ビッグ・マムの暴虐すら霞む、純然たる武の極み。
故にこれは、あまりにも順当すぎる結末だと言う他ない。
チェンソーマンの刃はそもそも
カイドウの皮膚を破ることすら一苦労するナマクラで。
得意の"めちゃくちゃ"も、此処まで素のスペックが違いすぎてはまるで用を成さないのは明らかだった。
刃は通らず、チェーンは引きちぎられ、一撃受け止めるのすら不可能に近く、避けるなんてできるわけもない。
不死の性質は既に割れている。
それは厄介でこそあれど、直ちに夜桜に連なる者達を脅かすものではない。
死ななかろうが戦場に介入する能力がないなら木偶の坊と同じだ。
更に言うなら
デンジの不死が条件付きの復活であることも、彼が先ほどシュヴィに滅された瞬間の下りで割れてしまっていた。
スターターを引かせるな。
カイドウの無言の目配せに合わせ、皮下が桜製の牢獄を組み上げていく。
より複雑に、より堅牢に、
デンジの遺骸を囚えて創り上げる不死封じの祠。
大樹の形を成していくその建設作業が、不意に止まった。
「……あ?」
皮下の意思によるものではない停止。
それが経路の断絶と、生命の終末による"枯死"であると彼が認識した瞬間には。
桜の牢獄は、内側から細切れに切り裂かれ。
その奥底から飛び出した黒影が、疾風の速度で
カイドウへ突貫し斬撃を繰り出していた。
「成程な。運び屋(ライダー)とはよく言ったもんだぜ」
「…………………」
「あの弱ェガキはお前を載せるための器ってとこか。
道理で妙だと思ったよ。リンリンの野郎があんなナマクラで指詰め(エンコ)されるとは思えねェんでな」
スーパーガンヴォルトでさえ、拮抗するのは一瞬が限度だった。
にも関わらず桜の祠から飛び出したその黒影は、既に数秒に渡って力比べをし続けているのだから驚嘆に値する。
臓物をマフラーのように巻き付けた彼の姿は、一見すると
デンジとそう変わらないように見える。
だが、
カイドウには分かる。強さが違う、速さが違う、繰り出す殺戮技巧(ころしわざ)の冴えが違う。
丸っきり別軸の存在へと成り代わっている――自分達四皇にすら比肩し得る怪物へと、存在のステージが切り替わっている。
拮抗を崩して、影が跳んだ。
素面の脚力でさえ龍化した
カイドウはおろか、シュヴィの限界高度にまで跳躍を可能とする脚力は何の冗談か。
彼の身体から触腕のように伸びた無数のチェーンが、龍に向かい禍々しく伸びていった。
「洒落臭え」
カイドウの暴威が虚空を殴る。
そう、虚空をだ。
触れていない。接触を介さずに、自身に迫る悪魔の触腕を粉砕してのけた。
それに驚いた様子もなく降下してくる悪魔の高速斬撃は、秒間数百にも届く死の暴風に他ならなかったが。
カイドウはその"数百"を、単なる力で"一"に束ねた上で撃墜する。
三桁余りの斬撃全てを、力に飽かしたただ一打のみで解決する――素の身体能力がカンストした純粋なる絶対強者でなければ不可能な芸当。
「"桜襲八卦"――」
総撃を受け止め。
その上で、凌駕する。
黒雷を纏う桜吹雪が散る光景を、確かに悪魔は見た。
相殺……しかし無論、そんな結果で満足する
カイドウではない。
八斎戒を、大きく後ろへと引く。
"雷鳴八卦"及びその派生技とは異なる構えだ。
見据えるのは、漲る殺意と共に迫り来るチェンソーの悪魔。
今彼が繰り出そうとしている攻撃は、そんな目障りな超新星を撃ち落とす迫撃砲だった。
「――"威国"ゥ!!」
かの"鷹の目"を始め、技を極めた者がしばしば身に着ける"飛ぶ斬撃"。
だが
カイドウの放ったそれは、最早剣戟の範疇に収まる威力はしていなかった。
巨人族の秘技を単独で再現する離れ業、亡きリンリンと共に会得した一撃を此処で放ったのは彼なりの弔いのつもりなのか。
斬撃と斬撃が、激突する。
それと同時に凄まじい衝撃波が炸裂したが、さしもの悪魔もこの状況では分が悪かった。
跳ね飛ばされて宙を舞う――しかし休む暇はない。
すぐさま無防備な彼に向けて、機凱種の少女が放つ『偽典・森空囁』が殺到したからだ。
(霊基の情報が、丸ごと置き換えられてる……
カイドウの言う通り、さっきまでのライダーとは全くの別物……すごく、禍々しい魔力――)
シュヴィが思い出したのは、かつて彼女に恐怖を与えた降臨者(フォーリナー)の気配だった。
あれとは別物。しかし、よく似ている。
理解してはならないもの、理屈では語り尽くせない悍ましいまでの凶の気配。
