波に黄昏、海に夢、泡沫の聲は銀の浜 ◆sRnD4f8YDA
凍てついていた。
黄昏に焼かれて、太陽に焦げて。
それでもその景色は、南極の大地の様に寂しく凍てついていた。
燃えるような斜陽が、世界をべっとりと睨みつけている。
紅に染まる町並み。まるで世界は炎の渦中か、血の海の淵か。
その中で、ただ黙り込んだ小さなラジカセと、冷たいアスファルトと、
赤い水溜りだけが、突き刺さる様に景色に張り付いていた。
風は、なかった。時が止まった様に、景色の動く気配がない。
空に真っ直ぐ伸びる電柱が、路肩に等間隔で生えている。寂れたビルが、建っている。
褐色の鉄骨が剥き出しになっている。錆びた釘が落ちている。
道端には霞草が咲いていた。小さな花は懸命にコンクリートに根を下ろし、半分欠けた太陽に顔を向けている。
影が、舗装された道路の上を東に走っていた。彼等は展翅された様に動かず息を潜め、標本の様にアスファルトに焼き付いている。
錆びた標識が、忘れられたようにぽつんと一本立っていた。酷くくたびれた、一方通行の標識だった。
右に僅かに曲がったパイプは、矩形の鉄板ごとアスファルトに冷たく、重く、深く突き刺さる。
それはまるで死を印す標の様に、血溜まりの中心を貫いていた。
遠く、鉄塔が立っている。橙の空を切り取る様に塔から黒い線が走り、鉄塔から鉄塔へと伸びていた。
やがて線は黄昏の影と光に滲んで、空の彼方へ消えてゆく。
死んでいるのだ。息遣いも、熱も、音も、何もありはしない。
そこには、“いのち”と呼べるものが無かった。
ふと何かを思い出した様に、世界が風を吐く。
かちり。何処からか、止まった時間が動き出す音。
さらさらと草がそよいで、電線が揺れた。
土煙が舞い上がり、道路の向こう側で陽炎が不細工なワルツを踊る。
錆びた標識はその中でも姿勢を崩さずに、茜雲に向かって斜めに伸びている。
すぐ側に、女子中学生が倒れていた。既に息は無く、ぼろ切れの様に事切れている。
腹からはぬらぬらと粘液に濡れた腸が飛び出し、群青のスカートにこびりついていた。
白いセーラーはその身体を純血で赤黒く染め、青白く強張った肌に吸い付いている。
栗色の髪の毛を風がさらった。前髪が揺れて、瞳孔の開いた硝子玉が夕陽を反射する。
優しい笑顔は強張った筋肉にずっと張り付いたままで、解けることはない。
二度と、その笑顔は崩れない。
崩れないのだ。
そこに木は立っていなくて、川も流れていなくて。森も、神社も、あの丘も。
あの校舎もあの祭具殿もあの電話ボックスも、ありはしない。
夕暮れだというのに、こんなにも哀しい黄昏なのに。ひぐらし一匹、そこにはいなかった。
辺りには夏の終わりの様な蒸し暑さと、虚しさと、静けさだけが、取り残された煙草の煙の様にただ茫漠と漂っている。
優しさなど、そこには無い。生きる命など、ありはしない。景色は死に尽くし、そこで完結していた。
ただ影を東に伸ばた気の利かぬ錆びた墓標が、骸の枕元に黙って立ち尽くしていただけだ。
二度と解けぬ、優しい笑顔があっただけだ。
それだけだ。
鉄扉を開けると、そこは真っ直ぐ伸びる廊下だった。
灯りは殆ど無く、申し分程度にぶら下がる裸のフィラメント電球すら切れかけで、ぱちぱちと橙色の残滓を暗闇に振り撒いていた。
壁には得体の知れないケーブルやパイプが縦横無尽に駆け回り、ずっと向こうまで続いている。
錆びた鉄と、油の臭いがした。思わず眉間にしわが寄る様な臭いだった。
ごうん。右壁面を走る一際太いパイプが唸る。赤い塗装が剥げたバルブの側から、ぷしゅうと白煙が噴き出した。
少年は頭をもたげて天井を見上げる。高い。6メートルはあるだろうか。
スラブから下がったチャンネルが大小のパイプを吊り下げ、剥き出しのスプリンクラーが辺りを埋め尽くしている。
溜息を、一つ。吐く息は白く、少しだけ肌寒い。
こつん、と靴のソールがモルタルを叩く無機質な音。その小さな足音は長い廊下を反響して、闇の向こうに消えていった。
長い廊下を歩ききると、角があった。緩やかな弧を描きながら、道が旋回している。その先には錆びた鉄の引き戸があった。
曲がって、前を見て、そして扉を引く。軋む扉を引ききって、目の前を見上げて―――広がる景色に、息を飲む。
「皮肉だな、ホント」
口角を吊り上げて、恨めしそうに呟く。
戦って、傷付いて、喪って。それでも綺麗だと、思ってしまうのだから。
「本当に、皮肉だ」
それは、一面の水の世界だった。
アクリルに閉ざされたブルースクリーン。淡いコバルトブルーが世界を満たし、まるで深い海の底。
黄昏を浴びて金色に煌めく水面が部屋の中へ沈み込み、ゆらゆらと朧げな光が部屋を埋めるモルタルを泳いだ。
透明な境界の向こう側に、優雅にマンタが泳いでいた。鯵の群れが白銀の竜巻を作っていた。
海藻がゆらゆらと揺れていた。イルカが踊り、鳴いていた。
綺麗だ、と。そう思わざるを得ない光景だった。
「……どうして」
こつん、とアクリルの壁面に額を当て、息を吐いた。白い息は冷たい空気を漂って、やがて虚空に溶けていった。
震える拳が、アクリルの一枚板を叩く。どおん、と鈍い音が部屋に反響した。
アクリル面に映り込むのは、冴えない男が一人。酷くやつれた表情の中で、への字に曲がった口から声が漏れた。
「どうして、俺なんだ」
どうしてなんだ、と。腹の底から捻り出す様に言う。
半ば無意識の言葉は、その九文字は、ここまでの苦悩の全てが詰まっていた。
「いつもそうだ……ああ、確かに俺は生きたい。生きたいよ……」
駄目だ。少年は思った。そうじゃない。違うんだ。
「だけどあいつらだってそうだろ。誰だって、死にたいわけじゃなかった! 生きたかったはずだ!」
待て。それ以上言うな、駄目だ。“崩れる”。
今まで積み上げたものも、捨ててきたものも、無視してきたものも、我慢した想いも、叶えたかった願いも。
全部、崩れちまう。だから、言うな。言うなよ。言うな!
「あいつらが何かしたか? 命を奪われなきゃいけないような事を?
無様に死ななきゃいけない事を? 何かしたっていうのか!?
…………冗談じゃない……冗談じゃない!!!」
守りたい約束があった。皆で生きて帰ると言ったそばから、呆気なくその約束は破られた。
無関係の少女がいた。別れは一瞬だった。仕方が無かったと割り切った。
殺人鬼が居た。救う道は無かった。撃ち抜いて、落とすしかなかった。
仲間を失って命を奪って、後に残ったのは鋸を引く無機質な感覚だけだった。
渇いた友情があった。命を守って、命を落として、残ったものは押し付けがましい陳腐な言葉。
守りたい笑顔があった。尊い願いがあった。悪魔はそんな想いすら嘲笑って、小さな命を踏み躙り奪っていった。
「奪って、走って、殺して、見捨てて、逃げて。必死に生きて、生きて、生きて、守られてッ。
そうして残ったものは何だ? 打算と、現実と、あとは何だ? 何が誇れる?
正しいだけじゃ生きられない、あぁそんな理屈は疾うに解ってる!
だけどそうして生き残って、その先に何がある!?」
やめろよ、違うだろ。そんなんじゃないだろ。
そんな事を言う為に生きてきたんじゃないだろ。
石に縋り付いて、藁に噛み付いて、這いずり回って泥水を啜ってでも生きるんだろ。その為だったら何だってやるんだろ。
仲間ごっこも、裏切りも、見捨てる事も、手を汚す事だって厭わない。
理想なんてものに意味はない。そんなもんが叶うわけがないし、叶ってたまるか。
利用出来るもんは全部利用して生きる。奪えるものなら全部奪って生きる。そうだろ?
悲しんでも、嘆いても、何も始まらない。救えない。違うか?
俺は何か間違ってるか?
「正しい奴からいつも死んでく。俺なんかよりよっぽど生き残ってなきゃいけなかったような奴ばかりが!
確かにあいつらはどうしようもない甘ちゃんだったよ!
馬鹿で温くて仲間ごっこが大好きで、理想論ばっかな口先だけの夢見がちな糞野郎ばかりだった!
だけど、だけどよ……」
わななく口で叫んだ声は、冷たい青に消されてゆく。喉を裂くその独白も、想いも。ただ虚しく平等に壁の向こうの海に沈む。
ふと何かの重さに耐えかねて崩れ落ちる様に、膝を折った。
アクリルに映り込んだもう一人の自分は、馬鹿みたく嗚咽を上げるだけで何も言わない。
光の無い黒い目を、鼻水で汚れた情けない顔を、ひたすらこちらに向け続けていただけだ。
励ます人も、怒る人も同意する人も、愛してくれる人も、慰めてくれる人も、叱ってくれる人や殴ってくれる人すら、此処には居ない。
優しさなどありはしない。温かさなどありはしない。
理想など、疾うに捨てた。夢なんてものは、ありはしなかった。人の形をしたその中身は、ひたすらに冷たく、空虚だった。
でも、でも、でも、だからって。
「……だからって奪われていいわけじゃないだろッ!
人間としゃ、あいつらの方がずっと立派だった! 俺なんかより! よっぽど!」
何度やり直せばいい? “やめろ”
何度喪えばいい? “やめろ!”
何度、こんな想いをすればいい? “やめろ!!”
なぁ、今だけでいい。もう二度と、弱音も吐かないから。泣かないから。逃げないから。
だから今だけは、どうか。 “やめてくれ!!!”
「守られなきゃいけないのは、あいつらの方だった!
だけど死んじまったよ! 逝っちまった! みんなみんなみんなッ!!!」
吐き捨てて、吐き捨てて、それでも言葉を絞り出す。
行き場の無い怒りと恨みと後悔が、今まで必死に殺してきた想いが、腹の奥から逆流する。
頭の中ががんがんと痛んだ。口と思考と身体が別々の方向に進み、身が張り裂けそうだった。
こんなんじゃない。少年は唇を噛みながら、どうにかなってしまいそうな頭で思った。
目指すものは、歩いて来た道はこんなんじゃない。望んだものは、こうじゃない。
置き去って来た筈だ。切り捨てて来た筈だ。
だから、言うな。言うな!
