ただ、ひたすらに勝利を求めて。
 ただ、ひたすらに強きを掲げよ。


 古きよりは新しく。少ないよりは多いほうがいい。負けるくらいなら勝つことを目指せ。
 人はいつでもそうしたプラス―――正の側面を求めがちだ。評価の点数は一点でも高く、生涯の収入は一円でも多く。その為に人は努力するし、そうすることが美徳とされている。恐らく、それは間違いではない。
 勝利を求めなければ人の心は腐っていくし、夢を求めることで人は命を輝かせてきたのだから。誰もがプラスを目指すことを美徳として、世界はここまで突き進んできた。
 飽くなき試行錯誤と不屈の意思。端的に言って、決意によって積み上げられてきたと言っても過言ではない。
 だが、得てして物事がそうであるように、その全てには裏というものが存在する。

 希望の裏には絶望が。獲得の裏には喪失が。成功の裏には失敗が。
 プラスの裏にマイナスが存在するというのもまた事実。
 そう、物事には常に、負の側面が成功とは不可分に結びついている。
 人の社会に当てはめて簡単に言ってしまうなら、誰かが勝てば他の誰かが負けるのだということ。自らが一位を取れば当然その他は栄光を掴むことはできないし、輝かしい脚光の下ではそれに数倍する敗者が常に土台となって涙を流しているのだ。
 そのマイナスを、けれど人は当然とは考えない。そも何かを為すにあたり負の側面に目を向けるのは禁忌だと言わんばかりに、人は勝利だけを目指す。
 努力しろ、成功しろ、自分はやればできる人間なのだと―――それは酷く穿った見方をすれば、自分のために多数の敗者を用意しろという考えでもある。

 自らのために他者を蔑にするという、手放しには賞賛できない現実。それを覆い隠すために、勝利や成功という言葉は過剰に華美な修飾を施される。そしてだからこそ、人は敗北や失敗を恐れるのだ。
 失敗や敗北など一度の躓きに過ぎず、すぐに再起すればいいと―――そんな単純なことにも気付かず、必要以上に消沈して悔み続け、失望に心を塞ぎがちになってしまう。転んだならば立ち上がればいいのに、自縄自縛に陥ってそんな簡単なことさえできなくなってしまう。
 それは、言うまでもなく悲劇でしかない。

 ならば。
 常に正と負、物事の両面どちらにも心を置けば、精神は均衡を見せるのではないか?
 プラスにもマイナスにも拘らず、囚われず。必要以上に惑うことも飢えることもしない。
 その結果として残るのは、中庸だ。
 正負いずれにも傾かず、優れも劣りもしない中道の立ち位置。
 零、中立。何者でもなく、何物でもあり、何に成ることも成らぬことも自由自在の可能性。

 幸福でもなく不幸でもない。
 勝者でもなく敗者でもない。
 それは何も持たないが故の素のままの自分、自己を覆う装飾のない正真正銘の丸裸ということに他ならない。
 そんな、何にも拠らない状態こそが己の真実を映すのだとしたら。
 やはり俺は中庸に―――確固たる自分で在りたいと、そう願うのだ。





   ▼  ▼  ▼





 不必要であるように思えて、実際には必要不可欠である事柄というものは、存外に多いものだと秋月凌駕は考える。
 例えば、他人から見れば無駄にしか思えない出費があったとしよう。無駄遣いと呼ばれるそれは、一見すれば不必要でしかない損失であって、倹約という美徳とはかけ離れたものでしかない。
 しかし逆に考えるならば、それで本人にとっての満足が得られるのだとすれば、結果として正しい金銭の使い方だったと言えるのではないだろうか。
 浪費、無駄遣い、やめろやめろ家計が傾く。そんなことを言われても貯めることが苦痛ならば、その人物にとって倹約こそが心身を蝕む毒となるわけで。本質的なものは、単純な二者択一や数字の増減にあるのではないのだ。
 まあつまり何が言いたいかと言えば。

「……いつまで経っても慣れないな、これは」

 聖杯戦争が始まったというのに、朝早くから登校しようとしている凌駕のこの行為も。
 本人からすれば、決して不毛な行いでも無駄な行いでもないということだ。

 それはアサシンのサーヴァントを引いたことによる情報収集の必要性と、それに付随しての身柄の隠蔽の必要性もそうではあるが。
 そんな定型のお題目以上に、聖杯戦争などという非日常(マイナス)を、疑似とはいえ学生生活という日常(プラス)で釣り合いを取りたいという理由が、凌駕の中では大きな比重を占めていた。

