界聖杯の深層。
最終決戦となった世界の底よりも、更に底。
言うなれば海底とでも言うべきその領域は、紛れもない界聖杯の中枢であった。
故に、そこに存在している"彼女"こそは界聖杯。この世界の主であり、神である絶対意思に他ならない。
空前絶後の宇宙現象。
自然発生した願望器という、珠玉の神秘。
渦水の中に投げ込んだ歯車が偶然時計を形作るような、奇跡の産物。
自己の価値の実現という願いを叶えるために、可能性の器達を招集したすべての元凶。
界聖杯の打倒は叶わなかった。方舟勢力は敗北し、"彼女"を利用することを目論んだ峰津院家の神童も志半ばで命を散らした。
そして先刻、この聖杯戦争の結末は事実上決定した。
フォーリナー・アビゲイルの敗北と消滅。これによる、
紙越空魚のマスター資格喪失。
神殺を完遂したセイバー・
黒死牟は数分と保たずに退去することがもはや半ば確定している。
継続した生存が可能な状態で生き残っているサーヴァントは、一体のみ。
彼を従える少女が自動的に優勝者の座を射止めるのは、時間の問題だった。
であれば界聖杯は、じきに役目を果たして天寿を全うするだけだ。
だがその彼女に、声を投げかけた者がいる。
彼は、もうこの世界から消えた筈の男だった。
「その見た目で呼び捨ては微妙に慣れないな。ライダーさん、って呼んでくれると話しやすいんだが」
星辰界奏者(スフィアブリンガー)。
彼は当初抑止力の尖兵として界聖杯に接触し、本懐果たせず削除された。
されど、そこは付属性特化の極晃星を煌かせる界奏者である。
完全に退去させられる今際の際に、界聖杯そのものへバグを潜り込ますことに成功した。
当初は
NPCであった"偶像"七草にちかと結び付き、界奏を事実上封じられこそしたものの、結果的にすべてのサーヴァントの中で誰よりも深刻に界聖杯を脅かしたといえる。
だが、彼はまたしても本懐を遂げられなかった。
死柄木弔の介入である。
犯罪王モリアーティの手で自己の可能性を爆発させ、四皇ビッグ・マムを下してソルソルの実の能力を継承した白き魔王。
魔王が振るう恐るべき崩壊の力で、星辰界奏者は今度こそ完全に消滅させられた筈だった。
その証拠に七草にちかはマスター資格を失い、今やただ生きているだけの傍観者も同然と化している。
だというのに。何故、その彼が――
アシュレイ・ホライゾンが、今こうして界聖杯と対面を果たしているのか。
「じゃあライダーさん。聞きたいことはいろいろありますけど、まずは一番気になるところから」
「そうだな。君の時間が大丈夫なら、一応質問には答えるさ。今更隠し立てする理由もない」
「あなたは
死柄木弔に殺されて、消滅したものと思ってました。なんでまだここに残ってるんです?」
「その認識は正しいよ。あいつに負けたのは事実だし、今でも痛恨だったと思ってる。マスター達には申し訳が立たないよ」
紙一重の戦いでは、あった。
あとわずかでも死柄木の限界突破が遅ければ、勝敗はまったく逆のものになっていただろう。
そうなれば方舟勢力の勝利はほぼ確実。
界聖杯の存在意義(ゆめ)もまた、阻まれていた可能性が高い。
しかし、そうはならなかった。
だからこそ、優勝者の確定という段階にまで来てしまっているのだ。
アシュレイ・ホライゾンは方舟を守りきれなかった。
それが事実で、まごうことなき現実だった。
「でも、顛末はどうあれ……界奏の起動自体には成功できた。俺は確かに敗北したが、首の皮一枚繋がったんだ」
「……なるほど」
けれどそもそも。
方舟勢力が目標としていたのは、敵連合という勢力への勝利ではない。
彼らが目指していたのは界奏の発動そのものだ。
アシュレイ・ホライゾンの封じられた宝具、『天地宇宙の航海記、描かれるは灰と光の境界線(Calling Sphere Bringer)』。
これを発動することで界聖杯本体に干渉し、書き換えを行って勝者以外を切り捨てるこの世界そのものを変革しようとしていた。
そして――アシュレイは死柄木に敗れこそしたものの、その第一目標自体は達成できていたのである。
とはいえ、すべてを成し遂げるにはあまりにも時間が足りなかった。
当初予定していた規模の干渉など夢のまた夢。
彼に与えられたか細い一瞬の猶予では、如何に新西暦が誇る星辰界奏者といえど……
「過去の焼き直しですか。"また"、あなたは私の中に想定外(ウイルス)を刻み込んだと」
「そういうことだ。我ながら芸がなくて嫌になるけどな」
ただでさえ矮小化していた自分の霊基の更にそのまた一部を、界聖杯の内側に潜行させるくらいがせいぜいだった。
焼き直しと言われたら返す言葉もない。
せめて相手が他のサーヴァントだったならまだ話も別だったろうが、崩壊の異能を持つ死柄木に殺されたのがまずかった。
最後には逆襲劇、星辰滅奏者(スフィアレイザー)の座にまで手をかけていた彼の力は、たとえ極晃奏者であろうと天敵だ。
介入権は最低限。現にアシュレイは何か成し遂げたわけでもなく、こうして界聖杯の意思の前に姿を現すのをせいぜいとしている。
「それで? 負け惜しみを言いに来たってわけじゃなさそうですけど」
「ああ。こんなザマに成り下がりはしたが、まだ俺なりに目指してる結末があってな」
「言っときますが、私は願われた以上のことはしませんしできませんよ。私の命はもうすぐ生まれる優勝者、地平線の彼方に辿り着く彼女のために使うものと決めています。
それに」
ふう、とため息をつく。
それから界聖杯は、七草にちかの顔で見覚えのある笑みを浮かべた。
自虐するような、私なんて、と腐るようなあの顔だ。
「あなたが私にお"願い"しようとしてることも、恐らく期待には応えられません。意地悪じゃなくて、単純に不可能です」
アシュレイ・ホライゾンがここに現れた理由は分かる。
お得意の"交渉"だ。この聖杯戦争で何度も見せてきた、言葉という名の彼最大の武器。
それを翳して、アシュレイは最後の最後に方舟の夢を遂げさせようとしている。
最初に彼女たちへ語ったのに比べればずいぶんと寂しく、それでいて最低限のものにはなってしまったが、それでも。
「私は願いを叶えることだけに特化した〈現象〉ですから。願いを叶えた後のことを補完するだけのリソースは持っていません」
自分のマスターであり、守りきることができなかった七草にちかと。
そして、
幽谷霧子。今生きているこのふたりだけでも逃がせないかと、彼は懇願に来たのだろうと界聖杯は踏んでいる。
だが、その夢すらも叶うことはない。
界聖杯は特化型、役目を終えたらその時点で崩壊を始める願望器。
その点で彼ないし彼女は、平行世界のどこかに存在する月の願望器(ムーンセル)に大きく劣っている。
願いが叶えられた時点で、この世界とそこに残っているすべての"可能性の残骸"は消滅する。
それはアシュレイがどれだけ言葉を重ねようが変わることのない、絶対不変の現実だった。
そんな絶望を、他でもない神自身の口から聞かされたアシュレイ。
灰と光の境界線たる青年はしかし、苦渋の表情など浮かべなかった。
一切その表情を変えることなく、続く言葉を放ったのだ。
「分かってる。だから、ここからが"交渉"だ」
界聖杯が願望器としては不完全な代物であることは、既に分かっていた。
何しろ自身の悲願を灯した盤上に、抑止力の残骸などという不穏分子をみすみす侵入させてしまう体たらくである。
可能性を失った者達を帰さないのも、露悪的な理由ではなく単なる機能リソース上の問題なのだろうと推測も立っていた。
だからこそ、彼女の言葉はアシュレイにとって予想通り。
改めて"そうである"と確認したことで、遂に舞台を降りた交渉人の戦いが幕を開ける。
「おまえは自分の役割を果たすことだけに専念していい。俺に、彼女たちの処遇を任せてもらえないか」
「……と、言いますと?」
「界奏を使って、あの子達に行き場を与える機能を新造する」
「は」
一笑に付す。
その反応は正しい。
だが、アシュレイは真剣だった。
「今のあなたは影にも満たない、単なる亡霊のようなものに過ぎないでしょう?
