――――最後ひとつの"可能性"を占うべくして、この聖杯戦争は幕を開けた。


 器の数は二十三。招来に応えた英霊の数もまた二十三。
 裁定者の威光はなく、いかなる所業も可能性の下に肯定される想いの地獄。
 それ故に戦況は無軌道と、無秩序。あらゆる倫理を、巨大な感情が駆逐する地平線の戦い。

 光月の侍は、始まりの剣士と共に使命に殉じて生き様を遺した。
 古手の巫女は、天元の花を抱いて咲き誇り、ある男の妄執に引導を渡した。
 犯罪の王はその命さえもを犯罪計画の中に含め、結果として最大の悪を完成させた。
 癒しの否定者は大願を果たせず、しかし械翼の少女と紡いだ絆を信じて殉じた。
 光失った少女は羽ばたく偶像を肯定し、その忘れ形見は最後の最後に復讐の唄を刻んだ。
 輝きの子は傷付き迷い、されど己を見失うことなく歌い続け、星の少女の愛した優しさを貫いた。
 棄てられた小鳥は友の手を引き、誓いは果てまで受け継がれ、蒼き雷霆はひとつの愛をこの世に残した。
 愚かな男は旅の末にあるべき仕事へ還り、狛犬は役目を終えて眠りに就いた。
 神の子は敗北を以って新たな生き様を知り、混沌なき聖杯戦争を歩み抜いて天に歩み出した。
 呪われた男は愛のままに狂い咲き、龍王と共に戦争の佳境を担い、そしてひとつだけ医者らしいことをして枯れた。
 心の割れた王子は神すら屠り、屍を背負って女王の覇道を吼え、孤独の朝に溶けていった。
 ある母親は流浪の父親と巡り合い、階段をのぼってあるべき部屋へと戻っていった。
 天地宇宙の境界線は滅亡の手に敗れ去り、しかし彼の繋いだ希望は傷付きながらもまだ生きている。
 砂糖菓子の少女は友と共にもしもを紡ぎ、無感の鬼の嘲りと決別して桜の木の下で笑って逝った。
 天与の子は仕事を果たして地獄に帰り、彼の呪いは今もとある女を動かす燃料として生き続けている。
 美しい紫色は愛した古代に帰ることはなく、けれどその奮闘は緋色の蜘蛛と共に色褪せず。
 最弱の凡夫はひとつの答えに辿り着き、殺人鬼を失ってなお可能性の輝きを示して散った。
 愛に狂った女は少女に愛を教えて散り、彼女の感情を理解できなかった始まりの鬼は慟哭しながら悪魔の腹に消え去った。
 神に見初められて生まれた魔女は対話の末に原初の祈りを思い出し、曼荼羅の崩壊を待たずして次のカケラへ走っていった。
 透き通る手の女の心に後悔はなく、やるべきことを成し遂げて旅立ち、巫女の魂は彼女が守った透眼と共に。
 家族を愛した少年はようやく妹との対話を果たし、ヒーローの背中を焼き付けて憩いに眠った。

 残る器は、あと五つ。
 銀の太陽。
 白の魔王。
 月の落子。
 灰の偶像。
 透の語部。

 残る英霊は、あと三体。
 凶剣の鬼。
 悪魔の器。
 神の巫女。

 ――残る願いは、あと三つ。
 愛。
 崩壊。
 そして、愛。


 聖杯戦争は、これから終わる。
 世界の終わりが、すぐそこにまで迫っている。
 渋谷区の消失と世界に空いた"孔"は、その合図に過ぎない。
 終末の音(アポカリプティックサウンド)を響かせながら。
 二つの愛と、一つの滅びと――そして臨終を控えた優しい願いごとを載せて。


 界聖杯はじきに、滅び去ろうとしていた。
 願いの成就。可能性の開花という本懐を、果たして。
 地平線の彼方に誰かを運ぶ"方舟"として、その生まれた意味を果たそうとしていた。


◆◆


 世界の崩壊、深層への墜落――
 その現実を理解するよりも、霧子達を"彼女"の魔の手が襲う方が遥かに早かった。

 落ちていく、表層(テクスチャ)の残骸。
 星空を思わせる蒼い世界の中で、銀の髪の少女が笑っている。
 霧子ではない。霧子の笑みは、こんなにも獰猛なものでは決してない筈だ。
 銀の髪と、白磁の肌。そして尖った、悪魔を連想させる白い牙。
 額に鍵穴を開けた異界の巫女が、狂気のままに降り注がせた触手の波濤が手始めに幽谷霧子を呑み込み、粉砕しようとした。

