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 「感覚論」の哲学的立場を待つまでもなく、人間は感覚器官を使って、外界の刺激を取入れ、能力を発達させていく。ただ、どの感覚器官を使用するかは、文化の内容によって、完全には重なっていないように思われる。
 例えば言語修得を考えてみよう。
 母語としての言語を修得するとき、「耳」と「口」を主に使う。そして、「目」は従属的であろう。耳から音声を聞き取り、それを脳に伝達する。この繰り返しを無限に近い回数行う内に、脳に音声を扱う部分が形成されていく。音は「アナログ」の性質をもっているから、無限の多様性をもっている。しかし、特定の言語環境に置かれると、無限の音素のなかから「特定の音素」を選びだして配列していく。
 そして、その回路が形成されると、逆にその言語に存在しない音素は、聞き取れないようになっていく。
 日本人も就学以前は、すべての民族と同様に、聴覚を媒介にして「日本語」を覚えていく。しかし、小学校に入るや否や、言語修得の基本は全く様相を変えてしまうのである。 小学校での国語教育のほとんどの部分は「漢字」を覚えることに費やされたのではないか。それは時間の長さということではなく、特に試験や宿題を中心とする、「勉強」という意識を規定する部分での作業でのことである。そして、「漢字を覚える」という作業は、目と手(指)を使用して行なわれる。
 これはずっと高校まで続く。
 学校教育の中での言語教育では、「目と手」を使用し、「耳と口」はあまり使用しない。
 日本の学校教育で、耳の訓練が無視されているのは、殆ど学校全体のことになる。それは、授業をよく聞かせようとする時、ほとんどの場合、注意によって実現させようとすることにもそれは現れている。
 授業を聞かせる上で、耳の訓練になるのは、授業の内容自体で子どもの注意力を引きつける場合だけである。しかし、そのような授業態度に徹している教師は少ない。
 言葉は意思の伝達や自己表現のためにある。そして、自己を表現する能力を発達させるためには、多少の過ちを完全に容認することが不可欠である。しかし、受験英語は「間違わない」ことが至上命題になるので、自己表現が圧迫されるのである。
 自己表現を阻害することは、日本の学校の一般的な特徴であるが、言語の修得には大きな弱点になる。(ここから「英語を受験科目からはずすべきだ」という主張が現れる)
 表現することの教育が、言語だけではなく、ほとんどすべての分野に及んでいることは、容易に示すことができる。
最終更新:2007年09月25日 20:54