「ずっと思ってた事だ……ずっと見てきた事だ。自殺していく奴や、戦って死んでいく奴。殺してもらう奴、集団で死ぬ奴。
少し間違えれば、俺もそうなるはずだった。
……少なくとも分かり合えるって、最初はそう思ってたよ。殺し合いなんて起きる筈がないって。
皆、信じられるって。協力出来る筈だって。手を取り合える筈だって。それが、なんで、なんでっ」
震える両手を目の前に出す。
誰かに守られて生き残ったにしては、優しい言葉で許されるには、その掌はあまりに黒くて、あまりに汚れてしまっていた。
守られていい両手じゃない。褒められる事なんて、何もしていない。優しさに触れていいような人間じゃあなかった。
その掌で、ゆっくりと顔を覆う。
泥と、汗と、血の臭い。死と現実が染み込んだ両手が、視界を塞いでゆく。
不意に目頭が熱くなった。視界が滲んで、頬をゆっくりと濁った雫が流れ落ちた。
手を離し、震える両腕で胸を抱いて、身体を守って、沈むように床に倒れこむ。
痛い。
痛いのだ。
心が、肉が、何かが悲鳴を上げるように軋んでいた。諦めた理想が、胸を抉る。認めた現実が、心を刺す。
白と黒の境界で、ざわざわと汚れた何かが蠢いていた。
「――――――なんで、ここに居る?」
わななく口で、崩れる心で、その一言を絞り出す。
死にたくなかった。生きたかった。信じたかった。守りたかった。喪いたく、なかった。
皆で脱出したかった。誰一人欠ける事ないハッピーエンドが見たかった。
ただそれだけだった。
それが、いつから。どうして。
「こんな、こんな俺が。何も守れなかった、信じなかった、この、俺がっ。
なんで。なんでだよ……なんでだ……」
全員、ゴミ屑の様に死んでいった。自分なんかよりもよっぽど尊くて価値ある命が、まるで羽虫の様にこの島の呪いに喰い散らかされた。
一体自分は此処で、あの島で何をしてきたのだろう。何を誇れるのだろう。一体何があるのだろう。何を言えるだろう。
リアリズムに沿って、情を捨てて、殺して、助けられて、ひたすら生きて……そんな命に、やってきた事に何の意味がある。
一度も守らなかった奴に、今更何が出来る。
「なぁ、竜宮。すごくなんかねぇよ、俺は……ちっとも、すごくなんかねぇ……」
呪いを吐く様に、呟く。悲しみも、涙も、震える息も。
なにもかもが冷えたコンクリートに染み込んで、消えてゆく。
「……俺は、間違えたのか……?」
アクリルの向こう側で泳ぐ海亀を見ながら、少年は呟く。
だとしたら、何処で間違えた。
「なぁ、誰か……誰か……教えてくれ……誰でもいいから……」
か細い声は反響を繰り返して、黙した空気に沈んでゆく。
「……お前は正しいって、言ってくれ……」
額を床に押し付けて、肌に爪を立てながら、唇を噛みながら、鼻を垂らしながら、呟く。
許しを乞う様なその言葉は、青い暗闇にぽつりと孤独に浮かんでいた。
小さい背中は、なにかに怯えるように小刻みに震えている。
誰かを求めて頭に想い描いても、そこには誰一人生者は居ない。何もない。誰も居ない。
理想が守られなかった現実、それに安堵する心。誰かを喪う虚しさ。自分じゃなくてよかったと思う卑しい心。
正しさも、間違いも、そこには何も無くて、答えは無くて。
ただ、また誰かを喪い己が生き残った現だけがあって。
嗚呼、全ては海に浮かんだ白銀の泡沫。
アスファルトの海が、広がっている。
灰色が、敷き詰められている。
そこに音は無かった。しん、と真っ直ぐで純粋な静寂が、景色に焼き付く様にそこにあった。
張り詰めた空気が胸に突き刺さる様で、少しだけ少女は噎せた。
腰をくの字に折って、咳を吐く。吐いた息は、目の前に広がる血の池の様に生温かった。
少し、一人にさせて下さいまし。
そう提案したのは、他でもない少女だ。
時間が必要だった。それが解決してくれるのかどうかは別として、とにかく必要だったのだ。
咳が止まって、上体を起こして唾を飲み込む。落陽が、眩しい。
絶望と、失望と、苦痛と、後悔と。全てが混ざり合って胸の中をごうごうと渦巻いている。
少しその感情を並び替え咀嚼し間違えば、その気持ちは黒く裏返るであろう事を、少女は勿論知っていた。
だから、少女はその感情を飲み込まない。
それだけのものを認めて前に歩めるほど少女は強くはなかったし、
年相応の小さく華奢な体に、その黒い感情はとても収まりきらなかった。
夕暮れの光の中で、陽炎の向こう側で―――正義が揺らぐ。
守れなかった。共に戦ってきた友人を守れなかった。
助けられなかった。人間に絶望した少年も、それを殺そうとした人も、誰かの間違いのせいで助けられなかった。
届かなかった。必死の説得も、伸ばした手も、叫んだ声も。何一つ心に届かなかった。
伝えられなかった。言うべき事も、大切な気持ちも、感謝も、文句だって。何一つ伝えられなかった。
振り払われ、笑われ、ねじ伏せられ。貫かれ、助けられ。それのなんと、なんと無力か。
何がいつか借りを返す。何が届ける、何が助けられる。何が、自分次第。
何もかもが下らない。結局、何も出来やしなかったじゃないか。
「しっかり、しなさいな、黒子」
両頬をぺちりと叩いて、震える声で呟く。
しっかり、しっかり。自分に言い聞かせる様に、縺れる足を踏み出した。
「自身がないなら、取り戻すまで。不安があるなら、吹き飛ばすまで」
肺から空気を絞り出す様に、呟く。座り込むな、前を見ろ、進め、歩け。
そうじゃなければ、誰が秩序を守って、平和を取り戻すんだ。正義は、どこへ行くんだ。
……いや、違うか。少女はかぶりを振った。そんなものがなくても動く覚悟はした。失う覚悟もした。
だけど、いや、やっぱり違う。
覚悟をしたからって、それを受け入れられるかどうかはまた別なのだから。
「自分の、正義だけは、これだけは、貫いて、信じて、決して曲げずに、わ、わたし、はっ。
だから、大丈夫、大丈夫ですの。大丈夫、大丈夫……」
無理矢理にでも、笑ってみる。頬を釣り上げて、笑顔を造った。
だけど、おかしい。こんなに笑っているのに、ちっとも笑えない。笑いたいのに、笑い方が分からない。
こんなんじゃ駄目だ。少女は思った。こんな調子では、到底正義など語れない。
少女は頭を後ろにもたげて、空を仰いだ。血が首の中を流れる感覚。じわりと後頭部が暖かくなる。
ふいに、鼻腔に届く血の臭い。噎せ返る様な生臭さに、目眩がした。
目線を落とすと、赤い雫で出来た道。転々と、まるで獣を導く撒き餌の様に。
何も考えずに、それを追う。その赤い印が何を意味するかはきっと判っているけれど、解りなくはなかった。
ただ、今向かう道は、目指すものはその先にある。
それだけが明確に心の中心に刻み込まれていた。
「さぁ、探しませんと……ええ、きっと船見さんは酷い怪我でもして、動けないんですの……そうに決まってますのよ」
船見結衣。レベル0の圧倒的無力なはずの少女は、しかし遥かに自分より強かった。竜宮レナも然りだ。
認めざるを得なかった。
自分は、あの場所で肉じゃがを食べた誰よりも強い能力者で―――そして誰よりも、弱かったのだと。
能力的な強さより、この島で真っ直ぐに生きるためには、彼女達の様な強さが要る。
だからこそ、喪ってたまるものか。
守るんだ。
護るんだ。
まもるんだ。
その心の強さに救われて守られたなら、今度は自分の想いで、物理的な強さで彼女を守ってみせる。
―――もう、喪わない。喪わせない。誰一人、欠けさせない。泣かせない。
少女は前を見る。地面に続く赤い印が大きくなっているのは、きっと気のせい。胸にある嫌な予感も、きっと嘘。
今は泣くより悔いるより、今を見ろ。救う事だけ考えろ。
何処かで誰がが倒れているなら、迷っているなら。それを救うために居るのが、自分の役目なのだから。
「助けに行きませんと……早く、早く……」
何故なら―――
「だって、私は風紀委員<ジャッジメント>なんですもの」
―――それが、最後の葉っぱだったから。
朽ちて枯れ果てた細い樹に繋がった、今にも風に飛ばされそうな、最後の一枚だったから。
誰かを守ってきた過去も、敵を倒してきた過去も、自分への自信も、かつての友も、ここでの友も、救いたい気持ちも、守られた悔しさも。
その全てを喪って、それでも残ったたった一つのアイデンティティだったから。
自分が自分である為、壊れかけの体を保つ為。
少女に残っていたのはそれだけだった。何もかもを砕かれてしまった今、それを失えば“白井黒子”は本当に終わってしまう。
それを失っても立ち上がり進む覚悟は、確かにした。だが、失う事を是としたわけではなかった。
だから、きっと全てを失って最期の正義さえ失えば、本当に何も残らない。
だからこそ、この正義は曲げるものか。
血が滲みくたびれた腕章をぎゅうと握り、汗だくの額を拭い、風紀委員・白井黒子は前を見る。
諦めない。止まらない。折らない。曲げない。最後まで、最期まで。
鋭く尖った刺剣の様に愚直で、敬愛する姉の蒼雷の様に激しく、錆びた鉄屑の様に汚く。
それでも、向こう側に沈みゆく斜陽の様に、炉の中で産声を上げた一振りの剣の様に、どこまでも熱く。
魂の様にこうこうと輝く泥臭い正義が、少女の足を前へ運ぶ。
「ぁ」
――――――――――――だけど、やっぱり現実はいつだって残酷だ。
暫く歩いてそこへ辿り着いた瞬間に、少女の膝ががくりと折れる。がたがたと肩が揺れて、茶色の瞳がせわしなく動き回った。
心臓が、ばくばくと跳ね上がる。唇が震えている。音にならない様な妙な声が、喉の奥から零れ落ちた。
