◆





「どいつもこいつもさ、守るだとか奪うだとか、筋違いもいいとこじゃねえの?」





 ◆






 中央区から港区へと、東京タワーに続く経路上───芝公園は増上寺。
 境内中央の大殿前に、巨大な像が居座っていた。
 胡座をかいた姿勢で重く腰を下ろし、いるだけで寺の雰囲気を根こそぎ破壊するほどに異質と威圧で。
 7メートル超の身の丈。筋肉で膨れ上がった全身。頭頂には魔羅の証の両の角。
 金剛力士をなぎ倒し、仁王も踏み潰す、障害殺戮を司る欲界の王。
 寺院に鎮座するに罰当たりこの上ない様相が、木像どころか生きた人間であったという事実こそは、仏道を無縁無益と嗤う悟りの妨げか。


「───召喚されてから、この地を色々見て回ってはいたが……」

 大人が数人収まりそうなほどに大きな陶器の酒瓶の口を逆さに掲げる。

「メシの旨さにだけは、裏切られた試しはねぇな」

 落ちる濁り水を、顎を濡らすのに構わずむせび飲む、像と向かい合う男が言う。
 魔王尊と対峙するのは仏陀ではなく、神にも仏にも至らぬ侍姿。
 相手程でなくとも十分に浮世離れして、それでいて不思議と周囲を馴染ませる、別の意味で異質な存在感。

「牛丼は早くて安い! 夏でもおでんはダシが沁みてる! 酒や氷菓子がいつでもキンキンに冷えたままいただける!
 辛いのから甘えのまで数が豊富に過ぎる、まだ歌舞伎町しか制覇できてねえ! 大盛りっていっときながら椀に収まる程度なのはキズだがな!」
「……そこについては、まあ、同意してやるよ」

 王が、応えた。
 侍が投げてよこした酒瓶を受け取り、同じく持ち上げて嚥下する。

「はっ、まさかお前と意見が一致するたぁな」
「抜かせ。お前相手じゃなければ"泣き上戸"で辺り一帯更地にしていたところだぜ」

 共に一呑み、の度合いが成人男性のアルコール摂取量の限界値を超過しているが、意識の混濁はおろか顔に赤みさえ見せずに。
 "ざる"や"うわばみ"でも言い表わせない、浄水かのように回し飲みをし続けて。


 殺意と戦意が交差する。
 意志と遺志が邂逅する。


「"これ"が20年焦がれ続けた決着の開始だなんて──────呑まなくちゃやっていけねえに決まってるだろ……なあ、おでん」
「おれにとっちゃつい一月前の話だぜ──────しかしまあ……見違えたな、カイドウ


 ライダーのサーヴァント。”百獣海賊団”提督。”百獣のカイドウ”。
 セイバーのマスター。”ワノ国将軍光月家嫡男”光月おでん

 時代を経て、場所を超え、因果流れる地平の戦場で再会を経た二者は。
 剣を交えず、覇気を放たず、ただ、共に酒を酌み交わしていた。


 ◇



 中央区から飛び立ったカイドウは、霊体の状態で東京タワーを目指していた。
 開始(はじ)まる大一番、峰津院の抱えた霊地を巡る争奪戦。
 それは取りも直さず、獲った相手が王手に指をかけるまでに進む状況の発展。
 聖杯戦争の終着を決定づける、盤上の勢力図を一掃させるに十分の札になる。

 その開戦の号砲を挙げるのは、やはり仕掛ける側を締めるカイドウかリンリンでなくてはならない。
 差し出してやった誘いの手をかわすあまりか、特大の唾を吐きかけて一杯食わせた大和達への報復(ケジメ)。
 自分達でなくては、奴らの牙城に罅割れさえ作れないだろうという自負。
 小細工も、策謀も、ここに至って最早意味がない。
 意味を持つのは、純粋無垢なる暴力のみ。
 小蜘蛛の巣がまとわりつき、蟷螂の鎌が指を引っ掻こうが、意にも介さず進撃するのみ。
 裏の掻き合いは海賊の常套手。やりたければ好きにすればいい。
 それで取れると思うなら──────皇帝と呼ばれるその意味を、涙ぐましくもせせこましい奸計ごと、身体に教え込ますのみだ。


 睥睨する地上の景色に変化が見られる。
 目的地に近づくにつれ、人の気配が消えていく。寄り付く足自体が目減りしている。
 有象無象が集まる事を妨げる結界が敷かれている─────事前に偵察に向かわせたリンボからの報告だ。
 加えて、呪法の知識なくば、往来にいながら濃霧立ち込める樹海を彷徨うか如く行き先を見失う遁甲が張り巡らしてあり、それも破っておいた、とも。
 まさか四海を収める龍王が山で遭難などという愚昧を犯しはしまいがと、要らぬ口添えをしながら。
 使えはするが、やはり邪魔も大きい。今回の戦果に見合わないようであれば次こそ捨てるかと思案し。
 増上寺上空、タワーを目前にしたところで、カイドウはその『視線』を受けた。

 射抜く視線。射貫く眼力。
 霊体化など知るまいと、そこにいるだろうと厳然と見咎められている感覚。
 何よりも、そう何よりも───実体を持たず剥き身でいたにも関わらず、霊基という情報に刻まれた『痕』が激しく疼いたのだ。
 熱すら持ったような肉体の傷跡。消えた程度で忘れるなと吠え立てる。
 その時、悟る。今のは射られたのではない。
 これは斬撃だ。
 この奥底の疼きが、この魂が燃え盛る熱が、弓矢銃弾の傷如きであるものか!

 中空で魔力を凝縮、然るに実体化。
 エーテルの塊であった魂が物理制約下に置かれた事で進路も直下に変更。着地、否、墜落する。 
 寺の境内に二の足で上から侵入。落ちた衝撃など、寝覚まし代わりの自殺にもならない。
 そうして降り立ったカイドウは、己の目で、五感の全てで、前に立つ人物を確認した。


 英霊として記憶された過去の映像がそのままに投影されたかのような、あの時と寸分違わぬ覇気のかたち。
 その顔も、格好も、立ち居振る舞いも、どれも疑う余地のない。
 後の世に四皇の名で君臨するカイドウを挫き、しかし乗り越え、だというのに拭えぬ慚愧を残し続けた男。
 残った傷と、癒えぬ疵を生涯刻まれる事となった男。
 光月おでんとの再会を、遂に果たしたのだ。




「で、何だ、これは?」




 ───────だというのに。


 宿敵と怨敵が、砂利の下で座り込んでいる。
 受け取った酒を呑み、相手に投げ渡してはまた呑むの繰り返し。
 宴と呼ぶには人も陽気も足りなすぎて、葬式の通夜めいて静まり返っている。
 同じ盃を交わすは契の証というが、結び合うのは抑えるに抑えきれない鬱憤と憤懣だけだ。

 海賊は宴を嗜む。
 騒ぎ食べ、暴れて呑む、常在戦場の死と隣合わせの人生では、楽しめる時に楽しむべきという考えをしている。
 恐怖で配下を従える頭目もこの時ばかりは規律を緩め、無礼講を許す度量を見せなくてはならない。

「お前が『命』と『目的』の損得勘定がつかねえバカなのは重々承知してたが……俺を前にしながらやる事が”酒盛り”だァ? 
 一体どういう了見でいやがる?」

 そしてこれは、限度の底をとっくに割っている状態だ。
 岩塊よりも巨大なカイドウの全身は、溶岩に置き換わってしまうかのように荒ぶる大気を纏わせている。
 言葉にすれば激怒であり、逆鱗だ。
 大人しく席についてるのは、急激な高ぶりのあまり感情が追いついてないためだ。
 あとひとつでも気に触れるものがあったなら、振り切れた情動そのままに東京タワーに突進敢行していただろう。

「なに。戦う以外でどうにか足を止めさせてくれって依頼だったからな。
 ただ黙って睨み合うだけってのもアレだろうし、じゃあとりあえず呑むしかねぇだろ」

 決壊寸前のカイドウに対して、おでんの態度は冷静だといえるだろう。
 感情に体を震わせず泰然とし、声も荒らげたりせず落ち着いたものだ。
 ……顔面に幾つかの青筋を立てている通り、本人も我慢ならぬ思いを溜め込んでるのが丸わかりだが。

