マクロ的に見れば、少なくとも児童期ころまでの発達には、順序性が見られると考えてよいようだ。次に問題となるのは成熟性と臨界期である。
成熟説(レディネス)とは能力の発達はある一定の段階になって、体の成熟によってなされるもので、訓練はそれに代りえないとする説である。代表的な研究者はゲゼルである。
ゲゼルは、自然教育のところで紹介したように、ふたつのグループの一方に「階段登り」をさせ、他のグループには一定の時期以降に、階段登りをさせた。すると、当初、後者のグループは階段登りの能力が劣っていたが、それはすぐに回復し、実際にはふたつのグループには差がなかったという実験を行った。この見解にたつと、発達には「成熟」の要素が重要であり、それを無視した早期教育は無意味であるという結論になる。しかし、ゲゼルも後年は、成熟をあまり固定的に考えるべきではないという意見になったと言われている。
成熟説はある能力の発達時期を示すものであるが、ある能力の発達のための条件の限界を示すものが臨界期である。臨界期は、成熟の対概念である。成熟が、ある時期まで特定の能力の発達はないというものであるのに対して、臨界期とは、ある時期を過ぎると、ある能力は発達しなくなるというものである。
絶対的なものではないにせよ、ある能力については「臨界期」が存在すると考えられている。臨界期については、「野性児の研究」が大きな役割を果たしてきた。全く言語のない環境に、出産直後から数年間に置かれたら、おそらく言語の修得はかなり制約されるだろう。また全くものの存在しない、色の変化もない部屋に一人とじ込められて成長したら、視覚や運動能力、あるいは言語・数の概念の獲得は困難になるだろうと想像される。また、絶対音感の形成も臨界期があると考えられている。
もっともこれらは、科学的方法によって証明されたとはいいがたい。ある面では、諦めであり、また努力放棄の言い訳であったりする。
教育は基本的に「実験」の対象とならないことは既に述べた。実験とは対象を操作することであるが、ある仮説の適応例と非適応例を両方必要とする「対照実験」が不可欠になるが、人間を相手にする教育は、そのような対応をとることを、通常拒否するものである。いかなる親でも、積極的に自分の子どもを実験材料にして、野生児として育ててみるようなことを承諾しないであろう。
したがって、何等かの事情によって、野生児として育った例があれば、それは人間の発達に関する貴重な資料を提供することになる。
「アベロンの野生児」として有名なイタ-ルの報告があるので、ここで簡単に紹介する。(短い報告なので、全文を読むように。ただし、一章で説明したように、現在では野性児とは考えられていない。)
18世紀に野生児が流行したことがあった。それらは単なるみせものとして造られた野生児だった場合も少なくない。しかし、このイタ-ルの報告は、彼の詳細な観察によって、野生児としてある年齢まで育ったのではないかと、多くの人に考えられている。
なぜ、長じてから親に捨てられたのではなく、子どものころに捨てられたか、あるいは放置されたかと考えられるのか、イタ-ルは次のように説明している。
彷徨の生活、孤独の生活・服装や家具、家に住むことなどに嫌悪感を抱いていた・臭気がないと思われるものでも、嗅いでみる習癖・咀嚼の際、門歯だけを急に動かす(植物質や小さな動物を食べていたと思われ、カナリアの死体を与えると直ちに羽と毛をむしり、爪で裂き、匂いを嗅いで捨てた)・体中に傷あとがある・当初非常に厳しい監視にもかかわらず、音もたてずに脱走した等によって、4歳か5歳の時にすてられたのだろうと、イタ-ルは想定している。
先に紹介した教職教養の受験参考書は臨界期について以下のように説明している。野性児についての説明のあと
言葉の修得などは2~3歳頃までの言語環境が決定的であり、その学習時期を過ぎてしまうと、ほとんど効果がなくなるという「臨界期」の存在も証明している。臨界期の最も顕著な例は鳥類のヒナが親の後を王「後追い現象」の成立である。孵化後数時間から十数時間にそれが成立した場合、修正がきかないのである。*13)
しかし、この記述は正しいだろうか。先述したように、野性児と言われた存在が人間以外の動物に育てられたという証拠は全くないのだから、それが「臨界期」を示す証拠になるというのは、根拠に乏しいし、また、鳥類の後追い現象が正しいとしても、それが「人間の発達」にとっての参考事例になるわけでもない。人間の場合には、そのような「修正の効かない後追い現象」など存在しないからである。
