ニーナは随分と長い間祭壇の前に跪いていた。
 陣を描き、祭壇を置き、小さな儀式場を築く。その後は、真摯に祈りを捧げ続ける。ただそれだけの単純な作業だが、しかし、だからこそ重要であるのだ。
 何故ならば、この儀式は、未熟な魔女であるニーナにとって、欠かしてはならない事であるからだ。
 家を発つ日、少女の母はこう言った。
「祈りは忘れずに行うこと」
 いいわね、と念を押す母に向かって、ニーナはただ、うんと頷いた。少女は、祈りの大切さを知っていたのだ。
 母の言い付け通り、ニーナは今日まで儀式をし続けて来た。体調が優れなくとも、道具が揃っていなくとも、如何なる理由があっても、祈りを怠った事は一度も無かった。
 それだけが少女の取り柄だったが、かと言って、それをわざわざ周囲の人間に言触らすような事はしなかった。少女はあまり自己主張をする種類の人間ではなかったし、何より、滑稽だと嗤われるのが嫌だった。
 教会にいる一流の魔術師ならば、毎日儀式を行わなくとも強く在り続ける。だからこその一流。そんな強者の前で先の日課を嬉々として語る事は、自分は弱いですと殊更に言うのと同義である。自ら醜態を晒すほど、少女は愚かではなかったのだ。
 だからニーナは、人目の付かない場所で儀式を行った。誰にも知られぬように、こっそりと。
 女子寮でも行う事は出来たが、儀式の最中に誰かが部屋に訪ねて来る可能性を考えると、やはり、廃墟で密かにやった方が良いと少女は思った。集中が出来るし、何より、儀式を見られるのは恥ずかしいのだ。
 それは、少女が未熟だからこその意識だった。儀式は恥ずべき行いではない。彼女の母が居合わせていたならば、恥ずかしいと思う事こそが恥ずかしいのだと諭していたに違いない。そういう意味においては、やはり、少女はまだまだ未熟であった。

 ◆

 ニーナは、物心が付いた時にはもう母親の旅に同行していた。
 母は、白魔女だった。人の為になる事をする、良い魔女。それが白魔女なのだと、母は娘に言い聞かせた。
 事実、白魔女であるヒルデグントは、旅先で出会った人々の病気を治療したり、出産の介助をしたり、懊悩を解決したりした。子供心にも、それらが良い事であるというのは、漠然と理解が出来た。
 だからこそ、少女は次第に、母親――正確には、白魔女への憧れを抱いていった。
 人を助ける行いを目の前で見ているのだから、当然の成り行きと言えば、確かにその通りだった。正義の味方に憧憬するのは、子供であれば男も女も関係無い、という話になる。
 母親のような、人のためになる良い魔女に成りたい。
 それがニーナの、まだ幼い子供だった頃の夢だった。
 そして、今でも変わらずに抱いている夢だった。

 ◆

 にゃあ。
 見ると、野良猫がすぐ隣で寝転がっていた。祈りに深く没入していて気が付かなかった。
 何故だかは知らないが、儀式を行っていると必ず、いつの間にか少女の近くに猫が寄って来ているのだ。魔女としての性質なのか、それとも単に懐かれ易いだけなのか判然としなかったが、どちらでも良いと少女は思った。
 少女は、猫の頭を優しく撫でた。
 こうやって動物と触れ合う事こそが、人付き合いが苦手な少女にとっての、数少ない安らぎのひと時であった。
 余計な気遣いや人目を気にせず、小動物の温もりを直に感じられる和やかな交流は、少女に確かな安心感と幸福感を与えてくれた。
 教会や女子寮で過ごす時間が苦という訳ではなかったが、暗い場所で動物と静かに過ごす方が、自分の性格的に合っているのかも知れない。
「はあ」
 ほんとうに、暗い女だ。自分の事ながら、少女は溜め息を禁じ得なかった。
 必要悪の教会の一員になってから、もう数ヶ月が経とうとしているのに、少女は未だ、同僚達と完全に打ち解けていない。そもそも、どんな風に話せば意思疎通が成立するのか、少女は分からなかった。
 人付き合いが苦手なままで、これからの教会生活が上手く行くはずが無い。それは分かっている。分かっているのだ。けれども、だけれども、苦手なものは、やはり苦手なのだ。まずは、対話の苦手意識を克服する所から始めなければならない。
 しかし、それにしたって、少女にとっては容易い事ではない。
「どうすれば、良いのかな」
 いっそのこと、当たって砕けてみようか。いや、駄目だ。当たって砕けて、嫌われてしまえば終わりだ。それでは本末転倒だ。
 悪い癖だ、とニーナは、また嫌な気持ちになった。
 どうしても、悪い方悪い方へと思考が向かってしまう。考えれば考えるほど、深みに落ちて行く。まるで、暗い穴のようだと少女は思った。
 自然と仰ぐ。空はこんなにも青く澄みきっているのに、どうして私の心はこんなにも雲っているのだろう。
 考えて、どうなることでもない。
 人付き合いとは、そういうことと折り合いをつけていくことなのだと、知ったふりをしていた。母親と一緒に旅をして、色んな人たちと出会って、他の人とは少しだけ違う、あるいはちょっと早熟な、分かったような人間のつもりでいた。それなのに、この始末だ。実際の所は、母親が一緒にいないと上手く立ち回れず、人目の付かない場所へ敗走してしまう、不器用で消極的な人間だった。それがとてつもなく惨めで、ニーナは軽く唇を噛んだ。
 自己嫌悪。ニーナは、そんな自分が嫌で嫌で仕方が無かった。容姿も、性格も、能力も、何もかもが冴えない。
 必要悪の教会に入れば、何かが変わると思っていた。少しは強くなれると思っていた。
「でも」
 実際は、何の変化も訪れなかった。母の血を受け継いでいるのだから、そのうち、才能が開花するのではないかと少し期待していたが、そんな都合の良い事もなかった。
 母は十八歳のときには魔女として完成していたのに、自分は十八歳になった今でも半人前ですらないという現実に、少女は憂鬱になった。
 この先、教会の魔術師として活動し続けたとして、無事に成長する事が出来るのだろうか。母と同じ魔術結社に所属した方が良いのではないか。それとも、祖母の下で修業を積んだ方が良いのだろうか。どうすれば自分は、母や祖母のような、立派な魔女になれるのだろうか。そもそも、こんな自分が親のような魔女になれるのか。なれない可能性の方が大きいのではないか。魔女として生きているこの時間は無駄なのではないか。叶いもしない夢を追い続けて、一度しかない人生を棒に振るより、普通の女の子として生きた方が有意義ではないだろうか。
 少女の膝の上に居座っている猫が、にゃあ、と鳴いた。少女の思考が止まる。
 ほんとうに、自分はバカだ。
 鬱々と考え続けて、何の意味があるというのだろう、とニーナは繰り返した。
 今の自分に出来ることなど、たかが知れている。なら、それを一生懸命やりぬくだけだ。
 だから、じっとしていても無駄なのよ。ニーナ。

