げた手足が即座に新しい皮膚に生まれ変わる光景を見て、『底なしか……』と独り言ちるのが聞き取れた。
その言葉に、『底なし』と評するならば気づいてはいない、と確信する。
――猗窩座の衰え知らずを、令呪の効力が未だに続いているためだと『誤認』している。
【猗窩座の体質そのものに変質の兆しがあり、回復速度が向上している】と、悟っていない。
主に伝えた『奥の手』こそが、それだった。
その兆しは、以前にも感じ取ったことがある。
既に頸は刎ねられていたのに、足は羅針を踏み鳴らし。
頭部がすでに消失しているのに、それまでを超える速度で再生が起こった。
それは、頸が弱点ではなくなろうとする境地だった。
完膚なきまでに敗北したというのに、まだ戦わなければと生き汚さに足掻いたときに、訪れたものだった。
サーヴァントとしての霊基は、変わろうと思って向上するものではない。
あくまで、生前の再現という縛りのもとにある。
であれば、それが何の契機もなしに起こるはずはないだろうにと、猗窩座は回顧をめぐらせて。
(……黙って見ていろと、言ったことか)
先刻の猗窩座は、七草にちかの訴えを一蹴した。
その少女が、己の主君にとってのただ一人、伴侶や家族とは異なるにせよ。
少女の訴え出たい言葉が、かつて猗窩座が聞き届けた『もう止めて』という言葉に当たるものだと察した上で。
別の生き物に変わろうとして、そうならなかった時。
猗窩座が脚を止めたのは、『もう止めて』という訴えを訊き入れたからだ。
強襲した懐古を受け入れ、最愛の人が手を掴んだ時に、その手を取り合ったからだ。
何より。
あの時は、潔く地獄に行きたいと思っていた。
あの時に逆の道を行かせようとしてきた■■■■■の姿は、なぜか思い出せなかったが。
今は■■■■■による呪縛の進行はなかった。
だが、それの代行となるように令呪二画分が『勝ち残ること』に費やされている。
その戦闘支援が、死ぬわけにいかないという往年の執念を後押し、体質の変化を促す踏み台(ブースト)となった――までは推測だ。
だが。
――恋雪(あなた)は、あのまま往生した人間・狛治と共にあってくれ。『ランサー・猗窩座』には、現界にしがみつく理由ができた。
まだ、負けられない。
新たに護るべきものがいるのだから、その男が座した猗(イヌ)に徹する道理はどこにもない。
「あんたは、自分のマスターが好きなんだな」
しみじみと、そう感想を漏らした敵の後方を見る。
そこにはリンボとの戦闘を終えた犯罪卿、兵隊、女剣士のサーヴァントが集い、女剣士を制止するような遣り取りを交わしていた。
(悠長なことだ)
ふつふつと、怒りが溜まる。
何も、仲間が危ういのに助太刀に入らない冷徹さに怒りを持ったわけではない。
この期に及んで、猗窩座とその主を、殺さないようにと言明しているらしきこと。
すなわち、『殺さなくとも話し合えば止まる』と認識しているらしきことに怒っている。
それは、彼の主君のことを侮っているに、他ならないから。
七草にちか達が止めようとしている男は、少なくとも彼女のことを理解していた。理解しようとしていた。
――あの子は誰かを犠牲にしてまで自分の幸せを願う事のできる子じゃない
そう言っていた。
だからあの子に聖杯を獲らせるのではなく、己が聖杯を獲ると。
承知の上で、戦っているのだ。
七草にちかが、己に向かって『止めてください』と言う事も。
彼女を理解し、彼女を裏切ると自覚し、それでもこれしかないと思い詰めている男に対して。
『七草にちかが説得すれば止まってくれるだろう』などと見込まれているのは、主君に対する侮辱である。
とはいえ、加勢があることは望ましくない。
剣士については闘気がはっきりと別格だった。
煉獄杏寿郎でさえこれほどはっきりと『至高の領域』を確信させることはなかった。
ややもすれば、常に重厚な威厳を放っていた上弦の壱よりも剣気は上回っているかもしれない。
だが、別格の女剣士とまともに殺し合うつもりはない。
猗窩座に対して殺さないまま制圧しようなどと、不覚を取っているのは標的の側だ。
