……なんだか、とても長い間眠っていた気がする。

 幽谷霧子が目を覚ました時、そこはベッドの上だった。
 真っ白なシーツが敷かれ、微かに薬のにおいが漂う部屋。
 部屋を照らす蛍光灯の無機質な明かりは確かに覚えのあるもので。
 傍らの棚に収められたお行儀のいい本の数々を見て、霧子はここが学校の保健室なのだと理解した。
 でははて、どうしてわたしはこんなところにいるんだろう――
 そう思ったところで保健室の扉が開き、入ってきた少女と目が合った。

「あ……」

 七草にちかが、そこにいた。
 曇っていたその顔が、ぱっと明るくなる。
 彼女にそんな顔をさせてしまっていたことを申し訳なく思うと共に、どこかで"やっぱり"と納得してしまう自分もいた。
 いつも大勢の仲間に囲まれていた、にちか。
 彼女がこの部屋にひとりで来たこと。自分の覚醒を知る前に浮かべていた、寂寥を抱えた表情。
 それらを踏まえれば、嫌でも気付いてしまう。ああ、やっぱりそうなのだな、と。

「目、覚めたんですね。よかったあ……。このまま起きなかったらどうしようかと思ってたんですよ、もう……」
「心配かけちゃって、ごめんね……にちかちゃん」

 自分が目を覚ましたことを知っても、"彼女たち"を呼ぼうとしないにちか。
 ドアの向こうに広がる廊下から一向に聞こえてこない足音と話し声。
 その事実が冷たく、霧子に自分が想像してしまった現状(こと)が正しいのだと教えていた。

「こんな時にねぼすけしないでくださいよ、まったく……胃に穴空いちゃいますって。責めるわけじゃないですけど」
「うん……本当にごめんなさい。いろいろあって……、……後でちゃんと話すから、その…………一個、聞いてもいい……?」
「はい。……って言っても、何を聞きたいのかはだいたい分かりますけど」



  『――うちらが宇宙一ばーい!』

  『『『『『■■■■■■■―――!!』』』』』



「摩美々ちゃん、たちは…………?」
「死にました」

 霧子の問いかけに対して、にちかは静かにそう答えた。
 情緒も何もあったものではない即答だったが、それがかえって今の霧子にはありがたかった。
 その淡白さが、余計な可能性を抱かせないでいてくれる。
 受け入れたくない、でも受け入れなきゃいけない事実を、心にダイレクトに流し込んでくれる。
 数秒あって、二人のアイドルは痛いほどに沈黙していて……やがて霧子の方からそれを破った。

「………………そっか」

 ちゃんと声になっていたかどうか自信がない。
 でも、自分なりに現実を受け入れることは出来ていた。
 あの墜落戦の場に彼女たちがいなかった時点で予想は出来ていたことだった、というのも大きいかもしれない。

「そっかあ…………」

 噛みしめる、その事実を。
 舞台上にはいなかった仲間の家で交わし合った誓い。
 宇宙一な五人は、きっと未来だって宇宙一だとそう信じていたけれど。
 約束は果たされず、もういない彼女に加えてあの紫色までステージを去ってしまった。
 まだ緞帳は降りていないというのに、いったいどこへ行ってしまったんだろう。
 問いたくても、もう問いかけられる相手はいない。もう二度と会えることもない。
 それが死に別れるということなのだと、幽谷霧子はよく知っていた。

「うちのライダーさんが全部悪いんですよ、あの人ったら連合の大魔王さんに負けちゃうんですもん。
 いざとなったら多少の無茶には付き合ってあげるつもりだったのに、あっちで勝手に死なれたら私だってどうしようもないです。
 摩美々さんも、私を置いて勝手に死地に出て行っちゃうし。もうほんと、残された側のことも考えてくれって感じですよね」

 方舟は破壊され、二度と夢みたいな出港を成し遂げられる日は来ない。
 死んでいったのは紫色の彼女だけではないのだ。
 方舟の核である境界線は塗り潰された。紫色を守る任務に就いていた傭兵も消えた。
 桜を宿した少女は、自分を守るために戦って散っていった。
 残っている乗務員(クルー)は、今や自分とにちかの二人だけ。
 そしてもう一人のクルーは、やけに饒舌だった。

「界奏だか海藻だか知りませんけどとんだ期待はずれですよ本当に。
 全員で生き残れるっていうから信じてたのに、こんなことなら最初からそんな可能性、知らないままでいさせてほしかったです。
 人でなしの魔王様は生きてる。頭のぶっ飛んだ女の子も、おでこに鍵穴空いてる化物も健在。
 こんな状況で私たちだけ生き残らせて、いったいどうしろってんだよってキレたくなります。本当にもう、どいつもこいつも……」
「……にちかちゃん」

 その悪態は本来、不謹慎だと叱咤されるべきものなのだろう。
 彼女自身、そうされたくてわざと露悪的に振る舞っているように見えてならなかった。
 そんなにちかのされたい風には、残念ながらしてあげられない。
 霧子はベッドから半身を起こして、泣きたいのを堪えながら両手を広げた。

「ごめんね」
「――なんで、あなたが謝るんですか」

 にちかは一瞬驚いたような顔をして、それから顔を伏せた。
 ぽたぽたと、その目元から床に滴り落ちていく雫がある。
 ずび、ぐす、と鼻を啜る音を響かせて、にちかは震えていた。

「泣きたいのは、霧子さんの方でしょ。私、何もできなかったんですよ。
 摩美々さんの力にもなれなかったし、ライダーさんのために頑張ることもできなかった。
 そんな私なんかに、謝んないでくださいよ……ねえ……っ」
「ううん……。にちかちゃんは……がんばったよ…………」
「――――っ」

 もたれかかってくるにちかの身体を抱きしめて、頭を撫でる。
 胸に顔を埋めさせたのはわざとだ。そうしていれば、彼女から自分の顔は見えないから。
 こんなに傷付いて疲れ果てて、泣きじゃくっている女の子の前でとても"そんな顔"はできないと思った。
 だから顔が見えないように抱きしめて、よしよしって撫でてあげながら、自分も"その顔"をするのだ。

「ありがとう…………」

 方舟の夢は、叶わなかった。
 優しい終わりは、この物語には訪れない。
 砕かれたアンティーカが、もう一度戻ることもない。
 消えていった命たちも、二度と蘇らない。
 あの世界で"生きたい"と願っている人たちを救うことも、もう出来はしないだろう。
 でも。それでも。嵐を乗り越えて生き残り、ここまで生き延びてきた彼女に伝える言葉は"ありがとう"以外にはなかった。

「摩美々ちゃんの……みんなの、生きた道のりを…………」

 薄雲の瞳から、雨が降る。
 鼻を啜らないように努めるのが大変だった。

「助けてくれて、ありがとう…………」
「ひっ、う……う、ぅうぅううう、うぅううう……!」

 堰を切ったように泣きじゃくるにちかを抱きしめながら。
 お日さまの少女もまた、別れの痛みに涙を流す。
 最期には立ち会えなかったけれど、きっとこの瞬間がそれに代える価値あるものなのだとそう信じて。

「ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、わたし……!」
「うん、うん……。怖かったよね……辛かったよね…………、悲しいよね……大切な人たちと、お別れするのは…………」
「私、もっと……! あの人たちと、みんなと、一緒にいたかった……!
 もっとみんなで、下らないこと、おしゃべりして……生きて、いたかった……! いたかったよう、ぅうぅう……!!」
「……わたしも…………わたしも、そうだなあ…………」

 なくした命(もの)は戻らない。
 でも、私たちはまだ生きている。
 未来がどんなに不確かでも、それでもここに生きているのだ。
 だから――

「もっと、みんなと……いたかったなあ…………」

 涙の時間は、きっとここまで。
 なくした痛みを胸の奥、大事なものを詰めた引き出しにしまって歩き出そう。
 カーテン・コールがすぐそこだとしても。
 それでも、この命がここにある内は。
 頑張って、がんばって……生きていこう。

 二人だけの保健室で。
 少女たちの涙の音が、静かに滴り落ちていた。


◆◆


 生きるぞ、それでも。
 きっと全員で。


◆◆


 涙の時間が終われば、現実と向き合う時間がやってくる。
 みんなみんな死んでしまった。それでも、にちかと霧子は生きている。
 彼女たちは、あの夢のような方舟の、蜃気楼に終わってしまった希望の生き残り。
 船がなくとも、航路が消えてしまっても、彼女たちはこの聖杯戦争(ステージ)で踊っている。
 嘆きも悲しみも乗り越えて、最後の時がやってくるそれまで諦めないこと。
 死んでいった皆の人生とその存在が、無駄なんかじゃなかったのだと生きて証明すること。
 その指針を共有するのに言葉は無用だった。
 そんなものなくたって、方舟のクルー同士考えていることは伝わる。