 至極当たり前だ。
 国を荒らした男と、国を守れなかった男。
 死ねなかった鬼と、死にきった侍。
 一堂に会してしまえば、待っているのは止まった時計の針の先、ワノ国騒乱での再戦の幕開けでしかない。



「──────巫山戯てんじゃねえぞ」


 ───稲妻の網が境内を囲う。
 地面の石が飛び散り、木々の葉が弾け飛び、寺の柱に亀裂が走った。
 カイドウの意図ではない。怒気を堪えきれずに体外へ排出された覇王色の余波。無意識の発露だ。
 当のおでんが不承不承としているのも、苛立ちを深める原因か。

「お前がいると知らなくても、俺は元から聖杯を獲る気でいた。
 いよいよ勝つか負けるか分け目のを始めようって時に、連中に機会を譲ってやって、お前との決着も預けろ? 『また』弱者に泣きつかれて手を誤ってるんじゃねぇぞ。
 この期に及んで敵同士で手を繋いで一斉にゴールしようなんざ腑抜けた妄言を……よりにもよって『俺とお前』がやれると冗談でも思ってんのか?」

 見えた念願の敵に、挨拶代わりと棍棒を振り上げたところで、おでんの口から出た話はなんと”一時休戦”だった。
 この先の峰津院のマスターと、戦わず事を収められないか話し合いをしている奴がいる。それが終わるまでは誰とも戦わずこの場で待っていて欲しいと。
 その為の特使としておでん、そしてそのサーヴァントのセイバーが、それぞれカイドウとビッグ・マムの前に送られた。

 言っている事は、なるほど例の『方舟』陣営の差し金だろうとはすぐに察せた。
 リンリンのマスターに身内を削られ、更に尖兵に仕立てた連中の上役のマスターに二騎のサーヴァントを屠られた。
 力はおろか意志すら砕いて、もう立ち上がる気力も尽きたかと思えば懲りずに再起するとは、思ったよりも骨があるらしい。
 しかも相手があの峰津院大和とは、よほどの肝の太さがなければ敢行しようとすらしないだろう。
 馬鹿な行い、無謀な自殺志願と笑いこそすれ、剛毅な決断にはある種感心する面もあるのだ。

 だが、そのために人の因縁をダシに使われたとなれば、抱くものはまったく違う黒き暴意だ。
 おでんと自分をぶつけるのは、明らかに二人の関係性を把握した上での差配だ。
 話をされたなら、是非はどうあれ耳を傾けざるを得ない。
 今ここで戦う気がないのなら──────憂いなき決着というカイドウの本懐を、遂げる事ができず、この先の峰津院にも向かう事ができない。
 無視して霊地に向かうなら、おでんは阻みに来る。第三者から駒として動かされたままおでんと戦わなければならない。
 そんな半端な気分では全力など出せないし───いかに20年の経過(ブランク)があるとはいえ、おでんはそんな片手間に始末できる相手ではない。
 リンリンの方のセイバーも、対鋼翼のランサーの筆頭と指名するだけの剣腕だ。古豪ビッグ・マムが負けることはないにせよ、不要な消耗を強いられる羽目になる。

 それだけの戦力を使わず、足止めなどという小間で腐らせる。
 カイドウが許しがたいとするところの焦点とはそこに尽きた。


「一度死んで脳がボケたか? それとも俺の撃った弾が脳の中で腐ってるのか?
  忘れたのかおでん、俺達は”海賊”だぞ!!!」


 ここでカイドウは留まるしかない。正解だ。
 おでんという同時代の視点を組み込んだ、見事な罠の嵌め方だ。
 だが、それがどうした。
 正しいから、それが利口だからで大人しくする。
 そんな弱腰で海賊が務まると──────”四皇”の椅子に座れると、思っているのか。

 ”自分の戦いに水を差される”のは、カイドウの最も逆鱗に触れる行為といっていい。
 自分で血を流さない連中同士での取引で、勝手に自分の処遇が決められるなど我慢ならない。
 法という、血も涙も、生きてすらない怪物は、正義の名の下に孤立した存在を主権なき道具に成り下がらせる。
 それに逆らうには、更に上の法を作るしかない。暴力と呼ばれる、世界共通の始原の法を。

「欲しいものは奪う! 邪魔者は消す! 下につく奴は力で支配する! 
 俺達に齧りつくしか出来ない弱い奴の話なんざ聞き入れるな! 信じれば裏切られ、気を許せばつけ込まれる! 奴らはいつだってそうしてのさばってきた!!
 戦って、殺して、勝つ以外に、目的は絶対に叶わねェ! それが俺達海賊の……いや世界全てのルールだ!!!
 侍(おまえ)が、無法者(おまえ)が、知らないはずがねぇだろうっ……!!」

 それがカイドウの望む”新時代”。
 死は人の完成。生きた人間の決算がそこに凝縮される。
 無様な勝利で生き永らえるぐらいなら、世界を巻き込むほどの大輪の、美しき死に花を。
 死に場所をくれないような軟弱な世界なら、自分諸共に滅びればいいという、世界を巻き込んだ無理心中。

 己が見た中で、最高の見事な死に様を見せたおでんに向けてカイドウは叫ぶ。
 所詮、我らは同じ穴の狢。戦いを歓び、殺戮を誉れとし、略奪で身を立てるろくでなし。
 傷つき、殺し、生死の境を彷徨うその狭間にこそ生の充実があったはず。
 あの渦の中だけは、人を隷属させるあらゆるしがらみから解放される、真に自由を生きれる時間。
 『そう』して生きて、『ああ』して死んだお前が、戦わない道を肯定するというのか。



「ああ、知ってるぜ」

 同じ時代を生きた海賊、カイドウの言葉を、おでんは否定せず。

「だがそりゃ、”おれ達の時代”の話だろ。死んだ後に別の国で押し通すもんじゃねぇ」

 だが肯定もしなかった。



「……おれも正直、お前と出会った時は、そこが死合の始まりだと疑わなかった」

 酒瓶を置いて、鞘に収まる柄に指を重ねる。
 悪鬼斬るべしと木霊する愛刀を腰から抜いて手放していたのを、我が事ながら信じ難く思う。

「お前から脳天に銃弾を貰ってお陀仏かと思いきや、右も左も分からねぇ、こんなところに連れ込まれて、ひとまずは聖杯の善悪を見極めることにした。
 そしたらここにサーヴァントとしてお前が招かれてると聞いて、今度こそ討つことこそが今のおれの運命だと確信していた」

 それが黄泉から叩き出された己の為すべき業。
 悔恨を祓えと天が与えた道なのだと。
 そう信じて上を向いていければ、どれほど楽な王道だったか。

「なのに───なのにだぜ。まさかそれがお前と酒を交わす羽目になろうだなんて、おれは思いもしなかった。
 可能性の器だなんだって聞いてた癖に、おれはそんな可能性(もん)はねぇと、ハナから切り捨ててたんだ」

 不覚と、言わざるをえない。
 ここに来て初心を忘れていた。
 縛る戒律も常識もない、未知の世界を見たいと退屈な国を飛び出したというのに。
 思考の一部まで違う人間がいると知って目を輝かせたあの日々を、大釜の中で錆びつかせてしまっていた。

「開口一番『いや、そりゃ無理だろ』と返しはしたがよ。おれが想像だにしなかった考えを、そいつらは始めからずっとそうすると決めながらやって来た。
 その時点でおれに文句は言えねえ。そういう『ド肝を抜く』ような事を言う奴がいるとさ……つい、その先を見たくなるんだ」

 ずっと、そうだった。
 自分よりも”大きい”相手と会った時、おでんの心には爽やかな風が吹く。何歳になっても春の桜が舞い乱れる。
 可能性は可能性。未だ現実に表れぬ蜃気楼。
 過去誰も辿り着けず、未来においても確証のない、全ては遠い理想郷。
 幻想(それ)を見たくて、おでんは走る。走り続けて、世界の場末、はみ出した外にまで来てしまった。

