アットウィキロゴ
 教師にとっても「思想・信条の自由」は当然認められるべきだろう。この点で最も大きな争点になっているのは、「君が代斉唱」問題である。実際に、このことで処分される教師は毎年多数出ており、また、訴訟も複数提起されている。そして、いくつかは判決もある。しかし、訴訟といっても、みな同じ争点であるわけではなく、微妙に異なっているので、何が争われているのかについて、丁寧に見ておく必要がある。
1 教師が君が代を歌うことを指導することの職務上の問題。
2 教師が君が代の伴奏を行なうように言われた場合の、職務上の義務の問題。
3 教師が君が代斉唱の際に、起立・歌唱を行なうことの自由の問題。
4 教師が生徒に君が代斉唱時に、起立・歌唱を行なうことを指導することの職務の問題。5 生徒が君が代斉唱に消極的であった場合の、指導教員の責任の問題。

 以上が争われている主な争点である。法的な問題と教育的問題とも、また分けて考える必要があるだろう。

 ここでは、教育的問題として考える。

 いうまでもなく、良心・思想・信条は個人の内面に関わることであり、公教育は、各人の思想形成・良心の育成等に大きく関わっている。しかし、当然ある一定の考えを押しつけることは、原則的にはしてはならないことになっている。
 ただ、実際には、公教育は、ある特定の立場を、教育の現場で相当程度押しつけているといえるだろう。
 ここで大切であると考えるべきは、やはり、個人が主体的に、広い視野で、十分に考えることを経て、自分自身の考えを形成していくことであろう。そのためには、まず何よりも、教師に対して、自由な立場を保障することが必要であると考えられる。だが、問題は単純ではない。
 近年最も大きな問題となっている、東京都教育委員会が行なっている君が代斉唱に関する指導について考察してみよう。

 事実として確認できることは以下の点である。

1 2003年10月,東京都教育委員会は,全ての都立高等学校及び都立盲・ろう・養護学校の卒業式・入学式・創立記念式典等の学校行事において,「国歌斉唱はピアノ伴奏等により行う」「教職員は国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」などとする通達を発令した。そして同時に,職務命令に従わないで不起立ないし不斉唱,ピアノ伴奏を拒否した教職員は処分することを宣言した。
2 2004年3月、都立の学校の式典に、数名の都教委職員が,不起立の教職員を監視するために派遣された。
3 戒告処分・減給処分を受けた教職員に対し「再発防止研修」なるものが課せられた。この研修では,自分の「非行」について「反省文」を書けというのであるが
4 京都教育委員会は、学校で「君が代」に関するビラを配布している者がいれば、警察に通報するよう、各学校に指示をした。(実際に、学校の外でビラを配布していた者が、建造物不法侵入で逮捕されている。拘留は認められず釈放)


 これに対して、教職員組合の教師は以下のような対応をしている。
1 2004年1月31日,都立高校の教職員228人が原告となって,都教委に対しては,国歌斉唱時の起立義務・斉唱義務がないこと,音楽教員にピアノ伴奏の義務がないことの確認と,これらの拒否を理由とする処分不作為を請求し,東京都に対しては,通達発令以来の精神的苦痛に対する慰謝料を請求する訴訟を提起した。

 法的な問題は様々に検討されるべきであるが、とりあえず、教育的問題として考察する。

 教師が自由な思考を制限されているところで、教師が生徒たちに自由な思考を促すことは、かなり難しいであろう。従って、教師も自由な思考が完全に保障される必要がある。しかし、ここで問題となるのは、教師は公教育という枠の中で職務をしており、公教育の内容が学習指導要領で定まっている以上、それに基づく事柄は、生徒に教える義務がある、という考えがある。また、公教育である以上、教師は、職務命令に従う義務があるという考えもある。
 ただ、公教育であるということは、逆に、何を扱ってもいいということではなく、個人の自由に属することがらについては、扱ってはならないという領域もある。また、扱ったとしても、個人の自由を認めるべきであるという領域もあるかも知れない。
 そうした領域の問題と、扱うやり方の教育的性格という問題もある。
 教育委員会の職員が儀式に派遣されて、実際に歌っているかかどうかのチェックをするというのは、それ自体の「政治性」が存在する。一種の「踏み絵」といえるだろう。


最終更新:2008年08月03日 21:17