第32話「大人の盾《アダルトオブリゲーション》」
「香染――――――――――――!!」
氷壁を突き破り、ユマの拳銃から放たれた弾丸は香染の右目を撃ち抜き、後頭部へと貫通した。弾丸を受けた香染のゴーグルは弾け飛び、彼女は膝から下が無くなったかのように全身の力が抜けて倒れる。
加賀美は地面に打ち付けられそうになる香染を抱えようとするが、ユマの銃口が自分に向けられていることに気づき、すぐさま回避行動を取る。
再び銃声が鳴り響いた。弾丸は加賀美の眼前を通り抜け、街路樹へと着弾した。加賀美が香染を抱きかかえようとしていたら確実に胸部を撃ち抜いていたであろう軌道。仲間の安否を確認しようとする良心すら利用して相手は“本気”で殺しにかかってくる。
ドシャ――――と鈍い音が鳴った。加賀美が受け止め損ねたことで香染が地面に投げ出されたのだ。その衝撃で頭からの失血が酷くなっていく。
加賀美は湧き上がる怒りと憎悪を抑えようと歯を噛み締めた。ユマの捕獲作戦は自分の独断専行だ。危険であることを承知で支部のメンバーをそれに付き合わせた自分の身勝手さ、目の前で仲間を守ることが出来なかった自分の無力さ、仲間を案じる気持ちすら利用するユマの外道さに怒りが湧き上がる。
「ぅらあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
抑えられなかった。湧き上がる感情を抑えるダムが決壊した。それを体現するかのように加賀美は足元のマンホールから大量の水を能力で地上に噴出させ、無数の水の弾丸をユマに差し向ける。
機関銃のように放たれた大量の水弾がユマに襲い掛かる。傍の街路樹に身を隠しても水弾が数発当たれば威力に負けてへし折れる。駐車場のトラックの残骸の影に徐々に近づくように街路樹を盾にして本命の盾に近づいていくが弾幕がそれを許さない。
『加賀美さん!落ち着いてください!微弱ですがまだ生きてます!』
鳥羽が必死に呼びかける。彼の大声が加賀美の鼓膜をビリビリと突き破らんばかりに響くが、加賀美からの応答はない。怒りというフィルターで鳥羽の声は脳にまで届いていないようだ。
ユマにとって加賀美も厄介な能力だった。放たれた水弾は凍らせても既に付いたスピードは落とせない。それどころか霧が液体の弾丸を固体の弾丸にしてしまう。逆に弾丸の強度を強めてしまう。水弾一辺倒の攻撃を繰り出されては逃げの一手しかない。
水弾から逃げながらやっとも思いで駐車場のトラックの影に隠れる。
(とにかく、まずはレーザーの奴を無力化した。あとはあの水使いさえどうにかなれば…)
ユマがふと足元を見下ろす。足が水溜りに浸かっている。
(水!?)
その瞬間、水溜りから無数の水弾が顔面に向けて撃ち上げられる。咄嗟に首を横に振って水弾から逃れるが、左手に向かって射出された水の散弾は回避しきれなかった。水弾が着弾したところに痣が出来上がり、衝撃で警備員から奪った拳銃を弾き飛ばされてどこかへと転がっていく。
(水の傍は危険だ!どこか安全な場所に!)
ユマはトラックから飛び出した。止まって水弾の的にならないよう駐車場を走り回りながら安全なポイントを探す。水溜りを踏み、足元がビチャビチャと音を鳴らす。常に足が水に触れ、どこを走ってもその音が耳から離れることはない。
ユマは周囲を見渡した。特に地面を注意深く。地面には水溜りに反射して大量の夜空が写っていた。どこもかしこも水だらけ。駐車場一面がスコールの後のように水が張られていた。全てが加賀美の能力の対象、彼女のテリトリー、ホームグラウンド、絶好の狩場が水弾のばら撒きで形成されていったのだ。水弾が氷弾となって攻撃力が上がることを懸念して水弾を放置していたことが仇となった。
――今ならまだ霧を地面に這うように操作すれば凍らせられる。
ユマは水弾の盾となる別の車の影に隠れると、間髪入れず足元にある水溜りにイツラコリウキの氷槍を地面に突き立てた。槍の先端が噴霧し、地面を這うように駐車場の水溜りを全て氷に変えていく――――――はずだった。
噴霧した瞬間、槍の先端は氷のブロックと化していた。正方形の氷塊が刃を包み、槍というよりはメイスに近い。ご丁寧に刃の付け根にある噴霧口もしっかりと氷でブロックされていた。これでは霧を出すことは出来ない。
(あのガキんちょ!とんだ策士じゃねえか!)
