スノードロップの花束を  ◆sRnD4f8YDA


―――それは、ちいさなころの、くだらないやくそく。ちいさなころの、ちいさなおもいで。


どうしようもなく空っぽでも、鼻で笑われるような下らない代物でも、この島では何の役にも立たないガラクタでも。
きっと、きっと己の信念に従い、正しいと感じた行動を取った先にあるものなら、嘘だって、中身がなくたって、自分にとっては本物になるはずだ。
罪も罰も、悪も善も無いこの大地の上で、踠いて、足掻いて、転んで、間違って、誰かを殺して、何かを失って。喪って、うしなって。
それでも、それだけは残る。
だってどれだけ意味がなくても、それは確かに私の始まりで、本物で。全部が終わるまで、絶対に手離さないから。
手離せば、その瞬間私は私じゃなくなってしまう。生きる理由を失くしてしまう。
だから私が私である限り、それは絶対に消さない。消させない。
そういったものは多分、誰しも一つは心の奥に持っていて、それを守る為に誰も彼もが剣を手に取り、戦うのだ。
その形は百人いれば百人が違う事だろう。色も違って、光り方も違うのだろう。大なり小なりもあるのだろう。
けれどそれをきっと……“正義”と、そう呼ぶのだ。

だからどんなに醜くても、笑われても、滑稽でも。

喩えそれが腐ってたって、間違ってたって―――――――――――――――――――――これは、正義の物語。







最初は、ただ、言い訳が欲しかった。







何もない日常、当たり障りのない生活。模範的な行動、目立ったことは何もしない。変化なんてありはしない。
当たり前の平穏、当たり前の日々。それ以上も以下もない、とことん中庸な生き方。
ただ少しだけ、ほんの少しだけ他人より機械に対して興味があっただけ。
それが私、初春飾利です。
思えば、普通である事への疑問なんてこれっぽっちも持った事はなかったように思います。
何故って、自分がレベル5になれるだなんて考えたことすらなかったですし、そんな才能が自分にない事は理解していましたから。
それに何なら、このままなんとなく生きていければ良いとすら思っていたくらいなんです。
それなりの生活、それなりの身丈。それなりの友達、それなりの学力。
なんの起伏もない、映画のワンシーンで交差点を歩くモブキャラクターの様な、よくある人生。大多数の人間が歩むドラマの無い普通の道。
それが普通に生きてきて、これからも同じ様に普通に生きていくであろう自分に合った人生だと思っていました。

でもそんなある日、ふと思ったんです。

そんな生き方しか出来ない自分、自身のない自分、能力もない自分。でも、それって自分に甘えているだけなんじゃないかって。
それだけしか、出来ないって決めつけていただけなんじゃあないかって。
えっ? どうして、かって? そうですねえ……。可能性という言葉を、私も少しだけ信じてみたくなったんです。

“私は、少しでも変わろうと努力したことはありますか?”

私は自分の中の自分に問いました。彼女はかぶりを振ります。答えはNoというわけです。
……でも、それは本当に悪い事なんでしょうか。目立たずひっそりと、深海に漂う目の退化してしまった魚の様に、
ただ流れの止まった潮の中で餌だけを食べて平凡に生きたいと思う事の、一体何が悪いと言うのでしょう。
それでいいじゃないですか。違いますか? 彼女はそう言うと、眉を下げて悲しく笑いました。

“だけど、それは正しい生き方ですか? 綺麗な海を泳ぎたいと望む事が、悪い事?”

私は、そんな私に問いかけます。彼女は少し考えましたが、俯いてかぶりを振ります。その答えもNoでした。
嗚呼、と私は胸の中で失笑しながら座ります。分かってしまったからです。
つまるところ結局の話、怖かっただけじゃないか、と。
何もない静かな深海から、或いは平和な瀞から、敵も多く、努力して餌を取り環境と格闘する様な意識と覚悟が、私にはどうしようもなく欠けていたのです。
私は続けて問いました。“その覚悟が無いのは、貴女が全部、悪いのですか?”
彼女は答えます。“違いますよ。悪いのは……私じゃ……ない、です”

―――私じゃない。

こんな自分になったのは私のせいじゃない。私は悪くない。私はそう言ったようです。
“でも、じゃあ誰のせい?”
私は自分の中で蠢く溝色のなにかに訊きました。
“先生? 環境? 社会?”
違います。
“学校? 両親? 超能力?”
どれもいまいちしっくりきません。
私は、薄々答えを理解していながら、その質問に答えることができなかったのです。環境や、誰かのせいじゃないって、解ってるはずなのに。
ただ、それを考える度に茫漠と心の中を漂っていた暗く重い闇雲が、私の肺の中でぐるぐると巡り、私の気分を逐一害してきました。
だから私はいつもそこで考える事を止めていたのです。
無性に息苦しく重い空気と、鉛の様になってしまった足と、酷い頭痛と得体の知れない吐き気だけが、いつも後に残りました。
一言で言えば、私はきっと不安だったのです。今と、そしてこれからが、ただただ不安だったんです。
けれどその不安に手を伸ばして掴もうともがけばもがくほど、まるでそれは私をからかうかの様にぐにゃりと形を変え、私の指の隙間から溢れていきました。
胸の奥に、言いようのない不安だけがありました。煙、光……或いは水の様に形を持たない、ただ漠然と漂う、未来への得体のしれない不安だけが。

ええ、確かに深海で碌に動かずに漂うのは得も言われぬ心地良さがあります。
でも、ずっとそのまま数年数十年過ぎてしまうかもしれない未来を考えれば考えるほど、心臓が荊で締め付けられるようでした。

暫くして、私はその形容し難い不安を払拭するべく、或いはそう、“言い訳”に出来る何かを求めるように、風紀委員になろうと思いました。
突拍子もない考えかもしれません。でも、超能力の大小や有無を問われない風紀委員は私にとって好都合でした。
風紀委員に入る事で、何かが変わってくれないだろうか。私は自分勝手にも期待しました。
こんなにもとろくって、能力だって碌に無い役立たずな私でも、綺麗な珊瑚礁が浮かぶ水面で、優雅に泳ぐ事ができるのだと。
大地の上に根を張り咲き誇る事ができるのだと、何かに証明して欲しかったのです。