アビゲイルの場合、それは"狂気"だった。
そしてこのチェンソーの悪魔は、さしずめ"殺意"と言ったところか。
神戸しおは、
デンジが戦闘不能に陥るなりすぐさま令呪を切った。
令呪は彼女にとって限られた資源だが、躊躇いはなかった。
その決断が功を奏し、桜の牢獄は破られて戦局は変わる。
押し寄せる無数の気刃を全て正面から斬り伏せながらシュヴィへの距離を詰めていくその姿を見れば、誰もがしおの判断の正しさを悟るだろう。
――更に狙われたシュヴィに対し、雷霆の彼が悪魔へ加勢する形で襲い掛かればいよいよ事態は大混戦の様相を呈してくる。
「卑怯とは言うなよ、アーチャー!」
「……っ。お互い、様……!」
イミテーション・ケイオスマターを用いての、擬似的な自動防御でガンヴォルトの攻撃へ対処。
何より警戒すべきはチェンソーマンだ。
『偽典・森空囁』を正面突破できる化物に対しては、さしもの偽槍も焼け石に水としか思えない。
しかしそれは、強化形態に入ったガンヴォルトに対しても同じことが言えた。
(さっきより、明らかに強い……! 何より、速い…………ッ)
押し切られかけている。
そしてこの状況では、一度でも均衡が崩れればそれ即ち致命傷への直結と言って差し支えない。
そんなシュヴィに助け舟を出したのは、悪魔と雷霆の双方から袖にされた海賊だった。
怒りのままに船を漕ぎ、機械狩りの航路へ割り込んだ天変地異が暴れ回る。
「おい……このおれを放っぽり出してんじゃねェぞガキ共ォ!」
炸裂する覇王色の覇気。
彼ほどの使い手が繰り出せば、それはもはや宝具の炸裂にも等しい。
空間の震撼と嵐にも似た強烈な物理的圧力を生み出しながら、チェンソーマンとガンヴォルトにそれぞれ一撃ずつ見舞っていく。
雷鳴八卦、神速の二度撃ち。途端に機凱種狩りの布陣は崩れ……自由になったシュヴィは更に天高くへと飛翔した。
「避けるかどうかは、任せる……。巻き込むつもりで撃つから、そっちで対処して…………」
「好きにやれ。おれも好きにやる。元々敵同士だろうが、飛び火で潰れるようならお互いそれまでだ」
「……うん…………。じゃあ……好きに、やる……」
元々生真面目な質なのだろう。
カイドウの答えを受け取って、シュヴィは小さく頷いた。
それと同時に結集していく魔力。
手元の黒槍がふわりと空に溶けて、まるで霧のように周囲へ漂い始める。
「黒に染まり、無へと回帰せよ――――」
シュヴィ・ドーラはケイオスマターの真の担い手ではない。
おまけに、今彼女の手元にあるケイオスマターの量は極めて微小。
それ故、彼女は
ベルゼバブ本人ほどの出力でこれを使いこなすことはできない。
だが此処で、シュヴィの明晰な頭脳はその大前提をねじ伏せる一計を案じた。
ケイオスマターは汎用性の怪物だ。
加工すれば聖から邪まで、あらゆる属性を網羅した武装に変化するほど。
その性質を、シュヴィは彼の最期の戦いを観測する中で確認していた。
だからこそ。此処で彼女が講じた一手とは……掟破りの、既存武装との乗算。
「【典開】」
広範囲を焼き払うことにおいてなら、『偽典・天撃』をも上回る『偽典・焉龍哮』。
それにケイオスマターを重ね合わせることで、本来シュヴィには不可能だった芸当を可能に変える。
焉龍哮の破壊範囲はそのままに、ケイオスマターの殺傷力と純粋な破壊力を掛け合わせブーストする改造武装。
或いは――
「――――ケイオスレギオン・アポクリフェン!!」
ケイオス・レギオン、その真の形。
黒い、黒い、巨大なるエネルギー球。
全てを焼き払う。全てを、押し潰す。
ベルゼバブ本人は強者との戦いの中で見切りを付けた従来通りのこの形が、今のシュヴィにとってはむしろ都合良かった。
何故なら眼下の彼らには――守るべきものがあるから。
破壊できる範囲、殺せる命の多さ、それらは――多いに越したことはない。
「ッ、なんて、奴だ……!」
そしてその狙いは、ガンヴォルト達に対しておぞましいほどに覿面だった。
チェンソーマンは攻撃の性質的に、手数を捌くことはできても巨大かつ広域に被害の及ぶ攻撃を相手取るのには向いていない。
だからこそ、此処はガンヴォルトが単騎で対処せねばならない事態になってくる。
しかし如何に強化形態であるとはいえ、シュヴィの繰り出す大火力を正面から相手取って反動がない筈はなかった。
(ボクが対処する以外の選択肢はない。ただ……一体、あと何発保つ? この身体は……!)