ユマは加賀美の猛攻が始まってから注意を加賀美と彼女が放つ水弾に向けていた。その時からずっと槍の先端に目を向けることなどなかった。最初にトラックに隠れた時にこっそり槍の先端に水を纏わりつかせたのか、ユマを追い込む水弾はあくまでブラフでユマ自身を狙う水弾と見せかけて最初から槍の先端に纏わりつかせるのが目的だったのか、そのどちらなのかは分からない。だがタイミングはどうあれ槍の先端に水塊が纏わりつかせれば、あとはユマが勝利を確信した馬鹿面を下げて氷霧の展開を待てばよかったのだ。
(----けど、詰めが甘いな)
ユマは不敵な笑みを浮かべると氷槍を高々と持ち上げた。そして、渾身の力で地面に振り下ろす。
鈍い音がした。少なくとも氷が割れるような音じゃない。何か肉のようなものを棒で叩いた感触を手で覚えた後、抵抗によって地面へと向けられた力のベクトルが腕に逆流してビリビリと震える。
振り下ろされた氷槍は深祈の太腿で受け止められ、先端の氷塊と地面が衝突するのを防いでいた。
「霧が出せないなら………後は俺の仕事―――っすね」
深祈は槍を受け止めていた腿をサッカーのリフティングのように槍を軽く上げた。その途端、深祈はユマとの距離を詰め、腹部強烈な蹴りをお見舞いした。盾にしていた車の残骸と共にユマは駐車場の反対側まで飛ばされる。
目まぐるしく回転する視界、共に宙を舞う自分が冷気で破壊した車の残骸に巻き込まれて身体を切りつけられる痛み。蹴りの勢いは脳までも揺さぶり、ユマには自分が何をされたのか理解、いや思考する暇すら与えなかった。
ユマの視界が朦朧とする。口からは血反吐と今日の朝食べたものの未消化物と胃液が一緒に出てくる。気分は最悪だ。謎の魔術師との闘い(霊装なし)から目覚めたら今度は複数の能力者と戦う羽目になる。悪いことをした覚えは数えきれないほどあるが、これらの人物から恨みを買った覚えはない。
ユマが面を上げると彼女の額に銃口が向けられた。ユマが警備員から奪い、加賀美との戦闘中に落としてしまった拳銃だ。
「この戦い、私達の勝利ね」
加賀美が先程の激情がどこかへ飛んでしまったのか、勝利を確信したかのような余裕の笑みを浮かべた加賀美が声をかけてきた。明らかに何かしらの駆け引きを持ちかけてきた顔だ。
ユマは警戒した。今ここで冷静な加賀美を見てしまったことで彼女の真意が分からなくなった。激情に流されていた人間が戦闘中の駆け引きという戦術を自ら持ち込むのは自殺行為に近い。冷静に物事を判断出来ないからだ。しかし加賀美は余裕の笑みを浮かべて自殺行為を持ち出したのだ。彼女にとって香染は一時の激情だけで済ませられる存在なのか。激情を押し込んで冷静な自分を無理やり演じているのか。それとも、身に滾る激情を冷静に処理できる人間なのか。ユマの頭の中で様々な憶測が飛び交う。
「部下が死んだのに駆け引きを持ち込むなんて…氷の心臓の持ち主か?」
「駆け引きなんてものじゃないし、私の後輩を勝手に殺さないでくれない?」
加賀美は空いているほうの手の人差指でインカムを指す。
「それでも貴方をぶっ殺したい気持ちで一杯よ。けどリーダーってのは激情ですら冷静に然るべき処理を施さなければならないの。軽く叩いた口やボヤキですら大惨事の発端になってしまうんだから」
「お子様のポリスごっこの癖に大袈裟だな」
「そのお子様のポリスごっこに追い詰められて満身創痍なのはどこの誰なんだろうね?」
互いに挑発的な態度で挑むが、そこに大した意味はない。軽い挨拶みたいなものだ。
「時間が無いから単刀直入に聞かせてもらうわ。『
尼乃昂焚はどこ?』」
ユマは答えに詰まった。いや、そもそも詰まらせるような答えは持ち合わせていない。彼女も昂焚を追ってこの街に来た人間だ。尼乃昂焚がどこにいるかなんて情報はユマだって喉から手が出るほど欲しかった。
「そんなの…私が知りたい…さ」
