空恐ろしい程に、静かだった。

戦争の場の一角。今まさに戦乱が起こらんとする、その先触れの一旦で。
劈くような硝子の破砕音と、車がタンブルウィードもかくやという回転をしながら響かせた衝撃音が、つい五分もしない前に起きたばかりの場所で。

幽谷霧子プロデューサーの間の空間だけが、静謐さを感じさせる程に静かだった。

「―――――」

採光硝子から差し込む朝日に照らされてふよふよと漂う砂塵の下、霧子という少女が纏う独特の雰囲気も相俟って、荒れたショッピングモールの店先が教会にも似た神性さを携えている。
であれば、目の前で立ち尽くす男はさながら懺悔を告白する罪人か。

「――猗窩座か」
「まさか貴様がいるとはな、黒死牟

あるいは。
そうでなければ。

その日の光の届かぬ闇で、六眼の睥睨を下し刀身を閃かせる剣鬼と。
その日の光の狭間の影で、研ぎ澄ました闘牙の双腕を構える拳鬼の。
内にいる二人以外を拒絶するような、透き通る殺意の領域が、そう感じさせるのか。

神聖なりし教会の如き空間の一皮向こうに漂う、只人が踏み込めば死を確約された凄絶な死合いの間合い。
そこに渦巻くような怨嗟や、禍々しい狂気が舞い踊るということはなく。
ただ、己の良く知る、この場では大敵と化した互いを屠るという純化された殺意のみ。

如何あれ。
言葉も出ないような、輝かしい陽光の下に照らされた、運命の邂逅と。
言葉一つすら余計な、日輪の下に出されることも憚られる、殺意の衝突が。

美しさすらも感じさせる均衡を保ちながら、ただ、幾ばくかの時間だけを過ごさせていた。
時に表せば五分も掛からぬ静寂。されど視方によって、刹那を切り取った写真にも、永遠を映し出す映写にも変わる万華鏡のような。
そんな空間が、戦場となった東京の一角に降り立っていた。


しかし、またそれを見るものが美しいとは限らず。
四者が醸し出す静寂を眺めながら、ともすればその静寂を食らい腹に収めてしまいそうな獣の如き邪悪性。
その中心に住まうものが、如何にも勿体ぶった様子でにたりと口を開く。

「はてさて。漸く巡り合いが訪れた偶像とぷろでゅうさぁ殿との感動の再会ですが……ンン」

悪鬼外道、キャスター・リンボの、存在するだけで醸し出すその悪意。
この一刻をただ居るだけでぶち壊すかのような異物性をその身に浴びながら、しかし決して屈することなく。
傍らに座り込む仁科鳥子は、目の前に聳え立つ偉丈夫を睨みつけた。

「いいの、あんたは。私たちに手を出さなくて」

真っ向から問いかける。

リンボが自分たち、というよりサーヴァントであるアビゲイルに執着していることは既に理解している。
地獄界曼荼羅などというふざけた催し。界聖杯という土俵すらも覆さんとする大いなる悪意。その根源として据えられたとまであれば、こと仁科鳥子とアビゲイルにとっては、二箇所の龍穴で起こる大戦争にも匹敵する厄災。

そうして相対する主従の様子に、ぎらりと獣の如き眼光を向けるリンボ。
それは正しく獲物に狙いを定める肉食獣を想起させ、鳥子とアビゲイルの背筋に冷たいものを走らせる。
果たして、牙を剥くかのように、邪悪なる美丈夫は顎を開く。

「ええ、まあ。この場で地獄界曼荼羅を開くというのであれば、拙僧も幾らか手出しをしようモノですが――しかし」

と。
伸ばしかけた大振りの手を大仰に振り上げて、額に手を当てながら含み笑い。
緊張を解かぬ二人に対し、一瞬前の塗らついた悪意を虚仮にしたかのような道化の身振りを見せつける。

「生憎と、未だ時が満ちぬこともありまして。ええ、ええ。これでも拙僧、用意周到でありますからには。十全なる用意の下に完全たる地獄界曼荼羅を迎え入れねばなりませんからなァ」

――リンボの腹中は変わらない。
キャスター・リンボの地獄界曼荼羅。その中核たるアビゲイル・ウィリアムズ。その構図は未だに変わることなく、リンボの持つ根源的な野望として携えている。
状況が許すのであれば、今すぐにでも仁科鳥子をこの手で縊り殺し、それを以て地獄の降誕を迎えることは決してやぶさかではないのだ。

されど。
欲望のままにそれの起動を今此処で行ってしまう、と踏み切るには、どうしても状況がそれを許してくれない。
東京タワーに住まう竜に、スカイツリーで争う怪物たち。地脈の力を完全に手にした彼等が牙を剥いた場合、憎々しくもかの平安京の二の舞になる可能性が存在する。
無論、アビゲイルの持つ深奥の力を完全に活かせば越えよう目処も立つというものだが――根本的に、地獄界曼荼羅そのものの成就を目的とするリンボとしても、それは避けたい事態であり。

更に言えば、主からも今この時の地獄界曼荼羅の発動を狙った行動は禁じられている。
彼の主たる少女にとって、地獄界曼荼羅は――最大限良く言えば――鬼札だ。存在が知られていようとも、一度成り立てば混沌によって他主従全ての意表を突き、なし崩し的に逆転勝ちを狙える究極の鬼札。
それを作ることができるという事実、そしてその内実は主従の内にのみ、というブラフ。「通せば全てがご破算になる切り札を持っている」という情報戦まで含めて、海賊同盟の臣下ながら聖杯を獲らんとする二人の切り札に足りるのだ。
そのジョーカーを腐らせてしまったが最後、リンボたち二人の願望が現実となる道筋は消えるに等しい。

「即ち、拙僧は見届け人の責のみを与えられた哀れな小間使い。おお、まさしく従僕に相応しき身である故、この場は大人しく宛がわれた傍観者としての役を全うするしかない身でありましょう」

