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 授業は、学校や教師の最も中心的な仕事である。しかし、授業にはさまざまな形態がある。国による相違も大きい。日本では、「一斉教授」という、一人の教師が多くの生徒に、同時に同じことを教えるスタイルが代表的であるが、近年一斉授業に対する批判も強くなり、また、大学では、人数の多い一斉授業に対する批判は特に強いものがある。
 しかし、授業の形態は、それぞれ固有の得失があり、一概にいいとか、悪いとか決めつけるわけにはいかない。まずは、それぞれの固有の性質を理解することが必要だろう。これまで学校の形態や教師の問題について考察してきた。授業は、教師と生徒の間で行われるものであるが、学校が多様な形態をもち、学校以外の場で教育を受ける事例も考慮すれば、授業のあり方についても、多様性を認めていくことになるだろう。
 教える者(教師)の多様性、例えば、最近は二人の教師が授業を行う事例もある。一人が通常の教師として教え、他の一人が、生徒の中に入って、ノートの点検をやったり、躓いている生徒を補助する。こうしたやり方は、うまくいけば、遅れた生徒をフォローすることができるが、逆に、生徒の集中力が削がれる場合もあると言われている。
 また、イギリスで大衆教育が始まったころ、クラスには200人もの生徒がいたので、年上の生徒が小さい子どもを教えるようなシステムが普及していた。(助教システムとか、モニトリアル・システムなどと呼ばれる。)
 これは、現在でも、小グループ(班)に生徒を分け、班競争を組織して、リーダーを中心に、理解できていない生徒に教えさせるような方法があり、教育手法として、有効なものと言える。人に教えることが、最もよく学べる手段である。
 生徒についても、かつての貴族など上流階級の人は、一人だけで学ぶのを理想としていた。これは、「紳士教育論」と呼ばれる。有名なルソーの「エミール」も、エミール個人に家庭教師が教えていく物語である。ヨーロッパでは、カントやヘーゲルも、若い頃そうした家庭教師をやっていた。日本では、新井白石がその代表的人物と言えようか。しかし、こうした「紳士教育」が成りたつのは、もちろん、ごく一部の特権・裕福層の人に限られる。国民全体の教育には適用ができない。そこで、どうしても、大勢をひとつの場所に集めて、授業を行うことになる。そして、教える内容への理解だけではなく、教える技術が必須になるのである。
最終更新:2008年08月05日 23:58