……すこし背が伸びたな、とあさひは思った。
喫茶店の片隅、対面の席でパフェに舌鼓を打つ妹は、いつか家を出ていった時と比べてずいぶん変わった風に見える。
別に顔立ちや服装が大きく変わったわけじゃない。
ただ、どこか大人びたというか。そんな気がするのだ。
「そっか。じゃあ、特に不自由はしてないんだな」
「お兄ちゃん心配しすぎだよ。もう何年経ったと思ってるの」
「心配しないわけないだろ。その歳でひとり暮らしなんて、普通おかしいんだからな」
「でもお兄ちゃん、なんだかんだでほっといてくれてるじゃん」
「諦めたし呆れてるんだよ……。お前、何度連れ戻しても隙見て出ていくだろ。ていうかむしろなんで今までどうにかできてるんだ。まさか――」
「だから。べつにヘンなことはしてないって。どろぼうしたり、えっちなことでお金を稼いだりもしてないよ」
「えっ…………、ごほん! お前な……あんまり心臓に悪いこと言うなよ……?」
兄の心配をよそに、妹――
神戸しおはどこ吹く風だ。
それを見てあさひは、もうこの数年でいったい何千回吐いたかわからないため息をつく。
どういうわけかこの妹は、最近やっと中学生になったくらいの年齢であるにも関わらず、信じられないほど自立している。いや、しすぎている。
しおが急に家を出ていった時、神戸家はそれはそれは大騒ぎになった。
そもそもが不安定な暮らしだったのだ。
母はひどく取り乱し、あさひも血眼になって街中を探し回った。
そうしてようやくしおを見つけたかと思えば、あっけらかんとした顔で「これからはひとりで暮らす」とか言い出すものだからもう大変だ。
だけど真に驚くべきは、しおが本当にひとりで大体のことを"なんとかして"みせたことである。
連れ戻しても連れ戻しても聞かないので、いつかあさひ達家族はしおに根負けすることになった。
その結果、しおは中学生になる今年までずっとひとり家族と離れて暮らしている。
書類だとか手続きだとかで必要なときだけ帰ってきて、はんこをもらう。
そういうあまりに歪んだ家族関係が、なんだかんだ今の今までずるずると続いていた。
「お母さん、元気にしてる?」
「ああ。……最近はさ、薬を飲まなくても大丈夫になってきたよ」
「そっか。お父さんは?」
「まだ刑務所の中。お前の言う通りにしたら相当ビビってたから、……まあ出てきてもうちには近付かないだろうな」
「ふふ。ならよかった」
あさひは思う。
いったい、かつて純真無垢だったはずの妹はいつの間にこんな油断も隙もない存在に成長してしまったのか?
考えても考えても答えは出ないが、しかししおは今のところ、自分達家族と距離を取りこそすれど断絶はしないでくれていた。
それどころか、神戸家にとっての呪いだったあの悪魔のような父親は他でもない彼女の助言によって社会から追放されたくらいだ。
要するに神戸家を出たしおが、他でもない神戸家を救ってくれた形になる。
もちろん彼女の助言を聞いたあさひのがんばりもあったのだが、結果だけ見れば、しおの出奔が壊れた家庭を元に戻す役割を担っていた。
「で。次はいつ帰ってくるんだよ」
「んー……次はちょっと先になるかも。私もいろいろ忙しくなるから」
「中学生の台詞じゃないんだよなぁ……!」
「それよりお兄ちゃんも、"お姉さん"とはどうなの。けっこうまんざらでもなさそうだけど」
「うっ……うるさいうるさい。妹に言うことじゃない、ませたことを言うなっ」
「あはは。お兄ちゃんかわいー」
けらけらと笑うしおに、兄は顔を赤くして咳払いをする。
そこでふと、しおは兄のかばんに付いている見慣れないキーホルダーに目を留めた。
……いや、見慣れない、というのは嘘だ。
"見覚えのある"それを指差して、しおは問いかける。