 奈落へ下がるにはまだ早い。
 今はただ、緞帳が降りるまで精一杯やろう。
 その第一歩としてまず、にちかは霧子へ今の状況を伝えることにした。

 あの"墜落戦"の後、正式に界聖杯の深層へと落ちた自分たちが今どういう状況にあるのか。
 生き残りの中で最も長く眠っていた霧子にそれを伝えるのはにちかの役目だった。

「霧子さんは、どこまで覚えてます?」
「えぇ、と……。死柄木さんが、何かすごい力をぶわーって出して……アビーちゃんが、ぱーって光ったところまで……かな」
「よかった、なら最初からは説明しなくても大丈夫そうですね。じゃ、霧子さんが寝てる間に起こったことをざっと説明します」

 って言っても、別に何も起こってないんですけどね。
 そう言ってにちかは頭を掻いた。
 何も起こってないとはどういうことだろうと、霧子は首を傾げる。
 そりゃ平穏無事であるに越したことはないだろうが、聖杯戦争も終盤だというのにここで膠着が起きることなんてあるのだろうか。
 アビゲイル・ウィリアムズか、死柄木弔か。
 どちらが切り出すにせよ、もうとっくにこの"深層"も地獄に変わっているとばかり思っていた。

 しかしにちかの言うところによれば、そうはなっていないのだという。
 思えば、保健室の窓から見える外の景色も戦争の終局にしてはのどかな静謐を保っている。
 そこに人はおろか生き物の一匹もいないことを除けば、本当に平和な風景だ。

「鍵穴の子……あ、霧子さんは知り合いなんでしたっけ」
「うん……。途中で別れて、それきりになってたけど……マスターさんも、変わってたな…………」
「まあ詳しくは後で聞くとして、ざっくり言いますね。あれきり、あのヤバいサーヴァントは一回も私たちの前に姿を見せてません」

 にちかによると、霧子が眠っていたのはざっと五時間ほど。
 にちかたちがこの深層の街に落ちてきたのが午後一時。そして今、時刻は午後六時を回っている。

 界聖杯を巡る戦争は、本戦に切り替わってからというもの常に熾烈を極めた。
 毎時どこかで戦いが起こっていたし、二日目に入ってからは特にそれが顕著だった。
 それを踏まえて考えると、五時間という停滞は今回の聖杯戦争にしては異様な長さだ。
 ましてや最終局面。誰もが勝負を決めようとしたがる筈の状況で、目下最強のサーヴァントであるところのアビゲイル・ウィリアムズらが全く行動を起こしていないというのは実に不自然である。
 にちかの話を聞いた霧子はここで、ふとある人物の名を思い浮かべて口を開いた。

「じゃあ……死柄木さんは…………?」

 人間の身でありながらアビゲイルに並ぶ力を持った、敵連合が擁する崩壊の魔王。
 方舟を終わらせた人物という点では、霧子たちにとっても限りなく因縁の深い相手だ。
 アビゲイルが動いていないのは分かったが、では彼はどうしているのだろう。
 彼こそ、真っ先にこの虚構の街並みを更地にしようと動き出しそうなものだったが……霧子の疑問に、にちかは深く溜息を吐いて答える。

「あの人なら、今はこの学校にいますよ」
「…………、……えっ……?」
「明日までは事を起こすつもりがないそうです。本当に勝手なヤツですよね、あれ。
 一から十まで自分本位で自分勝手で傍若無人で、ああもう思い出すだけでムカついてきます。
 はあああああ、"あの人"もなんだってあんな俺様野郎に負けるかなあ……!!」
「……わたしたちのことを、わかってくれたってこと……?」

 霧子の漏らした言葉には、希望が多分に含まれていた。
 死柄木弔が、あの恐るべき魔王が、自分たちに共感を示してくれたのか。
 しかしそれはあり得ないこと。彼は霧子たちとは根本的に違うステージで踊る役者なのだ。
 霧子の希望を、にちかは肩を竦めながらかぶりを振って否定した。
 では何故。いやそもそも、どうしてアシュレイの仇であるにちかがあの墜落戦に彼と共にやってきたのだろう。
 渦巻く疑問の答えはすべて、にちかが先程口にした死柄木評を引用することで解決できる。

「先にやることがあるんだとかで」

 ――自分本位、自分勝手、傍若無人。
 完成した彼の歩みと振る舞いは、まさに魔王の二つ名に相応しいものだった。

神戸しおちゃんってちっちゃい子知ってます? なんかチンピラみたいなサーヴァント連れてる子。連合の構成員らしいんですけど」
「しおちゃん……うん、知ってる……。アビーちゃんが、わたしたちを"ここ"に落とす前に……いろいろあって、いっしょにいたんだ」
「あの子と決着をつけるそうですよ。だから今日は一晩回復に使って、明日の朝からおっ始めるんだとか言ってました」


 そも、敵連合という組織は一人の巨悪によって創られたものである。
 聖杯戦争本戦、その黎明期。
 死柄木弔という悪の器を完成させるため、老蜘蛛(オールド・スパイダー)は一計を案じた。
 彼に同胞を与え、荒削りな玉体を研磨してより強く大きな魔王へと研ぎ澄ましていくことを考えたのだ。

 ただのイエスマンなら無限にだって用意できる。
 王のために文字通りの粉骨砕身で尽くす臣下だって、やろうと思えば千人単位で拵えられた。
 しかしそれでは意味がないと、犯罪の王(クライム・コンサルタント)は安易な戦力の増強を否定した。
 重要なのは目先の優位ではなく未来の利益。悪政を敷く傲慢な王を育てたところで、面白くもなければ生産性もない。
 老蜘蛛が望んだのは至高の魔王。究極の犯罪。自分の抱いた夢を委ねるに足る、終局的犯罪だった。
 だからこそ方針は少数精鋭。馴れ合いではなく、背筋のヒリつくような削り合いに満ち、その中にほんの一滴仲間意識があるような。
 そんな"連合"を組むために、蜘蛛は糸を張り巡らせた。
 その糸に触れた第一の構成員。蜘蛛が彼女に与えた役割は、他の誰に対するものよりも大きかったと言っていい。


「死んだ先生の遺言なんですって。あーやだやだ、野蛮人の発想にはぞっとします」


 即ち、死柄木弔が最後に雌雄を決するべき存在。
 相棒にして好敵手。友人にして、宿敵。
 最後に残った彼女を殺し、喰らうことで死柄木弔は真の完成を迎える。

 願わくばその時を迎えるのは、互い以外のすべてが滅んだ"最後"が最善だったのだろう。
 しかし現実とは、企てとはそうそう上手くはいかないもの。
 蜘蛛は死に、群雄割拠は崩れ、殊の外早く聖杯戦争は詰まりを見せた。
 アビゲイル・ウィリアムズは強大だ。彼女と事を構えれば、翼の片方がもげてしまう可能性は大いにある。
 もう蜘蛛はいないが。それでも、魔王はそれを嫌ったらしい。
 残された宿題をゴミ箱に放って"なかったこと"にしてしまうことを、彼は善しとはしなかった。


「…………そっか」

 霧子は、しおと交わした会話を思い出していた。

 『私たちは初めから、二人の未来のために戦ってた』。
 『これからは、愛するために生きるの』。

 あの言葉の中にはきっと、いつか袂を分かつ友人の存在も含まれていたのだと理解する。
 霧子は神戸しおという少女について、そこまで深く知っているわけではない。
 彼女と死柄木弔の間にどんな関係性があったのかは、推測することしかできない。
 けれどそれを推測する上でのヒントならあった。
 しおが己のサーヴァントに対して向けた、幼いが故に言語化できていなかった感情。
 きっと彼女が死柄木に対して持っている感情は、彼に対するのと似たものなのではないか。

 殺し合う二人を止めたくないと言ったら嘘になる。
 でもそれよりも、霧子は微かな嬉しさを抱いてしまった。
 このことは、流石ににちかに言うわけにはいかないけれど。

 愛以外のすべてを切り捨てることを選んだ彼女にも、たくさんの"大切なもの"があったのだと。
 そう思うと、まるで親戚の子の成長を目の当たりにしたみたいな優しい気持ちが湧いてくる。
 彼女のような生き様の中にだって、世界の優しさは佇んでいるのだと分かったから。
 霧子は、なんだかもう一度あの子と話をしてみたい気持ちになっていた。


