――貧乏くじを引かされた。
 田中は、率直にそう思った。

 彼がそう思うのも無理のない話である。
 サーヴァントを連れ立たずに、他の主従の許へ交渉に赴けと言われていい顔をする者が居るとするならば余程の頭抜けた馬鹿であるに違いない。
 田中は愚かではあっても馬鹿ではなかった。
 確かに、彼は酒の勢いに任せて勝ち目ゼロの大博打に打って出ようとするような短絡さを持つ俗物だ。
 自分から裏切りを働いておきながら、その報いとばかりに追い詰められると年甲斐もなくぶるぶる震えて涙を流すどうしようもない小人物だ。
 そんな田中にでも分かる。
 これは下手を打ったなら、新たなサーヴァントにありつくことも心に焼き付いた憧れのその先を見届けることも出来ずに犬死にしかねない案件だと。

「不安ですか?」
「……逆に、あんたは不安じゃないのかよ。トランペットさん」
「ええ全く。崇高なるMが確固たる自信を持って我々を送り出したのですから、一体何を案ずることがありましょうか」

 イカレ野郎が。
 田中は心の中で小さくそう吐き捨てた。
 トランペット、本名を花畑孔腔。
 近年存在感を増しつつある新興政党のトップだというが、田中に言わせれば口のよく回る酔っ払いにしか見えなかった。
 そんな田中の胸の内を知ってか知らないでか、「それに」とトランペットは懐から一枚の紙麻薬を取り出してみせる。
 Mへの心酔に加えて……星野アイのライダーが生み出したこの麻薬の存在が彼の自信を後押ししているようだった。

「いざとなればこれもあります。貴方も、この薬の素晴らしさは身を以って体感済みでしょう?」

 田中はその言葉に答えなかった。
 危機感が足りなすぎる。
 酒の勢いでとはいえ峰津院財閥に特攻を仕掛けそうになった田中が言えたことではないが、今の田中には彼の愚かしさと考えの甘さがよく分かった。
 こいつは、たかだか"超人"になった程度で、あの英霊(バケモノ)共と張り合える気になっているのだ――。

「(本当に……大丈夫なんだろうな、死柄木)」

 田中はMのことを信用しているかと言われると、正直なところ怪しかった。
 少なくともこのトランペットや、デトネラットのハゲ社長のように手放しで盲信してはいない。
 あの男は恐ろしい。奴はきっと、そうしなければならないのなら自分のことなどチェスのポーンを囮にするみたいに冷淡に切り捨てるだろう。
 しかし田中は、死柄木弔……悪の数学者をこの界聖杯に呼び込んだ次代の魔王のことは強く信じていた。
 彼は文字通り、自分の中にあった常識と鬱屈を崩壊させてくれたから。
 彼の進む先にこそ自分の夢見る混沌(ケイオス)はあるのだと、そう悟らせてくれたから。

 あの時、死柄木は自分を切れる立場だった。
 なのに彼はそれをしなかった。
 またしても、あいつは俺を導いてくれた。
 それは田中一という人間にとって十分すぎるほどの、死柄木弔を信じる理由に相当した。

 だから田中はモリアーティの命令に、あれ以上我儘を言ってゴネることはしなかったのだ。
 このトランペットと、SP代わりのデトネラット社員――"覚醒"済みのNPC達数人を連れ立って。
 モリアーティから伝えられていた、仁科鳥子が宿泊しているというホテルまで遠路はるばるやって来ていた。

「此処か」

 なんてことのないビジネスホテルだ。
 成程確かに、急ごしらえの拠点としてはうってつけだろう。
 サーヴァントの気配がどうとかそういうことは、令呪を持っている以外は根っからの一般人である田中には分からない。
 そう、一般人なのだ。この世界じゃ拳銃の一丁なんか持っているくらいじゃ、人間の枠組みから外れることすら出来やしない。
 そこに無情なものを感じながら、そこでふと田中は思い至り口を開く。

「おい、あんたがフロントに話をしてくれよ。一応政治家なんだから、少しは地位を使ってくれ」
「ええ、言われずともそのつもりです」

 花畑孔腔は政治家だ。
 そして日本人は、とにかく肩書きの力に弱い。
 ましてやこの有事である。政治家先生が直々に顔を出し、その上で特定の客の部屋番号を問い質せば、難色を示されることはまず無いに違いない。
 いけ好かない男だが、彼は田中よりもよっぽどこの状況で輝くものを持っていた。
 劣等感の炎が胸の奥で小さく燻る。
 覚醒を果たしているとはいえ、サーヴァントを喚べもしないNPCにさえ劣っている自分は一体何なのだろうとしみったれたことをつい考えてしまう。
 そんな田中をよそに、フロントへ向け人当たりのいい笑顔を浮かべながら花畑――トランペットが一歩を踏み出した、まさにその時だった。

「お? なんだなんだ、随分と大仰な奴らが居るじゃねェか」

 田中の背後から、男の声が響いたのは。
 竹を割ったような声だなと思った。
 そういう甲高い声をしているからそう思ったのではない。
 竹を割ったようによく響く、威風堂々とした豪快な声だったからだ。
 思わず田中は振り向いて、そしてぎょっとする。
 そこに立っていたのは、一度見ればまず忘れることのないような……兎に角ありとあらゆる意味で、この現代にそぐわない風体をした人物であった。

「(こいつ、確か……"義侠の風来坊"とか呼ばれてた――)」

 彼の姿を見るのは初めてではなかった。
 ネットニュースだったか、それともワイドショーの特集でだったか。
 奇妙極まりない前衛的な髪型に、とてもではないが流行りに則しているとは言い難い古めかしくも豪快な装い。
 義侠の風来坊。困った人あれば何処からともなく颯爽と現れ、見事に助けてはその日の夕餉にありつく変わり者。
 何故そんな男が、こんなホテルに用があるのか?
 田中の緩慢な脳髄ではすぐに理解が追い付かなかったが、その答えは他ならない風来坊(かれ)自身が出してくれた。

