解答:割り切れない。ならば――。(前) ◆Ok1sMSayUQ
「――ぷはァ。で、おい。都合が悪くなったら閉じ込めて、良くなったら出して、ご感想のほどをまずは伺いたいね」
開口一番で憎まれ口を叩くテンコに、白井黒子は呆れるよりも安心する気分を味わった。
渋るテンコを半ば無理矢理デイパックの奥に押し込んだのは他ならぬ黒子であるのだから、「大丈夫か?」などと言われようものなら黒子こそが答えあぐねるところだった。
不満そうな様子を隠しもせず、デイパックの縁で頬杖をついてギロリと睨むテンコに、黒子は「それは謝ります」と頭を下げた。
「アホ!」
「あいたっ!」
べしっと頭を叩かれた。思ったよりも重量の乗ったテンコのジャンピングブローが黒子の脳を揺らした。
遠巻きに見ている七原秋也が、何やってんだあいつらとでも言いたげに大仰に肩を竦めた。
「なんだよもう! やっぱとっくに解決してんじゃねーか! すまし顔で言いやがって! オレなんかいなくてもお前と、ええとシューヤでよろしくやって整理したってか! ざけんな!」
「え、ええと……」
「言わせんなよ! オレなんかいらなかったってことだろ! オレじゃお前の愚痴だって聞いてやれないってことなんだろが!」
がーがーとがなるテンコは既に涙目で、それは怒っているというよりも拗ねているようでもあり、仲間はずれにされたという寂しさがあるようでもあった。
実際、状況だけ考えてみればそうとしか取れず、黒子自身もあの時はどうしようもない、という気持ちでしかなく、テンコに話を聞いてもらおうなどとは考えもしなかった。
「別によろしくなんかやってない。それにこっちからも言わせてもらうが、じゃあお前がいれば解決したのかって話にもなるが」
さらに厄介なことに、七原がそこに割り込んできたので、黒子は「まずいですわ!」という顔になった。
七原にしてみればテンコなど事情も知らないただのマスコットでしかなく、
黒子と七原の間にある深い断絶、絶望の深さ、進もうとしている道は一歩間違えば破滅であることなど分かりようもないというところだ。
それを脳天気に「オレも混ぜろ!」などと言おうものなら七原の感情を刺激することは疑いようもなく、黒子は己の不明を恥じた。
しかしテンコもテンコで言っていることは正しくはあり、黒子は言い返しようもなかったというか、
キレられていることに安堵すらしていたので、七原のように正論で黙らせる側に回るわけにもいかなかった。
が、そんな黒子の困惑と焦りと葛藤など意に介してくれるわけがなく、七原の言葉を受けたテンコが「あぁ!?」と剣呑な言葉で答えていた。
黒子はこの瞬間、あ、止められない、と他人事のように思った。
「勝手言ってんな! オレはそんな偉くねーよ! 止められんならとっくに止めてるわバカヤロウ! オレが言いたいのはテメーら揃いも揃って自分勝手なんだよ! 身の程知れってヤツだ!」
その言葉を受けた瞬間、七原のこめかみがピクリと動いたのを黒子は見逃さなかった。
アカンこの子地雷踏み抜くどころか地雷原で踊ってますわ! と黒子は顔を蒼白にした。
身の程を知れ、などと目の前の珍獣、それも子供のようにがなり立てるようなのに言われようものなら、七原は多分理屈と論理をを持ってテンコを黙らせにかかる。
徹底的に現実を目の当たりにしてきた七原の言葉は重く、ひたすらに、冷徹なまでに、理しかないのだ。
黒子はそれに抗する言葉を持ち得ない。術を持ち得ない。できることと言えば、場当たり的な対処でしかない。それが七原曰くの「中身のない空っぽの正義」だ。
誰が死んでも、親しい者が殺されようと、敵討ちや復讐をしようとは思わず、『なにか』が裁くに任せる。
自分で裁こうとは思わない。それをするのは自分ではないという観念がある。それは七原……いや、『理』からすれば判断を放棄し、ここでは意味のないものに縋り付いていることでしかない。