あの『偽典・天撃』を破っただけでも、ガンヴォルトの身体は満身創痍の状態に追い詰められた。
今回だって無傷では済まないだろう。マスター達に傷を負わせず、かつ霊骸の汚染も被らせないために対処は完璧に行う必要がある。
それ自体はいい。傷付くのを厭うつもりはない。
だが――それだけではジリ貧だ。早急にどちらか片方だけでも落とさなければ、削り切られるのは間違いなく此方の方だという確信がある。
雷の柱が、天へと伸びて。
黒の破壊が、世界を覆い尽くした。
ガンヴォルトは、無事に役目を果たす。
しかしその姿は……仕損じた側である筈のシュヴィよりも、ずっと痛々しいものとなっていた。
「はあ、はあ、……ッ」
右腕は完全に焼け焦げ、口からは血反吐をぶち撒けている。
霊骸の汚染もそろそろ無視することのできない領域に入っていた。
不甲斐ない。ガンヴォルトは、自分をそう糾す。
(膝なんて、突いている場合じゃないぞ)
その想いが、痛む場所の方が遥かに多い身体を突き動かす何よりの原動力となってくれる。
シュヴィの追撃を捌き。迫った
カイドウの殴打に合わせ、抜群のタイミングでガードを張ることができた。
平時ならば見えない動きも、今なら見える。
最初の内こそ面食らっていたが、何度となく目の当たりにしてきたことで今では
カイドウの速さにも眼が追い付くようになってきた。
紛れもない好機。集約させた雷霆を、八斎戒を振り抜いた瞬間の巨体――その心臓目掛けて見舞う。
「……ぐぅッ!」
「《SPARK》――《CALIBER》ッ!」
「うゥッ、効いたぜ……内臓狙いの攻撃たぁ、鬱陶しい野郎を思い出させるじゃねェか!!」
首を落とす。
そうでなくとも霊核を砕く。
その気概を込めた雷剣が、何度目かの八斎戒との激突に軋む。
こうなると明確に不利を負うのはガンヴォルトの方だ。
だが、みすみす同じやり取りを繰り返してやるつもりもない。
スパークカリバーの刀身を通じて、ありったけの電流を
カイドウの身体へ流し込み、何を言われようが怯まず内部破壊の一辺倒に徹する。
それでも小揺るぎもせず君臨を保ち続けるこの"皇帝"は、言わずもがなの話だがあまりに規格外すぎた。
掠めただけで脇腹の骨が砕ける。
撒き散らされる覇王色が、弱った肉体に鞭を打ってくる。
カイドウの姿が消える。対処し損ねれば死ぬと悟り、全神経を注いだ迎撃に臨み。
辛くもそれが成功した手応えを得た、まさにその瞬間――
「……アーチャー!」
さとうの声が響いた。
瞬間、ガンヴォルトは全ての行動を中断する。
そうせざるを得なかった。
ガンヴォルト達の戦う空中と、さとう達の居る地上。
その間を隔てるように、桜花の分厚い膜が出現したからだ。
皮下が自分達を狙って動くのは、誰もが分かっていた筈だ。
さとうもそうだったし、ガンヴォルトが例外であった筈はない。
しかしながら、いざ戦いの中でそっちにだけ意識を割き続けるのはあまりに至難だ。
何しろ相手は
カイドウとシュヴィ。生き残っているサーヴァントの中でも、間違いなく最上位に近いだろう二騎であったのだから。
「あんまり責めてやるなよ? お前のサーヴァントが弱いわけじゃない。こっちの戦力がでかすぎるんだ」
皮下の姿が、揺らめくようにして消えた。
かと思った次の瞬間には、彼は既にさとうの目の前に居る。
咄嗟にしおを突き飛ばした――が、それには及ばない。
皮下の狙いは、最初からさとうただ一人であったからだ。
「ッ……!」
「――さとちゃん!」
皮下の腕が、さとうの腹を貫く。
飛び散る血潮と臓物は、言わずもがな致命傷。
失血で死ぬのを待たずにショック死しても不思議ではあるまい。
しかしさとうは、皮下を蹴り飛ばして強引に彼の腕を身体から引き抜き、後退することに成功する。
壮絶な激痛も甚大な負傷も、今の彼女にとってはさしたる問題ではなかった。
地獄への回数券。弱く孤独な者達を道を極めた魔人に変える麻薬が、砂糖菓子の少女を超人に変えている。