「界聖杯があらゆる可能性を見られる場所とするなら……おれも、そいつを拝んでみてぇ。手伝ってやる理由なんざそんなもんだ」

 バカ殿はどこまでいってもバカ殿だ。死んだところで賢君になれたりやしない。
 あの日の選択に間違いはなく、清算はあってもやり直しは求めない。
 愛しき女がそうであるように、時の針は、先に進めればそれでいい。
 あり得ないものを在ると見せてくれた誰かの返礼に、この刀を預けるだけだ。

「……新時代………………か。リンリンといい、どいつこいつも当てられやがって……!」
「なに、おれもこれで八方丸く収まるだとか思っちゃいねえ。お前や大和のガキみたいな、どうしたって戦いてえ奴らはわんさかといやがる」

 そうなった時は、それこそ是非も無し。
 改めて素っ首を懸けて死合おうぞ。
 我らは、我らが故に自由であるからに。

「まあぶっちゃけ、お前の顔を見てるだけで今にもぶった斬りかかりたくて仕方がねぇしよ!
 破談しろとまでは言わねェが、ひと悶着ぐらいは起きてもいいだろ!」
「ウォロロロ……! 口ではどうこう言いつつお前もきっちりこっち側じゃねぇか!
 それでよく交渉役なんて引き受けたもんだぜ!」
「声だけでも分かるぐらい、頭を下げる勢いで頼まれたからな。幾ら何でも見捨てられねぇ。
 おれもこのまま殺し合うだけでいいか考えたところだしな」

 かくして、矛は地に突き刺さった。
 継国の陰陽に続き、過去に取り零した因縁の再現が、一時的にせよ停止された。
 地平に続く水面に、可能性の舟がまたも出航する。
 鳥が鳴けば嵐に戻る、僅かな凪の時間でも。
 生まれたものを消すすべは、誰の手にも握られない。


「しかし、このまま大人しく奴らの思惑で呑んだくれるってのも癪だな…………。
 おいおでん、聞かせてやろうか? お前が死んだ後、ワノ国がどれだけ荒れ果てて、どれだけ家臣が死に、民が苦しんだかをよ」
「聞くかそんなもん!! お前、おれをワザと怒らせて斬らせる気だなぁ!?」
「…………………………ちっ」
「舌打ちしてんじゃねぇ!!!」

 海賊和国討龍絵巻。開演は次の幕までの持ち越し。
 代わりに演じられるは王と人の交渉台。
 革命の、朝が来た。



 ◆




 駆けてきた、夢の話を聞いた。
 歩いては躓き、走り出そうとする度に足を踏み外して転び、何度も泥を被ってきた。
 幼い頃に懐いた理想の人生には程遠い。失い、奪われ、捨ててきてしまったものだって数多くある。
 それでも、掴めたものはあった。
 泥だらけの、名誉も栄光も手に入ってない掌の中に、握られた光があった。
 全ての願いを遂げられなくとも、自分だけしか認めてもらえなくとも、誇れる答えを見つけられた。
 そういう、夢の話だ。


 東京タワー地上。
 全ての住人が我知らずに姿を消した街。
 ここに生者は一人しかいない。向かい合うは死者の澱でしかなく。
 峰津院大和以外に、『方舟』よりの使者、アシュレイ・ホライゾンの話を聞き届けた者はいない。

 王は瞑目し、黙って耳を傾けた。
 アシュレイの語る、界聖杯との交渉。その為にする全ての陣営との休戦。
 委細を余さず最後まで口を挟まなかった。

 異例ではない。彼こそは王の器。
 意思を以て話を持ち込みにきた相手を、話も聞かず無碍に返す無作法を忌む。
 真摯に当たられたなら、応えねばならない。答えの是非に関わらず、為政者とはそう在らねばならない。
 事前に調べた峰津院大和は、不埒汚行を極度に嫌う人物だから。

 そしてアシュレイは言い終えた。
 ひとまずの表明、基本的な陣営の方針と互いの要求を伝えきった。
 邪魔立ては横から入らず、最低限の条件、最初の一歩はクリアした。最大の危険要素だったランサーもここにはいない。
 初手に槍を向けられてしまえば交渉どころではない。なにせそれをされたら拙いのはこっちだ。
 戦いの傷がまだ響いているのか。だとすればヘリオスの顕現も、徒に暴を振り撒いたというわけにはならないでくれるが。

「………………………」

 交渉のとっかかりを作り、後は大和の反応を待つだけ。
 肌を刺す痛さのある時間が過ぎる。



「………………………………………………ふ」

 瞑目が、終わる。
 前髪で前半分が隠れていても、強い意志のこもった双眼がはっきりと顕れ。

「ふ、くく、くくく。くくくくくくくく…………!」

 肩を震わせ、口からは声が漏れ聞こえた。
 堪らえようと努めても、どうしても堪えきれない、恐るべきまでに滑稽なものを見たように。

 峰津院大和の笑みを、外向けの事業の作り笑み以外に見た人間がどれほどいただろう。
 ましてや、笑い声などと。天変地異の前触れかと危ぶむ者もいるやもしれない。

「…………ああ、失礼した。失笑で済ませるつもりだったが、なにぶん内容があまりに馬鹿馬鹿しくてな。
 公衆はおろか他人に笑い声を聞かせた事など初めてだ。貴様らには道化師の才能があるようだな」

 未だ笑いの余韻の残し、声の残滓に震えを引かせた大和は、直後に張りを取り戻し。

「今まで見た中で……命乞いをここまで飾り立ててみせた奴は他に例がない」

 処刑刀(ギロチン)のように冷え切った、死刑宣告も同然の賛辞を下す。

「ランサーが貴様らに退けられ、骨のある鷹が爪を隠していたものと期待して話を聞いてみれば……な。
 成る程。その認識の落差が笑いの醍醐味というやつか?」
「命乞いと受け取られるのは否定する事じゃない。救いたいのは本当だし、撤回するつもりもない。
 ただ否定するならともかく、笑い話と馬鹿にするのは流石に訂正してほしい。これは俺の独断じゃなく、彼女達みんなの覚悟だ」
「では何と返して欲しい。罵詈か雑言か、それとも憎悪か憤怒か?
 泣き震え隠れるばかりのネズミに語る舌は持たん、私が与えてやる温情は毛一本もない」


 手持ちの最強の駒を空より引きずり落とす敵の出現に、大和は方舟勢力への見方を改めた。
 偶然の堆積でも、一度限りの奇跡といえど、撃退の事実に瑕疵は問えない。負けたのなら下がらなければならないのが、大和の信条だから。
 望外の僥倖で得た実績と猶予。それを使って意気込んだ勢力が攻め込む予測はついていた。
 それがしかし、達したのはまさかの休戦の呼びかけ。
 それも一時凌ぎではなく、聖杯戦争そのものの放棄と見做せる提案。
 界聖杯の改竄。誰もが狙う財宝に手を出すどころか、分割して分け与える。
 どんな悪逆も許される界聖杯においてすら大罪と呼べる行為。大和の並び立てる通り、ありとあらゆる糾弾の言で潰すべき背信行為だ。

「だが疑問はある。『青龍』とその同格の敵。それを抑えて私に臨んだと貴様は言ったな。
 使ったのは予想するにどこの風来坊と侍だろうが、それだけの力を私に向ければ、話はより円滑に済ませたろうに……」

 数少ない、大和とベルゼバブに抗し得た一組の名を挙げる。
 圧勝を繰り返してきた主従にしてみれば、蹂躙ではなく対戦と呼べる形を成していた例外。
 それだけの戦力を味方につけておいて、この弱腰共は守りの手に割いた。この時点で戦略の無さは露呈している。

「何となれば海賊共と私を相争わせ利を狙う手も取れたはずだ。選択肢は複数あった。
 なのに貴重な力の配分を、何故こんなにも無益に消費した?」
「複数じゃない。これじゃなきゃ駄目なんだ。
 これが俺達の最善の、唯一の選択肢だよ」

