アットウィキロゴ
 日本の学力問題を考える上で、「受験学力」を避けて通ることはできない。特に、中学や高校で身につける学力は、受験という呪縛に囚われており、受験に合格するために身につける学力だからである。それは大学で授業をしていても、様々な面で現れる。何かを覚えるときに「語呂合わせ」を用いる、「結局正しい答えは何ですか?」と聞きたがる、解答の導き方ではなく、公式的な解き方を覚えようとする、等々。こうした勉強は試験のための勉強で身につけたものであり、短い時間で大量の問題を解くために、必要に迫られて追い求めた方法だともいえる。
 しかし、この講義の最初に断ったように、こうした方法は、社会でそのままの形では有効性が乏しい。実際に社会で求められる能力は、こうした単純な正解答ではないからである。では、このような受験勉強で獲得した知識や技能は無意味なのか。もちろん、より適切な学習によって獲得した学力があれば、受験で獲得した学力が必要であるとは思えないが、しかし、受験学力が無益だということにはならないだろう。ただ、受験学力には多くの欠陥がある。

 では、受験学力の特徴は何か。
 第一に、個別知識の蓄積であり、多くの場合その関連性が無視されている。そして、その知識を使用して何かを説明することには、十分でなくても済んでしまう。これは、近年コンピューターによるテストがほとんどであるために、記述式の問題が出されることが稀になっているために、説明などの訓練をしなくても済むからである。
 第二に、公式主義という側面がある。ある大学の数学者が、高校生の息子の三者面談に出たときに、「あなたの息子さんは、数学の問題を解く上で、何故そうなるのか、考えすぎる。そんなことでは受験に対応できません。」と言われてショックを受けたということを、書いていたことがある。学問的な数学においては、解いていくプロセスが重要であり、プロセスを無視して解答を得ればよいという立場にはない。しかし、高校の教師によれば、ある問題がでたら、その問題に使う公式は何かを素早く判断し、その公式を使って計算し、正しい答えを出すことが重要なのだという。もちろん、基本的には、大学の数学者の考えが正しいのだろうが、高校の教師の考えを生んだ源泉は、大学側の問題形式にある。
 第三に、出題の範囲が限定されていることである。一部の難関私立中学は別として、ほとんどの入学試験は、学習指導要領の範囲内で出題されるべきであると指導され、そこから逸脱した問題を出すと、社会から非難され、また文部科学省による「助言」がなされることもある。しかし、社会で必要な能力は、「未知」に切り込むことであろう。
 第四に、特に英語などで顕著だが、実際に社会生活の中で使われている形態と、学力の内容が異なる場合があるという点である。言語は生活上使われる道具であり、多くは「音声」による。しかし、受験学力としての英語は、専ら「書かれた文章」で試される。そして、正しく使われるているかを試験するために、普段あまり重視されない末梢的なことが問われる傾向があると言われている。つまり、実際の英語と受験の英語とに、乖離が生じる。センター試験が音声試験を取り入れたのは、そうした弊害を是正するためであるが、そのことによって改善される部分はまだ明らかではない。

 さて、受験学力の内的特質ではないが、大きな問題は、受験という明確な目的のために覚え込んだ知識であるために、受験が済むと急速に忘れていく点である。いわゆる「剥落」である。「東大生が分数の足し算ができなかった」というのも、受験が済んだあとは大学の勉強や日常生活に無関係の内容なので、記憶から剥がれ落ちたに過ぎない。
最終更新:2008年08月29日 22:40