「は?」
「私達の目的は同じって…ことだ。私は…昂焚を追って…この街に来た。この街にいるって情報以外は何も知らない」
「そんな……」
加賀美は落胆した。尼乃昂焚、彼を追って行方不明になった
神谷稜に繋がる唯一の手がかり、狐月と香染が傷ついてまで戦った結果が「無駄足」だったのだ。
落胆し、絶望する加賀美を目立たせるかのように彼女が大量の光に包まれる。体の芯に響く複数のエンジン音、目を突き刺す眩いヘッドライトの光。警備員の警邏車、装甲車が駐車場を取り囲んでいた。
「銃を捨てろ。加賀美」
装甲車の上の扉から重装備の紫崎が上半身を出し、アサルトライフルの銃口を加賀美に向けていた。引き金に指をかけていないところからあくまで威嚇であり、発砲の意思がないことが窺える。
加賀美は黙ったまま握っていた拳銃をどこかに放り投げる。
「全員を拘束しろ!怪我人は病院へ運べ!」
紫崎が警備員たちを仕切り、重装備の警備員たちがワラワラと虫のように装甲車の中から出てくる。あの装甲車には詰められるだけ人員を詰めていたようだ。彼らは加賀美を含む一七六支部のメンバーを拘束し、ケガをしていた狐月と香染を担架ですぐ目の前の病院へと運び込む。
2人の屈強な警備員が加賀美の両腕を抑え込み、彼女を拘束する。同時に目の前のユマには彼女を取り囲むように10人以上の警備員が集まり、担架に乗せてどこかに連れて行く。
「さて…どういうことか説明してもらおうか」
加賀美の前に紫崎が立つ。組み伏せられ、頭を無理やり下げられた彼女は見上げた。視線の先にあったのは、怒りと悲しみに満ちた初めて見る先生の顔だった。
武装した警備員、彼らから説明を受ける医師と看護師たち、ソファーに座る傷だらけの風紀委員。あまりの人数に窮屈さを感じるロビーだったが、空気は冷たく張り詰め、まるで通夜のように静まり返っていた。
警備員の介入の後、この作戦に参加した一七六支部のメンバーは拘束され、オペレーターとして支部に残っていた葉原と鳥羽は出頭を命じられ、重傷の香染と狐月は治療を受けていた。
一番重傷な香染だったが、何とか一命を取り止めた。ユマが放った弾丸は香染の眼球を潰し、視神経もズタズタに破壊しながら後頭部の頭蓋骨を貫いた。しかし、今回のためゴーグルに外付けしていたディスプレイとハードディスクが盾となったことで弾道をわずかに狂わせ、奇跡的に脳は一部を損傷するだけで済んだ。しかしその“一部”が問題であった。運動技能の学習や情報の統合、誤差の照合などの役割を果たす小脳は確実にダメージを受け、視覚を司る大脳の後頭葉も損傷の恐れがあった。後遺症のレベルについてもまだ分かっていない。
自分に重く圧し掛かる罪と責任、これから16歳の少女に待ち受けるのは裁きと贖罪に支配された人生だ。加賀美は警備員に囲まれながらソファーに座り、俯いてずっと床を見ていた。
「落ち着いたところで、どういうことか説明してもらおうか?」
紫崎が加賀美の前に立つ。ほぼ毎日会っている顔、たまに冗談を飛ばし合ったりした気軽な仲の先生。しかし、今の加賀美にとっては歩み寄る処刑台に見えた。
加賀美は正面から迫り来る恐怖に耐え、涙ぐみながらも何とか面を上げた。
「どうしてお前達がここにいて、あの女と交戦していた?」
加賀美は立ち上がり、負けん気で紫崎と目を合わせる。
「私たちも独自のルートで事件を追い、彼女とテロリストの関係に辿り着きました。全ては私の責任です。私が支部のメンバーを扇動してこの作戦を決行しました」
「それはご苦労だった。だが言わなかったか?『くれぐれも追うな。大人に任せろ』と。どうしてそれを破った?」
加賀美の肩が震え、拳が強く握られる。今の彼女には紫崎とATTの蒲田とかいう男が同じように見える。
「私達も風紀委員です!この街とそこに住む人達を守る意志と権利があります!」
パチン!