「そのキーホルダー。最近流行ってる映画だっけ」
「ん? ……ああ。そうだよ」
「ちょっと意外。お兄ちゃんってそういうの好きなんだ」
「……うるさいな、悪いか」
「悪いとは言ってないよ。ちょっと意外だっただけ」
「――、なんか。こういうこと言うのは恥ずかしいんだけどな」
あさひは、キーホルダーにちょんと指を触れた。
「こいつ、下品で粗暴で、おまけにわけわかんないことばっかり言うんだよ。
でも……なんかそれ見てると、元気になってくるっていうか……。
俺が悩んでることなんて、すごいちっぽけなことなんだって――そう思えるんだよな」
「ふぅん。その映画もお姉さんと見に行ったんだ?」
「う――うるさい、うるさい……! 関係ないだろお前にはっ」
以前は嫌いですらなかった、ひたすら何の関心もなかった兄。
それが今は、からかいがいのある可愛い人に見える。
何しろあの世界じゃ、結果はどうあれ一度負けてしまった相手なのだ。
無視して軽んじることもできない。かつてそう考えたのは正解だったなと、しおは財布を取り出しながらそう思う。
「……もう行くのか?」
「うん。今日はちょっといろいろあるから」
「いいよ、金なんて。妹に出させるほど困ってない」
「いいの? お兄ちゃんおこづかい制でしょ。後で困っても知らな」
「いいから! お前な、あんまり兄を子ども扱いするなよ……!?」
そういうところが子どもっぽいんだよな。
思いながら、しおは席を立って。
赤と黒の二色コスチュームに身を包み、背中に二振りの刀を背負った、ヒーローと呼ぶにはちょっとケレン味の強すぎる男のキーホルダーを一瞥して……小さく笑った。
◆◆
「――ただいまっ」
そう言いながら扉を開ける。
事務員のお姉さんと軽い挨拶をしつつ、とてとてと奥まで歩いていく。
するとそこでは、紅茶を飲んでいる見知った顔が出迎えてくれた。
「あ……おかえりなさい、しおちゃん……」
「うん、ただいま。にっちーは?」
「にちかちゃんなら……学校帰り、直接事務所(ここ)に寄るって言ってたよ……」
幽谷霧子――
あの聖杯戦争では敵として戦った、アイドルの少女である。
しおはてっきり、敗れた彼女達は
世界の終わりと共に消滅してしまうものだとばかり思っていた。
というより、そう聞かされていた。
だがどうやら、しおの知らないところで何かあったらしく。
霧子と、そして彼女と同じ陣営に属していたひとりの少女も、しおと一緒にこの"新世界"へと運ばれてきた。
「しおちゃんは、今帰り……?」
「うん。お兄ちゃんと会ってたんだ」
「あさひくんと……そっか……ふふ……。それはあさひくんも、うれしいね……」
霧子は、あの頃と何も変わらないように見える。
この世の誰でも安心させる、日向を思わせるようなぽかぽかした人だ。
そして変わらないと言えば、彼女と一緒にこの世界へ流れてきた"もうひとり"もそう。
足音が響いてきて、しおの顔を見るなり「げっ」て声をあげた彼女も、あの頃から何も変わってない。
「――ま~た来てるし。283(うち)はあんたの児童館じゃないんですよ」
「あ。おかえり、にっちー。髪やってー」
「おかえりなさい……にちかちゃん……」
「あ、霧子さんただいまー……って、そうじゃなくて。霧子さんもこの図々しいガキにのほほんと応じてちゃダメですよいい加減っ」
「でも……しおちゃんだし、いいかなって……」
「そうだよ。にっちーのけち」
「なんか当然みたいな顔して入り浸ってますけどこいつ283のアイドルじゃないですからね!? 正真正銘、マジの部外者ですからねーっ!?」
――聖杯戦争が終わって、神戸しおは願いを叶えた。