従って、此度の連絡役は彼に確定した。
元より発案者が彼の主だったこと、そして送り込む者たちにとっても都合よく動く駒であったことがあり。
その上で、「ここで何をしようと龍脈を手にしない限り目論見は轢き潰される」という釘が効果的に働くことまで見越して。
そうしてアルターエゴ・リンボがこの見届け人になったという経緯。
従って、この男にしては珍しく――本当に珍しく、役目に忠実に動いたということであった。

「そう、貴方様のように――田中殿」

されど。
ならばと大人しくなるかといえば、キャスター・リンボに限ってそれもまた有り得ない。
用向き足らず。使命を果たすだけ果たした上で、ならばその成就を座して待つか?
否、否、否。リンボの在り方は即ち悪意。存在するだけで悪意を振りまくその醜悪さこそが、彼を彼たらしめているのだとするならば。

「……何が言いたい、リンボ」

その矛先が、偶々居合わせたに等しい、しかし運命の土俵には立っている、愚かな男に向くのもまた一つの必然。

「おや、おや、おやァ。気を害されたなら失敬。拙僧はただ互いに我が身を嘆く仲間が欲しかったというだけでありまする。何せそちらの主もまた、傲岸不遜にして傍若無人。他人の事など意に介さぬ獣でありますからなァ」
「――ッ」

黒々しく塗り潰されたような言葉。
じっとりとまとわりつくようなリンボの言霊に、違う、と、想いのままに田中一は否定しようとする。
己の信じた悪の根源。此の世全ての悪にも負けず、敵連合の頭目。
それは破壊と滅亡を司る、まさしく正しくないものの救世主。
されど、その持つ視点は決して高尚ではない。
目を合わせ、どうしようもない自分を仲間だと呼び、そうした俗世の住人のような一面を持ち合わせながら。
それでいて全てを滅ぼす悪性を持つからこそ。
田中の目を見て、目前にて、その気高き破滅性を振りまいたあの男のことを。
そう断じられる権利なぞ、お前にはないのだと。

そうだ。
そうだろ、田中一。
なんの為に、目の前の男の理想像を蹴って、あっちに行くと決めたんだ。
こんな何もできない男に、目前で、仲間と呼んでくれたからだろう。

そうして。
愚かな彼なりに信じた悪のカリスマへの憧憬を、愚直に吐き出そうとして。

「あ、う」

――しかし、田中一は押し黙る。
嘲笑うような言葉に裏打ちされた、弔とはまた異なる悪意の煮凝り。

信じた道を貫ける程、田中一は『敵』になり切れていない。
たとえ彼の中にある信仰により、破滅的な願望が――真の悪が萌芽しようとも、未だに彼は取るに足らぬ凡人の枠を出ず。

「ンン――まあ、閑話休題といたしましょう。我等は所詮、この場に於いてはただの居合わせた観客に過ぎないのですから」

それを見て、にんまりと笑ったかと思えば。
何ともなしに、「まあ見たいものは見れたからよしとしよう」とも言いたげな子供じみた切り捨てで、リンボは田中との会話を切り捨てた。

それは、彼なりに、田中一という男が己から敵連合へと鞍替えした当てつけであったということですらなく。
河岸を変えられた意趣返しですらない、通り魔のような粘り着いた悪意の顕れである、という証左であった。
その悪辣さが一人の男に向く様をありありと見せつけられながら、鳥子は傍らの少女に静かに念話で問いかける。

『……アビ―ちゃん』
『大丈夫、分かってる。絶対に気は許さないわ。……何か感じ取ったら、すぐに動けるもの』

自分のサーヴァントである彼女が決して油断なく構えていることを確認し、改めて息を一つ吐く。
相手の異質性、異常性については、恐らく理解してもし足りない。何せ日本の歴史に於いても最上級の位階に属するであろう陰陽師。加えて、今見た通りただ思うままに人の心を弄ぶ悪辣さ。既に呪いの一つでも仕込まれているという前提で動かなければ、ただ気が変わったというそれだけで戦闘不能まで追い込まれかねない。
まして、鳥子とアビゲイルが彼奴の標的であるという事実が変わっていない以上、警戒は最大限に。

(……空魚ともう少しで会えるっていうのに、こんなつまらない男の戯言で曲げられる訳にはいかないんだから)

そんな考えを巡らせ、リンボへの構えを解くことなく構えながら――鳥子はちらりと、霧子たちの法へと目を向ける。
静寂が辺りを包むショッピングセンターの中で、なんとなしに会話自体は聞こえてくる。かの男が話している、霧子たちの陣営への言葉についても、どういう状況に置かれているのかを貪欲に聞き取る。
ここに彼等がやってきた主目的――彼等の対話。
それがなんであるのか、見極めるために。


◇◆◇


いつだったか。
輝かしさを、眼が潰れてしまうようだと感じるようになったのは。

アイドルの意思、やりたいことをやりたいようにやらせるということ。
本来の個性を重視し、決して会社の方針を押しつけることはない――それが283プロダクションの社風であり、天井努という男が掲げた目標だった。
その信念に、感じ入るものが確かにあったから、俺はその場所に立つことに決めたのだ。
そしてやはり、それは自分自身の信念として、貫こうと思っていた。
283プロダクションに来てくれた子たちの、如何ありたいという願いに応えられるように、プロデューサーとして精一杯の努力をしていたのだ。

その、やりたいという躍動の輝きを、ぎらついた炎天下の太陽のように眩しすぎると感じられるようになった時に。
恐らく俺は、心が壊れていたのだろう。

「………プロデューサーさん、なんですか?」

そんなことを、思い出すくらいには。
ただこちらをまっすぐに想う幽谷霧子の姿が、どうしようもなく眩しく見えた。

「……ああ」

あの映像を送った時は、カメラ越しに彼女達の顔を見る機会もなかったけれど。
顔も分からないような遺体を見せられた時は、何一つとしてかけられる言葉を持っていなかったけれど。
ランサーの視点を借りていた時は、ただでさえ戦場であったことに加えて、一方的にこちらが向こうを見ているだけで、言葉を交わす機会などなかったけれど。
こうして改めて顔を付き合わせて会話をすると、成程、声というのは意外に張らないもので。
生返事にも近くなった自分の声を、みっともないな、と思っていたら。