自分なりに答えらしきものを見つけるのは、それから少しだけあと、少しだけ暖かかった冬の日。
銀行強盗と出会った後で、燃える様な茜空の下で約束した、あの瞬間。








あの日あの時あの場所で、私の“せいぎ”は出来たのです。








黄昏が、落ちてゆく。陽が、沈んでゆく。黄金の海原の向こうへ、天蓋の終わりへ、地平線の彼方へ、世界の反対側へ。

まるで落ちる光の残滓に染められた様に、積乱雲の輪郭は藤色にぼんやりと輝いている。
雲達はじっと見ていないとわからないくらいにゆっくりと、重なり合う様にして空を泳いでいた。
その向こう側には、鈍く白銀に光る小さな小さな一番星が見える。
闇が、宙から降りてこようとしていた。日が暮れようとしていた。血濡れた1日が、終わろうとしていた。
森が、廃墟が、街が、海が。暗く、質量のある静寂に沈んでゆく。息を吸うと、胸が詰まりそうだった。
吸い込まれそうなくらい漆黒に染まった影と、深海の様に暗い藍色の闇が満ち、世界は緩やかに夜に抱擁されてゆく。

―――夜が、来る。

少女は静かに、“瞼の裏側で”瞼を閉じる。闇に誘われる様に、黒い何かが二枚目の瞼の裏側で騒いでいた。
それはざわざわと草叢を蟒蛇が進む様な、百足が蠢動する様な、気味の悪い音。
言うなればある種の予感の様なものであり、別の名前を“不安”と言った。

不安は、化け物だ。
人の心を食う邪鬼だ。やがてそれは心から、じわじわと水が岩を浸食してゆく様に、表情と言葉に浮き上がる。
闇は恐怖の権化たり得て、転じて不安となる。そして何よりげに恐ろしきは――――――不安は“伝染”する、という一点に尽きた。
まさに、今の彼女達のように。


「どうしますか」


紫がかった黄昏色に染まったフードコートの中、キッズコーナーのソファにとりあえず逃げてきたものの、荒々しい息と共に浮かぶ一抹の不安。
縦の木ルーバーの入ったテラス席越しの窓ガラスを背に座り込み、誰も彼もがその顔に黒い影を落とし、口を噤む。
そこに水を打つ様に浮かんだ一言が、それだった。
杉浦綾乃はその声がする方を見る。口を開いたのは初春飾利だった。彼女が先ず、立ち込めていたその暗雲を振り払う為にそう切り出したのだ。
……いや、違う。違った。
何故って、それは明確な意思が裏に潜んでいる様な、僅かなしこりを感じさせる様な声色だったのだから。
その言の葉には、棘こそあれど疑問符が無かったのだ。
少なくとも飴玉を転がす様な、なんてメルヘンチックな例えはその声からは想像できないであろう事は、一度聞けば誰にでも理解できる。

「……確認するけど、それは“や”りたくないって意味?」

式波・アスカ・ラングレーは僅かに初春の言葉に口をへの字に曲げたが、やがて肩を竦めながらそう尋ねる。
それらの言葉が言わんとする意味は、ただ黙って聞いていた綾乃にも理解出来た。
詰まる所、問題は一つ。彼女達は明らかな殺意を持って此方を追う“敵”をどうするのか、その意思統一を計っていなかったのだ。
自分達ではあの水の異形には敵わない。だから逃げるか、助けを待つ必要がある。それが三人の共通の結論だった。
しかしそれでも“最悪”と、“これから”は考える必要があるのだ。
“もしも助けが来なかったら”。“もしも見つかったら”。“逃げられない状況で同じ事になったら”。
可能性だけ並べればそれこそ幾らでもあるうえ、仮に誰かが助けに来たとして、敵と戦って“どうするのか”。

とどのつまり、一言で言えば彼女、初春飾利は“敵を殺すのか”と二人に訊いているのだ。

徒らに不安感を煽るだけの質問にも見えるそれは、この状況でするような話ではないのかもしれなかったが、しかし初春は敢えて今、それを質した。
三人が、此処から生きて脱出できない可能性もある。
なればこそ今、凡そ起こりうる全ての未来の枝を考えれば、質す事は何ら間違いではない。彼女はそう考えていたからだ。
いざという時の迷いが致命傷になる事くらいは、さしもの初春も理解していた。
非戦闘要員ではあったが、曲がりなりにも彼女は訓練を一通り受けてきた一端の風紀委員であったのだ。

一拍置いて、綾乃が眉を下げアスカと初春を交互に見た。互いに視線を動かさず、その水晶玉の様な双眸を真っ直ぐに見つめている。
思わず、綾乃はその眼差しに唾を飲んだ。
場を和ませる為の小粋なジョークでも飛ばすかとも思った(罰金バッキンガム!)が、それはどうやら野暮以外の何モノでもなさそうだった。

「さっきは正義だの何だのって話、したけど。殺らなきゃ、殺られる。この島はそういうルールなの」
沈黙に耐えかねた様に、アスカが苦い顔で呟く。
「法が通用する世界じゃないっての」

今度は初春が口をへの字に曲げる番だった。彼女は馬鹿ではない。そんな事は言われるまでもなく理解していた。
先程の放送と、この島での出来事がその答えだからだ。法は無力で、人は脆く、正義は簡単に捻じ曲がる。けれども、それ故に。
そう、理解しているからこそ、初春は反発したかった。

「なら、正義は」

だって、それは。
それは何も無かった自分が、変われたきっかけだったから。

「正義は、何処へ行ってしまうのですか」

初春は芯の通った強い口調で問う。
せいぎ、と綾乃は消え入りそうな声でうわごとの様に繰り返した。
……せいぎ。
もやもやとする頭の中で、その単語を今度は口に出さずに反芻する。
綾乃は眉間に皺を寄せた。自分にそれがあるかと言われれば、答えは否だからだ。
いや、否と断言してしまうと語弊がある。せいぎはきっと、ある。そう、あるのだ。あるのだろうが……彼女はただ、それを言葉にして発する術を知らなかった。
当然だ。彼女の世界は悪や危険に冒され、暴君に犯される様な非日常など、想像の向こう側の御伽噺だったのだから。

―――劣っている。

それは無論、意識ではなく環境そのものの違いであり綾乃自体に原因はなかったが、しかし彼女は本能的にそう捉えてしまった。
二人の話に口すら挟めない。挟む余地も、意見すらない。語るべき正義が無いのだから。
綾乃は唇を噛む。悔しかった。純粋に、悔しくて堪らなかった。
戦力にもならず、体力もなく、ただただ守られ、嘆いてばかりの弱い自分。
嗚呼、それはなんて……無様なんだろう。