「それで、霧子さん。あの鍵穴っ子とはどういう関係だったんですか」
「えっと、ね……前は、仁科鳥子さんって女の人が、あの子――アビーちゃんのマスターだったんだ……」
「でも変わってた、と。……まあそれだけでも、アビーちゃんとやらの周りで何があったのかはだいたい想像できますね」

 離別と、引き継ぎ。
 にちかにだって覚えはある。
 というか、彼女は目の前でそれを見てきた。
 皮肉屋なあんちくしょうが死んで、看取った傭兵が紫色の悪い子に受け継がれた。
 方舟にとってそれは"痛みの伴う前進"だったが。
 きっとあのアビゲイルにとっては、そうではなかったのだろう。

「わたし……アビーちゃんと、今のあの子のマスターさんと……お話が、したいな………」
「危なすぎますって。どう考えたって話の通じる相手じゃなかったでしょ」
「でも……、アビーちゃんも、鳥子さんも……わたしにとって、大事なお友たちだったから……。
 それに……アビーちゃんがどうして、わたしたちを襲ってこないのかも、気になるし……」
「だから本人に直接聞きたいってんですか。は~~……なんか私、霧子さんのセイバーさんの気持ちが分かった気がします」

 うへえ、って顔をするにちか。
 そんな彼女の背後で、おもむろにドアが開いた。
 びく!!!! と飛び跳ねたにちかが後ろを振り返れば、そこには霧子にとって馴染み深い六つ目の剣士が立っている。

「誰の気持ちが……分かったと……?」
「わひゃあ! び、びっくりしたぁ! もう、顔怖いんだからいきなり入ってこないでください! 生徒指導の先生ですかあなたは!!」
「知ったことでは、ない……第一、お前もマスターならば……有事に備え、気くらいは張っておけ……気配遮断も持たぬ私の気配に気付けぬようでは………いずれ貴様の首と胴は、泣き別れだ…………」
「ウザい親戚のおじさんみたいなお節介いらないんですよーだ!」

 ……自分が眠っている間に、多少話でもしたのだろうか。
 互いにぶっきらぼうのつっけんどんだが、なんだか間合いを分かり合ったやり取りだった。

「ふふ…………」

 さっきから、笑っている場合ではないのに笑いが込み上げてばかりだ。
 また怒られてしまうかも、と思いながら、霧子は黒死牟にちょんと頭を下げた。

「ご心配を……おかけしました………」
「………お前に振り回されるのは、もはや慣れた……懲りてもいない頭を下げるな、鬱陶しい………」

 そういえば、確かに"あのスカイツリー"に黒死牟の姿はなかった。
 流石は界聖杯というべきか。その気になれば、マスターとサーヴァントのつながりだって簡単に切り離してしまえるらしい。
 霧子としても久方振りの再会に、自然と心が軽くなる。
 もはやこの鬼剣士の存在は、霧子にとって日常の欠かせない一部となって久しかった。
 そんな霧子の内心が伝わっているのかいないのか、黒死牟は小さく呼気を吐く。
 そして牧歌的な雰囲気を断ち切るように、霧子が先程口にした疑問に対する答えを告げた。

「"鍵穴の娘"は、沈黙しているのではない……恐らく、静観しているのだ……」
「……静観……ですか……?」
「然り……。奴は圧倒的な力を持つが……奴の手綱を引いている主は、あのように狂しているわけではないのだろう…………」

 アビゲイル・ウィリアムズの持つ力は、怪物と化した死柄木弔をさえ圧倒できるほどに強い。
 黒死牟は神戸しおのライダーと共に戦ってなお、歯牙にも掛けられずに蹂躙されてしまった。
 アビゲイルとそのマスターは今、皇帝殺しの死柄木以上に聖杯に近い位置にいる。
 だがその上で万全に万全を期させているのがアビゲイルの"現"マスターなのだろうと、黒死牟は言う。

「戦うべき敵の頭数を減らせるのならば、それに越したことはない……そう考えて、我々の内輪揉めを待っている……。
 己と、そのサーヴァントを……この戦いの弥終にて待つ、地平線の番人と据えたのだ………」
「……え゛。あ、えっと……それならあの二人に、今からその旨伝えてきた方がいいんじゃ」
「異なことを言う……。膝を突き合わせて語らったとして……それで己を曲げる肚か、あの奴原どもが…………」

 ――ラスボス気取ってるってわけですか。
 にちかの言葉が、静まった保健室の中に大きく響いた。

 黒死牟の言う通り、死柄木としおは何を言おうが自分たちの決定を曲げないだろう。
 彼らは同盟相手などではない。見逃されているのは、霧子たちの方なのだ。
 それでもと我を通そうとすれば、あの二人はそっくりそのまま敵方に反転する。
 今のこの状況はどこまで行っても呉越同舟、薄氷の上に成り立つ停戦状態なのだと改めて理解させられた。
 そしてアビゲイルとそのマスターは、頭数が減ろうが減るまいが、こちらから仕掛けるまで頭角を現すことなく見に徹している。
 つまり明日の朝……敵連合の両翼が決着(ケリ)をつけるまで、どうあがいても盤面は動かないということだ。

「……はあ、となると待つしかないですよねこれ。あの王様野郎はともかく、しおちゃんの方は一時の同盟くらいなら受けてくれそうですし」

 死柄木は災害のようなものだ。
 彼に限っては、しおを殺すなりあらゆる提案をすべて無視して霧子たちに襲いかかってくる可能性が捨て切れない。
 黒死牟以外すべての戦力を奪われた方舟のクルーたちにできるのは、神戸しおが死柄木弔に勝利するのを祈るのみだった。 
 少なくとも現状、それ以外に彼女たちにできることはない。
 無力感と、焦燥感が――まとわり付く熱気のようにじわりじわりと広がっていく。

「……方舟の主は………本当に、何も教えなかったらしいな…………」
「は? ……なんですかそれ。喧嘩売ってんですか?」
「八方塞がりの鉄火場など……乱世では、そこかしこに存在している………。
 いちいち膝を折って嘆いていては、何も始まらぬ……軟弱千万というものだ…………」
「……、……」
「剣も持てず……鉄砲も握れぬ、小娘が……いっぱしに戦の趨勢など、憂わずともよい…………」

 一瞬青筋を立てたにちかだったが、続く言葉には閉口を余儀なくされた。
 目の前の鬼剣士の言葉が、単なる八つ当たりじみた悪態ではないと分かったからだ。

「どの道……もはや、斬らずに済む敵なぞ残っておらぬのだ……」

 方舟は多くを失ったが、しかしすべてを失くしたというわけではない。
 彼女たちにはまだ剣が残っている。混沌を斬り、皇帝を識り、そして深淵にさえ挑んだ一振りの魔剣が。

「事がどう転ぼうと………私が、すべて斬り捨てて幕を引く……。それだけで、それまでだ………」

 本物の戦国を知り、本物の魔境を知る鬼がそう言うのだ。
 もはやにちかは、何も言えなかった。
 それと同時に、今まで胸の奥に詰まっていた不安の血栓がいつの間にか消えているらしいことを自覚する。
 は、とにちかは笑った。見た目も性格も、何から何までこの鬼は"あの人"とは違うが。
 それでも、やはり英霊は英霊らしい。
 首の皮一枚つながった、ってとこですかね――。にちかは、気が抜けたみたいに手足をだらんと投げ出した。

 そんな彼女をよそに、黒死牟が霧子に視線を向ける。
 三対の眼差しを受け止めて、霧子は続く言葉を待った。

「して……よもや、ただ眠りこけていたというわけではあるまいな……?」
「……はい……。話すと少し長くなるんですけど………いいですか…………?」
「構わぬ……。話せ……お前の知る、すべてを…………」

 言ったきり沈黙する黒死牟。
 「え? なんかあったんですか?」ときょろきょろするにちか。
 そんな二人を交互に見つめて、霧子は目を閉じた。
 自分の見聞きしたすべてを改めて反芻するように、整理するようにそうして。
 もう一度目を開くと同時に、霧子が口を開く。
 そして紡がれた言葉は、眼前の二人の度肝を抜くのに十分すぎるそれであった。