「そっかそっか。そうだったな、首を斬らなきゃいけないんだ」
では、皮下に首を狙われていたら今のでさとうは死んでいたのか。
それはない。少なくともさとうは、皮下が一撃で殺しに来る可能性も考えていた。
この身体で何ができて何ができないのかは既に試し終えている。
即死を避けるためにあらゆる痛みを受け入れる回避行動の取り方は、もう何十回とイメージトレーニングを重ねてきた。
避けねばならないのは、首の切断と部位欠損。
クーポンは即死級の傷でも賄ってくれるが、欠損に対してだけは効き目が極めて鈍感だ。
だからこそさとうは皮下に下手に対抗することをせず、しおの手を引いて駆け出した。
「無駄に決まってんだろ」
その行く末が、桜の壁で阻まれる。
もはや皮下の力は完全にサーヴァントの領域に踏み込んでいた。
今生き残っているサーヴァントの中でも、彼に対抗できる者は限られるだろう。
そんな男に対し、逃げに徹するとはいえ"たかだか"超人化を頼りに臨まねばならない状況の絶望度は並外れている。
しおが、皮下に向けて発砲した。
幼い天使にそぐわぬ無骨な武器は、今は亡き
ジェームズ・モリアーティからお守りにと渡されていたものだ。
クーポンの効果で強化された身体は、反動で腕を痛めることもなく正確な射撃を可能にする。
更に言うなら狙いも良かった。頭部。脳を破壊する射線をきちんと構成できていることは、初めてにしては上出来どころの騒ぎではないだろう。
殺人の才能をさえ窺わせる筋の良さ。
それはしかし、皮下という魔人に対し突き付けるカードとしてはあまりに弱すぎた。
「……っ!」
「頼みの綱が銃かよ。いいね、そういう所の浅慮さは子どもらしくて好感が持てるぜ。
でも駄目だろ。そんな豆鉄砲じゃ俺はおろか、ガムテ君の所の極道小僧(ガキ)一人だって殺せねえぞ?」
脳漿が飛び散る。
皮下の美顔が崩れる。
だが、それだけだ。
次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように傷が復元していく。
零れた脳漿が戻り、肉と骨が癒え、弾丸が出来損ないのポップコーンみたいに外へと吐き出された。
「アーチャーも、君の虎の子のらいだーくんも……頑張っちゃいるが、まだちょっと忙しそうだ」
分断からの、マスター狙い。
聖杯戦争における定石を、呆れるほど常識外れなやり方でなぞる。
もはや手段に固執することなどとうに止めた皮下だが、それでも彼女達を屠るのはこの手で成したい仕事だった。
自分というどうしようもなく愚かで鈍い男に、この感情の意味を教えてくれたさとう。
そんな彼女の"愛する人"であるしお。
彼女達の愛を引き裂き葬って乗り越えることは、この"
夜桜事変"であげる最初の花火として実におあつらえ向きだと思ったから。
「令呪を使うか? まあそうだよな、それしかない。
でもって、それでお前はまんまと手札を失うってわけだ」
「……ずいぶん饒舌なんだね。そんなに気に入った? 私の伝えた"答え"は」
「ああ、悪くない。だからこれは俺なりの、お前への礼でもあるんだぜ――
松坂さとう」
令呪を使うのならそれでいい。
しおは先ほど既に一画使っていたし、さとうに至っては今回の使用で残画数がゼロになる。
そうして手札を少しずつ削いでいくのもまた、皮下にとっては目論見通りだ。
今死ぬか後で死ぬか。彼女達の未来は、ひとえにその二択でしかない。
「そら、選べよ。俺はどっちでも構わないぜ」
振り上げられた腕に、満ちていくのは炎だった。
虹花。芥と散った花弁の一枚、"アカイ"と呼ばれた少女の開花。
全て焼き払う憤怒と空虚の炎を、皮下は少女達の墓標に選んだ。
渦巻く炎が球になる。クーポンを使っていなければ熱風だけで眼球や肌が炙られるだろう高熱の中で、皮下は死神を気取っていた。
指揮棒のように掲げられた腕が、死刑執行の合図のように落ちる。
その動作の最中――やむなしと令呪を使おうとしたさとうの袖を、しおがきゅっと掴んだ。
――?
――?
