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 現代社会では、教育をする必要があり、また教育には多額の費用がかかる。教育という行為を専門に行う「教師」が存在し、教育のための「建物」「教材」等が必要だからである。共同体の中で、大人が子どもに、生活の中で教育をする場合には、「教育費」は発生しない。「分業」が発生し、文字文化が発展して、文字文化を教えるために学校が発生して以降、教師・生徒、そして学校が生まれ、同時に、教師に支払う人件費等が生まれた。
 教育制度が国家的な規模になっている現在では、教育費用は膨大な額になる。平成10年度の日本の「学校教育」費用だけをみても、国立24.4億、公立151.2億、そして私立では77.4億円もの費用がかかっているのである。*22)http://www.mext.go.jp/b\_menu/toukei/index.htm\footnote{
 もちろん、これは学校という制度にかかった費用であり、その他生涯教育関係や私的に支払われた教育費が加算される。実に膨大な費用が教育に投下されているのである。
 ただし、教育費を誰がどのような形で支払うかは、時代や国によってかなり異なる。スウェーデンでは、教育費を私的に支払うことについて、広範な否定的感情があるとされる。つまり、教育は「社会」が国民全体に対して用意するものであり、個々人が私的に費用を払いながら利用するものではないということであろう。したがって、スウェーデンのような国家では、教育費はほとんどすべて「公費」で支出され、逆に多額の税がとられる。
 他方、日本では塾やおけいこごと、家庭教師など、私的に支払われる教育費がかなりの額になっているだけではなく、学校教育で使用される教材や行事等に対して、親はかなりの額を負担しているのである。公教育においても、多額の教育費が徴収される。
 ヨーロッパの多くの国では、公立の学校に対しては、ほとんど私的な費用はない。「義務教育は無償である」という規定は、日本では授業料無償の原則に矮小化されているが、ヨーロッパでは文字通り、学校教育にかかる費用はすべて公費で賄われている。
 このような相違は何故生じるのだろうか、また、どちらがより教育費の形態として望ましいのだろうか。この章では、そうした費用負担の問題について考察する。
最終更新:2008年08月04日 21:30