…走馬灯か、と思った。
記憶ははっきりと残っているのに痛みがない。
張り裂けるような激痛も突き抜けるような鈍痛も全てが無縁の境地。
そこに、おれは。
光月おでんは、居た。
「…なんだ此処は」
川のせせらぎが聞こえる。
肌を撫ぜる風は春の爽やかさだ。
そろそろ桜も見頃かと思った矢先、広げた掌にひとひらの花弁が降ってくる。
気が利くじゃねえかと一笑して辺りを見回せば、そこが住み慣れた城であることを思い出した。
愛した民に指差し笑われていた頃。
国の恥と化したバカ殿をそれでも無償の愛情で受け入れ支えてくれた安息の場所だ。
一時とはいえ忘れるとは大黒柱の名折れ。
思わず自嘲の笑みがこぼれた。
とはいえ手前の土地と分かれば自然と羽も伸びる。
縁側から足を投げ出して、桜舞う春の景色に浸るおれの横に。
忘れるべくもない聞き慣れた足音を立てながらやってきた“誰か”が座った。
いちいちその顔を見やることはしない。
そんな野暮な真似したくたって、おれにはこいつが誰だか分かる。
「久しぶりだな」
「私の台詞です」
くすくすという笑い声が耳に心地良い。
釜茹でにされている時も、命失うその時も…あの世界に降り立って仮初の日常を過ごしている間とて。
片時たりとも忘れたことのない声、そして匂い。
「思えばお前のことは振り回してばかりだったな。正直な所、愛想を尽かされても仕方のない不義理ばかり働いてきたと思うんだが」
「前に言った筈よ? 次にそれ言ったらひっぱたくって」
そう言って笑う姿も…紛れもなくおれの記憶の中にあるままだ。
光月トキ。
お世辞にも良き夫ではなかったおれに最後まで快く尽くしてくれた妻。
美しく、そして賢い女だった。
虫の一匹も殺せない程か弱い癖をして、海の男もたじたじにしてしまうような気の強さを持っていた。
侍たるものとして。
そして海賊として海に出たものとして。
畳の上で死ねるだなどと高望みする気はなかったが、それでもおれはこいつに看取られて死ぬんだろうと漠然とそう思っていた。
…結局それは叶わず、おれはトキが“
光月おでん”亡き世をどう生きたのかすら知らない体たらくなんだが。
「まさかお前が迎えに来てくれるとはな。あの世の仏さんも気が利くじゃねェか」
ああそうだ──実に気が利いている。
天使だの偉そうな法師だの送ってくるより遥かにマシだ。
欲を言えばおれが責任を負わせちまったあいつらや、大成を見届けてやれなかった子供達にも会ってみたかったが。
…、……。
「なあ、トキよ」
光月おでんはバカ殿だ。
好き勝手やった末に死んだのだ。
家族残して行き着いた先は畳どころか煮えたぎる釜の底だ。
そんな男にはぴったりの称号だろうとそう思う。
そんでもっておれという大馬鹿者は、上に立つ者としてどころか──親としてもバカ親だった。
「モモと日和は…立派にやってるか?」
「もちろん。二人ともとても立派になってくれたわ」
私はそれを見届けられませんでしたが。
そう言っておれの妻は寂しそうに笑った。
伊達に長年夫婦をやってない。
その表情だけで、おれはすべてを理解した。
時を超える力があるのだと…こいつは過去におれへそう告げたことがある。
ならば、そうしたのだろう。
あの時代。おれが死んだ後のワノ国に奴らを倒せる備えは無かったから。
だから──託したのだろう。
時を超えた遥か先の未来へ。
ワノ国が滅ぶか否かの瀬戸際のその時空まで。
己の命をすら顧みず、おれの遺志を繋げてくれたのだと分かった。
「すまん。お前に重荷を背負わしちまった」
「謝らないで。あなたが逃がし、私が送った──そのおかげであの子達はやり遂げたのだから」
父(おれ)は逃がすだけが精一杯だった。
そして母(トキ)はその精一杯を、身を粉にして次へと繋げてくれた。
…赤鞘の侍達。
生きてる頃は時にうんざりもしたが、他に代えなど効くわけもないおれの自慢の侍ども。
そしてモモの助と日和。
おれとトキの間に生まれた二人の子。
もしかしたら全員を逃がせたわけではないかもしれない。