疑問符を浮かべたのは、二人同時。
さとうは当然のこととして、
皮下真もまた同じだった。
しおの行動があまりに奇妙だったからだ。
さとうが令呪を使ってアーチャーを喚ばねば死ぬこの状況で、何故それを止める必要があるのか。
自分のライダーを喚んで健気な献身を見せる気なのかもしれないが、それにしたっていささか奇妙だ。
とはいえ皮下のすべきことは変わらない。
砂糖菓子の二人を火刑に処さんと、あげた腕を今度こそ振り下ろそうとして。
そこで――
「――――――――」
一瞬。
そう、ほんの僅かな時間。
されど、僅かなれど確かに。
皮下はその時、自身の思考を空白で染め上げられた。
比翼の袖を掴みながら、自身を見据える天使。
彼女の瞳。その、星空のように深い瞳と視線が交差した瞬間。
まるでそれこそ麻薬でも服用したみたいな浮遊感と、思考の異様な鈍麻が襲ってきた。
――毒? いや、まさか。そんなわけがない。皮下は湧いた思考を自分で切り捨てる。
自分の体内を満たしているのは夜桜の血だ。
この世に存在するどんな毒物よりも強く、そして的確に人間を蝕む呪いの花だ。
その上万花繚乱の境地にまで到達している今の自分に通用する毒なんて際物を、この瞬間まで連合の少女が隠し持っていたとは考え難い。
では、何が起こった? 何が原因で、今自分は確殺の状況で呆けた面を晒すような愚を犯してしまったという。
皮下真。
その聡明な頭脳が、答えを導き出すよりも速く。
神戸しおの稼いだ一秒足らずの"時間"は、希望の果実を実らせた。
桜花の膜が、蒼に焼かれて消え去った。
天から落ちてきた少年は、ひどくぼろぼろだった。
片腕は焼け焦げ、身体中至るところに銃創や打撲痕が目立って痛ましい。
しかし。しかし、その双眼に宿る意思の光と。
彼に付き従う蒼の輝きは依然、微塵たりとて翳ることなく健在で。
だからこそ彼の姿は、少女達が一つ運命を跳ね除けたことをこの世の何よりも雄弁に物語っていた。
皮下の放つ炎が、火山の破局噴火と見紛う勢いでもって炸裂する。
自分で生み出した桜をすら焼きながら迫るそれは、砂糖菓子の愛を焼き尽くす彼の"愛"。
だが。愛すべき、懐かしき歌声を聞いた少年の決意と誓いを阻むには、それではあまりに役者が足りぬ。
炎が、弾け飛び。
皮下の右半身が、文字通り消し飛んだ。
稲妻を纏いながら自分達を助けてくれた、愛する"さとちゃん"の相棒を見ながら。
神戸しおは、今はもう遠いところへ行ってしまった二人の大人(サーヴァント)と過ごした時間を思い出していた。
◆◆
『やめといた方がいいな。多分しおちゃんには向いてねえ』
――地獄への回数券。
それを手に入れたしおが真っ先に思ったのは、これがあれば自分も戦えるようになるのでは、ということだった。
服用することですごく強くなれることは知っていたし、それなら自分でも、とそう思ってしまったのだ。
だからしおはまず、クーポンの生産者である(厳密には彼が造ったものではないようだが)
星野アイのライダー・
殺島飛露鬼に相談してみたのだが。
返ってきた答えは、上記の通り。
苦笑しながらの、しかしそれでいて確かなトーンでの否定だった。
どうしてかと聞いてみると、殺島は紫煙を吐き出しながら。
『確かにこの麻薬(ヤク)……あー、"おクスリ"は人間をメチャクチャ強くしてくれる優れものだ』
『実際こいつを服用(キメ)れば、今のしおちゃんでも筋骨隆々(ムキムキマッチョ)なプロレスラーをボコボコにできるだろうな』
『けど、そりゃあくまで素人(カタギ)が相手ならの話。
ちょうどこの聖杯戦争みたいな殺し殺されの世界じゃ、生兵法(せのび)して強くなった気になるのは自殺行為だぜ』
『……そうだな。その拳銃(チャカ)、ちょっと貸してみろよ』
しおは拒むでもなく、素直に彼へ銃を手渡す。
すると殺島はそれを構えて。
部屋の天井に向けて、たんたんたんたんたんたん――とちょうど六回、引き金を引いた。
しおは思わず、驚いて拍手をしてしまう。
天井に命中して跳ねた弾丸が、すべて壁掛け時計の文字盤に命中したのだ。
それも「2」「4」「6」「8」「10」「12」と、きれいに2の倍数だけを狙って。
『これをオレ達みたいなろくでなしの世界じゃ、極道技巧って呼ぶんだけどよ』