 揺るがずに。怯えずに。
 大和に詰められながらも、アシュレイの態度は落ち着きを維持している。
 余裕、油断、いずれも該当しない自然体で。

「必ずしも戦いを優先しない意志。それがお為ごかしの虚勢でないと全員に見せるためには、こうする以外ないだろう?」

 大和と『M』の指摘の通り、方舟側はこれまでにない剣を手に入れた。
 交渉の術なくば即、死に際に直行……世田谷戦の二の舞になる事態を未然に防げるようになった。
 ならばいざ敵対する勢力に殴り込みをかけ、要求を呑ませよう───などという軽挙は許されない。
 力なくとも戦いを収める意志を諦めない、災禍からの護り手たる方舟だと示すには。
 力を得た途端、攻め手に転ずる行為は、脱出をただの一手段としてしか見ていないと扱われる。
 信義にもとる方舟など、原住民を騙くらかして拐かす奴隷船も同然だ。名分は地に落ち、排除の対象としか見られない。
 強硬手段に訴えられる選択肢が増え、それでもなお和平を望むと信じてもらうには、言葉以外にも示す必要があった。

 そのための、おでんとセイバーを足止め役に配置した。
 大和にもカイドウ……海賊同盟にも双方がこの二者の武名を知っている。
 一軍を落としかねない陸の黒船を非戦派の信憑性を高める手段に活用する。
 戦い、勝つ以外に重大な局面を行うぞと、状況を以て外部に知らしめたのだ。

「なにも媚びてるわけじゃないし、見返りもなしに退いてくれなんて言うつもりもない。
 受け入れてくれるなら、生還は勿論、君の願いにとってもプラスになるものを渡せる算段はつけると約束する」

 笑いを噛み殺して以降、不愉快で歪むばかりの大和の柳眉が、そこで形を変えた。
 聞き捨てならない、軽口で触れるなど許しがたい言葉を聞いたからだ。

「……貴様が私の願望を何故語れる?」
「実力主義社会の実現」

 息の止まる音は、普段ならば周囲の雑踏の騒音にかき消されて誰に聞き咎められず消えていたはずだった。


「峰津院財閥と、息のかかったグループを少し調べればすぐに分かる。
 年功序列、人種思想を廃した、徹底した能力評価。上の役職は待遇は勿論、服装や他の権限の自由も認められてる。
 労基的に見ればブラックそのものだけど、不正・癒着の温床はまったく見られない、無菌室めいたホワイトぶりだ。
 界聖杯がマスターに与える役職(ロール)が、元の世界に準じた立場を再現してるなら、母体の企業理念も概ね変わってないんじゃないか」

 無視できない既視感が、一瞬乱れた思考をすぐさま統制する。
 適格な情報収集と、そこから予測を導くプロファイリングの手腕。霊地防衛を優先せざるを得なくなった、つい数時間前の出来事だ。

「そうか。貴様『蜘蛛』の回し者か」
「回してもらったのは情報だけだ。彼と俺とでは目指す地平(さき)は違ってるよ」
「いつ四肢に糸が絡まってるとも知れぬ身でか? 今の話で、貴様は誘蛾灯に引かれるだけの虫にしか見えなくなったぞ」
「かもな。だからこそ君と手を取ることもできる」

 裏切りが目に見えている関係を、アシュレイは恐れずにむしろ根拠であると押す。
 着陸地点(ランディングポイント)が違う善と悪が手を組んでいられる。なら俺達にも余地はあるだろうと。

 ここが二歩目だ。
 次の段階へ進めるタイミングだと、アシュレイは手札(カード)を開く。

「これはまだ、俺の勝手な仮定だ。知識と経験からの憶測に過ぎない。当人の話も聞かずに決めつけていいわけはない。
 そこに到るまでに幾多の絶望を突きつけられ、希望を踏み躙られたかなんて推し量る事すら烏滸がましい」

 それは、アシュレイの側の既視感。
 アシュレイが大和に話をしたいと感じた、そもそもの発端。

「だけどもし、君の目指す先が光(つよさ)だけを求める世界なら。
 俺は何としても、君に訴えなくてはいけない」 
「何故だ」
「その理想に心身を燃やされ、そこから羽撃いた者として」

 峰津院大和を調べる内に、脳裏に浮かぶ忘れがたい顔。
 認めたくなくても、アシュレイ・ホライゾンとレイン・ペルセフォネを運命の輪に放り込み、光と闇の宿命を決定づけた張本人。
 ギルベルト・ハーヴェスの影を背負う男へ相対する、努めと責任を。



「私の理想を知る、と言ったか」
「ああ」
「ならば答えてみせろ。いったい何が問題だという」

 前髪に隠れていない片目には、明らかな烈火が宿っている。
 地雷を踏んだな、と悟る。触れてはならない領域に手を付けてしまった。最早吐いた唾は飲めないぞ。

「生きているだけのゴミがのさばる野を焼き払い、真に人が地上を歩く未来を築くのに何の疑問がある」
「頑張れて、できる奴だけが人で、そうなれない奴はみんな屑扱いか?」
「機会も手段も平等に与える。それでも這い上がれないのなら、そいつの意思か能力不足だ。不遇をかこつのは妥当な位置だろう」
「手段……?」
「聖杯戦争だ」

 一気に、心胆凍りつく思いに駆られた。まさかそこまでするのか。
 実力主義と、聖杯戦争。
 このふたつを組み合わせて生まれる社会が、どんな社会を形作るのか、あまりにも早く理解できてしまった。

「このシステムを私は手に入れる。界聖杯がどれだけ不良品だとしても、この機構だけは間違いなく使用できると今も保証されてるのだからな。
 構造も私の世界に近い概念だ。馴染ませるのは容易いはずさ」

 熱狂的でもなく、偏執的でもなく、狂信的でもない。

「そして私は、そこで聖杯戦争を興す。無期限に、何度でも。
 私の理想を共に遂げるに足る者を揃え、理想叶いし後の新世界にも基礎として添える。
 強者は何をするも自由だ。天下を握ってもいい。守りたい者を好きに守ってもいい。技術、芸術、産業、望むままに発展させて構わない。
 弱者も、格差を理由に甘んじる必要はない。剣は無数に用意する。後は握るか手放すかだ。
 飛び立つ鳥を囲う檻はない。どこまでも遠くへ飛翔しても、才覚さえ発揮すれば誰も口を挟まず見届けるだけだ」

 ただ、そうするのだという、地を貫通する塔のような信念だけがある。

「言うなれば───『英雄作成アプリ』。
 英霊を競わせる儀式から生まれるには、中々皮肉のある名だとは思わないか?」

 痛快と笑みを零す大和は、至って正気だ。
 正気のまま、狂気の沙汰を口にした。
 この界聖杯の内界を。無辜の住人を餌とし、幾度も街を灰燼に変える破壊を巻き起こし、
 生きたいという叫びも壊すという悲鳴も一緒くたに、奈落に捨てる機構を。
 世界の摂理、祈る星の形だと断言したのだ。


「今の社会は、弱者に優しすぎた」
「………………」

『まさかそこまで似ているのか』。
 出かかった言葉は喉元で止めた。
 同一視はよくない、流石にアレと同類は失礼だと言い聞かせても、そう思わずにはいられない。


「自国の民を救うまではよかった。歯車の輪から零れ落ちた落語者に再出発のチャンスを与えるまでは許容できた。
 だが法として根付くにつれ、それは常態化され過ぎた。弱者のために生きるのは強者の努めだと、知らず知らずのうちに刷り込まれた。
 結果、奴らは肥え太った。働かずとも口を開けてれば餌が舞い込んでくるからと、その立場に甘んじた。
 生活保護、福祉など最たるものだ。他の誰かが世話をしてくれるから何もしなくていい───まるで寄生虫だ。薄汚い資産家共の方がまだ利益の為に自ら手を動かすぞ。
 困難も試練もできる者がやればいい。自分達はそんなのは知らない。できない。やりたくない。
 それを責めれば奴らの口上はこうだ。『何故なら我々は弱者だから』。『恵まれた側に何が分かる』。
 いったいいつから、弱さとは責任逃れの金看板になった?」