焦点の合わない視線が、赤く濡れた彼女を捉える。うまく、息が出来ない。
落ち着け。少女はからからに渇いた口を開いて、空気を飲み込む。
胸の中で、がらがらと何かが崩れる音。冷たい風が吹いて、樹が揺れる。最期の葉が、ざわざわと不穏な音を立てた。
荒い息を固唾もろとも飲み込んで、縋る様に、腕章を握る。
―――大丈夫。
うわ言の様に、呟いた。
喪うな、震えるな、手放すな、座り込むな。泣くな、止まるな、諦めるな、見失うな。私は、私だ。
被さる旗を剥ぎ取って、隣の死体を押し退けて、横たわる彼女をがばりと抱き上げる。だらり、と腕と首が重力に従う様にぶらさがった。
嗚呼。動かなくなった彼女の顔を見て、唸る様に少女は息を吐く。
気付いてしまった。判ってしまった。もう、彼女は、船見結衣は―――
「ちがう」
唇が、震えた。
少女は暗がりの中で首を振って、彼女の頭を持ち上げ、頬に触れた。蝋の様に白い肌は、氷の様に冷たかった。
その頬を優しく包んで、身体を揺さぶった。反応はない。
耳を胸に押し当てる。音がしない。
口を見る。息をしていない。
地面を見る。血が、流れすぎている。
目を見る。瞳孔が開いている。
認めざるを得なかった。船見結衣は、
「ちがいますの」
少女の顔には深い影が落ちていた。表情が、見えない。
喉から出掛けた言葉を飲み込み、再び首を振って、動かなくなった彼女の肩に手を回す。
そうして立ち上がれば、がくがくと笑う膝。
少女は思わず噴き出した。違う、違う。こんなのは。こんな事は望んじゃいない。嘘だ。嘘なんだ。
ぎしぎしと何かが軋んで、残った何かが霞んでゆく。ぱたぱたと何かがなし崩しに倒れてゆく。
世界の色が反転して、赤い夕陽が青黒く染まった。光が黒く世界を照らし、影が怪しく輝いた。
少女は理解した。これがきっと、何もかもが終わる感覚なのだと。
「……しょうがないですわね、まったく」
だけど、違う。それも違う。まだ終わってたまるか。認めてたまるか。
“せいぎ”なんだ、“ふうきいいん”なんだ。諦めるもんか。
少女は犬歯を剥き、唇を噛みながら前を睨む。砕けそうになる心を支える様に、足を踏み出す。
折れるものか、終わるものか。少女はぎりぎりと歯を食いしばると、表情だけでぎこちなく嗤った。
世界に牙を剥くその想いは何よりも強く、気高く、固く……しかし、だからこそ現実を認めなかった。
「……こんなところで寝てましたら、風邪をひいてしまいますのよ? ほら、一緒に、移動しますの」
色を喪った双眸に、暗い光が灯る。強過ぎる意思が、虚構を産み出す。
少女が“白井黒子“である為に、正義が正義である為に、自分が誰かを守る存在である為に、風紀委員である為に。
失う事を是としない為に、失う覚悟を壊さない為に――――――擦り切れた希望が、汚れた世界に嘘を塗った。
「ほら、口の周りもこんなに汚して……」
少女が、物言わぬ彼女へ優しく話しかける。彼女は答えない。少女は首を傾げた。
血で濡れた彼女の顔を制服で拭い、にこりと笑いかける。彼女はつられて笑いさえしない。
―――起きて下さいまし。少女が言った。彼女は答えない。
少女はやがて諦めて、彼女を背負ったままふらふらと道を引き返していった。誰も居なくなった、血濡れた道を。
「貴女達は、私が、守りますの」
魂が崩れて、心が錆びつく。覚悟が腐り、現実が凍てつく。
屍背負い道を迷って、捻れた正義は何処へ逝く。
鴎が空を泳いでいる。
赤から青へのグラデーションの中に、白い鴎はよく映える。
少年は頭を後ろにもたげ、馬鹿みたく口を開けて空を仰いでいた。
くすんだ銀色の手摺に背を預け、腕を乗せ、何をするわけでもなく。
そこは、屋上だった。倒壊した研究所の隣設棟の屋上だった。
嘆くだけ嘆いて、喚くだけ喚いて、少年は何かを求める様にそこへ辿り着いた。
不意に潮風が髪を攫う。ばさばさと黒髪が靡いて、少年はそれを手で抑える。
目線を流せば、真っ直ぐ伸びた横一文字の境界線。広大な海が大空に、悠久の空が大地に。
逆さの世界に溜息を吐く。恨めしい程綺麗で、思わず舌を打った。
全くさっきはどうかしてたな、と少年は起き上がりながら思った。自分らしくもない。
「……何でこうなっちまったんだろうな」
くるりと身体の向きを変え、手摺の向こう側の海を眺める。東西を跨ぐ橋が見えた。
「わかんないよな。本当に」
考えても、仕方ないか。
胸ポケットをまさぐり、煙草の箱を取り出す。皺だらけのマイルドセブンの包装から一本だけ、煙草を抜いた。
それを咥えて火を近付けたが、潮風が邪魔をしてなかなか火が点かない。
かちかちと何度かライターから火花を散らせて、漸く煙草が煙を吐いた。
やれやれと肩を竦めると、少年は目を細めてそれを吸う。口の中で煙が回り、肺を介して鼻から抜けた。
味は、開封して暫く経ったからか、些か風味が抜け落ちてしまっていた。
少年は苦い表情で笑う。唯一の楽しみを奪われた気分だった。
鼻から息を吐きながら、紫煙を目で追う。
煙草は世辞にも美味くはなかったが、夕暮れに漂う紫煙を見ている気分は、何故だか決して悪くはなかった。
苦い感情に不味い煙草、味気ない研究所。尽くミスマッチ。ロックだ、と思った。
「……そろそろ、白井も現実にぶち当たる頃かね」
少年は呟くと、くつくつと肩を揺らした。
白井黒子。あの正義馬鹿は、あろうことか船見結衣を助けに行くと宣った。
それを聞いた時、思わず言葉を失った。
馬鹿だと思った。耳を疑うとか、そういった次元じゃない。
そもそもどう贔屓目に見ても彼女が生きているわけがなかった。
竜宮レナが殺されて、船見結衣が生き残るだなんて道理は通らない。
万に一つ死んでいなかったとしても、恐らくもう手遅れだ。死は免れない。それが遅いか早いか、それだけだった。
だから、選択肢がなかったのだ。救いに行くだなんて、ふざけた選択肢は。
それを言わない自分は、性格が悪いのか、どうなのか。
少年はニヒルに嗤うと、煙草の煙を吐いた。紫煙が中空に浮かんで、ぐるぐると螺旋を描きながら消えてゆく。
自分は行かずに待っている。少年はその旨を少女に告げて、この研究所に来た。
決して、彼女が死んでいるだろうとは言わずに。
あの悪魔と彼女が再び鉢合わせる可能性もあったが、自分には関係がない事だった。
ただ……少しだけ、少女が羨ましかった。
彼女が生きていると信じられる気持ちは、もう自分にはないものだったから。少しだけ意地悪を言ったのは、だからだ。
その感情を甘いと吐き捨てる事は簡単だった。
ただ、それは紛れもなく嘗ての“七原秋也”の理想だったのだ。
今は死んだその影の、夢の形だった。だから羨ましくて―――そして無性に腹が立って、仕方がなかった。
そんなものは理想で、叶わないと解っているから。どうせ、船見結衣は死んでいる。殺されている。
そんな解りきった答えを、理想でなんとか砕こうと抗って……それでも現実は嘘を吐くはずがなくて。
結局絶望が待っているだけなのに、わざわざ信じて傷付く彼女が、どうしようもなく気に入らなかった。
ここまで来て、何故諦めない。何故認めない。もう充分なはずだ。気付いているはずだ。
なのに口を開けば綺麗事、世迷言。この島の阿呆共はみんなそうだ。誰も彼もが、甘過ぎる。
それが歯痒かった。皆して甘くて―――まるで諦めた自分の方が、間違ってるみたいだったから。
信じられなくなったお前こそが、咎なのだと。
クソったれ。本当に、反吐が出そうだ。
煙草を手摺に押し付けて火を消して、少年は懐からもう一本を取り出した。
かちり、とライターの火打石が火花を散らす。
「なぁ、川田……何かを信じるってのは、本当に難しいよ」
煙草の煙が、歪んだ口から漏れた。
灰と共に煙が潮風に流されて、金色の海の向こうへと消えてゆく。
「……湿気っちまってら。こんなに不味い煙草はねぇな」
最初から、そこには何もなかったかの様に、脆く、儚く。
来た道を、引き返す。未来に行く事を拒む様に、過去の想い出に縋り付く様に。前を見ず、後ろへと進んでゆく。
悲しみも、痛みも、苦しみも、希望も、現実も、彼女を見つけたあの場所へ置いてきた。
残ったものはただひとつ。ぽつりと小さな塊が少女の中にある。
後は何も無かった。胸にはぽっかり穴が空いた様で、冷たい風がびゅうびゅうと体の中を吹き荒ぶ。寒い。
空洞の心の中に、冷え切った塊が転がっている。
正義だった。
熱をすっかり失って、それでもそこに在り続けている、未練がましい正義の結晶だった。
肩で息をしながら、傷付いた彼女を運ぶ。時折心配そうに声をかけながら、ふらふらと覚束ない足取りで歩いてゆく。
移動に能力は、使わなかった。否、使えなかった。こんなにも冷静なのに、何故だか座標演算処理がうまくいかなかったのだ。
思えば、能力を使わず人を運ぶだなんて随分と久し振りだと少女は思う。
能力使用禁止区域――例えば寮内の様な――では、荷物を運ぶことはあれど人を運ぶだなんて事は滅多になかったし、
あまつさえ風紀委員として応急患者を運んだ事は何度かあれど、仕事中は基本的に能力を使っている。
しかし、どうだろう。レベル0の人は毎回そんな発想にすらならないわけだし、能力が無い世界に至っては、それが当たり前だ。
ならば成程、学園都市の人間より異世界のレベル0の人間の方が、よっぽど精神的に逞しいのかもしれない。
でも、だったら強さとは一体何なのだろう?
レベル5だから優れている? スキルアウトは見下され、レベル0は評価されない?
自分の能力は何の為にあるのだろう。人を救う為?
誰も救えなかったのに?