「何処に行くも何も、アンタが言う正義なんてもん、最初っからあるわけないじゃない。ちゃんと答え考えてないでしょ?」

みるみるうちに劣等感に青ざめてゆく綾乃を尻目に、ぴしゃりとそう言い切ったのはアスカだった。彼女は静かに立ち上がり、ぺたりと座り込む初春を見下す。
“見下ろす”、ではない。細く鋭いその眼光は、彼女を哀れむ様に“見下し”ていた。

「アンタの世界の話は聞いた。学園都市の平和を守るジャッジメント、結構な話じゃない。
 でも忘れてないでしょうね。今、この世界は学園都市じゃないのよ。大人どころかアンチスキルとかいう奴等もいない。
 何一つ、誰一人、その正義は守ってくれない。此処には法なんてモン、幾ら穴を掘っても出てこないし、その正義を掲げる組織も無いの。
 なら、アンタの信じる正義はただのままごとかごっこ遊びにしかならないわよって話。だからさっき訊いたの。この島に正義ががあると思うかって」

しん、と静寂が暗がりを支配する。闇を糸状にして、弓形にぴんと張ったような、そんな緊張感が肌をぴりぴりと刺激した。
アスカの科白は紛れもなく正論だった。言葉の一つ一つが、愚者に被さる荊冠の様に初春の肉にじわじわと食い込んでいく。
初春は、堪らず床に視線を落とす。ウォルナットのウッドタイルには、窓越しに背から差す藤色の薄明かりが映り込んでいた。
“ままごと”。そうかもしれない。憧れていただけかもしれない。夢を見ていただけなのかもしれない。
決してなれない正義のヒーローと同じ土俵に上がって気分になって、自惚れていただけなのかもしれない。

【やっぱり、私みたいのじゃ無理なんですかね……私とろくって……。
 でも、ジャッジメントになればそんな私でも変われるんじゃないかって志願したんですけど、訓練に全然ついていけなくって・・・】

―――ねぇ。昔の私。あの日から、私は何か一つでも、変われたのでしょうか?

「私だって、これでも元の世界ではちょっとした組織の人間で、勿論それなりにルールだってあるけど、ここではただの一般人なワケだし。
 ……兎に角、私はアンタ達を守る。でもそれは任せられたからだし借りがあるからで、あくまで目的の“ついで”なの。
 足手纏いが喚く我儘にまで律儀に付き合ってられないワケ」

突き放すように、或いは道端に唾を吐くように。何れにせよ、凡そ好意的な音が込められていない科白を、アスカが叩き付ける。
無言。
5秒間の無言が続いた。居心地の悪い、嫌な無言だった。初春は僅かに狼狽えた様に一度目を滑らせたが、やがて数拍置いてゆっくりと口を開く。

「……思いを貫き通す意思があるなら、結果は後から付いてくる。私の親友はそう教えてくれました」

「結果?」だが、その言葉をアスカは鼻で笑う。日和見も程々にしろとでも言いたげな視線が、少女の胸に突き刺さる。「結果がなァに?」

ドン、とガラス壁が振動で震える。アスカの左足が、初春の顔面を掠めてガラス壁を打ちつけていた。
そのまま足を下ろさず、アスカは左肘を膝に擡げる。それでも初春は目を逸らさなかった。

「アンタ馬鹿ァ? 甘ったれてんじゃ無いっての。思いを貫いて無様に死んでりゃあ、世話ないでしょーが。
 結果が後からついてくる? えーえーそうでしょうねぇ、安全な世界では。でも、此処は違う。結果じゃないの。過程よ、大事なのは。
 最終的な状況を憂う様な悠長な暇はないのよ。今、この状況で判断を誤らない事。大事なのはそれだけ。ねぇ、アンタだって散々見てきたでしょ?
 そうやって死んだんでしょーが、チナツも、ミコトも、七光りも!! 全員、全ッ員!
 その“ついてきた結果”が、今のこのしょーーーもない状況なんでしょ!?」

ローファーをガラスに押し当てたまま、アスカは体をくの字に曲げて初春の耳元で叫んだ。絞る様な声で、あたりに響かぬ様な小さな声ながらも、鬼のような形相で。

「結果なんてないの! そんなものを待ってる時間も余裕もない!
 過去も、未来も、結果もない! 今しかないのよ!」

アスカは左足を下げると、自分の胸を右手で押し当た。心臓の位置をつかむ様に、ぐしゃりと青い制服を握る。

.....
今しかない。


その言葉を強調するように、或いは何かに耐える様に、苦虫を噛み潰したような表情のまま犬歯をむき出しにして、アスカは言葉を続けた。

「今しかないの! 私には、今、生きている現実しかないの!! それだけしかない!!!」
「二人共っ、こんな事してる場合じゃあっ」
「アヤノは黙ってて!」

拙い、と、きっとこの場にいる三人全員が思っていた。
よりによって今、この状況でする様な話ではなかったし、それは百歩譲っても声が拙かった。
隠れんぼの最中、何処の世界の人間が自分達は此処にいるのだと叫んで回るものか。
何より人間関係的に拙かった。こんな特殊な状況下で意見を違えれば、待っているのは崩壊以外にありはしない。それを理解していたからだ。
けれども、止まらない。止められない。
ふつふつと湧く鍋の蓋が水蒸気で押し上げられる様に、溢れてしまった黒い感情は、中学生のちっぽけな体躯には収まりきるはずがない。
少女達は、その穢い泥を外に出す以外に、この荒れ狂う濁流にも似た激情を治める術を知らなかったのだ。

「私だって……!」

数拍置いて、小さく震える声で、けれどもはっきりとした意志を持って少女が感情をぶち撒けた。初春飾利だった。

「私だって、今しかないです!」

がばりと立ち上がり、初春は肩で息をするアスカに掴みかかる。胸倉を掴まれたアスカの眉間に、びきりと青筋が浮かぶのを、初春は朧気な星明かりの下でも見逃さなかった。
怖い。
初春はアスカの鷹のように鋭い眼光を見て、素直に先ずそう思った。
全身を恐怖が電流のように駆け巡る。ばちばちと脳天から爪先まで緊張が走り抜け、全身からはどっと汗が噴き出した。
怖い。怖くて堪らない。今すぐ逃げ出してしまいたい。投げ出してしまいたい。
認めてしまえばいいじゃないか、正義なんか下らないって。何の為に、こんな事。
だってそうでしょ。実際、全部式波さんの言う通り。何も間違ってなんかない。此処にはもう、学園都市も風紀委員も警備員も存在しない。
だったら、そんな肩書きなんて形見みたく後生大事に懐に取っておかなくても、全部吐き出して楽になってしまえばいいじゃないか。