あなたの知る人物で例えるならば、冥狼(ケルベロス)……星辰滅奏者のしずくにさえ数段劣る。
そんなあなたが一体どうやって、そんな慈善事業じみたことをするって言うんですか?」
「おまえの中には、おまえが消去した星辰界奏者(おれ)のダストデータが残ってる。違うか?」
「それを私が引き上げて、わざわざ授ける理由は?」
「ない。だから頭を下げに来たんだ」
そんな発言を臆面もなくできる辺りは、流石に非凡な才能だと言わざるを得ない。
しかもこの男は伊達や酔狂ではなく、本気で言っているのだ。
そのことはここまでの戦いで彼が取ってきた行動が示し、また物語っている。
「おまえの権限で俺に力を返却するなら、俺がおまえの目的を台無しにする可能性は極限まで排除できる。
少しでも意に沿わない、不都合な行動をしたならその時点で俺から力を剥奪してくれればいい」
「あなたの極晃は、その前提を破壊できる能力でしょ」
「そうだな。けどそれはしないし、もししようとしても上手くはいかないと思う」
「その心は?」
「これだ」
アシュレイが、そのジャケットを大きく開いた。
服の下に隠れていた彼の胴体は、左の脇腹からごっそりと抉られたように欠損している。
もちろん界聖杯が与えた傷ではないし、死柄木から受けたダメージを引き継いでいるにしても傷の形が妙だ。
表舞台を去ったにも関わらず界聖杯(じぶん)の中で生存し続けることが可能で、なおかつ星辰界奏者による界聖杯の現状変更を望まず、物理的に妨害さえする理由がある者といえば……
「……ああ、なるほど。チェンソーの悪魔ですか」
「正直、流石に面食らったよ。会うのは初めてだったが、まさか界奏(おれ)の死に際の悪あがきまで読まれてるとは思わなかった」
神戸しおのライダー・
デンジ。
彼の中に眠っていた、チェンソーの悪魔。
アシュレイと同じく魔王の手によって消し去られた筈の、地獄のヒーローを除いて他にはいない。
不死者と言えば、この界聖杯戦争の中では決して稀有な存在ではない。
だが同じ不死者でも、かの大悪魔と十二鬼月の鬼達とでは不死性の純度が明確に異なる。
チェンソーの悪魔は元々完全な不死者。
何度殺されても、お決まりのエンジン音ひとつで無限に復活してくる地獄の悪夢だ。
サーヴァント化という制約を受けた上で死柄木に消し去られて尚、その存在は完璧に消滅してはいなかったらしい。
会ったこともない星辰界奏者が、この期に及んでまだ自分を呼んだ少女の願いを邪魔立てしないように。
表舞台を去ったチェンソーの悪魔は、界聖杯の内部に潜んでいた。
そして読み通り活動を再開した界奏の前に現れ、今度こそ完全に抹消するべく襲いかかったのだ。
「地上で会わなくてよかった。界奏が全開だったとしても、正攻法で勝てるかは分からなかったろうな」
ただし、さしもの彼も存在規模の弱体化は避けられなかったようだ。
何せ、全盛期の一割以下まで衰えたアシュレイを"終始圧倒する"くらいしか出来なかったのだから。
とはいえそれでも、今のアシュレイ程度なら完膚なきまでに惨殺して世界を蹴り出す程度の力は持っている筈だったが――
「どうやって切り抜けたので? 私の知ってるライダーさんじゃ、どうやってもあの化物に勝てるようには思えませんが」
「契約をした」
「はあ」
悪魔との契約。
それは古今東西、破滅の代名詞である。
悪魔を欺こうとすれば、相手が余程の間抜けでもない限り必ず失敗する。
無知なまま悪魔の甘言に頷けば、一時の栄華の向こうには必ず最悪の結末が待っている。
だがその点、
アシュレイ・ホライゾンがかの悪魔と取り交わした契約はどちらでもなかった。
欺くことはない。
もしも反故にしたならその瞬間、チェンソーの悪魔はすぐにでも飛んできて彼の五体を八つに引き裂くだろう。
そしてアシュレイが欺かれることもない。
彼は自分の持つ強みと相手の持つ強み、その両方を深く理解している。
要するに対等な立場での"交渉"――智謀においても魑魅魍魎のひしめく新西暦を駆け回った、軍事帝国アドラーの交渉人。海洋王(ネプトゥヌス)の本領発揮であった。
「そして俺は、あいつに語った言葉をそのままおまえにも投げかけて希う。と言っても、おまえ相手じゃ流石に対等とは行かなそうだけどな」
「当たり前ですね。今のあなたでは、私が無情を貫いた場合にどうすることもできません」
「それでも語ろう。今の俺にできるのは、この舌を動かすことくらいだから」
チェンソーの悪魔と、海洋王が交わした契約。
それは、
「俺が界奏を使って、優勝者の願いを叶える補佐をする。
その代わり、まだ生きている可能な限りの命を元の世界へ送還してほしい」
界聖杯が定める規定を満たし、じきに戴冠する最後の器。
地平線の彼方への到達者、砂糖少女の愛した天使。
すなわち
神戸しおの願いを、より完全な形で瑕疵なく叶えさせること。
その対価として、自分がこれから界聖杯の絶対意思に接触して交渉を行うのを許すこと。
「必要ありません。あのですねライダーさん、私って聖杯ですよ? 願望器です。願いを叶えるのに誰かの手を借りる必要なんか」