ぜえぜえと洗い息を吐き、全身から滝のように流れる汗に顔を歪めながら、少女は自問した。
時折ずり落ちそうになる彼女を背負い直し、たまに休憩を挟みながら、少女は歩いてゆく。
虚ろな双眸が、灰色のアスファルトを映す。交差点があった。動かなくなった信号を横目に曲がると、目の前には錆びた標識。
標識の根本まで歩いて、足が止まった。
乾いた血溜りの中に、それがあった。
竜宮レナが……竜宮レナだったものが、横たわっている。
その側で、犬が身体を丸めていた。
テンコはどうしたんだったかと記憶を辿り、嗚呼、と溜息を吐く。一人になりたいからと支給品袋に入れたんだった。
我ながら、自分勝手な話もあったものだ。少女は自嘲して、汗でべたりと張り付いた髪を掻き上げた。
瞳を閉じ、震える口で息を大きく吸う。そうしてゆっくりと、瞼を開く。目の前の景色を、認める為に。
ところが、瞼は開かなかった。まるで石化魔法をかけられた様に、或いは心理掌握にそうしろと暗示を掛けられた様に。
ぐるぐると瞼の裏側に絶望が渦巻いて、みるみるうちに光が歪んでゆく。屈折して、深淵に落ちてゆく。
捻れて歪になった正義が創り出した虚像が、動かぬ肉に息吹を与えた。
少女は熱くなった目頭から溢れようとする何かを堪えながら、覚悟と共に重い瞼を開く。
認めない。認めさせない。失わせない。殺させない。欠けさせない。
誰一人、これ以上奪わせない。
「――――――なに、やってるんだよ、白井」
不意に、乾いた笑い混じりの少年の声。少女は気怠そうに頭をもたげて、声のする方を睨んだ。
色を欠いた視界の中に、少年の険しい表情が映り込む。
「……答えろ。“そこで何をやってる、白井”」
いつもよりワントーン低い声が、死に尽くした虚無の街に響いた。
風が、アスファルトの砂埃を巻き上げる。土と血の臭いが鼻腔をつんと刺す。
じりじりと音も無く後退り、少年は臨戦体制に入った。
何故って――――――少年がそこへ戻ってきた時に見たものは、薄ら笑いを浮かべて二つの屍を運ぼうとしている、メイド服の少女の姿だったのだから。
壊れてしまったか、壊れかけなのか。
経験上、それはどちらかだった。
ただその二つでは圧倒的に前者の可能性が高かったし、
例え後者だとしてもどの道遅かれ早かれ堕ちるであろう事を少年は知っていた。
別に然程珍しい事ではない。明るい人間や正義感がある奴ほど、このゲームでは堕ち易く、死に易い。
友人の死を見て壊れてしまう事は可能性の一つとして充分に在り得た事だった。
何故それをこの時に限って見逃してしまったのか。少年は口の中で舌を巻いて後悔した。
少女の性格を少し考えれば、こうなる事くらい予想出来たはずだったのに。
ともあれ、後悔先に立たず。少年はそれ相応の覚悟をしなければならなかった。
少女が壊れていようがこれから壊れてしまうのだろうが、何れにせよ少年にとっては邪魔にしか成り得ないからだ。
しかし、少年は自分が少女に敵わない事を痛いほど知っていたし、それを知っていて歯向かうほど愚かでもなかった。
だが、少女を相手取って背を向け逃げる事は死に同義だ。ならばどうするのが正解か。
……いや、正解など、きっと無いのだ。少年は思った。
どう足掻いても戦闘態勢に入った少女からは逃げられないし、殺せない。
それは対峙即ちゲームオーバーを意味していた。
リスクやメリットどころの話ではなかった。オールリスク。オールデメリット。得るものなど何も無く、その先には無慈悲な死があるのみだった。
となると跪いてでも命を乞うか、奇跡を信じて歯向かうかだ。どちらにせよ博打。馬鹿馬鹿しいが、それしか道はない。
少年は冷や汗を額に浮かべながら、じりじりと後退る。
腰に下げたレミントンM31RSを抜きこそしないものの、グリップには確りと利き手が添えられていた。
共に釜の飯を食った仲だからと言って、狂ってしまったのならば容赦をするつもりなど毛頭ない。
人は少しのきっかけで変わってしまうものなのだ。そんな事、ずっと前から知っている。
「お前は“どっち”なんだ?」
無意識に出た疑問。答えの変わりに、無言が、五秒。返答次第では、覚悟をしなければならなかった。
―――瞬間、少女の指先が跳ねる。
それを皮切りに少年は銃を素早く抜いて、流れる様な動きで構えた。
狙いを付け、トリガーに指を掛けるまで約一秒。息つく暇すら与えない。
敵を討つに理想的なその一連の動きは、半ば脊髄反射に近かった。
銃口は寸分違わず少女の眉間を向いている。同時に、しまった、と苦い顔。
銃を抜けば最早、戦うしか。
「こんなところに、いましたの」
そう覚悟してごくりと生唾を飲み込んだ時、故に少女の口から発せられたその言葉に少年は面喰らった。
何故ならそう呟く少女から敵意らしい敵意は全くと言って良いほど無く、
且つその表情が、壊れた心から造られたにしてはとても優しいものだったから。
矛盾していたのだ。
向こうまで続く、平行線。交わることのない線が、交わっている。
昼と夜が、同時に訪れている。全てを貫く矛が、全てを守る盾を、射抜いている。
何かが、おかしい。
少年は息を飲んでトリガーの指に力を込めた。目前の少女は、銃口を意にさえ返していないようだった。
光の無い瞳は底無しの常闇の様に真っ黒で、ぶるりと寒気が背筋に走る。
こちらを見ているのに、こちらを何も見ていない。銃を見ているはずなのに、見ていない。
この噛み合わない歯車は、一体何だ。
「白井……お前の目は、何を見てる?」
だから少年は混乱した。優しい表情とあまりに乖離してしまった、その淀みきった双眸はなんなのか、と。
遺体の側に座る犬、居なくなったテンコ、膨らんだ支給品袋、横たわる死体、流れる血液。
担がれた死体、正義、風紀委員。光を失った目。
状況を舐めるように飲み込み、経験が解を弾き出す。
バラバラのパズルのピースが、パチパチと嵌ってゆく。導き出された答えは―――嗚呼、成程。
少年は理解した。そういう事か、と苦い笑みを浮かべる。
「聞いて下さいまし。先程」
「いや……解った。もう、いい」
口を開く少女へ向けた銃を下ろし、少年はかぶりを振った。つまり、そういう事だったのだ。
狂ってなどいなかった。壊れてなど、いなかった。
少女は、白井黒子は、変わってしまってなどいなかった。
簡単な話だった。少女はただ、どうしようもないくらいに“白井黒子”だっただけなのだ。
自分が現実を知って、それを認めて“七原秋也”を捨てた様に、
白井黒子は現実を知って、それを認めない様に“白井黒子”であり続けているだけだった。
「船見さんが、もう殆ど息をしてませんの。だから早く、何でもいいですから何か応急処置になるような何かを!」
「白井、もういい」
拳を握りながら、少年が呟く。
理解は出来る。気持ちも分かる。それでもどうしようもなく、目の前の少女が許せなかった。
だって、認めていないだけだったから。見ていないだけだったから。
ふざけるな。
だから、少年は歯を食い縛りそう思った。
ふざけるなよ。
死んだ事すら無かった事にされるだなんて、あの言葉もあの笑顔もあの想い出も、尊い命すらも嘘にするだなんて。
―――そんなの、都合が良過ぎるじゃないか。なぁ、白井。
「竜宮さんも、早く治療してあげないとだめですの。このままでは二人とも、」
「もういい」
砂を噛むような表情で、かぶりを振る。怒りと、虚しさと、やるせなさが身体をぶるぶると震わせた。
……そんなになって、現実を認めずに逃げてまで、お前は何を守りたいんだよ、白井黒子。
なぁ、そんなに大事なのかよお前の守ってる理想は。現実を認めることは、諦めることは、そんなに嫌なのかよ。
何でだよ。そうまでして、何でなんだ。全部捨てて諦めればいいだけだろ。別に辛い事でもなんでもないだろ。
簡単な、事じゃないか。
「今度は私達が御飯を作ってあげませんと。皆さんに笑顔でいて貰いたいんですの。だから早く!」
「黙れよ……」
触れれば崩れてしまいそうな儚い表情で、少女は懇願する。
少年は歯を軋ませながら溜息を吐く。理解出来なかった。どうしてそこまでして、目の前のこいつは強くあろうと嘘を吐くのか。
そうして得た痛みの方が、よっぽど辛いのに。
「ほら、しっかりしなさいな船見さん。寝てしまったんですの? おかしいですの。さっきまで確かに喋って」
「……なあ、話を聴けよ、白井」
「こちらの台詞ですの。竜宮さんも勝手に喋るだけ喋って、黙って眠ってしまいましたし、まったくもう」
少女が震える唇で答えた。答えになっていない。
うんざりするように、少年はこうべを垂れる。行き場のない感情が、爆発しそうだった。
いっそ激情に任せて全部吐き出してしまった方が、どれほど楽か。
「やめてくれ」
少年はそれでも堪えながら、言った。これ以上その光景を、見ていられなかった。胸が痛んで、仕方が無かった。
「さ、早く探しますわよ。これだけ建物や研究所がありますし、きっと包帯やお薬だってあると思うんですの」
少女が言って、ふらふらと竜宮レナへと駆け寄り、土色の腕を持ち上げる。
「やめろって」
少年は懇願する様に呟いた。やめてくれ。
「そういうわけにはいきませんわ。辞めれば、諦めれば、死んでしまいますのよ? 馬鹿な事言わないで下さいまし!」
「……やめろ」
むっとした表情に向かって、喉から捻じり出す様に、言う。少年の肩は震えていた。
少女は眉間に皺を寄せ、つかつかと少年の目の前へと足を進める。
「あのですね……私だってさすがに怒りますのよ! 一体何をやめろと」
「――――――それをやめろって言ってんだッ!!!」
少女の肩をがしりと掴み、身体を揺さぶる。ぐしゃり、と少女の背から物言わぬ骸が落ちた。
ぎょっとして、少女は体を強張らせる。困惑に、眉が歪んだ。
少年は項垂れた顔を上げて、少女の双眸を真っ直ぐに見つめる。底無しに暗い瞳に、動揺の色が走った。
「もういいだろ! 認めてやれよ! 逃げてんじゃねえ! 見ろよ! ちゃんと!! 現実を!!!」
じわり、と少女の瞳に鈍い光が差す。ぴしりと罅が入る音。はっとした様に少女はふらふらと後退り、少年の両手を剥がそうと身体を揺さぶった。
逃がすものかと、少年の指が肩に食い込む。ずきりと皮膚の内側に鋭い痛みが走り、苦悶に表情が歪んだ。
ぱきり。少女の鼓膜の内側で、罅が広がる。崩れてゆく。砕けてゆく。
灰色の世界に色が差す。虚構の景色が滲んでゆく。現実が、生きた命を屍にしてゆく。
横たわる遺体。広がった血。全身を染める赤。焦点が合わない目。がたがたと肩が震えて、上手く声が出せない。
心臓が跳ねている。息が詰まる。目の奥が熱い。
ぼろぼろと、風化した土壁の様に崩れてゆく。必死になって積み上げた偽物の覚悟と現実が、跡形も無く消えてゆく。
「げ……現実? あ、貴方、なにを、言って」
少女が言って、後退ろうとする。少年は逃がさない。
少女の頭の中で警鐘がけたたましく鳴った。
逃げろ。頭の中で何かが叫んだ。今すぐ耳を塞いで、逃げろ。
「いいか、白井」
「やめてくださいまし……痛いですの」
「よく聴けよ」
「い、痛いですの……や、やめっ」
「船見は! 竜宮はな!」
「や、やめて下さいまし……聞きたくないですの!!」
「あいつらは、もうッ」
暴れる少女の視界の隅に、二つの死体が映り込む。瞳孔の開いた目と、視線が交差する。死が、夢幻を侵食してゆく。
嗚呼、そうだ。少女は諦めた様に表情筋の裏側で自嘲した。
何も、違わなかった。ただ、怖かったんだ。認めてしまえば、最後に縋るものすら喪ってしまいそうで。
正義すら亡くしてしまいそうで。
それだけが、こわかった。
「――――――死んじまったんだよ!」
その一言で、全てが終わっていた。これが現実だ。嘘になんか、していいはずがない。二人とも、もう此処には居ない。
あれもこれも、全部、全部全部全部全部全部全部、ホンモノだったのだから。
「う、そ」
「嘘なんかじゃない! 死んだんだ! 俺達を助けてくたばった! 無力な俺達を救って!