「……すごく、疲れてる顔、してます……」

真っ先に。
そんな言葉をかけてきた霧子に、俺は一瞬、呆気に取られてしまった。

(……ははっ)

だってそれが、あまりにも幽谷霧子として正しい行動だったから。
口から、思わず笑い声が漏れかける。
そうだ。霧子はそういう子だった。
随分と忘れていた。
彼女たちと顔を合わせることすら、本当に……本当に、久しぶりだったから。
彼女たちが当然のように優しく、当然のように想ってもらえる存在であったということすらも。
本当に、忘れていた。

「………気遣いは、嬉しいけど」

きっと、皆がそうなのだろう。
あそこにいた、真乃も、摩美々も、もう一人のにちかも。
どうあれ、自分を引き戻さんとして手を伸ばしているのだと、ずっと話していた。
先に彼女達が送ったメール――全員と対話するという更に前。囚われの同士だという梨花ちゃんだけでなく、俺についても未だ手を伸ばすつもりだったあの本文も、その顕れだったのだろう。

……ああ。
この場所でも、未だに、彼女たちの輝きは失われてなどいないのだと。
面と向かってそう言われて、改めてそう感じて。
けれど。

「今、俺は君の敵なんだ、霧子」

それでも、誓った想いに変わりはないと、腹を括る気持ちも確かにあった。
自分は最早彼女達に想ってもらわれる存在でもなんでもなく、ただ、己の抱いた誓いの為に動かなければならないのだと。
だから。
彼女の心配そうな眼を覗き込み、真っ向から事実を告げる。

「俺は、聖杯を獲る為に動いてる」

それだけは、間違えていない。
283プロダクションのアイドル達を元の世界に戻すことよりも前に、自分の中でそれが最大の優先順位となっていることは、確かだ。
犠牲になった少女たちへの哀悼の念も、この願いを妨げるものには決してなりはしない。

「だから俺はもう、283プロのプロデューサーじゃない。……そいつはもう、死んだって思ってくれて構わない」

もう一度、声に出す。
その度に歪んでいく霧子の表情に申し訳なさを感じながらも、しかしやはり止まることはない。

「そしてこれは、283プロダクションのアイドル達への、俺達からの――『通告』だ」

交渉ではなく、通告。
そう、皮下という医者は言っていた。
ある意味では、それは当然だろう。戦争が始まった今この段階においても、未だに海賊同盟という勢力はこの聖杯戦争の中で間違いなく最大の一党なのだから。
283プロダクション擁する方舟陣営は、まさしくその理外の一手のみで成立している存在。侍たちという最大戦力があることを踏まえたとしても、真っ向から同盟を打ち崩すにはやはり力不足と言わざるを得ない。

(……これに従えば、とは言わないが。それでも)

どうしようもなくなって尚、せめて、彼女達が生き残る可能性を少しでも高めるための一手を。
そう思いながら、皮下たちから聞いた『通告』――最終決戦までの戦力の相互温存と不戦協定について、説明を始めた。
事務所が休止する頃の、無味乾燥な仕事の説明をしているようだと、なんとなく思った。


『マスター、先に言っておく』

と。
『通告』を伝えている間。
ランサーから、とある念話が聞こえた。

『俺は、黒死牟……あの剣士を知っている』

やっぱりか、と
一呼吸と置かずにランサーが漂せた殺気、そしてその警戒度からどことなく感じ取ってはいたが、しかしこうして直々に伝えられればやはり警戒度は跳ね上がる。
霧子が自分と同じ人食いの鬼を侍らせているという事実には驚きもあったが、しかし何処かで納得している自分もいた。
垣間見た猗窩座の夢。あれと似たものを、目の前の剣鬼ですら持っているならば――

『余計なことを考えている暇があるのか』

……釘を刺された。

『…それは』
『そして』

誤魔化すように何かを話そうとするが、それを遮るかのように猗窩座が念話を被せる。
その声音が――声音というのも変な話かもしれないが――先の事実を告げた声よりも更に重みを増したものであることに気付き、しっかりと意識を向ける。
だが、告げられた言葉は、想定していた事実を更に上回るものだった。

『あれは、俺より上――上弦の壱に相当する、最強の鬼だ』

流石に。
表情に出さないようにするのが、精一杯だった。
猗窩座ですら足元に及ぶかどうかという並外れた技量を持つ、六眼の剣鬼。
本来鬼に相容れることなき呼吸の闘法、練り上げられた闘気が全身に循環する最上の肉体。透き通る世界の中すらも見通すその目。

『……令呪は?』
『向こうに残っている可能性もあるが――蹴落とすつもりで闘うのであれば、今持つ全てを賭ける覚悟で挑め』

■■■■■の呪縛から逃れたのが、互いの手によるものだとして。
猗窩座がこの聖杯戦争で増やした手札。リンボの手によって開花した黒い花火。再生速度の増加。そして、プロデューサーが残している令呪。
それらの手札を擁して尚、漸く土俵に立てるかどうか、という程に、黒死牟は強い。
少なくとも、サーヴァントとなる前の両者の間には、それ程までに断絶した力量の壁があった。
何せ、透き通る世界で相手を見据えていてさえ、悠々と背後を許してしまう程なのだから。
聖杯戦争という要素を最大限利用した上での番狂わせをしようとも。仮に戦闘になれば、猗窩座だけでなくプロデューサーが抱えている策全てを以てして、そこで初めて戦闘となる。
幽谷霧子が従えるかの鬼がそれほどのものであるということを認識させられ、プロデューサーの中での警戒レベルは跳ねあがっていた。

(……霧子が、そんな鬼を?)