紫崎が加賀美の頬を叩いた。その衝撃で彼女の顔は真横を向いた。無言で痛みだけが彼女に伝わる。周囲も静まり返り、一斉に加賀美と紫崎を振り向く。近くに座っていた葉原が怒りの形相で立ち上がろうとしたが、それを鳥羽と深祈が抑え込む。
「素晴らしいな。だが詭弁だ。お前達の行為は風紀委員の権限を逸脱している。『風紀委員だから』は通用しない。風紀委員の腕章は免罪符じゃないんだぞ!」
罵倒のように降り注ぐ紫崎の言葉が突き刺さる。
「今回は正当防衛でも緊急事態でもない!お前達の積極的な攻撃行動だ!今までは大目に見てやったが、今回は危うく2人も死人を出すところだった!大人として!教師として!親御さんからお前達を預かっている身としては到底許容できるものではない!」
「だから風紀委員の権限は限られているんですか!それじゃあ私達は鳥籠の中の鳥じゃないですか!安全圏からものを言うために風紀委員になったわけじゃありません!」
「我々からすればお前達も“守る対象”だ!風紀委員だろうと超能力者だろうとそれは変わらない!だから大人は風紀委員の活動を制限している。子供を危険な目に遭わせないようにするためだ!どうしてそれが理解できない!?鉄火場に首を突っ込むことだけが風紀委員の仕事じゃないだろう!」
加賀美は反論しなかった。紫崎から目を反らし、何も言い返せない自分の拙さに歯ぎしりする。彼女の頬を汗が滴る。その様子を紫崎は見逃さなかった。
「加賀美。お前は何をそんなに焦っているんだ?」
紫崎の言葉は加賀美の心臓の中心を深く突き刺した。今の自分は冷静さを失っている。警備員にも風紀委員の仲間たちにも見苦しい抵抗を続け、そして自分の奥底に眠るもう一つの“私情塗れ”の目的を抱いている。
加賀美は答えられなかった。ただ目線を反らして押し黙った。
「後は俺に任せてくれないか?」
紫崎の肩を叩き、彼の背後から九野が姿を現した。
その様を見て加賀美は少しだけ安堵する。一瞬だけでも紫崎の意識が自分から逸れたことは彼女に精神的な余裕を与えた。だが、それと同時に“責任逃れをしようとする自分”が見えてしまい、それに嫌悪する。
「紫崎先生には彼らの指揮を任せたい。例の作戦も予定通り行う」
「分かりました。こいつらのことはお願いします」
加賀美は九野とは面識がある。彼は電気系統の能力者の研究を行っており、身近なサンプルとして電気系能力者の焔火緋花がいる一七六支部を頻繁に訪ねており、事件では彼の頭脳に何度も助けられている。
だが、今となっては彼の頭脳が恐ろしい。黒光りするゴーグルの奥底から覗かせる目が加賀美の心を見透かしている。まるで人の思考をスキャンするサイボーグが目の前にいるようだった。加賀美は九野に目を合わせられず、少し目線を反らして話す。
「お前にしては、随分と大胆な行動に出たな」
「……」
「本来のお前は軽くいい加減のように見えるがデッドラインをちゃんと見極められる人間だ。だが今回はそれが出来ていなかった。------いや、見極めていながら、あえてラインを踏み越えた。そうでもしなければならない事案がここ3日の間で発生した。
それが“神谷稜の失踪”
お前…いや、お前達は神谷の行方を捜し、それと同時に神谷が追い求めているであろうテロリスト“尼乃昂焚”を捜し、先回りするつもりだった。そして、“独自のルート”とやらで彼女と尼乃昂焚の関係性を知った」