ちゃんと見てやれよ! こんなの、あんまりだろ! 託して死んだあいつらが馬鹿みたいじゃないかよ!
あいつらの命を犠牲にして、死体を踏み台にして! 俺達は生きてる! それが現実だ!!」
がらがらとハリボテの外壁が崩れ去って、空洞の肉が剥き出しになる。最早、少女を守る外装は無くなった。嘘で固められた鎧が、錆びて風化してゆく。
ただ、守りたいものはそれでも残っていた。肉の内側に、汚れた正義が一つだけ。
くしゃくしゃの醜い顔が、目の前の少年の瞳の中に映り込んでいる。それが自分なのだと気付くまで、さして時間は掛からなかった。
「自分だけ不幸な主人公みたいな顔してんじゃねぇ!! 辛いんだよ、みんな!
俺は認めない、認めないぞ白井! あいつらの犠牲を嘘にしちまうなんて、そんなの認められるわけがない!
あいつらの分まで生きなきゃいけないんだよ! 生きるんだ、死んだ奴の分もな!! 無駄になんかしていいもんかよ!
現実から逃げようだなんて甘えが許されるわけがない! 死者を冒涜していいはずもない!
そうやって狂った演技をして自分を守るくらいなら――――――そんな下らないプライドなんて、捨てちまえッ!!!」
夕暮れの街に、感情が爆発する。肩を掴み少女を揺さぶり、少年は喉を焼ききらんと叫び散らした。
少女は鼻水を垂らしながら、嗚咽を漏らしながら、そんな少年の腕を力の限りで振り払う。
反動で、体が転がった。二回転して、漸く止まる。腕が傷んだ。擦れて、血が滲んでいる。口の中に砂が入っていた。土の味がする。
逃げよう。
半秒かからず、当然のようにそう思った。
立ち上がろうと、遁走しようとして、少年に押し倒される。
暴れて逃れようとしたが、とてもマウントポジションの男一人を押しのけることなど出来なかった。
「逃げるなよ白井! そんな勝手が許されると思うな!!」
……解っていた。そんな事、初めから。
知っていた。世界には、哀しい事が沢山あるって。
知っていた。自分が守りたい正義が、この島ではボロクズ以下の下らない代物だったって。
知っていた。きっと自分じゃ誰も守れないって。
知っていた。
知っていたのだ。
それを知っていないように取り繕っていただけで、あれもこれも全部、解っていた。
ただ、それを受け止めるのが厭だった。
だって、もう自分に出来ることが何もないかもしれないのだと、理解しなければならなかったから。
だからそれを他人に言われるのは。解った様な顔で上から説教されるのが。
「ぅ、るッ、ざい……ッ!」
本当に、気に入らない。
少女は震えながら息を吐く。身体中の二酸化炭素を吐き出して、大きく息を吸った。酸素を肺に、肺胞に、血液に、全身に。
今まで言いたかった事。叫べなかった事。沢山ある。一息じゃ言い切れないくらい、後悔も絶望もしてきた。
愛する人が一人で出歩く夜も、傷だらけになって帰ってきたあの朝も、自分じゃ力になれないだろうと自覚してしまう無力さも。
全部、まるごと飲み込んできた。それらが――――――身体を裏返して中身を吐き捨てる様に、全て決壊した。
「五月蝿い五月蝿い五月蝿いッ! 私だって不安になりますの!
いつもにこにこ馬鹿みたいに騒いでるだけじゃ、忘れられない事だってあるんですのよ!
何が常盤台、何がレベル4、何が大能力者!
そんなもの、なんのッ、なんの役にも、立たなかったッ!!
我慢ばっかりして、堪えて、頼られない事も、弱さも、全部全部全部ずっと飲み込んで!
本っ当に!! 馬ッ鹿みたい!!!」
声が裏返って、喉が裂ける。拳の中から血が滲む。鼻は垂れ、唾を撒き、歪んだ表情から心の声が漏れてゆく。
止まらない。止められない。止められるわけがない。
自分を拘束する手が緩んだ。すぐさま少年を蹴りあげ、立ち上がる。逃げる気など、もうさらさら無かった。
「毎回毎回馬鹿の一つ覚えみたいにお姉様お姉様って、おちゃらけて電撃くらってるだけじゃ立ち直れない事だってありますの!
いつも阿呆みたいにふざけて! 馬鹿みたいに笑って!
好きでそうなってるわけじゃないんですの!
私だって、私だって!!
いい子なだけじゃ生きられない事くらい! 知ってますの!!
下らないプライドは捨てろ!? 捨てられるもんなら、そんなもんとッッッくに捨ててますの!
何も知らない癖に、知った様な事ばかり好き放題に!! 貴方に何がわかるんですの!?
必死でここまでこの生き方をしてきて今更やめられるわけないですのに!
私だって知っていましたの! 捨てたほうがいい事くらい! でもそうしないと、何も守れないから!!
私が、私じゃなくなるからッ!!!」
それは、きっと誰にも言った事のない本心だった。
いつだって風紀委員は皆から頼られるヒーローで、学園都市の平和を守るべき強い存在だったから。
それを目指した自分はそうあるべきだったし、ましてやそれを此処でなく学園都市で口にする事など出来るはずが無かった。
期待と信頼と希望と、平和と、そして正義と。全部背負った身体から、こんな言葉を出していいはずがなかった。
ぜえぜえと全身で息をしながら、少女は鼻水を啜る。涙はそれでも、流さなかった。
弱さなんて、見せない。最早今更という感覚はあったが、風紀委員としての最後の意地がそこにあった。
「……わかった」
荒い息遣いの中、最初に口を開いたのは少年だった。腕を組みながら、神妙そうにそう呟いた。
「わかったよ、お前の気持ちは」
少年は暫く目を白黒させて少女の言葉に呆気にとられていたが、やがて諦めた様にそう呟いて肩を竦める。
だけど、と少年は静かにかぶりを振った。そして、悲しそうな顔のまま、言うのだ。
「でもさ……なんで泣かないんだよ、お前。
もういいだろ。やめてもいいだろ。泣いたって、いいだろ」
はっとして、息を飲む。
少年の言葉を、その意味を理解した瞬間に、糸が切れた様に膝が崩れた。
背負っていた重みが、潮風に消えてゆく。
「白井、もう休め。疲れただろ。お前は十分頑張ったじゃないか。今止まっても、誰もお前の事を責めないよ」
ぺたりとアスファルトに座り込んで、少女はきょとんとした目で少年を見上げた。少年は目を逸らす。
……救われるというのは、きっと、こういう事なのだ。
どれだけ、自分を偽ってきただろう。
苦い感情は全部飲み込んで、こうあるべきだという理想を目指して走ってきた。
足を止めると、今まで風紀委員として積み上げてきた何もかもが終わってしまう気がして、全部胸の中に仕舞い込んだ。
無茶をして、我慢して、転んで、怪我をして。だけどそうして感謝されれば、それで良いと思った。
その一言で全てが救われた。だけど、それはきっと、役割と結果と労力を納得するための言葉。
“ありがとう”。
そうじゃなかった。本当に欲しかったのは、感謝じゃなかったのだ。
“お疲れ様”、と。
ただ、それだけ言って欲しかった。認めて欲しかった。解ってもらいたかった。労って欲しかった。
頑張ったねと、だからもう羽を休めろと――――――その言葉を、誰かに言って欲しかったのに。
「たまには馬鹿じゃなくたって、強くなくたっていいだろ。だって俺達、ただの無力な中学生じゃないか」
背を向けながら、少年が言った。
少女の視界が滲んで、堰を切った様にぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
馬鹿みたいだ、と思う。
散々頑張ってきたのに、目の前の少年は言うのだ。頑張らなくても良いのだと。年相応だって、いいじゃないかと。
それを、今更。殆ど失ってしまった、今になって。
こんなに滑稽なことって、ないじゃないか。
「本当、馬鹿みたいですの」
少女は鼻水をごしごしと拭いながら、笑って立ち上がった。目の前の少年は背を向けながら煙草を吸っている。
柄にもない事をしたと、きっと後悔しているのだろう。
なんだかそんな少年の事が少しだけ可笑しくて、少女はとてとてと少年の元へと歩き、背に背を重ねた。
背中越しの大きな背中はごつごつしていて、レベル0の彼がこれでも屈強な男なのだと語っている。
「……いまだけ」
少女は呟く。少しだけなら、頼ってやってもいいか。そう思った。
「いまだけ、ほんの少し、煙草を吸うのを許しますの。私、今は風紀委員でもなんでもない、ただの中学生ですので」
「そりゃあどうも」
少年は鼻で笑って、肩を竦めた。背中越しの温もりはとても儚くて、柔らかな感触は抱き寄せれば消えてしまいそうなほど、脆かった。
不味い煙草を惜しむように、吸う。少しでもその脆さを支えている時間が、長くなるように。
畜生、と少年は煙と共に溜息を吐く。まったく、アンコールは無しだとか言っておきながら随分と甘くなったもんだ。
だけど、たまにはそういうのも必要なのかもしれない。
少年はちびた煙草を指で弾くと、胸ポケットから二本目を取り出す。煙草を吸いたいんだ、と自分に言い聞かせて、空を仰いだ。
橙が、紫に変わりつつあった。もうじき、太陽が沈む。夜が降りてくる。
不味い煙草を咥えながら、少年はポケットのライターに手を伸ばしかけて、指先が止まった。
少しだけ迷ったのだ。
……きっと、今どうすればよいのかを自分は知っている。それは多分正解だし、相手だってそんな事、知っている。
だけどきっとその役目は自分には荷が勝ちすぎて務まらない。それは、自分なんかに求めていい事じゃない。
今更こんなに汚れた手で誰かの手を取り抱き寄せる事など、烏滸がましいじゃないか。
誰かを慰める資格など、頼られる力など、求められる優しさなど、自分にはありはしない。
だから、小刻みに震える小さな肩も、聞こえる嗚咽も、きっと、気のせいだ。
「悪い。もう一本、吸わせてくれ」
「……本当、酷い殿方ですの」
全部、気のせいなんだ。
一面に敷かれたコンクリートが、目の前に広がっている。
しかしそれは真新しいものでは決してなく、随分と年季が入ったものだった。
あちこちに亀裂が入り、苔が生え、海藻とフジツボとカメノテが、側面にびっしりと張り付いていた。
その向こうに、海があった。穏やかな波が、地平線の向こう側まで続いている。
そこは、砂浜の無い人工的に作られた浜だった。
「―――leeps in the sand.