【確かに、全員が誰かを救けることができる、ヒーローじゃないけどさ】

だけど、だけど、だけど。

【それでも、初春さんが思っているよりも、人間は強いし、優しいのよ】

約束したんだ、目標にしたんだ。教えてもらったんだ。救ってもらったんだ。救いたいんだ。
だったら言わなきゃ、動かなきゃ、ぶつからなきゃ――――――――私の想いを、貫く為に。

「でも、だからこそ、そんな今を正義として生きたいと思う心は、悪じゃないんじゃないですか!?
 ただ今を、未来も結果も過去も……吉川さんや、御坂さんを忘れて生きるだなんて悲し過ぎるじゃないですか!」
「冗談! その二人はアンタがその手で殺したんでしょうが!! 私だって殺されかけたのよ!?」
「だから!! だからそれを忘れない様にする為にも、ちゃんと私は正義を貫きたいんです! それが私の償いなんです!!」
「二言目には正義正義正義! バッカじゃないの!? だいいち、償いですって!? くッだらない!!
 いーい!? 死んだ奴に出来る事なんてね、何にもないのよ!! 何もしてあげられないの!!
 全部、ただの自己満足にしかならない!!
 償いや正義云々よりも、まずは泥を啜って地べた這いずり回って誰かを殺してでも生きてみなさいよ!!!」
「やめてッ! 今争っても意味無いでしょ!!」

半ベソの綾乃が今にも殴り合いになりそうな二人の間に割って入った。
アスカはそれを邪魔をするなと言わんばかりに、初春ごと横に弾き飛ばす。
派手な音を立てて、綾乃と初春は子供用の椅子と机をなぎ倒しながら、ウッドタイルが貼られた床に転がった。
はらりと初春の頭から花が散ったが、激情に駆られたアスカはそれを歯牙にもかける事なく舌を打つ。
構うものか。青白い星明りに照らされた少女を見て、アスカはそう思った。
この甘い考えを治さないままのコイツと居ると、虫唾が走るし何より私の命が幾つあっても足りない。
今のうちに、少なくとも私が誰かを殺そうとしている時に馬鹿げた横槍を入れてこないくらいには、無理やりにでも考えを改めてもらわないと。

「何が正義よ……」

だから先ずは、それを言う事にした。
正義正義正義。馬鹿の一つ覚えみたく喚き散らす癖に、その成果を一切上げていない阿呆を、理の懐刀で刺して刺して刺し殺す為に。
アスカはつかつかと倒れこみ呻く初春へと近付くと、そのまま彼女の胸倉を掴んで無理やり持ち上げた。げほ、と初春は苦しそうに咳き込む。
アスカは思い切り息を吸った。気に入らなかったのだ。路傍のゴミ屑に縋る馬鹿が。
許せなかったのだ。そんな光を見ることすら無駄だと、決めつける自分が。
嗚呼、或いはただ、そう、ただ納得したかったのかもしれない。

母を守ってくれなかったあの世界に。
子供に全てを背負わせる大人達しかいないあの世界に。
嘘ばかりのあの世界に、誰からも愛されない、あの世界に―――――――――――――――正義なんてものは、最初から無かったんだって。

「正義がなくても地球は廻んのよ!
 箱庭に守られた生温い正義なんて、ここでは要らない! あるとすればそれが力! 今を勝ち残る力が正義なの! 最後に信じられるのはそれだけ! それだけなの!!
 勇気も、優しさも、正義も! そんなもんじゃこれっぽっちも腹は膨れないし、居場所もできないし、
 寂しさは変わらないし、愛してくれないし、幸せになんかなれっこない! そうでしょ!?
 他人の正義なんて、所詮自分が居心地よく過ごすための口実! 違う!?
 此処じゃあ生きる事すら満足にできない! 生きる手段として誰かを殺す必要だって、そりゃあるわよ! 誰だって生きたいの!
 アンタの“せいぎ”はその願いすら裁くワケ!? それでもそうだってんなら文句はないわ!
 でもね、アンタはその覚悟は愚か自覚すらないでしょ!?
 “せいぎ”とやらが全部正しくて、犠牲も出なくって、誰もが納得するハッピーエンドで解決すると思ってる! 私はそれが気に入らない!!」

心が軋む。一言呟く度に、内臓に螺子を打たれる様な感覚。その抉られる様な鋭い痛みを隠す様に、アスカは胸倉を握る手の力を強めた。

「力が足りない馬鹿から無様に死んでくのよ! 誰かを守れずに泣いていく! 後悔も、謝る事もできずに! アンタだってそうだったでしょ!?
 そうならない為にも、アンタ達はただ黙って守られてりゃいいの! 生きてりゃいいの! ねぇ、私の言ってる意味解る? 何か間違ってる!?
 解らないなら自分の胸に訊きなさい! その薄っぺらい正義は、この島で誰か一人でも助けたのかってね!!
 それとも何? アンタのそのご大層な正義が―――“せいぎ”とやらが、大切な大切な“ジャッジメント”が、私が死にそうになった時に身を犠牲にして守ってくれるっての!?
 それともアンタが殺人鬼を甘っちょろいヒロイズムに泥酔して見逃して、今度は私とアヤノが死ねばいいワケ!?
 ……ミコトと、チナツみたいに!!!」

気付いた時には、肩で息をしていた。ぜえぜえと繰り返される荒い息だけが、凍て付いた湖の底の様にしんと静まり返った世界の空気を振動させていた。
アスカは言葉を続ける為に、口を開く。是が非でも続ける必要があった。耐え難い静寂を裂く為に、続けなければならなかった。
続けなければ、心が潰れてしまいそうだった。

「冗談じゃないわ。私は、私が大切なの。他の誰でもない、組織の為でもない、平和ボケした大衆が創り出した“せいぎ”の幻影の為なんかでもない。
 私は、私の為に戦いたいの。ただそれだけ。
 ……ねぇ、アンタのその黴臭くてくッッッだらない正義を守る為に、あと何人殺せば御満足? 教えてみなさいよ。あとどのくらいの死体が必要?
 思い上がるのも大概にしなさいよ“正義の味方【さつじんき】”―――――――――――――――――――――私を、自殺に、巻き込むな!!!」