しかしそれでも、おれ達の想いは未来で実った。
オロチの野望は打ち倒され。
カイドウの君臨は打ち砕かれた。
ワノ国は──救われたのだ。
「色々…本当に色々あってな。"本人"から聞いたよ、ワノ国が誰に救われたのか」
「まぁ。
カイドウの吠え面なら私も見たかったわ」
「バカ言え、あの野郎更に強さに磨きをかけてやがったぞ。負けてショボくれてたらまだ可愛げもあったのによ」
麦わら帽子を被った海賊だったと。
カイドウはおれにそう言った。
何処の誰だかは分からない。
だけどあの時代、あの海を馳せたおれには断言できる。
そいつは間違いなく──海賊王になる器だと。
じゃなきゃあり得ねェ、そんな偶然は起こり得ねェ。
麦わら帽子を被った海賊が…海の向こうからワノ国にやって来て
カイドウを倒すだなんて。
あの海に限ってそんな事はあり得ねェんだ。
あぁクソ。聖杯に願いたい事が一つ出来ちまったな。
そいつの顔を、一目だけでも拝んでみたかった。
「私達の国は救われました」
彼方を見つめてトキは言う。
その視線を追えば、その先の何処にもオロチが造らせた武器工場や荒れた禿山の姿はなく。
おれが物心ついた頃から駆け回ってきたあの頃のままの雄大な自然が広がっていた。
「私達の子は大きくなりました。私達親が身を案じずとも、あの二人なら立派に生きていけるでしょう」
「…あぁ。実際に見たわけじゃねェのによ……なんでだろうな。おれもそう思う」
おれの子で、お前の子だからかなァ。
そう言っておれは笑った。
強く生きていけるだろう、あの二人なら。
ワノ国に立ち込めた分厚い暗雲を晴らす事が出来たんだ、ならばもう一人前の侍と大和撫子さ。
おうそうだ──悔いはない。
死人が胃を痛めて案じなきゃならない程、おれの愛したワノ国は。
おれの愛した息子が継いだワノ国は弱くはないだろうから。
これでいつでも極楽なり地獄なりに迎えるってもんだった。
「けれど…あなたにはまだやらねばならない事が残っている。そうでしょう?」
「あー、それなんだが…悪いなトキ。おれはもう負けちまったんだ。分かるんだよ、おれの体はもう死んじまってるって」
自分の胸に手を当てる。
やっぱり鼓動はしなかった。
「
カイドウを倒したかった。おれとしても、アイツとの決着は消化不良だったから…」
界聖杯に招かれた意味。
それは
カイドウとの再戦を果たす事だと確信した。
奴を今度こそこの手この剣で討ち果たす事、それをおれは求められているのだと。
だがおれは、負けた。
カイドウは強かった。
アイツはおれの知る
カイドウでは最早なかった。
力も、速度も、タフさも精神性も。
何もかもが別物に変わっていた。
百回やれば百回負ける相手だとそう思った。
「界聖杯にはよ…色んな奴が居た。弱ェのに呆れる程まっすぐ未来へ突き進んでる奴、おれが剣で歯牙にもかけられなかった奴。ガキの癖して阿呆みたいにデカい理想を描いてる奴、兄貴だってのに色々拗らせまくってる面倒臭い侍、お天道様みたいにポカポカしてる奴。本当に色んな奴が居た」
不甲斐ないとは自覚している。
おれを信じてくれた奴らに顔向けできないとも思っている。
だけど不思議とこの胸に不安はなかった。
アイツらならきっと
カイドウを倒せると。
界聖杯を巡って暴れる無法者(バカども)に勝てるとそう思えたから。
「おれは死んだ。だけどアイツらはまだ生きてる」
止めなきゃならない奴。
もっと仲良くなりたかった奴、色々居る。
それでも。
「──アイツらなら、きっと大丈夫だ」
奴らの進んだ先にはきっと未来がある。
奴らならきっとやれる筈だ。
そう確信したからこそ、おれは笑ってそう応えた。
「あなたは。それで良いのですか」
「…何?」
「それで良いのかと、トキは問うているのよ」
…この声色におれは覚えがあった。
何度かやらかした夫婦喧嘩の時の声だ。
おれでさえ慄き、侍どもさえ凍りつく気迫。
笑顔のままおれに言葉を吐くトキは、明らかに怒っていた。
「逆に問いましょう。あなたはたかだか心の臓が止まった程度で潔く歩みを止める男だった?