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly,Before they're forever banned.
The answer, my friend, is blowin' in the wind,The answer is blowin' in th―――」
「……何かの詩ですの?」
口を尖らせてなにやら英語を口ずさむ少年に、少女が問う。
「好きな唄さ」少年は言った。「ボブ・ディラン。あの渋い声が聞けないってのは本当に損してるぜ」
学園都市とか超能力は少し羨ましいけどな。そう続けると、少年は背にもたれる骸を横たえた。
二人をちゃんと、埋葬してやろう。そう提案したのは意外にも少年だった。
幾らなんでも忍びないし、今まで放ってきた分、たまには埋葬したってバチは当たらない、と少年は言った。
それがきっと、自分に気を使っているのだろう事を少女は察したが、詮索も野暮だ。少女はその言葉へ素直に頷いた。
「“殺戮が無益だと知るために、どれほど多くの人が死なねばならないのか”。
ディランはそう言ったよ。答えは、なんだと思う?」
少年が言う。少女は小首を傾げた。
「皆がそれを無益だと分かればよろしいんですの? ……私だったらそれを止めて、ひたすら道を説き、違えたものには償いをさせますの」
「30点だな」ふん、と鼻で笑いながら少年が答える。「“答えなんざ風に吹かれて、誰にも掴めない”。ディランはそう唄ったんだ」
卑怯な答えだ。少女は思って口をへの字に曲げたが、少年の表情が悲しそうなのに気付き、開きかけた口を閉じる。
「分からないんだよ、誰にも。正しい事は分からない」
少年は少しだけ笑った。眉が下がっていて、ちっとも楽しそうには見えなかった。
「だからきっと、無くならないんだ」
夢物語は、所詮夢物語さ。少年はそう続けると、口を閉ざす。
「夢を見て、何が悪いんですの?」少女は言った。「夢物語でも、見るだけで救われることだって、あるはずですの」
「悪くはない」数拍置いて、少年が答える。「だけどな、それは正解でもない」
そこで少年は少しだけ思いつめた表情を見せたが、かぶりを振って言葉を吐いた。
何かに迷っているような声色だった。
「散々解っただろ。何度も言うけどな、現実を見ろよ白井。夢を見て救われるのは最初だけだ。
夢は醒めるもんだ。いつかは醒めて、その差を知る。その時にあるのは、救いじゃない。絶望だ。
だから、もう諦めろ。さっきの自分に懲りたなら、いつまでも夢を見るな。理想なんか捨てちまえ。
期待しても現実に裏切られて、傷付くだけじゃないか。だったら最初から諦めればいいんだ」
少年が突き放すように言う。
少女を見つめるその双眸は、日が沈みかけていることを踏まえても遥かに暗く、潜って来た闇の深さを物語っていた。
反駁しようと口を開くが、それよりも早く、或いはそれを認めないかのように少年は続けた。
「認めろよ。お前の仲間だって死んじまってるだろ。船見も、竜宮もな。
現実なんだ、此処は。よくある漫画や、ハリウッドの映画じゃない。
感動のシーンもないし、大逆転劇もありゃしないし、熱血展開も奇蹟の一手もなければ根性論も通じない。
皆で脱出してハッピーエンドなんざ、世間知らずの阿呆が夢見る御伽噺だ。違うか?」
否定など、出来るものか。少女は押し黙ったまま、視線を滑らせる。
何故って、それが紛れも無い事実だったから。身を以て知ってしまった以上、そのロジックを否定することは出来はしない。
ただ、それでも立ち向かうだけの理由はあった。だから、少女は再び少年の目を見て口を開ける。
「……正義に反します。私は、それでも風紀委員<ジャッジメント>ですもの」
少年が肩を竦め、目を細めた。馬鹿にする様なその仕草に、少女はむっとする。
「なんですの?」
「正義、正義って馬鹿の一つ覚えみたいにな……」
「引っかかる言い方をしますのね。それがどうかしましたの?」
ぶっきらぼうに吐き捨てる少女に溜息を吐くと、少年はやれやれとかぶりを振った。
言うか言わまいか、少しだけ躊躇する。それでも、いつかは当たる壁、いつかは告げねばならぬ事。
ならいっそ、今此処で刺してしまうほうが良いのか。
「潮時だな」
ぼそりと呟くと、少年はその重い口を開く。
「ずっと、黙ってたことがある。あいつらが生きてた手前、言わなかった事だ。
あいつらにバラすのは可哀想だったからな」
見えない刃が、抜かれる。ぎらりと光る言霊の白刃が、少女の喉元に突きつけられた。
嫌な予感がした。こいうい予感は、厄介な事に大体当たる。少女は生唾を飲み、舌を巻いた。
それでも、ここで聞くのを止める訳にはいかない。きっと、これは自分が向き合わなければならないことだから。
「なんですの、それは。はっきり言って下さいな」
「まだ分からないのか? ならはっきり言ってやるよ―――――――――――――――何が正義だ下らねえ」
思わず、呆気にとられる。開いた口が塞がらない。そこまで、そこまで初撃からストレートに狙ってくるとは思わなかった。
何を言われたのかを理解するのと同時に、足元がふらつく。目眩がした。
青筋がこめかみに浮かぶのが、鏡を見なくとも分かった。頭に血が上ってゆく。表情がみるみるうちに険しくなってゆく。
自分の性格を否定されるのはいい。それはいい。でも正義だけは、それだけは、他人に否定されたくはなかったのだ。
「……もう一度言ってみなさい」
五秒遅れて、震える声で漸く紡げた言葉が、それだった。
対面の少年は澄ました顔で笑う。
「ああ何度でも言ってやる。“何が正義だ下らねえ”。
だいたいな、お前の言う正義って何なんだよ?
困ってる人を助けることか? 犠牲を出さない道を目指す事か? 理想を貫く事か? 仲良くする事か?
それとも、マーダーを殺さず仲間を殺されることか? 都合の良い幻想に逃げる事か?
それは最早正義じゃなくてただの餓鬼の駄々だろ」
「……貴方に何が分かりますの? 私の正義は、私が守ります。貴方にだって正義はあるでしょう?
それを、誰かに否定される覚えはないですの!」
「ああ、ある。俺にだって正義くらいあるさ。“安売り”するほどのものじゃないけどな」
「“安売り”!?」
気付いた時には、少年の胸倉を掴んで吠えていた。拒絶しなければならない。原因不明の警鐘がそう言っている。
息が、詰まる。動悸が激しくなっている。何かが、得体のしれない黒い何かが警鐘を叩き続けていた。
「気に障ったか? でもそうだろ。安売りじゃないなら何なんだ、そのわざとらしい腕章は。
じゃあ聞くけどな、白井。その正義とやらは、本当に自分がそうしたいって思って貫いてるものなのか?」
少年は少女を睨みながら、鼻で嗤ってそう吐き捨てた。少女は唖然とした表情を少年に向けている。
何を訊かれているのか分からない。そんな表情だった。
「な、なにをおっしゃってるんですの? 当たり前ですの」
「―――いや、違うな。思ってないだろ。お前は、その言葉を口実に、拠り所にしてきただけだ。
お前は、自分が風紀委員だから安心してただけじゃないのか? その大層な大義名分の中身を考えたことがあるか?」
ばつん、と学生服の第一ボタンが弾ける音。
コンクリートに三度跳ね、やがてボタンは波が押し寄せる石影に吸い込まれて消えていった。
「今までは、誰も否定してこなかっただろうがな。俺は違う……白井。正義ごっこはここまでだ」
「ごっこですって!?」
「ああ、ごっこだね」
鸚鵡返しのように訊くことしか出来ない自分を、少女は客観的に見ていた。
理解が追いつかない。相手が何を言っているのかが、何を言おうとしているのかが分からない。
ただ、このままではいけないと感じた事だけは確かだった。
だから、反論しなくては。否定しなくては。何かを守るために、失わないために。でも……その何かって、何?