 だが――

「退け…………」
「っ――セイバーさんっ……!」

 そんな霧子の前に躍り出た影がある。
 上弦の壱。かつてはそう呼ばれていた、剣の鬼。
 光月の侍から受け継いだ妖刀を振るい、彼は虚空に月を描きあげた。
 無数の月が、霧子を押し潰す筈だった触手の波をことごとく細切れにしていく。

 そのまま更に前へと踏み込んで、少女に向けて切り込んだ。
 【月の呼吸 捌ノ型 月龍輪尾】。
 抉り斬る研鑽の結晶を前に、しかし少女は不動のまま。
 右手に握った鍵剣を振り抜いて、ただそれだけの動作で――

「……ッ!」

 黒死牟が展開したすべての月輪を、文字通り力づくで圧し砕いた。
 嫌でも脳裏に思い浮かべてしまうのは、つい先ほどまでその猛威を目の当たりにしていた龍の王だ。
 あのカイドウでもなければまず不可能だろう、無茶苦茶の一言に尽きる力技。
 それを涼しい顔でやってのける彼女が尋常な相手である筈はなく、黒死牟は警戒の水準を瞬時に引き上げたが。
 しかしそれでも遅いとばかりに、無数の蝙蝠がどこからか現れて彼の身体を貪り始めた。

「お久しぶりね、お侍さま」

 その呼称を受けてようやく、黒死牟――そして霧子の中で、目の前にいる少女が既知の人物であると結び付いた。

 黒死牟だけならばいざ知らず。
 霧子でさえ、目の前の彼女が自分が知るのと同一人物だと此処まで理解できていなかったのだ。
 それほどまでに、今の彼女は彼らが知るのとかけ離れていた。
 見た目以上に、その中身が。放つ気配の剣呑さが、かつてホテルで穏やかな時間を共にした彼女のものとはあまりに違いすぎていたからだ。

 これは、何だ。
 一体、何だというのだ。
 一体何があれば、たったこれだけの時間で一体の英霊がこうも変質を遂げられるのか。

 数百年の時を殺戮に費やした、剣の鬼でさえもが戦慄する迂遠なる深淵の巫女。
 振り翳した鍵剣と閻魔の刀身が激突し、極彩色の火花を散らす。
 先のはやはり偶然ではなかった。打ち合っただけで腕が千切れそうになる、それほどの威力が一挙一動に伴っている。

 彼方のものと繋がれたことで、アビゲイルという英霊のあらゆる出力が段違いに上昇していた。
 黒死牟カイドウに感謝せねばならない。
 敵ではあったが、もしもあの時"世界を穿つ"ための攻撃が彼に向けて放たれていたなら、彼はもうこの世界に影も形も残っていなかったろう。
 今際の際に龍王が起こした小さな気まぐれ。それが、お日さまの少女と契りを交わした一体の鬼の命運を辛うじて繋ぎ止めていた。
 どことも知れない地点へと墜落していく最中に、巫女と切り結ぶ血塗れの剣鬼。
 【月の呼吸 壱ノ型 闇月宵ノ宮】で鍵剣を握る細腕を断ち切ろうと試みたが、その刀身は触手によって絡め取られた。

「………………!」

 黒死牟の剣は、若輩殺しの老練である。
 どれほど抜きん出た才があっても、才能だけで彼の剣は凌げない。
 だからこそ、本来であればアビゲイルのような強大な力"だけ"に支えられた手合いは格好の餌食となる筈だった。
 事実、彼の前にかつて立ったある天才剣士は為す術もなくその利き腕を切断されている――その二の舞になる筈だった。普通ならば。

 だがアビゲイル・ウィリアムズは天才だとか凡才だとか、老練だとか若輩だとか、そういう次元にはそもそもいない。

「きれいな剣。まるで星空みたい。私達のセイレムから見上げた、ほうき星の瞬く――」

 うっとりとした様子で夢見るように呟くアビゲイルの危険度が、黒死牟の中でどこまでも際限なく高まっていく。
 宮本武蔵光月おでんベルゼバブカイドウ……様々な強者がいたし、中にはついぞ超えられなかった者もいる。
 だがその中で、縁壱を除くならばこの少女が最も理解の及ばない存在に見えた。
 まるで、そう。どこまで続いているかも分からない、深い井戸を見下ろしているような。
 そんな、無限とも呼ぶべき暗闇を相手に剣を振っているような心地が襲ってくるのだ。