ここには『正義』なんてものはない。殺さなければ殺されるし、自らが侵される、侵略される恐怖を克服するためには、形のない正義に成り代わって自らが『正義』になるしかない。
殺さなければ殺される現実を認め、それまで信じていたものは無力だったと認め、はっきりとした価値観を己の中に作り上げ、冷徹に世の中を見据え、為すべきことを為す。
今必要なのは、綺麗事と言う名の幻想に身を委ねている己を殺し、己の価値観に従って行動することだ。万人の考える『正義』はなく、あるのは己の中に唯一つ打ち据えた頑強で揺るがない『正義』。
それさえあれば曖昧で形のない、ぼんやりとした万人の正義に惑わされることはない。苦しむこともない。壊れて人間でなくなってしまうよりはマシだ――。
七原が言いたいことはきっと、そういうことだ。黒子も言っていることは正しいと分かる。いや、紛れも無く正しいのだろう。
環境に合わせて変えていくのは当然の事であるし、そうなっても誰も責めはしない。各々の中に各々の考えを持つようになった時点で、誰がどういう考え方をしようが気にすることもなくなる。
誰も否定はしない。誰にも侵されない。――分かっている。分からないほど黒子は愚かではない。赤座あかりが死んだ時点から……、いや、ここに連れて来られた時から心の底では分かっていた。
だけど、それでも。私は……。
「どうせお前ら、帰ってこないあいつらのことを立派だのなんだの言って、残されてしまった俺達が頑張るとかそんな感じにまとめたんだろ、冗談じゃねえや」
「……なに?」
だが、テンコの口から飛び出してきたのは自分を置き去りにするなという不満ではなく、既に鬼籍に入ってしまった竜宮レナや船見結衣も含めての、罵倒だった。
黒子も、そして恐らくは攻撃に備えていた七原でさえも、予想もしていなかった方向への攻撃に対応できずに口をつぐんでしまう。
「本当、冗談じゃねえ。勝手にオレを押し込んで、出たと思ったら死にやがって、何か言おうと思ったらまた押し込めやがって」
一体何を言っているんだ? 黒子は言葉の中身を理解できない。自分達はともかく、レナや結衣がこうまで言われる理由など、どこを探してもないはずではないのか。
身を挺して守り、命を賭けて、削って、ついには落としてしまったあの二人を、こいつはなんで責めているのだ? そもそもこいつは、レナや結衣と親しげに話していたこともあったじゃないか。
それがどうしてこんな口を叩く。何故二人の死を汚すようなことを言う。死人に鞭打つとかそんなのじゃない、役立たずだったと見下げているかのようじゃないか。
「お前」
頭の中が真っ白に弾け、言葉の意味を論理的に繋げられずにいた黒子の横から、七原が伸ばした腕がテンコを掴んだ。
思いっきり、握りつぶすように。ギリギリと指にかけられた力は既に柔らかい果物程度なら中身が弾けるくらいには入っていた。
あまりにも無表情にそれを為す七原は、まるで桐山和雄のように、黒子には見えた。
「何様のつもりだ」
返答次第ではそのまま殺す。ナイフのように研ぎ澄まされた七原の言葉は、殆ど真っ直ぐな怒りだったと言っていい。
テンコの答え方次第ではそのまま殺してしまうだろうという確信がありながら、黒子は何も言えなかった。
あまりの言葉に脳が追いついていなかったというのもあるが、掴まれたテンコが苦しそうにしながらも七原を睨み返していたからだった。
自分は間違っていない。何の淀みもなくそう主張する視線を、黒子は見ていた。いや、目を離せなかった。薄情者と切って捨てられなかった。
「やっぱりな。お前も、お前も! 死んだヤツが皆正しいと思ってやがる」
改めて突きつけられた宣戦布告だった。黒子にも、七原にも。お前たちがたどり着いた結論はどっちも間違っていると蹴飛ばす言葉だった。