「……んん? おい、そこのお前。お前――ひょっとしてマスターか?」
「えっ」
「見たとこサーヴァントは連れてないようだが……よりによってこんなところに居るのはよ、ただの偶然ってワケじゃあねェよな」

 義侠の風来坊こと、ワノ国九里大名・光月おでん
 田中は当然知らないことであるが、彼は本来マスターの立場に収まっていていい男ではない。
 サーヴァントと斬り結べる剛力、サーヴァントに斬り刻まれても少し疲れた程度で済む異次元のタフネス。
 そしてその身に宿す、極まった"覇気"。
 武装色、覇王色……そして見聞色。
 おでんは見聞色の覇気の一環として、サーヴァントのマスターが放つ独特な気配を見極めることが出来るようになっていた。
 田中はサーヴァントを失っているため、一目見た瞬間にすぐ感知とまでは行かなかったようだが。
 それでもまじまじと見つめれば、光月おでんの眼力を欺くことなど出来やしない。

「え、いや、えっと、あの……」
「誰が目的だ。鳥子の嬢ちゃんか?」
「――ッ」

 目は口ほどに物を言う。
 しかし田中の挙動は、それ以上に明け透けだった。
 突然の光月おでん。突然の素性看破、突然の詰問。
 何もかも全てが突然だったため、取り繕う余裕などありはしなかった。
 仁科鳥子の名前が出た途端に息を呑んだ、田中。
 その反応は、どんな自白にも勝る明確な肯定に他ならなかった。
 おでんが鳥子の名前を出したのは、単に彼女が最近このホテルで"殺されかけた"からというだけの理由だったが――見事真実を射止めたらしい。

「ま、……待ってくださ――待て。落ち着いてくれ……俺達は別に、仁科鳥子に危害を加えるために此処に来たわけじゃない」

 それでも、ちゃんと言葉を吐き出せたのは田中なりの進歩だったと言えるだろう。
 そんな彼の言葉に続く形で口を開いたのは、トランペット。
 心求党党首にして四ツ橋力也の懐刀の一振り。M、ジェームズ・モリアーティの狂信者。

「ええ、如何にもその通りです。我々は――」
「お前には聞いちゃいねェ。おれはこいつと話してんだ」

 しかしトランペットの口は、有無を言わさぬおでんの言葉で切って捨てられた。
 あまりにも堂々たる傍若無人にさしもの彼も二の句が継げないようだ。
 その光景は彼のことを快く思っていない田中にとっては、本来胸のすくそれである筈だったが。
 しかし眉間に厳しく皺を刻んだ険しい面持ちのおでんにずいと顔を近付けられ、問い詰められている彼にトランペットの無様を見下す余裕はない。

「目的はなんだ? "脅し"か? "取引"か?」

 辛くもサーヴァントの魔の手を逃れ、生き延びた仁科鳥子。
 それを嗅ぎ付けて何らかの脅しを加えに現れたという可能性。
 そしてもう一つ。同じく鳥子の窮地を知った上で、何らかの取引を持ち掛けに現れた可能性。
 おでんの脳裏に浮かんだのは取り敢えずこの二つだったが、しかし実際のところはそのどちらでもなく。

「あ、いや、そういう訳じゃない……です。どっちかって言うと、えぇっと……」
「何だ要領を得ねェ奴だな。男ならもっとハキハキ喋りやがれってんだ」
「ふげっ……!? は、ひゃいぃっ……!!?」

 煮え切らない、というか緊張のあまり吃り散らしている田中に業を煮やしたおでん。
 彼の鼻をその太い指でむんずと摘むと、がさつに引っ張り始める。
 なんだこいつ。本当になんなんだこいつ。こんなのが居るなんて、Mは言ってなかったぞ。
 ごちゃごちゃの混乱模様を呈する頭の中で必死に考えを纏めて、田中は鼻を抑えながら口を開いた。

「伝令――そうだ、伝令だ。俺は、に、仁科鳥子宛ての伝令を持ってきたんだよ……!」
「こんなに物騒な連中をずらずら連れて来ておいて、伝令ねえ」
「し、仕方ないだろ……!? あんたも分かってんだろ、こっちはもうとっくにサーヴァントを失ってる身なんだよ。
 第一あんなバケモノ共にとっちゃ、こんな一般人に毛の生えたようなNPCなんて敵にすらならない筈だ……!!」
「……まあ、それもそうだな。拳銃でサーヴァントを殺せると思い上がるバカは流石にいねェか」

 光月おでんや、彼と互角以上に渡り合った峰津院大和のような存在は例外中の例外なのだ。
 仁科鳥子のように英霊にすら通用する一芸を持つ者は居たとしても、多くの場合実際に英霊と渡り合うまでには至らない場合がほとんど。
 その点眼前の彼らはあまりに軽装であると言わざるを得なかったが、そのことが逆に田中の主張に説得力を持たせていた。
 圧力を掛けることが目的ならば、サーヴァントという身近な脅威を連れて来ない道理がない。
 田中の反応を見るに、自分達が鳥子と合流していたことは"不測の事態"だったのだろうが……そうでなくとも、手負いの鳥子達を良いように弄ぶ算段では最初からなかったと見るのが自然だろう。おでんはそう判断した。
 ただ一応、念のため。上階に居る自身のサーヴァントへと念話を飛ばして意見を仰ぐことにした。

「(どう思う? 縁壱)」
「(付近にサーヴァントの気配はない。が、その男達からは些かばかり妙な魔力を感じる)」

 もはや当たり前のように一階の状況を把握していることには、おでんも今更突っ込まない。
 規格外を地で行く光月おでんの目から見ても、継国縁壱という男は俄には信じられないほどの超人だった。
 予選期間を共にし、更には実際に剣を交えてみて――そのことはよく知っている。
 彼の気性と破天荒ぶりをよく知る赤鞘の侍達が見たならば、きっと各々頷きながら口々に納得の旨を呟いたろう。
 光月おでんと並んで歩める英霊など、人類史広しと言えどこの男くらいであろうと。