「そうだったら俺の負けだよ。でも、俺が思うにおまえ、そんなに完璧な願望器じゃないだろ」
「ケンカ売ってます?」
「事実だ。
峰津院大和なんかは、薄々気付いてたんじゃないかな」
界聖杯が空前絶後の宇宙現象だというその触れ込みに、恐らく嘘偽りはない。
何百、下手したら何千という数の宇宙から可能性の器を吸い上げて自分の体内で儀式に興じさせた事実。
更には抑止力の尖兵である極晃奏者を完全でないとはいえ退け、事実上抹殺したこと。
これだけの芸当ができる願望器であれば、それこそ叶えられる願いの数を増やせだとか、そういう頓智話みたいな無理難題でもない限りはどんな願いでも成就させることができるだろう。
そこについては、アシュレイも疑っていない。
彼が言っているのは、界聖杯の"願いを叶える機能"以外の部分だ。
「おまえはこの聖杯戦争を運営するに当たって、いくつものミスをやらかしてる。
俺の存在もそうだが、鋼翼のランサー……
ベルゼバブだってそうだ。あれはナシだろ、おまえ
継国縁壱が倒してくれなかったらどうするつもりだったんだ?」
「どうとでもなりますが」
「それに下手したら、俺の中のヘリオスが全部ぶち壊してる可能性だってあった。おまえは何ていうかアレだ、詰めが甘いんだよ」
カイドウやビッグ・マムはその点、実にお利口さんだったといえる。
何故なら彼らはどれだけ強くとも、世界を壊したりなんてしない。
その上でそれができる奴らとも殴り合える、運営視点じゃこれほどありがたい障害もなかっただろう。
だが
ベルゼバブやヘリオスは別だ。彼らは戦いの"ついで"に世界を破壊する。
最悪の場合、界聖杯が直々に介入して事を収める事態になっていた可能性だってある。
「それにずっと聞きたかったんだけどな。おまえ、方舟(あのこたち)の出現は想定外だったんだろ」
「否定はしません。意味分かんないですしね、
NPCまで引っ張って全員で帰ろうとか」
「だからおまえは、万一にでも方舟勢力が主権を握らないように、あえて
シュヴィ・ドーラによるハッキングを許した。違うか?」
「聡いですね。モリアーティ教授の影響でも受けましたー?」
「かもな。なかなかに刺激的な出会いだったよ、あれほど地頭のいい男を俺は一人くらいしか知らん」
界聖杯はアシュレイの詰問を、暗に認めた。
それはつまり、方舟は存在そのものが界聖杯にとって一定の脅威だったというわけだ。
実際に脱出を決行され、聖杯戦争を破綻させられても困るし。
方舟が巨大勢力になって覇権を握り、全員であらぬ方向へ漕ぎ出されても困る。
だから界聖杯は、解析に長けた機凱種とはいえたかだか一サーヴァントからの介入を意図的に許した。
要するに界聖杯はシュヴィに情報を与えることで
皮下真へ働きかけ、方舟への対処に勤しんでいたということ。
「まあ、いざとなれば俺を下した時みたいに……防衛機能やら何やら使って、強引にちゃぶ台返しする方法でも考えてたんだろうが。
おまえの聖杯戦争は、無事に終わりこそしたもののずいぶんと想定外に溢れたものになった。そうだな?」
「何が言いたいんです? そんなだから七草にちか(わたし)に唇尖らせて文句言われるんですよ、赤ペン先生」
「耳が痛い。けどまあ、添削ついでにおまえの欠点をひとつ教えてやる」
では何故、界聖杯はそうまで可能性の器達の制御に難儀していたか?
その理由を、アシュレイは既に理解していた。
「――おまえは、もう少し人の心ってものを勉強したほうがいい」
例えば、人が強さにかける想いは時に常軌を逸する。
例えば、人の絆は時に合理で動かない。
それさえ分かっていれば、界聖杯は光の魔人や方舟勢力の存在を想定することもできただろう。
「そしておまえ、本当に断言できるか? 人の心に疎い自分が、"最後の一人"の願いを完璧に叶えられるって」
「できますよ。別に複雑な願いでもありませんから」
「その台詞が、もう"わかってない"ことの証明だよ」
アシュレイは肩を竦めて言う。
複雑な願いではない、そう言い切られては疑念も確証に変わろうというものだ。
「あの子の願いは"愛"だぞ」
もはや、番狂わせが起きることはない。
最終優勝者はもうすぐ決まる。
そしてそれは間違いなく、愛に焦がれたひとりの少女だ。
この聖杯戦争で最も幼く。
それ故に誰よりも成長した、翼のない天使。
「人の心の中でも最も複雑な感情だ。世界征服や巨万の富なんかより遥かに叶えるのが難しい願いだよ」
「……ふむ。では、ライダーさんが私に仕えて愛とは何ぞやか教えてくれるってことですか?」
「誤解されそうな言い方をするな、その顔でそれは色々と具合が悪い。
……、まあでも、そうだな。うん、おまえよりは俺の方がまだ分かってる自信があるよ。注がれる愛には割と困らない人生を送ってきたからな」
彼女は、普遍的な愛の持ち主ではない。
彼女は、歪みこそを望んでいる。
社会の規範では叶わず、永遠であれるわけもない"愛"。
永遠不変たる、甘き幸福の日々。
その願いに付け焼き刃で手をつければどうなるか、想像するだけでも惨憺だ。
「……話を戻すぞ。とにかく、おまえだって一生に一度の悲願を棒に振りたくはないだろ?