「わたし…………界聖杯さんと、お話をしてきました…………」
「は?」
「何……?」



◆◆



「ずっと、聞いてみたかったんです……。この世界をつくったあなた……。きっとこの世界そのものな、あなたに……」

「いろんな願いごとが、ありました……。全員じゃ、ありませんけど……わたしはたくさん、それを見てきたつもりです……」

「ただ願いをかけている人もいれば……誰かに願いを託して、いなくなってしまった人もいて……。
 ここで、新しい願いごとを見つけた人もいる……。今もそれを叶えるために、がんばってる人もいる……」

「この聖杯戦争は……とても、悲しいことがいっぱいで……だけど、憎いとまでは思えないんです…………。
 聖杯戦争のことも……それを催した、界聖杯さんのことも……わたしの大事な人たちを、殺してしまった人たちのことも……」

「……セイバーさんが聞いたら、また……難しい顔をしちゃうかもだけど……」

「わたしの周りのみんなが、素敵な……あったかくて優しい願いを抱いているように……わたしたちの反対側にいる人たちも、すごく真摯な気持ちで願っていたんだって、そう思うから……」

「だから、聞きたいと思いました……。みんなの願いを、認めてくれたあなたは……この世界の神様な、界聖杯さんは……」

「どんな願いを抱いて……この物語を、始めたんですか…………?」

「聞かせて、ください……あなたの、願いを……あなたの、物語を………」

「わたしは、それが知りたくて………あなたを、探していたんです…………」



『……ははっ』

『やっぱり霧子は変わった子だな。異彩づくめの方舟勢力の中でも、君ほど"わからない"子はいない』

『でも、そうだな。こっちから招いたんだ。それが望みなら、一足先に叶えてあげよう。幸い、願望器(おれ)を使う必要はなさそうだ』

『その前に一つ質問をしよう。霧子は、自分が何のために生まれたか答えろと問われたらどう答える?』

『すぐには答えられないよな、分かるよ。でも、考えてみれば単純なことだ』

『自分の存在した意義を果たすため。生物(きみたち)で言うならば、その辺が模範解答になるだろう』

『そして俺の場合は、今ここにあるこの状況だ。俺に願いらしいものがあるとすれば、今この瞬間それは叶っている』

『"誰かの願いを叶えること"。より正しくは、"この存在すべてをリソースとして、可能な限り最大の形で願いを叶えること"』

『それが、俺の願いだ』

『俺という、願望器(せいはい)の物語だよ。幽谷霧子』



◆◆


 学校は無人なだけで、ご丁寧にも給食を作るための材料まで揃っていた。
 もういい時間だ。そろそろ食事にしようという話になったのだったが、ここで霧子が名案を閃いたとばかりに手を叩いた。
 嫌な予感を感じながらにちかが何を思いついたのかと聞けば、その予感は的中することになる。
 七草にちかは基本、この世界では他人を振り回す側だったが。
 幽谷霧子という"お日さま"があの田中摩美々にも決して負けない強烈なキャラクターの持ち主なのだということを、半ば成り行き上で彼女の手伝いをしながらしみじみと実感する羽目になった。


 体育館に、たくさんのテーブルが並べられている。
 その上には、何種類かの食事が置かれていた。
 オレンジの大きなかごに入ったコッペパン。ピーナッツクリーム、いちごジャム、マーマレードをお好みで。
 野菜はレタスやきゅうり、ミニトマトを和えたサラダ。アクセントにカニカマを細かく刻んで入れてある。
 メインディッシュは出来たてのあったかいナポリタン。粉チーズはたくさんかけるとうれしいので、ありったけの本数が備えてある。
 スープはポトフ。夏に出すには時期外れかなと少し思ったが、不安な時はあったかくなった方が落ち着くものだ。
 そしてデザートはにちかがぶつぶつ言いながらせっせと拵えたバニラアイスクリーム。バニラアイスはやろうと思えば割と簡単に作れてしかもそこそこおいしいのでおすすめだ。

 ――以上で完成。出来あいから手作りまで混合の、283プロ特製聖杯戦争給食。
 出来上がった時にはもう時刻は午後十時を過ぎていて、夕飯というより夜食になってしまっていたけれど。

「はあ~……。沁みる……疲れた身体においしい料理がめちゃくちゃ沁みるぅ……」

 ずじじ……と静かにポトフを啜りながら、にちかはひと仕事終えた余韻に浸っていた。
 これだけあれば明日の朝も食べられるかな、とか。
 いや明日そんな暇あるわけないだろ、とか。
 あれこれ考えながら、もむもむと口を動かしてごろごろ野菜を咀嚼する。
 急ごしらえにしてはなかなかのものができた自信がある。こんな状況なことも相俟って、美味しさは数割増しだ。

 見れば対面の霧子は、にこ……と微笑みながらにちかのことを見つめている。
 なんだか気恥ずかしくなるにちかだったが、霧子の方から見ると頬を膨らませて夕飯に舌鼓を打っている今の自分にはハムスターかリスを思わせる小動物的な可愛らしさがあったことは知る由もない。
 霧子は霧子で、いちごジャムを塗ったコッペパンをはむ……はむ……と小さく啄んでいる。
 にちかもにちかでそれを見て、かわいいなこの人……と率直にそう思うのだった。

「おいしいね………」
「おいしいです。まあ、死ぬほど疲れましたけど」
「ふふ……手伝ってくれてありがとう……。摩美々ちゃんたちの話もいろいろできて、嬉しかったよ……」
「……そりゃどういたしまして。霧子さんが元気出せたんだったら、私もちょっとは冥利に尽きます」

 明日になれば、こんな平穏な時間も崩れていくのだろう。
 何せ今この学校には、それを崩そうとしている原因が少なく見積もっても二人いる。
 彼らがそうする理由は分かったが、納得はまるでできない。
 せめてアビゲイルをどうにかするまででも協力し合えないもんですかね、とにちかが肩を竦めた時。

 がらら……。と音を立てて、体育館の扉が開いた。

「――わ。本当に来たんですか」
「あ? オレは霧子さんに呼ばれてきたんだぜ」
「その霧子さんと一蓮托生の七草にちかでーす。どうもー」
「相変わらず口の減らない女。かわいくねーぜ。モテねえだろ」

 入ってきたのは、金髪の少年。
 そして彼の腰丈ほどの背丈しかない、小さな黒髪の少女だった。
 出合い頭にさっそく火花を軽く散らす、少年――デンジとにちか。
 そんな二人をよそに、霧子がぱっと表情を明るくして立ち上がる。
 するとどうだ。あんなにも渋皮だったデンジの顔も負けじとぱっと明るくなる。
 心なしか頬も赤いし、デレデレ……というオノマトペが頭の上に見えそうな顔だ。

「来てくれたんですね……しおちゃんのらいだーくん……」
「へへへ、そりゃもちろん。霧子さんがオレのために手料理作ってくれたとあらあ、来ないわけにはいかないっスよぉ~……!」
「らいだーくんだけのためじゃないと思うけどなあ」

 もちろん、この"給食"は霧子とにちかが二人で食べるために作ったわけではない。
 そこのところが、にちかとしてはどうにも気乗りしないところだったのだ。
 霧子は"みんな"のために料理をし、こうしてこの席を用意している。
 つまり――自分たち以外の生存者。連合の二人のことも含めてだ。

 そして今、その片方がここにいる。
 神戸しおと、そのサーヴァント。
 にちかは「呼びに行ったところで来るわけないでしょ」と内心そう思っていたのだが、思いの外この少女は面の皮が厚かったらしい。

「しおちゃん、セロリとか食べれる……? にんじんも入ってるけど……」
「だいじょうぶ。すききらいはあんまりないんだ」
「そうなんだ……。ふふ、えらいね……」

 しおが給食の並ぶテーブルの前に立って、デンジの方を見る。
 「これどうするの?」と問いかけるしおに、デンジが「俺中学通ってねえんだよな」と難しい顔。
 すると霧子がたたたた、と駆けていって、ふたりぶんの御盆を差し出して「これの上に……お料理を載せたお皿を、こう……」とレクチャーしてやっている。
 小学一年生の教室か。心の中でそう突っ込みながら、にちかはたっぷり巻いたナポリタンを口に運んでもむもむ食べた。

「お、ナポリタンじゃん。俺これ好きなんスよね~……あ、粉チーズはこれ、もしかして……?」
「うん……かけ放題、です……!」
「は~ッ……。テンション上がりますわ! 霧子さん、心底(マジ)有難(アザ)です!」
「ふふっ……どういたしまして……」

