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 学校には必ず「教師」が存在する。しかし、教育という営為に教師が不可欠なわけではない。人が学ぶのは、決して「教師」からだけではなく、小さな子どもの行為から学ぶことすらある。また、友人から学ぶことの効用、あるいは「教える」ということの「学習的効果」も多くの人は経験しているだろう。実際サドベリ・バレイ校は、固定的な教師はおらず、子どもたちの評価に基づいて個別的に雇用される人かいるが、授業はあくまでも教える人(それは生徒であっても構わない。)と教わる人との契約で随時行われていくに過ぎない。
 そうすると、「教師」という存在は必要ないのだろうか。なぜ、学校には教師が必ず存在するのだろうか。そして、「教師」は何をするのが役割なのだろうか。
 それぞれ理想の教師像をもっていると思われる。また、これまで尊敬できる教師や軽蔑しかできない教師に遭遇した経験をもっている学生も多いと思われる。しかし、そうした理想/反理想的な教師像は、人によってかなり異なっているものである。ある人は熱血型の教師を好むだろうし、また、そういう教師を嫌う人もいるだろう。
 テレビドラマの教師像もかなり多様性に富んでいる。
 体育会系的熱血教師、子どものことを本気で心配する教師、破れかぶれ的な教師等々。その中で最も大きな支持を受けたのが「金八先生」であろう。金八先生が支持された最も大きな理由は、「生徒への共感」的姿勢であるように思われる。金八先生の番組制作社の公式ホームページに載せられた「我が校の金八先生」紹介のある文は次のように書いている。

 いじめの絶頂期に、私は、休み時間ボーっと4階窓からここから飛んだら楽になるんだろうなぁと外を眺めていました、そのとき、学年主任で数学のバルタン(数学の小野学先生のあだ名)が、「おーい、 職員室に来て、先生の手伝いしてくれないかぁ?」って声をかけてきてくれたのです。
その時は、冗談を飛ばしながら私を職員室に連れて行ったバルタン、高校生になって中学に遊びに行ったとき、先生が「あの時は先生は、寒気がするほど、お前の横顔が透き通り、このままではって思った、あの時死んでしまいたいって思っていたんだろう」って、私にそのときの様子を話してくれました。
私は、そうだったのかも知れないって、でも高校生になり毎日が楽しかったその頃、私は、バルタンに言ったのです。 「先生のお蔭だね、先生は私の命の恩人です」って。

 いじめられている自分を真剣に考えてくれる教師である。また別の生徒は、受験に失敗したとき、教師自身が涙を流して泣き、駆けずり回って行ける高校を探してくれたと書いている。しかし、他方で金八先生のような存在こそ、学校にとって害悪であるという主張もある。
 埼玉プロ教師の会の諏訪哲ニは『学校に金八先生はいらない』(洋泉社)という本を書いている。本全体で金八先生を批判しているわけである。諏訪は金八先生の特質を「教育熱心であること」「生徒とよくつきあうこと」「生徒に影響を与えようとすること」と捉える。そして、その背景の生徒の意志を尊重する「自由」の立場があるとする。
 諏訪によれば、「教える-学ぶ」関係は、権威-従順という非対称的なものであり、一種の「権力関係」である。教師の指導はこの「権力的関係」によって生じるのであり、「自分が偉いから」指導できるのではない。ところが、金八先生は、自分の信念が正しいと信じているが故に、その立場から生徒に対してある選択を「指導」する。それは「錯覚」であると諏訪はいいたいのであろう。
 では、諏訪の教師像はどんなものなのか。この著書に出てくるテレビドラマ「アリよさらば」を彼はあげている。
 ある高校で男子生徒と女子生徒がセックスをして妊娠してしまう。そこに、臨時教師としてやってくる安部先生(矢沢永吉)が、「子どもを産め、責任をとれ」としつこくしつこく迫る。本人たちは、一時の快楽をしたに過ぎず、中絶してしまえばそれで済みだと考えている。高校を中退するわけにはいかないし、また、大学にも行きたい。そもそも育児などという面倒なことには、まだとらわれたくない。おろしてしまえば誰にも迷惑がかからないのだから、他人がとやかくいうことではない、というわけだ。それを生徒の内面に係わることは教師はできないのだ、とする中山先生(長塚京三)が対立する。
 結局、二人は安部先生に追い込まれ、真剣に話し合うことを約束し、話し合ってきた結果「堕ろす」という結論を伝える。
 諏訪はこのドラマを、山中という「学校の建前」を強固に維持する存在があり、そこに「人間としての建前」をつきつける安部がいることによって、リアリティが成立している、と評価するのである。そして、諏訪が自分の実践をなし得たのは、山中的なものと安部的なものとを、一身に同時に抱えていたのであると書いている。
最終更新:2008年08月05日 23:38