後から霧子達に聞いて知ったことだが、にちかのサーヴァントが界聖杯に取り入っていたという。
その影響なのか、しおの願いはすぐに叶えられることはなかった。
それどころかあの世界からこの世界へやってきて数年経つ今も、まだ願いは叶っていない。
とはいえ、しおはそこの心配はしていなかった。
愛に時間は関係ない。
それに、自分達の戦った……自分が"彼"と戦ったあの戦いが、ただの茶番だったなどとはとても思えなかったからだ。
自分があの日、界聖杯へと告げた願い事はいつか必ず叶う。
ならば今、自分にできるのはその日を迎えるために少しでも準備を整えておくことだけ。
昔みたいに、ただ守られるだけのお姫様じゃなく。
今度は、守ってあげられる対等の関係になれるように。
しおは、強くなった。
予期せず与えられたその日までの猶予を、一日だって無駄にせずに今日まで生きてきた。
「まったくもう……。ていうか髪くらい自分でやってくださいよ、今年で中学生でしょ」
「んー。できるけど、にっちーがいちばん上手だから」
「はあ、も~~……! ほら、じっとする! あんまり隻腕の人間に雑用任せるもんじゃないですよ!」
「えへへ。おねがいしまーす」
ソファに腰掛けて、後ろのにちかがしおのリボンをほどく。
そして黒髪を、ぶつぶつぼやきながらも丁寧に整えてくれるのだ。
しおはひとりで大体何でもできるようになったが、この世界に来てからも――主に霧子が世話を焼いてくれていたからだろうか。
できないことは人に頼る。力を借りる。相談する、ということを覚えていた。
心の中の"愛"と、それに向かう想いの強さはそのままに、隣人に触れることを知った少女。
それが、世界樹の玉座を射止めた天使の今の姿だった。
『――次のニュースです。都内の病院から、心臓手術の画期的な論文が発表され世界的に話題となっています』
「あ……。この病院って」
にちかが言い、しおも目線を彼女の方に向ける。
霧子は、自分のことのように少し照れくさそうな顔で笑った。
『論文を発表したのは新宿区、皮下医院に在籍する
リップ=トリスタン氏。
トリスタン氏は数年前、自身の手で現在の妻にあたる女性の心臓を手術(オペ)し――』
現在霧子はアイドルとしての活動をする傍ら、学生ながらに病院に出入りして現場で働くための下準備を始めている。
その受け皿となっているのが、今名前の出た皮下医院だ。
要するに彼女の境遇は、あの界聖杯内界でのそれとほぼ同じなのだった。
『――今回発表された論文に関して院長の皮下氏は、かねてより業務提携を結んでいる峰津院財閥とも協力し、トリスタン氏の開発した新療法をいち早く実用段階に持っていきたい意向を示しており……
峰津院大和氏と皮下氏はワイドショーなどで舌戦を繰り広げることも多い犬猿の間柄ですが……』
「うわ。あのろくでなしども、こっちだと真っ当にやってるんですね」
「ふふ……。皮下先生も、リップ先生も……とってもいいお医者さんだよ……」
世界五秒前仮説という考え方がある。
これまでに積み重ねられてきた歴史はすべて単なる設定でしかなく、世界は今から五秒前に誕生した赤子でしかないという理屈だ。
この新世界の成り立ちは、つまるところそんなところ。
神戸しおの願いを軸に界聖杯が新生させた、あらゆる事象世界から隔絶された無謬の新世界。
そこに放り込まれたしお、そして霧子とにちかは――当然のように、この世界の住人としての記憶や立ち位置を用意された状態で転送された。
それもまた、あの聖杯戦争と同じだ。違いは与えられたロールが一時のものか、それともこの先永遠に続いていくかという点だけ。
「そういえばにちかちゃん、レッスンの調子はどう…………?」
「マジ大変ですよ。一応振り付けとか、私用のを作って貰ってるんですけどね。