アスカは突き放すように初春の胸倉から手を離すと、ふらふらと後退った。窓とルーバーに切り取られた星明かりが、尻餅をつく初春に縞模様の影を落とす。
星明かりが届かぬ場所まで逃げるように足を下げると、アスカはからからに乾いた唇を舐め、大きく息を吸った。

捲し立てるように何を言ったのか、ふと思い出そうとしたが、とんと覚えはない。
なぜかと考えれば直ぐに合点がいった。“言った”ではなく、きっと“溢れた”のだ。
プラグから溢れたLCLが外へ漏れ出してしまう様に、体に収まりきらなかった言葉が、行き場を失い喉から零れ落ちたのだ。
アスカは胸に手を当てる。皮膚をばくばくと叩く心臓は、今にも体の内側から飛び出そうだった。
耳をすませば、荒い息と心臓の振動だけが、生ぬるい部屋の中を揺らしていた。
アスカは額の汗を拭うと、ぎょっとする。袖がびっしょりと濡れてしまうくらい汗をかいていた事にすら、全く気づかなかったからだ。
……どっと疲れた感覚だけが、嫌にあった。
酷く頭が痛く、鉛の様に全身は重く、足と手は関節が錆びついてしまった様に動かなかった。
機能停止したエヴァンゲリオンの如く、ただただ暗がりにぼうっと立ち尽くす。

どくん、どくん、と、胸の芯で鳴る鐘の音が鼓膜の内側を揺らしていた。

アスカは放心して隅に座る綾乃と、窓辺にぺたりと座る初春を交互に見る。
誰も彼も視線は決して交わる事はなく、少女達の双眸は暗闇の中空を意味も無く泳いでいた。
アスカは思わず、舌を打って目を細める。
目前の女のそれは心底琴線に触れる表情だと思ったが―――瞬間、アスカははっとして細めた目を見開いた。
少女の紅色の頬に何かが伝っていたからだ。
……いいや、頬を伝うものに何かも使徒もネルフもありはしない。

涙だ。
涙だった。
それは、星芒を写してきらきらと眩く輝く涙だった。

初春飾利は、嗚咽も漏らさず気丈に振舞いながらも、泣いていたのだ。
それに気付いた瞬間、鉛のように重かったアスカの全身から、重量が、力がどっと抜けていく。
そう。そうだ。当たり前の事だった。
彼女みたく地味めで少女趣味の、優しく可愛くてムカつく性格の真人間が、取っ組み合いは愚か口論すら、余程の事がないとしない筈なのだ。
それをどうして、今になって気付く。

……そんな相手に今、自分は何を言った?

アスカは体をくの字に曲げて、右目を掌で覆う。
莫迦は私の方じゃないか。冷静さも欠いて、自分の想いを無理やり押し付けてしまったのは、他でもない、私。挙句、暴力と感情に任せて酷い事まで吐き捨てた。
唇を噛みぐっと何かに耐える様な初春の表情に、アスカは舌を打つ。阿呆なのは一体どっち。子供なのは一体誰。

「……ゴメン。言い過ぎたわ」

雫を落とす様に、アスカが呟く。仲間割れしている場合ではない。そんな事、百も承知だったはずだった。

「わ、私の方こそ……すみません」

ずずっ、と赤い鼻を啜ると、初春はぺこりと頭を下げた。アスカは頭を掻きながら苦い顔をすると、ぽかんと口を開ける綾乃へ足を進めて、その小さな頭へぽんと手を置く。

「アヤノも……ゴメン」
「あ、へっ!? はっ、はい……」

我に帰ったように驚く綾乃を見て、アスカは溜息を吐きながらどかりと床へ腰を下ろした。綾乃はきょとんとした顔でばつが悪そうな彼女を見る。

「はぁ~~~~……らしくないなぁ、ほんッと……バカは私だったってワケね……ったく……」

パン、と両頬を掌で叩くと、アスカは大きく息を吐いた。頬はじんじんと、腫れたように痛む。
これをけじめというには些か軽過ぎるのかもしれないが、今はひとまず、それでよしとしよう。

「……取り敢えず、今はこれが“ケジメ”でいい? いつか、この借りはきっと返すから。
 兎に角、私も、アンタらも気持ちを切り替えるわよ。幾ら此処が“鉄の要塞”でも、ね」

初春は、アスカの背後のシャッターを横目で見る。
入り口は鉄のシャッター。そして、バックヤードへの出口にはセキュリティのかかった鉄扉。
そう、今、このフードコートはまさに“鉄の要塞”だった。








時は逆巻き、放送直後。
敵軍から逃げるにあたり、具体的なプランを真っ先に挙げたのが、他ならぬ初春飾利だった。
風紀委員<ジャッジメント>。その仕事柄、あらゆる施設に突入する可能性を持っており、またそれは同時にあらゆる施設の構造に精通していなければならない事を意味している。
でなければ咄嗟の判断などできないし、突入作戦にも幅が出ない。学校、銀行、図書館、地下街、駅。様々な施設での作戦、突入、脱出をシュミレートしたマニュアルはあって当然だったのだ。
そしてそれは、勿論複合商業施設とて例外ではない。剰え、初春飾利は風紀委員では情報処理、作戦、撹乱等サポーターとしての役割を担っていた。
特攻員である白井黒子とは違い、そここそが彼女の守備範囲。
そう。敵味方合わせ、この場で最も体力のない彼女は―――しかし、最もこの場を庭と出来る、戦闘参謀のプロフェッショナルだったのだ。

「まず、動線の分断と、防災センターを制圧しましょう」

なればこそ、それが初春飾利の発した最初の言葉だった。初春は徐にフロアマップを広げると、ぺたりと床にマップを置き、ペンでスラスラと何かを書き足してゆく。

「何を書いているの?」
綾乃が中腰になりながら、怪訝そうに問う。
「後方通路ですよ」
初春はペンを走らせながら、当然の様に答えた。
「……まだ私達そんなとこまで入ってないのになんで分かんのよ。っていうか、防災センターって何?」
アスカが質すと、初春はペンを止め、したり顔を上げる。

「このデパートに入る時、最悪の場合を考えて建物の形状は一通り目視で確認しました。
 それに、警備員室には一回寄ってますし、防犯カメラを潰しに防災センターも寄っています。
 閉ざされてはいましたが、外部搬入口……あ、作業車や、工事業者が入る裏口の場所の事です。それと外部非常階段の位置も把握済みです」