 深みから抜け出して少し晴れやかな気持ちになっていると、急に猫が走り出し、少女の下から去ってしまった。
 どうしたんだろう、と少女は首を傾げた。今までこんな事は無かったのに。
「おい」
 不意な男の声に、少女は思わず体を震わせた。男の呼び声に、ニーナは微かな苛立ちを感じた。
 恐る恐る振り向くと、視線の先に、一人の男が立っていた。その男には、見覚えがあった。少女は急いで立ち上がる。
「カンバナさん。どうしてここが分かったんですか」
 冠華霧壱。ニーナと同じく、必要悪の教会に所属している魔術師の一人だった。黒い髪が風に揺れる。
 嫌だな、と少女は思った。
 嫌っているわけではない。怖いのだ。恐いのだ。傷だらけの体。焦点の合っていない目。二重三重に巻き付けられた干し首の首飾り。そのどれもが、年頃の少女を恐怖させるには十分なものだった。
 嫌いなわけではない。ただ、自分から話しかける気になれないだけだった。少女にとって、彼は普通の男性よりも怖く見えた。もともと男性と話すのは得意ではなかったため、怖いという第一印象が、より彼女を霧壱という人間から遠ざけてしまっていた。
 別に、全員と仲良くしなければならないというわけでもない。誰しも苦手な人間は存在するのだ。仕方がないと、割り切ればいいのだと分かっている。だが、それも何だか彼に申し訳がないような気がして、なかなか決められない。傍からすれば、たかが一人の人間との付き合い方を決断できない優柔不断な人間に見えているだろうことも、ニーナはわかっていた。
 そんな自分が、ニーナは嫌だった。
「どうしてって。他に奴に訊いたに決まってんだろ」
「この場所は、誰にも言ってないはずなんですけど」
「知ってる奴は知ってんだよ。ミックとかな」
 ミック。ミックと言えば、ミック=フォスターに違いないと少女は確信した。
 律儀にもニーナは、教会の魔術師ひとりひとりに自己紹介をしている。そしてミックとも、自己紹介のついでに会話をした事があったのだ。彼の、全身をなめまわすような目つきに、失礼ながらも不快さを感じてしまって、それからは近寄りにくくなってしまっていた。
 彼は女性の裸を見るのが大好きな変態だという事実を、少女は後から知ったのだった。
 あの人なら、私のいる場所を知っていてもおかしくはない、と少女は納得すると同時に、少し気味が悪いとも思ってしまった。
 霧壱とミックは仲が悪いらしいと少女は聞いていたのだが、たぶん、脅すなりして無理矢理聞き出したのだろう。
「それで、あの、私に何かご用ですか」
「ああ。仕事だ。今から俺と一緒に、ある魔術師の潜伏先まで来てもらう」
「それって、つまり」
「魔術師の討伐だ」
「……」
「どうした」
「い、いえ」
 まさか、こんなにも早く魔術師討伐の任務が自分に来るとは。もう少し後の事だと思っていた。
 少女は、狼狽えはしたものの、すぐに平静を取り戻すことができた。
 覚悟はしていたのだ。書類整理や霊装管理などの雑用だけをこなす安全な日々が、いつかは終わることを。教会に属している以上、いつかは魔術師と戦わなければならないことを。
 遅いか早いかの違いでしかないのだ、と思った。
「分かりました。行きましょう」

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最終更新:2013年01月09日 19:08