「はあ……」

 溜息を一つ、朝焼けに染まる坂道を自転車が走り抜けていく。冷えた外気が肌に突き刺さり、もう季節が冬に突入し始めているのだと否応なく気付かされる。

 慣れない、と凌駕がぼやくのは、偏に生活環境とこの世界の「時代」に関してのことだった。元来凌駕が住んでいたのは1968年の日本であり、つまるところ今の凌駕は半世紀以上ものジェネレーションギャップを食らっていることになる。
 ようやくカラーテレビが民間に普及し始めたかと思いきや、ここの電機業界はやれ液晶だのやれ衛星通信がどうだのとよく分からない謳い文句を上げ、果ては本体の薄さを最大の売り文句として声高に叫んでいるのだから理解できない。ちょっと前まで三種の神器がどうだと持て囃されていた時代の人間としては、終始困惑するしかなかった。
 生活の端々や一挙一刀足に至るまで、そうしたギャップは付いて回った。勿論凌駕とて十代特有の適応力の高さを遺憾なく発揮して現代の生活に溶け込んではみたが、やはり慣れないものは慣れないもので、妹の高嶺からは若干不信がられもしたものだ。
 こうして一歩外に出て見渡せる光景も、元いた場所とは似ても似つかない。モダン造りの路地も、砂利も露わな坂道も、工場から見える排煙も、旧時代の遺産として根こそぎ洗い流されてしまったように姿を隠していた。無論、それが時代と人の発展の結果だということは重々承知しているが、それをいきなり目の前に突き付けられても人は戸惑うしかないと思う。少なくとも凌駕はそうだった。

 ともかくとして、彼は慣れない生活を送り、慣れない道を通り、それでも"普通"に登校しようとしているのだ。とはいえ全てがいつも通りというわけでもない。常ならば一緒に登校する妹の姿はなく、今日は彼女に先んじて早めの時間帯に家を出ていた。言うまでもなく、万が一にも巻き込みたくないからである。これからは出会いがしらに戦闘に発展することも十分考えられるのだから、当然の配慮だった。
 と、そこまで考えて。




「……ん?」




 ふと、凌駕に備わった刻鋼人機としての鋭敏な感覚視野が、ある種の"異常"を感じ取った。
 騒音を通り越した怒号と、何かが爆散するかのような轟音。それは距離を隔てているが故に常人には聞き取れないほど小さなものであったが、凌駕は確かに聞き届けた。

「騒ぎ……いや、それにしちゃ随分と尋常じゃないな」

 無視する、という選択肢は存在しなかった。すぐ目と鼻の先に件の音の発生源が存在するということ、そして耳に届く怒号が、明らかに物騒極まりない事態を叫んでいるという事実を前に、退くことはできなかった。
 これが元いた場所ならば、ロビンフットの面々による情報バックアップが期待できたのだろうが、今はそんな詮無いことを言っていても始まらない。捜査の基本は足で稼ぐ、なんて言えた立場じゃないが、多少戦えるだけの高校生に過ぎない自分が取れる手段はその程度しかないのだから、やれることはきちんとやっておこうと心に決める。



 自転車を穏当な場所に停め、徒歩で暫し。初めは遠目に見えていた件の場所……大規模造船所が徐々に近づくにつれ、人の波が常とはまるで違う動きをしていることに、凌駕は気が付いた。
 逃げ出している、というよりは戸惑っていると言うべきか。本来なら流れるように進行して然るべき車通りは停滞を見せ、事情も分からず困惑している者がほとんど、といった具合だ。この時間帯故に数の少ない歩行者も皆揃って眉を顰め、何事かと事態を伺っている。


 ―――人払いの術をかけてないのか……?