それでも身体を理由に美琴さんの足引っ張りたくはないですし、結局練習時間も人一倍必要っていうか」
「そっか……次回のライブ、シーズにとってもすごく大事なライブだもんね……気合いいっぱいだ………」
「そりゃもう。相手は真乃さんのイルミネと――"一番星の生まれ変わり"ですから。中途半端な妥協でやり合ったら大恥かいちゃいます」
にちかとそのパートナーによる、シーズ。
櫻木真乃を擁するイルミネーションスターズ。
そして事務所外からの刺客。瞳に星を宿した、最強無敵のアイドル。
建前こそ共演だが、その実態はほぼ対決である。
アイドルとしてようやく芽が出始めたところであるにちかにしてみれば、当然負けられない戦いだ。
そろそろ一発、シーズの名を轟かせておきたい。そんな下克上の野心が彼女の目には燃えていた。
隻腕という、アイドルをするには大きすぎるハンディキャップも……今のにちかは物ともしていなかった。
「……摩美々さんも元気そうでしたね、この前会いましたけど。あの人はやっぱりすごいです」
「ふふ……うん、摩美々ちゃんはいつでもどこでもかっこいいよ……」
283プロダクションは、今も芸能界の頂に向けて日々輝きを増させている。
シーズも、イルミネーションスターズも、そしてもちろんアンティーカもだ。
事務所では気心知れた仲間で友達でも、ステージに立ったら星を奪い合うライバル同士。
彼女達は戦って、分かり合って、強くなる。
いつかの東京で、そうだったように。
「
プロデューサーさんも大変だね。毎日いそがしそう」
「いいんですよ。あの人、仕事が恋人みたいなとこあるし」
それを支えているのが彼女達を市井から拾い上げて見出し、そして磨き上げる"プロデューサー"の献身であるのは言うまでもないことだった。
しおもよく顔を合わせるが、にちかの言う通り、今の仕事が天職なんだろうなとそう感じる人だ。
自分をアイドルに勧誘したことは一度もないあたり、人を見る目もあるのだろうと思う。
実際自分は、大勢のために輝くことをするつもりはないし、向いてもいないと思うから。
「はい。いっちょあがりです」
「わー。ありがとね、にっちー。はいこれ」
「……なんですかこれ?」
「飴ちゃん。喫茶店でもらってきたの」
「相変わらず私のことはちょっと舐めてますよね?」
「あはは。飴ちゃんだけに?」
「うるさ」
鏡で確認すると、やっぱり自分でやるよりうまくできている。
にっちーはすごいなあ、としおは改めてそう感じた。
ばっちり決めなきゃいけない日は彼女に頼むに限る。
そして今日は、まさに自分にとってその日なのだ。
「なんですか? これから誰かとお出かけでもするんです?」
「んー。ちょっと違うかな。会いに行くの」
「会いにって、誰に。さっきあさひくんと会ってきたんじゃ」
「――だいじな人」
「……、……あー。"ついに"ですか?」
「うん! なんとなくね、ぴんと来たんだ。あ、今日だ、って」
そう言ってしおは、純真に微笑んだ。
その微笑みは眩しいが、アイドルとしての輝きではない。
みんなを照らす偶像ではなく、誰かひとりのために磨かれた輝き。
その輝きはステージの上でなく、ひみつのお城の中にこそ似合う。
「……そっか……。いっぱい我慢したね、しおちゃん…………」
「えへへ」
「車には、気をつけてね……いってらっしゃい、がんばって……」
「ありがと!」
手を振って、ぱたぱたと事務所を出ていくしお。
あの世界で出会った時より少し丈の伸びた背中を、かつて方舟を名乗った少女たちは見送って。
「……やっと終わるんですねぇ、聖杯戦争」
「そうだね……でもぜんぜん、昔のことの気がしないや……」
