{教育学の基礎概念としての能力}
さて、実際に教育学を開始するに当たって、教育学の最も基本的な概念は何だろう。おそらくあらゆる学問は、その学問を構成する理論の土台となる基本的な概念がある。マルクスは資本主義社会の分析をした『資本論』において、その基本概念を「商品」と措定した。政治学においては、「権力」と考える人もいるし、また、「国家」と考える人もいるかも知れない。
教育学において、この基本概念が多くの教育学において共有されているかどうかは、不明である。多くの教育学者は、あまりこのような基本概念から出発しないからである。しかし、この
教育学概論では、「能力」を最も土台の概念として措定することにする。教育という行為は、広い意味で「能力」を発達させるために行なう実践だからである。そして、「能力」という概念に、教育的課題が集約されるといえるからである。
能力とは何だろうか。この講義で考察するのは、能力のどのような側面だろうか。
常識的に能力とは、「何かをすることができる力」のことを意味すると考えておこう。能力をもっているのは人間だけではなく、動物や植物ももっているし、また、機械も能力をもっている。もちろん、「何か」の数だけ「能力」の数があると言えるから、どのような能力があるのか、すべてあげるのは不可能だろうが、代表的な能力、つまり、者生活の中で比較的頻繁に使用されたり、意識されたりする能力のリストを作成することが必要だろう。(後述)
能力には、比較的重視される能力とあまり重視されない能力がある。何故そのような現象が起きるのか、また、その力点の置きかたは歴史的に、また異なる社会においては異なっているが、それは何故か。そして、現代社会では、重視される能力は何か。こうしたことが次に考察される必要がある。
{能力のカタログ}
能力の構造の前に、能力の「カタログ」を作ってみよう。能力のカタログは、例えば、学校における「教科構造」に影響を与えるものである。
まず、以前の授業で能力のカタログについて、いくつの見解が出ているので紹介する。
A君
・運動能力--瞬発力(反射力)、持久力、技術、筋力、柔軟性
・音楽的能力--絶対音感、歌唱力、演奏力
・知的手能力--言語力、計算力、社会的能力、表現力(以上左脳的能力)
記憶力、空間認識力、想像力(右脳的能力)
・その他--超能力(テレパシー、透視、念動力、念写)
Bさん
・運動能力に、「心臓を動かしたり、肺を動かすような生命を維持するための筋肉の能 力
C君
・学問能力の構造として
(1)情報受け入れ能力--読む・見る・聞く
(2)情報処理能力--必要な情報を見つける思考・判断能力
(3)実行能力--整理された情報を分野に生かす決断力
D君
すべての能力の基礎は「観察・感受力」である。・・・すべてにおいて「技術・集中力」が影響を及ぼすということである。・・・教育とは、観察・感受能力、技術力の経験を積ませることである。集中力をあげるこめには緊張の場面に立たせることであると思う。例えば人前で話させたり、公式試合に出させたりということである。
E君
天性の能力--運動(天性・好きであること)、勉強(適不適・好きであること)
↓
使うきっかけ + 努力
↓
能力の発揮・伸長
こういう図式を自分で作ってみることは、「思考力」を鍛えるのに非常に役にたつと思う。能力の分類が非常に難しいのは、単に領域的な分類をするだけではなく、レベル分けをする必要があるからである。
「脚力」と「持久力」は、実際に競走の場合には、同一の行為の中に現れるが、しかし、概念上は区別しなければならない。出された分類案は、そうしたレベル分けを、各自きちんと考えているものがほとんどであった。今回出さなかった人も、ぜひ、一度、人間の能力の分類を試みてほしい。
{勝田守一の能力モデル}
さて、この諸能力はどのような構造になっているのだろうか。
まず、勝田モデルは以下のようになっている。
勝田は能力を次のように分類する。
第一に「生産の技術に関する能力」である。狭い労働の技術の能力だけではなく、生産組織を運営・管理する能力を含めた広い範囲を勝田は考えている。これは職業と深く関係している。
第二に、人間の諸関係を統制したり、調整したり、変革したりする能力である。勝田は、研究グループの中で、特に独創的な施策力を示すわけではないが、その人がいるといないとで、グループの活動が決定的に影響される人物を、この能力の具体例として出している。最近の私の知る事例では、『釣りバカ日誌』の浜ちゃんはこのような人物だろう。万年平のペケ社員である浜ちゃんは、実は彼が参加する仕事はうまくいくと、周りも浜ちゃん自身も気づいていないのだ、ごく一部の管理職のみ気づいているという不思議な人物として、コミックの人気シリーズで活躍している。
第三は科学的能力である、自然と社会についての認識の力である。
勝田モデルは、認識能力を「基本的能力」と考えているところが特徴である。これは現代社会では大きな比重をもっていると勝田は指摘する。
第四に、世界の状況に感応し、これを表現する能力である。通常芸術であるが、勝田は芸術だけではなく、人間的な力としての表現力を含めている。
これら四つの類型的能力の関係を勝田は、図のように示している。勝田のモデルの特質は、「認識の能力」を最も基礎に置いていることであり、相互に関連していると考えていることである。
{広岡亮三の学力モデル}
次に広岡モデルをあげておく。
広岡モデルはこれに対して、「態度」を中核に据えていることに特質がある。
「認識」は、態度の従属変数になっているのである。この他、さまざまな能力、学力モデルがあるが、能力の構造図は大体次のような内容を含んでいる。
1 動物としての基本である身体を移動、維持することが土台となる能力である。
