機械の瞳が見開かれる――驚愕に。
偽槍とはいえ宝具に見劣りしない強度はある筈なのに、それを叩き切るなど尋常ではない。
かつてない危機感の中、相棒を援護するために
リップは走刃脚から光を飛ばす。
だがそんなもの、彼女達を"見ている"ガンヴォルトにとっては何ということもない茶々だ。
飛ばした避雷針で軌道を反らして無効化し、進む足を止めることさえしない。
「離脱だ、アーチャー!」
「うん…………! ……【典開】……!」
流石に分が悪い。
皮下の桜も、ガンヴォルトに対して足止めすらできていない状況だった。
だからこそシュヴィは此処で、マスターを連れたまま空に逃れることを決める。
「『一方通行(ウイン・ヴィーク)』……!」
空間をこじ開けての瞬間離脱。
桜の海から、曇天の空へ。
移動した瞬間に、シュヴィを襲うのは黒い凶影だった。
地獄のヒーロー。
デビルハンター。
鬼を滅ぼし、女王を斬り、今再び地獄の釜を開けてこの地に蘇った悪魔が刃音を響かせながら斬りかかってくる。
転移先を読まれていた――その恐るべき殺し勘に戦慄するが、身を凍らせている暇はない。
イミテーション・ケイオスマターを再構築し白兵戦に対応。
……しつつ、天から襲ってくる神罰さながらの落雷をあらん限りの火力武装で打ち消す。
稼げた時間は微小だが、これでいい。
何故ならあの怪物が、一人だけ蚊帳の外に置かれて大人しくしている筈もないのだから。
シュヴィの予想通り、身を焦がすような鬼気を滲ませながら、標的を自分に切り替えたチェンソーマンを襲う巨影が駆け付けてきた。
「おれを無視してんじゃねェって、言ってんだろうが……!」
「…………!」
「言葉が通じねェんならよォ――死んで覚えやがれェ!」
降三世
引奈落。
カイドウの大技は、防御の構えをまったく無に帰させながらチェンソーマンを空中の攻防戦から退場させた。
それは一見すると、彼が不覚を取ったように見える。
だが次いで地上で繰り広げられた光景に、
カイドウは唇を噛まずにはいられなかった。
チェンソーマンは墜落する過程でチェーンを伸ばし、立体機動を行い座標を調整。
その上で、地上に取り残されたさとう達への攻撃を再開しようとしていた皮下の初撃を潰した。
着地までの過程で三十七体の桜坊を斬殺し、着地して二人を狙う桜の侵攻を押し留めながら、チェーンによる薙ぎ払いで残りを鏖殺。
手駒を全て潰すなり、少女二人をひょいと抱え上げると――そのままその足で
皮下真の抹殺に向かう。
「はッ――やっべえなこりゃ」
炎熱。凍結。質量に任せた圧殺攻撃。
ほとんど濁流と言っていい勢いで押し寄せる桜の暴力に、チェンソーマンは何も特別なことをしない。
正面突破する。ただ殺す、ただ切り裂いて突き進む。
海割り神話をこの上なく暴力的な手段で再構成したカリカチュアのような、身も蓋もない蹂躙劇。
万の花が咲き乱れているのなら、その全てを根切りにしてしまえばいいだけだろうと。
あまりに無体な理屈を突きつけ実践してくるチェンソーの彼は、今の皮下ですらまったく手に負えない相手と言う他なかった。
「ライダー、てめえッ! このおれを利用しやがったな……!?」
が、それを黙って見ている
カイドウではない。
何より彼を憤慨させているのは、自分の乾坤一擲の一撃が体のいい移動手段・加速装置として利用されたことだった。
チェンソーマンはあの時、わざと
カイドウの降三世
引奈落に直撃した。
少なくとも彼であれば、もっとスマートで負担の少ない形で凌ぐことは可能だった筈なのだ。
しかしあの状況では、自力で地上まで急ぐよりも
カイドウという体のいい馬鹿力持ちを頼る方が手っ取り早かった。
だから実行し、当たり前のように成功させた。
代償に全身の骨という骨が砕けたが、所詮その程度。
不死身ゆえのふざけた理屈を大真面目に貫きながら、彼はしお達を守る仕事をしっかりこなしてのけた。
それが、
カイドウにしてみれば気に入らない。怒髪天を衝きながら剛撃一閃、血塗れのヒーローと打ち合う。
「気に入らねェ野郎だ。此処まで舐めた真似されたらよ、晒し首にでもしねェと気が済まねえな」
地面へ投げ出される、さとうとしお。
クーポンの影響でさしたる傷にはならないし、あのまま抱えたまま戦われるよりはこれでもずっと安全だ。
カイドウは速い。数メートルの巨躯とそれに見合うだけの重量を有していながら、彼が金棒を振るう速度は音を超える。
そんな相手と戦うチェンソーマンの傍に居たなら、常人に毛が生えた程度でしかない彼女達の身体は撹拌されて只では済まないだろう。
それほどの相手なのだ、
カイドウは。
四皇という生物の強さを知るしおはそれが分かるからこそ、さとうの手をぎゅっと強く握った。
死柄木弔が、
ジェームズ・モリアーティが、そしてこのチェンソーマンが。
皆で命を懸けて挑み、あらゆる手を尽くしてそれでようやく倒せたあのビッグ・マムに並ぶ――もしくは凌駕さえするだろう規格外の怪物。
幼い彼女も、緊張と不安に心を苛まれずにはいられない。
祈りを捧げ、手から伝わってくる愛する人の温度で心を落ち着かせる。
大丈夫、だいじょうぶ――きっと勝てる。
信じる想いは、果たしてチェンソーの彼に届いたのか。
定かではないが、しかしその奮戦はまさに獅子奮迅と言うべきものだった。
「"軍荼利"ィ――――"龍盛軍"ッ!!」
覇王色を纏い漆黒に染まった大業物が、幾重にもブレて見える。
あろうことに
カイドウが此処で繰り出してきたのは連撃だった。
ただでさえ一撃一撃が破城鎚もかくやの威力を秘めているというのに、それが嵐の如き勢いで連発されるのだから危険度は比にならない。
それに対しチェンソーマンは、その異次元レベルに研ぎ澄まされた動体視力で一発ずつ捌いていくという難行を駆使し切り抜ける。
一秒を十三分割して、割り振られた各個のわずかな時間で一撃毎丁寧にいなすのだ。
カイドウが剛の究極であるならば、彼のはさながら柔の究極。
負傷と衝撃による内部破壊のダメージを最低限に刻みながら、押し寄せる流星群もとい龍盛軍を斬殺する。
斬殺の嵐は確実に流星雨の終わりを見ていたが、しかし
カイドウも止まらない。
連撃を打ち切り、その隙へまんまと踏み込んできたチェンソーマンに音速超えのカウンターを見舞う。
「"金剛鏑"!」
「…………!」
チェンソーマンの腹部が弾け、臓物が地を汚した。
八斎戒から放たれた衝撃波が、弾丸となって彼を撃ち抜いたのだ。
そしてその衝撃が生むわずかな後退を