そして猗窩座の主君は、もはや正々堂々と奇襲の類は行わないといった手段の選び方を、放棄している。
その三者に、動きがあった。
まず真っ先に殺したい獲物、犯罪卿が仕込み杖を拾い上げるや、その姿をかき消した。
同時に、闘気さえも霧散している。闘気とは霊体化をした程度で拭えるようなものではないとなれば。
(気配遮断か)
これまでの立ち回りや能力値の低さから行っても、クラスはアサシンだろうと見ていたし、そこに意外さはない。
だが、闘気探知さえ掻い潜るほどにすぐれた隠形能力であるとなれば。
それこそ己の保有する『反骨の相』に相当する桁の無効化能力、ということになる。
とはいえ、埋伏した上での奇襲など猗窩座にとっては脅威ではない。
たとえ先手を取られようとも、その先手が猗窩座を穿つよりも。
それより猗窩座の後手が、先手を追い越して頸を刎ねる方が圧倒的に早いからだ。
その上で、猗窩座の探知から外れようとする、ということであれば。
(『魔力の要石を狙うぞ』という威圧、か)
マスターは、サーヴァントのそば近くで控えた方が魔力供給が円滑に運ぶ。
まして、アーチャーとの戦闘が長くかかったこともあれば、マスターも付近に身を潜めているのではと勘繰られても致し方ない。
見つけ出して仕留めるか、失神でもさせて確保すればこちらの勝ちだとして、潜伏行動に移ったのか。
あるいはそれを匂わせ、『主の身に危険を及ぼしたくなければ撤退しろ』という脅しか。
だが、猗窩座の主もまた腹を据えていた。
気配遮断であろうという回答を念話に乗せると、即座に決断が返ってくる。
(大丈夫だ、こちらには護符がある以上、いざとなったら時間は稼げる。
たとえ護符が足りなくても、最後の令呪で君を呼べば、第一目標の犯罪卿は落とせる。なら、このままことを運ぼう)
気配遮断は、攻撃態勢を取ることでそのランクが大きく低下する。
リンボをアテにするのは業腹だが、護符から出した護衛もどきたちであれば、迎撃をする役目は果たすだろう。
残った二者はとなれば、アーチャーらしき兵隊は銃を担ぎ、射線ができしだい援護に回ろうという構え。
女剣士は、猗窩座と炎剣のにらみ合い、会話に移行する余地が途切れた頃合いを狙って戦場に割り入ろうと二刀を向けていた。
女剣士の眼光と佇まいに、本能が警告を鳴らす。
その視線は猗窩座の首筋へと吸われるように射定めている。
よもや既に似たような鬼と戦い、『こちらも頸を斬られるのはさすがに困る』とでも学習しているのか。
(――却って好都合だ)
猗窩座が利を取れるところは三つ。
ひとつは、『一度の戦いで令呪の全損をすることはないだろう』というきわめて常識的な判断。
いまひとつは、『頸以外を斬っても再生される』と相手方も覚えたであろうこと。
さいごのひとつは、鬼種のサーヴァントにはマスターとの視覚共有が伴っており、今のマスターは猗窩座の認識能力でもって戦場を見ていること。
つまり、常人ならば眼で追えない戦況であっても、猗窩座と息を合わせることが可能となっていること。
あるいは、『プロデューサーが出て来ざるを得ない状況を作る』という前提条件そのものが、彼らの枷だ。
猗窩座とその主君を奪還することが勝利条件なのであれば、彼らの敗北は決定している。
なぜなら。
猗窩座が役目を代行している主は…………『サーヴァントは生きた人間では無い』と割り切れるような性格をしていない。
でなければ、なぜ猗窩座に対して、君にだけは不誠実な真似ができないと首を落とされることさえ受け入れようか。
そんな男が、敬意を表すべき戦士だったアーチャーを、卑怯な横やりを受容までしながら打倒した。
『あなたのマスターを引っ張り出す』という訴えつづけた、少女の屍を乗り越えている。
そして、それは猗窩座にとっても同様だった。
『サーヴァントを一騎でも落とせば、その分マスターたる少女たちは安全になる』と、蝋翼と狛犬は賭けざるをえないから。
この手で失わせた者の声に応じることができないなら、せめて犠牲には意味がなければならないから。
だから。
「このまま聖杯を狙い続けたとしても、あんたのマスターはきっと死んでしまう! あんたは、それでもいいのか!?」