 【月の呼吸 拾肆ノ型 兇変・天満繊月】。
 斬撃の渦を創成して触手を切り裂き、剣の自由を取り戻す。
 アビゲイルの身体にも少なからず斬撃が及んだかに思われたが、しかし傷がない。

 少女一人程度、瞬く間に挽き肉に変えられるだろう斬撃の海。
 その渦中で一人立ち、微笑みながら無傷を維持している姿はある種幻想的でさえあった。
 黒死牟の月と斬撃が、内側から巨大な力にへし折られて崩壊する。
 溢れ出したのは羽虫の群れだ。たかが羽虫、それでも一匹一匹が英霊の骨身さえ噛み潰す異界の虫だ。

「開け――――門よ」

 だがこれすら、黒死牟の逃げ場を封じるための檻でしかない。
 アビゲイルの目が、その鍵穴が妖しい光を帯びる。
 そこに集約されていく力の大きさは、単なる通常攻撃の枠に収まるものでは完全になかった。

「【月の呼吸――」

 怯まず次の剣を用立てて窮地を脱しようとする黒死牟だが、残酷なまでに遅い。
 というよりも、手数が足りていない。
 彼の放った手はすべて粉砕され、今はアビゲイルが場を完全に掌握してしまっている。
 その状況で降り注ぐ光の束は、遠き処からの神託は容易く回避出来るものでは断じてなく。
 かつて悪鬼だった男の罪を祓い清めるように、虚空の中から這い出て轟いた――が。

 そんな因果応報に痰を吐きかけるように、チェーンが伸びて彼の刀に巻き付いた。 
 そのまま強引に真下へと引くことで、放たれた聖光からの回避を辛うじて成立させる。

「おいバケモン! どういう状況なんだこりゃあよォ!?」
「知らぬ……私が、聞きたい思いだ……」

 彼らはまさに呉越同舟。
 ライダー・デンジの介入が黒死牟を助けた。

 未だに墜落は続いている。
 彼はその最中で唯一、自由落下特有の不安定さとそれに伴う散開の危険性に逆らう力を持っていた。
 チェーンを用いてしお、霧子の両名を助けながら同時に黒死牟を援護してアビゲイルとの戦闘に参加する。
 此処までの芸当が可能なのは、この場において彼一人。
 だからこそアビゲイルも、彼の存在を厄介と看做したのだろう。

 目と目が合った。
 明確に。

 その瞬間――デンジが思い出したのは、かつてある悪魔の力によって地獄に落とされた時の記憶だった。
 地獄の果て、無数の扉の中から現れた根源的恐怖の名を持つ悪魔。
 今目の前にいるこれは、あの時為す術もなかった闇の悪魔に近い存在だと理解する。
 即ち、根源。即ち、深淵。本当なら戦おうとすること自体が間違いの、掛け値なしに距離の開いた存在……!

「ああクソ――なんだってさっきからろくでもねえ化け物の相手ばっかりさせられてんだあ俺は!?」

 デンジは自分の脳を切り刻んで、闇の悪魔の影を排除した。
 恐怖は刃を鈍らせる。精神攻撃への対策なら、痛みを覚える箇所そのものを刻んでしまうのが一番早い。

「ガキ殺すのは多少寝覚めが悪いけどよ、タコ女なら話は別だぜ!!」
「下品な人ね。でも実は嫌いじゃないの、あなたみたいな人のこと」
「あぁ? ったく、もう十年……いや五年……、……やっぱ三年歳取ってから出直して来いやマセガキがア!」

 そのまま突撃するデンジ
 いつも通りの猪突猛進、それだけで触手や羽虫を一気に刻んで紫の血飛沫を散らすが、だがそこから先に進めない。
 斬った分を超える量が毎秒毎瞬追加されているから、結果的に一寸たりとも前進を許して貰えないのだ。
 彼がそれを理解した時には既に、嗤うアビゲイルの姿がその懐に入ってきた後だった。

「あなたみたいな人に、悪いこと……本当はたくさん教えてほしいけれど。
 だけどごめんなさい。今はね、他にやらなくちゃいけないことがあるの」

 爆発するように轟いた神域、禁足地、隠世、外宇宙、領域外の神威がデンジの身体から伸びているチェーンのすべてを粉砕した。
 途端に伝う冷や汗。デンジは咄嗟に振り向く、彼はそうしなければならない。
 そうでなければ、マスターであるしおのことさえ守れなくなってしまうからだ。
 しかしその一瞬は、強敵を前にして晒すにはあまりにも大きすぎる隙だった。