私が…この光月トキが愛した女は、そんな掃いて捨てるほど居るような常識人だったかしら」
おれは何も言えない。
今のおれは叱られた子供そのものだった。
情けないとか思う余裕すらない。
ただ、隣に座るトキの言葉を受け止めるしかなかった。
「もしもそうだと言うのなら、私は妻として心を鬼にしてこう言います」
…一瞬、沈黙。
「腑抜けている場合か──
光月おでん」
真実、冷や水を心臓に直接打ち付けられた心地だった。
鼓動を刻むのを止めた心臓が痛みをおれの脳まで伝えてくる。
「誓ったんでしょう。見極めると」
──、ああ。
そうだ。
おれは確かにそう誓った。
おれが生涯唯一剣を習った男に。
「腹に決めたんでしょう。必ずや討つと」
アイツはおれの宿命で…宿業だ。
百獣の
カイドウ。
おれが討てなかった怪物。
アイツはおれとの再戦に全てを懸けていた。
その上でおれと競り合い、そして勝った。
「悔しくはないの? 宿敵に打ち据えられ、打ち棄てられて」
「──悔しいぜ。悔しくない訳ねェだろうが」
気付けば口から言葉が溢れていた。
それはワノ国を背負い立つ者としての言葉ではない。
純粋に我が身一つで無頼漢を気取った武士としての言葉だ。
いや、もっと直球。
裸一貫でこの世に生まれ落ち…その足で千里を踏破した男児としての本音だった。
「勝つ気だったんだ。本気で…おれは奴を討ち取る気で剣を振るってた」
その上で負けた。
光月おでんとして積み上げた全てを注いで。
想いも技も全てを載せて挑んだ。
その上で…負けたのだ、おれは。
これで悔しいと思わない男が居るのだとしたら玉無しだろう。
おれは男だ。
ワノ国で生まれ育った男児だ。
だからこうしている今も、実は心が焼け焦げそうなほどに強くその感情を噛み締めている。
──悔しい。
勝ちたかった、勝てなかった。
おれはこのまま死ぬのか。
相変わらず最後の戦いは勝てずじまいのまま…安らかに天へ召されて消えるのか。
「
カイドウはまだ生きているわ」
トキの言葉が耳朶を揺らす。
「
カイドウは強い。界聖杯という“万能の願望器”を争奪するに当たって、間違いなく最大の脅威になるはず」
ワノ国に巣食った怪物。
奴は死を超えてこの“和の国”に現れた。
アレは聖杯を手に入れるまで、おれが好きになったこの街と此処に暮らす人間を平らげ続けるだろう。
そしてこの世界で明日に向かってあがき続ける奴らを脅かし続ける。
それを止めるつもりで立ち塞がり、そして負けた。
光月おでんは敗者として此処に居る。
穏やかな春の走馬灯を浴びている。
「トキ。おれァ…勝てるかな」
「勝つも負けるも、生きるも死ぬも分からない喧嘩を意気揚々と笑って受けて立つのがあなたでしょう?」
「──わはは! そうか、そうだな! 流石はおれの女房。手前の旦那の事をよく分かってやがる!」
人生も喧嘩も投げられた賽子。
丁か半かは回転が止まるまで分からない。
負けを憂いて賽を投げる事を躊躇うなぞ、あぁ確かに全く以ってらしくない。
らしくないじゃねェか――
光月おでん。
「負けて死ぬならおれもそれまで。勝って繋げりゃ万々歳。そいつが武士の…侍の生き様ってもんだよな」
「ふふ。やっとらしい顔になったわね、おでんさん」
いつから忘れていたのだろう。
大名なんてものになってからか。
それともこの世界で風来坊をしている内にボケちまってたのか。
それとも…思いの外あの完敗が堪えたか?
いや──違うな。
おれの中に驕りが生まれちまったんだ。
カイドウからワノ国の行く末について聞かされて。
死で分かたれた女房とこうしてまた肩を並べて語らって。
おれは何処かで満足していた。
光月おでんが歩みを止めてもいい理由を与えられて、だからこそこの走馬灯の中でトキに叱咤を食らっちまった。
考えてみれば実に情けない、らしくない。
天下の
光月おでんが己の今際を潔く受け入れて訳知り顔で死んでいくなどあり得るものか!
「おれは生きて界聖杯から帰る気はない。死人は死人らしく、トキ…お前の居る浄土に向かうつもりだ」
アイツらも、今更おれに帰ってこられても困るだろうしな。
そう言って祖国を想いおれは笑う。
死人の骸は土に還って魂は彼岸を渡る。
そいつがこの世の道理だ。
それを曲げてまで再び祖国の土を踏み、世に蔓延ろうなんて浅ましい事はしたくない。
「だからよ。もうちっとだけ此処で待っててくれねェか」
「…その言葉を、私はずっと待っていたの」
「待たせちまって悪いな。お前のお陰でよ、おれの魂にようやく火が点いてくれたぜ」
──どうやら現世にはまだおれの席が残されているらしい。
ならば今は名残惜しい気持ちを振り切って、再びあの乱世へと舞い戻ろう。
その結果勝とうが負けようが、今度はいつもの笑顔とおでん節でこの縁側に帰って来られるように。
おれはゆっくりとトキの隣から立ち上がった。
踵を返して歩き出す前に一度止まる。
だが二度とは振り返らない。
荒れ狂う海原を添い遂げ、人生の酸いも甘いも共に噛み分けた夫婦ならば。
大袈裟な抱擁も接吻も口上さえも必要ない。
ただ一言、それだけ交わし合えれば十分だ。
「行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい――どうか気を付けて」
さらば安息。
そして待たせたな乱世よ。
待ちくたびれたか? なら悪かったな。
おれに往生際の良さを求めてたか? なら残念だったな。
光月おでんが今行くぜ。
道を開けて、最高の酒とおでんを拵えて待ってやがれ──