「(どういうことだ)」
「(その者達は何らかの外的要因によって身体能力を人外の域にまで跳ね上げられているようだ。
  おでん。お前に比べれば全員がかりでも取るに足らない相手に過ぎないだろうが――普通の人間ならば恐らく、瞬きの内に殴殺されている)」
「(そうか……いや、少しおかしいとは思ってたんだ。 
  日雇いの現場なんかでだいぶ色んなNPC(やつら)を見たが、今目の前に居るこいつらはヒョロい癖して妙に"仕上がって"やがったからよ。
  こいつら、上に連れて行っても大丈夫か? おれとしちゃこの程度の連中なら問題ねェと思うんだが……不味そうなら叩き出すぜ)」

 透き通る世界、という概念がある。
 常人から達人。果てには体内構造を文字通り異形化させた存在に至るまで。
 筋肉から骨、内臓から血流に至るまで凡そ肉体の全てを見通す至高の領域。
 縁壱は今、遥か階下の……実際に視界には写っていない田中達の肉体の状態をも把握することに成功していた。

 恐らくは人類史上最初にその境地に達したであろう縁壱。
 彼は英霊化されたことにより、至高の領域の更に極致にまでその眼力を進化させている。
 おでんの世界で喩えるならば、これもまた見聞色の覇気に分類される芸当と言えるだろう。
 但しこれほどまでに極まった見聞色の使い手には、大海賊時代の全盛を知るおでんですら覚えがない。
 恐るべしは継国縁壱。神の傀儡、再び現世に形を得た絵空。

「(物理的な危険性だけで言うならば、十中八九問題はない。強いて言うならば、彼女達の心理を揺さぶってしまうのが懸念だろう)」

 彼の見立ての通り。
 田中とその護衛達は、外的要因……"地獄への回数券"という紙麻薬による肉体強化を受けている。
 その強さはどう軽く見積もっても常人の数十倍。
 だがそれだけの強さを以ってしても、縁壱はおろかおでんにすら遠く及ばないのは見えていた。
 よって、物理的な脅威度は然程高くないと言える。
 問題は、彼らを考えなしに上に連れて行ってしまうことが"少女達"のメンタルに悪影響を及ぼさないかという点のみだった。

「おいお前、名前はなんて言うんだ」
「……田中。"敵連合"の、田中一だ」

 敵連合。
 聞き覚えのない名前だったが、文脈的に主従達が集まって結成された集団であろうことは簡単に想像出来た。
 そこについては後で問い質すとして、おでんはまず目先の回答を彼に突き付ける。

「そうか。鳥子の嬢ちゃんに話があるってんなら案内してやる。但し、連れて行くのはお前一人だけだ」
「は……はあ……!? いや、それは流石に……俺の背負うリスクがでかすぎる、っていうか……」
「心配しなくても丸腰の奴に手なんて出さねェよ。それでも怖ェってんならこの話はナシだ。
 "ナントカ連合"に戻って、今度はサーヴァントを貸して貰えるように頼んでくるんだな」

 確かにそれは、田中にとって明らかに不利な条件だった。
 ただでさえサーヴァント相手に人間のみで相対しているのに、その癖頭数という気休めすら奪われるなど。
 田中が抗議するのも当然である。しかしおでんは頑なに譲らない、一歩たりとて譲歩しない。
 その条件が呑めないのなら帰れと告げる目は紛れもなく本気のそれで、田中のような小市民が知恵を絞ったところで揺るがせるとは思えなかった。

「(何なんだよ、コイツ……)」

 Mからは、こんな男が居るなんて聞いていなかった。
 仁科鳥子にメッセージを伝えるだけならば、と思って受けたのに。
 こんなよく分からない、意味も分からない男が居るなんて聞いていない。
 そして今、田中はその突然現れたイレギュラーのせいで出戻りを食らいそうになっている。
 しかし、流石にこの物言いは腹に据えかねたのだろう。
 おでんに一蹴されて黙りこくっていたトランペットが、薄い笑みを浮かべながら口を挟んだ。

「黙って聞いていれば……随分と勝手な物言いをされるものだ」
「お前と話す気はねェと言ったろう」
「勘違いしないでいただきたいのですがね。我々は何も、貴方がた……もとい仁科女史に不幸を運びに来た訳ではないのですよ。
 むしろ真逆です。彼女にとってとても大切な人間の居所を知っているから、それを伝えて差し上げようと――善意で遥々足を運んでいるのに」

 田中はこの男のことを快く思っていなかったが、自分が政治家である彼より弁が立つと驕ってはいない。
 だからこそ、明らかに形勢不利の状況に彼が口を挟んでくれたのは素直にありがたかった。
 そして彼の言は全て事実だ。
 仁科鳥子への伝令は概ね善意のそれであり、此方から特段何か無茶な要求をする訳でもない。
 それなのに逆に条件を突き付けられるというのは筋違いというものだろう。少なくとも田中はそう思う。トランペットの言葉に、心の中でうんうんと頷いていた。

「そうなのか? 田中」
「あ、ああ……。俺も詳しく知ってる訳じゃないけど、仁科にとって絶対に無視出来ない存在だって聞いてる」

 田中は詳しい間柄について聞かされている訳ではない。
 だがそれでも、それが仁科鳥子という人間にとってワイルドカードとなり得る名前であることは何となく分かっていた。
 満を持して田中は、その名前を口にする。
 気分は完全に――ジョーカーのカードを叩きつける時のそれだった。