「だから、さようなら」
「ガ……!?」

 鍵剣が心臓を貫き、デンジの口からバケツを引っくり返したように吐血が溢れる。
 更に次の瞬間には、彼の手足を触手が四本同時に引きちぎっていた。

「お人形さんみたいね」

 心臓を潰され、手足を引きちぎられて奈落に叩き落されたデンジ
 その時動いたのは、さっきは彼に助けられた黒死牟だった。
 閻魔の切っ先を胸元のエンジンスターターに引っ掛け、そのまま上にかち上げることで再起動させる。

 黒死牟は、デンジの体質について何も知らない。
 だが、元々彼は鬼狩り。鬼殺隊の剣士である。
 刀一本で異能の鬼を相手取るならば、純粋な技や力だけでなく頭脳を回さなければ追い付けない。
 そうでなくとも敵を殺せるのは、継国縁壱のような怪物だけだ。
 胸元から伸びた謎の紐。その先端についた不可思議な取っ手。
 咄嗟の機転でそれを使った。それを見て、しおが落下の風圧の中で声をあげる。

「せいばーさん! らいだーくんに血をあげて!!」
「何…………?」
「血を飲んだら、らいだーくんは生き返れるから……!」
「…………、…………」

 黒死牟とデンジ、更に神戸しおは敵同士である。
 アビゲイルを排除したとして、その時は彼らが改めて敵になるだけだ。
 そう考えれば今この状況は、未来の敵が一体むざむざと死んでくれた格好と呼んでも差し支えない。
 だが、黒死牟の決断に迷いはなかった。

「起きろ………手間を取らせるな、ライダー……」

 かつて。
 上弦の鬼であった頃の彼ならば、また別の意味で迷いはしなかっただろう。
 己は己一人で事足りている。他の誰か/何かを頼るなど軟弱千万。
 侍たる者、上弦の壱たる者、この剣一つで敵を討ってこその黒死牟
 そう信じてアビゲイルのみを見据えていたに違いない――だが、今の彼は違った。

 彼は、あまりにも多くのことを知りすぎた。
 それは燦然と咲き誇る天元の花であり。
 果てしなく高みへ羽ばたく混沌の王であり。
 そして――豪放磊落、あるがままに突っ走る光月の侍であった。

 井の外へと放り投げられ、大海を見て自分を知った黒死牟は今、目の前にある現実を正しく認識している。
 アビゲイル・ウィリアムズ……このサーヴァントは明確に格上だ。
 此処で矜持を優先すれば、自分は何も果たせぬままこの幼子に磨り潰される。
 その事実を確かに認識していたからこそ、黒死牟は自分の頸動脈を閻魔の切っ先で断ち切り血を悪魔憑きの少年へと注いだのだ。

 無論――屈辱はある。
 この自分が、縁壱を越すと誓った己が、身の程を弁えて他者を頼っているという事実に心が焦げる。
 にも関わらず彼はそうした。彼の中の天秤は、悲鳴をあげる自我と彼方にて待つひとつの誓いを天秤にかけて、後者を優先した。
 即ち、幽谷霧子との誓い。
 それを果たせぬ方が自分にとって余程屈辱、尊厳を凌辱される失態であるとそう認識して行動したのである。
 その進歩は言わずもがなあまりに大きく。
 結果として、彼の血を受けた少年は四肢を失った死体から……五体満足、万全な状態の英霊一体として再起を果たした。

「マッズ!!? てめえ侍野郎、どんだけマズい血してんだお前! オエエエエエエ!!」
「切り刻むぞ……貴様………」

 鬼の血。
 それを飲み干した少年は、不快を隠そうともせずに立ち上がった。
 引きちぎられた四肢は既に再生を果たしている。
 これこそが武器人間の特性。通常の死は、彼らにとって永劫を意味しない。
 いや、それどころか――

(なんだこりゃ。何か、自分が自分でなくなったみてえな……)

 悪魔の身体に対して注ぎ込まれた、鬼種の血。
 それは通常の人間の血よりも遥かに強くデンジの霊基に適合していた。
 支配の悪魔を殺す偉業を果たし、チェンソーの悪魔の器として英霊の座に記録された――
 言い換えれば"その時点"で停滞していた、彼の霊基。
 事此処に至ってその根底部分が変動する兆しを感じながら、デンジは自分を救った鬼面を背後から襲う触手の波を引き裂いて鍵剣と打ち合った。