へぇ、とアスカが顎をさすりながら唸った。初春は愛想笑いを浮かべると、しかしすぐに真面目な顔で続ける。

「複合商業施設建築のセオリーで、だいたいこの規模なら搬入口がある方角にバックヤード……後方通路ですね。
 それが階段と搬入エレベーターで、各階縦に動線が通っています。非常階段位置から見ても、多分後方はこんな感じの絵で間違いまりません。
 防災センターっていうのは、簡単に言えば複合商業施設の中枢。
 外部からの受付、電気機器、防災機器、および物流、警備など全てが詰まった部屋の事です。……これは、モール事務所とはまた別になるんですが」

二人が初春の手元を覗き込むと、簡単なスケッチ――お世辞にも上手いとは言えなかったが中学生にしては上出来かも知れない――が完成していた。
初春はペンでその落書きの通路を人差し指でなぞりながら、二人へ施設内部を説明する。

「一般的に、防災センターは搬入口から入ってすぐそば……ここにあります。
 搬入口は地下、ここです。外部駐車場から、搬入車は地下にこう、迂回する様なルートで降りていく形です。
 まずはこの防災センターを目指して、この施設の中枢を掌握します。ある程度防災センターで機器を操作したら、これを使います」

初春はそう言うと、スカートのポケットに手を突っ込み、金属音と共にそれを掲げた。落葉の残光に照らされて、それらはきらきらと宝石のように光を反射する。

「……鍵?」
綾乃が小首を傾げて呟く。初春は、はい、と答えた。
「防炎シャッターボックスの鍵と、分電盤の鍵、後方通路カードキー、非常扉の鍵、エレベーターの鍵、その他諸々です。
 全部、さっき監視カメラを潰すついでに拝借したものですよ」
「……アンタ随分手癖悪いわね」

アスカが肩を竦めて、溜息混じりに半ば呆れたように言う。初春は非常事態ですから、と困ったように笑った。

「とにかく、この鍵で各区画の照明やBGMを付けながら、なおかつシャッターをランダムに締めながら……勿論、武器になりそうなものも拝借しつつ進みましょう」
「撹乱作戦?」

綾乃が呟く。初春はこくりと頷くと、マップを四つ折りにして、スカートのポケットに入れた。

「さて、敵もエレベーターを使ってこちらを追うはずです。ここからは話しながら移動しましょう」

アスカは思わずその言葉に目を白黒させた。初春の態度の変わりようもあったが、それ以上に場慣れが過ぎる、と先ず感じた。
言われるがまま頷く綾乃の後ろで、アスカは首を僅かに捻る。違和感、という単語で片付けてしまうとあまりに短絡的だろうか。
いや、けれどもそれは違和感以外の何モノでもないのだ。これでは、まるで別人か何かのようだ。
使命感、或いは、義務感。そんな何かを彼女の気配から感じ取り、アスカは顔を曇らせる。
それは、戦場で最も足枷になる可能性が高い感情だからだ。

「さっき監視カメラを潰す時、幾つかの区画のシャッターを閉めたり、BGMを付けたりしてきました。
 足音や気配は、これである程度誤魔化すことができます。この建物は、地下1フロア、地上5フロアの計6フロア。今いるのが5階。スプリンクラーが作動したのは1階。
 ここからはまず、あそこの曲がり角の後方通路に入って扉をロック。あの水の化け物には気休めかもですが、ないよりマシです。
 少なくとも、サムターンがロックされた鉄扉は、生身では開けられませんから。
 その後従業員エレベーターを使って、地下まで一気に降りましょう」

そう言いながら先導する初春に続き、綾乃が、そして後方はアスカが固める布陣で、三人は慎重且つ迅速に足を進める。
ドラッグストアを横切り、家電コーナーと寝具コーナーを抜け、本屋を横切って進んで行く。
アスカは二人の背を見ながら、背後を横目で確認する。気配は無い。しかし後を追ってきているならば、二人は同じフロアに居るはずなのは間違い無く、全く油断は出来なかった。
微かにに聞こえるのは階下からのBGM。こちらの足音があちらに聞かれ難いのは構わないが、それは逆も然りだ。いつ、どこから敵が現れてもおかしくはなかった。
アスカは四方に気を配りつつ、綾乃に続いて曲がり角を曲がる。ふと初春の方を見ると、手鏡の反射で曲がり角の先を見てのクリアリング。
ふぅん、とアスカは思わず唸った。
根拠の無い強気では無く、きちんと裏付けがある。どうやらズブの素人、というわけでもなさそうだ。
角を曲がると、後方通路の入り口があった。初春がカードキーを壁の機械にあてがうと、カチャリ、と鉄扉の中から開錠の音。
扉を出ると、直ぐに目的のエレベーターはあった。初春は角から顔を出し周囲を見渡すと、後ろの二人へ掌をひらひらと仰いだ。GO、の合図だ。

「アンタ、一体何? 素人……ってワケじゃ、ないわよね?」

従業員用のエレベーターのボタンを押しながら、アスカは小声で呟く。綾乃もうんうんと頷いていた。初春は小さく笑うと、それほどでも、と呟く。

「一応、これでも警察の真似っこみたいなこと、してましたから。
 私が所属していた風紀委員<ジャッジメント>って、そういう……なんていうか、凶悪犯罪から町の平和を守るような、正義の組織みたいなものだったんです」
「せいぎのそしき」綾乃が唄う様に繰り返す。「なんだか、すごいわね……」

チン、と電子音が鳴る。エレベーターが開くと、三人は足音を立てないよう、慎重に中へと入った。

「私の話はそのくらいにして、敵は幾ら戦闘に長けていても、あくまで一般中学生。
 ここは経験と知識があり、施設全体の空間把握、防災機能を把握できているこっちに分があります。
 なら、兎に角イニシアチブを握り続けておくことが勝利の鍵になるでしょうね」

初春が、エレベーターのボタンの下の鍵穴に小さな鍵を入れながら、呟く。
アスカはアンタ馬鹿ァ? と言わんばかりに、その言葉を鼻で笑った。

「でもそれはあくまで、敵が施設に関して知識がない場合……でしょ?
 あっちの水の化物は喰らったら即アウトなんだから、油断大敵よ。頭のキレる奴がいたら、どうなるかなんて解らないんだから」

アスカが言うと、初春はエレベーターのボタンの下から機器をぞろぞろと取り出しながら、えへへ、と笑って頷く。

「はい。あの二人がデパートなんかでバイト経験があれば同じ事を考えられてしまってアウトですが……何れにせよ、先に防災センターを抑えてしまえばこちらのものです。
 それに、忘れてませんか? こっちにはコレもあるんですよ」