 ふとそんなことを思う。それは予選期間においてアサシン、というよりはその宝具であるヴェンデッタから教わった知識にあるもので、元来魔術師というものは衆目に晒されることを嫌い、人間の認識に訴えかける術を用いることで魔術的な人払いを為すのが定石なのだそうだ。
 原理及び動機としては、時計機構の扱うマンドレイク・ジャマーと似たようなものだろうが……どちらにせよ、仮にこの事態が聖杯戦争に参加する魔術師によるものだとすれば、魔術としては基本的なそれである人払いをかけていないというのがどうにも気にかかる。
 魔術的な素養のないマスターが考えなしに暴れている、というのは考えづらかった。そのような愚物は予選期間に排除されて然るべきだし、ここまで生き残ることはできないだろうから。だとすればサーヴァント同士の戦闘かとも考えたが、それにしては異様に規模が小さく、それもまた考えづらい。
 造船所のすぐ目の前に辿りついた凌駕は、混乱に乗じて壁を乗り越える。数mはある外壁を一息に飛び越えて中に入れば外の喧騒が嘘のように静まり返り、人の気配すらも微塵も感じ取ることができない。しかし時折静寂を貫いて鳴り響く轟音が、この場が無人の寂静領域ではないのだということを切に訴えかけていた。

(やはり妙だ……何が起きてる?)

 怪訝に思いながらも、凌駕は無人の道行を一気に駆け抜ける。吹き抜ける風が頬を撫でる毎に鼓膜を振るわせる振動が強まり、内蔵された感覚器官が目的地まで近づいていることを言葉無く伝えてくる。

 いくつかのコンテナと積まれてあるブロックを横切り、何度目かの右左折を経て。そして最後の路地、死角となっている曲がり角を通り抜けたところで。



「……こいつはまた、派手にやらかしてるな」



 ―――そこには、嫌に黒ずんだ鮮血の跡と腐敗した汚泥が目の前に広がっていた。

 視線の先では人間―――恐らくはこの造船所に勤務するNPCか、それらが死に、倒れている。それはいい、良心は軋むが予想の範疇であったし、展開として理解はできた。
 しかし、その死に方が異常なのだ。端的に言えば白骨化していた。それも大量の汚泥に塗れ、腐食するように不快な音を立てながら。ぶち撒けられた鮮血の赤も既に腐敗し黒ずんで、それは屠殺場というよりは酷く湿ったゴミの廃棄場と形容したくなるような光景であった。
 いくつもの白骨に群がる汚泥は異様な嵩を持ち、アスファルトの地面はおろか付近のコンテナや積荷にまで飛散し接触箇所を融解させている。濁りきった体表のどこにそんな腐食性が存在するのか、鼻を突く刺激臭と共に強酸じみた振る舞いを見せながら触れる全てを侵食している。
 辺りに漂う鼻につく刺激臭は汚泥由来のガスか。大気成分の解析結果を伝える文字列が有毒であることを如実に伝えてくる。刻鋼人機故に凌駕の肉体にはただちに影響が出るわけではないが、一般人がこれを吸ったなら三呼吸した時点で命に関わる事態となるだろう。

 この世のあらゆる不浄が蔓延しているとさえ錯覚する異常光景。そんな冒涜的な絵面を背景として、都合三体の異形が地を這いまわっていた。
 一見すればミニチュア化した黒い鯨のように見えるそれは、コールタールを固めたように光沢の無い肌を晒し、朝焼けの陽射しも感じさせない昏い眼光を放ち、戯画的なまでに凶悪な歯列をカタカタと鳴らしている。一目見て通常の生物圏に属する生体ではないと確信できる異形であった。
 そしてあろうことか、凌駕の目にはそれらのステータスとも言うべき情報群が列を為して表示されていた。信じがたいことではあるが、この三体は何れも"サーヴァント"なのだ。見て取れるステータス自体は底辺であるものの、使い魔やそれに類する召喚物ではなく列記としたサーヴァントであるという事実が、凌駕の視界を埋め尽くす情報としてここに示していた。
 駆逐イ級―――凌駕はその名を知らなかったが、これはそのような名称で呼ばれる存在であった。

 この光景を前に、流石に早まったかと自戒する凌駕は、しかし既に起こしてしまった行動を撤回することは今さらできず現状における最善手を模索する。
 息絶えた白骨の周囲を旋回するように動いていたそれらは秋月凌駕という闖入者を前に歯を鳴らし、殺意と敵意だけを漲らせてこちらを睥睨している。
 一瞬にして状況は一触即発と成り果て、凌駕は修羅場と身構えた。じり、と焼け付くような音が幻聴として聞こえてきそうなほどに場の緊張が高まり、三体の異形は機を伺ってにじり寄る。