違う。否定したいのではない。黒子は拒絶の色もない、心の奥底まで見定めようとするテンコの瞳を見て、それだけは確信した。
では何だというのだ? 攻撃であることには変わりがなく、そちらに対する結論は得られない。七原も同様に思ったらしく、力の入れ方はそのままに、受けて立つ言葉を返す。
「守ってもらってたお前が、それを言うのか。言う資格があるのか」
「あるね。あいつらはオレからしてみりゃ『逃げた』んだ。死んで『逃げ』やがった。逃げたヤツのどこが正しいってんだ」
「……あいつらはな、立ち向かっていったんだぞ!」
普段の七原であれば「そんな大声を出すと誰かに気付かれるかもしれない」などと言って窘めるほどの大声だった。
あまりの声の大きさに、声が反響して聞こえるほどだった。
それは空間を、空気を、あらゆるものを震わせる魂の慟哭だった。あれほどに黒子の正義をなじり、意味がないと一蹴した七原が。
死を侮辱されていることに、強い怒りを見せている。
そうだ、と黒子は思い出す。七原はレナや結衣の死を認めろと言ったし、誰も死なないハッピーエンドなんてないとも言った。
だが、死そのものを否定はしなかった。二人の死に対して、テンコのように責めるなんてことはしなかった。
目を逸らそうとした黒子に逃げるなと言った。それほど――、七原にとって『死』とは大きいものなのだと、今更のように黒子は理解した。
「立ち向かってったら死んでもいいのか。それが正しいなら死んだっていいのか! 自分達だけで勝手に行動を決めて!」
「……それはお前の見方だ。あいつらは逃げてなんかいない! そもそも隠れてたヤツが言うんじゃねえ!」
「お前がそう思うんなら、オレはそう思ってるって話だ! それにオレは隠れてたんじゃねえ! 置き去りにされたも同然なんだよ!
こんなことになるって分かってたら隠れてなんかいなかった! 好き好んで殺させたりするもんかよ!」
「話にならない……。お前は自分を正当化したいだけなんだろうが!」
「正当化したがってるのはお前だ!」
テンコの言葉もまた正しい。理屈は通っていなくても言い分は認められるものがあり、否定もできない。
テンコからしてみれば、自分の行動の権利も与えないまま死んでいった二人は置き去りにしていったとも言える。怒るのは、分かってしまった。
黒子も置いて行かれるような感覚は、何度も味わったことがあるから。知らないまま関われないというのは……無力であること以上に、辛い。
だが実情を知っている七原からでは、頭ごなしに否定しているようにしか見えない。感情に任せ筋の通らないことをわめいているだけ。
だがテンコは黒子と違い「レナと結衣はもう死んでしまった」という事実をきちんと理解している。した上で感情を撒き散らしている。
ゆえに七原は黒子にしたときとは別の怒りを見せているのだ。置き去りにされたとは考えない。託されたと考える。
いや、そうして自分を少しでも正しいと肯定できなければ……、
まだ生きている理由があると己を雁字搦めにしなければ、『理』を信奉していられないのかもしれなかった。
そんな七原と対極にいるテンコが衝突するのはある意味では当然の帰結とも言えた。
極論ではあるが、七原はレナと結衣を正しいとし、テンコは間違っているとしているのだ。
己の価値観に従って、自分の理屈をぶつける。わからないならそれでいい。自分の正しさは自分だけが知っていればいい。そんな風に見えた。
だから。
「ちょっと、待ってよ」
交わらないことが、無性に悲しくて、黒子は掠れた言葉で割って入っていた。
しかしそれは思ったよりも強い調子だったらしい。ぎょっとした様子で黒子を見る一人と一匹は、きっと次の言葉も頭から抜けているのに違いなかった。
「なんで、レナさんと結衣さんのことで言い合ってるんですの? 正しいとか正しくないとか、それは私達の視点であって、レナさんや結衣さんが死ぬ直前に考えてたことじゃないでしょう?