カイドウは見逃さない。
踏み込む――覇者の進軍。次いで轟くのは、やはりあの"雷鳴"以外にあり得なかった。
「――そォら、どうしたァ!」
雷鳴八卦、炸裂。
壮絶な破壊音が響き、チェンソーマンの背骨が破砕する。
だが、次に驚くのは
カイドウの番だった。
あろうことにこの悪魔は、雷鳴八卦の直撃を受けながら。
吹き飛ぶことなく、地面に足をめり込ませて杭代わりにすることで踏み止まってのけたのだ。
「……馬鹿げた野郎だ。鋼翼の奴を思い出すぜ」
返しに吹く刃の暴風を受け止めながら、
カイドウは鬼ヶ島での激戦を思い出す。
肌感覚としては、チェンソーマンと戦うのはあの忌まわしき
ベルゼバブと戦った時のそれに近かった。
得体が知れず、すべてが馬鹿げた規格外。
真面目に戦えば戦っただけ損をする、何とも腹立たしくそして油断のならない相手。
ともすれば、
死柄木弔よりも。
真に警戒するべきはこの怪物なのではないかと、
カイドウは本気でそう思う。
チェンソーの刃に脇腹を斬り裂かれれば、その激痛の激しさにも驚いた。
自分の肉体が、この刃を介して現在進行形で"殺されて"いる――こいつは自分を、狩ろうとしている。
そう理解したからこそ、
カイドウは「上等だ」と牙を剥き応えた。
鬼神が再び龍へ変わる。
次の瞬間、チェンソーマンの胴に
カイドウの牙が食い込んだ。
噛み砕いて殺す。咀嚼して粉砕する。
その実に怪物らしいやり方からチェンソーマンは、口内へチェーンを展開して無理やり出口をこじ開けることで逃れたが。
「守ってみせろよ? ウォロロロロロロ――"熱息"!!」
さとう達も当然のように巻き込む規模の熱息が、直後
カイドウの口内へ渦巻き始めたから事態はそう簡単には解決しない。
チェンソーマンは龍の身体を刻みにかかるのを断念し、
カイドウの顎を真下から蹴り上げた。
これほどの巨体を一部とはいえ浮かせるその脚力は、確かに恐るべき混沌王と並び称されるのも頷ける。
出口を失った炎は、青龍の口の中で暴発。
これによりさとう・しおの両名にまで災禍が及ぶことはなくなったが――しかし間近の彼は只では済まなかった。
牙の隙間から溢れ出した業炎に身を焼かれ、爆発で全身を蹂躙され今度こそ吹き飛ぶチェンソーマン。
とはいえ自身の体内で熱息が暴発したのだ、
カイドウも無事では済まない筈だったが……
「切り刻んでやるよ……! "壊風"……!!」
忘れるなかれ、これは怪物だ。
この世における最強、そんな称号を欲しいままにし続けてきた超越者なのだ。
故に当然のように無反応。効いた素振りすら見せず、平然と追撃する。
鎌鼬がチェンソーマンの身を引き裂き、桜並木を鮮血で染め上げた。
しかし――重ねて忘れるなかれ。
彼が今戦っている、この悪魔もまた怪物だ。
悪魔さえ恐れ、名を聞いただけで震え慄く地獄のヒーロー。
既に無事な箇所が皆無に等しい身体で残りの鎌鼬を引き裂き、それどころか
カイドウに向けて打ち返す始末。
当の
カイドウも打ち返されたそれを事もなく鼻息で吹き消してしまうのだから、およそどこにも尋常な要素が存在しない。
身を焦がす炎を泳ぎ。
身を刻む鎌鼬を斬り。
竜殺し成すべくひた走る。
カイドウの龍鱗を、チェンソーの刃が引き裂いた。
迸る鮮血は、それだけでも本来ならば破格の戦果。
しかし返す刀で
カイドウは覇気を纏い、尾の一閃でチェンソーマンを叩き落とした。
「"龍巻壊風"!」
強化版の天変地異を、またも斬殺して。
竜巻と鎌鼬の中に混ざって降り注ぐ火球も同じように処断していく。
それはまさに、地獄の神話の再現だった。
何度となく殺され、その度に立ち上がり、あらゆる悪魔を殺し尽くしてきた血塗れの英雄は止まらない。
やがて龍が、再び鬼神に戻れば。
鬼神は八斎戒を振り翳し、あろうことか手近な空間を渾身の力で殴り付けた。
「"皇帝"に挑むことの意味を教えてやるよ。
お、おおおおおお、おおおおおおオオオオオオオオ――!!」
瞬間、空が悲鳴をあげて震撼する。
限界を超えて鍛え抜いた覇気を武器と自分自身に纏わせ、その上で尚力任せに殴り付ける力技の究極形。
それはこの地には呼ばれていない、かつての皇帝の一人。
カイドウがまだ見習いと呼ばれていた頃、彼と同じ船に乗っていたある男の技の模倣だった。
彼が世界最強の"生物"ならば。
その男は、世界最強の"海賊"と呼ばれた。
見事な死で己の航海録を"完成"させた豪傑に敬意を表し、皇帝殺しを標榜するルーキー達へ示す現実の壁としよう。
解き放たれる震破(クラッシュ)。
世界を滅ぼす力、それを自らの力で再現する。
雷鳴八卦の直撃さえ上回る衝撃波に呑まれ、チェンソーマンはとうとう限界に達しようとしていた。
跳ね飛ばされるその半身が、糸が切れたように脱力する。
彼にとって死とは束の間のものでしかないが、しかしまったく無縁というわけではない。
死んでも蘇るだけで、死という概念自体は彼にも存在している。
故に今、チェンソーマンの命は尽きる瀬戸際。
八斎戒を構えた
カイドウが迫る中、半身不随と化した身体をそれでも生消えるその時まで殺戮のために駆動させんとする姿は壮絶に尽きたが。
そんな彼の胸を、背後から撃ち抜くように。
桜舞う空の彼方から、一閃の光が降り注いだ。
「……おい、
リップ! 余計な真似してんじゃねェぞ!!」
光が風穴を穿つ。
血が溢れ出すが、それそのものは悪魔の駆動を止めるにはこの状態でもまだまだ心許ない豆鉄砲でしかなかった。
従ってチェンソーマンをきちんと殺し切ったのは件の光ではなく、着弾してすぐに訪れた
カイドウの打擲だった。
跳ね飛ばされ、停止するチェンソーマン。
しかしすぐに、胸のスターターが引かれ。
ぶうんと、悪夢の音を奏でて――地獄のヒーローは復活する。
だが。
「………………、」
無謬である筈の彼が。
微かな驚きを滲ませて、自分の胴から溢れる血に触れていた。
もう一度言おう。チェンソーの悪魔は不死身の存在だ。
故にこそ彼は、地獄のあらゆる悪魔を敵に回しながらその暴威を那由多の果てまで轟かすことができた。
手足がもげようが。
全身を砕かれ、焼かれようが。
首を切り飛ばされようが――何事もなかったかのように復活する。
それが彼という存在を定義する理(
ルール)。
ああでは、今彼の身を襲っているこの事態は何なのか。
上空からの射撃で撃ち抜かれ、空いた風穴。
その傷だけが、死を覆し復活した今も変わらず残り続けていた。