「同感です。あの頃はまさかこうして、あの子に懐かれるなんて想像もできませんでしたけど――人生ってわかんないもんですね、ほんと」
彼女達は顔を見合わせ、やっとやって来た本当の"終わり"を噛みしめるのだった。
終わりといっても、あの時とは違ってこの世界が終わるわけじゃない。
世界は終わらないし、誰が欠けることもないまま。
世界は、これからも穏やかに、それでいてときどき劇的に続いていく。
少女のために造られた、少女のための"方舟"。
終わりを迎えてひとつ変わることがあるとすれば、それは。
今日この日、ある王女の願いが叶うこと。
ただそれだけの非日常がこれからきっと、どこかの街角でひっそり起こる。
アイドルの少女たちは、日常に還った彼女たちは、どちらともなく小さく笑いあった。
それがあの戦いで散ったもの、消えていった世界への何よりの手向けになると信じて。
「――ま、あんまりインモラルな方向に行きそうだったら介入する方向で」
「ふふ………にちかちゃんも、けっこうお姉ちゃんしてるよね………」
「そんなんじゃないですー! にちかは妹で十分です、あんなくそ生意気な妹とかいりませんっ」
綺羅星のような日常を――支え合いながら生きていく。
かつてあの街で、願いを抱いてそうしたように。
◆◆
「う゛~……。ちょっと今回の数学、テスト範囲広すぎませんこと……? 今回という今回こそは私、ダメかもしれませんわ……」
「みー。沙都子はびーびー泣きながら勉強して、なんだかんだ上位に滑り込むのが定番パターンなのですよ。ボクの派閥の子たちは沙都子のことを嫌味な猫さんだと思ってるのです。にゃーにゃー」
「り、梨花が学校の成績を"部活"にしてしまったからでしょう!? そうじゃなかったら私だってもうちょっとラフに片付けてますのよ……!!」
黒髪と金髪の少女ふたりが話す横を、たたたた、と通り過ぎて。
しおは小走りで、どこにいるとも分からない"彼女"を探していた。
ちょっと疲れて足を止めると、ビルの巨大広告が映画の宣伝をしている。
光月立志伝、と題されたその映画はよほどの話題作なのか、最近テレビでも街頭広告でも主演の顔を見ない日がないくらいだ。
ちょんまげにしても奇矯な髪型をした、日本人離れした大柄な男。
義侠の風来坊の肩書で知られ、彼を主役にした架空の大河映画が制作されるほど大人気な主演男優がお決まりのフレーズを叫んでいる。
『煮えてなんぼの! おでんに候~~~!!』
そういえばお兄ちゃん、この映画見たいって言ってたなあ。
意外とこういうヒーローものっぽいのが好きなのかな。
そんなことを思いながら、しおは乱れた息を整えながら今度はゆっくり歩き出した。
「おい、頼むよ~~! 機嫌直してくれって、昨日は本気(マジ)で残業ヤバかったんだって……!!」
「知らない」
「今度の土日で必ず埋め合わせするからさ。な? な~!?」
そばかす顔の、うだつの上がらなそうな青年が恋人らしき女性に平謝りしている。
どこかで会ったような気もしたけれど、たぶん気のせいだろう。
流石に東京は都会だ。こういう痴話喧嘩を見るのも、そう珍しいことではない。
「あ、そうだ……。今日は手料理作ってくれよ、オレ久しぶりに幽華のカレー食べたいな~~!」
「……なんで怒ってる彼女に要求すんのよ。アンタってやっぱりバカよね」
「うぐっ……。い、言われてみれば確かに……」
「――はあ。ほんと私、なんだってこんなヤツと付き合っちゃったのかしら」
女性はため息をついて、すたすたと歩き出した。
一見するとバッドコミュニケーションのように見えるが、しおには分かる。
あれはたぶんむしろグッドコミュニケーションだ。その証拠に、さっきまでより少し足取りが弾んで見える。