きっとそんなことなんて考えてない、当たり前の人間として、当たり前のことをしようとしただけで……前も後も先も、きっと考えてなんてなくて……」
結論のない言葉の羅列。断定などできない。真実は分からない。けれど……同じ人間で、僅かな時間であっても同じ時を過ごしたのだから、感ずることは、できた。
「必死だっただけで……それでもなんとか頭に浮かんだ言葉を残して」
――――――あと、任せたから。
そう綴られた紙を取り出す。
黒子自身、自分が何を言いたいのか判然とはしていなかった。むしろ何かを語ろうとすればするほど、テンコの言いたいことも分かってしまう。
どうして殺されなければいけなかったのかではなく、どうして死ぬようなことをしたと焦点を変えれば、理解できないと思っていたテンコの言葉もすっと通る。
一方で、二人が決して自分勝手に死んだのではないことも分かっている。そうでなければこんな言葉を残したりはしない。誰かを、信じたりはしない。
きっと正しいし、正しくもない。
「そうとしか、生きられなかったんだと思います」
だが結局のところ、何も分からないし結論もできない。その上黒子には、七原やテンコのように自分を信じきるなんてこともできない。
恐らくはきっと、この中で最も愚かな人間であるのだろうし、最も凡俗な考えしか持ち合わせていないのだろう。
それでも。黒子は言葉を重ねるうちに、やっぱり自分は、あいまいで形もはっきりしない正義を信じたいと思った。
きっとそれは、黒子自身が愚かで平凡な心しか持ち合わせていないからなのだと思える。
愚かだから『空っぽの正義』を信じていたのではなく、『空っぽの正義』を信じてしまえるから愚かだと言われてしまうのだと思える。
そう。当たり前の人として、当たり前のことしかできない、そうとしか生きられない人間だから――、
何かひとつだけを信奉もできないし、これだと結論もできないのだ。
例えそれで、救えるものが救えなくなったとしても……。
「……すまね。カッとなった」
黒子の言葉を最後にしばらくの沈黙が泳ぎ、やがて空気が湿った色を見せ始めたころに、テンコはぽつりと漏らして、するりと七原の腕から抜け出した。
実際のところは、沈黙している間に七原が力を抜いていたのだろう。
七原もばつが悪そうに顔を逸らし、しかし口にできる言葉がないようで、小さく息をつくだけだった。
「頭冷やしてくるわ。多分オレがガキなだけだから。コースケにもよく言われてたし」
「……お待ちなさいな。私もお供します」
とぼとぼと離れていこうとするテンコに向かって、黒子が追随する。意外そうに見返してきたのはテンコで、大きな瞳が訝しげにしていた。
テンコにとっては七原と黒子は同じような考えの持ち主であり、ついてくるなどとは思いもしていないのだろう。
「アイツ置いといていいのかよ」
「テンコさんに逃げられても困りますし」
「逃げねーよ」
「七原さんも、私の目がない間にやりたいこともあるでしょうし」
振り返って、黒子は七原に対してライターを擦るような仕草をしてみせる。テンコ以上に意外そうに目を丸くしたのは七原で、
お前それはいいのかと口に出さず指差し動作で伝えてきたので、黒子はぷいっと顔を背けた。目撃していなければ実際やったかどうかなど分からないことだ。
黒子は今は目撃しないことにしておいた。それに、七原とは別に黒子も黒子でテンコには言いたいこともあった。
「……勝手にしろい」
心底うんざりしたという様子で、テンコはぱたぱたと翼をはためかせて飛んでいった。
黒子ももう七原の方を振り向くことはなく、その後を追った。
* * *
「全く、落ちぶれたもんだ」
黒子達が視界から消えたことを確認してから、七原は疲れたという様子を隠すつもりもなく、地面に身を投げ出した。