頭に過ったそんな一抹の考えを振り払い、念話を切り上げて現実に立ち戻る。
どうあれ、今はそれを考えている余裕はないし――ここで戦闘になること自体、避けろというお達しが出ている以上は、要警戒という域を出ない話だった。

「……以上が、『海賊同盟』の主張だ。とは言っても、これを伝える段階とは状況が変わっててな。
 どうあれ、『交渉』ではないが……『言葉を交わす余地』はあると伝えてくれ、というのがこちらの主張だ」

リンボや皮下、そしてあの沙都子という少女から伝えられたのは、あくまで交渉、というより宣告だけだ。
本来ならば方舟陣営の頭であるアイドル達と電話で伝えるという手段もあったが、既に戦いが始まっていることが観測できている以上、戦いに巻き込まれている偶像のマスター達とのコンタクトは難しいというのは分かっていた。
だからこそ、戦闘に巻き込まれない此処を、メッセージを伝える為の駐屯地とした――それが、皮下という男の説明だった。
尤も、実際に誰と対面するかは知らされていなかった訳だが。

ここで自分を使ったのは、様子見ということなのだろう。
プロデューサーという存在が、どれだけ彼女たちにとっての重要性を担保しているのか。
そして、自分の目から見て、彼女たちがどれくらい本気なのか。
彼女たちをよく知る自分だからこそ、彼女たちの覚悟の度合いも良く分かるだろう、というのが皮下の談だった。

そして、自分としても。
このまま海賊同盟が盤石になり続ければ、その分自分が聖杯を獲る可能性が低くなる。
心情的にも、方舟が敵連合という一大勢力の中で、影に隠れて戦える状況が好ましい、というのもあり。
巨頭たるグラス・チルドレンとビッグマムや、カイドウ。彼等を上手く御せる能力が果たしてあるのか、というのを、このやり取りの中で確かめようとはしたかった。
そういう意味では、リンボが正しくお目付け役であったのだろう。それに加えて、敵連合の勢力まで把握できなかったのは明確に痛手だが、今となっては仕方がない。
どちらにせよ、龍脈での戦争の結果次第で立ち回りは大きく変わる。方舟と海賊同盟を繋ぐ鍵として両陣営にある程度の注目を置かれている身として、どこかで大きく外れた行動はせねばなるまい。
何処かのタイミング。大規模な戦争の中で、ランサーの察知能力も踏まえて大きく飛び出す必要があるだろう。

そんな算段を裏で巡らせつつ、改めて霧子の方を見やると、霧子の表情に浮かんでいたのは様々な当惑の色だった。
……プロデューサーが把握していないことではあったが。方舟計画の中核にほど近い位置でありながら、しかし明確に接することが少なかった霧子にとっては、与えられた情報のほぼ全て新規のものであり。パワーバランスや方舟の意向、そしてそれに対する出方に至るまで、
その為、思考がパンクするのも無理からぬことではあった。

「……分かりづらいところがあったか?」

そんな霧子を見て、つい、そんな声をかけてしまう。
その声に反応する霧子の顔があまりに見覚えがあったから、体に染みついた所作なのだろうな、と感じる。……ああして声をかけた自分と、同じように。
そして、彼女の返答を待ってしまうのも、同じように。幾らかの逡巡を経た後、意を決したようにプロデューサーの方へと向き直り。

「……プロデューサーさんは……」

真っ先に。

「……どうして、聖杯を……?」

……ああ。

そういえば、彼女達に直々に伝えたことは、なかっただろうか。
既に分かっているのだろうと、そう思っていたけれど。薄々感づいているのではないかとも、思ったけれど。
あるいは、それでもやはり、俺自身の口から聞きたいと。そう思っているのか。

「………にちかを、幸せにする」

どちらであるにせよ。
そう答えることに、もう迷いはなかった。
迷うだけの心を、既に置いてくるしかないということは、つい先刻嫌になる程思い知った。
その契機を与えたリンボの方をちらりと一瞥しつつも、その根源が己の意思であることには変わらない。

「それが、俺の選択だ。………ごめんな、霧子」

元より罪人であることを、突き付けられた。
ならばこそ、戻るということは有り得ない。
283プロダクションを守る意思こそあれど、最早プロデューサーを名乗るのは烏滸がましく。

「……もう、283プロダクションに戻るつもりもない」

他人を、蹴落とした殺した俺なんかが、戻れる訳がない
白瀬咲耶の赦しを跳ね退けて。
犯罪卿の救いから手を放して。
エゴの為に命を奪った自分は、もう戻らないと決めたから。

「――俺は、聖杯を獲らなくちゃいけない」
「……それでも……」

……改めて。
そこまで突き放そうとも、それでも、と手を差し伸べてくれる霧子の姿に、感じ入るものはあってしまう。

あの時、銀髪のライダーが彼女たちの代弁者として立ち塞がった時も。
彼を通して、マスターである彼女たちの想いを聞いた時も、そうだ。

その想いを直に浴びて、やはり、思い出すのは過去のこと。
283プロダクションの皆がそう思ってくれるような優しい人間であることを、認識せざるを得ない。
ああ、そうだろう。
俺自身がそうした訳ではないけれど。
俺自身がそうあってほしいと願った形であって。
そしてその輝きを、彼女達が叶えたのだから。
それは間違いなく、283プロダクションのアイドル達が放つ、輝きだ。

ならばこそ。
最早此処に、283プロダクションのプロデューサーは存在しない。

全ての救いを跳ね退けて、全ての祈りを投げ捨てて、考え方すら歪み果て。
盲いた目に優しき光は届かず。与えられる救いを、かつて自分自身が万人に与えられて然るべきと思ったそれを、心の底から拒み尽くす。
胸で残る錆びた鉄心の反射光を、唯一無二の光(のろい)に代えて。
折り目正しいスーツは朽ちて、そこに残るのはただ、己を呪いひとりを救う愚かな躰がただひとつ。