単に傷痕が残っているだけだとか、そんなチャチな話ではない。
血は流れ続けているし、それに合わせて内臓の欠片が顔を覗かせている。
傷が。喰らったあの瞬間から――まったく癒えていないのである。
「……黙ってろ、海賊。俺には俺の戦い方があるんだよ」
――不死身。
どう殺されようと、何度でもエンジンをふかして復活する。
それがチェンソーマンという悪魔の理(
ルール)。
「喰らったな。俺の攻撃を」
ならば。
「鬱陶しいだろうが我慢してくれ。
その傷はもう」
――――
リップ=トリスタンは、まずその理を否定する。
「俺が死ぬまで、治らない」
◆◆
チェンソーマンは、自身の肉体に不明な異変が起こっていることを認識した。
傷が癒えない。そう大きな負担ではないが、奇妙な能力で自身の不死性に干渉されているのは明らかだった。
ならば根源を断つまで。
シュヴィに守られて空を舞う眼帯の男を殺して呪いを断つべく、地を蹴り跳躍しようとして――
足が動かず、再びの驚愕に彼は停止する。
できない。
跳べない。
ならばとチェーンを伸ばし引きずり降ろそうとする――できない。
そもそもチェーンを動かすことができないのだ。
まるで、
リップという存在を害する一切の行動が禁じられているかのように。
神、悪魔。海の皇帝さえ恐れない万夫不当の悪魔が、たかが人間一人殺せずに天を仰いでいる。
「これで、お前はもう俺を殺せない」
リップ=トリスタンは、理の否定者である。
神々の醜悪な道楽に巻き込まれ、望んでもいない力を授けられた運命の犠牲者である。
彼は命を救うべく立ち上がった者。
自分の全てと呼べるほど、大切だった少女。
その運命を覆すために、メスを取った一人の医者。
しかし、神は。そんな決意と努力を嘲笑うように――彼に、命を奪う力を与えた。
その名は不治(アンリペア)。
ありとあらゆる"治"の否定。
リップが与えた傷は、彼が死ぬまで絶対に治らない。
それは単純な治療行為のみに留まらず適用される。
リップは先ほど、わざわざご丁寧に自身の能力の種をチェンソーマンへ語って聞かせた。
彼ほどの理性的な男が、驕りや嘲りのためにそんな無駄を冒すなどあり得ない。
あれは単なる手の内の開示ではない。
自身の否定能力――不治の力を最大限に働かせるための、"攻撃行動"だ。
「俺を殺せば……傷が治っちまうからな」
あらゆる治療行為の否定。
その中には、治の否定者たる
リップ本体を殺して能力の影響を取り除く行動すらもが含まれる。
故にチェンソーの悪魔は、もう彼を攻撃できない。
瞬間のことだった。
リップは先ほどチェンソーマンを撃ち抜いた走刃脚を用いて加速し、一気に地へと降る。
走刃脚は古代遺物(アーティファクト)。
神の道楽のために繰り返す世界の中で、形も性質も一切変えることなく残り続ける道具達の一つ。
古き世界の記憶を宿すこれら遺物は、魔術世界で言うところの神秘に区分される性質を宿している。
だからこそ、
リップはサーヴァントであるチェンソーの悪魔に傷を付けることができたのだ。
サーヴァントさえ貫き、血を流させる極めて高性能の武装。
そんなものを英霊以外の生命体に使ったならどうなるかなんて――改めて考えるまでもないだろう。
「行かせると、思うか……!」
真っ先に止めに入るのはガンヴォルト。
不治の影響を受けていない彼は、今も
リップを殺すことができる。
加減なしの雷霆を放つ構えを取った――そんな彼を、お返しとばかりにシュヴィが止めた。
「……そっちこそ、行かせない……ッ」
典開――『通行規制(アイン・ヴィーク)』。
その用途は、厳密に言えば防御ではなく、迫る攻撃を"逸らす"ことに重きを置いている。
……かつて。龍精種の【王】の咆哮を逸らすために用い、最愛の人の故郷を焦土に変えたこれを。
人類種の少女達を間接的に殺すために用いるというこのシチュエーションは、さながら道を過った女への皮肉じみていた。
だが、武装は彼女の思惑通りの働きをこなす。
もはや正面から防ぐのは至難なほどに猛りをあげているガンヴォルトの雷霆を、
リップを目掛け放たれたそれを――『通行規制』は無慈悲に逸らす。
明後日の方へと消えていく誓いの雷は、彼らにとっての絶望の象徴か。
自分の思考回路に割り込んでくる悔恨と呵責のノイズ。
それを振り払うように、シュヴィは眼前の敵手を消し飛ばすべく最大火力を放つ準備を開始した。
――彼女の方を、
リップ=トリスタンは振り向かない。
振り向かぬまま、走刃脚を最高速で稼働させて地まで向かう。
標的の少女達を囲うように出現した皮下の桜は、チェンソーの悪魔が振り抜いたチェーンの鞭撃によって一掃されたが、構わない。
(治癒行為の禁止。そこには、少なくない例外がある。
あれだけ無茶苦茶してくる奴なら、能力の穴を突いて強引に殺しに来る可能性も否定はできないが)
そう、例えばそれは。
リップの知る、とある"不死"者のように。
それをされてしまえば、彼以上の身体能力で殺しに来るあの悪魔相手に自分ができることは皆無に等しい。
ほぼほぼ間違いなく殺されるだろう。引き裂かれ、切り刻まれ、人殺しの咎人に相応しい死に方を用立てられるに違いない。
そんな危険性を文字通り身を以って引き受けてくれるのが、もう一体の怪物。海賊
カイドウだ。
(
カイドウは馬鹿じゃねえ。口で何と言おうが、俺達の狙いはちゃんと理解してる筈だ。
チェンソーのライダーは奴が止める。雷霆のアーチャーは、シュヴィが止める。
皮下を余力で牽制することはできても――俺を止め切ることは不可能だ)
走刃脚を装備した
リップは、その性質上死神に等しい。
此処でも彼の不治が。この忌まわしい能力が、腹立たしいほど彼の背中を押す。
既に
リップの速度は時速数百キロに達していた。
出力最大、最速状態。それはもはや、地獄からの回数券で増強(ブースト)した眼でさえ追い切れない域に達して余りある。
これだけの速度から繰り出される、治療不可の一撃。
掠っただけで終末が確定する、死神の鎌。
どう考えても少女達は詰んでいた。
しおが皮下に見せた"奥の手"も、種の割れた今ではまともに機能するとは思えない。
「友達の件は悪かったな。だけど、諦めてくれ」
酷薄な宣告を、一つ。
呟いた
リップに、さとうは逃げるでもなく歩み出た。
「さとちゃん、だめ……!」
「ごめんね、しおちゃん。
でも、これは私がやらなくちゃいけないことなんだ」
その右手には、一振りの短刀が握られている。