『こういうことを今からしおちゃんが覚えるってのはまず無理だ。だってしおちゃんはよ、銃なんて生まれてこの方触ったこともなかったろ?』
『で、仮に今から必死こいて練習して……上手いこと身に着けられたとしてもだな』
『それはほぼ間違いなく実戦じゃ通用しねー。相手もサーヴァントを連れてるからな。
マスター狙いで一対一(タイマン)仕掛けたって、令呪でサーヴァント呼ばれりゃおじゃんだ。
それどころか、連合(うち)のボスや峰津院の某みたいに化物じみて強えヤツだって紛れてるかもしれない』
『自分も戦おうって気持ちは立派だけどな。ま、さっきも言ったがやめといた方がいい。荒事はオレらサーヴァントに任しとけ。な?』
そう言われてしまうと、しおとしても頷くしかなかった。
実際、殺島の言わんとすることはするりと頭に入ってきた。
彼なりに噛み砕いて話してくれたからというのもあるだろうが、それが正論なことはしおにも幼いながらに理解できた。
ヘンに背伸びして、その結果死んでしまったら何にもならない。
ちょっとの退屈さを感じながらも、おとなしく諦めようとしたしおに――
『フム。果たしてそうかな』
そんな声をかけた、蜘蛛がいた。
『私には、しお君。君にはかなりの才能があるように見えるが』
『おいおい、冗談キツいッスよ"M"。ドスでも持たせて突貫させるつもりですかい』
『まさか。確かに私も、しお君が前線に立って極道者らしく戦うなんて話は無謀だと思うよ』
ただ、思うにだ。
君達の言う極道技巧とは、何も武力だけに限定された概念ではないのではないかね。
蜘蛛の言葉に、殺島は表情を引き攣らせる。
マジかこいつ。そんな内心が顔に滲み出ていた。
『……ま、確かにそういう手合いは数人知ってますよ。
例を挙げると"殺戮歌(ころしうた)"なんてのも居ましたね。
で、M。あんたはこの子にその手の才能があると?』
『うむ。しお君には一つ、間違いなく抜きん出た才能がある』
しおは嬉しくなって、蜘蛛の方へと駆け寄っていく。
彼がとても頭のいい、先生のような人であることはしおもうんと知っていた。
だからそんな彼にお墨付きを貰えたことがとても嬉しくて、居ても立っても居られなくなったのだ。
自分にも戦う力があれば、いざという時みんなのために動けるかもしれない。
――みんなと戦うときに、役に立つかもしれない。
そんな内心も、今思えば彼には手に取るように分かっていたのだろう。
期待できらきら輝く瞳を、蜘蛛は静かに指差した。
『愛嬌だ』
『……あい、きょう?』
『もっと分かりやすく言うなら、可愛さとも言えるネ』
『……? らいだー"さん"、私っていま褒められてるよね?』
『理解理解(あーあー)……。ま、確かに小児性愛(それ)も広い範囲で見りゃ犯罪って言えないこともねえか』
『極道君?? 君、ルビの下に何かとても不名誉な言葉を隠していないかね???』
こほん、と。
漫才の方に傾きかけた流れを引き戻すように咳払いをして、蜘蛛は続けた。
『とにかくだ。しお君、君の一番の武器は"可愛い"ことだよ。これは間違いない』
『君は純粋だ。君は純真だ。君は、無垢だ。その性質は、悪に堕ちた今でも本質的には変わっていない』
『堕天使が、堕ちて尚天使の名で呼ばれるように。君は今も、人の心を魅了する輝きを宿している』
……。
しおが、おずおずと口を開く。
『でも……、それでどうたたかえばいいの?』
『基本的には、極道君の言う通りだ。君に戦いは向いていないし、そもそも君が戦うべきではない。
チェンソーの彼は頑張ってくれているよ。おとなしく彼に任せて、その勝利を祈っているのが一番だろう』
『……うぅん。えむさんの言いたいこと、難しくてよくわかんないよぅ』
『話はちゃんと聞きなさい。"基本的には"と言っただろう』
蜘蛛の眼光が、ぎらりと煌いた。
彼が時折見せる、しおでさえ背筋が寒くなってしまうような"悪"の兆し。
それを見せながら、蜘蛛は天使に教鞭を振るった。
『もしも。本当に追い詰められて、何一つ手がない時。
或いは、今此処で手札を使うわけにはいかないという時。
そんな時には、今日此処で我々と交わした会話を思い出しなさい』
『……おもいだすだけで、いいの?』
『ああ。君ならば、それで十分だ』
神戸しおにはきっと、才能がある。
しかしそれは、安易に開花させていいものではない。