――偶像に混じらず、光を貫く、かいぶつ一匹。

歌声はない。
歌声はない。
スーツに身を包み真面目を貫く人間のふりも止めた、愚かな男が、立っているだけに過ぎない。

「…………だから、いいんだ、霧子」

それでも。
愚かしき男は、まだ、哀れにも願っている。
どうかこの行く道の先に、見知った誰かの骸がないことを。
……己自身の屍があることを、既に前提としながらも。

だって、ほら。
こんなにも。


「どこにもない、たったひとつの………もういなくなってしまったものを、取り戻したいだけだから」


あの子の為に、生きてみたい。


「だから、皆にも改めて伝えておいてくれ」

それが、偽ることのない本心だから。
彼女のためにできることを全てやるのだと、誓ったから。

「俺はもう、皆のプロデューサーじゃない……なれない」

面と向かって。
それを、言い放つしかなかった。

「……………プロデューサーさん」

そうして。
言い切った向こう。
どんな

「………本当に………?」

果たして、彼女の。
静かに。
悲しそうに。
切なそうに
それでいて、何処か――怒っているように。


幽谷霧子の表情が揺れ動く様を、見た。


◇◆◇

その声には、いろんな色が乗っていました。
絆創膏さんに滲んだ血の色のような赤。
擦れた瘡蓋のような黒。

そんな色みたいな、声でした。

「プロデューサーさんは……」

……にちかちゃんの幸せをお祈りしていることも、その為に頑張っていることも。
聖杯をその為につかまえようとしていることも、どれも本当なんだって、伝わってきたし。
その中で、プロデューサーさんなりに精一杯、わたしたちの事を想ってくれているのもわかりました。

「にちかちゃんの、ために……」
「……ああ」

辛そうで、苦しそうで、ぐちゃぐちゃになったような顔をして。
それでも、プロデューサーさんは、いつもと同じみたいにまっすぐこっちを向いて、そう言います。

「それだけは、譲れないよ」

それで、本当に、プロデューサーさんがそういうひとだ、っていうことを思い出して。

だからこそ、その言葉の、色と、重さみたいなもので。
あのひとが言っていることが、本当なんだってことも。
たぶん、ほんとうに。
わたしが知らないプロデューサーさんの声なんだってことも、わかりました。

「…………」

言わなきゃ、と思います。
プロデューサーさんの、その想いと、お願いのこと。
わたしなりに、話を聞いていて。摩美々ちゃんたちから聞いた話と、合わせて。
そして、プロデューサーさんの姿を見たから、聞いてみたいと思ったこと。

でも、言ってしまっていいのかどうか、わからないことがありました。

だって、わたしはきっと。
ずるをしているから。

……にちかちゃんが二人いる、っていうことを、わたしは知っています。

だから。
このプロデューサーさんが、たぶん、わたしと同じにちかちゃんを見ていないプロデューサーさんだということが、わかったんです。
わたしの知っている場所で、にちかちゃんとプロデューサーさんが、いろんな言葉を交わしているのを見たから。
そうじゃない世界からきたプロデューサーさんであることを、なんとなく、わかってしまったんです。

……もし本当に、プロデューサーさんが、にちかちゃんと触れ合うことができなかったなら。
……にちかちゃんを、ふしあわせにしてしまったなら。
それをいっぱい気に病んでしまうひとだって、そう思うから。

そういうことを知ってしまっているわたしから、プロデューサーさんにお話することは。
本当にいいんでしょうか、って、思うわたしもいます。

「………でも」

それでも。
だって、どんな時でも、パンが必要な人に、パンを届けられるような仕事をすることは、悪い事じゃないんだって。
そう教えてくれたのが、プロデューサーさんだったから。

ゆっくり、考えて。
どんな言葉がいいのか、少しずつ、少しずつ考えて。
眼をひらいて、プロデューサーさんの方を見ました。

(……うん……)

――わたしが今、ここにいる意味みたいなもの。
それがあるかどうかは、わからないです。
でも、たぶんきっと、こうして言葉を向けることは。
わたしが、わたしのプロデューサーさんからもらったことばを返すことは。

きっと、なにか大切な意味を、持ってくれると思うから。

「……プロデューサーさん……」

だから、わたしは口をひらいて。
プロデューサーさんに向けて、聞きたいんです。

「プロデューサーさんは……」


あなたののぞみは。
どんな色を、していますか。


「にちかちゃんを幸せにして、幸せになれますか……?」


あなたののぞみの、その先で。
あなたは、どんな色をみたいのですか。


「……俺、が?」

どういうことかわからない、というふうに、プロデューサーさんは応えました。
こくりと頷くわたしに、プロデューサーさんは、とっても困ったような顔をします。

たぶん、プロデューサーさんもいっぱい、いっぱい悩んだんだと思います。
戦わなきゃいけないこと。にちかちゃんのこと。たぶんそれ以外にも、いっぱい、いっぱい。
それがぜんぶにちかちゃんの為のものなら、それは――どんなものであっても――プロデューサーさんの、とっても大切な気持ちなんだって、思います。

ただ。
そうなら。
プロデューサーさんは、その先で。
ちゃんと、にちかちゃんが幸せなんだって、わかるのかなって。
それが、どうしてもわからなかったんです。
だって、今のままだと。願いを叶えてすぐに、プロデューサーさんはいなくなってしまうんだと思ったから。
プロデューサーさんがいることが、にちかちゃんの幸せの邪魔になってしまうんだって、そんなことを思ってしまっていそうなくらいに。
プロデューサーさんが、くるしそうだったから。

「プロデューサーさんの……お祈りが……」

だから、聞きたいんです。

プロデューサーさんが、どうすれば幸せになれるのか。
プロデューサーさんが、どうすればにちかちゃんを幸せにできるのか。
わたしには、わからないけれど。

「ちゃんと、お祈りにならないと……」

それは、お祈りでした。
本当に、そうなのだと思います。
プロデューサーさんのお祈りが、にちかちゃんを幸せにしたいことなら。
そのお祈りが届いて、幸せになれますようにって、わたしも思います。