元は"割れた子供達"の一人が持っていた、今のさとうにとっては唯一の得物。
皮肉なほどにその感触が手に馴染んだ。
小鳥を殺したあの時を、否応なしに思い出させてくれる。
制止するしおに一言だけ告げて。
さとうは、迫る
リップへ無謀と分かって踏み出した。
――言葉を交わす気なんて、少しもない。
――あの子を殺したことを責めるつもりも、ない。
――自分にその資格があるとも、思っていない。
そもそも、彼女が自分に対して平気な顔で接していたことがまずおかしいのだ。
自分がそれに対して応えていたことも、まるで以前のままみたいにつるんでいたこともそう。
自分は殺した側。奪った側で。あの子は殺された側。奪われた側なのに。
それでもあの子は、生きていた頃とまるっきり同じだった。
ぱたぱたと健気に走り回って、誰かの世話を焼いて。いつでも明るくて、そのくせ弱い部分はちゃんと弱くて。
――思わず、何か勘違いをしてしまいそうなくらい。
――
飛騨しょうこは、あの頃のままだった。
(……ごめんね、しょーこちゃん。
私、きっとあなたのためには戦えない)
しょうこの死を悲しむ資格は、自分にはない。
その役目はあの心優しい雷霆なんかがやればいい。
だってほら、この通り。
自分は今だって、自分を助けて死んでいった少女を取り戻そうだなんて欠片も考えていないのだから。
求めるのは自分達の幸せな未来だけ。
その閉ざされた世界に。
賑やかな小鳥の囀りは、存在していない。
(だからこれも、きっと自分のため。
でも、それじゃいくらなんでもあんまりだから)
これは、自分としおのためだ。
願い求めたハッピーシュガーライフのため、ただで殺されてなんかやれない。
だから無謀だろうが挑んで、未来を切り開くしかないとそう考えた故の行動だ。
でもそれじゃあんまり、死んでいったあの子が気の毒だから。
さとうは、武器を握って戦う理由の中にひとつ。
あの子のぶんの重みを、加えてあげることにした。
(さ。いくよ、しょーこちゃん――)
愛する人は、この世にひとり。
でもきっと、友達と呼べる人間もこの世にひとりだ。
さとうがあれほどまでに自分という人間を、その中身をさらけ出した相手は他にいなかった。
短刀を握る手に力が籠もる。
迫る相手を見切るなんてことは、人を殺した経験が多少あるだけのさとうにはできるわけもない。
勝ち目はゼロに等しい。それでも、今此処でこの役目を自分が引き受けなければすべてが失われると分かっていたから恐怖はなかった。
リップが迫る。その風圧を感じながら、さとうは願う。
もういない、たったひとりの友達に。
一度はこの手で殺したのに、それでもまだ纏わりついてきたあの小鳥に。
そんなことを求める資格なんてないと分かっていても――それでも願った。
あの子ならきっと聞いてくれるだろうからと、そんならしくない甘えを抱いて。
「――お願い。私に、少しだけでいいから力を貸して」
生きるか、死ぬか。
彼女達と彼らの未来を占う一瞬が、遂にその幕を開けようとした。
その瞬間、だった。
「――――言った、だろう」
声が、響く。
満身創痍の、掠れた声。
骨の髄から振り絞るような声は痛ましく、されど清澄な覚悟に満ちていて。
天から響くその声が、
リップへ、さとうへ、そしてどこかで見守るあの小鳥へ――強く強く、響き渡る。
「もう何も、奪わせないと――――!!」
◆◆
――うたが、きこえる。
――いつかのうた。
――あのこの、うたが。
ガンヴォルトの元で猛る魔力/電力。
その出力が急激に、跳ね上がっていく。
これまでのですら、十分過ぎるほどに出力過多であったというのに。
それがただの前座でしかなかったとでも言うかのように、輝くものが溢れては収束を重ねひとつの神秘へと収斂していく。
誓いの結実。
紡いだ絆と、乗り越えた場数の昇華。
ガンヴォルトがこの界聖杯で成してきたすべてが。
彼というサーヴァントの周りにあったすべての縁が、その輝きを作る礎だ。
威信(クードス)が集約されていく。
諦めず、愚直なまでに誓いを守り続ける少年の想いに寄り添うように、それは形を結び過去最大の輝きを編むに至っていった。
「――ッ……! 出力、最大! イミテーション・ケイオスマターの結合を解除、開帳予定の武装への統合を開始…………!!」
それを最も最初に脅威と認識したのは、彼との直接戦闘に及んでいた
シュヴィ・ドーラであった。
例外を除けば自身が保有する中で最高の殲滅力を誇る武装の開帳に、予定になかったケイオスマターの合成を開始し威力の底上げを図る。
それほどまでに手を尽くさねば、きっと凌ぎ切れない。
押し潰すのではなく、自然と凌ぐことを考えて思考を回してしまう。
聖性を意味する白に。
破壊を意味する黒が、混ざる。
陰陽を描く太極図のように白黒混在した渦が生まれ、天翼の秘技は鋼翼の混沌によって穢される。
出力は最大をさえ超えて、その先へ。
すべては目の前の脅威を排除するために。
そのためだけに全力を尽くし、シュヴィは満を持して最大の一撃を解き放った。
「【典開】――――『偽典・混沌天撃(バアルゼブル・アポクリフェン)』ッ!!!」
『天撃』+『ケイオス・レギオン』。
いずれもまがい物同士なれど、禁断の融合であることに変わりはない。
かつて彼女を殺した天翼種の女に、滅殺された鋼翼の覇王。
彼らでさえ直撃すれば致命傷、それどころか即死にすら繋がるだろう輝きが爆裂する。
しかし――
ガンヴォルトは、不動だった。
焦りもしない。慌ても、しない。
彼はただ、下だけを見ていた。
守るべき者達だけを見て、佇んでいた。
「――掲げし威信が集うは切先。
――夜天を拓く雷刃極点。
――齎す栄光、聖剣を越えて……!」
天撃。
混沌。
知ったことか――邪魔だ。
これは聖剣をさえ超える輝き。
「越えろ…………!」
彼女達の愛と。
小鳥の祈りに報いる、安らぎの光。
裂帛の気合と共に紡がれた祝詞に応えるように、一振りの巨雷剣が出現して。
「《GLORIOUS(グロリアス)――――――――――――――STRIZER(ストライザー)》ァアアアアアアアアアアッ!!!!!」
混沌が、裂ける。
天撃が、爆ぜる。
その輝きは、混沌の天撃を一撃の下に粉砕した。
否、それだけでは止まらない。
小鳥殺しの否定者と、夜桜前線の主。彼と盟を結んだ、餓える海賊。
彼らが殺し合う桜漬けの大地へと、ガンヴォルトはシュヴィの生死を確認するのも待たずに最高速度で臨んだ。
すべきことは一つだ。さとうを救出し、この場を離脱する。