「……俺達は"紙越空魚"の居場所を知っている。仁科鳥子にそう伝えてくれ」

 ……。
 …………。
 ………………。
 しばらく沈黙が続いた後。
 光月おでんは小さく「ふぅ」と息を吐いて、田中に向け言った。

「――嘘は言ってねえようだな。鳥子の嬢ちゃんがすぐ連れてきてくれだとよ」

 田中は心の中でガッツポーズをする。
 やはり俺の認識は間違っていなかった。
 こんなことならもっと早くその名前を出していればよかった、そしたらこんなに肝を冷やす羽目にはならなかったかもしれないのに。
 安堵ですっかりいい気になっている田中をよそに、トランペットはおでんへ皮肉をこれでもかと込めた言葉を掛ける。

「分かりきっていた話です。あなたが無駄にゴネなければ、お互い時間を無駄にせずに済んだのですがね」
「あ? ゴネてなんざいねェよ。上に連れて行くのは田中だけだ。お前らはガキ共に会わせるにはちと胡散臭すぎるんでな」
「……、……ふぅ。仕方ありませんね」

 トランペットもまた、田中と同じことを考えていた。

 この男は何なのか。
 話も通じなければ道理も分からない。
 とんだ障害物が現れたものだと、営業スマイルの下に不快感が滲むのを堪え切れない。
 そも、トランペットは田中に伝令役を任せる気などさらさらなかった。
 彼を矢面に立たせつつ自分が得意の弁舌で相手に捲し立て、事を連合にとって優位な形になるよう押し進める。
 その算段で此処に立っている。
 なのにこの男のせいで、そんなトランペットの計算は狂わされつつあった。
 冗談ではない――こんな凡人を一人で敵の巣穴に潜り込ませるなど、拷問なり何なりして情報を引き出してくれと言っているようなものではないか。

 トランペットが息を吸う。
 彼はデトネラットの首魁、解放を望む狂信者の腹心の一人だ。
 元々才能に溢れていた男は"覚醒"を経て、その上禁断の薬物により常人の枠組みすら飛び越えた。
 その結果――平時でさえ人の心を掴み導くことに長けていた彼の"声"は、単なる小手先の話術から立派な"技巧(スキル)"へと形を変えていた。

「そこをなんとか、お願い出来ませんか」

 連合の王、死柄木弔の居た世界にもトランペット/花畑孔腔という男は存在していた。
 そこで彼が持っていた能力、もとい個性は"扇動"。
 自らに同調する者の戦意を高揚させ精神と肉体をブーストする力は、しかし。
 個性という固有の形から、麻薬による生まれ持った才能の底上げという形に置き換えられたことで柔軟性を増していた。

 これなるはトランペットの極道ならぬ敵技巧(ヴィランスキル)。
 相手の精神に干渉し、直接揺さぶって平伏させる"声"。
 義侠の風来坊という暴れ馬を懐柔するにはこれが最も手っ取り早いと、トランペットはそう踏んだ。
 だが―― 


「駄目だ」


 それを聞いて尚、光月おでん、不動。
 文字数にしてたったの三文字、しかしその言葉は巌のよう。
 カッと見開かれたその眼光に、トランペットは黒い稲妻が轟く光景を垣間見た。
 次の瞬間、彼の頭の中で何かがぷつりと切れた。

「――ア」

 眼球がぐるりと裏返り、完全に白目を剥いて倒れ伏す政治家。
 口からは泡を吹いており、人事不省に陥ったのは誰の目から見ても明らかだった。
 更に彼に続くようにして、デトネラットから借りていた他の護衛役達もばたばたと同じ有様になって倒れ始めるではないか。
 唖然とした田中の口は酸欠の金魚のようにぱくぱくと動き、困惑の声を絞り出すばかりであった。

「……は? え、はぁ……?」
「何ボサッとしてんだ。行くぞ、田中。鳥子に用があんだろ?」
「え、えぇと。は、はい……」

 ――もしかして俺は、相当やばい状況に置かれているんじゃないのか?

 遅まきながらそんな考えに到達する田中だったが、時既に遅しだ。もう引き返せる段階は過ぎた。
 おでんはずかずかと先に進んでいるし、此処で駄々を捏ねれば最悪首根っこを掴んで引きずられていくことになるかもしれない。
 そう思うと、田中は彼の後を付いて行くことしか出来なかった。

「(――なんか、えらいことになってないか?)」

 エリートぶっているところが鼻に付くからという理由で嫌っていた、トランペット。
 しかしその鼻持ちならない男も、今は他の黒服共々白目を剥いて伸びている。
 この男一人のせいで田中を取り囲んでいたなけなしの安全保障も崩壊してしまった。

 ヘマをしたら、今度ばかりは本当に死ぬかもしれない。
 改めてその実感が湧いてくると、もはや一周回って心は冷静にすらなってきた。
 曲がりなりにも社会に出ていた経験を今こそ活かす時だと、早鐘に変わって久しい心臓を胸の上から撫でる。
 プレゼンだとか報連相だとか、そういうのと本質的にはそれほど変わらない。
 ただちゃんと伝えればいいのだ――"あいつ"から託された伝令を、仁科鳥子とその取り巻きどもに。

「(やらなきゃ死ぬんだろ……。なら、もう必死こくしかねえ……)」

 皮肉にも。吉良の庇護を外れて丸腰になった田中は、此処に来てようやく覚悟を決めた。
 失敗すれば死ぬ状況に際しての、覚悟。
 彼は連合の王や堕天の月、星の偶像に比べれば幾分以上にちっぽけな"悪"でしかないが。
 種籾ほどに頼りないその悪性もまた、度重なる死線を経て断崖の淵でようやく芽を出したらしかった。


◆◆


 おでんに連れられて辿り着いた、ホテルの一室。
 そこには仁科鳥子らしき金髪の若い女と、そのサーヴァント……田中も話だけは聞いていた、"窮極の地獄界曼荼羅"の核となり得る降臨者の娘。
 更にはこれまた話に聞いていなかった、銀髪の少女の姿があった。
 しかし田中はその少女にも見覚えがある。
 確かあの子は、コンビニなんかで新曲のCDが宣伝されてたナントカっていうアイドルグループの――