だったら俺を引き上げて使ってくれ。そうすればブチ切れた親御(あくま)さんが此処に怒鳴り込んでくることもない筈だ」
「あなたが裏切らないという保証は?」
「極晃規模の能力だろうと、干渉を試みてきたらおまえだって流石に分かるだろ。
その時はお得意の防衛機能でも何でも使って潰してくれればいい。
ただ、おまえが俺との契約を守ってくれるのなら誓って出過ぎたことはしないさ。
それで目の前のふたりの命まで取り零したら、今度は鬼とか教授とかに追い回されてボコボコにされるだろうし」
極めて複雑で、完璧に叶えすぎてもいけない願い。
少なくとも一般論における健全な愛の形とは、とてもではないが一緒くたにできない砂糖菓子の愛情。
それとひとりで向き合うのは、人の心が分からない願望器では荷が重い。
そこにアシュレイは交渉の糸口を見出した。
「願いを叶えるために必要なリソース……だったな。その部分も俺の界奏で改良し、もう少し柔軟に対応できるよう頭を捻る。
そうすればおまえの存在意義を脅かすことなく、優勝者への戴冠と並行して彼女達の命も救える。win-winだと思わないか」
「まあ、そうですね。特に反論の余地は見当たりませんけど――」
「なら」
「しかしふたつ、私から付け加えさせてください」
界聖杯は、主(にちか)の顔で指を二本立てる。
その一本を、まずは折り曲げた。
「ひとつ。死者の蘇生と
NPCの生還、これはきっぱり諦めてください」
「……できるなら頼みたいと思ってたが。一応理由を聞いても?」
「前者は私が考える"願い"の定義に抵触します。王冠はひとつ、世界樹の王はひとり。これは譲れません。
後者は単純に、私の内界に存在するデータを外に持ち出すことはまず不可能です。できたとしてもリソースの消費が著しいんで。
あなたのマスター……この姿(ガワ)の持ち主の"七草にちか"は本当に、とっても特殊な例だったと考えてもらえると助かります」
完全無欠の大団円は、神直々に否定されたわけだ。
それを悔しく思わないではなかったが、しかし残酷な話、予想していたことではある。
だからこそアシュレイは、苦いものを呑み込んで――頷いた。
「分かった。そこは折れる」
「物分かりがよくて助かります」
「もうひとつはなんだ。勿体ぶらずに言ってくれ」
「七草にちかは優勝者の世界へぺいっと送りつければそれで事足りますが。問題は、
幽谷霧子ですね」
幽谷霧子。厳密には、彼女のサーヴァントはまだ生きている。
だがそれは間違いなく、時間の問題だった。
にちかと、霧子。このふたりこそが、今アシュレイが救おうとしている命である。
「彼女を生かすことは、まあ、星辰界奏者(あなた)の頑張り次第では可能かもしれません。
でも、だとしても。
幽谷霧子が生まれ育った"元の世界"に帰すのは諦めてください」
「……そっちも、理由は」
「同じく、余力がありません。吸い上げるだけなら無作為で済みますが、世界を探り出して戻すのには最初の比でない労力がかかります」
「願いを叶えるのには惜しげなく力を使えるのに、それ以外にはだいぶシビアな印象を受けるな。機能上の問題か?」
「そうですね。詰めが甘いって指摘も、まああまり反論はできません。
何しろ界聖杯(わたし)は願いを叶えるために生まれた現象ですから、それ以外のことはあまり器用にはできないんです。
それに、やはり"余分"の要素に注力するよりも、私は私にとって大切なことに力を使いたいですから」
元の世界には、帰れない。
これがどれほどの痛みになるか、彼女には分からないのだろうとアシュレイは思った。
アイドルにだって、可能性の器にだって親がいる。友人がいる。それをすべて捨てろと言っているのと同じだ。
だが彼女が"それはできない"と強く断言していることについて食い下がれば、次に返ってくるのは交渉自体に対する"否"なのは想像がつく。
であれば――アシュレイがこれに返せる答えは、やはりひとつしかなかった。
「……分かった。それでいい」
交渉とは、基本的には取捨選択の連続である。
こちらが下の立場であるなら尚更のことだ。
交渉のテーブルで欲をかけば、相手は頑なになる。
受け入れさせることのできる条件さえ、彼方に吹っ飛んでしまいかねない。
故にこそアシュレイはここで、霧子の未来を"妥協する"選択をした。
そうでなければ彼女も含めた、ふたりの命が救えないからだ。
歯痒いな、と思った。申し訳ない、と心から思った。
――だが、それに固執して足を止めては交渉人は務まらない。
だからこそアシュレイは、合理的に取捨選択を行った。
一見すると冷酷にさえ見えるだろうその姿勢はしかし、何をおいても掴みたいものを掴むための苦肉の策だ。
「死者の蘇生は諦める。
NPCの生還も諦める。
幽谷霧子の"元の世界"への送還も、妥協する。
その上で問うぞ、界聖杯」
「にちかって呼んでくれてもいいんですよ」
「呼べるか馬鹿。……それさえ受け入れれば、いいんだな?」
方舟の夢は潰えた。
自分は結局、彼女達に残酷な夢を見せてしまったな、とアシュレイはそう思う。
希望を見たまま死んでいった彼女達に、どう顔向けすればいいのか分からない。
だがそれでも、救えるものがまだ残っている。
方舟と呼べるほど大層なものでなくても。
せめて、せめて。
皆が繋いだ希望の欠片を、せめてどこかの未来(さき)へ届けてあげられたのなら――
「――七草にちか、
幽谷霧子のふたりを"優勝者"
神戸しおと共に生還させる。
――その代わりに俺は、おまえがより完璧に役目を遂行できるように助力する。
この契約を呑んでくれるってことで、いいんだな?」
アシュレイの確認に、界聖杯は一瞬沈黙した。
彼の言葉がすべて戯言である可能性は、まだ残っている。
"人の心がわからない"彼女だけは、まだその可能性を信じられるのだ。
界奏を大義に噛ませることのリスクが分からない界聖杯ではない。
最悪の場合、事ここに至って土壇場ですべてをひっくり返される可能性さえある。
この饒舌な星辰界奏者の話を蹴り飛ばす理由が、界聖杯にはまだ残っている。
その上で、彼女はこの聖杯戦争が始まって終わるまでのどの瞬間よりも深く考えた。
考えて、考えて、考えて――そして。
そして……
◆◆
無人の街で、ふたりだけが立っていた。
ひとりは、少女だ。
銀髪の少女。色は白くて、包帯がよく目立つ。
吹けば消えてしまいそうな儚さと、心のやわらかい部分を優しく抱擁してくれるような優しさを宿した少女だった。