「おい不快男(キモメン)! ……味方でいいんだな!?」
「寝言を、言うな……目の前の状況も、分からぬのか……」
「あーそうかよ。そうだな、俺もムサい男と肩組んで二人三脚とかゴメンだぜ。
 霧子さんには悪いけど、これが終わったらてめえをブッ殺して聖杯戦争を終わらせてやるよ!」

 言わずもがなアビゲイルは圧倒的に格上。
 ともすればカイドウとさえ並び得る出力は、デンジで相手が出来るものでは依然としてないままだ。
 しかし――

「……あら」

 此処でデンジは、持ち堪える。
 全身の筋肉を砕かれながら、それでも狂気のままに立ち続けていた。
 なんという力技。なんという、無茶苦茶。
 アビゲイルの顔に浮かぶわずかな驚き。
 それが消えるよりも早く、彼の鎖が鍵剣を握る彼女の細腕を戒めた。

「ガキがよぉ……! 大人の怖さってもんを教えてやるぜェエエエエ!!」

 ――アビゲイルとデンジの筋力ステータスは本来同格。
 だが霊基が最終に達した今、神の後押しを受けている彼女のそれはもはや額面通りの位階ではない。
 よって拮抗などし得る筈もない、本来なら。
 だというのにデンジがその不可能を可能としている理由は二つあった。

 黒死牟の血という、人間の血とは比べ物にならないほど悪魔のそれに似通った血を取り込んで霊基強化に成功していたこと。
 そしてその上で、不死者という無二のアドバンテージを活かし、死すら恐れない何も顧みることのない無茶で無理やり持ち堪えていたこと。
 敵の数字が額面通りでないのなら、此方もどうにかその段階まで押し上げてしまえばいいとばかりのゴリ押しでデンジはアビゲイルを止めた。
 となれば動くのは当然、彼と今だけは肩を並べて戦う月の剣士に他ならない。

「まあ……」

 【月の呼吸・玖ノ型 降り月・連面】。
 降り注ぐ月輪の刃が、此処で初めてアビゲイルに驚きを抱かせた。
 彼女が美しき星空と称した黒死牟の御業が、巫女の使命を終わらせる凶刃として像を結ぶ。
 デンジとの競り合いに用いていた鍵剣を離して、ステップを踏みながら後退。
 するなり神の魔力を帯びさせた燐光の鍵閃で以ってアビゲイルは降り月を粉砕するが、これを読めない黒死牟ではない。
 彼はこれを見越して、前へと踏み込んでいた。
 そうして繰り出すのは参ノ型。即ち――

「仲が良いのね、ふたりとも」

 【月の呼吸・参ノ型 厭忌月・銷り】。
 放たれた二連の斬撃が、此処で初めてアビゲイルに血を流させる。
 そしてその隙を逃さぬと、デンジが凶相を浮かべながらチェンソーを振り被った。

「でも、私だって負けてないのよ。あの人がもしここにいてくれたなら、きっと笑顔で頷いてくれるはず」

 同時にアビゲイルを囲むのは黒死牟の月輪だ。
 足の踏み場もないとは、まさにこのこと。
 それどころか身じろぎ一つした時点で、たちまち配置された刃が少女の身体を膾切りにする死の結界が構築されている。
 その上で、月の邪魔立てなど物ともせずに不死の電鋸男が襲ってくるのだ。
 これを詰みと言わずしてなんというのか。
 並の英霊であれば確実に詰んでいる、宝具の解放もままならず唐竹割りにされること請け合いの状況がここに完成していた。

 だが――

「あ……!?」

 アビゲイル・ウィリアムズは、断じて並の英霊などではない。

 街角に潜む殺人鬼を、微塵に砕き。
 地獄界の申し子を、一撫でで破壊し。
 手負いとはいえ最強の龍王を、この世から消し去った神の御遣い。
 その力の真髄を、これでもまだデンジ黒死牟は甘く見ていたと言う他なかった。

「んなっ――」

 まさに鎧袖一触。
 アビゲイルが、その鍵を虚空に突き立てる。
 それだけで、彼女の周囲に宇宙現象と見紛うほどのエネルギーが炸裂した。
 カイドウが駆使した月輪破りと理屈は同じ。より上の破壊力をもってしての力押し。
 デンジの全身がその圧倒的な破壊力に耐えきれず、一秒ごとにひしゃげていく。