 席は人数分用意されている。
 しおとデンジは片隅にひょいと座って、各々舌鼓を打ち始めた。
 お腹がすくのはアイドルもヴィランも変わらないらしい。
 しおはピーナッツクリームを塗ったコッペパンをあむ、と一口。
 デンジは――サーヴァントは本来食事の必要はない――ナポリタンをがっついて、隣のしおにまでケチャップを飛ばしている。

「らいだーくん、お行儀わるいよ。もう、私着替えもってないのに」
「ハラ減ってる時のメシはかき込んでナンボなんだよ。お前ももうちょっとお下品に食えよ」
「や。さとちゃんに嫌われちゃうもん」
「あのレズ女はお前が何しようが全肯定だよ、心配しなくても」

 ……こうしているぶんには、彼らが聖杯のためにいくつもの命を奪ってきた敵(ヴィラン)だとは到底思えない。
 少なくともにちかはそうだった。歳の離れた兄妹にしか見えない。
 でも、彼らは連合だ。にちかと霧子の大切な方舟を終わらせた、れっきとした相容れぬ敵なのだ。
 複雑なものを噛みしめながら見つめるにちか。一方で霧子は、彼らの様子を微笑ましげに見つめながら口を開いた。

「そういえば……死柄木さんがどこにいるのかって、わかる……?」
「とむらくん? んー……。たしか、機械がいっぱいあるお部屋にいたと思うよ。えっと、こんぷ、こんぴゅ……」
「ぉんゆーあーいうあお(コンピューター室だろ)」
「! そうそれ!」

 しおたちの居所は、にちかが知っていた。
 だから彼女たちを呼びに行きたいと言い出した霧子に居所を教えたのはにちかだ。
 だが、そんなにちかも連合の王たる青年がどこに消えたのかは分からないままだった。
 彼はしおと雌雄を決する旨を伝えた後は、ふらふらとどこかへ消えてそれきりだったからだ。
 にちかとしても「あんな勝手なやつのこと知りません!」モードだったので、別に追う気も起きなかった。
 ……もっとも彼の方は、呼んだとしても本当にこういう場所には来ないだろうけど。

「そっか……じゃあ、ちょっと行ってみるね……」
「――え。マジで持っていくんですか? あんなのに」
「うん……。死柄木さんも、おなかすかせてると思うから……」
「…………、」

 七草にちかは、自分がどちらかと言えばリアリストの方に部類される人間だと自覚している。
 だからだろう。この時、にちかが霧子の言葉に覚えたのは感心ではなくむしろ空寒さだった。

 ああ、悪いクセが出ようとしてる。
 そう分かっていても、こればかりは止められなかった。
 命乞いをして命を拾って貰った身とはいえ、それを恩と思えるほど負け犬根性極まってはいない。
 方舟の終わりをもたらした彼に対して思うところは、今この時だって死ぬほどあるのだ。
 だから結局、一度は堰き止めた言葉をそのまま吐き出してしまった。
 どうせ後でしみったれた後悔をすることになるのだからやめておけばいいのに、それでも止められなかった。

「方舟(みんな)を殺した、悪いやつなのに?」

 言ってからはっとする。
 言わなくていいことを言ってしまった。
 そんなことを、彼女に言ったってどうにもならないのに。
 取り繕おうとしたにちかだったが、当の霧子はと言えばどこか寂しそうに笑っていて。

「……死柄木さんとは…………いつか、戦わなきゃいけないと思ってる…………」
「っ」
「でも……いつかは、今じゃないから…………。
 これが、今夜が……わたしたちにとっての、最後の平和な時間なんだったら……わたしはあの人にも、幸せな気持ちで過ごしてほしいなって…………」

 ――挙げ句の果てにはそんな答えが返ってきたものだから、にちかも思わず毒気を抜かれてしまう。

「………………霧子さんは、あんまり電話とか出ない方がいいと思います。
 息子が事故にあったって言われたら、結婚もしてないのにたんまりお金送っちゃいそうなんで」
「ふふ……。大丈夫だよ、わたしもちゃんと気をつけてるから……」
「へえ、そうですか。具体的にはどう気をつけてるんです?」
「――レターパックで現金送れは、すべて詐欺…………!」
「初歩の初歩なんですよそれは。おばあちゃんですかあなたは」

 止めてもどうせ無駄だろうし、しゅんとされてこちらが申し訳なくなるだけだろう。
 だからにちかは、潔く諦めることにした。根負けというやつである。

「とりあえず、セイバーさんは絶対連れてってくださいね。相手の機嫌ひとつで霧子さんなんて消し炭なんですから」
「うん……そこはちゃんと気をつけるね…………、……そういうわけなんですけど……大丈夫ですか、セイバーさん…………?」
「寝耳に……水だ…………」

 不機嫌を露わにした声で、体育館の壁へ凭れて立っていた黒死牟が言う。
 霧子は彼にも給食を勧めていたが、鬼は血肉以外の食事を受け付けないため、英霊だとかそういうものは関係なく摂れないのだと断っていた。
 ……単に不要だと断ればいいものを、わざわざそう説明してやっている辺り、彼も霧子に相当"やられて"きたのだろうなとにちかは思ったものだ。見かけは怖いが、意外と今は苦労人気質なのかもしれない。

「――ていうか私だけ残されたらしおちゃんが心変わり起こした時やばくないですか? それは大丈夫?」
「そんなことしないよ。サーヴァント持ってないんだったら、わざわざ殺したって仕方ないもん」
「…………そうですか。ええ確かにそうですね。私が心配性すぎでございましたよー……」

 当の本人にぴしゃりと釘を刺されて、なんだか釈然としない気分でにちかは言う。
 とはいえ確かに、今此処で事を起こすのは彼女たちにとっても旨くないだろうことは確かだった。
 何せそれをすればほぼ確実に霧子のセイバー/黒死牟が敵に回る。
 死柄木との戦いを控えている身で、わざわざ前夜にそんな負担は背負いたくないのが普通だろう。
 連合組であらかじめ話を合わせているとかなら話は別だろうが、今の自分にそうまでして命を狙う価値があるとは思えなかったし、何よりあの死柄木弔という男はそんな細々した計略が扱えるタイプとは思えなかった。
 まったく、どいつもこいつも勝手なんですから。
 ぼやきながら、にちかはデザートのアイスクリームを口に運ぶ。

「あ…………、そうだ、らいだーくん……」
「? え、霧子さん? ちょっ――」

 霧子が、デンジの口元に手を伸ばした。
 目に見えて慌てるデンジだが、霧子は気にした様子もない。
 そのまま手を彼の口へと触れさせて。
 手にしていたティッシュで、彼の赤く染まった口元を拭いてあげた。

「……ケチャップ…………ついてたよ…………」
「…………あ。ありがとうございます……?」

 ひらひらと手を振って、ここにいない"彼"のぶんの給食を盛った御盆を持って駆けていく霧子。
 その背中を呆然と見送って……霧子の背中が廊下の曲がり角に消えたところで、ようやくデンジは言葉を発した。


「……ありゃ絶対俺に気があるよな?」
「ないと思う」
「ないと思いますよ」



◆◆


 霧子が駆けていった後、体育館には気まずい沈黙が流れる。
 いや、あるいはにちかがそう思っているだけかもしれない。
 何せ相手はルール無用、常識だとか良識だとか踏み躙ってなんぼのヴィランどもだ。
 明日には崩壊するかりそめの停戦。にちかとしては死柄木ではなく目の前の彼女たちに勝ってほしいところだったが、それでも結末は変わらない。
 立場が反目している以上、方舟のアイドルと連合のヴィランは決して相容れないのだ。
 どちらかが残って。
 どちらかが、消える。
 そう分かっていたからだろうか。にちかは、開かなくていい口を気づけば開いてしまっていた。

「……あの。一個だけ聞きたいんですけど」
「なんだよ」
「あなたじゃないです。そっちの女の子に聞きたいの」
「愛想もへったくれもねえ奴だぜ。は~、霧子さん可愛かったな……」
「敵に愛想振りまいてもしゃーないでしょ。私が普通なんですってば」

 悪態をつきながら、デンジがしおを肘でつんと小突く。
 もきゅ、もきゅ……と咀嚼していたパンを飲み込んで。
 しおが、くるりとにちかの方を見た。
 こうしているぶんにはどう見たって年相応の女の子にしか見えない。
 こんな少女が、自分たちを踏み台にして何かを叶えようとしていること。
 きっとここまで来る間にも、多くの命を食らってきただろうこと……。その実感が、どうしてもにちかには持てなかった。