 誰かのために戦いながら、報酬もなく走った者への嘆きも。
 そんな素晴らしき光に救われながら、己の足で立ち上がろうとしない者への怒りも。

「強き者、正しき信念を燃やし奉仕し続けた者の労苦はどうなる? 
 彼らの骸の山で、血も汗も流さず享楽に耽り続ける奴らの痴態がその報酬だとでも?
 光のため、誰かのためと散った殉教者の後に残るものは、黄金以外の価値を解せぬ虫竜(ワーム)の巣か?
 あっていいはずが、ないだろうッ」 

 英雄譚の悲劇が焼き付き、亡者と成り果ててしまった男の本音(いのり)と、あまりにも似通う部分が多すぎた。


「私は今の社会に期待しない。今の人類に希望など抱かない。
 人間とは全身に転移したガン細胞の別称だ。切除を果たしても、後は骨と皮しか残るまい。
 隣人を愛し、博愛を尊び、進歩を重ねるのが人間の正しく姿というのなら、人間と呼べるモノは既に地球上に存在しない。私も含めて」

 ならばどうする。問うまでもなし。

「故に、生まれ変わらせる。どれだけ根治してもすぐに細胞が壊れるというなら、破壊に打ち克つ体を作り出す。
 これを叶えんがためなら、神にも悪魔にも手を伸ばそう。これを阻むものには、神も悪魔さえも滅ぼそう」

 前に伸ばし、握りしめた手の中には、真実神魔を手中に収めんとす力量が秘められているのだろう。
 大和にとっては、膿んだ世界の跳梁を看過した上位者すら排斥の対象に含まれる。

「時間稼ぎはここまでだ。答えてみせろ交渉人(ネゴシエーター)。
 己の潔白を証明し、私の罪を糾弾できるものならやってみせるがいい。その上で私は貴様を殺し、返す刀で方舟も墜とす」

 両手を広げ、待ち受けるようにして大和は構える。
 さあ、審を下してみせろと。私の描いた理想を、どのような絵空事で否定してみせるのかと。
 否定したところで、だが殺す。それを拒むのであれば殺してみせろ。それ以外に止まる道はありえない。


 ……声だけで肝が小さければショック死させる質量の圧力を受けて、アシュレイの胸中が得たものは、納得だ。
 ああ、許せないのはそこなのか。怒りを感じてくれてるのか。

 ならば、そう──────まだだ。
 祈る星の形がそれなら、まだ俺達は、平行線なんかじゃない。


 やはり、審判者(ラダマンテュス)と彼とは似ている。
 だが、少し違う。そしてその違いはアシュレイには決定的な差異となる。
 諦観していた理想の体現を目の当たりにして盲いてしまい、亡者の如く彷徨っているわけじゃない。


「ああ─────。なら俺の返す言葉は、最初に決めていた通りだ」


 手を伸ばす。
 大和と鏡写しに、真逆の意味を指に乗せて。



「その願いに協力する。それを以てこの戦いの全てを丸く収めたい」



「……何」

『は!?』




 意識を、数秒手放すところだった。
 ここに来て大和は、この交渉人の正気を疑うという考えを遅まきに抱くに至った。
 常に深慮を絶やさず、相手方の如何なる言葉にも乱されまいとしていた少年の、それは初めての意外性、驚き、だった。

「優勝を手伝うって話じゃないから、そこは勘違いをしないで欲しい。
 俺達の要求はまだ生きているマスターの無条件の生還と、サーヴァントも含めた、叶えられる範囲での界聖杯の使用権の分割。
 それさえ呑んでくれるなら、君の世界の問題解決に支援を約束する」
「……吐き気を催すほどに不愉快だな。そんな皮算用に、私が頷くと本気で考えてるのか?」
「ああ。だって、君は絶対に聖杯が必要というわけじゃないだろう。
 『聖杯が不良品でも構わない』なんて、聖杯(それ)しか頼みの綱がない人の言う台詞じゃない」

 またしても正鵠を射る指摘。
 知らず、眦に反感の色が宿っているのに、大和自身気づいているのか。

「何らかの代替手段、あるいは元の世界には、予め目指していた『本命』があるんじゃないか。
 宇宙の法則(すべて)を塗り替えてしまうような、規格外のシステムが」

 何故ここまで、この男は預かり知らぬ筈の自分の世界の機構を知るのか。
 まるで見てきたかのように、実体験として語るようかのような真実味を保って。
 胸中の疑問すらも、見透かしたように解答に引き継がれる。

「似たようなのがあったんだ。俺が生きていた世界にも。
 祈りを向ける星次第で願った通りに世界を変える、都合のいい魔法のランプがさ」

 その名は極晃星(スフィア)。
 星辰光(アステリズム)の能力値を限界突破し、思いを同じくする人とで昇華される、到達者の人生を統括する勝利の答え。
 辿り着いた者は、同位以外の能力者とは隔絶した力と、それぞれの異界法則を世界の秩序として流出させられる。

 大和しか知るまい、北極星(ポラリス)に近似する、森羅万象に及ぼす星々こそが、アシュレイがここまで近づけた理由。
 そして極晃星の創生を巡る物語の中心に座するのが、目の前の大和とよく似た経緯の持ち主だった。

「俺の予測も君の願いへの沿い方も、俺自身から出てきたものじゃない。
 霊基(からだ)に残る過去の知識と記憶の中に、君とよく似た祈(いか)りを抱いた奴がいたからだ」

 アシュレイは語る。


「そいつはなんというか、頭の固い奴が盛大に弾けてしまったっていう奴でさ。
 不正があって不公平があって、それが人の社会において無くしようのない宿痾だと悟って、それなら自分が舵取りを取って少しでも格差を減らそうとしていた。
 けどそいつは精神を焦がされた。貧民の出で、何の後ろ盾も持ってないのに、実績と精神力だけで軍部のトップにまで登りつめた『英雄』に」

 それが審判者と名付けられた男の始まり。
 英雄譚の描かれた絵巻を現実に書き起こそうとした、極熱の火が着いた瞬間。

「本物の英雄だったよ。俺も心から憧れた。
 自国のため、顔も見えない誰かのために命を賭けて戦える、人間の理想の限界点みたいな人だった。
 だから、自分の諦観を根こそぎ斬り伏せた男を見て、そいつは思ってしまったんだ。
『何一つ持たざる彼ができたのなら、他の人だって頑張りさえすれば何でもできるはずだ』って」
「その話に出てきた男と、私が同じだと?」
「全部が全部、同一なわけはないさ。起源はそれぞれのものだから。
 でも、報われるべき人が報われない世界を憎んだという一点は共通してるだろう? それでつい、思い出したんだ」

 極楽浄土(エリュシオン)と銘されたそれは。
 審判者の掲げる楽園とは、正に大和の理想の極値点とでもいうべき場所。
 能力、思想、態度、行動、精神……善とされる要素を持つほど評価が上がり、逆に悪なる要因を生めばその分評価を落とす。
 優劣善悪の明暗をはっきりと区切る、正しさしか認められない純烈なる牢獄の名。

「俺はそいつの計画の一部に使われた。失われた英雄の再現と、新しい秩序を生む星を造り出すために。
 気が狂いそうになるくらい、本当に気が狂ってもまた正気に戻されるくらいの苦痛を与えられて、今までの記憶とその先の寿命(みらい)も根こそぎ奪われた」
「それで反旗を翻した、か。何のことはない逆襲撃だな。私の課すルールに何ら抵触していないぞ」
「戦って倒しはしたさ。ろくでもない世界になるのは目に見えてたからな」

 公正に過ぎたこのシステムの最大の問題点は、評価の基準が人間の最大値を走り続ける英雄に置いてある点だった。
 『彼にはできた』。ならばできないと諦めるのは怠慢に他ならない。刑罰執行。
 困難が立ち塞がり、これ以上ないくらい努力しても上手くいかなかった。では更に努力しろ。『彼ならやれた』。減点罰金。
 結果、追い縋り、恩恵を受け取れるのは、極々一部の超人のみ。
 その例外すら、僅かな気の緩み、ふとした弱音で容赦なく裁断される。
 これでは人の世が上手く行くわけがない。比喩抜きに人が滅び、楽園は無人の荒野に変わる。