「痛いでしょう。ごめんなさいね」
「――ぎ、あっ!?」
「でも、あの人も痛かったと思うの。すごく頑張ったのよ」

 アビゲイルの言っていることは意味が取れない。
 というより、整合性の線が通っていないように聞こえる。
 発狂――そんな言葉がこの上なく似合うような、聞いていると魂が揺らいできそうな浮遊感を含んでいた。

 そんな妄言を漏らしながら、アビゲイルはその右手をデンジの体内に潜り込ませた。
 少年の身体が痙攣し、補充したばかりの血が致死的な速度で体外に流出していく。
 同時に走るのは、細胞のひとつひとつが得体の知れない何かに置換されていくような感覚。
 チェンソーの刃を動かしてなんとか抵抗しようとはしているが、まったく意味を成していない。

「う゛ぇえええ゛ェエエエ……! き、気持ち悪ィ……! 何しやがん、だ、この、クソガキがァアアア……!?」
「とても楽しい時間だったの。夢見るような一ヶ月だった……」
「イカれてんのか、てめ、クソッ、なんでオレの周りのガキ、どいつも、こいつも、こんな、何言ってんのか、ガッ……!!」
「私も、空魚さんも、あの人のことを愛しているの。なら」

 宛らそれは、生きたまま早贄にされた昆虫が死を目前にして暴れているような。
 末期の痙攣のような悲惨さと、ある種の滑稽さを帯びた動きだった。

「やっちゃいけないことなんて、ないと思わない?」

 ここね。
 アビゲイルが呟く。
 その小さな手には、デンジの心臓が――
 彼の霊核の中心たる、チェンソーの悪魔の心臓が握られていた。

 デンジが不死なことは分かった。
 だがサーヴァントである以上、完全な不死などあり得ない。
 アビゲイルは狂乱の中にありながらも、そのことを理解している。
 永遠に再生するというのなら、それを可能にする炉心を壊してしまえばいいだけのこと。
 そして今の彼女には、それを可能にするだけの力があった。
 当然このあからさまな隙を、黒死牟は突こうとしてくる。
 月の呼吸。久遠の時を費やして鍛え上げた技術と異能の混合を発現させ、この"巫女"を三枚に卸そうとして――

「めっ、よ」
「…………ッ……!」

 瞬間、全身を串刺しにされた。

 アビゲイルを中心に飛び回っていた異界の虫たち。
 それらが突如として、魔女を貫く槍のように変じて黒死牟へ襲いかかったのだ。
 一瞬にして槍衾と化した黒死牟の肺、喉、気道全般は徹底的に潰されていた。
 黒死牟は鬼であり、彼の技は呼吸よりも血鬼術に比重を置いてはいる。
 だがそれでも、全集中の呼吸を戦闘技術の根幹に置いている以上"呼吸封じ"は変わらず有効。
 アビゲイルは終始圧倒的な戦況を築きながらも、その一方で黒死牟の泣き所を看破していたのである。

「あなたとは後で遊んであげるから。今はそこで、いい子で見ていて?」
「貴、様…………」
「お話したいこともあるの。あなたにはお礼を言わなくちゃいけないから。
 あの時、あの人を助けてくれたこと――あの人はいなくなってしまったし、私はこんなになってしまったけれど、それでも覚えているのよ?」

 封殺。封殺。封殺に次いで更に封殺。
 槍衾の次は触手の肉檻による圧殺が、黒死牟の全身を圧潰させた上で囚われの身に落としていく。
 成長した上弦の壱と、不死のデビルハンター。
 どちらも怪物狩りという一点においては年季を持つふたりでありながら、彼らの強さは児戯のように貶められて砕かれた。

「だから、最後にありがとうを言いたいの。
 そうじゃないと、ちゃんとさよならできないでしょう?」

 ――もはや。
 かつて、透き通る手の女の隣で愛らしく微笑んでいたアビゲイル・ウィリアムズはこの地上のどこにも存在しない。
 ここにいるのは銀の鍵の巫女、邪神の眷属だ。
 女王。混沌。九頭竜新皇。夜桜の龍王。そして白の魔王。
 そうしたごく一部の例外と肩を並べる、"災害"と化したのだと見る者すべてにそう理解させた。