だから。
そのような、猗窩座も思わなかったはずがない問答を叫ばれて。
ならば現実を教えてやろうと言葉を紡いだのが、先陣だった。
「あの男は貴様らに猶予を与える約束の代償として、すでに寿命の九割がたの魂を盟主(サーヴァント)に差し出した。
ならば残りの時間は、願いを叶えることに費やすのがせめてもの救いだろう」
灰髪の剣士が、言葉を詰まらせる。
悲しみとも怒りとも受け取れるような表情へと変わる。
それこそ、拮抗が崩れる潮目だった。
すっかり踏み荒らされた叢の地に、羅針の文様を描く。
灰の剣士が我に返り、猗窩座の先手に後れを取るまいと地を蹴る。
決裂を察した女剣士が控えていた地点から脱し、戦場の主力にならんと迫る。
銃の弓兵が猟銃を構え、射線を確保しようとする。
羅針の文様でそれらの立ち位置が網にかかった。
猗窩座にとって致命傷を与えないままに勝利するともなれば。
彼らが狙っているのは刀による頸の寸留めからの、狙撃と銀炎による包囲網の形成、といったところ。
反撃できない状況を作り上げ、『あなたも撤退のために最後の令呪を切るのはもったいないだろうし、マスターに連絡してくれないか』と訴える。
(ならば、先に【こちらから頸を落とされ】る)
銀炎の刀身に滑り込むように自ら剣閃に入る。
その男は、戦士としてはある程度の熟練者ではあっても、剣才そのものは不器用者のそれだ。
振り抜こうとした刀身をとっさに返すには、猗窩座の行動が予想外すぎる。
同時に、三画目の令呪を解禁。
猗窩座にかかる『速度』を向上(ブースト)させ、頸の即時再生と、灰髪の男への反転(カウンター)でもって致命傷を与える。
犯罪卿が第一の標的であったところは惜しいが。
『七草にちかのサーヴァント』を仕留めることは彼女の戦線離脱にも繋がり。
さらに言えば、その男を討つことで、助太刀の女剣士を除いてまともな戦力はいなくなる。
これをもって、『実質的に己の手で陣営を壊滅させている』と申し立てる。
海賊陣営でやっていくための立場と発言権の獲得、残存する少女たちへの約束を建前にした寛恕。
それらは、主君にとってもっとも残酷な展開を回避するために必要だった。
また同時に、女剣士と銃兵にそれらを邪魔立てされないための同時攻撃を敷く。
すでに、戦闘中に徐々に河川沿いに接近していた男(マスター)が近辺で待機し。
リンボより与えられた護符から、黄緑色の雷を呼び出し、銃兵にぶつける。
肝要は銃兵への攻撃それ自体よりも、その付近に気を失った少女達や七草にちかがいることだ。
マスターを狙う『ふり』の雷鳴。
犯罪卿にそれを捕捉されたとしても、残った護符の式たちと残りわずかな人形兵士で撃退には充分。
視覚共有の恩恵でそれら三つは主従の呼吸を合わせて行える。
たとえ女剣士が、全てに追いついて対処できる『誰も死なせなかった剣士』ような類の人物だったとしても。
まったく同時に予想外しを三つ仕掛けられた上で。
『たとえ反撃を受けても再生力が強化されている』という隠し手も加われば、対処できる意識の容量は越える。
灰髪の剣士を回復でも追いつかぬよう斬首した後、こちらは令呪の加速をそのまま撤退し、主を連れて離脱する。
七草にちかは、サーヴァントの絶命にどのような顔を見せるのか。
それを視覚共有であの男に伝えてしまわぬよう、二人の剣士だけにを視線を注いだ。
一撃をこちらから受けることで全てを仕掛け。
一撃を加えることで戦果をもぎ取る。
羅針によって灰髪の剣士の動きを、つぶさに汲み取る。
接近する女剣士に、いつかと同様の『いますぐこいつを殺さなければまずい』という総身への警告を感じ取り、踏みとどまる。
いざ、と二者は迫り。
来るがいい、と一者は貫き手を構えた。
その、まさに勝負直前の際だった。
――犯罪卿が、猗窩座の背面にて気配遮断を解いた。
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どうしても顔を見ずにはいられなくて、田中摩美々のそば近くに寄った。
途中で七草にちかと眼があったけれど、何も言えず、言う時間もなく。