出力。速度。いずれも、常に最大。
霊基は過剰な出力で今にも張り裂けそうだったが、そんなことは些事と断じて無視する。
「アーチャー……!」
ガンヴォルトではなく。
自身の相棒の方へと、
リップが一瞬意識を逸らした。
彼は目的のため、どこまでだって非道になれる男だ。
事実
リップにはその覚悟があり。だからこそ、此処まで幾多の血でその手を汚すことができたのだろう。
だが、しかし。彼という男は冷徹ではあっても、冷血ではない。
一月の間、寝食から戦い、作戦のすり合わせに至るまであらゆる時間を共にしてきた相棒。
自分の願いを叶えるために、歪めてはならない信念まで歪めてくれた。
そうまでして、このどうしようもない男に寄り添ってくれた――たったひとりのサーヴァント。
その身を案じる気持ちが。ほんの僅か/ほんの一瞬だけ、さとうを殺さねばならないという使命感に勝ってしまった。
彼は、情を捨てたのではない。
情を、押し殺しているだけだ。
彼もまた、愛のままに生きる男だから。
そしてこの窮地で、ほんの僅か顔を覗かせたその"情"を。
どこまでも苦く研ぎ澄ました殺意のみを纏っていた男が滲ませたその甘さを――
松坂さとうは見逃さない。
さとうは、短刀を投擲した。
刺すのでも、斬るのでもない。投げた。
用途を知らない子どものような稚拙な攻撃。
しかし。地獄への回数券を服用し、超人と化した今の彼女ならば。
一枚で鼠が羆を殺し、素人が格闘技の世界王者に圧勝できるほどの力を得られる近代麻薬の大傑作。
道を極めるその工程を吹き飛ばし、力をもたらしてくれるそれを口に含んでいる、今のさとうが投げたならば。
それはもはや、やけっぱち紛いの悪足掻きではなく。
はるか格上の手練れをも殺傷し得る、鋭い殺意の刃となる。
「……づ、ッ……!」
リップの胸に、短刀が突き刺さり。
それは彼の胸板を貫通して、激しい鮮血を撒き散らさせた。
意識が薄れる。即死しなかったのは奇跡だと言っていい。
だが致命傷であることに疑いの余地はなかった。
たまたま心臓を避けているだけで、重要な血管は何本も文字通り断ち切られ現在進行形で命の源を外に垂れ流し続けている。
死ぬ。
死が迫っているのが分かる。
小鳥を殺した咎人へ。
小鳥に愛された少女が、応報を与えた。
リップは、仕損じてしまったのだ。
捨て切れなかった甘さの断片。人間性の、最後のひとつ。
それが彼の首を絞めた。彼を、死へと追いやった。
だが――
「まだ、だ……!」
そんな結末をも、
リップは壮絶な形相で否定した。
頬の肉を噛み潰して、失血で薄れる意識を強引に覚醒させ。
走刃脚を全力で駆動させ、周囲へなりふり構わず鎌鼬を撒き散らす。
ガンヴォルトに阻まれるのは想定の範囲内だ。
あくまでも意図は牽制。一瞬、ほんの一瞬でも猶予を作れればそれでいい。
――地獄への回数券。
一介の女子高生を、古代遺物持ちの否定者をすら殺傷し得る超人に変える驚異の薬は、何も彼女達だけの専売特許ではない。
リップの懐にも、紙片程度のサイズながらクーポンが入っている。
幸い、腕や脚をやられたわけではない。
クーポンを服用すれば、あの異常な回復力でこの程度の傷は簡単に癒せる。
重要なのは、クーポンを口に運ぶ一瞬の隙を作ること。
だからこそ
リップはまず、自分への攻撃の手を止めさせることに腐心した。
クレセント。そう名付けた三日月状の斬撃/鎌鼬を、氷上を舞い踊るスケーターのように激しく舞いながらばら撒いていく。
激しい動きの代償に出血は加速し、ただでさえ迫っているタイムリミットへのカウントダウンが更に加速したが――気に留める暇はなかった。
(死ねない……! 死ねるか、こんなところで……!
神も、あいつの墓標もない――こんな辺境の世界で!
この夢を、この願いを……終わらせるわけには、いかないんだよ……!!)
……この時。
リップ=トリスタンが狙っているのは、あくまでも
松坂さとうだった。
何故なら
神戸しおのサーヴァントは不治に囚われ、その上
カイドウによって足止めを食らっている。
故に脅威とは判断せず、ガンヴォルトを食い止めるためにさとうを攻め立てることをこそ第一に考えて行動していた。
だが、無論。
これほど激しくがむしゃらに舞いながらクレセントを放てば、その破壊はほとんど360度/全方位に向かい放たれることになる。
リップの狙ったさとうにはもちろん。
厳密には彼の狙いの外にいたしおにも、不治の鎌鼬が降り注いでいく。
そのことに最初に気付いたのは、さとうだった。
続いてガンヴォルトが気付く。チェンソーの悪魔も、恐らく同タイミングだったに違いない。
しかし――
「おおっと。駄目だぜ、うちの総督をこれ以上袖にしないでやってくれよ」
悪魔の行く手を阻むように。
これまでで最大サイズの、桜の幹で編まれた巨壁が出現した。
それはチェンソーマンにしてみれば、もちろん容易く切り破れる薄壁でしかなかったが。
壁を刻んだその瞬間、
カイドウの一撃が主の元へ向かわんとする彼を叩き潰す。
「よくやった、
リップ。お前のおかげで厄介なのを落とせそうだ」
嗤うのは、
皮下真。
愛を自覚し、この戦端に火を点けた夜桜の魔人。
彼は
神戸しお――チェンソーの悪魔を従える少女を排除できるこの好機を見逃さなかった。
チェンソーの悪魔は、
死柄木弔にも匹敵する目下最大級の脅威。
想定以上の強さを見せるガンヴォルトも厄介ではあるが、不死という性質を加味すればより邪魔臭いのは間違いなく此方だろう。
だからこそ此処で皮下は、その妨害に全力を尽くす。
助けになど行かせるものかと、新たな季節を拒む常春の桜並木を顕現させて
カイドウと共に悪魔を阻み続ける。
不治。夜桜。そして、この世における最強の生物。
三種三重の"壁"と"蔦"に絡め取られては、不死身の英雄もそう容易くは抜け出せない。
そしてその間にも。
事態は既に、取り返しのつかない状況にまで進んでいた。
「あ……」
クレセントの刃が、しおに向かい迫る。
しおは、取り乱すことはしなかった。
彼女の中にあったのは、自分でも驚くほどあっさりとした感情。
私、此処で死んじゃうんだ――そんな悟りめいた諦観が、その他あらゆる感情を無視して胸の中に広がっていく。
不治の鎌鼬。
クーポンの効き目など、これの前では何一つ意味を成さない。
手足の欠損程度に留められたのならまだ巻き返しようもあるだろうが、軌道は明らかに胴体への直撃コースだ。