 凌駕が一歩後ずさり、異形の震えが収まった、その瞬間。


「―――ッ!」


 激昂するように異形が大きく吼え立て、それより一瞬だけ早く、凌駕は全力で後方へと疾走を開始した。









 高揚する戦意に息を吐く暇もなく凌駕は駆け出した。それも異形に立ち向かうためではなく撤退を試みた結果として。
 理屈としては至極当然の成り行きではあった。何せ凌駕にはサーヴァントを殺傷できる手段が存在しない。刻鋼人機の身体能力も、その希求から生まれる特殊機構も全ては既存科学の産物であり、一切の神秘を含まない以上は霊体たるサーヴァントを傷つけられる道理などないのだから。
 故に取るべきは即時撤退。迷いもなくそう決断すると、凌駕は反転するように背後へと向き直った。

 慣性の法則を無視したかのように停止状態から一気にトップスピードまで加速、全身を弾丸と化して後方へと打ち出した凌駕の肉体はコンマ1秒とかからず亜音速を突破。すぐ目の前にある造船施設のコンクリ壁が一瞬にして視界いっぱいに迫り来る。
 超加速した凌駕はそのまま壁面へと激突する―――直前で地を蹴り垂直に跳躍。一気に5m余りの高さまで上昇すると、壁面に靴先を触れさせ足場を確保。勢いを殺すことなくそのまま壁を駆け上がった。
 一歩毎に自身の身長程の距離を稼ぎ、重力を振り切り最後の数mをそのまま跳躍して屋根上へと着地。同時に視覚を数十倍に増幅―――周辺情報を徹底的に探知する。
 半径100m以内の全ての動体座標、付近の生存者の有無や造船所外の車の流れにナンバープレート、監視カメラに看板の文字から壁外の通行人の人相服装背格好、そして何よりこちらを見つめる小動物や不自然な空間の揺らぎの有無。あらゆる視覚情報を秒とかからず把握、解析し、自分を取り巻くあらゆる現状を精査する。
 結果―――全て異常なし。付近に生存者は皆無、使い魔と思しき小動物も遠見と思しき魔術も存在しない。そして車と人の流れを逆算し、できる限りNPCに被害の及ばない逃走ルートを脳内表示すると同時に脚部に力を込めて―――


「■■■■■■■■―――ッ!!」


 しかしその瞬間には、既にイ級の攻撃は完了していた。足を止めていたのはコンマ3秒にも満たない、しかし致命的な隙。口元から覗いた砲塔から放たれた榴弾が、凌駕の足元へと炸裂する。
 反射的に踏み出した右脚に衝撃が走った。直撃を避けた肉体はしかし、巻き起こる爆風に呑まれるまま宙へと投げ出される。風の唸りが鼓膜を突き刺し、大気の壁が体を打ち据える。ほんの数瞬前まで自分がいた工場屋根は爆散して、とうの昔に視界の彼方。足場という支えを失くした体は、重心のずれた中途半端な姿勢のまま重力と爆風に引かれて容赦なく速度を増していく。
 向ける視線の先にあったのは、既に第二射の体勢へと移行した三体のイ級の姿。射出される榴弾は未だ中空にある凌駕では回避することは許されず、飛来する黒弾は碌な抵抗もできないままに肉体へと吸い込まれる。


「ふッ―――!」


 けれどそこで終わりはしない。支えのない空中で無理やりに身を捻ると足先を榴弾のほうへと照準し、タイミングを見計らって"それ"を足場に跳躍。浮き上がった肉体が、激突の衝撃で起爆する榴弾の爆風に乗ることで更なる上昇に成功した。
 両足の悲鳴を無視して危うげなく着地すると、同時に横合いへと再度の跳躍。コンマ1秒遅れて、単発の火力よりも連射性を選択したイ級たちによる機銃掃射の弾痕が地面へと無数に刻まれた。
 甲高い金属の反響音を置き去りに、凌駕の肉体は躍動を続ける。切れ間なく連射を続けるイ級から逃れるように弧を描いて疾走、同時にその口元が小さく"とある起動音"を大気へ刻んだ。



