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 ウォッシュバーンは1889年、シカゴに生まれ、1968年になくなった。
 父は医者であったが、単身赴任であまり子どもとの接触はなかったようだ。そのために母親の影響を受け、母親はデューイ、ジェームズなどとも親交があり、教育雑誌の編集などにも携わっていた。だから、彼の教育的関心は子どもの頃から育まれたと考えられる。特にシカゴで育ったことが大きな意味をもったと言える。シカゴはアメリカ新教育運動の中心のひとつであり、既にウォッシュバーンが教育が受けていた頃に運動は盛んになりつつあった。
 高校を終えてシカゴの医大に入学したが、途中でスタンフォード大学の生理学に転じ、1912年に小さな小学校の校長として赴任した。そして1914年にサンフランシスコ州立師範学校の教師となった。そこで理科のカリキュラムの開発に従事することが、後のウィネトカプラン作成へと発展することになる。そして1919年ウィネトカの教育長として赴任することで、彼の実践が始まったのである。
 教育長となった彼は、教師たちと話しあい、学年別と学年を超えた教師集団の研究会を組織し、教育内容の個別化、自主教材、診断テスト、自己訂正用教材などを開発していった。
 ウィネトカプランの中心は、個々人の差に応じた教育を実現することが目的であり、そのために、教育内容を個に応じられるように創造・再編成することがまず大きな作業として設定された。そして、それを個々人が学びやすいように「カード」化する、そして、それを自主的に学んでいくのであるが、常に診断テストなどで状況を把握し、更にまだ理解が不十分な点を訂正していく教材などを使う。
 こうした作業をウォッシュバーンは各教科だけではなく、行事などの特別活動などについても詳細に検討し、それを教材化して、出版していった。この出版活動があったために、ウィネトカプランが世界に広まっていったのである。
 このように、ウィネトカプランは決して、ウォッシュバーンの個人的な作業ではなく、市の教師たちとの協同作業で創造されていったものであって、そのために、時代により、また、教科により多様性があったようだ。
 1940年代になるとよりラディカルな新教育運動が盛んになってくることによって、ウィネトカプランは古くさいものとして忘れられてしまったと言われている。

 参考文献 ウォッシュバーン『教育の個別化』山口満・宮本健市郎訳 明治図書 世界新教育運動選書24
最終更新:2007年03月09日 10:27