走馬灯、という言葉を聞いたことがある。
曰く、死に瀕した人が最後に見る夢のようなものなのだとか。
なら、今のこれも"そう"なのだろうか。
目の前にあるのは、ただ無慈悲に迫ってくる"死"で。
脳内に溢れるのは、愛しい人との記憶ばかり。
――ああ。
――せっかく、会えたのにな。
むせ返るほどに甘くて。
うっとりするほどに幸せで。
そして、どこまでも満たされる。
さとちゃんといる時間は、いつだってそうだった。
だから最後に、大好きな彼女と一緒に過ごせたことは嬉しかったけれど。
それでも――やっぱり、もうちょっと一緒にいたかったな。そんな気持ちはどうしてもあって。
――あ、そうだ。
――さいごに、さとちゃんになにか言わないと。
――なにもいえないままおわかれだなんて、さびしすぎるもんね。
引き伸ばされた最後の時間の中で。
しおは、小さな頭でああでもないこうでもないと言葉を絞り出す。
その結果、ちょっとよくばりになった少女は二つ言い残すことにした。
どっちも、どうしても伝えたかったこと。
となれば、後はありったけの笑顔だ。
「さとちゃんっ」
恐怖がないのは幸いだった。
愛する人へ最後に向ける顔は、やっぱり笑顔が一番だと思うから。
「ごめんね。ありがとう!」
うん、これでいい。
これで――。
ざしゅっ。
びちゃり。
◆◆
『――さとちゃん!』
淡くて、脆くて。
あなたとの時間は、いつだって溶けてしまいそう。
『私ね、友達がたくさんできたんだよ。さとちゃんは嫌がるかもしれないけど、みんなでがんばってここまでこれたの』
やがて終わるのなら。
『だいすき、さとちゃん。またあえて、ほんとにうれしい』
枯れて果てるのなら。
『ごめんね。ありがとう!』
この愛をくれたあなたに――
◆◆
ガンヴォルトの想定を崩したのは、
リップの見せた意地だった。
常人ならショックで即死に至っても不思議ではない、致命傷。
大動脈を断たれながら、それでも彼があれほどの暴れぶりを見せたこと。
クーポンを服用していなかった筈の彼が、自らの意思――失った愛への執念だけで人の限界を超えたこと。
……それでも。
ガンヴォルトの背中には、小鳥の翼が生えていた。
それは、彼女の遺命。
命を散らした少女が、最後の最後に残した言葉。
さとうを、守って。
令呪の輝きと共に刻まれたその誓いが、彼の足を速めた。
そして彼は、間に合った。
蒼き雷霆の少年は今度こそ、守りたいものを守ることができたのだ。
ただ一つ。
ほんの一つ、そこに理想と違うことがあったとすれば。
それは、彼の前に立ち塞がった今度の運命は……二つ、あったということ。
それはさながら、制御を失い暴走するトロッコだった。
線路は二股に分かれていて、そのどちらにも人が居る。
トロッコの行き先を操ることはできるが、停車させることはできない。
――どちらか片方は、必ず死ぬ。救う命と、殺す命を選択せよ。
そんな使い古されたチープな命題を思わす状況が、現実の産物として彼の前に広がっていた。
ガンヴォルトの答えは、決まっていた。
守るべき誓いは、彼の中に今もある。
それに抗う気はなかった。
松坂さとうを救う。
神戸しおを、切り捨てる。
小鳥の愛した親友を助け。砂糖少女の愛する天使を、殺す。
迷いはなく。
迫るクレセントの撃墜は、滞りなく行える――その一方で。
ガンヴォルトはどこかで、これから起こるだろうことを悟っていた。
――最初。
この少女に対する印象は、最悪だった。
自分の都合で親友をすら殺し、そのくせのうのうと付き合い続けている異常者。
もしも不穏な兆候があれば、その時はこの手で処断しようと思っていた。
でも、それが単なる倒錯でも、ましてや妄念の類でもないことはすぐに分かった。
彼女の語る"愛"は、本物だ。
彼女は本気で、誰かのことを愛している。
その愛のためになら、何にでもなる覚悟を持っている。
迷いながら、傷つきながら、時には涙だって流しながら。
それでも進み続ける姿を――いつからだろう。嫌いだと思えないようになったのは。
『アーチャー』
頭のなかに、声が響く。
ああ、と思った。
悲しみはある。やるせなさも、ある。
でも、怒りはなかった。
あの子の命をなんだと思っているのかと、そう怒鳴る気にはどうしてもなれなかった。
むしろあったのは、納得。
そして諦めにも似た、感慨だった。
確かにキミは、そうするだろうな。
キミは、誰よりも愛の深い子だから。
キミは――そうしてしまうだろう。
ボクに、そうすることを求めるだろう。
それが生む結果を、知りながら。
それでも、キミは。愛のために、そうするだろう。
『……本当に、駄目か。
考え直しては、くれないか』
『無理、かな』
『キミの気持ちは、知っている。
キミがそうすることに、理解はできる。
でも――ボクは、それをしたくない。だって、それは……』
『あの子の気持ちを、裏切ってしまうことだから。でしょ』
ああ。
まったく救えない話だが、きっと自分が彼女を悪しく思わないようになったのはこういうところなのだろう。
松坂さとうは、人殺しだ。彼女の手は罪と血に穢れている。
彼女は、愛のために人を殺すことを厭わない。
自分の大切な気持ちを貫くために、何かを踏み躙ることを躊躇しない。
そしてそれは――自分自身でさえも、例外ではないのだ。
彼女はこの世界で、あの優しい小鳥と過ごす中で……そんな答えを見つけたように見えた。
『わかってる。全部、わかってるよ』
『……だったら』
『でも、ごめんね』
トロッコを停めることはできない。
その行き先は、二つに別れていて。
どちらか一方で、その車体は必ずひとりを轢き殺す。
ガンヴォルトは、さとうを選んだ。
でも、さとうは――。
『この気持ちのことは、嫌いになりたくないんだ』
彼女の右手に刻まれた、刻印。
その最後の一画が、強い輝きを放った。
それと同時に、ガンヴォルトの身体に魔力が流れ込んでくる。
『お願い、アーチャー』
最後の令呪を使って紡がれる命令。それがなにかなんて、もう聞くまでもなく明らかだった。
『しおちゃんを、守って』
命令の重ねがけ。
小鳥の祈りが、甘い願いで塗り替えられる。
さとうは、答えを見つけた。
その時から、終わりは決まっていたのかもしれない。
ガンヴォルト自身、彼女がしおと再会を果たした時から。
心のどこかで、こうなることを感じていたのかもしれない。
違うのは、それが遅いか早いかだけで。
いずれ、さとうは――その"答え"に殉じてしまうと。分かっていたのかも、しれない。