「竜宮や船見はな、馬鹿だし甘いけど、確かに立派だった。あいつらは悩んで悩んで、それで決めた事だったからな。
自分の正しいと思うことを、無理矢理にでも貫いてた。なるほどそれは確かに正義だよ。すごいと思うさ」
「だったら、なんで」
「だからだよ」
掴まれた胸倉から手を無理やり振り解き、少年は刃を突き刺す様に言った。
そう、それが正義だ。本来あるべき、人一人に備わる正義だ。
「白井、お前の正義は風紀委員<ジャッジメント>の借り物の正義じゃないか」
少女の腕に付けられた腕章をぐいと掴み、少年は少女の体を腕章ごと寄せた。
ずっと、ずっとそれだけが言いたかった。風紀委員としての正義を、剥ぎ取ってやりたかった。
そんな紛い物の為に桐山が死んだとは言わないまでも、いい加減うんざりしていた。
それを見せびらかす節操の無さも、それに依存して全て風紀委員と正義で話を終わらせてしまいそうなおこがましさも。
「挙句お前はそれほど自分の正義にこだわりがない。
何故ならお前にとって正義とは、自分の信じるべきものではなく、皆が守るべきものだからだ」
少女の体から力が抜けるのが、腕章越しにも分かった。それでも少年は少女を倒れさせまいと腕章を握る手に力を込める。
何より許せなかったのは、そんなものに依存したまま、少女が光の道を見ていることだった。
絶望して諦めた自分から見て眩しすぎる道に、そんな紛い物を支えにして未練がましく縋る少女が、許せなかった。
風紀委員の正義は、この島では何の役にも立たない。
此処が学園都市ではなく法が機能していない以上は、そんなものに頼り、道を語る事は滑稽でしかないのだから。
その正義は、組織のものだ。皆が守る正義であって、自分が貫く正義ではない。
それをこの殺し合いに持ちだした時点で、最初から間違っていた。
「強くて、頼り甲斐があって、皆から正義扱いされる。それに、憧れて、何が、悪いん、ですの」
少女は荒れた息を飲み込みながら言った。吐いた言葉に対しては全くの見当違いの問いだったが、少年は答える。
「悪くはない。だけど、その正義は此処では何の役にも立たないぞ。
今まではそれでも平気だっただろうな……お前は強いもんな。否定されるような絶望的な状況もなかったはずだ。
いいよな、平和な世界はそれでも許されるんだから。きっと、自分を疑ったことなんてないんだろ?
俺は弱い。でも、お前よりはちゃんと自分を見てるぜ。自分を知ってる。現実を知ってる」
酷い事を言っている自覚は少年にもあった。放って置く事だって出来たはずだった。
これがただの一方的な妬みと知っていたし、そんな事を一方的に突きつけている自分の性格の悪さに、無性に腹が立った。
そしてその捌け口を、目の前の消耗した少女に向けることしか知らない卑怯な自分を、心底軽蔑した。
「なんで」少女が震える声で呟いた。「そこまで。貴方だって、碌なものじゃ、」
「そうだ。俺は最低だよ。でもお前だって似たようなもんだろ? 自分だけ棚に上げるってのはナシだ」
少年は嗤った。とても同年代の女に見せるような笑みではなかった。
「逃げるなよ風紀委員<ジャッジメント>。まだ落とすな、零さず全部飲み込め。そして認めろ。お前の正義は空っぽだ。
認めて、そこに立て。そうして初めて、同じ土俵から見渡せる」
「空っぽなんかでは……ないですの」
青褪めた表情のまま辛うじて呟かれた虚勢に、少年は乾いた笑みを零した。
どこまで馬鹿なんだ、こいつ。
蔑んだ目線で、少女を見る。同情を通り越して吐き気がした。
「そうかい。ま、別に認めずにいるならそれもいいと思うよ。
だけどな、教えてくれ」
それでも、少年は刃を止めない。喉元を引き裂いて、胸を抉って、腹を捌いて、髄を砕いて背まで突き抜ける。
切って、斬って、まだ斬る。血の一滴まで、徹底的に絞り取る。
「―――――――――――そんな中身のない空っぽの正義で、一体何が救えるんだ?」
決定打だった。腕章ごと少女を突き放し、少年は後悔に顔を歪める。
地面に倒れこむ少女を冷静に見ながら、最低だ、と思った。
ただ、同時に安心する自分も居たのも確かだった。これで、少女を守る下らない偽物は無くなった。自分と同じ景色を見れるはずだ、と。
そうすればあんなことにも、もうならずに済む。心をさほど傷めず、現実を直視できるはずだ、と。
そこまで考えて、少年は自嘲した。自分勝手なのはどっちだ。
何の事はない。ただ、自分が正しいのだと、間違っていないのだと、思いたかっただけじゃないか。
「中身のない正義で、結構ですの」
……だから、その一言が本当に埒外だった。吹っ切れた様な表情で、少女は少年を睨む。
今度は、少年がたじろぐ番だった。何でだ、と思わず口をついて出る言葉。
「わからねぇな。どうしてそこまで、その偽物に縋る?
今更止まれないからか? その正義が間違ってる事くらい、猿でも分かるだろ? 俺が剥ぎ取っても、なんでまだ認めない!?」
諸手を前に突き出して、少年は叫んだ。少女は起き上がり、尻についた砂を手で払っている。
「私が、私だからですの」
「――は?」
「私が、風紀委員<ジャッジメント>だからですの」
馬鹿か、こいつ? 少年は思った。それを今否定したばかりじゃないか。
「……何かの冗談か?」
少年は質した。
「いいえ」
少女が答える。即答だった。
「馬鹿げてる!!」
少年が声を裏返して叫んだ。
「いつか、きっと後悔するぞ!?
お前にとっての正義がずっと“せいぎ”でしかない以上、必ず歪む! このゲームは、そういうもんだ!
それでも自分を捨てないっていうのか、お前は。これだけ剥いでもまだ“白井黒子”を続けるつもりなのかよ?
何でだ? 辛いだけだろ、またさっきみたいになっちまうだけだろ!?
捨てる事はそんなに悪い事かよ? 俺が間違ってるってのか? そうまでして苦しんで、何があるんだよ!?
お前だってもう何も無いだろ、違うか!? なのに何で諦めない? 俺とお前の、何が違うんだ!!?」
否定するつもりが、刺すつもりが、壊すつもりが、自分が必死になって説得していた。
少年は舌を打った。何時の間にか少女のペースに持っていかれてしまっている。
何故だ。少年は思う。どうして、ここまで、違う。自分は、ただ、ただ……。
「違わないですの。私も無力でしたし、何も無いかもしれませんの。
……ただそれでも、私は、止まりません。諦めません。逃げて、悩んで、結局いつもいつも駄目な結果で。
絶望しても、あの時こうしてればとか、私は色んな事を後悔し続けておきます。
確かに現実は非情ですけれど、まだ私達は生きてるんですもの。全部放り投げて諦めるのは……まだ早いんじゃないですの?」
少女が言った。それでも辛く険しい道を、自分は歩き続けるのだと。
少年は項を垂れて、肩を竦める。理解が出来ない。どうして、そこまで。
「……そうまで言い切れるのは、借り物の風紀委員と、偽物の正義があるからか?」
少年が尋ねた。
「それを本物にする為にも、ここで諦める訳にはいきませんもの」
少女は答える。
「逃げてるだけだ、それは! 本物になんかなるはずがない!」
「こうやって不器用に生きる事が、私の生き方ですの。
それに、それを決めるのは貴方でなく私です」
「詭弁だ!!」
少年が叫んだ。あまりに屁理屈がすぎる。楽観的的思考に、希望的観測。役満だ。話にならない。
「何とでも言ってくださいな。私は譲りませんから」
「……。……呆れたぜ。甘いな、本当に。おまけに馬鹿だ」
「馬鹿は余計ですの」
「正気、なんだよな?」
「勿論」
言葉が止まること約10秒。堪え切れず、少年は吹き出した。ここまでくると笑わずにはいられなかった。
これ以上は無駄だ。そう悟るまでもう時間は要らなかった。狂ってる。理屈ではないのだ、きっと。
目の前の少女のきょとんとした表情を見ながら、少年は小さく為息を吐く。
「……分かったよ、もういい。そうだな。それがお前だったな」
目尻に浮かんだ涙を拭きつつ、少年は続けた。今度は、その表情から笑いが消えている。
打って変わっての真面目な表情に、少女も息を呑んだ。
「でも俺は、俺の生き方を変えるつもりはない。お前の生き方がそうだってんなら、俺の生き方はこうだ。
認めないぜ、そんな考え。俺はあくまで現実を見続ける。
だからいつか、またすれ違う。絶対にな。……その時はどうするつもりだ?」
少年の問いに少女は顎に指を当て暫く考えていたが、やがてうんと頷いて人差し指を立てた。
「その時は、また喧嘩をすればよろしいのでは?」
少女の答えに、少年は顔を曇らせる。
「喧嘩すら間に合わない時だってある。遅いんだ、そうなってからじゃ」
「そうならない様にするのが、風紀委員<ジャッジメント>の務めですの」
「……………………ったく、参ったぜ。とんだ我儘なお姫様だ。
いいぜ、やってみろよ。そして絶望しろ。きっとその先は諦めしかないんだ。
でも……」
そう言うと少年は小さく息を吸った。そして、悲しそうに笑って続ける。
「見せてくれないか? あの日あの時あの場所で、俺が理想を諦めてなかったら、信じられていたら、どうなってたのかを」
きっと、それでも待っているのは、真っ黒な未来だ。理想なんてものは叶わない。やっぱり、夢は夢で理想は理想。
黙っていてもゲームは進み続けるし、死人は出る。
これ以上死者を認めないとほざくのは簡単だ。言うが易し、行うが難し。
否が応でも誰かが死んで、誰かが壊れて、誰かが嗤って、誰かが喪って、誰かが涙を流す。
綺麗事なんてものは、直ぐに現実に潰される。
それでも少女の願いを尊いと思うのは、少女の愚直さを羨んでしまうのは、きっと、その理想の行き着く未来を見てみたいから。
自分にはもう信じる事は出来ないけれど、少女にも同じ様に諦めて楽になって欲しかったけれど。
自分は間違ってなかったんだと納得したかったけれど。それでもどこかでその理想を、自分の過去を守りたかったから。
過去を殺す事は出来ても、否定する事なんか、誰にも出来ない。
「ええ。きっと」
少女の笑顔に、少年は口を歪めた。
未だに七原秋也を捨てられない未練が、何処かで燻っている事実には、最早笑うしかなかった。