2 社会の中で育つ人間は、言語を媒介として様々なことを修得するため、言語能力があらゆる知的な能力の土台になる。
3 1と2を土台として、あらゆる運動機能や精神機能が発達するが、それは社会の仕組みや価値観と密接に関連している。
4 抽象的な思考や操作的な能力が、言語を媒介として成立するが、これは文化的背景の影響を強く受ける。
社会が複雑な仕組みをもっていれば、そこで要求される能力も、多様なものになるが、教育がすべての能力を取扱うことはできない。そこで、昔から何か規定的な能力を想定して、それを集中的に向上させることで、他の個々の能力の発達の準備をする方法が取られてきた。
そうした考えを「形式陶冶」といい、中心的な能力はほとんどの場合、「外国語・古典語」であった。西欧では「ラテン語・ギリシャ語」であり、日本では「漢文」だった。しかし、その一方でそのような中心的能力などは存在せず、個々の具体的な能力が存在するだけだ、という考えもあった。そうした考えを「実質陶冶」という。それは「博学主義」となる考えである。
現在ではこうした19世紀までの論議は、それほど意味がなくなっているとも言える。しかし、20世紀になっても、一般的な能力が存在するという仮説は常に出されているし、個々の能力が完全に独立していると考えるより、何等かの関連があると考える方が自然であろう。(一般的能力Gが存在すると、様々な実験と因子分析によって主張した代表的な心理学者にスピアマンがいる。)
では実際の教育にとって、この論議はどのような意味をもつのか。
現代社会は非常に複雑な仕組みをもっており、社会の中で生きていく上で必要とされる知識は膨大なものである。現代の自国の文化だけではなく、当然伝統的な文化や国際社会との関連で外国の文化も、学校教育の中で取上げていかなければならない。そして、科学技術の進歩の影響を受けて、学校で教える内容はどんどん高度なものになっていく。しかし、それに応じて教育の範囲や期間を拡大できるわけではない。そうすると、膨大な教育内容をできるだけ効率的に教えるために、能力の構造を明らかにして、その構造にそった内容を構成し、付随的な内容は自分で学ぶことができれば、こうした社会的変化に対応できることになる。そのため、例えばピアジェの発達段階のモデルに従った教育内容の構成が、考えられたりする。
ただそのように構成されたカリキュラムが、本当に有効かどうかは、社会が必要とする時点と、それを学ぶ生徒が社会に出ていく時点とが、十数年ずれているということから、正確に知ることは困難である。
さまざまな能力を分類してみた。では、そうした能力は、みな「平等」なのであろうか。それとも、能力には、上下関係があるのだろうか。
もっとも、能力の階層性の問題といっても、ふたつの異なる階層性を区別しなければならない。一つは、社会の中での価値観に応じた能力評価の階層性と、能力相互の間の影響力の問題である。
社会が異なれば、能力の評価も異なる。時代によっても異なる。
Q 古代や封建時代にどのような能力が高く評価されたか考えてみよう。
現代の日本では、数学や英語の能力が高いことは、美術や音楽の能力か高いことよりも、多くの場合、高い評価を得ることができる。それは、本来的に、数学や英語の能力が、美術や音楽の能力よりも価値があるからではなく、あくまでも、その社会における漠然とした評価に基づくものである。数学の能力よりも、芸術的な能力の方が高い評価を得る社会もある。*19)
注意しておくことは、能力といっても、その前提となる「人間」という概念は、「近代」の産物であって、決して人類の歴史とともにあるのではない。身分制社会では、身分に規定された存在が主要なものであって、人間という共通意識は存在しないか、存在したとしても希薄なものだった。
近代社会の出発となったルネサンスが、フマニスム(人間主義)を基礎にしたのはそのためである。近代思想、とりわけ経験論(ロック)・啓蒙主義や感覚論(コンディヤック)での発達観は、基本的には「環境説」にたっていた。その極端な例が、タブラ・ラサ説(白紙説)や人間機械論であった。現代では、スキナーなどの行動理論に、この原則は継承されていると考えられる。
啓蒙時代を経て、資本主義の支配する時代になり、身分制から階級制へ移行し、
義務教育制度が成立する。ここで能力をめぐる重要な傾向が生じた。人間の能力という発想は、こうした時代的背景をもって生まれたことを注意しておこう。
このように、社会と能力評価の問題は、ひとつの重要な検討課題であるが、この点については、別の機会に行うことにする。(評価・入試・選抜の問題として。)
もうひとつの問題は、能力の間の関係である。前回の「構造」は、分類という意味と、能力の規定関係の問題をも含んでいた。
Q 数学や英語の能力が高いことが、高い評価につながるのは、なぜだろうか。
言語能力が思考能力や社会認識の能力の基礎になっている。したがって、言語能力は、思考能力を規定する力がある。だから、言語能力を高めれば、思考能力は、それにしたがって伸びていくと考えてよいのだろうか。
単純な答えはないだろう。もし、yesならば、おそらく通訳がもっとも思考能力がある、などという結論になるのだろうか。(参考 司馬遼太郎「胡蝶の夢」)
yesと仮定しても、困難な問題がある。
「言語能力」なる能力は、実際には析出が難しく、実際には、日本人にとっては、「国語」能力であったり、「英語」能力であったりする。「言語能力」という「一般的能力」を向上させるために、実際に訓練するのは、「日本語」とか、「英語」という「特殊能力」であり、そうせざるをえない。とするならば、そもそも「言語能力」なるものがあるかどうか、という問題に突き当たることになる。
最終更新:2008年08月19日 14:18