「空魚は何処にいるの」
「……その前に一つだけいいかな。別に勿体つけるつもりはないんだけどさ」

 田中の思考を断ち切って、鳥子が端的に質問した。
 冷たく硬い声色だった。鋭いナイフを突き付けられたような、そんな感覚を田中は覚える。
 それに怯まずいられるほど彼は場馴れしてはいなかったが、しかし本題に入るにはまだ早い。
 モリアーティから口を酸っぱくして言われた注意事項。"お互いの為にも"、それだけは伝えておかねばならなかった。

「この部屋にある鏡……出来る限りでいい。鏡になり得るものを、壊してくれないか」
「……鏡を?」
「俺を此処に寄越した奴が言ってたんだ。今、この東京で好き勝手やってる勢力の一つ。
 "割れた子供達(グラス・チルドレン)"とかいう連中が、どうも鏡を媒体にして盗聴やらワープやら好き放題やってるらしい」

 脈絡のない懇願に鳥子は怪訝な顔をしたし、田中としても彼女の気持ちはよく分かった。
 鏡を使っての盗聴やワープ。そんな芸当が可能ならば、事実上東京中の全域が件の集団の射程圏内に収まっているということではないか。
 そうまで規格外な力が罷り通るのなら、この聖杯戦争はとんだ無法地帯だと言わざるを得ない。
 だがどうも現実問題、既にこの界聖杯はとっくの昔から無法地帯の地雷原と化して久しいらしく。
 リンボが何かするまでもなく、既に自分達は地獄の真っ只中に居るんじゃないかと辟易の溜息をこぼさずにはいられなかった。

「――その連中は、新宿を焼け野原にした二体の内の"青龍"と手を組んでる。
 俺は直接会ったことはないけど……俺を伝令役として此処に寄越した奴は、"ビッグ・マム"の能力の一つだとか言ってた」
「鏡っつーと……リンリンの所のブリュレだな、そりゃ確かに厄介だ。皆、悪ィがこいつの言うことに従ってくれ。
 話し合いの内容が筒抜けになるどころか、最悪今すぐこの場にリンリンの兵隊(ガキ)どもが乗り込んできかねん」

 おでんは既に、海賊同盟……恐るべき四皇の結託について知っている。
 かつて海賊王ロジャーの船に乗り、件のビッグ・マムとやり合った経験のあるおでんには田中の言う"鏡"の能力に覚えがあった。
 鏡世界(ミロワールド)への格納から出入りまで全てを可能とする規格外の能力。
 あれを戦争のために本気で使われたらと考えると、指示に従う以外の選択肢はなかった。

 ホテル側には悪いが、室内で爆発が起こっている時点で今更だろうと判断する。
 鏡を割り、テレビの画面を壊し、その他にも鏡面の要件を満たしそうなものを一通り潰す。
 そうして一段落するまでに、ざっと五分ほど。
 銀髪の少女もとい幽谷霧子は「いいのかな……鏡さん……」と申し訳なさそうにしていたが、彼女のことはアビゲイルが慰めていた。
 ――閑話休題。

「……これでいいですよね。じゃあ、改めて質問させてもらってもいいですか」

 これで盗聴の恐れは極限まで薄めた。
 焦らされる形になっていた鳥子は、相当待ち兼ねていたのだろう。
 田中が何を言うよりも早く、彼に向けてもう一度質問を投げかけようとする。
 田中としても拒む理由はない。鳥子の静かながら確かに熱いものを感じさせる剣幕にやや気圧されながらも、こくりと彼女に頷いてみせる。

「空魚が何処にいるか、知ってるんですか」
「俺の上司……って言っていいのかな。そいつが紙越の連絡先を持ってる。
 知ろうと思えば今の居所もすぐに分かる。あんたをそこまで連れて行ってやることも、出来る」
「……田中さんの所属してる組織に、空魚も居るってこと?」
「いや、それは違う。違うんだけど――ああくそ、何て言えばいいかな……。
 紙越は俺達と敵対してはないんだよ。仲間じゃないけど、敵でもない。
 少なくともさっき話に出た新宿の龍……"カイドウ"と"ビッグ・マム"の同盟が崩れるまでは、紙越達とぶつかり合うことはないと思う」

 正確には、田中は紙越空魚と会ったことはない。
 彼女のサーヴァントだという見るからに堅気ではない男のことならば見たが、マスターである空魚については外見すら知らなかった。
 だが今、敵連合が見据えている"敵"は四皇二柱の同盟だ。
 紙越空魚並びに彼女が手を結んでいる"ある男"には、まだ手を伸ばす兆しは見せていない。
 敵の敵は味方というのとは少し違うかもしれないが、ニュアンスとしては近いだろう。

「それって」

 田中の言わんとすることは、幸い鳥子にしっかりと伝わった。
 そして彼女は聡明だ。だからこそ、彼の話から今の空魚の状況までを推測し理解することが出来る。
 表情をますます硬くし眉に皺を寄せながら、鳥子は苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「空魚も、そのおっかない二人に対抗する戦いに参加するってことですよね」
「ああ、そうだよ。あんたのためにな、仁科鳥子」
「――は? 私のため……?」

 敵の敵は味方。
 ならばそれは即ち、紙越空魚もまたこれから始まろうとしている戦争に一枚噛もうとしているということ。
 そのことが分かってしまったから険しい顔をした鳥子だったが、田中の言葉には疑問符を浮かべた。

「例の同盟……俺の仲間は"海賊同盟"って呼んでたけど。そこに、あんたのサーヴァントを利用してでかいことをやろうとしてる奴が居る」

 ぴく、と鳥子の眉が動く。

「心当たりあるって顔だな。そうだよ、アルターエゴ・リンボだ。
 あんたのサーヴァントを使って、あいつはこの東京に地獄を創ろうとしてる」

 田中が全てを言い終わる前から、鳥子は既に納得していた。

 そうだ――真っ先に思い浮かぶべき事態じゃないか。
 空魚は私のことを大切に思ってくれている。
 自惚れなんかじゃなく事実として、私はこれまで何度もそう感じてきた。
 その空魚がこの界聖杯に居て。
 そして一足先に私の存在と、私達を取り巻く陰謀の存在を知ったなら。
 どんな危険を冒してでもそれを挫くために動くのは、容易に想像がつく。