発達段階の定式化は、個々人の発達が、問題なく進行しているか、あるいは、体のどこか、あるいは環境上の問題があるかということを診断するために、必要なものであろう。通常の子どもが、歩き始める時期を、大分過ぎても歩かないとすれば、何か運動神経系統や足に異常があるかも知れないし、またいつまでも、物に反応しなければ、目などの障害があるかも知れない、というような判断で、適切な処置をするためには、そうした通常の発達段階表が必要である。
さて成熟と臨界期は教育にとってどのような意味をもつだろうか。
成熟説にたつと、消極教育、あるいは自然教育的な考え方になる。つまり、人の発達は成熟に規定されているのであれば、無理に早い時期から大人が刺激を与えて教育をしても、それほど意味がない。それよりも発達は成熟によってある時期に自然にもたらされるのであれば、それをじっくりと待って教育を開始したほうが、効果的であると考えることになる。サドベリ・バレイの教育はまさしく成熟説にたつ最も典型的なものである。
それに対して臨界期を重視すると、
早期教育論の立場になる。ある時期を過ぎると教育効果がなくなるのであるすれば、できるだけ早く教育を開始しなければならない。将来音楽家にしようと考える親が、早期にプライベートレッスンを開始させるのはこのためである。
2-5 転移と退行
2-5 転移と退行
更にもうひとつの問題がある。ある能力が発達すると、他の能力の発達に影響するかどうかという問題である。
ある能力が発達すると、特に訓練しなくても別の能力が発達しているというような現象を「転移」という。もし転移が多くの能力に対して生じる特定の能力があるとすれば、それは「一般能力」と言われることがある。その一般能力を高めれば、全体の能力を効率的に発達させることができる。スポーツでランニングを多くのスポーツで訓練として実行するのは、ランニングがスポーツにおける一般能力に近いと考えられているからであろう。逆にある能力が発達すると、別の能力の発達が阻害されたり、あるいは退行が起きることもある。言語能力はその一例と考えられている。
誰でも育った文化圏の特定の言語を使用するが、言語習得以前にはすべての「音素」をもっていると言われている。「喃語」と言われる段階である。しかし、特定の言語環境におかれると、その言語には存在しない「音素」は認識したり、使用したりすることが難しくなる。日本語の母音は5つであるが、ハンガリー語の母音は14ある。5つの単純の母音環境に育ち日本語を習得した者は、ハンガリー語の母音を正確に認識することは、ほとんど不可能である。
この問題は古来教育の世界で「形式陶冶」「実質陶冶」の問題として認識されてきたことに関係している。形式陶冶とは、知的な能力には一般的な訓練の仕方があり、それを行えば能力が一般的に高まるという考え方である。19世紀前半期くらいまでの学校では、ヨーロッパでも日本でも形式陶冶の考え方が強かった。そしてその中心が古典語であり、ヨーロッパでは古代ギリシャ語やラテン語を教育の中心科目として設定し、日本では漢文がそれにあたるものであった。そのような一般的な訓練方法は存在せず、それぞれの領域固有の方法で教育せざるをえないと考えるのが実質陶冶の考え方である。
現在では形式陶冶の考え方は否定されており、そのまま教育機関で実施されていることはないが、ただその考え方そのものを全体として否定すべきではないという考えもある。つまり、諸能力は独立して存在するのではなく、共通する部分などがあり、そうした共通部分を重点的に訓練することによって、諸能力を効率的に向上させることができるという考えがあるからである。複雑化した現代では人々が学ばなければならないことがらは膨大なものであり、効率的な学び方の方法は切実に求められている。
スーザン・カーチスは、ジーニーの事例から、言語に臨界期があることを主張している。つまり、通常の言語野である左脳が臨界期を過ぎると通常には機能しなくなり、右脳で処理せざるをえなくなるので、正常な言語機能が発達しなくなるというのである。(スーザン・カーチス『ことばを知らなかった少女ジーニー』p132
最終更新:2008年08月19日 20:02