「……だけど多分、それを貫いたらお前は壊れちまう」
血が流れているのを確かめる様に、自分の手を握る。汗で滲んで生温い。
腰に下がった獲物を手に取る。グリップのひんやりとした温度と、ずっしりとした感触が、掌から伝わってきた。
少年はそれを目の前の少女に構えた。紛れもない。これは、いのちを奪う道具なのだ。
「でも、安心しろ。そうなったら、俺がお前を殺してやる」
少年は言って、バン、と銃を打つ真似をする。暗い未来の予感を、撃ち砕き払拭する様に。
「責任持って、殺してやる。だからそれまでは―――死ぬな」
少女は眉を下げたまま、微笑む。希望が砕けるその時まで、その決意はきっと、揺るがない。
「ええ。約束ですの」
太陽に焼かれて落ちる蝋の翼と知っていながら、それでも飛ぶ事は、少なくとも悪とは呼ばない筈だ。
いざ別れの時となると、やはり辛いものがあった。
灰色のコンクリートで作られた浜の先に、二人は立ち尽くしていた。二体の遺体が、そのすぐ側に横たえられている。
水葬にしようと提案したのは、少女だった。
土に埋めるのは何か妙な罪悪感があったし、そのうえ辺りはアスファルトの地面ばかりだった。
唯一、研究所の入り口周辺は原っぱが広がっていたが、そこを掘る気力は彼等には残っていなかった。
火葬などは論外だった。死体とは言え、焼いてしまうのは何か再び殺してしまう様な気がしたし、煙で自分達を居場所をマーダーに教えかねない。
故に水に目を向けるのは半ば必然で消去法にも近かったが、幸い近くに海もあった。
水葬が良い。少女がそう呟くまでさして時間はかからなかった。
水葬なら、彼女達を綺麗な姿のまま葬る事が出来る。
そうと決まれば準備は直ぐだった。
少女達は彼女等を沈める為の重りを研究所から持ち出し、そして原っぱに生えていた幾分かの白い花を摘んだ。
「マーガレット」少女は言った。
「ふぅん」少年はさして興味がなさそうに相槌を打つ。
そして、岬に彼女達を運んだ。別れの準備は拍子抜けするくらいに直ぐに整った。
少しだけ跪いて、少女は祈りを捧げる。
いざ何を祈るか考えると、ありきたりな言葉ばかりしか出てこなくて、胸の奥が何やらきりきりと痛んだ。
「そういえば、これ」
ふと少年が思い出した様に言って、二つ折りの小さな紙切れを投げる。
「走り書きだけど、多分、船見だ。後丁寧に研究所の入り口に置いてあったよ」
胸ポケットから煙草を取り出しながら、少年はぶっきらぼうに言った。
少女はひらひらと舞うそれを受け取り、開くべきか開かざるべきかを己に問うた。
知ることが、少しだけ怖かった。それでも少女は躊躇を飲み込むようにかぶりを振ると、その羊皮紙の紙切れを開いた。
――――――あと、任せたから。
書いてあったのは、それだけだった。
中学生の女の子らしい小さな丸文字で、掠れた黒いインクで、たった、それだけ。
ああ、と少女は観念した様に項を垂れた。
……かなわいませんわね、本当に。
腹の底から唸る様に少女は泣き崩れ、震える手でその紙切れをくしゃりと握る。ぽたぽたと零れる涙に、黒いインクが滲んでゆく。
嗚咽を漏らしながら、少女はアスファルトに爪を立てた。がりがりと、綺麗な爪が割れてゆく。
たかだか九文字のそのメッセージは、しかしあまりに強くて、優しくて、眩しくて。
とても今の自分では、敵わない。
彼女は、死を享受してまで自分達を助けたのだ。未来を託すために、守りたいものを守るために。
自分の命と私達の未来を天秤にかけて、彼女の腕は未来を、理想を選んだ。
そして彼女自身と、未来と、皆を、信じた。最期まで信じきったのだ。自分達が彼女の死を乗り越えて、理想を繋いでゆく事を。
想いのカケラを、結んでゆく事を。そうでなければ、任せて逝けるもんか。
……あんな、満足した笑顔で。
「任され、ましたの」
生温い雨の中、ぼそりと呟く。湿った海風と、ざぁざぁと波打つ潮に攫われて、その言葉は中空に溶けてゆく。
「なぁ、悪いけどそろそろ」
竜宮レナの骸を背負った少年が、少女の肩を叩く。
言葉の続きは決して紡がれる事はなかったが、それが別れを意味している事くらいは、少女にも理解出来た。
ええ、と呟き、ついでに少年の煙草を奪い取りながら少女は立ち上がる。
いつまでも泣いてばかりではいられないのだ。
立ち上がって前を向いて進まなければ、道は愚か、未来だって見えやしない。
止まるものか。挫けるもんか。確りと、未来を任されてやらなければならないのだから。
少女は少し歩いて横たわる船見結衣の前で膝を折り、足と肩に手を回す。傷付ける事が決してないように、優しく。
「ありがとう」
少女がぽつりと呟いた。
「守ってくれて、ありがとう。救ってくれて、ありがとう。生かしてくれて、ありがとう、ございます」
決して届かぬ謝辞と共に彼女を抱き、ゆっくりと立ち上がる。本当に、幾ら感謝しても足りないくらいだ。
そして、顔を上げて目の前を見て――――――息が、止まった。
心臓が、とくんと跳ねる音。
海が広がっていた。風が吹いていた。夜が空を覆いだしていた。雲が流れていた。波が押し寄せていた。
闇が、降りてくる。太陽が彼方に沈む瞬間だった。
地平線の向こう、空と海の狭間から、細く、それでいて力強く一筋の光が差している。
それは、死にゆく太陽の最後の欠片だった。きらきらと輝いて、さざなみを一直線に儚く金色に染めていた。
まるでそれは、彼方に誘う天の階段。空へと昇る道。彼女達の為に世界が用意したとしか思えない、天の悪戯。
頬を、生温い雫が伝う。我慢しようにも、とめどなく溢れ出た。
「あいつらも、これで少しは浮かばれりゃいいけどな」
後ろで呟く少年へ少女は少しだけ辛そうに笑って、彼方に続く金色の道に寝かせるように、彼女を波に優しく預ける。
掌の傷が、潮水にいたく染みた。
「―――さようなら」
呟かれた言葉は、誰の耳にも届かない。
死人に聴覚などないし、期待など元より無かった。少年に聞かせようと思ったわけでもない。
それは誰の為でもない。自分が彼女達と別れる為の言葉だった。
想いを断ち切り、喪う事を本当の意味で受け止める為の、決意の印。
隣の少年はそれを尻目に、担ぎ上げた骸を海に晒す。
屍達は、海に浮かばない。手を離せば、きっと重力に従うように落ちてゆく。墜ちてゆく。
白い肌が、濡れていく。透き通った青に、染まってゆく。
しかし少女は躊躇しなかった。覚悟を決めるように息を一つだけ吸って、ゆっくりと手を離す。
華奢な足が沈んで、白い指が沈んで、控えめな胸が沈んで、端正な顔が沈んでゆく。
穏やかな波紋を水面に残して、彼女達の輪郭が消えてゆく。紫色の髪が水にゆらゆらと靡いて、金色に吸い込まれてゆく。
夕日と夜、橙と紫。寄せては返す細波の音。波に黄昏、海に夢。
生と死の境の向こう側に、笑顔が溺れて、溶けてゆく。血が滲んで、消えてゆく。
生きた証も、なにもかも。
夕闇に沈み、斜陽に燃ゆ。
闇に溺れ煉獄に足を運んだ何処かの人間と、同じ景色を見て、同じ想いをして、同じ幻に出会って、じぶんをしんじて。
それでも少女等は悪魔と同じ道を辿らなかった。道を違えれば叱ってくれる、支え合う仲間がいたから。一人じゃなかったから。
それだけの違いが、なんて、大きい。
ほどなくして、太陽が沈んだ。
波に映る金が糸のように細くなり、やがて耐え切れず千切れていった。
地平線が、藍色に染まる。海は暗闇のように深い黒に塗り潰され、底は見えない。
彼女達は、疾うに視界から消えてしまっていた。
目を閉じても、もうそこに都合の良い幻は映らない。彼女達の体と一緒に、きっとあの夢物語は海に飲まれてしまったのだ。
しかしきっとこれでよかったのだ。
少女は最後に、打ち寄せる白波に細やかな花束を放る。白い花びらが、泡と一緒に海に弾けた。
そして何かを納得する様に頷いて、立ち上がる。
立ち上がらなければ、泡沫の様に弾けてしまった小さな命達も、きっと報われない。
無駄になんか、なるものか。するものか。
その決意は、夜の海を照らす灯台の様に。街を彷徨い向かう方角を忘れたあの時に見た、輝かしい“せいぎ”の様に。
誰かを喪って、何かを失って、信じるものもわからぬまま、決意も定まらぬまま。
ただがむしゃらに走って、戦って、泣いて、血を流して、想い出も希望もいのちも、何もかもを犠牲にして。
それでも彼等は進んでゆく。
心に空いた穴を埋め合って、今にも消えそうな灯火を重ねあって、傷を舐め合って、二つの心を寄せ合って。
斬るべきを忘れ、いつかは砕ける折れ曲がった正義の直剣を振るいながら。
醜く足掻いて、生きてゆく。
【D-4/海洋研究所前/一日目・夕方】
【七原秋也@バトルロワイアル】
[状態]:健康 、頬に傷 、全身打撲(治療済み)、『ワイルドセブン』であり――
[装備]:スモークグレネード×1、レミントンM31RS@バトルロワイアル、グロック29(残弾7)
[道具]:基本支給品一式 、二人引き鋸@現実、園崎詩音の首輪、首輪に関する考察メモ 、タバコ@現地調達
基本行動方針:このプログラムを終わらせる。
1:放送を待つ。研究所においてきた二人分の支給品の回収。
2:白井黒子の行く着く先を見届ける。
2:走り続けないといけない、止まることは許されない。
3:首輪の内部構造を調べるため、病院に行ってみる?
4:プログラムを終わらせるまでは、絶対に死ねない。
【白井黒子@とある科学の超電磁砲】
[状態]:精神疲労(大)、肉体疲労(大)、全身打撲および内蔵損傷(治療済み)『風紀委員』
[装備]:メイド服
[道具]:基本支給品一式 、テンコ@うえきの法則、月島狩人の犬@未来日記、第六十八プログラム報告書(表紙)@バトルロワイアル
基本行動方針:自分で考え、正義を貫き、殺し合いを止める
1:そろそろテンコを出してあげないと……。
2:二人の意思を継いで、生きる。
3:初春との合流。お姉様は機会があれば……そう思っていた。
[備考]
天界および植木たちの情報を、『テンコの参戦時期(15巻時点)の範囲で』聞きました。
第二回放送の内容を聞き逃しました。
最終更新:2021年09月09日 20:06