 だが。
 それでも。

 彼女だけはこのあまりにも絶望的な墜落の中で、それでもアビゲイルに言葉を投げかける。


「アビーちゃん……!」


 幽谷霧子。世界が談笑の余裕を持てるくらいには平和だった頃、わずかな間だがアビゲイル達と確かな絆を紡いだアイドルの少女だった。
 最初、霧子も例外でなくアビゲイルの変貌を理解できなかった。
 あまりに破滅的な変容を果たした彼女を、既知の人物だと認識できずにいた。
 だが今は違う。実際にアビゲイルの言葉を聞いた今、霧子は記憶の中の彼女と目の前の巫女とを同じ存在として結び付けられていた。

「霧子さん」

 その手から血飛沫を散らしながら、巫女は偶像に視線を向けた。
 無邪気とは程遠い残虐な所業と、霧子の記憶にあるそれとはかけ離れた異常性。
 けれど霧子の名を呼ぶその声と、どこか不器用な幼さは紛れもなく霧子の覚えている彼女のそれと同じだ。

「こんなこと言っても、信じてもらえないかもしれないけど……私、霧子さん達のことは本当に好きだったわ。
 マスターを助けてくれた、優しい人達。まるで春の日のお日さまみたいに心がぽかぽかして、幸せな気持ちになったこと――こんなになっても忘れられないの。叶うならずっとあの場にいたかった。
 私と、マスターと、皆さんで……ずっと、幸せに、楽しく……」

 その言葉に、何を返せばいいのか分からず霧子は唇を噛むしかなかった。
 彼女がその小さな身体で背負っている、背負わねばならなかった現実があまりにも重すぎたからだ。
 仁科鳥子の不在。アビゲイル・ウィリアムズの変貌。ここでこうして、彼女が立ちはだかっているその理由。
 あの時――皮下真を射殺し、令呪を使ってアビゲイルの名を呼んだ黒髪の女。
 すべての要素が、これ以上ないほど都合よく噛み合って真実を描きあげていた。
 時は戻らない。喪った人は帰らない。少女の祈りは、届かない。

「でもそれは叶わないから、私は"悪い子"になったの。
 だって私は本当に……本当に、あの人のことが好きだったから。
 鳥子さんが大好きな人と一緒にあれるように、私が尽くさなくちゃいけなかったんだから――」
「…………っ」

 アビゲイルにとってあの日々は夢のようだった。
 はじめて見る現代の町並みと、歳上のちょっと大人なお姉さん。
 朝から晩まで家族みたいに過ごす、夢のような一ヶ月だった。

 夢など見ている場合じゃなかったのだと気付いたのは、すべてをなくしたあの時。
 自分は、サーヴァントとして果たすべきことを何も果たせなかった。
 その失意は、彼女を敬虔という蛹から羽化させるのに最適な栄養素となった。
 斯くして、完成された銀の鍵の巫女はここに立っている。
 聖杯戦争を終わらせるための一手を穿ち、今まさに幕引きの神意を振り翳している。

 霧子は、失う痛みを知らないわけではない。
 大勢が死んできた。知っている人も、知らない人も。
 そのたびに痛みがあった。その痛さを知っているからこそ、霧子はアビゲイルへと知った口を利くことができなかった。
 恐ろしげな姿と巨大すぎる力、その陰に隠れた彼女の悲しみと無念が分かってしまったから。

「お友達として、誓って嘘のない善意で忠告するわ。霧子さん、あなたはどうかそこで見ていて。
 あなたには必ず、せめて必ず、苦しみのない――誰よりも救われた死を約束してあげるから」

 アビゲイルの背後で、門が開く。
 デンジの心臓を握り、黒死牟を術中に納めた巫女の真髄が今開帳される。
 お日さまの善意を無視して、かつての恩人の対話を拒否して。
 殺人鬼と龍王を消し去り、美しき肉食獣の命運を零に帰した邪悪の樹(クリフォト)がここに再びその鎌首をもたげる。

「いぐな・いぐな・とぅるふとぅくんが」
「……! 待って……待って、アビーちゃん……! わたし、あなたと――!」

 話をしたい、と。
 未だかけるべき言葉の浮かばない脳裏で、それでもと声を張り上げた霧子。
 しかしアビゲイルは、もうそれに応えてはくれなかった。

 咲き誇る夜桜ならぬ死桜、光り輝く地上の遥か下に生い茂る冒涜の樹。
 世界すら冒す、あらゆる"正常"を穢す、際限を知らない邪神の神威。
 この状況でそれを防ぐ手段は、考えられる限り存在しない。
 二体のサーヴァントはもちろん、霧子もしおも生き延びることは百パーセント不可能だった。