「紙越は何としてでもそれを止めたいみたいだ。だから峰津院財閥の当主――わざわざ説明しなくても知ってるよな?
 今はあのいけ好かないボンボンと組んで、たぶんリンボを蹴落とすのを目的に動いてる筈だ」

 仁科鳥子を守るため、救うため。
 紙越空魚は嗤う妖星を撃ち落とすため、自ら進んで茨道の方へと歩み出していた。
 その過程上で彼女は峰津院大和という巨大な後ろ盾を獲得し。
 敵連合と関係を持ち、結果として彼女の存在はジェームズ・モリアーティの駒の一つを通じて仁科鳥子へ伝わるに至った。
 縁が、因果が、廻り廻って此処まで来た。

「Doctor.Kって奴の書き込みは見たか?」
「……いや、見てません。内容を教えてもらってもいいですか?」
「港区と墨田区。東京タワーとスカイツリーの地下には、桁違いの量の魔力が眠ってるんだってよ。俺に伝令を任せた奴は、"霊地"って呼んでた」

 それは、今後間違いなく台風の目になるだろう二点だった。
 四皇達は必ず此処へ赴く。
 霊地を己が領地とし、そこに鎮む龍脈を吸い上げるために。
 宝を寄越せ、すべてを寄越せ――猛り狂いながら。高笑いしながら。
 となれば、必ずやかの陰陽師も……辺獄のアルターエゴも顕れるに違いあるまい。そして、更に。

「俺も聞いて驚いたんだけどさ……東京タワーもスカイツリーも、例の峰津院財閥の管理してる土地なんだと。此処まで言えばもう分かるよな?」
「……空魚は、そのどっちかに居る。そういうことですね」

 それは鳥子にしてみれば、悪いニュースだった。
 空魚の居場所が分かるのはありがたい。正直田中の手を掴んでぶんぶん振りながら握手してやりたいくらいだ。
 けれど肝心の場所がこれから戦地に、それどころか爆心地に変わるだろう場所であるというのは顔色を曇らせるのに十分すぎる話だった。
 東京タワー。スカイツリー。霊地。莫大な魔力の眠る土地――四皇達が駆け付けるだろう戦場。

「どうするかはあんた次第だけど……もし紙越空魚との再会を望むんだったら、その時は俺の上司がそれを斡旋するらしいよ」
「待って。……それはいくらなんでも、ちょっと話が上手すぎると思うんだけど」
「俺だって詳しい考えは分からない。見りゃ分かるだろ? 俺は連合の中じゃ下っ端も下っ端だ。
 俺はあんたへの伝令を頼まれただけ。何なら俺にそれを任せた奴に電話を繋いでやってもいいけど――」

 要するにさ、と田中。
 敵陣の真っ只中に丸裸も同然の状態で一人の状況だ、色々と吹っ切れたのだろう。
 彼はモリアーティを頼ることはせず、自分/凡人なりに噛み砕いた推察を鳥子に聞かせた。

「……あんたのサーヴァントがリンボの手に墜ちることはさ、皆にとっていい迷惑なんだよ。
 少なくとも殆どの奴は、生きたまま地獄に落ちることなんて望んじゃいない」

 かつて田中は、リンボの標榜する地獄界曼荼羅構想に胸をときめかせた。
 その先にこそ自分の望む"革命"は存在するのだと、本気でそう信じた。
 その憧れは、中性子星(マグネター)のように破滅的に輝く次代の魔王の登場の前に掻き消されたが。
 それでもかつて田中は確かに、アルターエゴ・リンボの語る未来図に希望を見出していた身だった。

 されど当然ながら、地獄を渇望する人間など少数派も良いところだ。
 善悪を問わず大半の人間は、そんなものなど望んではいない。
 ましてや聖杯戦争とは、聖杯に持ち寄らねば叶えられないような荒唐無稽な願いを叶えるために行われる儀式である。
 その儀式の中でやれ地獄を築くだなどと言い始め、あまつさえ過程で聖杯そのものさえ利用しようと目論んでいるような輩が現れたならば。
 当然そいつは、目障りな"出る釘"として扱われる。
 善側から見ても悪側から見ても、リンボという力のある大馬鹿者の存在は目障り以外の何物でもなかったのだ。

「……なるほどね。私の察しが悪かったみたい。
 捕まってまんまとあのアルターエゴに使われて、あいつの本懐を遂げさせるくらいなら――いっそ何処かで徒党を組ませといた方がいいってことか。
 他に何か条件は?」
「聞かされてない。あんたがこの話を呑んでくれるなら、すぐにでも紙越空魚のところまで連れて行くよ。外にリムジンが控えてる」

 東京タワーとスカイツリー、紙越空魚が具体的にどちらに居るのかまでは田中は聞いていなかったが。
 しかしそれはモリアーティに連絡をし、空魚のサーヴァント……『禪院』経由で聞いて貰えれば分かることだ。
 道中で攻撃を受けるだとか、それこそ規格外級のサーヴァント同士の戦闘に巻き込まれるだとかしない限りは。
 仁科鳥子と紙越空魚――裏世界の旅を共にした共犯者(バディ)の再会は早々に成る。田中の言葉を通じ、鳥子はそう理解した。

「マスター」

 鳥子のことを、アビゲイルが呼ぶ。
 今此処で空魚の元に向かうのは危険なことだ。
 場合によっては地獄の顕現を目論むリンボに、みすみす餌をやってしまう結果にもなりかねない。
 しかしそれでも、田中の話を聞いてしまった時点で鳥子に他の選択肢はなかった。
 理屈ではないのだ。そうしなければならないと、既に鳥子はそう感じていた。