「九野先生の……言う通りです」
「俺たちも全てを承知の上で加賀美さんに付いて行きました」----と鳥羽が続け様に言う。
九野は「そうか」と呟くと深くため息をついた。ATTのことや加賀美と葉原が彼らに釘を刺されたことは紫崎から聞いている。絶対的な権力を使った威圧的な忠告だと聞いた。それですら彼女たちを止められなかった。紫崎や自分が叱咤したところでこの“聞かん坊達”はより冷静に安全な策を構築してこっそり動き続けるだろう。警備員として長いことやってきたが、ここまでの問題児は久し振りだ。
(はぁ~。問題児マニアの黄泉川に丸投げしたい)
「どうせお前達のことだ。謹慎処分を受けても明日になったら監視の目を欺いて動き続けるんだろう?」
「いや…それは…まさか」
加賀美は明らかに動揺している。「もう懲りました。しません。大人しくします」とキッパリ嘘を吐けば良いのにすぐに頭が回らず、しどろもどろな思考がすぐに表に出てしまうところが、まだ彼女が16歳であることを思わせる。
「やるんだろう?」
「まさか…そんなわけ」
「やるんだろう?」
「もう懲りました」
ずいずいっと九野が迫る。ゴーグルに反射した自分が見えるほど近い距離での威圧、筋骨隆々な体格と天才的頭脳、歴戦の経験が彼の凄味を増長させる。
「正直に言いなさい」
「―――――――――――――――――――はい。多分、裏で細々と続けると思います」
加賀美は彼の圧力に折れて本音を吐き出すと、九野は引いて通常の距離に戻る。
「はぁ~。仕方ない。これより、一七六支部は特殊事件臨時対策室の管理下に置き、我々と共に活動してもらう」
突然の発言に一七六支部の面々は理解が追い付かなかった。詰め寄って加賀美に本音を吐かせた九野の行動ですら彼の真意が分からなかったのに、特殊事件臨時対策室という初耳の部署、風紀委員が警備員の管理下に置かれること、今まで散々「関わるな」と言っておきながら今度は「一緒に活動しろ」と真逆のことを言われ、頭がこんがらがっていた。
「特殊事件臨時対策室は本日発足した私設部署だ。今回のテロ騒動の解決を目的とし、紫崎先生と彼の考えに賛同した警備員たちによって構成される。そこにお前達を組み込む。お前達のような想定外の超問題児は手元に置いて管理した方が良いからな。だが、間違っても前線には出さない。あくまでサポートだ。分かったな?」
理解しつつもどこか納得のいかない「はい」が加賀美たちの口から零れた。一七六支部自分達の事件との関わり方が意志とは無関係に次々と決定されていく。まだ子供で何の権限も持たない彼女たちには口を出す隙も無く、ユマとの戦いで肉体的かつ精神的に疲労していた彼女らに言い返す気力も残っていなかった。
「対策室の本部については明日連絡する。とりあえず、今日はもう帰す。駄々をこねても無理やり寮に押し込んでやるからな」
九野が警備員たちの中に紛れていた緑川を呼び出す。相変わらず常人より二回り大きい彼の身体は目立つ。装備も彼専用の特注サイズだった。
「こいつらを映倫中の寮に届けてくれ。無理やりにでも部屋に押し込むんだ。向こうの寮長から尋ねられたら、『公務です』の一点張りで貫け」