「急に会社の呼び出しが、とか言い出したら承知しないわよ」
「……! えっ本気(マジ)!? 許してくれたの!?」
「うるさい黙りなさい。ほら、キビキビ歩かないと置いてくわ」
「りょ、了解(りょ)! あっ、オレカレーは肉ゴロゴロのニンジン抜きな! 分かってると思うけど!」
どっちも大変だなあ。
そう思いつつ、視線を外す。
しおの足取りは次に、繁華街の方へと向かった。
別に理由があったわけじゃない。
そしてそもそも、きっとこの予感は理屈じゃない。
だって、今日は願いが叶う日だから。
何をどうしたって、自分は彼女に会うことができる。
この広い東京の中から、夢にまで見たあの人を見つけ出すことができる。
しおにはその確信があった。
気分はさながら、都会のアリス。
こまごまとした街並み、雑踏の中を、不思議の国を探検するみたいに足を弾ませ進んでいく。
「! ドードー……!? 来た、やっと――」
聞いたことのある声がして、しおはその方向に目を向ける。
するとそこでは、まさに今誰かの人生が壊れようとしていた。
「――あっ」
歩きスマホをしながら歩いていた、冴えない男。
彼の目の前を、明らかにスピード違反と思しきタクシーが通り過ぎていく。
それに驚いた拍子に、男の手からスマートフォンが離れて宙を舞った。
しおからすれば一瞬の出来事だが、男にとっては永遠のようにさえ感じられたことだろう。
スマホは側溝の方へと、真っ逆さまに落ちていく。
男の顔が絶望に染まる中、しかし。
「よっ、と」
通りすがりの青年が、ひょいと手を伸ばしてそれをキャッチした。
力が抜けたように地面へ座り込んでしまった男へ、青年は爽やかな笑顔を浮かべて端末を差し出す。
「歩きスマホは危ないですよ」
「あ……ああ、どうも……。いや、えっと――本当ありがとうございます。……よかった、消えてない……!」
「それ"ズーデン"ですか? ……ってうわ、ドードー! 凄いな――持ってる人初めて見ましたよ。だいぶ入れたんじゃないですか、お金」
「ま、まあ……。でもこれで、ようやく報われました」
ズーデン。ズーロジカルガーデン、だっけ。
クラスの子達が話していた記憶があるし、誘われた記憶もある。
しおはいまいち面白さが分からずすぐやめてしまったが、のめり込むと楽しいものなのだろう。
ゲームかあ。私はソシャゲより、やっぱりコンシューマーゲームの方が好きなんだよな。
そんなことを思いながら、進む足取りを再開しようとして。
今まさに絶望のどん底に落ちようとしていた男を助けた青年と、目が合った。
黒髪の青年だった。アトピーか何かの痕が口元に痛々しく残っているけれど、その顔には影が差していない。
自分に笑顔で片手を挙げた"彼"に、しおも微笑んで片手を挙げた。
たぶん、もう二度と会うことはないだろう。
街角の小さなヒーローと別れて、しおはまた、ひとりになった。
ヴィランのいない街はちょっと退屈で、ついついうたた寝してしまうような、そんなささやかな幸せで溢れている。
◆◆
「じゃ、また明日ね。私はこれからちょっと野暮用あるから」
「ああ。あの小動物くん? しょーこちゃんも趣味わかりやすいよね」
「ち――違うっての! いや、まあ違わないけど……そういうのじゃないからっ! ……まだ……」
「ふふ。まあがんばって。後で結果聞かせてね」
「う゛ー……! 今に見てなさいよ……!!」
◆◆
――友人と別れて、帰路につく。
男漁りをやめてからだいぶ経つけど、やっぱり少し退屈だ。
この世界は、些細な幸せとぬくもりに溢れている。
でも自分にとっては、さほど甘いものじゃなかった。
別に、何が足りないわけでもない。
足りないものは、たぶんないと思う。