……でも。
お祈りだけだと、届かないことがあるのも、わかるんです。

「にちかちゃんの幸せが、プロデューサーさんにしか、わからないなら……」

にちかちゃんのことを、わたしは知りません。
にちかちゃんが好きな歩幅を、わたしは知りません。
にちかちゃんが好きなお話を、わたしは知りません。
だから、にちかちゃんのことを幸せにすることは、きっとわたしには難しいです。
にちかちゃんが歩きやすいような歩幅と、お話が必要かどうかと、そういったことを考えながら一緒に歩くくらいしか、わたしにはできません。

だけど。
だから。

「それがわかる、プロデューサーさんが……」

にちかちゃんのことを知っているプロデューサーさんじゃないと、どうすればいいのか、分からないんじゃないか、って思ったんです。

そして、それなら。
そこまでのお祈りを、プロデューサーさんが、していても。
にちかちゃんは、どう受け取るのでしょうか。
にちかちゃんは、そのお祈りのことが、わかるのでしょうか。

プロデューサーさんのお祈りが、どれだけ、にちかちゃんのことを思うものでも。
お祈りしてくれている人を知らないままだと。
そう想ってくれる人のことを、知らないままだと。
にちかちゃんが本当に幸せなのか、誰もわかってあげられないって、そう思うから。


「にちかちゃんのことを、見てあげて……」

――霧ちゃん。
――りんごって、なあに?

「幸せって、なあに、って……すぐそこで、聞いてあげて……ください……」

だって、わたしはプロデューサーさんに、いろんな声を聴いてもらえたから。
わたしの想いも、わたしの歌も、プロデューサーさんが見ていてくれたから、アンティーカのわたしになれたんです。
プロデューサーさんが、アンティーカのわたしを見つけてくれたから、わたしはアンティーカのわたしになれたんです。

「そうやって……幸せになるから……」

だから。
にちかちゃんの幸せを、ほんとうにお祈りする時には。
どうか、にちかちゃんに伝えてあげてほしいんです。

あなたの幸せはなんですか。
あなたは今幸せですか。
あなたが幸せになるために、わたしはあなたに、なにをあげられますか?

それで、幸せになれるかどうかなんて、やってみないとわからないけれど。
それが、あなたを幸せにするものでありますようにとお祈りしながら、進むことが。

「きっと、そうやって…………あったかい気持ちを、伝えて……」

それが、きっと。

「それが届いて……」

誰かを幸せにすることだって、思うから。

「それが、お祈りになる筈だから……」

◇◆◇

――そもそも。
プロデューサーという男にとっての、七草にちかの幸福とは何か。

ずっと、アイドルたちの「やりたいこと」を叶えるために努力してきた男が。
七草にちかと直面して、それを放り出してしまうようになったのは、何故なのか。

それは、ほかならぬ七草にちかの歩み方に起因する。

七草にちかのアイドルとしての道筋は、間違いなく彼女がやりたいと望んだそれであった。
彼女自身が望んだ靴。彼女自身が望んだ踊り。彼女自身が選んだ選択によって、アイドル・七草にちかは作られていた。

だが、しかし。
それを尊重するには、七草にちかはあまりにも己を傷付けすぎていた。

その道を選んだ理由は、己に輝きなどないからと叫び。
その道を進み続ける中で、精神も肉体もどんどん追い込まれ。

これが、やりたいことなのか。
君がやりたいことは、これなのか。
これが──こうして成立した『偶像』は、果たして君を幸せにするのか?

それを発端として、彼は気付く。
彼女が、幸せから逃げて。自分嫌いを拗らせて、その先で自傷をすること――ではなく。
何より。彼女自身の幸福の為に、プロデューサーが、彼女の行く先を共に見なければいけないのだということを。

それを切欠として、彼自身が変わっていった。
アイドルとしての期待と恐怖で歪む樋口円香に手を差し伸べたことや、一度は伝え方を間違えたイルミネーションスターズが考えを整理する為に間違いを認めてボランティアに勤めたこと。
それはすべて、彼女達の希望と、彼が導く道筋の中で。彼女達の願いを叶える為に、彼自身が時に寄り添い方を変え、「やりたいこと」の裏にある望みこそを叶えんとする。
プロデューサー自身が、そうして、一人の人間としての在り方を変えていく。

……そう。
本来であれば、そうだった。
七草にちかの敗退、引退。それが訪れなかった未来であれば。

けれど、今ここにいるプロデューサーは。
その切欠を、得られなかったのだ。

七草にちかの幸せの在り方に考えが至るその前に、運命が途切れてしまったから。
本来であれば、彼女をどうしてプロデュースしたいと思ったのか、ほかならぬ彼女自身の姿を通して知る筈だったのに。
WINGの優勝を逃したあとの、七草にちかの想いを。彼女の幸福の為の道筋を。


――俺に、その為の仕事をさせてくれ。


その一言を、認識することだけが叶わなかった。
尽くせば変わる。――どうやって?
そんなことは分からない。プロデューサーとアイドルが、決して家族関係にはなれないように。
けれど、続けるしかない。
暗中模索でありながら、それでも。
家族になんてなれなくても。
プロデューサーという領域の中で、彼女が幸せになれるように。
彼女から赦してもらえる場所で、彼女が望む道筋を歩く為に、その道を共に見て、歩んでいこうと。
それが己の仕事なのだと、分からないままに、時が過ぎてしまった。

ただ。
七草にちかをもう一度プロデュースしてやり直せばいいという地点で、彼の思考は止まったまま。
アイドルに向き合うというのがどういうことか、忘れたままに、時を止め――ここまで至ってしまった。
それはやはり、プロデューサーという男の思い込みだけではなく。
プロデューサーが追い詰められたことにより、不可逆に沈み込んでいく283プロダクション。
破滅が更なる破滅を招き、悪循環が責任感を増して、彼の小さな間違いは大きく膨れ上がり続けた。