「ごめん、アビーちゃん。謝ってばっかりだってさっき怒られちゃったけどさ、もう一回謝らせて」

 ――もしも空魚と私の立場が逆だったら。
 ――空魚は必ず、私を助けに来てくれる。

 そう分かっているからこそ、罪悪感はあっても迷いはなかった。
 仁科鳥子はこれから、勝手なことを言う。

「私のために、私にとって世界で一番大事な人が戦ってくれてるって聞いちゃったんだもん。私だけじっとはしてられないよ」

 空魚へ会いに行こう。
 私のために戦ってくれてありがとうって、そう言おう。
 そして――いっしょに戦おう。鳥子は、そう決めた。

「アビーちゃんにもさ、また心配掛けちゃうけど」
「……ううん。大丈夫よ、マスター」

 ……正直なところ、悲しい顔をされてしまうかな、と思った。
 アビゲイルは優しい少女だ。きっと怒りはしない。だけど悲しませてしまうかもしれない、それが鳥子にはとても気がかりだった。
 空魚のことは大切だが、この世界で今までずっと共に過ごしてきたアビゲイルのことだって当然大事なのだ。
 そんな彼女の気持ちを無視して、自分の勝手で振り回す。
 それに何も感じないほど、鳥子は人でなしにはなれなかった。
 しかし申し訳なさそうな鳥子に対し、アビゲイルは柔らかく笑う。
 慈しみに溢れた、優しい少女の顔だった。 

「マスターにとって大事な人なら、それは私にとっても大事な人。
 それに私、実はひそかに気になっていたの。マスターがそうまで想う空魚さんがどんな人なのか。一度会って、お話してみたいと思っていたの!」
「……そっか。ありがとね、アビーちゃん。私もさ、早くアビーちゃんのことを空魚に紹介したいなって思ってたんだ」

 空魚は、あまり新しい顔触れが加わることを好まない。
 そのことを鳥子は知っていたが、それでもこの子なら大丈夫だろうと思えた。
 空魚は私のことが大好きだから。
 私を今まで守ってくれていたアビーちゃんのことを無碍にはしないだろうと、そう思ったからだった。

「霧子ちゃんも、おでんさんも――サーヴァントの皆もごめんね。
 危ないところを助けてもらって本当に助かったし、ありがとうって思ってる」

 自分の世界だけを見ているわけにもいかない。
 次に鳥子が瞳を向けたのは、霧子達の方だった。
 名前を呼ばれた霧子は、心配そうな顔で鳥子の傷を見る。
 鳥子の負傷は小さくない。片腕を失っているのだ、小さい筈がない。 

「本当は……まだ、絶対安静なんだけど……」
「あはは、だよねー。自分でもなんとなくそれは分かります。ぶっちゃけまだ全身へろへろだし、"大人しくしてろ!"って身体に怒られてる感じ」

 医者を志望し、それに必要な勉強も積み重ねている霧子の目から見れば。
 この状態で危ない場所に身を投じるなんていうのは、とてもではないがお勧め出来ない危険な行為だった。
 鳥子にもそれは分かっている。分かった上で、彼女は言う。

 そう――たとえ何を言われようとも。仁科鳥子は、止まれない。
 空魚(あの子)の存在を知ってしまった時点で、その足に止まるという選択肢はないのだ。

「でも、さ。
 ……多分今行かないと、私は一生後悔すると思うんだ」
「……大事な人、なんですね……。鳥子さんにとって………空魚さんは…………」
「うん。とっても」

 ……世界で一番大事な人、とは言わなかった。
 口にしたら流石に引かれてしまうかなと思ったからだった。
 だが、鳥子の空魚に対する想いの丈は霧子に向けた短い言葉の中にも滲み出ていたらしく。
 霧子は鳥子に向けて、少し困ったような顔で笑った。

「くれぐれも……無茶だけは、しないでくださいね………! 鳥子さんも、アビーちゃんも…………」
「オーケー、了解。命の恩人の頼みだもん、出来る範囲できっちり守ります」
「安心して、霧子。私が責任持って、マスターが無茶しないようにこの目で見張るわ!
 今まで不甲斐ないとこばかり見せてしまったけれど――マスターのサーヴァントとして、もう二度と女の子に傷なんて付けさせないんだから……!」

 真剣な眼差しでそう言うアビゲイルに、霧子はまたくすりと笑って。

「大丈夫だよ、アビーちゃん……。アビーちゃんは……しっかり、鳥子さんのためにがんばれてるよ……」
「――! ……ありがとう、霧子。霧子に褒めてもらうと、なんだか胸の奥がぽかぽかするわ。まるで、お日さまに当たっているみたい」
「えへへ……そう……? ふふっ……ふふふふっ……!」

 女性陣が話に花を咲かせる中。
 それを断ち切るように、ぱん――と手を叩いた者が居た。
 光月おでん。継国縁壱のマスターであり、田中の護衛陣を全員伸してしまった風来坊。

「悪い、ちょっといいか。一応この場に居る全員に聞いて欲しい話なんだけどよ」

 彼はそう言うと、次に田中の方を見て。

「田中。嬢ちゃんだけじゃなく、おれも車に乗せてけ」
「……は?」
「何だよ、駄目ってか? ケチケチすんなよ、まさか二人乗りって訳でもねえだろう」

 ――そんなことを、宣った。
 当然田中は嫌そうな顔をするが、もちろん彼の事情など知ったことではないおでんは譲らない。
 おでんが他人の顔色程度で自分の決定を揺るがすような男だったなら、赤鞘の侍達はあれほど胃を傷めずに済んだろう。
 とはいえおでんの突然の発言に困惑したのは、何も田中だけには限らなかった。

「えーっと、おでんさん? 私のことを心配してくれてるんだったらありがたいんですけど、でも――」
「あー、違う違う。……いや、違わねェか。確かにそれもある。
 田中の話は分かったが、こいつが所属してる"組織"はどうにもキナ臭ェ匂いがする。
 サーヴァントのアビーが居るとはいえ、万一のことがあった時に素早く動ける武闘派は必要だろ。それに」