そしてもうひとりは、鬼だ。
六つ目の鬼。刀を携えて、今にも空に還りそうな鬼。
その見た目はひどく恐ろしいのに、どこか今はその姿形におぞましさが宿っていない。
幽谷霧子と、
黒死牟。
お日さまと、三日月。
ふたつの天体が人の形をして、対面していた。
「…………見ていたのか」
「はい。見てました…………」
神殺は、成った。
アビゲイル・ウィリアムズは確実に消滅したと断言できる。
黒死牟の手に残る手応えが、それを証言している。
だが結果はどうだ。この有様で、約束を果たしたなどと誰が言える。
少なくとも
黒死牟は、そうも図々しい恥知らずではなかった。
「ならば、気休めは止めろ………私は、お前との誓いを果たせはしなかったのだ…………」
曰く。
蝋の翼を背に太陽へ飛び立った少年は、焦がれ焦がれて地に堕ちたという。
まさに己はそれだと、
黒死牟は自虐でもなく正当にそう自己評価を下していた。
継国縁壱という太陽に手を伸ばし、触れる身の程知らずを冒した凡夫の末路。
彼が極めた技の最終形という奇蹟を、たかだかヒトの延長線で果たそうとした顛末。
当然として肉体は壊れ、魂はひび割れ、じきにこの世界を退去することが確定している。
要するに、優勝者の座は射止められなかったということだ。
そしてそれは、
幽谷霧子と交わした誓いを果たせないことと同義だった。
何故ならこの世界は、王者以外の生存の余地を認めないから。
邪神の巫女という最大の厄災を討ち果たせたところで……その結果、本筋を取り零していては世話もない。
「私は、今に消える……そしてお前も、戴冠に至ることなく………私と同じように、消え失せるのだ…………」
結局、最後までは勝ちきれなかった。
二天一流と果たしあった。
混沌と相見えた。
鬼の王を斬り伏せた。
海の皇帝へ挑んだ。
邪神の巫女を打ち破った。
それでも、届かなかった。
それでも、たかだか世界樹の頂ひとつ獲れなかった。
それが、
黒死牟という悪鬼に用意された現実で。
それが、彼と彼女の誓いの弥終に待っていた結末だった。
だからこそ
黒死牟は、自分を半端と言った。
気休めの言葉など止めろと、自身の要石たる少女に言った。
だが。
それでも。
「ううん……セイバーさんは、私との約束を……守って、くれました…………」
それでも、少女は天晴と剣士を讃えるのだ。
疲労で震える足を、そのか細い身体で押し止めて。
しっかりと二本の足で荒廃した大地を踏みしめながら、そう言うのだ。
「だってわたしも、にちかちゃんも、しおちゃんも……みんな、生きてる……」
「私は――」
「みんなを、助けてくれた……みんなを、守ってくれた……。
そんなセイバーさんのこと……わたしは、すごく……すごく、誇らしいんです……
わたしが戦ったわけでもないのに、わたし……とっても、嬉しくて……自分のことみたいに、誇らしくって……」
その言葉を聞いて、
黒死牟は思わず閉口する。
そして思うのだ、やはりこの少女は可怪しい。
何故、この結果を前にしてそんな言葉が吐けるのか。
そんな、まるで本当に誓いが全うされたかのような言葉が出てくるのか、皆目分からない。
思えば
幽谷霧子という少女は、最初からそうだった。
辻斬りよりもおぞましく、怪物よりも醜いこの鬼(おのれ)を前にして。
一度たりとも怯えた顔を見せず、そうまさにこの顔で笑い続けてきた。
不可解だった。
不気味だった。
不愉快だった――理解ができないから。
「わたしの、サーヴァントが……セイバーさんでよかったって、すごく……そう、思うんです……」
お前は、自分が可愛くはないのか。
自分の命が、惜しくはないのか。
死とは、遺失である。
生きた証、積み重ねたもの、培ったすべて。
それらすべてが、永い年月のすべてが、その瞬間に辿り着くだけですべて零に帰る。無に帰すのだ。
それが、怖くはないのか。
「お前は……死ぬのが、恐ろしくはないのか……?」
「……怖いです、ごめんなさい……」
「ならば」
「でも……」
継国巌勝は、それが堪らなく恐ろしかった。
自分が文字通り血反吐を吐きながら極めてきた技が、すべて消え失せることが怖かった。
だからこそ鬼になった。
恩人の首を捧げ、すべてを棄てて悠久の時を生きることを選んだ。
その果てに何ひとつ、ただひとつとして何かを得ることはなく。
届かぬ技を極め続け、罪を重ね、屍を積み上げて挙げ句選んだ外道さえ全うできずに死に果てた。
「……生きてきたこと、歌ったこと、仲良くしてくれた、みんなとの思い出……」
それを許容できる者の言葉が、理解できなかった。
己が追い求めた、土を噛んででも並び立とうとした男の言葉が気味悪かった。
化物の言葉だとして、噛み締めることもなく嫌悪のままに切り捨てた。
そのことは今も変わらない。
焦熱地獄を超えて常世にまろび出たこの仮初めの肉体が、再びあの無間に還るのだと思うだけで怖気が立つ。
そんな鬼に、少女は、しかし。
「たとえわたしが、ここで消えてしまうとしても……死んでしまうとしても……。
今まで積み重ねてきたこと、がんばってきたこと、好きだったもの……それは、無駄なんかじゃないと思うから……」
あの日の男のようなことを、言った。
「…………………………は…………」
やはり、結論は変わらない。
狂っている。
そうとしか思えない。
英霊の座に上り詰められる技も生涯もない身で、一度きりの死を受け入れるなど。
だがだからこそ、その狂おしさが。
狂おしいまでの輝きが――眩しさが。
今、
黒死牟にひとつの悟りをもたらした。
「結局は、それか……ああ――お前ならばそう言うと、どこかで思ってしまっていた……そんな己の浅ましさに、腹が立つ……」
結局のところ、何も違いなどしなかったのだ。
仮初めの、二度目の生。
そんなもの、ただの言葉の綾だった。
同じだ。自分が人として、心臓一個の人間ひとりとして生きていた時と同じ。
理解することのできない太陽に寄り添い、強く焦がれ、強く焦がれ。
骨肉の焼ける痛みに呻きながら、敵をひたすらに切り捨てていく旅路。
違ったところがあったとすれば、この世界には太陽がふたつあったこと。
かつて自分が追いかけた、近付く者すべて焼き焦がすような雄々しい太陽と。
距離を取ろうとしても勝手に寄り添ってくる、か弱く愚かなやさしい太陽。
ふたつの太陽に照らされ続けた結果、自分でも予想しない、ありもしない形を手に入れてしまった。