「神戸しおちゃん」
「うん?」
「死柄木さんの願いは知ってます。あの人は、気に入らない社会をぶっ壊したいんだって言ってましたね」

 それもまた、にちかに言わせればまるで理解のできない、したくもない願いだった。
 気に入らないから壊すだなんて、幼稚園児でも分別のつく癇癪ではないか。
 それを大真面目に押し通そうとする傍迷惑な魔王のことを、にちかはどうやったって認められない。
 だが一方で、そういう願い/想いもあるのだということは理解した。
 だから、問いたくなったのだ。恐らく話すのは今夜が最初で最後になるだろう少女にも、聞いてみたくなった。

「しおちゃんは、何のために戦ってるんですか」
「……霧子さんから聞いてない?」
「聞いてもよかったんですけど、あの人に他人のプライバシーをべらべら喋らせるのも気が引けたんで」
「そっか」

 霧子のことだ。既にしおとの"お話"は済ませているだろうとにちかは思っていた。
 なのに現状がこれということは、つまり対話では彼女を揺るがせなかったということ。
 彼女も死柄木と同じで、何をどうしたって自分のあり方を改めることがない存在だということを示している。

「だいすきなひとがいるの」
「それは――さっき言ってた、さとちゃんって人?」
「うん。とってもふわふわいい匂いがして、やさしくて、いつだって私のことを一番に考えてくれる……とってもすてきな女の子」
「女の子」

 思わず度肝を抜かれたが、まあ、そういうこともあるだろうと自分を納得させる。
 そこにツッコミを入れていたらいつまで経っても話が進まなそうだ。
 それに、語るしおの表情は、余計な横槍を入れる隙間もないほどに完璧だった。

 ――偶像(アイドル)。

 他人に笑顔を与えるには、まずその人物が笑顔でいることが大前提なのだと今のにちかであれば分かる。
 だからだろうか。七草にちかはこの時、間違いなく神戸しおという少女にアイドルの聖性を見出していた。
 微笑みのひとつで他人を魅了し、熱狂させる偶像。立ち振る舞いのひとつで他人を狂わし、時に人生すら擲たせる天使。
 ああ、これが普通の女の子なんかであるものか。彼女は、この女は、そう間違いなく――

「私は、私の知ってる愛を貫くの」

 ――死柄木弔(かれ)の同類だと、理解した。
 人誑しの才能(カリスマ)、そして人倫に捉われることのない不変の歩み。
 対話など、手を差し伸べることなど、これを前にして意味があろう筈もない。
 これは何を言ったところで、決してその歩みを止めないだろう。
 言葉の通り、愛を貫くまで。その愛が行き着くところへ行き着くまで、決して。

「そのためになら、私は世界だって壊してみせる」
「……何を犠牲にしても構わないって、そう言うんですね?」
「うん。知ってる? えっと……にちかちゃん」

 天使が、囀っている。
 天使が、微笑んでいる。
 魔王を討つべき天使が。
 ただひとりのための救済を運ぶ天使が、微睡むように宣言した。

「愛のためなら、やっちゃいけないことなんてないんだよ」

 そうですか、と気付けばにちかは吐き捨てていた。
 対話の成果は、これでも一応あったといえる。
 なんと言っても今日は決戦の前夜。世界の終わりがやってくるその前の、最後の静かな時間だから。
 こうして言葉を交わし、改めて自分の中にあった感情を深められただけでも有意義だったとにちかはそう思っていた。

「……私、やっぱり連合(あなたたち)のことが嫌いです。うん、だいっきらい」

 七草にちかは、敵連合という集団が嫌いだ。
 もう散っていった連中も。
 悪の親玉たる白の魔王も。
 そして今目の前にいるこの天使も、すべてが嫌いだった。
 自分は霧子とは違う。自分は彼女のような、すべてを照らすお日さまにはなれない。
 だって彼の語る崩壊も、彼女の語る狂愛も、欠片だって理解できないから。
 何かを成し遂げるために他のすべてを犠牲にするだなんて理屈を当然の顔で押し通せる人間に対して、良い印象なんてさっぱり抱けないから。

「明日、戦うんでしょ。だったら私たちのためにも死柄木さんを倒してください。
 ぶっちゃけあの人が生き残ってると、私たちの今後がやばいくらい無理ゲーなんで。
 霧子さんはともかく、私はそれまではあなたたちのことを応援してあげます。でも、その後は」

 方舟は、心優しい願いをもってすべての命に手を差し伸べる集団だった。
 けれど、その根底にあるのはお花畑のような無垢さではない。
 それしか解決の手段がないのなら、どうやっても和解するのが困難であるのなら、その時は戦うとあの"境界線"は言っていた。
 にちかは事此処に至ってようやく、そんな言葉の意味を実感する。
 もういない境界線に思いを馳せながら、今やこの世界で最も無力な少女は、はっきりと天使の目を見て宣言した。

「ぜったい、あなたたちになんか負けません」

 自分達、方舟の残骸の未来がどうなるかは分からない。
 分からないが、負けてはならないのだということだけは分かる。
 自分達はまだ負けてなんかいない。だって、まだクルーが残っている。
 あの優しい時間を覚えている二人と一騎が残ってる。

 連合と方舟の戦いは、まだ終わっていないのだ。
 ならば狙うのは勝ち、ただそれだけ。
 宣言するにちかに、しおは少し驚いた顔をする。
 七草にちかという人間にこれだけの胆力があるとは思っていなかったのだろう。

「ふうん」

 だがその顔も、すぐに微笑みに変わる。
 思わず毒気を抜かれるような可憐な笑顔。
 まさに天上の御業のような無垢に染まっていく。

「できるといいね」


 ……真面目な話は、そこまでだった。

 しおがバニラアイスを口に含んで。
 にちかもナポリタンを頬張った。
 デンジはポトフのベーコンにがっついている。

「霧子さん、遅いねえ」
「な。死柄木の奴、案外絆されてんじゃねえの? 霧子さんのバブみによ」
「ばぶみ?」
「小さい子は知らなくていいんです。ていうかあなた本当にサーヴァントなんですか? 言動も言葉のチョイスも俗すぎるんですけど」
「現代っ子だからな。アイドルの話もできるぜ~?」
「どの面下げて私の前でアイドルの話するつもりなのか大変興味深いですね」
「この面だよこの面。てかお前って売れてんの? だったら後でサインくれよ。メルカリで売ってドラクエの新作買うからよ」
「は~っカス。あなたみたいな魂胆の人がいるからグッズ販売もサイン会も厳しくなるんですよ」
「あ。にちかちゃん、バニラアイスもう一皿とって」
「なんで霧子さんのことはさん付けで私はちゃん呼びなんですか????」
「…………、…………。」
「……、……。」
「……。」
「…」


◆◆


「あ……ほんとにここにいた……」

 コンピューター室の扉を開けて、そこで幽谷霧子は連合の王と対面していた。
 その手にはお手製の給食を載せた御盆。向ける笑顔は、とてもではないが不倶戴天の敵に対するそれとは思えない。

「晩ごはん、持ってきたんです……死柄木さんも、おなかすいてると思って……」
「何言ってんだお前。頭おかしいのか?」

 この場に限って言うならば、死柄木の言葉が正しいだろう。
 とはいえ当の本人は傷付いた様子もなく笑っている。
 そこから微塵の害意も感じ取れないのがまた、死柄木にとっては不可解だった。
 となるとこの女は、本気で自分に食事を運ぶためだけにここまで来たのか。
 わざわざしお達に自分の居所を聞いてまで。
 全身の感覚を集中させる――彼女の背後に、サーヴァントの反応が感じ取れた。
 流石にそこまで酔っ払ってはねえか、と死柄木は小さく嘆息する。

「敵が運んできたメシなんざ食うかよ。ハニトラのつもりだとしてももっと上手くやれ」
「……でも……しおちゃんとらいだーくんは、おいしそうに食べてました……」
「あいつらは馬鹿なのか?」

 その光景が容易に想像できるのもまた頭が痛くなる。
 差し出されたそれを片手で振り払って、床にぶちまけるのは簡単だ。
 だが目の前の女の顔が、あまりにも邪気だとか嫌悪とは無縁のものだったから死柄木としてもその気が削がれる。
 こいつに対してそんなチープな悪意で応えてしまったら、むしろそれは自分の敗北になってしまうような。
 そんな奇妙な、今までにない感覚を霧子は死柄木に与えていた。