『キミは、ひどい女だ』
『……うん。自覚してる』
『でも。だからこそ、キミなのか。さとう』
『うん。愛があるから、私なの』
『…………キミらしい答えだ。でも、少し変わった気がする』
『そう?』
『ボクに、キミの命令を弾くほどの力はない。
だけど――どうか、最後にひとつだけ聞かせてくれないか』
令呪が、ガンヴォルトの身体を"答え"の方へと突き動かす。
撃ち落とす筈だった鎌鼬へ、雷霆が飛ぶことはない。
そうしていたら間に合わないからだ。
未だ残る未練とは裏腹に。彼の身体は、皮肉なほど効率的に駆動した。
じきに、すべてが終わる。
さとうを糾弾する気にはやっぱりなれなかった。
これができなければ、それはもうさとうではない。
飛騨しょうこが命を懸けてでも守り抜いた、彼女の大切な友人ではないのだ。
けれど最後に、せめて。
せめてこれだけは聞きたかった。
『キミにとって――この世界であの子と過ごした時間には、意味があったかい?』
そんな、ガンヴォルトの質問に。
さとうは、小さく笑ったように見えた。
そして。
『……そうだね』
砂糖少女は、その脳裏に小鳥の笑顔を思い描きながら。
『苦くはなかった、かな』
そうとだけ、答えた。
水っぽい音が一つ、鳴った。
それと同時に、空から光の雨が降ってきて。
そして――
◆◆
殺った。
リップはそれを確信しながら、自身の口内へ地獄への回数券を放り込んだ。
紙片から溶け出す薬効、身体の節々にまで瞬時に伝わっていく覚醒作用。
今にも消えかけていた意識が鮮明化する。
出血が止まり、心臓はその埋め合わせとばかりに大量の血液を即時生産する。
視界の端で、血を噴き出しながら崩れ落ちる桜髪の少女の姿が目に入った。
しかし感慨や達成感に浸っている暇はない。
更に言うなら、この"感情"に向き合っている余裕もない。
――そうか。庇ったのか、あの女。
松坂さとうは助かる筈だった。
リップが意図せずして迫っていた二者択一。
雷霆のアーチャーは、間に合う筈だった。
だがそれを、恐らくさとう自身が拒んだ。
彼女を守る筈の雷霆は、主へと迫る"死"を素通りして。
切り捨てられる筈の小さな少女を、守った。
そこにあった、"愛"に。
自分の命すら擲つ献身に。
思うところがなかったと言えば、きっと嘘になる。
リップは情を捨て切れず、それを麻痺させる方法だけ学んできた男だから。
少女の選択は、痛みとまではいかずとも――確かな苦さを彼に与えていた。
だが、もう一度言うがそれに向き合っている暇はない。
走刃脚は無茶な駆動と、"雷霆"が放つ電撃の余波で半壊状態だった。
今すぐにでも此処を離脱しなければ、せっかく繋いだ命が無為に終わる。
シュヴィが放った牽制射撃を隠れ蓑にして、
リップは失敗の代償をごく利口に支払っていく。
空に、雷霆が跳ぶのを見た。
自分よりも、何とか生き残っていたシュヴィの確実な撃破を優先したのか。
(だとしたら、却って好都合だ……二度目の喪失は堪えたらしいな、アーチャー)
だとしたら、それは愚策だ。
リップは内心で悪役めいた揶揄をしながら、悠然と生を繋ぐ。
令呪はまだ二画残っている。
此処で令呪を使い撤退してシュヴィを回復に努めさせれば、この戦いは自分達の事実上の勝ち逃げということになる。
ガンヴォルトの"強化形態"について、
リップは知識を持っていなかったが。
あのレベルの急激な霊基強化が永続的なものであるなんて話は、十中八九ないだろうと踏んでいた。
つまりマスターであるさとうを殺せたなら、それ以上まともに相手をする理由がない。
後は逃げて魔力を使い切らせ、元の霊基に戻らせればそれでほぼほぼ無力化は完了する。
記憶の共鳴により多少強化されているとはいえ、強化形態さえ解ければシュヴィの敵ではない。
だからこそ。
ガンヴォルトは此処はシュヴィではなく、
リップを狙う必要があったのだ。
彼は自分から詰みの方にひた走ってしまった。
馬鹿な奴だ。演技がかった冷笑は、一度は乱れかけた
リップの心を実に効率よく麻痺させてくれた。
――
リップの横を並走するように、赤黒い何かが飛んできた。
――訝しげに眉を顰める、
リップ。
――最初は球体に見えたそれが、どうやら誰かの"心臓"であるらしいと分かった瞬間、彼の脳裏をある不死者のシニカルな笑顔が過ぎった。
「悪いな――不死(それ)はもう知ってんだ」
心臓が、弾ける。
いや、そう見えただけだ。
実際には、弾けるように再生した。
抉り出して投擲した心臓から、チェンソーマンが再生する。
不治の否定能力には、穴がある。
治療意思を持たない行動。
例えば、攻撃のための傷口の切除。
不死の屁理屈は、しばしば不治の理を力ずくでねじ伏せる。
忌まわしい弱点だったが、しかしそれに不覚を取った経験がこの時
リップを助けた。
(どんな理屈を捏ねたのか知らないが、お前はもう一つそれを練らなきゃならない。
それよりも俺が令呪を使ってこの場を離脱する方が、圧倒的に――)
動揺する必要はない。
即死さえ避けられれば、死の運命はクーポンが跳ね除けてくれる。
今この状況でも不治は変わらずこいつを苛み続けている筈だ。
であれば、問題ない。事実、
リップの考えは正しかった。
如何に地獄の英雄・チェンソーマンと言えども、流石にこの状況では
リップに有利な要素が揃いすぎている。
彼は確実に仕損じる。
リップの逃走が完了するまでに、間に合わない。
敵が、本当にチェンソーの悪魔だったなら。
「――――あ?」
リップの腕が、宙を舞っていた。
発動寸前だった令呪が、光を失ってただの刻印に戻る。
べしゃ、と音を立てて地面に落ちたその腕は彼にとっての生命線の喪失を意味しており。
だからこそ
リップには、次にやってくる殺意の暴風を凌ぐすべがなかった。
Chainsaw blood。
ぶうん、ぶうんと音を立てながら。
間近で解き放たれた暴力が、
リップの両足を古代遺物ごと引き裂いた。
彼の血に濡れながら佇むチェンソーマン。
その身体には――治らない筈の風穴が、どこにもなかった。
(…………馬鹿、な)
リップの頭の中で、パズルのピースが次々と嵌っていく。
散りばめられた、ひとつひとつは小さな違和感。
ガンヴォルトが何故、主の仇ではなくシュヴィを優先したのか。
チェンソーの悪魔が何故、心臓を投擲して肉体を再生させるという治癒行動を取ることができたのか。
その答えが、今になって浮かび上がってくる。