……つくづく、なんたる体たらくか。
地獄での永い断罪の日々は、鬼の脳すらも耄碌させるのか。
「幽谷。お前は…………」
「はい……」
「お前達は、何故……そうなのだ……」
人間であれば誰もが持っている醜い部分というものが、彼女達にはまるで見て取れない。
憎しみ。嫉み。恐れ。
自分の命が脅かされてもそれをおくびにも出さない姿が、ひどく不気味だ。
「だから、私は……お前達が、嫌いなのだ……」
結局最後まで、その結論は一度だって変わらなかった。
頼んでもいないのに心の中に入ってきて、煩わしい光で照らしてくる。
外道に再び堕ちようとしても、またその輝きでまとわり付いてくる。
挙句の果てに、自分はまんまとそれに"あてられて"しまった。
鬼が、人間を守るために剣を執るなどとんだお笑い種ではないか。
道を極めるために、妻子を捨てた。
鬼殺に明け暮れた日々の中でさえ、ただの一度も人を守りたくて剣を振るったことなどない。
縁壱という星へ触れるためだけに生涯を使い、だからこそ恩も信頼もたやすく裏切ることができた。
その自分が――、今になって鬼殺隊士の本分を果たすかのように戦ったなど。
自身の死、培ったものの遺失をも顧みずに剣戟を放ち、今まさに朽ち果てようとしているなど。
これがお笑い種でなくて何なのだと、
黒死牟はそう思う。
「わたしは……セイバーさんのこと、好きですよ……」
いっそ恨み言のひとつでも吐きかけてくれたなら、これ以上のことはなかったと言っていい。
しかしこの期に及んでまだ、この少女は臆面もなくこんなことを言ってくるのだ。
「強くて、格好良くて……私のことを、みんなのことを、いつも守ってくれた……やさしいセイバーさんのことが、大好きでした……」
「何を、言っている……。お前の目は、節穴か……?」
優しい。
言うに事欠いて、優しいなどとのたまうのか。
こいつは自分の何を見てきたのだ。
感情のままに剣を振るい、情念を剥き出しにして危険に晒しさえした。
脅かしたことこそ数あれど、優しく宥めたことなど覚えている限り一度としてない。
「セイバーさんは、ずっと……やさしいひと、でしたよ………セイバーさんがいてくれたから、わたし……怖くても、悲しくても、つらくても……いつだって、頑張って来られたんです…………」
『兄上は、この地にてひとつでも、命を殺めましたか』
記憶の中の声が、目の前の娘の声と重なる。
太陽と太陽が重なって、輝きを放つ。
けれど魂を灼くことは、もうない。
「だから……これだけは、伝えたくて……」
ぽふ、という間抜けな感触があった。
少女が、
黒死牟へつたなく抱き着いていた。抱きしめていた。
華奢な身体は、少しでも力を込めれば粉々にできてしまいそうなほど脆いのに。
何故かそれを跳ね除けようという気にならない。
細い腕を、消えゆく
黒死牟の背中に回して。
まるで、今からいなくなってしまう大切な誰かの感触を全身で感じようとしているように。
霧子は、そうしていた。
その上で、彼女は顔を上げる。
うっすらと涙の浮かんだ瞳で、それでも太陽は微笑んでいた。
「ありがとう、ございました…………」
生涯、女の涙に何かを感じたことなどない。
にも関わらず今、その顔は
黒死牟の心胆に重く響いた。
「わたしと、出会ってくれて…………」
はじめから、この娘は不思議だった。
寝台で寝息を立てていれば勝手に首級が増えていくというのに、律儀に夜の徘徊へ付いてくる。
何故だと問い質せば、意味の取れない摩訶不思議な理由を述べてくる。
役に立たないだけでなく、意思の疎通すら十分に取れないまごうことなき"外れ"の要石。
そう、思っていた。
「わたしを、わたしの大切なものを……ずっと、ずうっと守ってくれて…………」
だが今になって振り返れば、どうだ。
この身、この魂は、数百年もの停滞を抜け出した。
技の冴えは、神をも斬り伏せた。
太陽の光にさえ、もはや灼かれることはない。
果たしてこの少女以外に召喚された自分が、この境地まで辿り着くことはできたのか。
その光景が、腹立たしいことに想像できなかった。
だからこそ
黒死牟はここで、とうとう認めざるを得なくなってしまったのだ。
「わたしと一緒に、生きてくれて…………ありがとう、ございました…………」
自分の主となる人間は、この幽谷を除いては他にいなかったのだと。
彼女だから、自分はここまで来られたのだと。
そう気付き、理解し、認めた。
笑顔のまま銀の涙を流す少女に、
黒死牟は茫然と口を開く。
「おい…………泣くな…………」
泣き縋る妻子の姿にさえ何も感じることのなかった脳が、何故だかこの少女の啜り泣く様を拒絶している。
「それは…………、」
自分は何を言おうとしているのだ、と我に返る。
剣を振るい、敵を殺すだけの鬼が背筋の粟立つようなことを言おうとしている。
そう気付いた
黒死牟の逡巡は、しかしまたもらしくない形で幕が引かれることになった。
もはや、残されている時間はほぼない。
じきに己は、この世界を去る。
であれば――
「…………それは……お前には、似合わぬだろう…………」
「…………、……セイバーさん…………」
いいか、と思った。
だから口にした、らしくもない慰めを。
世界の終わりも近いという。
であれば最後は、星でも降るか。
「さめざめと泣きながら舞う芸鼓など………興醒めにも、程があろう…………」
後悔はある。
武士として、娘ひとりとの誓いさえ守れなかったこと。
弟に弥終を唱えておきながら、自分はそこに辿り着けなかったこと。
霧子が何と言おうと
黒死牟にとってそれは情けのないことであったし、呆れ返りそうな体たらくだった。
だが、一方で未練は驚くほどになかった。
まるでそれは、長く続く洞窟を抜けて外へ出たような心地。
闇の中を抜け出して、そうして眺めた青空のような。
そしてそこに佇みこちらを見守る、太陽の光を見上げた時のような――。
そんな数百年ぶりの感慨を、
黒死牟は今際の際で感じていた。
「役に立たぬ、弱き童ならば……囀るだけしか能のない、芸事で生計を立てる娘ならば………せめて、それらしく…………」
この空も、きっと見納めになるだろう。
英霊の座に還り、もし次があったとして。
その時、自分という鬼が再び宿業の超克に到れるとは思えない。
ならば最期に見上げればいいものを、
黒死牟はそれをしなかった。
空よりも、今は――