機械になにやら細工をし終わったのか、初春は二人へ振り返り、それを見せた。両手に収まっていたのは、携帯電話が二つ。
ぁ、と間抜けな声が綾乃の口から溢れた。

「そっか、交換日記……!」

綾乃が掌をポンと叩いて、目を丸くする。
そう、彼女らには未来視の力があるのだ。これがある限り、少なくとも絶体絶命の状況に陥る可能性は、がくんと下がる。

「でもあくまで、それはアンタの未来。私と綾乃の予知までは出来ない。頼り過ぎると痛い目みるわよ?
 ……さ、着くわよ」

チン、と鈴の音がエレベーターの中に響く。扉が開くと、そこは地下後方通路。
恐る恐る廊下に顔を出すと、非常口の行灯の緑色の光が朧げに満ちているだけで、殆ど暗闇に近かった。
細い通路、僅かな明かり。ホラーゲーム顔負けな雰囲気に、思わず綾乃は息を飲む。

「……暗い、ですね」
「しーっ。余計な事、喋らないの。カザリ、防災センターとやらにとっとと行くわよ」

恐る恐る呟く綾乃の唇に、アスカは静かに指を当て、か細い声で言った。しかし先頭に立つ初春は、携帯の画面を見て固まったまま動かない。

「カザリ?」

アスカはエレベーターから出ようとしない初春へ怪訝そうに問う。初春は何かに納得するように頷くと、静かに振り返り、携帯の画面を後ろの二人へ見せた。

「……いいえ、やめましょう」

告げられた言葉はここまでの行動を水泡に帰すにも同義なもので、二人は目を白黒させたが、しかし画面に表示された未来を見て、彼女等も納得せざるを得なかった。


『私は防災センターに向かいます。でも、部屋の中にはあの水の怪物が居ました。しかし、周りに彼らの姿は見えません。囮でしょうか』


「……ふんふむ。この段階では死までは予知されてないけど、これは確かに引くのが得策ね」
アスカは腕を組みながら言うと、小さく溜息を吐いて、続けた。
「……地下を抑えれば勝ちとか、偉そーに言ってたのは何処の誰だっけ?」

初春が顔を僅かに曇らせる。まぁまぁ、と綾乃がアスカを宥めた。

「ま、いいわ。作戦は全部水の泡だけど、敵は頭がキレる。私達が先ず此処に向かうって予想してトラップ仕掛けてやがったんだし、
 それが分かっただけでもよしとしようじゃないの。水の化け物の能力に監視や感知も備わっていたら、近付くだけでも拙い。そのくらい警戒しても十分でしょ。
 勿論ブラフかもしれないけれど、能力の全容が明らかにならない以上は流石に冒険出来ない」
「あっちも日記を持っているんじゃ?」

綾乃が手を控えめに挙げながら呟くが、アスカはそれはないわ、と直ぐにかぶりを振る。

「……もし予知能力があれば、こんなに回りくどい方法を取る必要が無い。罠を用意してたって事は、予知の手段が無いって吐露してる様なものよ」
「それ自体が嘘って可能性はないのかしら?」

エレベーターの扉を再び閉めながら、綾乃が訊いた。どうかしらね、とアスカは肩を竦める。

「あり得ない話じゃないけど、メリットが少ないわ。そんな事するくらいなら、今この場所に水の化け物を何匹か送り込めば私達はオシマイなわけだし」
「そ、そうですよね……」

エレベーターの隙間という隙間から、水がこちらに押し寄せ、そのまま溺死。そんな自分を想像して、綾乃は思わず身震いする。

「それにしても、行動が完全に先読みされてたのがほんっと癪に障るわ」
「はい……まさか先回りされているとは思いませんでした」

親指の爪を噛みながら言うアスカに、初春も頷く。掌の上で転がされているようで、少なくとも気分は良くない。

「まぁ、あそこに水の化け物しか居なかったんなら完全ではなく、あくまで確率論での保険だろーけど。こりゃあ多分正面の風除室にも居るわよ。
 下の階から順番に私達を追い詰めてくつもりね……十中八九、入れ知恵したのはあの女狐だわ。
 ああいうタイプはねちっこくて用心深くて超々性格悪いのよねぇ……ああ絶対そうよ、そうに決まってる。
 ……カザリ、さっきのフロアマップ貸して」
「えっ? あ、は、はい」

初春が慌ててスカートのポケットから地図を出すと、アスカはそれを乱暴に開き、地下後方通路を指で追った。

「非常階段、搬入口は防災センター横……なるほど、これで地下からの脱出は封じられたってワケ。それが狙いか、もしくは本当の罠か……。
 とにかく、今は慎重に戻る他ないわ。暫くどっかに篭ってやり過ごすしかないわね、こりゃ。
 対峙しても単純にあの水人形には敵わないし、メールによる助けの手をアテにするしかないかもね」
「助けに来てくれるでしょうか?」

綾乃が心配そうに言う。アスカは諸手を挙げ、さぁ? と肩を竦めた。

「でも、存外お人好しは多いみたいよ? カザリのオトモダチもそうみたいだし。
 ま、いざとなったら私が纏めて守ってやるから、安心しなさい」

そそくさと地図を畳むと、アスカは初春に地図を渡し、続ける。

「時間稼ぎにしかならないけど、籠城して罠を作るなり作戦練るなりするなら、どこが良いと思う? 参謀」
「……参謀?」初春が一拍置いて小首を傾げた。「私の事ですか?」
「アンタしかいないでしょ?」
アスカは当然の様に応えた。そうですよ、と綾乃もそれに同意する。

「私が切り込み隊長」
アスカは自分の鼻の頭を指差して言う。何となく分かるかも、と初春は思った。
「で、アンタが参謀」
続けて、初春を指差して言った。指を刺されて少しだけギクリとしたが、納得といえば納得だ、と初春は思った。
「……」
そうして当然の様に綾乃を指差して……アスカが口籠ってしまうものだから、エレベーターの中は気まずい空気に包まれた。
「……。えーと」
暫く指を指したまま、アスカは眉間に皺を寄せる。
「…………」
「………………マスコット?」
「疑問系!?」

最終的に出た答えに、思わず綾乃もツッコミを入れざるを得なかった。アスカはそんな様子を馬鹿にするように、ふん、と鼻で笑う。

「う、うっさいわね。メイド服着て何言っても、説得力なんかないんだから」
「うぅ……何もいえま戦場ヶ原よ……」
「ぁ、う、ええとぉ……まぁまぁ、それは置いといて……ここからだと、そうですねぇ……」