九野は指示を出すと緑川に護送車のキーを渡した。
緑川はそれを了承するとただ静かに「ほら、帰るぞ」と声をかけ、一七六支部の面々に立ち上がって護送車へ行くのを促す。
全員が渋々と立ち上がる。ここから立ち去りたくない気持ちもあったが、何より精神的な疲労が大きかった。ここ3日間、碌に休んでいないのだから仕方ない。立ち上がって病院の出入り口へと向かう加賀美に九野はこっそりと丸めたメモ紙を握らせた。
こっそりと誰にも悟られないようにメモ紙を開く。
彼女を足止めしてくれた礼だ。“私のデスクを盗聴していたこと”については不問にしておいてあげよう。
つくづく大人とは恐ろしいと思った。
第七学区の病院に近い道路。夜遅く通りの少ない閑散とした道路に一台の車が停まっていた。メタリックグレーの何の変哲もない4人乗りの乗用車だ。
運転席の女が双眼鏡を使って病院の方向を見つめる。双眼鏡は何かよく分からないハイテクな機器が取り付けられていて、百科事典並みの大きさになっている。
「最悪。騒動が起きてフル装備の警備員が集まっているわ。これじゃあ、作戦を決行しても飛んで火に入る夏の虫ね」
そう運転席の女、
桐野律子はスピーカーモードに設定したスマートフォンを通して別行動の
組濱衿栖に状況を説明する。
『何言ってんの!りっちゃん!明日には実験をしないと十分な結果が得られないんだよ!試薬のアミノ酸構造だってそろそろ劣化が始まってるんだから!』
「そっちからも見えていると思うんだけど、相当の数よ。絶対に妨害されると思うんだけど。捕まったら元も子もないわ」
『虎穴に入らずんば虎子を得ず!タイムオーバーになったら今までの準備がパーになるんだからね!りっちゃんが何と言おうとやるよ!』
「発案者の私よりやる気満々じゃない」
(まぁ、あっちは地上。こっちは屋上からの突入で目標は9階の病室。接触せずにやり遂げる可能性はあるわね)
律子は鼓膜に響いて聞くだけで健康に悪そうな衿栖の声の相手をする。ふとバックミラーを見ると警備員の警邏車が近づいてくるのが確認できた。
「ごめんなさい。警備員が来たから切るわ」
律子は通話を切ると、自分の企みを悟られないように用心する。
彼女の予想通り、警邏車は自分の車の近くに停まり、2人の警備員が降りてこちらに向かってきた。
「御取込のところすみません。夜間のパトロール中です。住民IDを確認させてもらっても宜しいでしょうか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
律子は冷や汗をかきながらもID証を出す。つい先日まで監獄の中にいた身だ。本能的に警備員には身震いする。衿栖が何をしたかは知らないが、仮釈放の手続きに違法性はないはずだ。心許ないが衿栖を信じるしかない。
IDを受け取った警備員がスキャナーで確認する。
「お名前と年齢。あと所属をお願いします」
「桐野律子。27歳。今は無職よ。IDの方にもあるでしょ?今は仮釈放中なの」
「確認しました。ところで、こういう男性を見かけませんでしたか?」
警備員の一人が胸のポケットから紙を取り出し、広げて律子に見せた。11月1日の事件で監視カメラに残っていた尼乃昂焚の姿だ。彼の姿がより鮮明になるようにコンピュータ処理されている。
(!?)