ただ、あなたのサーヴァントは大丈夫だと、曖昧に笑いかけるしかできなかった。
思えば一か月間、摩美々との遣り取りも、七草はづきとの連絡代行も、悩んでばかりだった。
本当の【プロデューサーさん】なら、もっと励ましになるようなことが言えたんじゃないかとか。
どう足掻いてもただの人殺しに、年頃の少女達の面倒を見られているだろうかとか。
こんな心も体も弱いサーヴァントに命を預けさせてしまって、本当に申し訳ないとか。
そんな想いが抜けないまま自信を表して笑みを顔に貼る、そんな一か月だった。
しかし、彼女は、その悪党【モリアーティ】のことを頼りにしてくれた。
真名を知った時点で、大罪を犯してきた悪人であることなど明らかだったのに。
先入観を持たず、さりとて無条件に寄りかかりもせず接してくれた。
どころか、家族、友達、パートナーだと、身内を想うのと同じように思ってくれた。
それは合流が果たされるより以前の、炎上する世田谷区での道程においてもそうだった。
なぜ、ウィリアムは流転に次ぐ流転の状況であった世田谷区の戦いが終わった後で、ことの次第を把握していたように現れることができたのか。
また、なぜ『
ベルゼバブが絶刀を受けた上でなお反撃しようとする刹那』という計ったようなタイミングで、世田谷区の起爆を発動させられたのか。
それは、アシュレイ・ホライゾンに対して戻って来いと呼びかけていた少女――七草にちかの、すぐそばで。
田中摩美々もまた、念話を繋げていたからに他ならなかった。
大型バイクによって運ばれながらの逃走劇から始まった念話でのナビゲートは、ひそかにベルゼバブの襲来後も続いていた。
確約された死を意味する脅威がそこにある窮地だったのは疑いない。
だからこそ、その言葉も恐慌に浸食されて、『分からない』という泣き言が何度も混じるものではあったが。
偶像・七草にちかのライダーが明らかな絶命を遂げたことも。
『狡知の首を差し出せ』と、脅迫ですらない命令を告げられていたことも。
櫻木真乃のアーチャーが到着した上でなお、敵うべくもなく地に叩きつけられたことも。
そして、死んでいたはずのライダーから『もう一人』が顕現し、戦況の逆転と不条理とを同時に呼び起こしたことも。
その煌めく翼がどういうものだったのかということも、アーチャーの少女とアイドル達がその手を掴んで引き戻したことも。
それらの全てを伝令に徹するまで、摩美々は意識を失わずに念話を続けるための戦いに尽力していた。
令呪を使って声を届けられた七草にちかでさえ、気絶しかけるほどの恐怖と脅威にさらされていたのだ。
摩美々もまた、同じ重圧に耐えることは絶対に楽ではなかった。
それでも念話が途切れてしまえば、大切な相棒(パートナー)が最悪の想像をすることしかできなくなってしまうから。
正確に戦況を伝えて、言葉で励まし合うことさえすれば、必ず最善の一手を打ってくれると信頼していたから。
そうして、世田谷区の崩落と今度こその逆転によって張り詰めた緊張が切れてしまって。
ウィリアムが合流した時には、摩美々もまた目を閉じて公園の地面に倒れていた。
今まさに、紫色の髪を垂らしながら眠りに落ちている姿のように。
呼吸が楽な姿勢をとらせることも兼ねて助け起こせば、たしかな暖かさが伝わってきた。
茹だる熱さと沈む冷たさの。
その二つがないまぜになった、『ぬくもり』と呼ぶのだろう温度が、蜃気楼のように寄り添ってくれる。
この暖かさに甘えることができたから、ずっと歩んでこれた。
蜃気楼の少女は、圧倒的な暴威たる魔人から『狡知の首を差し出せ』と勧告されても。
嘲笑する獣から、偶像とその従者たちは役立たずの蛆虫だと揶揄されても。
どれほどの勇気が要ったことか計り知れない反駁の声をあげて、庇ってくれた。
犠牲になれと、役立たずだと糾弾する声から抗って、貴方はここで生きていていいのだと是としてくれている。
まったく無防備な、瞳をとじれば実年齢より幼く見える、意識のない姿を見下ろしていても。
あなたの手は掴んでいるから、犠牲になろうとするなと。
倒れている今でも、手を離さないでくれているのが、確かに分かる。
