{教育実践のための評価}
成績表のような制度的な評価が可能であるかどうかは別として、教育という行為は、「評価の連続』である。制度としての評価は、特定の機会にしか行われないとしても、評価という行為は、日々刻々と行われている。正しい評価抜きに、正しい教育は行えない。そういう意味では教育にとって「評価」は不可欠である。
教育や学習は、現在の状態を正確に把握し、課題を設定した上で、教育・学習内容に取り組み、そして、到達できたかどうかを把握する必要がある。このように、教育の出発と到達の段階で、評価が必要となり、次の段階に進んでいくわけである。(このような一連の評価を「診断的評価」「形成的評価」「総括的評価」と呼ぶことがある。)
社会が次第に高度になっていく場合、前の時代の人よりも、同じことをするにしても、効率良く習得する必要がある。従って、蓄積されたメソッドを、正しい評価をしながら達成していくことが望ましい。このためにも、評価は重要である。
教師の一日を想像してみよう。
朝、クラスのホームルームに出かけた。そこで生徒たちの様子をみて、誰か問題はないか、健康上、あるいはストレス等でイライラしている等、チェックをするだろう。もちろん、生徒の様子をみて、何か普段と異なるものがあるか判断できる力が、教師になければならないし、また、その対応力も必要だろう。
授業が開始されば、今日の単元に入る前に、前回の授業内容が理解できているのか、前回の授業終了時と、今の様子からみて判断し、まだ理解が不十分であれば、必要な復習を短い時間で行なう必要があるし、十分理解しているとみれば、今日の単元にすぐに入ることができる。授業を行なっているときには、自分の説明が生徒に届いているか、生徒は理解しているか、理解できていない生徒はいないか、授業を聞いていない生徒はいないか、等々絶えず確認しながら、授業を進めていかねばならない。分かりきったことをやっていれば、生徒は退屈するから、先に進めるし、また、わからない部分があったら、繰り返す。また、ときどき生徒自身の自己理解のためにも、小テストなどを実施して、理解の確認をする。
授業が終わったら、何か問題がありそうな子どもと、話すきっかけをつくり(もちろん、呼んでも構わないだろうが。)、問題が本当にあれば、相談しつつ、解決策を探る。
一日の授業が終われば、現在の理解を確認しつつ、次の授業の準備をする。
こうした教師の実践は、絶えず「評価」と結びついており、そのときそのときの評価が適切であり、その対処が適切であれば、それだけ実践は順調に進行する。しかし、生徒の間にある問題を把握できなかったり、また、授業内容の理解度について、教師自身が的確に把握していなければ、
いじめが進行したり、あるいは子どもたちがわからないままになってしまう。
もちろん、このようなことは、授業に限らないし、また教師にも限らない。学生諸君も部活をやっていれば、日々評価をしつつ、練習を繰り返しているに違いない。自分の練習は当然のこととして、後輩を教える存在になれば、評価の重要性は嫌でも意識せざるをえないだろう。
{選抜のための評価}
ところが、評価は、こうした教育目的だけではなく、まったく異なる目的から利用される。的確な人材を選抜するためである。知能テストが、第一次大戦参戦の際に、アメリカ軍の編成のために利用されたことを見たが、評価一般が、現代社会では、人材選抜に大々的に利用されている。しかも、学校教育での評価を社会が受け入れ時に、重要な要素として参照する。もっとも、アメリカ社会のように、大学や高校の成績を直接評価として受け取る場合と異なって、日本の場合は、大学や高校の「偏差値」という「入り口」の社会的評価によって生徒や学生の能力を判定する傾向がこれまで強かった。少子化を経て、このような「入り口」評価が、大学や高校での修得を重視する「出口」評価に変化していくかは、まだ明確ではないが、これまでのような入り口評価でほとんどを評価するようなやり方は少しずつなくなっていくだろう。
人間は分業によって社会を成立させている。一人の人間がすべてのことを行うことはできない。又、何かを行う場合、組織を作っている。従って、組織の人員を選ぶ、また、選ばれた人をある部署に配置する、こういう時に、選抜行為は不可欠である。適切な人を適切な場に配置することが、組織の成功に必要だから、選抜とは極めて重要な行為なのである。事実、企業での人事部、教育組織での入試等は、もっとも重要な業務の一つになっている。
このように、評価は、教育や社会にとって、必須のものであるが、しかし、使用を誤れば大きな不幸をもたらす。教育の際の評価を間違えれば、教育的な効果があがらない。
選抜に使われた評価が、正しくなければ、組織がうまく機能しなくなるだろう。
また、結果が個人にとって不本意であれば、その人にとって、大きな不幸をもたらす可能性もある。「お受験殺人」は記憶に新しいが、以前は受験シーズンには、かならず何人かの自殺者がでたものである。
さて、教育的な目的で行う評価については、おそらく誰もがその意義を認めるだろうが、選抜に資料を提供するような評価を、学校教育が行うべきであるのかについては、意見が分かれる。
日常的な教育実践の中でも、選抜のための評価は多数存在する。学級編成、特に習熟度別学級編成をしているときには、評価は正確さを必要とする。演劇の配役決め、班の編成、合奏や合唱でのパート決め、学級の委員等々、集団を対象とした教育活動では、選抜機能は不可欠である。このような選抜は、単に「能力」の評価だけではなく、性格の評価や人間関係の評価も考慮しないと、選抜した結果が悪くなる危険性がある。また、選抜された結果について、生徒の合意・納得が形成されているかも、評価自体とともに重要な要素であろう。
最終更新:2008年08月18日 05:59