「―――起動(ジェネレイト)」



 無機質な機械音声。それと同時に、凌駕の肉体が急激な変化を辿る。両腕を基点に白い爆光が煌めいた瞬間、そこには暗青色の鋼が顕現していた。
 両腕を覆うのは異形の巨大籠手。精密な機械性と獰猛な攻撃性が織りなす鋼鉄はひたすらに重く、分厚い気配を放っている。輝装・極秤殲機。秋月凌駕の抱いた希求が鋼鉄として形を成した。

 疾走する凌駕にイ級の照準がピタリと重なる。連続する射撃音を後方へと置き去りにして突き進む無数の弾丸を前に、凌駕はただ静かに鋼鉄纏う左腕を翳した。
 衝撃が全身を伝う。断続的に撃ちこまれる弾丸の全てが凌駕の左腕とその鋼鉄に突き刺さり、減衰されない衝撃と振動が破壊となって腕の先にある肉体を襲った。
 仕留めたと、理性なき思考でイ級は確信した。戦闘に際する嗅覚によってか、それとも存在に埋め込まれた本能によってか、彼らは獲物の死をこれ以上なく真実であると受け止めて。

「……ぬるいぞ」

 けれど声は辺りに響いて。
 軽く左腕を払った凌駕は、無傷なままの体で三体のイ級に真っ向相対した。

「この程度じゃ俺は殺せない。サーヴァント相手なら尚更だ」

 振るわれた腕の先、左手側の地面に大量の銃弾がぶち撒けられた。
 それは今まで凌駕に撃ちこまれた弾丸の全て。それらの一切は凌駕の体を貫くことなく、ばかりか左腕一本さえも傷つけるにも至っていない。
 それどころか。

「けれど、後顧の憂いは断っておく。お前らはやりすぎだ」

 告げられる宣誓、高まる戦意と比例するように、大気が硝子質の甲高い音を共鳴させていた。空気中の水分が凍りつき、霜を発しながら白き極寒の空間を形成しつつある。
 凌駕の眼前、及び左腕に纏わるように、凍る大気が壁となって空気結晶の盾を作り出していた。淡青色の盾が弾丸の衝撃を拡散吸収、表面と末端を砕かれながらも全ての射撃を防ぎ切ったのだ。

 逃走を選んだ当初の決断は嘘ではない。そしてそれが間違っているなどとも思わない。だが予定変更だ、こいつらはここで潰す。
 一瞬の攻防で嫌というほど分かったことだが、こいつらにまともな理性は存在しない。そして周囲の被害も省みず手当り次第に破壊しては殺していく。榴弾による爆発は冗談で済む被害を通り越し、放置すればこの一帯は火の海へと落ちるだろう。
 放置はできない、だから倒す。その意思が込められた言葉と同時、力強く薙ぎ払われた左腕に呼応して、超低温の伝導熱はアスファルトを走り抜けイ級たちの足元へと殺到する。瞬く間に到達した極低温の波濤はイ級に反応する間を与えることなく凝固させ、熱源の全てを食らい尽くす。
 全身に反比例して異様に小さく細長い両足が、軒並み氷像と化して―――

「……■■!」

 しかし、三体のイ級は自らを束縛する凍結の縛鎖を力づくで打ち砕いた。薄いガラスが割れるように、軽い硬質の音が響いて氷の縛りは呆気なく欠片と散った。
 奇声と共にイ級が突進と射撃を再開する。こんな凍結など足止めにすらならないのだと、荒れ狂う殺意が言葉ではなく思念となって叩きつけられた。

 サーヴァントを物理的な干渉で破壊することはできない。
 それは絶対の不文律であり、例え既知科学最強の火力を誇る核の爆発であろうとも例外にはならない。まして、たかが凍らせる程度が何になるかと理性なき異形たちが吼え猛る。

「分かっているさ、そんなこと!」

 単装砲により放たれる榴弾の一撃を再度の左腕で受け止めて、凌駕は腹の底から叫んだ。放出される熱量の全てを強制的に零へと凍らせながら、凌駕は迫りくるイ級を前に退くのではなくむしろ自分からクロスレンジの間合いへと立ち入った。
 牙と鋼鉄腕が交差する。空を裂いて突撃する二体のイ級を、両の裏拳で叩き落とす。当然相手にダメージは与えられないが、純粋な運動エネルギーの衝突が加えられた結果として、進行方向が凌駕から地面へと強制的に変更させられる。
 墜落する異形に目もくれず疾走する凌駕が目指すは視線の先。すなわち、後方で射撃体勢に入りつつある三体目のイ級。
 ゴポリという粘質の擬音と共に開口し、舌の代わりに飛び出た砲塔。魔力が凝縮し今にも榴弾が炸裂しようと熱量が高まっているそこに、凌駕は一切の躊躇なく左の鋼鉄腕を叩き込んだ。