手と手が触れあっていない時でも、あなたの居場所はここだと掴まれている。
だけど、手が繋がっている上で。
それでもこの頭は、今の状況について【ためらってはいけない】ということについて、考えてしまって。
状況はこちらが優勢で。
プロデューサーのサーヴァントは撤退か敗戦かを迫られているような多勢に無勢で。
だけど、きっと事は『停戦』では済まない、確実な『どちらかが脱落する殺し合い』になる理由に、ウィリアムだけが感づいていて。
古手梨花のセイバーがもたらした情報が、ウィリアムから見えている盤面を、がらりと変えてしまって。
それを相談している時間も猶予も、ここにはない。
Hに対して警告したくても。
助力してくれるセイバーに説明しようにも。
七草にちかのアーチャーに『撃ってくれ』と依頼しようにも。
プロデューサーのサーヴァントは、それらを待たずに状況を進めてしまう。
『その行動』だけは軽率に決めてはいけないのに、今決断をしないと、きっと更なる犠牲が出てしまう。
そう確信していることに、論理的な理由はあるけれど。
それだけでない、ひどく感情的な理由が伴っていることも自覚している。
彼らはきっと、この戦場で犯罪卿か、七草にちかのライダーを、確殺する腹積もりでいる。
殺すための算段ができあがっている。
ただ無意味な抵抗を続けているわけでは、絶対にない。
たぶん、プロデューサーの気持ちをより強く分かって、共感しているのは。
同じ七草にちかを愛する者である、彼女のライダーなのだろうけど。
それでも、【今この場で、絶対に283のサーヴァントを消そうとしている】という本気にかけては。
きっとウィリアムこそが、誰よりも分かってしまうから。
なぜなら、彼も常に、その可能性を留保してきた悪の側だから。
先刻の戦闘でも、【全滅するぐらいなら、摩美々だけ連れて令呪で逃げる】という選択肢を留保していたのは、彼ぐらいの者だろう。
自分はずっとそうやってきたから。
だから、絶対にあなた達は私達に牙を届かせるのだろうなと。
セイバーとの実力や、人数が違い過ぎるとか、やってみなければ分からないとか以前の、実感として悟ってしまう。
たとえそれが叶わず、セイバーの少女剣士がさらなる上手だったとしても。
そうなったら彼らは、きっと停戦ではなく『どちらかが脱落する』にまで発展してしまうのだろうなと、そう思える根拠もある。
むしろ、ライダーのように共感ありきで始まっていないだけ。
彼のことを畏れる気持ちは、ウィリアムの方がよほど大きかったかもしれない。
『283プロダクション』を運営している一か月の間に、素晴らしい評判しか聞かなかったような人物だから。
プロデューサーとして見れば自分よりはるかに優れていることは、プロデューサー代行だった山本にも話したところだから。
理不尽な支配をもって相対されるのは、それがどれほど圧倒的に力をもった暴力であってもウィリアムには既知のものだ。
だけど、どこまでも誠実な精神力と、己を上回るやもしれない人間的魅力をともなって敵対されるなどというのは、未知の恐れだった。
たった一人、言い訳しようもなく敗北した『彼』を除けば、初めてだった。
ずっとずっと、誰かを騙して、陥れて、黙らせて、そういうやり方で生きてきたから。
彼に対して、『切り札かもしれない七草にちかと合流してから会いに行く』という保留の行動しか選べていなかった時点で。
他のどの聖杯狙いよりも、脅威を抱いていたとさえ言えるかもしれない。
『もし自分の意見とプロデューサーの意見が対立すれば、摩美々は後者の側につくのではないか』と。
当初は、そうやって摩美々にひどく失礼な想いさえ抱きもした。
だから、ここでプロデューサーが『仕損じる』とは考えない。
その上で、決断をするならば。
今この場で、敵も味方も問わずに『自分以外のサーヴァントが脱落する』という結果が生じてしまったら。
状況はそう遠からず、全員にとっての袋小路、行き止まりになる。
そう思える盤面が、できあがっている。
その未来を読んでいる者が、この場にウィリアムしかいない。
そうか、さきほどアイドル・七草にちかを庇った少女・七草にちかは。