 おずおずと口を開いた鳥子。
 その言葉に、おでんは見かけによらず的を射たことを返す。
 "今は"少なくとも伏兵や新手の気配はないものの、さしもの縁壱にも気配探知の限度というものがある。
 田中の"上"……未だ全貌の知れない"敵連合"が空魚の存在を罠にして強引にフォーリナー、ひいてはそのマスターである鳥子の排除を目論まないとも限らないのだ。
 だが、それはあくまで耳通りのいい表向きの理由に過ぎなかった。おでんの真の目的は、また別にある。

「ちょっとばかし、個人的な野暮用もあってよ。
 別に走って向かってもおれとしちゃ構わねェんだが、その傍ら鳥子の護衛も出来るってんなら一石二鳥だろ」
「……そういえば、おでんさんって例の海賊達と知り合いみたいな口振りでしたよね」
「知り合いって言うかバチバチに敵だな。
 リンリン……ビッグ・マムとは直接やり合ったことこそねェが、色々あって奴さんはおれに恨み骨髄の筈だ」

 ロード歴史の本文(ポーネグリフ)を強奪したロジャー海賊団の一員ともなれば。
 あの恐ろしきビッグ・マムは血眼になってでもおでんを殺そうとしてくるだろう。少なくともおでんは、そう思っていた。
 だが彼にとって真に重大なのは彼女ではなく。
 彼女が現在組んでいる、規格外の同盟相手の方だった。

「そして新宿を滅ぼしやがった青龍。"百獣のカイドウ"は――仇だ」
「……仇」
「ああ。おれの国の、おれの民の、仇だ。
 おれが斬り損ねちまった怪物だ」

 有無を言わさぬ力と、確かな使命感。
 その両方を滲ませながら、おでんは言う。

「おれはカイドウを斬らなきゃならん。
 釜茹でにされて処刑された死人が、わざわざ遠く離れたこの世界に迷い込んだ理由も今なら分かる。
 おれはたぶんこの界聖杯に、あの野郎(バカ)を斬る為に招かれたんだ」

 ……誰も言葉を挟める筈などなかった。
 文字通り死を越えて尚続く因縁なのだ。
 光月おでん。義侠の風来坊、そしてワノ国にその人ありと畏れられた侍は。

「因縁に決着を着けてくる。カイドウが霊地を握れば、この東京は"地獄"に変わる!」

 今まさに、討ち入りの再演を果たそうとしていた。


 ……。
 …………。
 ………………。


「……悪いな、縁壱。勝手言っちまってよ」
「毎度のことだろう。そう改まって詫びることもない」
「いや、今回ばかりは話が別だ。生きてお前の前に帰れるかも分からねえ」

 それから、やや暫く時が経って。
 おでんは縁壱に、らしくもなく頭を下げていた。
 とはいえこればかりは譲れない。
 縁壱がカイドウと結んだ契約のことは知っているが、それでも霊地なんて厄ネタがカイドウの手に渡ることだけは断じて認められなかった。
 あの怪物が、悪魔の実すら凌駕する更なる果実を食らって肥え太ったならどうなるか。
 一度矛を交えた身として、想像もしたくなかった。

「おれは過去にカイドウと戦い、奴を確かに斬り伏せた。
 奴がどう戦うのかは知ってるつもりだ。だが……」

 おでんの双眸が、遥か彼方を見据える。
 あの頃のカイドウならば、死闘にはなるだろうが勝てないとは思わない。
 何しろ一度斬り伏せた相手だ。双方にとって不本意な横槍が入り一騎討ちの勝敗は流れたが、それでも負けねェと吠えることは出来る。
 だがこの世界で今、現在進行形で猛威を奮っている"カイドウ"については少々話が違っていた。

「……あの野郎、おれが死んでる間にクソ真面目にも"鍛えてた"みてェでよ。
 昼間感じた覇気は確かにあいつのものだったが、おれの知る野郎のそれとは格が違ってた」

 ――それに続く言葉は。
 これまたこの男らしからぬ、弱音だった。

「大見得切ったが、正直勝てるか分からん」
「……それはお互い様だ」

 それに対し縁壱もまた、短く答える。
 彼の兄はまだホテルの外で周囲を警戒しているようだったが、もし万一にでも今の言葉がかの者の耳に入ったなら――ただでは済まなかったろう。
 だが縁壱は、おでんに合わせて無理に弱音を絞り出した訳ではなかった。
 彼は弱音など吐かない。
 天禀の頭脳で冷静に算出した一つの結果として、これから自分の進む道は難儀なものであるとそう語っただけに過ぎない。

「私はそのカイドウと契約を結んでいる。新宿を焦土に変えた下手人の片割れ、鋼翼のランサーを討つ契約を」
「あ――そうか。ならお前も付いて来た方が都合が良いのかよ。
 くそ、こりゃマズったな。霧子の嬢ちゃんを巻き込みたくはねェし、かと言って一人残していくのもどうなんだって話だし……」

 どうしたもんか。
 おでんが眉間に皺を寄せる一方で、少女達は。



「あの……鳥子さん……。ちょっと……お願いしたいことが、あるんです…………」
「へ? お願いしたいこと? いいよいいよ、出来る範囲でなら聞いたげる。霧子ちゃんには借りもあるしね」
「お電話を……貸していただいても、いいですか……?」
「電話を? 別にいいけど、電話なら部屋にも――って、あ~……」

 霧子の嘆願を受けた鳥子は、言いかけたところで気付く。
 この部屋の電話は、先刻のゴタゴタの中で見るも無残に壊れてしまっていた。
 別段プライバシーを気にする柄でもないし、まして相手は命の恩人だ。
 快く端末を差し出すと、霧子はそれを両手で受け取って、淡く笑った。

「いろいろあって……電話、壊れちゃって……。大事な人たちが、心配しちゃってるかもしれないから……」


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2022年11月18日 23:44