「―――ッ!」

 瞬間、空間が爆ぜた。砲塔を中心にイ級の総体が弾け、足元の地面が異様な音をたてて陥没し、四方へ飛び散る衝撃波は空気結晶の盾に守られた凌駕を避けて周囲の建造物に叩きつけられる。
 極低温に覆われた左腕に発射されようとした榴弾を直撃させることによる、ゼロ距離での内部爆発。急激な燃焼反応により高圧縮状態に置かれた気体は音速の壁すら超過して膨張、疑似的な水蒸気爆発となってイ級の体内で炸裂した。如何に凌駕の輝装が通じずとも、自らの攻撃を無力化する術はない。
 黒色の威容が微塵となったのと同時、いなされ置き去りにされた残り二体のイ級が抉じ開けられた咢を翳し踊りかかる。舞い上げられた砂塵を貫くように飛びかかる二体を前に、しかし凌駕の平静は揺らがない。
 先行する最初の一体を横合いからの一撃で撃墜し、次の一体は反転するように身を捻って回避、その勢いのままに蹴り入れて後方へと吹っ飛ばす。ここで戦線に復帰した最初の一体を続けざまに殴打し同じように弾き飛ばした。
 結果、二体は揃って同じ場所へと墜落する。そこは当初、彼らがまき散らした正体不明の汚泥が蓄積された一角だった。
 触れる全てを腐食させる魔力泥、しかしそこに叩き落したからといって異形たちを倒せるなどと凌駕は考えていない。そもそもこの汚泥は彼らがもたらしたものであるのだから、毒に毒を落としても混ざって嵩を増すだけに過ぎないのだと理解している。

「はぁッ!」

 そう、これだけでは倒せない。
 だから凌駕は、ここで初めて"右手"を力強く振り下ろした。分子運動を停止させるのではなく、むしろ運動を加速させる右腕の機構を解き放つ。
 生み出されるのは純粋な熱量。中心の焦点温度は優に6000度を超えるそれを、極限まで精密制御・集束させたまま一気に射出した。
 火走りの如く迫り往く朱線は、しかしイ級のどちらも捉えることなく見当違いの方向へと落ちる。だがそれで良し、狙っていたのは最初から異形の二体ではなく、その足元にあるのだから。
 そこに広がるのは彼ら自身が生み出した汚泥。"可燃性物質"を大量に含有した腐食の泥。
 澱み腐った黒に、火の赤が落とされる。

 ―――――――――――。

 空間が咆哮をあげ、広範囲に広がった汚泥全てが連鎖するように爆轟。これまで起きた全ての爆発に倍する凄まじいまでの衝撃が発生し、視界に映る全てを呑みこんだ。
 大地が爆ぜ、爆心地を中心にコンテナと建築物がいくつも薙ぎ倒されていくその中で、一つの影が、爆発から逃れるように静かにその場を離脱していった。

 爆発が収束するまでほんの1秒足らず。空間に残る振動の余韻も消え去り、やがて全てが静寂に包まれる頃。
 そこには最早、誰の姿も残ってはいなかった。





   ▼  ▼  ▼





「っと、こんなもんか」

 造船所に侵入する前とは比較にならないほど騒然としている表通りに出ると、凌駕は若干疲れたように呟きを漏らした。
 いや、実際に疲れた。単純な強さだけで語るなら、これまで戦ってきた時計機構の誰にも及ばないような奴らだったが、流石にこちらの攻撃が一切通じない相手と戦うのは初めてだった。正直なところ、奴らに一欠片の理性があったならば確実に自分は殺されていただろうと確信できる。
 最後の一瞬、凌駕が行ったのはイ級の垂れ流した汚泥への引火である。周囲に満ちる腐臭、及び毒性のガスから検出した成分から、あの汚泥に硫黄や硫化水素といった可燃性物質が大量に含まれていることは瞭然であった。そこに火種を放り込めばどうなるか、自ら生み出した神秘より生じた爆風に呑まれた異形種がどうなるか、最早論ずるまでもない。
 一つだけ気がかりだったのが、仮にもサーヴァントという神秘からもたらされた汚泥に科学的な熱量を注いだところで引火できるのかということであったが、こうして結果が出ている以上は一か八かの賭けに勝利したということなのだろう。そうなったものはそうなのだと、凌駕は自分の中で納得する。