「……そこに置いとけ。気が向いたら食ってやるよ」
「……! ありがとうございます……嬉しいです、ふふ……」
「なんでお前が礼言うんだよ。マジで脳溶けてんのかお前は」

 "この身体"には、今や空腹の概念は存在していない。
 何しろ龍脈の力を吸い上げて合一化させたマスターピースだ。
 エネルギー効率やその生成手段も人間のそれとは一線を画した人外のそれに置き換わっている。
 だからこのお節介が必要か不要かで言うなら、間違いなく後者だった。

 なのにどうしてかそれを無碍にできなかったのは。
 気が向いたら食うなどと、まるで気遣うような言葉を口にしてしまったのは何故なのか。
 死柄木自身にすら理解の及ばない感情が、その脳の内側で渦を巻いている。
 脳裏によぎるのは、もう捨て去った過去の追憶。
 今より遥かに低い視点。笑顔で語らう知らない/知っていた顔。
 机の上で湯気を立てている皿には色とりどりの食材が載っていて、その空間はひどく暖かで懐かしくて――


「田中摩美々を殺したぞ」


 そんな思い出(ノイズ)を振り払うように、死柄木はその事実を口にしていた。

「正確には俺がやったわけじゃないが……まあ、連合の一員がやったことだしな。俺が殺したようなもんだ」
「…………、…………」
「お前らの計画を支える肝心要のライダーも殺した。七草の片腕を吹っ飛ばしたのも俺の仲間だ。
 方舟だったっけ? とにかく、お前らの夢や理想は全部ブッ壊してやったよ。
 灰と光の境界線なんてもうどこにも存在しない。あるのは、一面真っ黒の未来さ。奈落が口を開けてお前らを待ってる」

 霧子の顔に沈痛の色が宿る。
 同時に、後ろに控えているらしいサーヴァントの放つ殺気が強まったのを感じた。
 そうだ。それでいい。死柄木は過去を押し込んだ記憶の鍋に蓋をして、魔王らしく悪意を振り撒く。
 偶像の純朴な優しさに小便をぶち撒けるような所業は麻薬のように心地よく、本番の前夜に相応しい娯楽になるだろう。

「死柄木さんは……」

 そう思っていた。
 その筈だった。
 なのに幽谷霧子の口から次いで出た言葉は、死柄木の行いを糾弾する言葉でもなければ、売り言葉に買い言葉の挑発でもなかった。

「世界のぜんぶを、壊した後……どこに、行くんですか……?」
「何?」
「死柄木さんの願いごとは、知ってます……。ぜんぶ壊して、真っ平らにしたいって……。
 わたしはそれを……すごく寂しいって、そう感じてしまうけど……でも、わたしはあなたの人生を……死柄木さんの物語を、知らないから……。
 死柄木さんが、大事に抱いて歩いてきた……その願いごとを、否定する気は、ありません…………」

 でも、と続いたのは、先程の繰り返しだった。

「その後に、あなたは……願いを叶えた死柄木さんは、どこに行くのかなって…………」
「さあ」

 今、死柄木弔に纏わり付く巨悪はいない。
 彼の完成をもってそのすべてを乗っ取り、自分の野望にすげ替えようと目論んでいた男は既に介入の余地を失った。
 この聖杯戦争を制した時、死柄木弔は理想を叶えてすべての崩れた白の地平線に立つだろう。
 ならばその先に待つのは彼の、彼だけの物語だ。
 社会を壊してひとつの時代を終わらせた彼は元の世界でも魔王と崇められ、新たな巨悪として君臨するに違いない。
 では。その後で、彼はどこへ向かうのか?

「壊してみなきゃ分からない。ただひとつ言えるのは、壊さなくちゃ俺はどこへも行けないってことだけだ」

 答えは、分からないと言うしかない。
 すべてを崩壊させた後、自分はどういう気持ちで願いの叶った世界を眺めるのか。
 それを知れるのは地平線の彼方に辿り着いた時だ。
 今、幽谷霧子の向けてくる問に対して返せる答えは死柄木の中に存在しなかった。

「俺を憐れむなら大人しく道を譲ってくれ。手を差し伸べるなら、さっさとサーヴァントを自殺させてくれれば手間が省ける」
「それは…………、……できません…………」
「なら戦うか。俺と」
「……死柄木さんの願いが、とても強いものだって……誰にも譲れないものだってことは、わかってますから……。
 戦い、ます……。勝てるだなんてとても思えないけど、それでも……わたし達も、方舟(わたしたち)のために…………戦う」
「それでいい。分かってんなら下らねえ言葉遊びはやめとけよ。そういうのを不毛って言うんだぜ」

 ヒーローの本質は、お節介だという。
 ならばこの少女は間違いなく、"そうなる"資格を有しているに違いない。
 そもそも、医者もアイドルも味方を変えればヒーローだ。
 人に夢と希望を、時には勇気を与えて救う存在。それを指して人はヒーローと呼んだのだから。
 であればああ、なんという因果だろう。
 結局死柄木弔(じぶん)という人間は、ヒーローとヴィランという昔懐かしの対立構造からどうやっても逃れられないらしかった。

「明日の戦いは俺が勝つ。そしてお前らも、あの鍵穴娘も殺してゲームセットだ」
「……しおちゃんと、戦うんですね……」
「七草から聞いてるだろ。面倒臭いがジジイの遺した宿題なんでね。
 ムカつく野郎だったが、奴の教えが無益だったことはない。なら最後の最後、絞りカスまで吸収してやろうって腹さ」
「…………死柄木さんにとって……しおちゃんは、何だったんですか…………?」

 また妙なことを問う。
 今度の答えは、考えるまでもなく決まっていた。

「敵だ」

 そう、いつだって奴は敵だった。
 出会ったその時から今まで、一度だってそれは変わっちゃいない。
 誰よりも身近にいた、最も長い時間を共にした、敵だ。
 死柄木弔にとって神戸しおは、いつだって最大の敵(ヴィラン)だった。

「だから殺すんだ」

 連合の王は残虐非道の悪逆無道である。
 七草にちかが彼を評した時の形容は何一つ間違ってなどいない。
 モリアーティの教鞭によって、彼は本当に人間などではなくなってしまった。
 志村転弧としての弱さを限りなく封じ込め、死柄木弔という魔王として完成した。

 だが。それでも、彼の中には魔王なれども心がある。
 田中一の死に形だけでも手向けをくれてやったり。
 鎬を削った敵に、彼なりの評価を下してみたり。
 無道ではあっても無感ではない、それが死柄木という男の在り方だ。
 その矛盾があるから、彼は強い。
 どこまでだって進化していく、停滞を知らない。
 それは彼を最初に見出したオール・フォー・ワンという男が、唯一持っていない質の"強さ"であった。

 ――とむらくん、なんだかお兄ちゃんみたいだね。
 ――私、勝つね。とむらくんに。

 甘い声(シュガーソング)を反芻しながら。
 訣別(ビターステップ)へと歩み出す。
 そこにあったのは紛れもない、彼らなりの仲間意識と友情で。
 だからこそこの結末は譲れないのだと、獣の心でそう誓っていた。

「…………、…………」

 そのことが、霧子には伝わったのだろう。
 言葉だけ見れば彼らしいと言う他ない残忍さだが、その言葉に付加された重みを彼女は感じ取っていた。
 だからこそ、もうそれ以上言える言葉はなかった。
 だって自分は、彼らの物語を知らないから。
 かけられる言葉は、もうない。


「日の出だ。それと同時に事を始める」


 決戦の刻限は日の出と同時。
 最後の朝が訪れたその瞬間。


「巻き込まれたくなかったら逃げときな。運が良けりゃちょっとだけ生き延びられるよ」


 それをもって、敵連合は消滅する。
 魔王か、天使か。
 どちらかの願いのみを残してこの世界から消える。
 霧子はその意味を、彼らの戦いの重さを噛みしめていた。
 乗り越えるために戦う、相手を重んじるからこそ戦うということの意味。その価値。
 世界の終わりを否応なしに感じさせられながら、彼女は魔王の視界を去ったのだった。


◆◆


「早めに寝とけよ。明日早いんだからな」
「うん」

 埃っぽい物置の中にソファがあった。
 右側にデンジが、左側にしおが座っている。
 時刻は12時になるかどこかといったところ。
 日の出が事の始まりと考えると、十分に眠れるかどうかはだいぶギリギリだ。
 だいぶ不規則な生活習慣にも慣れてきたようだが、それでもしおはまだ幼い。
 デンジに言われるまでもなく、もうかなりうとうととしている様子だった。