本当に疲れた。体力の浪費でしかない言い合いをどうしてする気になったのか。他者の戯言と流すことがどうしてできなかったのか。
そもそも現在の状況を考えれば、ここで二手に別れることは危険な行動ではないのか。
人数が減ったということは貴重な戦力もなくなり、敵に対する攻撃力も防御力も低下しているということだ。
こんなところで寝ている暇などないだろう。状況を認識しているなら今すぐ起き上がり白井達に合流して、先程の言い合いは適当に落とし所をつけて……、
「やめだ……」
そういうのを『大人の判断』ということに気がついた七原は、クソくらえという毒と一緒に思考を蹴り飛ばす。
虫唾が走る。大東亜の大人達の薄汚い顔も思い出した七原は、五分の間だけ判断をかなぐり捨てることにしたのだった。
気持ちを少しでも切り替えられないかと仰向けになって空を眺めてみるが、既に陽が落ちた空は雲の影で見える程度で、陰鬱とした気分を晴らす足しにもなりそうになかった。
ならば物に頼るに限る。せっかく黒子が目こぼししてくれたのだ。やらない手はないと七原は煙草を口に咥え、火をつける。
思い切り吸い、吐き出す。それだけの行為が妙に心地よい。煙草の成分だけではなく、吐き出した煙と一緒に、一時的に賢しい考えを捨てられたように思えるからかもしれなかった。
「言いたい放題言ってくれるぜ……」
思い出したくなくとも、直前まで言い争っていたテンコの言葉が浮かんできてしまう。
勝手に死にやがって。置き去りにされた。
ロクに状況にも関わっていない奴の言い分、と退けつつも、テンコが言い放った言葉の力に絡め取られている自分がいることも認識していた七原は、オーケイ認めよう、ととっくの昔に燃え尽きて灰になっていたはずのものに声をかけた。
多分それは、昔から声に出したくても出せなかった嘆きの一部であり、今を生きながらえている七原秋也になるために捨てなければならなかった弱さであり、闇なのだろうと思った。
口に出してしまえば呪詛になり、己を冒し、朽ち果てさせる猛毒。他者の……それも人間でもない奴の口から聞かされることになるとは笑えない話ではある。
「どうしてこうも、俺が選ばなかった最悪の道を選ぶような奴ばかりと出会うんだろうな」
白井にしろ、テンコにしろ、選んでしまえば破滅か自滅かの二択しかない道を進んでいる。
自分が利口などというつもりは毛頭ないが、ならばこの数奇的すぎる出会いは一体何だというのか。
運命や宿命などというものは七原は信じていなかったが、縁というものだけはまだ信用はしていた。
慶時、三村、杉村、川田、典子、そして桐山でさえ。出会っていなければ今の自分はない。思うところは数多いが、呪うつもりだけはなかった。
憎んでしまえば、自分を置いていったとその死を怨んでしまえば――、残された選択肢は二つしかなくなる。
世界を呪い続けて死ぬか、死者を踏み躙って奪う側に回るか。七原はどちらでもない、その死を糧に、因縁を結んで、戦い続ける道を選んだ。
考えは変えるつもりはないし、揺らぎはしない。勝つまで続けてやると心に誓っている。
「勝たなきゃな」
その言葉を締めくくりにして、七原はつかの間の休息を終えた。たった数分の間とはいえ、とりとめのない思考に身を浸して考えていられたこと自体は悪い気分ではない。
それが生産的、建設的かどうかはともかくとして、久々に自由な感覚を得られたという実感があり、この一点についてだけはテンコに礼を言ってもいいくらいだった。
今まではずっと、眼前の事態をどうするかだけしか考えてこなかったのだから……。
立ち上がり、少しのびをして体をほぐした七原は、気持ちばかりの駆け足で黒子とテンコが向かったであろう場所に移動を開始する。
そういえば、と七原はそろそろ放送の時間帯でもあることを思い出した。以前参加させられたときと異なり禁止エリアが設定されることはないが、死者の情報については一緒に聞いておいた方がいい。