「さてと」

 改めて自分の状態を確認する。大爆発に巻き込まれはしたが直撃はしていない。両足と左腕は酷使により悲鳴をあげ激痛を発しているが動作には支障なし。纏わりついた毒ガスの残滓は元から微弱だったのか、既に吹き散らされて人体に影響がないほどに希釈されている。制服や鞄にも目立つ欠損はなく、監視カメラの類は全て避けてきたから目撃された心配もない。
 つまり問題は何もない。特に気にするべきことはなく、いつも通り登校できるだろう。強いて言えば、早朝に出たはずがもう遅刻ぎりぎりの時間だというのが気にかかるが、それとて欠席するよりはマシだと考える。

 激痛に軋む足を引きずるように歩く。通りすがる周囲の群衆は皆一様に好奇心と興奮で表情を彩っており、誰も凌駕のことなど気にせず狂喜していた。危険なことは分かりきっているのだから早く逃げればいいのにと思うが、そんな真っ当な危機意識を持つ人間はとうの昔に逃げ出しているのだから、残るのはこんな連中だけなのは当然の話であった。

(とりあえず、アサシンと合流できたら今回のことについて要相談だな。
 恐らく召喚型か、あるいは群体型のサーヴァント……厄介な話だけど放っておくわけにもいかない)

 アサシンは偵察に出かけたのか、既に凌駕に可能な念話範囲の外に脱している。傍らに停めておいた自転車に跨りつつ、凌駕は一人思考した。
 今回遭遇した異形のサーヴァント三体は、まず間違いなく真っ当な英霊ではない。如何な逸話を持てばそうなるのか、近代兵器に酷似した兵装を使用し、汚泥を撒き散らし、果ては全く同種の個体が三体も同時存在しているのだ。新手の使い魔と言われたほうがまだ納得できるというものである。
 外観とたった一度の交戦情報だけで真名を特定できるとは凌駕とて思ってはいないが、それでも対策は講じなければならないだろう。今回は何とか被害が拡大する前に鎮圧できたが、これからもそうなるとは限らないのだから。
 正体不明の怪物などというマイナスは、その究明と排除というプラスで釣り合いを取らねばなるまい。それが理性の制御下から離れているのだとすれば尚更だ。

 一人思考に沈みながら、なおも喧騒を増しつつある路地を背に、凌駕は静かに走り去った。
 胸の高鳴りも戦闘による高揚も、最早存在してはいなかった。あるのは、チクタクと鳴り響く時計の音だけ。

 ―――とくとくと、鳴らす心臓の鼓動はどこにもない。
 心は鋼を纏ったまま、ただ歪に秋月凌駕は歩みを進めるのだった。

【D-2/ジャパン マリンユナイテッドK工場・造船所近く/一日目・午前】

【秋月凌駕@Zero infinity-Devil of Maxwell-】
[状態] 疲労(小)、両足及び左腕にダメージ、腐食ガスの吸引による内部破壊。それらによる全身及び体内の激痛。現在全て修復中。
[令呪] 残り三画
[装備] なし
[道具] 勉強道具一式
[所持金] 高校生程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争から脱しオルフィレウスを倒す。
0:今はいつも通り登校する。
1:外部との連絡手段の確保、もしくはこの電脳世界の詳細について調べたい。
2:協力できる陣営がいたならば積極的に同盟を結んでいきたい。とはいえ過度の期待は持たない。
3:アサシンと連絡が取れ次第『海洋の異常現象』及び汚泥のサーヴァントについて相談したい。
[備考]
D-2の一軒家に妹と二人暮らし。両親は海外出張という設定。
一日目早朝の段階でD-2/ジャパン マリンユナイテッドK工場・造船所においてライダー(ヘドラ)から零れ出た複数の駆逐艦イ級と交戦しました。同所において複数の死者及び爆発と火災が発生しています。

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最終更新:2016年09月12日 19:00