こんな『考えている暇はない』に立ち向かったのかと、畏敬と罪悪感が沸く。
あのタイミングでアイドル・七草にちかに自己肯定を促すような言葉をかけたことが。
かえって少女・七草にちかを諦めの道に進ませてしまったのではないかと、そんな後悔が消えない。
そんな想いにかられながらも、やはりいつかと同じだった。
――友達(キミ)にだけは、生きて帰ってほしい
彼女の手を、ふり払う大罪をふたたび犯してしまうよりも。
彼女の手から体温がなくなる方が、やはり嫌だと思ってしまって。
もっと言えば、この場でプロデューサーと完全なる破局を迎えてしまったら。
櫻木真乃のアーチャーの頑張りは、無駄になってしまい。
七草にちかのライダーの慈しさは、届かなくなってしまい。
界聖杯(ここ)に至るまでの間に、大勢の人を殺して。
界聖杯(ここ)に至っても、彼女たちを護れなかった私が。
それでも、独りでは無いと救いを得られたというのに。
もともとその温もりを受け取れるところにいた男が、その救いを得られないのは、やはり理不尽だ。
アイドルの少女達が殺されたのは、1人だけのせいではないと田中摩美々は言ってくれた。
だが、プロデューサーは未だにそう思っていない。
きっと、眼前の敵対者たちは、自分が少女達を護れなかったと、背負い込んだままになっている。
それらを、彼(プロデューサー)に今こうして、単独主従(ひとり)だけで間違いを清算させるぐらいなら。
私もまた共に間違えて、幾らかその『責任』を持って行こう。
だから、これが【犯罪卿(わたし)】としての、最後の悪企み。
――あなたは、ここで他のどのサーヴァントでもない、私を殺してもらう。
――そして、その罪と責任は、あなた達ではなく、私が多くを持って行く。
――あなたが私を殺したことは、確かにアイドル達を生かすことにも繋がったと、そう思えるような結果が残るようにする。
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ごく脆弱な闘気の持ち主だった。
それが、背中から斬りかかれる位置取りで仕込み杖を穿とうとしている。
(人間(マスター)を狙わない?)
背後を振り返る前に、羅針の反応にかかったことでそれを理解し。
背後を振り返る前に、灰髪の剣士も女剣士も困惑を顔に宿したことから、『仲間にも予想外の独断専行』だと把握する。
(――だが、仔細ない)
これが狡知をめぐらせての奇襲だとしたら、それでもなお目算が甘すぎる。
気配遮断さえ解いてしまえば、ゆるやかに飛ぶ蝶を叩き落とすに等しい。
それほどまでに、彼だけが、戦士としては次元が隔たっていた。
いくらサーヴァントになったとて、鬼と只人、超人と俗人の格差は優しくない。
吹き飛ばせば、二人の剣士がそちらへと方向転換するかもしれないため、その場で始末する殺し方を選択。
貫手によって貫いたり縊り殺しにすれば死体が荷物になるため、利き手がすぐに空けられる殺し方を選択。
こうして、『いかにこの敵に対処するか』ではなく。
『いかに二人の剣士へと切返す邪魔にならないよう対処するか』を判断基準にすれば足りる動きで。
しかし、主君が何としても落とさねばならないと見定めた標的を落とすための、慢心はなく。
何かの罠を仕込んでいないとも限らない外套で覆われた胴体を突くことは避けて。
同じく、襟を深く立てて見えぬようしている首回りを刎ねることも避けて。
鬼人の拳速をそのままに、顔面急所へと吸い込ませ。
かつて、人を護るはずだった拳を始めて殺戮に使った時のように。
その致命打はあっけないほどに、軽い音をともなった一撃で為済まされた。
吹き飛ばすのではなく、抉って刈り取るための拳は、蜘蛛という生物的弱者の左顔面に突き刺さり。
左眼球を潰し、顔の大部分を血塗れにし、白皙の容貌から深遠なる脳にかけてを構成する骨を砕き。
霊基(いのち)としては修復できないほど、再起不能にした。
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最終更新:2023年03月26日 19:45