「……………………………………………………笑っていろ」
この、忌まわしい太陽(おひさま)を見ていたかった。
鬼の身体が、解けていく。
金色の粒子に変わって、空に還っていく。
解けた身体が抱きしめた両腕の隙間を抜け、抱擁もまた解ける。
霧子はそこで、空を見上げた。
剣士の還っていく空を見上げようとした。
でもその前に、まずは服の袖で涙を拭う。
思えば困らせてばかりだった。
いつも、怒らせてばかりだった。
せめて最後くらい、晴れ晴れと彼が去れるように。
もう、お前が嫌いだと言われないように。
涙を拭って、それから改めて――空を見上げた。弥終の空を。
「………………、…………ありがとう…………」
なんて綺麗なのだろう、と思った。
なんてあたたかいんだろう、と思った。
夜にしか生きられない、陽の光を浴びられない。
寂しさを抱いた、小さな焔。
そういう"罰"を受け続けていた彼も、これでもう寒くないだろうか。
そうであってくれればいいなと、霧子は思う。
彼が犯した罪も奪った命も、決して消えることはないかもしれない。
それでも――自分の見てきた彼は、本当にがんばっていたから。
いつもがんばって、自分達のことを守ってくれていたから。
そんな彼に、そのくらいのご褒美があってもいいと霧子は信じる。
「さようなら…………! …………セイバーさん…………!!」
響いてく、彼方へと。
少女の声は、いつまでも響いていた。
ありったけの微笑みで、感謝という花束を空へ届ける。
そんな少女の前には、地面に刺さった一振りの刀だけが残されていた。
それだけが、
幽谷霧子のサーヴァントの。
彼女をいつも助けてくれた、ある無愛想な剣士の生きていた、たったひとつの証だった。
【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃 消滅】
◆◆
『…………そっか…………』
『あなたは………界聖杯、さんは…………』
『あなたは、ただ…………』
『何かに、なりたかったんですね…………』
◆◆
「いいですよ」
界聖杯は、アシュレイの確認にそう答えていた。
受ける意味のない、リスクの方が大きな話だ。
だが、確かに心の分からない自分が歪んだ愛の成就という願いを叶えられるのか、という指摘には一理ある。
だからこそ、界聖杯はそれを重く評価した。
界奏と契約し、自分という物語の結末をより欠陥のないものにするべく保険をかけたのだ。
「じゃあ契約しましょう。その代わり、あなたが反故にする素振りを確認したらすぐさま全消ししてやるのでそのつもりで」
「……ああ、それで構わない。けどやけに素直だな、正直もう少し嫌がってくると思ってたよ」
「耳の痛い指摘をされましたからね。やり直しの利くことでもありませんし、まあ悪くない話だと思っただけですよ」
「――本当に、それだけか?」
「はい。それだけです」
最後の逡巡の時、界聖杯の意思の内側によみがえってきた声があった。
自分との対話などという奇特なことを求めてきた、今現在も理解のできない少女の声だ。
彼女に恨まれる筋合いこそあれど、それ以外の感情を向けられる理由など一切ない自分に対して。
まるで"よかった"とでも言わんばかりの顔をし、微笑んできた少女。
呆気に取られるとは、まさにあのときのことを指すのだろうと界聖杯は振り返る。
未知づくしの聖杯戦争になってしまったが、まさかあんな形でまで想定外を味わされることになるとは思わなかった。
アシュレイの言う通り、自分のこの判断はきっと"らしくない"のだ。
まるで、願いを完璧に叶えるという用意された建前に都合よく乗っかったみたい。
他者と通じ合うことなどなく、分かり合うことなど求めたこともない――そんな自分の世界に、ただひとり現れた未知。
その微笑みに、まるで報いるみたいな。
そんなことをするのは、間違いなくらしくない。
要するにバグのようなものなのであろうと、界聖杯はそう片付ける。
自分の陥穽を星辰界奏者なんて油断ならない相手に漏らすほど、彼女は愚かではなかった。
だからこの小さな小さな違和感は、データの奥底に隠したまま彼の手を取る。
ちょうど今……、"彼女"のサーヴァントである剣の鬼が消滅した。
残るサーヴァントは一体。優勝者が、決定された。
「戴冠です。〈世界樹の王〉は、今決定されました」
そう、契約相手となった青年に告げつつ。
界聖杯は内心、呆れたようにため息をついた。
――ああ、聖杯戦争が今終わってよかった。
これ以上は、自分までおかしくなっていたかもしれない。
やり遂げたにも関わらず、奇妙な敗北感をさえ覚えながら。
全能の願望器たる彼女は、最後の最後に小さな方舟を作ることを赦したのだった。
◆◆
夢を見ていた。
夢、だと思う。
だってこんなの、現実だったらありえないし。
そう思いながら、七草にちかは目の前に立っている男を見つめる。
「……久しぶり、マスター」
「あれ。もしかして私、死にました?」
「いいや生きてるよ。怪我はひどいけど致命傷じゃない。起きたらちょっとのたうち回るくらいで済むだろうさ」
のたうち回るのかあ……。
にちかは嘆息する。
「生きてるなら、なんで今更会いにきたんですか。遅いでしょ、どう考えても」
「……すまない。本当に悪かったと思ってるよ」
「あーもう、本当に申し訳無さそうにしないでくださいよ。なんだか悪いことしてるみたいな気になるでしょ。
一月も一緒にいたんだから、その……ちょっとは察してくださいよ。よく知ってるでしょ、私がどういう人間なのかなんて」
そう、別にこんなことが言いたいわけじゃないのだ。
恨み言なんて、本気で言っているわけじゃない。
それをいちいち説明するなんて、これほど恥ずかしいこともないだろう。
そのくらい察してほしいものである。にちかは顔を少し赤らめながら、ぶつぶつ呟いた。
そんな彼女に、"彼"――
アシュレイ・ホライゾンは小さく苦笑して。
「ああ。よく知ってる」
「……ばか。甲斐性なし」
「それはちょっと意味合いが変わってくるからやめてくれ」
そんな、いつも通りの会話を交わした。
でも、にちかは知っている。
アシュレイ・ホライゾンは消滅した、その筈だ。
ではこれはやっぱり夢なのか。
その疑問を察してか、アシュレイが言う。
「伝えなきゃならないことがあるから、無理を言ってマスターの意識に割り込んだんだ。
……後、あんな別れ方だったからな。最後にせめて、謝罪がしたかった」