ここまでくれば流石に白井も錯乱することだけはないだろう、と七原は思っていたが、不安要素はあるにはある。さらにテンコもいる。むしろ騒ぎだすとすればこちらだ。
なるべく、放送が始まるまでに合流した方がいいだろう。研究所内に残してきた荷物の回収もある。早いに越したことはない。
七原は駆け足を、さらに速めた。
* * *
「で、言いたいことってなんだよ。早く言えよ」
「……前置きはしておきますけど。別にテンコさんを否定しようってわけじゃないですの」
どうだか、といった風に鼻息を荒くし、テンコは手近にあった小さな岩の上に座って黒子の攻撃に備えているようだった。
黒子には座るような場所はなかったため、樹の幹に体を預ける形でテンコとの話を再開する。
「テンコさん、これだけは何があっても信じられる……、いえ、そのためになら死んでもいいと思えるようなものはあります?」
「なんだそりゃ。殉教者か? …………んー、まあ、役に立ってやっていいと言えるのはコースケくらいだが」
「そうですか」
黒子にとっての御坂美琴。だとするなら、テンコの考え方には『コースケ』の思想が深く根付いているはずだった。
「そのコースケさんがここにいるとしたら、やっぱり怒っていたでしょうか。テンコさんみたいに」
「そりゃ間違いねえよ。アイツは自分より誰かが死ぬのが死ぬほど嫌いだからな……。『死ぬつもりなら行かさねえ。オレが絶対に行く』くらいのことは言うだろうしやるだろうぜ」
「それ、さっきのテンコさんじゃないですの」
「違うよ。オレは多分出来なかった。いや実際出来てないしな……。オレ、基本的に他人ってヤツが嫌いだったからよ。それが今も尾を引いてる」
初めて聞く言葉だった。溌溂としていて闊達なテンコが人嫌いだったという話は意外で――、いや、話そうとはしてこなかったのだろう。
テンコは苦笑して「んな困った顔すんなよ」と努めて軽く言った。
「オレの種族ってヤツは今までさんざ迫害を受けてきたからな。ヒトなんて信じられねえ、自分勝手な野郎ばかりだって考えが今もまだ根付いてる。
コースケのお陰でちょっとばかしは信じてもいいって程度になっただけだ」
「だったら」
「最初からクロコと別れていりゃ良かった、んだろうけどな。こうして今不貞腐れてるくらいならそうしときゃ良かったんだろうさ。でもよ、なんか出来なかった」
「なんかって……」
「なんでだろうな……」
自分でも不思議だと言わんばかりに、テンコは長い溜息をつきながら虚空に漏らした。
理屈でも感情でもない、不可視の力によってここまで来てしまったのだという感嘆が含まれているようでもあり、黒子はテンコが見ているものを見たくて、テンコが視線を向けた先に目を凝らした。
しかし黒々とした夜の闇が見えるばかりで、何も分かりそうはない。正確な答えなど、ないということなのだろう。
「言っとくけど、あいつらが嫌いだったわけじゃなからな。でもやっぱり除け者にされたって考えは変わらねえ。あいつらが言わない限り変えない。
……だけど、もう何もあいつらから答えは聞けない、聞けないんだよ、ちくしょう」
過去から堆積してきた人間への不信と、ある人間との出会いによって変化してきた『今』、そういうものがない交ぜとなって憎まれ口として飛び出してしまったのだろう。
それはそれで、遥かに人間らしいとも黒子は思ってしまう。死は簡単に割り切れるものでもなければ、単一の感情だけでまとめられるようなものでもないというのは、
水が喉を通るようにすとんと落ちてくるものだった。もっと複雑に感じてもいいし、すぐに結論を出せるようなことでもないというのは、分かっていたはずなのに。