律子は思わず目を見開いた。確かに彼女はこの男を知っていたが、お尋ね者のことを知っているとなると後々面倒になると考え、彼女は口を噤んだ。それに知っていることは1年前の話だ。彼らにとっても有益な情報には成りえないだろう。
「ごめんなさい。知らないわ」
「ご協力ありがとうございます。あくまで仮釈放中ですので、あまり夜は出歩かない方が良いですよ」
「ご忠告、ありがとう。このまま家に帰ることにするわ」
警備員からIDが返却される。律子はそれを受け取ると柄にもなくニコッと笑い、車の窓を閉めて逃げるように車を走らせた。
(まったく…心臓に悪いわ)
病院に背を向けて走らせつつバックミラーで後方を確認する。狭いスペースに映るのは雲一つない星空と病院の屋上。地上の物々しい雰囲気とは対照的に夜空は静かに、月は地上の騒動など気に掛けることなく夜を照らす。人の騒ぎなど月の女神にとっては些細なことに過ぎないのだろう。
しかし、天空の静寂は破られた。上層階の窓が次々と割れ、黒煙が立ち込める。ミラーから見える星空もすぐに黒煙に包まれた。病室に次々と明かりが点き始め、病院全体を巻き込む大騒動になっているのが容易に窺えた。
とある病院の9階。そこは命を救う現場とは思えない惨状が広がっていた。硝煙を上げながら弾丸がまき散らされ、壁や扉を次々とハチの巣のように穴だらけになっていく。何人もの人間が体の各部から血を流して倒れ、周囲には血や肉片が飛び散っていた。救命が何よりも至上とされる場所でありながら命が紙屑のように消費される。趣味の悪いスプラッター映画のワンシーンの方がまだマシに思えるくらい凄惨で吐き気を催す光景だった。
組濱衿栖はその銃撃戦の中で死人部隊を肉の盾にしながら、気を失った
毒島帆露の服を掴んで引きずっていく。
「あー!もう!何でこうなるのよー!」
衿栖の計画は完璧だった(と本人は思っている)。
人員輸送用の大型ヘリを救急ヘリに偽装し、ごく自然に屋上に着陸させ、狭域キャパシティダウンで毒島帆露と
四方神茜の能力を封じ、ささっと楽に誘拐を済ませる予定だった。警備員は地上に展開しているが、エレベーターは止めて使えないようにした。そうすれば彼らは重装備で階段を駆け上がる羽目になる。無論、現場に到着するまでの時間も長くなる。ヘリや航空機の介入も視野に入れているが、時間がかかり脅威となる確率は低い。完璧な計画だった。
“茜にはキャパシティダウンが通用しない”という点を除けば。
茜の能力は振動支配。ありとあらゆる振動を感知し、それを自在に操る能力だ。対してキャパシティダウンは音という空気の“振動”を利用して能力者の演算能力を阻害する音響兵器だ。茜は6月の事件で一度キャパシティダウンに触れており、その音響データを取得、それを相殺する振動
パターンを算出し、演算能力が阻害された状況でもその振動を発生できるようにデフォルト設定していた。
迅速な対応で帆露の誘拐には成功した。しかし茜の抵抗が想定を大きく上回り、損害0で済む作戦に全戦力を投入して既にその三分の一を失っていた。
屈強な体格の死人部隊を使って覆い被さり、その筋力と重量で無理やり茜を押さえつけるといった単純な捨て駒作戦。衿栖がその場で思いついた破れかぶれの作戦だったが予想以上の効果があり、彼女が展開する振動の膜で死人の身体が分解されて肉片になるまでのタイムラグの分は足止めすることが出来た。
「ってか、これ私が運ぶ必要ないよね!5号ちゃん!これ運んで!重い!」
衿栖は近くでマシンガンを撃っていた女性の死人部隊に帆露を引き渡す。5号は無表情なまま衿栖の方を向き、片腕で土嚢のように帆露を肩に乗せて抱える。
「じゃあ、このまま逃げるよ!」
応戦、特攻する死人部隊たちを見捨てて衿栖は5号と共に屋上へと繋がる階段へと走ろうとした。
ドサッ……!
帆露を抱えていた5号が糸が切れた操り人形のように倒れ、顔面を打ち付ける。帆露も勢いで前方に投げ出される。グチャァと生々しい音が衿栖の耳に入った。
「な、何?」
恐る恐る5号を見る衿栖。そこには腹部にソフトボールサイズの穴が開き、臓器を飛び散らせた5号の姿があった。
「ガチャガチャガチャガチャ五月蠅いんだよ…」
後方から聞こえる少年の声。憎悪に満ち、遣りどころのない怒りを全方向に向けた刺々しい視線が向けられる。
衿栖は振り向いた。見えるのは明かりのついた廊下、隊列を組んで銃口を構える死人部隊の背中、その奥には多くの死人部隊の死骸に埋もれて身動きの取れない茜、更に奥、病院の廊下の奥底からどす黒いオーラの塊が歩み寄ってきた。
最終更新:2014年08月21日 04:22