「その起源には偽りも間違いもないと思ったし、そのろくでもない所業の成果で、最後には奪われた以上のものを手にできた。
 それで、全部にケリがついた後になって、ふと思ったんだ。また同じような止まらぬ願いで突き進む奴に会った時、俺はどうするのか」

 大和の理想がギルベルトのそれと逸れている箇所。
 それは能力の有無と人格の善悪を分けていること。
 正義と善心しか認めない極楽浄土と異なり、大和の世界は能力のみが重用される。
 それは大和自身、自分を悪だと認めているからだ。
 これが正義ではないと理解し、罪を背負う覚悟を決め、やらねばならぬと突き進む。
 そんな在り様はむしろ、かの英雄の方にほど近くて。
 アシュレイが信ずるに値する性であると、決めた根拠の一つでもある。

 極楽浄土よりも縛りを緩めた、善悪の秤の破壊。
 一定の自由を許す分マシにも見えるが、そこにこそ特大の爆弾が仕込まれている。

「頑張って結果を残せる人が報われるのは素晴らしい事だ。理不尽なんか無い方がいいに決まってる。
 だけどその自由を担保するものが暴力しかなかったら、成り上がれるのは結局、暴力が上手い奴だけだ」


 だって、勝負というのは、言ってしまえば悪意の強い方が勝ちやすい。
 相手の弱みを見つけ、付け込み、執拗に狙い続けミスを誘うのが上手い側ほどよく勝てる。
 スポーツやゲームの世界で、これらの研鑽は基本的に推奨される。
 度を越した卑劣な手段は、ルール違反として罰せられるからだ。
 その枷を解いてしまえばどうなる?
 行政、技術、芸術、産業……全ての営みの維持発展に暴力が必須なら、法律とすり替わっただけで何も変わっちゃいないではないか。

 善なる心、正しい手段で戦う事は、どうしたって手段が限られてしまう。
 彼らは善なるが故に他を貶める行いを容易に取れず、それを苦もなく取れる相手に常に苦戦を強いられる。
 戦争史を紐解けば、そうした善悪のバランスの不均衡の例は枚挙に暇がない。
 悪と戦う側が強ければ、まだいい。
 では才能ある者が、勝つ事に躊躇なく悪辣な手を使い、一番強い善を倒してしまったら、その者を認めなくてはいけないのか?

「その世界で真っ先に脱落するのは、弱者でもなければ愚者でもない。
 君が報われて欲しいと願った、まだ芽吹かない若い才能を持った人だ」

 魔王を倒す勇者が軒並み滅ぼされた世界で、勝つ術をどうやって見出す。
 やがて生まれる真の英雄に全てを託すとして、それまで世界が保つ保証がどこにあるというのか。
 一握りの支配者の気分次第で星が滅ぶ可否が決まる。
 能力を至上とする社会とはこのように、たった一度の台頭で世界がひっくり返る危険性を孕んでしまう。

「生きるという行為は常にリスクと隣合わせだ。滅びと繁栄はワンセットで然るべきだろう」
「世の中の在り方を何度も逆転なんてしたら土台が持たないぞ。創る側が育たなきゃ資源は目減りする一方で、行き着く先は原始時代の殴り合いに逆行だ。
 優勝した末に叶った世界がそれじゃ、犠牲者(おれたち)も含めて幾ら何でも救いがなさすぎる」

 ”だったら、どれだけ好き放題やっても壊れないよう土台そのものを増強してしまえばいいじゃないか”。
 ……という考えを出した誰かがいたが、ここは飲み込む。
 それは人心を擦り切れさせた神祖(カミ)の思考だ。アシュレイには勿論、大和にも相応しくない。

 失望は期待の裏返しというが、それなら大和の怒りは、彼がまだ人として途上にある証だ。
 心底から人の性に絶望しているのなら、怒るという感情の燃焼は浪費(ロス)でしかない。
 粛々と計画を進め、誰も気づかないうちに唐突に発動してお終いにするだろう。
 大和の目は潰れておらず、熱も生きている。未来の可能性は閉じきっていない。
 ならばアシュレイのやるべき事とは、前例を知る先導者として、二の轍を踏ませない事だ。


「……」

 これまで即座に切り返してきた口を暫し閉じ、黙考する大和。
 己とアシュレイの意見の擦り合わせをしている。考えるだけの余地が生まれている。
 価値の値踏は、些細ながらも確かな成果だ。


「仮に……貴様の言い分を認めるとして、私の計画に修正をかけると了解するとしてだ。
 この場をどう収めるという? 界聖杯の制約を解除できない限りは、貴様の語るプランこそが実現性に欠ける博打だ」

 そう、ここで話は振り出しに戻る。
 聖杯戦争に勝利したただ一人が生還を許される。これこそがまず大前提となっている。
 これを覆さなければ、どれだけ弁を立てようとも状況は殺し合いの続行で元の木阿弥。
 大和の理想に力添えするという、聞こえのいいアシュレイの提案は、自身の首を捧げるという形で成される形になる。

 ……と、そこまでして大和は気づく。
 是正措置と改善案を提示された。長い議論も結局言われた内容はそれだけだ。
 つまり大和の新世界の調整案になりこそすれ、方舟の利にはまったく意味がない。
 何なら、今すぐ方舟を攻め落としてしまえば、得をするのは知恵を送られた大和だけだ。
 その穴に思い至らない程度の知能か。いやそれはない。それではそんな蒙昧の輩の甘言に耳を貸して、思考を回してしまったことになる。
 では、やはり、敵に塩を送る真似をする意味が本当に、大和の世界の未来を案じての助言だとでもいうのか。

「提示できる手段は、最初に言った通り複数ある。
 聖杯の使用権の分譲。有志の界聖杯からの脱出と、参加者抹消による無効試合(コールドゲーム)の設定の解除」
「全て叶わなければ」
「その時は─────仕方がない。順当に優勝者を出しておくしかないな」
「ほう」
「ただ願うのは個人の願いじゃない。聖杯獲得者以外の生還を、聖杯自身に叶えさせる」

 いうなればそれは、目的と手段の逆転だ。
 聖杯を出し抜く方法を思いつかないのならば、聖杯の力で方法そのものを生み出してもらえばいい。
 優勝者の決定と、界聖杯の崩壊には恐らくタイムラグがあるはずだ。願望器に命令を入力するまでに、足場が崩れて急かすなんてスリルを味合わせるユーモアがあるのだろうか。ないだろう。
 よしんば間に合わずとも、数分単位のタイムパラドックスの修正ぐらいはフォローして貰わなければ、聖杯の名前負けだ。

 実のところ、このプランは界奏実行よりも前に描いた最初の案だ。
 聖杯戦争に則りつつも多数の生還者を出す点において、至極単純かつ確実だった。
 それを真っ先に公開しないでいたのは……これも単純な理由で、優勝するという行為自体の難易度の高さ。

「ようやく欺瞞が剥がれたな。生還のためだけの願望器の使用など、認めるのは怯えきった弱者だけだ。
 全員殺し尽くす我々よりも遥かに無慈悲な手段じゃないか」

 そして大和の言う通り、これを果たす事は、全てのマスターとサーヴァントに願いを捨てろと言っているも同然な事だ。

 ただ巻き込まれただけの可愛そうな無辜の民がいるので、彼らを優先させて帰らせます。他の参加者には悪いが無駄骨を追って帰ってくれ。
 倫理的には正論だが、それで納得できないからこそ聖杯に臨むのだ。
 願いと呪い、自責と罪悪感で雁字搦めになって、戦う以外の目を開けられなくなったマスターが、実例として現れている。
 願いのために命を踏み躙るも、命のために願いを否定するのも、ここではいずれも等価値。
 田中摩美々、アイドルが抱える痛みに、これが真理と断定して出せる答えは存在しないのかもしれない。



「もしそうなったら、俺が責任を背負って果たす」


 なので。差し出せるものはこれくらい。



「まだ生きているマスター。彼らと語り合い、答えに折り合いをつけて、それぞれの世界に行って最善手を探し出す。
 そこで可能なだけ、彼らの叶うはずだった願いの手助けをする」