「でも、こういうこと言うとコースケは多分ぶん殴りそうなんだよなあ……。死んだヤツのこと悪く言ってんだもんなあ……。そういう意味じゃシューヤもコースケと同じか……」
「なら、相手が私で良かったですわね」
「それは違いない」
うむ、とテンコが頷くのを見て、黒子はやはり、自分は中途半端な人間なのだと思ってしまう。
テンコが悪態をつきたくなってしまうのを理解できる一方で、七原が言うような、この場でそのようにごちゃごちゃと正負の感情を混ぜて考えるのはいつか死を招くというのも正しいと分かっている。
狂いきれず、正しさに染まりきることもできない。当たり前のことというものを捨てられない、凡庸で特別などではない人間……。
「良かったのかもな、クロコがいてくれて。なんというか、多分、一番お前がまともだよ」
「え?」
出し抜けに紡がれたテンコの言葉が唐突すぎて、黒子はぽかんと口を空けて間抜けな声を出してしまっていた。
勘違いすんなよ、とテンコは前置きしてから、しかし今度は刺の抜けた柔らかな口調で続きを言う。
「クロコが正しいってことじゃない。コースケが言いそうなことをシューヤが言ってんなら、きっとシューヤが一番正しいんだろうよ。でも理屈じゃねえんだ。
昔のオレが、『あいつらはオレを置いてったんだ』っていうのに頷いちまう。理屈じゃ自分は切り離せないんだよ。でもそれを分かってくれるヤツがいなきゃ、オレはきっと悪者でしかなくなる」
いや、一歩間違えばそうなっていたのかもしれない。黒子が七原の言葉に頷いていれば。テンコは単なる身勝手者として扱われ、放り出されていたであろうことは想像に難くない。
訥々と語るテンコは、どこか安心しているようにも見えた。まとも、の言葉の中身。その輪郭がぼんやりと掴め始めてきた黒子は、身を固くして言葉の続きを待った。
「正しいことは分かってる。でも正しくなくても信じてしまうものがある……。クロコの中にもあるんだろ?」
「それは……」
ある、と言い切ることはできなかった。言い切れるほど確固としたものではなく、口に出していいのかどうかも定かではない、なんとなく、にしかなっていないなにか。
そんなものに縋っているなんて馬鹿らしいとさえ言い切れてしまうもの。誰も救えないとまで言われてしまったもの。
――ひとの心の中にある、誰もが持っている当たり前の感性というもの。
「別に言わなくていーよ。多分オレじゃ理解できない。出来てたら、シューヤにガチでキレてねえだろうしな。オレから言えるのは、お前がいたからオレはオレを悪者にしなくて済んだってことだけだ」
「……それって」
「はけ口になったってことだよ、最後まで言わせんな」
憎まれ口を叩くと、テンコはぴょんと岩から浮いて、会話の時間は終わりだと示した。
結局、テンコの話を聞くだけの形ではあったが、本来黒子が聞こうとしていたことはテンコが話してくれたのでおおよそ目的は達せられた。
迷い、惑い、これだという答えを出しきれない人達。敵と出会っても敵と認めきれず、同情さえしてしまう人達。
正しくなんかない人達。
私は、きっと、それを捨てられないから――、
「――ロコ、クロコ! なんか奥に……!」
黒子の中で結論が固まりかけた、その瞬間だった。
何かを叫んで、目の前で大きく動いていたテンコの体が、赤いものを撒き散らしながら吹き飛んでいったのは。
飛沫の一部が黒子にかかる。妙に粘度が高く、まるでよく煮込んだソースのようでもあった。
「ハハハ、ヒャハハハハハッ! まずは、一匹……、お前、どうだ気分は」
耳障りな高笑い。夜の闇が濃くなってもなお爛々と光る深紅の色をした瞳。
黒子の全身が総毛立つ。こいつは、間違いない。今テンコに致命傷を与えたと思われる、こいつは……!
「言ってみろよ、置き去りにされた気分をよォ!」
「切原赤也……!」
最終更新:2021年09月09日 20:12