かのアルターエゴ・リンボは、ここに来てからの殺人を思い出させたが――それは、後戻りできない罪の心を増幅させるものであり。
己が許される筈もないという心を、彼は此処に来る前から、持ち合わせていた。
……元から、自己評価が低いというのもあったのだろうか。
この聖杯戦争に来る、そのずっと前から。
己が罪人であり、役に立たず、どうしようもない男だと。

だから。
七草にちかが、プロデューサーという男にどうしてもらえば。
プロデューサーが望む、七草にちかの幸福が手に入るのか。
プロデューサー自身が、何も知らないままに、ここまで来てしまった。
それよりももっと手前、もう一度を言えないままに、ただ責任だけを背負ってここまで来てしまったから。
そこまで考えに至る切欠を、与えられることがなかったから。

その孤独に、自分が寄り添い続けることでしか。
プロデューサーの望む七草にちかの幸せがない、ということを自覚する前に。
自分が彼女を幸せにできなかった、ということだけを自覚してしまったから。

そうして。
因果が巡る。

奇しくも。
その未到達地点の先にいた、幽谷霧子の手によって。
シーズとの邂逅の後。あるべき世界を通って、少しだけ考えが変わった男が。
283プロダクションに、少しずつ、少しずつ。交流と、間違いと、それでも共に居て、幸福の為に傍に立って己の幸せを見つめるという
そうした試みが、少しずつ芽吹いてきた後の。
彼の言葉を届けられた幽谷霧子が、巡り巡って。

瞬きに潰された世界のプロデューサーに、言葉を届けることと相成った。


◇◆◇


……………すとん、と。
痛みもないまま、神経の隙間を通り抜けて、直に脳髄にナイフを差し込まれたような。
そんな冷たい感覚が、体を通り抜けた気がした。

「……俺、が?」

わからなかった。
何故、霧子がそんなことを言い出したのか。
霧子も、きっと。俺を許すというようなことを、言うのだと思っていた。
そうであるなら、俺は否定できた。こんな大罪人が許されていい訳がないのだと。
かつて自分が彼女にかけた言葉を、そのまま否定するようにはなるが。
けれど、そう。
にちかの幸せに俺が介在しようなど、今となっては無理な話だ。
別にそれでいいと思っていたし。

「プロデューサーさんが、しあわせになれるって……信じてないと……」

けれど。
それでも彼女は、俺の眼を見て。
にちかの幸せを願う俺のことを、見ていた。

「プロデューサーさんがお願いする……にちかちゃんの……幸せのこと……」

その眼は。
俺に、ありありと問うていた。

「分からない、ままに……なっちゃうから……」


では、俺にとって。
七草にちかの幸せとは、何か、ということを。
俺の祈りの、本質を。


――七草にちかの幸せを願う。

ずっとそう想っていた。
そうでなければ不公平なのだと思った。
彼女がただありふれたように笑い、
それだけでいいのだと、思った。

(――違う)

尽くせばいいのだと思った。
自分が幸せになることを諦めた少女に、ただ伝えればいいのだと思った。
君が君を好きになれば、その時きっと幸せになれるのだと、そう伝えるだけで、すべてが上手く回るのだと。

だから、ランサーにもそう頼むつもりでいた。
七草にちかが幸せを選ばなかったのなら、その為に聖杯を使ってやれと。
そうすれば、七草にちかが幸せになる世界を、きっと生み出せるはずだからと。

ただ。

――幸せですよ。

たとえば、それが、あの七草にちかのような幸せだったら?
偶像を捨て、日常に戻り、退廃的な日々に埋没しながら、今あるものだけを充足させる。
それを幸せだと主張する彼女のようになったら、どうだろうか。
もちろん、彼女の幸せを否定する訳ではない。彼女がその環境で、それでも幸せを謳ったことを否定することは、彼女に失礼だろうから。
七草にちかの辿ったその道筋を、幸福でないとまでは、言わない。

ただ。
『俺が』、七草にちかの幸せを考えたとして。
俺はそれを、あの七草にちかにとっての幸せな世界なのだと、言うことができるのだろうか。

七草にちかにとって、幸せとは何か。
自信を持てば、変わるのか?
なら、自信を持てない性格の彼女が、そう考えるに至るには、どうすればいいんだ?

……奇しくも、凡人たる七草にちかが一番に考えていたように。
プロデューサーもまた、ここにおいて、漸く思い至る。

そもそも。
七草にちかが幸せであると願う、その先に。
どんな未来像が、存在しているのか。

幸福である七草にちかは、本当にプロデューサーが祈り描いた通りの七草にちか足り得るのか。
それは果たして、プロデューサーという男が願った――アイドルとしての、七草にちか足り得るのか?

無論、それは聖杯の機能としての欠陥ではない。
聖杯は違えず、七草にちかにとっての幸福を導き出すだろう。観念的なものであろうとも、間違いなく。

ただ――そう。
どうしようもなく、人生も幸福も、ひとつではないから。

もし。
七草にちかの幸福が、まさしくアイドルとは無縁の、平凡で快活な世界であったとして。
彼女は、本当にプロデューサーの見る七草にちかと同じことを考えているだろうか。

あるいは。
七草にちかが七草にちからしく幸せである世界を、プロデューサーの望み通りに構築したとして。
彼女は、プロデューサーが見たような笑顔を浮かべる彼女のままであるだろうか。

……あるいは。
七草にちかが、何事もなく、W.I.N.G.を優勝できていたとして。
自分がその後のプロデュースを最早できない中で、彼女はそのまま、幸せにアイドルを続けられるということがあるのだろうか。

それは。
プロデューサーという男が、己の我欲で、七草にちかにとっての人生のレールを引くことにならないだろうか。

もし。
聖杯の願い方を、そのように使ってしまったのなら。
アイドルの道を選ぼうとした七草にちかを、本当に殺すことになるのかもしれないのだと。
その時、プロデューサーという男は、初めて思い至った。