「──────────────────」

『はあああああああ!?』


 今度こそ、二の句が告げられなかった。

 異常だ。狂ってる執拗だ病的に過ぎる。
 何故そこまで頑なに貫ける。
 いったいどんな遍歴を重ねて死ねば、こんな精神の人間が生まれるのか。


 このライダーは。仮にも人類史に名を刻んだだろう英霊の魂は。
 全てのマスターの命令に服従する奴隷(サーヴァント)に成り下がると、言ったのだ。

「疑わしいなら令呪で縛ってもらって構わない。むしろそうしてくれないと現界に支障を来す。
 俺の能力はそういう、『他の誰かの能力を借り受ける』形に特化してる。魔力(もとで)はどうしても要るけれど、用立てさえあれば手数だけは多いんだ」

 界奏は、要請さえ許諾されれば無制限に能力を借用できる幅広さでこそ真価を発揮する。
 そして英霊の座という高次元にアクセスしている以上、引き出せるのは既知する全ての英霊の能力である。
 必要な力を必要なだけ貸す、という言は偽りも奢りもない厳正なる事実。
 保有者の了承と、引き出せる魔力さえ確保できていれば、アシュレイ・ホライゾンはあらゆる英霊の宝具を担える万能の御手なのだ。
 世界を知り、人を知れば知るほどに手に取れる数は増え、宇宙に散らばる星々がアシュレイに光を貸してくれる。
 時間と空間の軛から外れた身であれば、数値上は全ての世界で同時に問題解決に奔走しているように見えるだろう。
 例外になるのは一つだけ。
 実際に複数の世界を渡り歩く時間を過ごす、アシュレイの自意識だけだ。


「何だ……貴様は。自分が万能の神であるとも宣う気か」
「都合のいい神様になんかには、死んでも俺はなれはしないさ。
 皆(だれか)のヒーローだと、大言吠えて狂い哭いたところで、一人じゃ何もできない半端者だ。
 取り零しや、納得いかない答えしか出せない事もきっとある。
 けど願いを諦めて手ぶらで帰れって言うんだ。頭を下げるだけで済ませられる話じゃない。これくらいの骨折りはしなくちゃ釣り合いが取れない」

 誰彼構わず救うなど、口が裂けても言えるものか。
 できるのは、力を貸す事だけ。
 信じた誰かの未来を信じて、善き道であると安心させて、背中を軽く押してやるだけの、余計なお節介。
 死者の領分なんて、それで十分。オルフェウスやエウリュディケには荷が勝ちすぎる。

 無限の放逐。
 億年に近しい平行線。
 そういうものであれば、自分はきっと大丈夫だ。切った張ったをするよりもずっといい。
 躰に戻ってきてくれた片翼とも、そうやって折り合いをつけてきた。
 生身のままであったら、残しておくものが多すぎて遠慮被りたい思いもあったけど。
 只人のまま一生を終えた、誰かの夢であるならば、永い旅路もそう、悪いものじゃない。



「我らは元よりサーヴァント。誰かの願いの形で作られた泡沫の幻像だ。
 俺は俺を信じてくれた人のために、この身体(げんそう)をみんなに返すだけだ」


 生涯の伴侶。
 愛すべき仲間達。
 彼らの祈りによって生まれたのが、俺(ライダー)という星ならば。
 ただ、小さくとも、最期の瞬間まで誇れる光を煌めかせていたいのだ。





 提示は終わった。
 語るべき事、伝えたい思いは告げた。
 アイドルの方針。願いの兼ね合い。大和の目指す世界の是正案。責任の取り方。
 差し出せるだけのチップは払い切ったのだ。人事は尽くした。後は相手の答えを待つのみ。

「……ここまで食い下がり、私にしつこく詰め寄ってきたのは、貴様が初めてだ」
「それはどうも。粘り強さだけは数少ない自慢なんだ」

 峰津院大和の雰囲気は、変わっていた。
 隠そうともしない侮蔑、嫌悪の念はだいぶ薄れている。
 これまで取り巻いていた怒りが取り払われ、持ち前の天凛と培った経験が前面に表れているような。

「日に二度も、霊相手に説法を受けるとはな」

 本来の峰津院大和とは、あるいはこうなのかもしれない。
 常に多くを見据え、遠く視座を持ち、より輝ける未来に邁進する俊英こそ、17の少年の埋もれた素の顔。

 可能性は拓かれた。希望の火は灯された。
 細すぎる光明は、夜の航海でも道を見失わない標となるセントエルモ。
 灰と光の境界線。決して交わらない平行線に、ほんの微かな歩み寄りが成されようとしている。

 確かな手応えを覚えていても、アシュレイはこのままでは終わらないと知っている。
 誠意と信頼。利得と権益。尽きせぬ言葉でそれらを得られても。
 天と地の狭間には、越えられない壁が幾つも聳え立っている。

「だがな。貴様の案には私を頷かせるには、決定的なものが欠けているぞ」

 翻される腕。
 空に挙げられる指には満身の力。今にも振り下ろされんとする拳にも似て。

「貴様の語る理想論を信じ、最後に残るサーヴァントだと託すに足るだけの根拠。
 依るに能わぬと戦争の継続を望む奴を排除するだけの力を、貴様は私に見せていない」
「……そうなるか。どうあったって」
「私を調べたのなら分かっているはずだ。
 妥協・忖度は我が信念に反する最たるものだ。私を頷かせたくば魂ではなく力を示すしかないと」

 交渉は決裂。
 不戦の契りは交わされず、伸ばされた手は空を切る。
 確かに言葉は届いた。例え二人だけの間でも、この相対には必ず意味があった。
 大和の裡に溜め込まれた赫怒を吐き出させ、浄化の役を果たしてみせた。
 だが───そう。ここでも、だが、だ。
 まだ、止まれない。止まるわけにはいかない。
 誰が許そうとも、何を手放すとしても。
 過去の己と未来の己が、それを許さない。
 世界中でただ一人になろうとも……己の道を誇るしかない。


「この世界で出会いさえしなければ……あるいは、その手を取る道もあったやもしれん。
 だが全ては仮定にすぎん。現実において私と貴様は相容れぬ敵であり、貴様の理想論を悠長に待てるだけの時間は、私の世界には残されていない」
「……大量破壊兵器を撃ち合う世界大戦でも勃発するっていうのか、そっちは」
「戦争であれば如何様にも歯止めをかけられるさ。起こるのはそんなものではない。ここま付き合ってくれた礼に教えてやる。
 宇宙の終焉と、新生だよ」
「……まさか、そこまで似ているのか?」

 言ってしまった。
 断じてアレにかけたものではないが、そんな瀬戸際に追い込まれてるところまでそっくりなことはないじゃないか。
 よもやあちらの世界はいずれ新西暦に至る過去の軸なんじゃないかと、また別問題の悩みを抱える暇もなく。
 大地が、突然鳴動した。

「っこいつは……」

 地震か活火山か。地殻変動にも等しい重さとパワーが突如として、唸りを上げて響いた。
 唸り。そうまるで唸り声。
 地下をねぐらに棲みついていた大鯰が眼を開け、寝起き覚ましに身をよじればこうなるのか。

「まさか……!」

 大地を泳ぐ、巨大な何か。
 正体を見抜いたアシュレイは、だがその瞬間遅きに失したと悟る。
 まさかと勘付き、しかし大和ならばそれを為すと、交わした対話が証明してしまっている。
 二箇所へ向けた視点が往復する。一つは大和。内外に特別な変化はなし。
 もう一つは───明確だった。


「いいぞ、ランサー。開封を許す」


 雲の薄い夏の空に、雷が落ちた。
 8キロの距離からでも衝撃が全身を叩く。
 天候操作? 雷霆生成? ああ、そんな凝った仕掛けじゃない。
 今のはただの波動だ。スカイツリー上空に浮いていた何者かが、下に向けて魔力の塊を放射しただけ。
 漆黒に塗り固められた悪気をアシュレイは体験している。だからその密度の薄さが分かる。
 あれは攻撃ではない。"そこ"にいるモノを叩き起こすための、合図でしかない。