「光殻(クリフォー)――――」

 よって、此処に聖杯戦争はまたその終末の針を早めることになる。
 界聖杯の深層、墜ちるべきところにまで墜ちることもなく。
 霧子が知りたがっていた、界聖杯そのものの意思(ねがい)に辿り着くこともなく。
 物語は終わり、すべてが眠りにつく時が来た。
 神聖なる冒涜の光の中で、霧子はそれでも目を閉じず、穢れた少女に手を伸ばし続けて――


「おねがい、■■■くん」


 その一瞬の中で、途切れ途切れに声が響いた。
 もうひとつの願い。無法の愛に対抗するものは、同じく無法の愛以外にはあり得ない。


 ――神戸しお
 彼女がデンジを最上の形で使うには、都度令呪一画の消費が必要不可欠となる。
 だからこそ彼女は、先の皮下戦でデンジを最大限活用することができなかった。
 死線だと分かっていてもだ。ここでそれを使えば、本当の意味で後がなくなってしまうから。

 だがここで、彼女は覚悟を決める。
 霧子が対話に臨もうとするその裏で、腹を括って最後の一画を輝かせた。

 握られた心臓、誰がどう見たって分かる"詰み"の状況がその行動ひとつで変転する。
 アビゲイルの細腕が弾き飛ばされ、それと同時に初めて巫女の身体から血が迸った。
 驚きに開かれる目。わずかに遅延する、宝具の真名解放。
 その一瞬が――破滅の回避をもたらす、最後の役者の到着を間に合わせる。



「いいいいい――――やあああああああああああ――――――――っっっっ――――――――――――!!!???
 ちょ、ちょちょちょちょ――――!!!! 死――――ぬうううううううううううううううう――――――っ!!????」



 まず響いたのは、気の毒なほど切羽詰まった少女の悲鳴だった。
 「にちかちゃん………!?」と、空を見上げて霧子が叫ぶ。
 だがそれに応じる暇はない。
 白い、怖気立つほど白い男に荷物みたいに担がれた少女はいつの間にか隻腕になっていて、顔色すら悪いにも関わらず、彼女はめちゃくちゃに絶叫しながら涙を流していた。
 それもその筈。壊れゆく世界への特攻、墜落への爆速割り込み、超人どもにとっては大したことないだろう行動もまごうことなき一般人である彼女にとっては絶叫マシンのざっと数倍程度のスリルでお届けされる。

 方舟の生き残りと、方舟を滅ぼした者の呉越同舟という事情を知らない者にしてみればまったくもって意味不明な状況。
 されど、何に憚ることもなく男は嗤っていた。
 彼の到着と共に振るわれる、腕――無形の空すら掴む次元に進化を遂げた滅奏の星の擬造超新星(Imitation)がアビゲイルから溢れようとしていた神威に触れ、それと同時に彼女を殺す崩壊の毒素として逆流する。

「よう。楽しんでんなァ」
「無粋ね。はじめましてだけれど、よく分かるわ。あなたはとっても怖い人。とっても怖くて、おぞましい、悪魔のようなかた」
「ははは。悪魔、悪魔ね……悪くねえが、ちっとばかし陳腐だろそりゃ」

 それは、神と繋がれたアビゲイルでも易々受け入れられるものではない。
 よくて瀕死。最悪ならば、この場で粉々に崩れ落ちる。
 だからこそ彼女は宝具開帳の中断を余儀なくされた。
 そして弱みがあれば、少しでも日和りがあれば……そこに付け込むのが彼ら(ヴィラン)だ。

「――俺は魔王だ。お前は何だ?」
「さあ」
「名前もねえのか。シケたガキだ」

 世界のすべてを置き去りにしながら、魔王と巫女、聖杯戦争の行方を占う雌雄が邂逅した。
 天から落ちてくるのは破壊の五指。犯罪王がその命でもって完成させた、究極の罪(カタストロフ・クライム)。
 地から見上げるのは邪神の鍵剣。地獄界を飲み干して輝く、白銀の鍵(アビゲイル・ウィリアムズ)。

「すべては一人の魔王のために(オール・フォー・ワン)ってなァ――つーわけだからてめえのも全部貰ってくぜ。有り金全部吐き出しな」
「『三銃士』? ふふ、引用するにしてもひどい野蛮ね。なら私は、こう返さなくちゃ」

 崩壊と、神威。
 二つの力が今、墜落する世界の中で最凶の激突を果たす。

「一人は愛し合う二人のために(ワン・フォー・オール)よ。恐ろしい魔王は、愛のために退治しなくちゃね」


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最終更新:2024年03月24日 15:42