自分の身を尽くして、聖杯に祈って。
それで、すべてが終わるのだと思っていた。
だが、幸福というのはきっと、其処で終わらないから。
人生の中、起伏が続く中で、その何処かで幸福が訪れるとするなら。
その幸福のかたちを見つけてやらないことには、何も終わらないとするのなら。

「…………それでも」

ただ。
やれることが、まだ、見えていないのだとしたら。
七草にちかの幸せということそのものに、未だに不義理があるのだとしたら。

「それでも、俺は――」












「ほら、やっぱり」


声が、した。

「わたしが言った通りでしたね、プロデューサーさん」

にんまりと。
にんまりと。

「わたしの幸せなんて、どうでもいいんじゃないですか」

ようやく追い付いたと言わんばかりに。
その顔が笑っている。
その顔が哂っている。
死神のような顔で、その顔が嗤っている。

「わたしの幸せのかたちなんて、何も考えてなくて」

やめろ。
やめてくれ。
悲鳴のような金切り声が、心の中だけで響いている。

「わたしの幸せから、誰よりあなたが逃げている」

しかし。
それを意に介さず、彼女は語る。
俺が生み出した、彼女の幻影。リンボに埋め込まれたのともまた違う、自分自身の裡からせりあがる言葉。

「全部、あなたの罪滅ぼしでしかないから」

それは、弾劾であった。

「わたしのこともそう。283プロダクションのこともそう。あの子のことだってそうじゃないですか」

七草にちかを、幸せにすることすらも。
最早、罪滅ぼしでしかないとするのなら。
七草にちかを救う為の明日への希望すら疑って、誰かに抱いた罪の意識だけを優先したとするなら。
最早それは、七草にちかの為の奉命ですらない。

「全部、あなたが悪かったから。あなたが身を尽くせば、あなたが全部罪を被れば、それで全部上手くいくって」

……それが、罪の意識だとするなら。
誰かを殺してしまったこと。事務所を間違えてしまったこと。七草にちかを
すべてがただ、罪で。

「でもそれは――罪を背負いたいだけで」

ならば。
その罪故の行動だとすれば。
お前が罪人なのだと指摘され、弾劾され、それで指摘されて罪を全て被ればいいと、何処かで思ってしまっていたなら。


「その先でわたしたちが本当に幸せになれたかどうかなんて、見る勇気もないくせに」



「だから」


やめろ。
その先だけは言うな。
分かっているから。


「私を幸せにする必要なんて、ありません」



……………………………ああ。

見たくなかった。
その顔で、それを言う姿だけは。


◇◆◇

「……………あ」

現実。目の前。頽れて下を向いた俺の目の前に。
硝子の靴を履いた、血塗れの足。

顔を上げなくても分かる。
そこにあの少女が立っている。
そこであの笑顔が待っている。
存在しないことは分かっている。
ただの空想であることも分かっている。

それでも。

嗤う彼女が消えてくれない。
歪む彼女が残り続けて。

俺を、見下ろし続けている。

「………………駄目だ」


自分が七草にちかの隣にいることは、罪だ。
自分が七草にちかを幸せにすることは、できない。
それが七草にちかの幸福に繋がろうとも、自分のような存在が手を伸ばすことなどできやしない。

だって自分は罪人だから。
もう戻る寄る辺はないのだと、
今更、生還できたところで。余命を失くし、罪を犯して、慕ってくれる少女達すら裏切って。
プロデューサーという男には。
七草にちかに捧げられるものは、もう、命以外何も残っていないから。

聖杯にただ、祈ることしかできない。
どうか七草にちかを幸せにしてくださいと。
どうか七草にちかが幸せになれる世界を作ってくださいと。

それに縋るしか。祈るしか。
もう、できないのだと。
そう思ったから、手を伸ばした。

だというのに。
七草にちかの幸せが、アイドルとしての幸福が。
七草にちかのプロデューサーになることすらできない、滑稽な男の有様では。
最早何一つ叶わぬというのであれば。

「……俺、は……」




「……プロデューサーさん」

祈り。
そう、祈りがあった。

ずっと、祈りは捧げられていた。

……そう。
それでも。
これだけなら、きっと。
手は届いただろう。

道筋を外れて。
彼自身が、何をすべきかを見つけて。

だから、ここから。
彼自身が、七草にちかの幸福のかたちと。
その幸福のための仕事が何となりえるかを、十分に考える時間があったなら。
それはきっと、明るい道。

彼自身を大切にする言葉は、既にかけられていて。
その言葉を受け取れるかもしれない余地も、確かに存在していたから。

……そう。
存在して、「いた」から。
響く祈りが届く可能性は、確かにあった。
白瀬咲耶。犯罪卿。そして幽谷霧子。
手を伸ばしたモノたちによる救いの道を選び、改めて、七草にちかの為ということを考える。

そんなハッピーエンドの可能性は、あったのだ。




「―――――ンン、ンンンン」



―――――呪いが、なければ。


斯くて。
嗤う。
嗤う。
嗤うのだ。
果て無き悪意。
老獪にして狡猾、ヒトを嘲笑うモノ。
悪逆を是とし幸福を虚仮にする、道化の位階にて召喚されし魔人が。

それこそは祈りの対概念。
幸福を想い、安寧を冀い、希望があるようにとただ一心に心を捧げるモノではなく。
不幸を望み、退廃を求め、絶望に落ちぶれろとただ一心に心を歪ますモノである。

古来より世界の何処でも行われてきた、他人の不幸を願うもの。
お前は幸せになるなという、重い足枷を嵌める為の、ヒトの行い。
そして――陰陽師・蘆屋道満、その真骨頂たる術式。

「刻限、でございましょうかァ」

――そう。
――人はそれを、呪いと、そう呼ぶのだ。


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最終更新:2022年12月30日 23:48