両親に先立たれてひとり暮らしではあるけれど、不便を感じたことはない。
お金だってある。バイトもしている。
学業は優等生だ。友達もいる。
なろうと思えばなんでもなれるだろうなと、そう自己評価できるくらいには恵まれていると自負している。
でも、何かが足りない。
心の中にある、ちいさなちいさな瓶の中。
その中に、自分の知らない何かが欠けているとそう分かるのだ。
「……私もそろそろ、彼氏でも作ろうかな」
あいにくとこの渇きは、男を漁っていた頃にも満たされたことはないけれど。
でも親友のあの子みたいに、決まったひとりを作って付き合ってみればまた変わってくるのかもしれない。
少なくとも暇潰し、気休めくらいにはなるだろう。
あの子だって、あの様子じゃじきに例の小動物くんとくっつくことになるだろうし。
そうなったらまた暇な時間が増える――自分探しを始めるには絶好の頃合い、というわけだ。
とりあえず、今日は家に帰ろう。
その前に、久々に叔母の様子でも見てこようか。
小さい頃から変わらずはちゃめちゃな暮らしをしているから、いつ死んだり消えたりしても不思議ではないのだし。
別段あの人が死んでもそんなに悲しまないとは思うけど、それでもいざそうなったら面倒なことはいろいろ思いつく。
これも仕事と割り切って、心の嫌気を黙らせて。
そうして前を向き、歩き出そうとして……
「――――、――――」
私は、"その子"を、見つけた。
道の先に立って、こっちを見ている小さな
シルエット。
初めて出会うはずなのに、何故だかひどく懐かしく感じられる顔。髪色。
天使のようなその顔は、思わず胸が熱くなるほど可愛らしいのに。
それ以上に私を熱くする何かが、私の瓶のちょうど欠けている部分から湧き上がってくるのがわかった。
「あなた、は……」
そうだ――私は。
私は、この子を、知っている。
今まで、どうして忘れていたんだろう。
でも当然だ、出会ったことがないんだから。
"ここでは"、出会ったことがない。
いつか、こことは違うどこかの人生で。
出会って、一緒に暮らして、そして永遠を誓い合った。
私の、私だけの、お姫様。
はじめて"寂しさ"をくれた――私の、天使。
口が、自然と動く。
そして紡ぐのだ。
まだ知らない、知るはずのない、でも知っている、その名前を。
まるで千年の誓いが果たされるような万感の思いを込めて、私は……
「……しおちゃん?」
大好きな人の名前を、呼んでいた。
◆◆
世界は滅んで、誰も元ある場所に帰れはしなかった。
かわりに生まれたのは、王冠を得た王女のための世界。
この世のどことも繋がらない、故に剪定されることもない、理想の方舟。
不思議なことは、もうなにもない。
世界は、変わらない。
社会を変えるヴィランはいない。
願いを叶える戦いは、二度と始まらない。
ここにあるのは、ただささやかな幸せだけだ。
きっと終わらない、エンドロールを知らない世界。
だけどそれが、誰の心を脅かすでもなく。
誰もがそういう風に生き続ける、無謬の箱庭。
宇宙でも時空でもないどこかに漂う、ちいさなちいさなお菓子の瓶。
だからこれも、きっとその例外ではないのだろう。
広い、とても広い街の片隅で。
ただひとつの再会があった。
ただひとつの願いが、叶った。
それだけで、それまでのことだ。
確かなことは、ひとつだけ。
今この瞬間、確かにこの世界は始まり。
最後の"しあわせ"のピースが埋まったのだろう。
地平線は、超えられた。
夜明けはやってきて、人々は皆照らされている。
ここは、天使のための理想郷。
天使の愛のために廻る、ネバーエンドの世界。
◆◆
ネバーエンディングシュガーライフ。
◆◆
最終更新:2024年10月12日 03:07