倫理の話ではなく、そもそもクーポンという付け焼き刃に頼って戦場に立つべきではないという話だ。
だから殺島は戦う手段を欲した彼女を諭し、モリアーティもそこについては否定しかなかった。
だが。
人殺しの才能も、そうかもしれない。
けれどきっとそれ以上に、彼女には大きな才能が備わっている。
誰も彼もの心を魅了し、掴み、時に狂奔すらさせる尊い輝き。
可憐で、無垢で、純真で。聖性さえ感じてしまうような、純白の天使。
しおは天使だ。人の世に生まれ落ちた、天使のような女の子だ。
その才能を。
持って生まれた輝きを。
地獄への回数券という起爆剤を用い、一気に増幅させたならどうなるか。
答えは簡単だ。
神戸しおの輝きは、もはや単なる長所の域を飛び越えて。
道を極めた者の技巧――極道技巧となる。
神戸しおの極道技巧。
それは、魅了。
他人を魅了し、自分の聖性で狂わせる天使のさえずり。
不意打ちで駆使されたそれは、一瞬とはいえ皮下にさえ隙をねじ込んだ。
蜘蛛の仕込んでいた糸の一つが、此処に来て他人の計画を狂わせる。
しおの使った切り札は、雷霆の到着を間に合わせ。
愛を終わらせようとした男を、逆に袋小路へと追い込んだ。
「……クソ。だから嫌なんだよ、最近のガキは。
どいつもこいつも可愛げがねえ。何度言わせる気だよホント」
皮下は、事の理屈を理解して悪態をつく。
予想できるわけがない、そんなもの。
完璧な不意打ちだった。極限の緊張状態に、意識外から猫騙しを打ち込まれたようなものだ。
恐るべきは
ジェームズ・モリアーティの慧眼。
炎の中に消え、店仕舞いを終えた今になっても尚、彼の残した蜘蛛糸は教え子達を導き続けている。
そしてヴィラン連合に仇なす敵(ヒーロー)を、欺き嘲笑い転ばせ続けている。
迫る雷霆の前に、再生が追い付かない。
万花繚乱を果たした今の自分であれば、このレベルのサーヴァントにも応戦できる自信はあったが……しかしもう一撃食らうのは不味かった。
再生の緩慢さはガンヴォルトの火力の高さを物語っており、さしもの皮下も死の気配を感じずにはいられない。
カイドウは間に合うか。シュヴィはどうだ。
間に合わなきゃ終わりだな。まったく見事にしてやられたものだと言う他ない。
そんなことを考えながらも、しかし皮下は笑っていた。
その口が動く。辞世の句か。いいや、違う。
――愛に生きると決めた者が、そんな簡単に自分の感情を諦めるわけがない。
「いいや――――終わるのはお前らだ」
追い詰められた男が薄笑いを浮かべながら紡ぎ上げた勝利宣言。
それと同時に、桜吹雪が舞い散った。
春の象徴のような絶景の中から、一陣の風が吹く。
いや――それは風ではない。その姿に、面影に、
松坂さとうは覚えがあった。
「……しおちゃん、下がって!」
忘れるものか。
忘れられるものか、その顔を。
ちょうど今のように、神出鬼没に現れて。
自分から知人を……大切な人を奪っていったこの男の顔を!
眼帯の男。
その出現は、言わずもがな彼女にとって最大の凶兆であり。
そして男が振り上げた銀の義足(アーティファクト)は、今度こそさとうの命運を断ち切るのに十分過ぎる凶器だった。
アーティファクト『走刃脚』。
英霊にさえ匹敵する瞬発力から繰り出される、超高出力の鎌鼬。
だめだ、と悟る。それは生物の本能的な直感だった。
避けられない。今からでは、もう何も間に合わない。
そんな状況で彼女にできるのは、せめてしおに危害が及ばないよう足掻くことくらいで。
さとうにとっての忌まわしい死神である"否定者"
リップ=トリスタンは、命を拾った少女へあるべき結末を届けるべく死を揮った。
◆◆
皮下が到着してすぐに、
リップもこの地へ駆け付けていた。
彼は強力な暗殺者であり否定能力の持ち主だが、それでも皮下に比べれば戦闘能力ではだいぶ劣る。
だからこそ、彼は隠れ潜むことを選んだ。
皮下がばら撒く桜の樹海。超高濃度のソメイニンで編まれた、グロテスクなほど美しい常春の中に身を沈めた。
単なる隠形とはわけが違う。積み重なった桜坊の遺骸と木々、それを迷彩服代わりに直接身体へ貼り付けての極めて高度なカモフラージュだ。
英霊の感知能力をさえ皮下の能力で阻害し、じっと息を潜めて機を待つ――ガンヴォルトの攻撃の巻き添えを食って舞台に上がることもなく即死する可能性とてある危険な賭けであったが、その点は皮下の悪辣さと自分の相棒の献身を信用した。