――シュヴィを優先したのではなく、シュヴィを足止めするのが狙いだったから。
――心臓を投擲するその瞬間、既に霊基の主導権はチェンソーの悪魔から彼の"器"へと移っていたから。
――霊基の入れ替え(スイッチ)で不治を解除し。
――戦闘力で悪魔に数段劣る"器"を止めさせないために、ガンヴォルトがシュヴィを引き受ける。
否、シュヴィだけではない。
彼は今、自身の霊基の未来を犠牲にして皮下と
カイドウの両名すらもを引き受ける難行を果たしていた。
間断なく降り注いでいる節操のない雷霆が、その証拠。
彼は乱心してなどいなかった。
舞台はずっと、ある一つの結末のみを目指して進んでいたのだ。
即ち、
リップ=トリスタンの抹殺。
不治の否定者を、その理ごとこの界聖杯から消し去ること。
そして手品の種に気付いた時にはもう、何もかもが遅すぎた。
「別にさ、アンタに恨みはねえよ。
俺正直、あの女のこと好きじゃなかったし。
顔は良いけど性格キツいんだもん、結構がっかりだったぜ」
変身が解ける。
チェンソーマンとしての姿から、少年
デンジとしての姿に。
その片手に残るチェンソーだけが、彼がかつてそうだったことを物語る唯一の要素だった。
令呪は使えない。走刃脚は両足ごと破壊された。
地獄への回数券、破壊の八極道が生み出した"傑作"も――身体部位の欠損だけは補えない。
「けどよ……」
あらゆる思考が、脳裏に湧いては消えていく。
脳内へ警鐘のように響く、シュヴィの念話はもはや半狂乱と言ってもよかった。
だが助けの手が一向に来ないということは、つまりそういうことなのだろう。
蒼き雷霆。ガンヴォルト。ある少女を、一羽の小鳥から託されて。
そしてまた、誓いを背負わされてしまった男。
彼が、シュヴィを止めている。
その存在さえなければ、
リップが生き延びる目はいくらでもあったろうに。
「……しおは、友達(ダチ)だからさ」
少女達の、愛の因果。
少年達の、愛を護る意思。
それらが、彼の命運と望んだ未来を見るも無残に切り刻んだ。
「アイツ泣かされたら、流石に黙ってられねえんだわ」
リップは諦めなかった。
何かを言おうとしたのか。
口を開きかけて――
デンジはそれを待たなかった。
チェンソーの刃が、彼の首に食い込んで。
そのまま、一息に胴体から切り離した。
◆◆
救える命だった。
治せる、命だった。
自分の目の前で冷たくなっていく、あいつの顔を覚えている。
まるで眠るみたいに目を閉じて、静かに命の灯火を消していくあいつ。
それは、
リップ=トリスタンという人間にとって決定的な挫折で。
そして、世界を呪う否定者
リップが怨嗟の産声をあげた瞬間だった。
――救いたい。
他の誰を殺しても、何を失っても構わない。
最後にあの日失くしたものを取り戻せるなら、自分は何にだって手を染めよう。
誰の何だって否定しよう。
この願い、この祈り以外のすべて、すべて。
否定して、否定して、否定して、否定して……。
そうして最後の最後にただひとつ、願ったものを救えればそれでいい。
そう思っていた。
そう思って、此処まで来た。
そして、今。
リップの目の前には、死だけが残っている。
――何処で間違えたんだろうな。
――俺は、一体何処で。
何処で、と問うならば。
きっと、最初からなのだろう。
世界を呪い、犠牲を善しとし。
悲劇の痛みに心を拗らせて、その癖いつまで経っても人の情を捨てきれない。
そんな生き方を選んだ瞬間から既に、自分は間違えていたのだと
リップは思う。
やってくる結末は、きっとひとつしかなかった。
まさにあの"神"が喜んで、手を叩いて笑覧するようなおあつらえ向きの悲劇/喜劇。
自分の手のひらで恥知らずに踊り狂いながら、約束された破滅へとひた走っていく運命の道化(ピエロ)。
その生き方を変える機会は、いくつもあった。
それは、元いたあのクソッタレな世界でもそうだし。
この界聖杯に来てからも、多分そうだった。
拒んだのは、俺だ。
他でもない、自分自身だ。
馬鹿は死んでも治らない。
そういうことかと、自嘲したくてももう表情筋すら動いてはくれなかった。
――悪いな、シュヴィ。
――俺は、雇い主としちゃ最低の部類だっただろ。
――お前は、優しい奴だから。
――俺なんかに喚ばれたりしなかったら、きっと多くの命を救えただろうな。
結局、最後まで何ひとつ報いてやれなかった。
心配ばかりかけて、苦労ばかりさせて。
やりたくもない仕事をいくつもさせて。
約束も、生き様も、何もかもを裏切らせて――そうまでして、これだ。
勝利ひとつ持ち帰れずに終わる。
馬鹿げた話だ。とんだお笑いだ。
そうだ。自分は、極まりきった馬鹿だから。
死んだくらいじゃ治らない、筋金入りだから。
だから、最後に残す言葉は決まっていた。
今にも消えそうな意識を集中させて、最期の念話をシュヴィへと送る。
『シュヴィ』
本当に、迷惑ばかりかけてしまった。
そして最期にもまたこうして、迷惑をひとつ残していく。
でも、どうしても諦めきれないのだ。
それを諦めることだけは、どうしてもできないのだ。
――俺がいて。
――ラトラがいて。
――そして、あいつがいる。
神の享楽のために奪われたいつかの日常を、取り戻したい。
あの日々に帰るためなら、自分は何だってするし、何だってできる。
何だって、できてしまう。
『――――後は、頼む』
これは、きっと呪いだ。
十分過ぎるほど呪ってしまったあいつを、俺は更に呪う。
恥知らずだと分かっている。見苦しいと、自分でもそう思う。
それでも。その見窄らしさをすべて呑み込んで、
リップは無様に希った。
頼む。
お願いだ。
どうか、助けてくれ。
あいつを。
ラトラを。
……俺を。
俺たちを。
助けて、くれ。
あの笑顔のある世界に、還してくれ。
意識が消える。
命が失われる、最期の刹那に。
もう暗闇が満たすだけになった
リップの中へ、ただひとつ。
――だいじょうぶ。
――あとはシュヴィが、ぜんぶやるから。
――だから、だから……
そんな声が響いたのは、果たして末期の幻聴だったのか。
答えは得ぬまま。失って、あがいて、もがいて、そうやって生きるしかできなかった男は、深い深い闇の中へと沈んでいった。
――おやすみなさい、マスター。
誰にも迎えられることはなく、しかしほんの少しの安堵感を抱いて。
世界に呪われた否定者が一人、この世界を去った。
【リップ=トリスタン@アンデッドアンラック 脱落】
最終更新:2023年08月27日 23:47