「……いよいよだね。おわるんだ、ぜんぶ」
「そうだな」

 聖杯戦争が本格的に"戦争"の様相を帯びたのは最近だが、予選を含めて見ればこの戦いはなかなかに長かった。
 最初はあんなに浮かれていた久々の現世も、今となっては昔と同じで日常に変わっている。
 神戸しおという少女が隣にいる時間も同じだった。
 あらゆる日常が、事がどう転ぼうと明日で終わるのだと考えてもいまひとつ実感が湧いてこない。

「今だから言うけどよ。俺、お前が"さとちゃん"の話するのめちゃくちゃ嫌だったんだわ」
「しっと?」
「ちげえよ馬鹿。……あれだ。そのモードに入るとお前、途端に何言ってるか分かんなくなるからよ。
 俺はなんつーか……一緒にゲームで馬鹿やってたり、ヘンな時間にだらだらカップ麺食ったり、菓子つまんだり。
 お前とはそういう、こう……毒にも薬にもならねえ時間だけ過ごしていたかったんだよ」

 デンジの耳には、しおの語る"愛"の話は酒にでも酔っているのか、という感想しか抱けないものだった。
 彼女のような幼い少女がそれを語っている事実もまた、そこに拍車をかけていたのだろう。
 これさえなければな、と口に出しこそせねどずっと思っていた。

「けど、まあ……お前らはさ、すげえわ」

 だからこれは、きっと根負けというやつなのだろうとデンジは考えている。
 良くも悪くも、自分にはきっとそういう生き方はできない。

「俺なんて好きな人がいても平気で他の女に尻尾振っちまうし。
 サーヴァントになっても、可愛くてエロい女に話しかけられたら鼻血出そうになるし。
 そうやって何があっても、自分がどうなっても他人を愛し続けられるってのは……俺には真似できねえな~ってよ」

 それを貫き続けた結果、気付けば聖杯戦争は最終局面だ。
 不思議と、何の疑いもなくデンジは自分達が勝つのだと信じていた。
 希望的観測でも情熱でもなく、ただそういうものだと思っている。
 あの時――桜の舞う渋谷で、彼女達の再会とその顛末を見た時からずっとそうだった。

 漫画の主人公が、劇的な何かを経て最終回に突き進んでいくように。
 映画の主役が、神の下りた情景の中でエンドロールに歩いていくように。
 デンジは、それを見ると同時に理解した。
 ああ、こいつは勝つんだと。
 そう思いながら今もここにいる。
 そして今も、それは変わっていない。

「私も、らいだーくんはすごいなって思うよ」

 明日、すべての物語は終わりを迎える。
 勝者が決まり、残りのすべてが消えてなくなる。
 桜が散り、ひぐらしが鳴いて季節が移り変わるように。
 日常だったこの世界は、誰かの"願い"のために消費される。

「らいだーくんじゃなかったら、私はたぶんここにいないと思う」

 それはきっと、デンジに限った話ではないのだとしおは気付いていた。
 きっとここで出会ったもの、経験したこと、そのすべてに意味があったのだ。

 以上をもってジェームズ・モリアーティが見初めた最後の課題。
 魔王の闇黒を照らし、白光にて焼き焦がす天使は完成された。
 結実の時は日の出と共に。界聖杯を照らす最後の朝日が、彼らの神話の終わりの始まりだ。

「怖くねえの」
「怖くないよ」
「愛してるから?」
「うん。そして、らいだーくんがいるから」

 しおはにへらと笑った。
 天使のさえずりは悪魔狩りの少年へ向けられている。
 その感情は愛ではない。
 だけど、形だけの伽藍でもない。
 そこにはきっと、情がある。
 この世界で巡り合った相棒に対する、友情があった。

「すきだよ、らいだーくん。"ともだち"として」
「……さとうが泣くぞ。あんま気軽に好きとか言うなよ」
「ううん、だいじょうぶ。本当に大切な気持ちは、ここにちゃんとしまってあるから」

 そう言って胸に手を当てる、しお。
 一番大事な愛の砂糖菓子はそこに秘めた。
 心の瓶は、もう割れていない。

「そんでありがと。私、らいだーくんがサーヴァントでよかった」

 微笑む少女の姿に、デンジは存在しない記憶を見た。
 鎖で繋がれたたくさんの犬。壁に貼り付けられたローマ字表。
 二人分の食事、自分のためじゃない貯金、腕の中でテレビを見つめる誰か。
 今までの自分が、卵のようにひび割れていくような感覚を懐かしさと同時に覚えながら。
 デンジは、こてんと眠りに落ちたしおの顔を見つめていた。

「クソガキがよ……」

 本当にこいつは、とんだマセガキでクソガキだと思う。
 どうせなら最後まで、自分勝手でわけのわからないことばかり喋る馬鹿でいてくれたらよかったものを。
 こいつがこんなだから、自分はらしくもなく――

「……やめだ。俺ももう寝る」

 かぶりを振って湧き上がった思考を否定して。
 不貞寝するみたくソファの背に身体を投げ出し、だらしなく足を広げた。
 しおとデンジ。天使と悪魔の主従にとっての、最後の夜であった。


◆◆










「…………そっか…………」

「あなたは………界聖杯、さんは…………」

「あなたは、ただ…………」

「何かに、なりたかったんですね…………」









◆◆



 無人無生の摩天楼に一人立つ白影があった。
 その傍にサーヴァントの姿はない。
 彼は既に、己が運命と死に別れている。
 だが、亡き"教授"はこの世界に最大の犯罪劇を仕込んで逝った。
 薔薇の青年が少女達へと繋ぐ希望を遺して焼け死んだように。
 蜘蛛糸の主は、今この光景のためにすべてを尽くして消え去ったのだ。


 彼は、王である。
 地平線の彼方に辿り着くべき、そしてあらゆる大地を平らに均すべき、魔王である。
 すべてを塗り潰す白。すべてを薙ぎ払い、崩し、リセットする終末装置(アークエネミー)。
 その名を死柄木弔。龍脈の力をその身に宿し、空すら掴む手を有するに至った怪物である。


 コンクリートジャングルの果て。
 薄闇の名残を残していた空が、金の陽光に照らされた。
 天を衝くような高層ビルの数々が、尾のように影を伸ばす。
 その光は当然、魔王をも照らしていた。
 網膜を焼くような、鬱陶しいくらいの日差しが街を呑む。
 日の出の時だ。眠った草木も叩き起こされ、穏やかな静寂の夜は終わりを迎える。
 彼は誰時、朝ぼらけ。
 夜の終わり、一日の始まり。


「さあ、刻限だぜ」


 ――――世界の終わり、その幕開け。


「遊ぼうか――――」


 死柄木の足が、アスファルトを踏み砕いた。
 破片と粉塵が、血飛沫のように舞い上がる。
 その一片を、魔王の指先が優しくなぞった。
 王に触れられた破片は、風に揺られて地面に落ちて。


 そして次の瞬間、都市が"崩れた"。


 大地が崩れる。
 高層ビルが次から次へ、まるで自分の姿を忘れたように崩落していく。
 崩壊に、終焉に染まる街の中。
 魔王はその滅びの中心に立ちながら空を見上げた。
 朝日の照らす終わりの世界で。
 キラリと陽光(それ)を反射させた、鋼の何かが翔んでいる。
 崩れゆく都市の悲鳴が木霊する中でも、その音は恐ろしいほどによく聞こえた。


 それは遥か彼方、地獄にて産声をあげた大悪魔。
 不滅。不撓。不屈。滅びを知らぬまま滅びを運び続けたモノ。
 彼は数多の滅びを喰ってきた。そして今、その俎上に地上最後の魔王が載る。
 空に躍った悪魔の影から。蛇の如くに、無数の鎖が飛び出した。
 頭上から崩れてくる、高層ビルの大鉄槌。
 それを触れぬまま微塵に切り裂きながら、悪魔は魔王に死を聞かせる。



 ――ぶうん。



「――――しお」
「うん――――遊ぼう、とむらくん!」




 滅びの大地に立つ、崩壊の魔王に。
 悪魔の肩に乗った、狂愛の天使が応える。

 どちらも同じ教師に見出され、育て上げられた悪の器。
 彼らにとってこの世界は教場だった。
 多くを学び、多くを知って、よく育った。
 卒業式はすぐそこ。けれどその前に、彼らだけの卒業試験が待っている。



 世界の終わる日、その朝に。
 彼らだけの最終決戦が、その幕を開けた。



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最終更新:2024年03月24日 15:46