そして、その結果。
リップは、こうして賭けに勝った。
――あの"チェンソー頭"は厄介だが。
――"雷霆のアーチャー"が居なくなれば、シュヴィと
カイドウの二騎がかりで圧殺できる。
最優先はシュヴィと好相性のガンヴォルト。そのマスター、
松坂さとう。
狙いは実り、走刃脚は彼女の身体を細切れに引き裂かんと唸りをあげた。
斬首がベターではあるが、そうでなくとも構わない。
どの道同じことだ。一撃。たった一撃でも入れられれば、そこで勝負は決する。
彼のそれもまた、間違いなく完璧な不意打ちだった。
神戸しおが土壇場で、今生きている誰も知らない切り札を使って皮下を欺いたように。
リップもまた、自分自身を隠し玉として潜ませることで確殺の一手を打つことに成功した。
リップに気付いていたのは皮下陣営――"夜桜前線"のメンバーだけ。
さとうとしおはもちろん、ガンヴォルトもチェンソーマンも気付けてはいなかった。
作戦は成功し。
さとうは、詰んだ。
後は鎌鼬が彼女の可憐な容貌を引き裂いて、それで終わり。
容赦のない無慈悲な結末に、少女は為す術もなく。
時が止まる錯覚を覚え、融解の雨はしとどに降り注ぐ。
「終わるものか」
――その結末を、否と断ずる者がいる。
「終わりになど、するものか。
ボクは……!」
あと一手。
それで目的を果たせる。
そこで
リップは、走刃脚に突き刺さった小さな異物を見た。
針だ。途端に感じたのは寒気。自分が何か致命的な見落としをしていた事実に気付き、咄嗟に脚を引き戻そうとする。
だが。
「もう何も、あの子から奪わせない!!」
次の瞬間、放たれた鎌鼬もろともに
リップの身体を横殴りの稲妻が吹き飛ばした。
意識が消し飛びかける。全身が焼け、細胞全てが沸騰したような熱感が
リップを容赦なく苛んだ。
地面を転がり、桜の花弁に塗れながら、膝を突いて蹌踉めきながら立ち上がる
リップ。
その隻眼には、仕損じたことへの悔恨と不可解が滲んでいた。
――ガンヴォルトは、シュヴィとの共鳴で解析能力を得ている。
だがそれは、大元である彼女のに比べたら見る影もないものでしかなかった。
その上、彼はシュヴィと
カイドウという強敵の二枚看板を同時に相手取らねばならなかったのだ。
シュヴィのばら撒く破壊が。
カイドウの放つ覇気が。
超常のチャフとなり、
リップという本命を巧みに隠す。
彼らの狙いは、実に巧妙でよくできていた。
ただ一つそこに誤算があったとするならば。
ガンヴォルトが解析と思考のリソース、そのほとんどを常に地上の二人へ割きながら戦っていたこと。
唯一さっきの桜幕による分断だけは危なかったが、逆に言えばそれでも一秒程度しか遅れを取ることはなかった。
それほどまでに、あの喪失は彼にとってトラウマで。
そしてそれほどまでに、小鳥との誓いは彼にとって大切だった。
『さとうを、守って』
今も脳裏に響いているその声が。
彼に、二度目の喪失(うんめい)を破壊させる。
蒼き雷霆。ガンヴォルト。
その輝きは英雄となりて。
今、遂に間に合った。
「マスター……っ!」
リップへの追撃は、シュヴィが割って入ったことで防がれた。
しかしガンヴォルトも、簡単には諦めない。
小鳥の仇。あの純朴な、春風のような少女の未来を奪った男。
これは戦争だ。殺すことは罪ではなく。殺されることは、単なる巡り合わせの悪さでしかない。
ガンヴォルトはそう理解している。
だから、
リップに道義に基づいた怒りをぶつけることはしない。
彼自身を糾弾したい気持ちを燃やしているわけでも、ない。
――だが逃がさない。その為に、此処に来て雷霆の少年は更に出力を跳ね上げる。
「……いいよ、アーチャー」
当然、その分の負担はさとうに押し寄せる。
強化形態の継続運用はただでさえ疲労が大きいというのに、その上こうして出力のギアを上げれば更に消耗は巨大化する。
しかし、さとうはそれを受け入れた。
背負うから、好きにやってと。
そう彼を赦し、そして彼に託した。
「あの子の仇、取ってきて」
無言の首肯で、その主命に応じ。
ガンヴォルトの雷剣が、一撃でシュヴィのイミテーション・ケイオスマターを破壊した。
最終更新:2023年08月27日 23:44