「いいですよ、謝罪なんて。……別にライダーさんが悪いんじゃないですし。全部あの王様野郎が悪いんです」
「いや、言わせてくれ……不甲斐ないサーヴァントでごめん、にちか。
俺があの時敗れなければ、方舟は出港できてたんだ。守れた命も、もっとあった」
この人も大概不便なやつだな、とにちかは辟易する。
謝らなくていいって言ってるんだからそれに甘えればいいのに、わざわざ頭を下げたがるなんて。
「じゃあ、"ごめん"はもうそれでおしまいにしてください。
謝るなら私じゃなくて、あっちに行っちゃった摩美々さん達にってことで」
「……そうだな、ありがとう。なんていうか――どの口で言うんだ、って話なんだが」
「なんです?」
「大きくなったな、マスター。少し見ない間に、すごく成長した気がする」
「どの口で言うんですか」
唇を尖らせるにちかに、アシュレイはまた苦笑して。
「本当に苦労をかけたし、迷惑をかけた。
埋め合わせることもできない失態だったが……、さっきも言った通り、伝えなきゃいけないことがある。聖杯戦争のこの先についてだ」
「……いいですよ。話してください」
「さっき、霧子さんのセイバーが消滅した」
「…………そうですか。あーあ、じゃあこれで方舟(わたしたち)はいよいよ本当に終わりってことですね?」
……動揺は、不思議となかった。
元よりサーヴァントを失って、魔王に気まぐれで生かしてもらってたようなものだ。
のらりくらり伸ばしていた終わりが、遅れて今やってきたというだけ。
何なら、死への恐怖よりも霧子が可哀想だという感想の方が強かった。
方舟の物語は、今度こそこれで終わり。
誰も彼も、願いを叶えるついでに燃やされてさよならだ。
そうとばかり思っていたのだが、アシュレイの続く台詞は予想だにしないものだった。
「いいや、違う。界聖杯が、マスターと霧子さんを生きて帰すことに同意した」
「……、……え?」
「俺が界奏を使って、優勝者の願いを叶えるのを助力する。その過程で器ふたつの脱落によるリソース不足をどうにか調整する。
正直手探りだし博打だが、威信にかけて上手くやるよ。だからもう安心していい。君達が死ぬことは、もうないんだ」
「え? ……え、え? なんですか、それ――それじゃ、私達……」
「そうだ。助かるんだ、ふたりとも」
へたり、とにちかはその場に座り込む。
身体に力が入らないし、何なら腰も抜けていた。
「意味、わかんない……急に、どんでん返しするの……やめてくださいよ、せっかく――せっかく今、覚悟決めてたのに……」
死ぬのは怖くない。
そう思っていたはずだったけれど、それがやせ我慢だったとすぐさま思い知らされる。
もうどうしようもない状況になったから、脳が本能を麻痺させて誤魔化していただけだったらしい。
その証拠にみっともなくへたり込んで、目からはぼろぼろ涙が溢れてくる。
そんなにちかに、アシュレイは屈み込んで視線を合わせた。
子どもみたいだな、と思って恥ずかしくなったけれど、今はそれを抗議する余裕もない。
「生きてくれ、にちか」
「……ぅ、うぅうぅうう……」
「にちかは、幸せになるんだ」
七草にちかは、もう籠の中の鳥じゃない。
にちかは、幸せになれる。
世界が、それを赦した。
「行かないで、ください……」
にちかは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、アシュレイにそう願う。
「最後まで、一緒にいてよ……
ライダーさん、負けちゃったから……お別れできなかったんだから、せめて――」
「ごめんな」
それはできないと、アシュレイは静かに首を横に振る。
世界の終わりはもうすぐ来る。
海洋王は、彼女達を守るための最後の戦いに臨まなければならない。
現実をねじ伏せ、
ルールを書き換えるための戦いだ。
彼にとってはこの先こそが大一番。
だからこそ、少女の切なる願いに応えることはどうしてもできなかった。
「結局、俺は何もできなかった。夢を見せるだけ見せて、最後になんとかひと握りの希望を繋げただけだ。
そんな俺だけど……楽しかったよ。マスターと過ごした時間は、大変だったけど楽しかった。誓って本心だ」
「ぐす、えぐ……っ、そんなことない……! 何もできなかったなんて、そんなこと……っ、ないもん……!!」
ぽかぽかと、アシュレイの身体を力なく叩いて。
「助けてくれたでしょ、ずっと……! 私、めんどくさいことばっかり、言って……振り回して、ばっかりだった、のにっ……!
ライダーさん、ずっと、私と一緒にいてくれた……! そんな人が、何もできなかったとか……そんな寂しいこと、言わないで……!!」
「……マスター」
泣きじゃくる少女の背を、優しく擦る。
できなかったお別れを、彼と彼女は今していた。
「大丈夫だ。にちかは、きっと大丈夫」
「……ぅ、ううううッ」
「にちかなら、アイドルでもそれ以外でも……何にだってなれるさ。
君のそれはもう、太陽に近付けば溶け落ちる蝋の翼なんかじゃない。
どこへだって、どこまでだって飛んでいける、立派な翼がついてる」
どこに出しても恥ずかしくない、強くて可愛い輝くアイドル。
にちかがそうなったことを、アシュレイは肯定する。
本当に、見違えるほど大きく、そして強くなった。
これならもう、どこにだって行けるはずだ。
「君の未来は、誰より素敵な女の子だ」
夢の終わりに、世界が白く染まっていく。
最後ににちかは、微笑む青年の顔を確かに見た。
見て、焼き付けて、手を握った。
それは、かつて石ころだった少女にとっての幼年期の終わりで。
羽ばたき始めた"偶像"への、何よりの祝福だった。
◆◆
【聖杯戦争 終了】
【世界樹の王 戴冠】
【地平聖杯戦争、優勝者――――神戸しお】
◆◆
戦いは終わり。
そして今、女は銃口を向けていた。
世界最後の交渉の席で、唯一名前のあがらなかった女だ。
星辰界奏者は彼女の存在を知りながら、その名を口にはしなかった。
他ならない彼女自身が、それを望んでいないから。
その先に立つのは、王冠を被った天使。
戴冠へと至った、世界樹の王に他ならない。
鬼が、天使を射止めるために玉座の前へと立っている。
結果など見え透いた、何がどう転んでも、世界の何事も変えることのない小さな戦いが――滅んだ街の片隅、瓦礫の大地で静かに幕開けようとしていた。
最終更新:2024年03月24日 15:56