教育が、伝統的な「行為」による親、師匠、親方等による伝授ではなく、文字を媒介とした「学校教育」が主流となり、国民すべてが「義務」として学ぶ国民教育制度が成立すると、個別分散的に存在してきた教育や学校が、政策の対象となり、「法」が規定するものとなった。特に、国民教育制度である「近代公教育」は法によって実施されている。そして、このことが、社会現象として分析する必要があるだけではなく、それが教育の本質や目的に照らして、いかなる意味をもつのかも、合わせて考察する必要が出てきた。
 現在の教育制度は、基礎として「義務教育」制度をもっている。そしてその前後に義務的ではない学校類型が配置されている。そして、それらは全て「法」によって規定されている。しかし、「法」が様々な法源によって構成されているように、国民教育制度もまた、様々なレベルで様々な法が複雑に機能していると考えられる。しかも、その機能は単純ではなく、ある面においては相互に矛盾する形で機能している場合もある。

 法とは一般的に国家権力を前提として、その社会に効力をもっているルールの総称であると言える。民主主義社会では選挙制度を前提とした法制定機関が存在しているが、単にその機関の制定したルールだけではなく、様々な機関のルールが法を形成しており、また、社会の習慣なども習慣法という法の一種と考えられる場合がある。
 日本でいえば、国会-法律、内閣-政令、省庁-省令、地方議会-条例などが主な法であるが、裁判所の出す判決も法を形成すると考えられている。また、外国と国家間で締結する条約も国内法規を制約するから、広い意味での法を形成すると考えるべきであろう。
 さて、民主主義国家においては、最も重要な法は国民に選挙で選ばれた議員が定めた法律がもっとも重要な地位を占めており、また、いくつかの重要な事柄は法律で定めなければならないことになっている。課税、刑罰などはその代表的なものである。

 「教育小六法」という「教育法」を集積した書物には、たくさんの教育関連法規が並んでいる。では、もそもそ「教育法」とは何を指すのだろうか。教育に関連する法規はすべて教育法なのだろうか。あるいは、教育に関連しない法にも、教育法と言われるものがあるのだろうか。
 もちろん、法律自体の中に、この「法律は教育法」であるという規定があるわけではない。教育法の概念規定そのものが、ある意味では論争的課題であるとも言える。
 日本の教育法学の礎を築き、発展させる上で最も功績のあった兼子仁教授は、教育法を「教育に関連する法規」という立場はとらなかった。教育法にとって最も重要な概念として、「条理」をあげ、条理に適う法体系を教育法と構想したといえる。条理は、「慣習法」にすら存在しないとき、「正しいあり方」としての「法源」を意味するが、この場合、「教育の正しいあり方に適った法規体系」を「教育法」と考えたのである。つまり、「教育」という行為には、他とは異なるあり方が存在し、それを論理化する必要を主張したのである。もちろん、現実に存在する法律群が、教育のあり方に適っているとは限らない。それは教育法ではないということではない。「教育法」という分野が成立するための条件を兼子説は主張している。つまり、逆にいうと、教育法を解釈する場合、常に、「教育にとってどのようなあり方が適切なのか」という観点を離れてはいけないということになるだろう。
 しかし、実は「教育」に対する原則、あるいは目的については、社会的に常に一致するわけではない。「教育学概論」で説明したように、教育については、個人の側から規定する考えと、社会の側から規定する考えとが、基本的に異なるものとして対立している。すると、教育法を考える上でも、このふたつの異なる立場、考え方は、教育法の創造や解釈において、対立的に現れるざるをえない。事実、日本で国民教育制度が成立して以来、教育法をめぐって社会的な対立が、全く存在しなかったことはなかったと言ってよいだろう。

 ところで教育に関する法については、戦前と戦後で大きな原則の変更があった。戦前は主要な教育に関する法は、勅令(議会を通さず、枢密院などの天皇が任命する人たちが決めた天皇の命令)という形式をとっていた。これを「勅令主義」という。そして、議会の予算措置が必要な内容については、議会で決める法律の形をとっていた。(義務教育費国庫負担法など)
 そして、戦後は主要な教育関係の法は、国会で法律として決められるようになり、これは勅令主義から法律主義への転換と呼ばれている。
 しかし、事態は決してそのように単純に割り切れるわけではない。例えば学校教育に関する最も基本的な法律である学校教育法に関しては、政令として定められている「学校教育法施行令」と文部科学省が定めた「学校教育法施行規則」が付随している。つまり、あとの二つは国会の議決を経ていないわけである。そして、ほとんどの教育関係法について、政令乃至省令が補足の法として付随しており、政令や省令に重要な内容が盛り込まれている場合も少なくない。もちろんすべての細目まで国会での論議によることがかえって不都合である場合もあるだろうが、あまりに省令や政令に重点が移っているとしたら、法律主義は事実上形骸化していると言わざるをえない。どの程度そうなっているかは、各自の判断に任せたい。
 勅令主義と法律主義の対照は、教育に関する基本的法において最も顕著に現れている。戦前は教育の基本的な精神を表現したものとして「教育勅語」があった。教育勅語は重要な儀式において、校長によって重々しい雰囲気で読まれ、天皇の写真(御真影と言われた。)と一緒に学校の最も重要な部屋に恭しく飾られていた。
 もちろん、教育勅語は議会での議論などは一切なく、天皇の意思として公表されたものである。勅令主義の象徴ともいうべき教育勅語については、史料として学んでおく必要があると思われる。

 勅語
 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホ(ぼ)シ學ヲ修メ 業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德噐ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日

 御名御璽3)教育勅語の口語文訳  私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分

 戦後になって、憲法を作成するときに、教育条項をどの程度盛り込むか議論になり、結局憲法には26条だけが盛り込まれ、基本的な原則をまとめた「教育基本法」が制定された。この際、教育勅語の扱いをめぐって論議なったが、結局衆参両院で廃止決議がなされ、現在では失効している。


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最終更新:2008年07月23日 19:05