「付き合ってくれて例を言うぞ。
 貴様らがそうだったように、私も準備の時間が欲しかった」

 嘯く大和は既に無手ではなく、研ぎ澄まされた氷柱の如き槍が握られている。
 明らかな戦いの準備を、宣誓を謳う。

「足止めとやらを全面的に信用できない以上、備えは必須でな。
 使わせてもらうぞ。盗人共が欲しくてたまらなかった、秘奥の財物をな……!」

 落とされた雷が、数百倍に増幅されて跳ね返されたかのような、瀑布の逆流が起きた。
 膨れ上がった黄金色の柱は隣合うスカイツリーの全長をゆうに超え、たちまち輪郭を露わにしていく。
 世界を一巻きする長体。地層を食い破る顎。魔剣名槍でも一枚とて剥がれぬ白鱗。
 古来より人が敵わぬ災害の化身と認め、時に神の使いと崇められてきた幻創の王が、生誕の産声を高々と吼えた。




『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』




「───龍、か………!?」



 自らの尾を噛む大蛇(ヨムルンガンド)か、それとも龍頸のマトリョーシカか。
 龍の顔が同じ顔の付け根に齧り付き、他の頭がそれに続き延々と連なって出来た姿は、異形にして威容。
 神を喰らい、悪魔を引き裂く其れこそは、母なる大地の怒りの顕現。吐き出される息吹は真実、星の活力。

 これこそが龍脈召喚・降龍儀。
 峰津院家に代々受け継がれてきた数多の術技の中で、特に磨き上げられた二種の式。
 即ち、龍脈管理と悪魔召喚。その究極の融合系。
 龍脈に宿る莫大な魔力そのものを概念的な形を流し込んで使役する秘中の秘である。


「全てを使うことを許す。
 武装、仲間、異能、命……全てを賭けて私を地に伏せてみせろ。
 私も、私の持ち得る全てを用いて……実力主義の理想を実現させてみせる」

 一騎当千に返り咲いた孤城の王の元に龍が降りる。
 開かれた大顎に、地獄から取り寄せた灼熱を溜められて。

「勝者のみが、すべてを手に入れられる────。
 それが変えようのない、我々人間の在り方ということだ……!」


 業火・放出。
 神の放った裁きの焔が、無人の都市を撃ち貫く。
 地を満たすべく落ちた星々の煌めきを無塵にかき消すため。
 第一幕は閉じられた。王と人の対話(たたかい)は決着を見ぬまま、次の舞台が動き出す。
 さあ──────始まるのは誰の時間か。



 ◆



 東京スカイツリー。
 塔の頂上に身を預けるベルゼバブは、昇龍する力の奔流を上機嫌で見上げていた。

「ホウ──────これがリュウミャク、か。
 余を出し抜く時の牙だと吠えるだけのことはある」

 霊地を防衛する段に入って、大和とベルゼバブはそれぞれの土地に離れて付くことになる。
 そこはいい。迎撃手は自身一人で事足りる。
 自身と比べれば脆弱なマスターに過ぎない大和に、あの青龍や老婆の相手が務まるとは思えないが、せいぜい駒を集めて人垣の盾でも作るだろうと高を括っていた。
 だが忽然とスカイツリーから出現───そうとしか思えない反応───した大和は、思いもよらない提案をしてきた

『認めよう。サーヴァントを欠いた私ではあの海賊の両巨頭は流石に分が悪いと。
 そして君に防衛という、細やかな戦いを期待しても無駄なことは理解している。
 どうせ守るに向かぬ編成。ならばもう、使ってしまっても問題あるまい?』

 到底ベルゼバブには承服できない話だ。
 自分から龍脈は優勝後まで温存すると言い出しておきながら、いざ接敵の時点に掌を返して使用するとはどういうわけだ。
 念話でもわかる殺意の波を浴びせても、大和はどこ吹く風と平然と用意した答えを開示してきた。


『なに、安心しろ。先に言ったろう、龍脈に宿る力とは形のない純粋無垢な力の塊。
 術者がそれに指向性……定義を与えることで、初めて形態を取る』

 それは夕餉の最中の会話、龍脈の術の使用法を解説した時と同じ説明だ。
 術者の意思次第で千変万化に変化を遂げられる。
 ベルゼバブや、大和自身を強化し、制限下にある能力、宝具を解禁に至らせると。

 『そして形状を固定化した場合の龍脈の力は、早々に霧散せず暫く形状を固持する。
  龍脈の『龍化』自体は長時間保たないが、定義を与えれば望む形……コンパクトなサイズにストックできるだろう』

 だろう、と付けたのは、それを大和が試した機会は一度として無いから。
 この術を発動するのは国の危難、世界崩壊の瀬戸際にしか用いられないような最後の手段であるからと補足され。

『『龍化』を果たしても、残量があれば余った力は手元に戻るということだ。
 そうしたら後は自由だ。喰らうなり武器に変えるなり好きにするといい』

 要は、早期に敵を殲滅させるほど得られる力の配分は大きいということだ。
 龍脈を傷つけるリスクを抱えて戦わせうよりも、先んじて空にした土地で、思う存分霊地に釣られた獲物と暴れさせた方が得策だと、大和は判断したのだ。
 そして龍化に必要となる術式に該当する楔───本来は特定の悪魔にすることろだが、サーヴァントで代替が可能という───を与えて、大和は元の配置に戻って行った。


「尚更、余が取り込むに相応しい力よ」

 一応の筋は通っている。
 臆病風に吹かれたわけではない、戦術の一環として用いると聞けば、ベルゼバブとて吝かではない。
 契約を半分反故にする事に憤りこそあるが、出し渋った挙げ句に大和が敗死などすれば溜まったものではない。
 大和の死は、ベルゼバブを賄えるマスターが存在しない界聖杯で、ベルゼバブ自身の敗北に直結する。
 他人の脱落に足を引っ張られるとはつくづく度し難いものの、勝利のためであれば耐えられる。
 最終的に、勝利と付随する力さえ得られればそれでいい。
 煮え湯を飲まされるのは屈辱ではあるが……苦痛ではないのだ。


 現在の肉体の修復率は6割。
 片翼を失い、全身に大小の傷を負わされている。
 身体は重く、傷は常時発熱と苦痛をもたらしている。大和の治癒ですら追いつかない。
 生物はおろか、サーヴァントとしても消滅して然るべき重傷だ。

 それがどうした。
 それが一体どうかしたのか。
 それが力を発揮しきれない理由になぞなるのか。

 無数の負傷にベルゼバブが向けるものはそれだけ。
 無視、だ。
 戦いとは続ければ続けるほどパフォーマンスが落ちていく。
 体力気力、武器と肉体の疲労損傷。万全などという状態は、開戦の直後に失われる。
 赤き地平に落とされ、雲霞の如く群がる幽世の亡者と殺戮の地獄絵図の中にいた頃のベルゼバブに、万全であった時期など一秒たりともない。

 6割の肉体から10割の出力を引き出す。
 矛盾はない。傷が阻害するのは痛みだけで、機能そのものが削がれてなければ正しく使用される。
 ならば今の彼に不足なし。常在戦場の精神のままに、触れる全てを塵に還らせるのみだ。

「ああ─────それにしても、此度の虫は随分と肥え太っているな」

 王が動く。
 勝利と共に。


 ◇




「案の定決裂か。無駄な時間を使わせやがって。
 しかし景気がいいな大和の奴。よほど癇に障る話をされたみてぇだな」


「何だいデカい龍が出てきたねぇ! あれはどういう種族だい!? 今まで一度も見たことがない!」 


「ああ欲しい! 新種の翼人に龍、おれの夢の家族にまた一歩近づく!」


「ああ、欲しいな。デケぇナワバリはいつだって居座りてえもんさ」 



「欲しいものはどうする? 決まってんだろ、俺達はこう言うんだよ」



『海賊が来たぞ!』


『海賊が来たぞ!』


『おまえらの全てを奪いに来たぞ!』




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最終更新:2022年11月19日 00:13