肩を落としてべそをかく綾乃(と、シュールなギャグ)を愛想笑いでなだめながら、初春はアスカからフロアマップを受け取り、エレベーターの壁に広げた。

「三階のフードコートエリアなら、フロアの端、鰻の寝床みたいな所ですから、敵の侵入方向が入り口に限られます。
 区画性質上、入り口には鉄の防火シャッターもありますし、テナントの厨房には武器もありそうです。
 おまけにそれなりに広く見渡しが良いのでいざという時もやりやすいと思います……うん、日記にもそう出てます。道中は安全みたいですよ」

交換日記を見ながら、初春が言う。アスカは腕を組みながら頷いた。

「決まりね。行くわよ。ところでエレベーター、さっき何か弄ってたけどちゃんと使えるの?」
「独立運転にしましたが使えます。特殊な動かし方しか出来ないので、敵さんは使えないと思いますが」

初春はなにやらボタン操作をしながら答える。
独立運転の事を綾乃が初春に訊くと、搬入用の、内部操作しか受け付けない特殊操作への切り替えです、と初春が説明した。

「二階から階段を使用します。そっちの方が近いので」
「オーケイ」
「了解です」

二階に着き、アスカを先頭に三人は進む。ここまで奇跡的に日記も特に目立った反応をしていない。
順調だ、と初春は思った。否、順調過ぎる。
勿論、防災センターを抑え、施設の照明を落とすなりシャッターを一斉に降ろすなりといった大規模作戦や脱出こそ防がれたものの、
少々上手く行き過ぎではないだろうかとふと考える。
形容できない不気味さを感じながら、初春は日記を見た。未来に何らおかしな部分は無い。全てが予知通り。
でも、本当にこれでいいのだろうか。何か、見落としていやしないだろうか。一抹の不安を抱えながら、初春はアスカの背を見る。
……そろそろ、階段が見えてくる頃だ。



「ねぇ、アンタ達、テレビの中の、怪物と戦う正義のヒーロー、見たことある?」



不意に、アスカが正面を見たまま思い出した様に呟いた。綾乃と初春は小首を傾げ、互いを見る。
意図がつかめないまま、二人は怪訝そうにアスカの横顔を覗いたが、彼女の目は前髪に隠れて二人からは見えなかった。

「そりゃあ、ありますけれど……どうしたんですか、いきなり」

綾乃が目を白黒させながら言う。

「自分がそんな正義のヒーローになったらって、少しでも考えてみた事、ある?」

……巨大なロボに乗って戦う、ヒーローにとかにさ。アスカは綾乃の質問を無視する様に、足を進めながらそう続けた。

「……はい」初春は呟く。「あります」

アスカは足を少しだけ止めたが、背後を振り返る事なく、直ぐにまた足を踏み出した。角を曲がって、階段に差し掛かる。

「正義のヒーローは、街も勝手に壊すし負ける時もあるの。誰かを殺す時だってある。殺人鬼って、責められる時もある。
 でもね、正義のヒーローはそこで止まっちゃいけないの」
「どうしてですか」

初春は間髪入れずに質す。
アスカの酷く寂しそうな背中は、その話がただの“例え話”ではない事を、背後に立つ少女達に教えていた。

「オトナと社会は、そこで止まる奴は卑怯者だって、もっと責めるから」

アスカは目前の階段の先を見上げる様に、立ち止って頭をもたげると、一拍置いて答えた。
右足が1段目に乗る。こつり、とローファーが長尺シートの床を叩いた。

「自分の心も、友達も、感情も。常に何かを、誰かを犠牲にし続けて、正義は正義として、掌をすぐにでも裏返す薄情な何処かの誰かの為に死ぬまで動かなきゃいけないから」

「……正義って、なんなんだろう」
呟いたのは、ずっと沈黙を貫いてきた綾乃だった。
「私、よく分からなくって。自分にそんなもの、あるのかも」

綾乃は力無く笑うと、続ける。

「だから、2人がすごいなって思うの。今まで当たり前の平和しか、知らなかったから。すごい、本当に。私なんか全然ダメ」

「……解らないのよ」アスカは前を見たまま静かに言った。「正義がなんなのかなんて、誰にも解らない。ただ」
「ただ?」
綾乃が神妙な面持ちで問う。アスカは肩を落として笑った。

「きっと皆、口実つけて納得してるだけなのよ。
 結局、私もよくわかってないし。譲れない何かを正当化する為に、正義って名前をつけて納得してるだけ。
 だから、ちっともすごくなんかないわ」

果たしてそうだろうか。綾乃は拳を握りながらそう思った。
正義って、そんなによくわからない、何かの言い訳になるような、ふわっとした代物なのだろうか。
少なくとも、そんな卑怯で便利な言葉ではないと思っていた。芯が通った、一本の鈍く輝く槍のようなものだと思っていた。
でも……なら、“正義”って、一体なんだろう。
私だけ、分からないままだ。そんな事、少しも考えたことなかった。
私の“正義”って、何だろう。
私は、初春さんやアスカさんみたいに、はっきりとした意見を言えるだろうか。
……“正義”って、なんなんだろう。

「正義の反対もまた正義だ、なんて何処の誰が言ったか知らないけどね。
 あんなの、てんで嘘っぱち。だって、だったらなんでもありでしょ?」

アスカが半ば吐き捨てる様に呟いた。
ナンデモアリ、と綾乃は鸚鵡の様に繰り返す。なんでもありよ、とアスカは続けた。

「だって、正義であればなんでも正当化されちゃう事になる。
 ……多分人はね、正義っていう口実があれば幾らでも残酷になれんのよ。戦争も、虐殺だってそう。
 だから多分、こぞってみんな“せいぎ”が好きなの。私はね、本当はアンタらに訊きたいくらいなのよ。知りたいの」

アスカは階段を登りきると、窓の外の空を見た。一面が藍に染まった闇の水面に、白銀の星が瞬いている。


「この空の下に、正義なんて―――――――――――――――――――――本当にあるのかって」


ぽつぽつと、冬の新東京に降る雨の様に、アスカは呟いた。その背中は酷く寂しそうで、綾乃は声を掛けることが出来なかった。
そうして口を間一門に噤む綾乃を尻目に、初春は半ば反射的に口を開く。
しかし彼女に歯向かう為の言葉も、その行方も分からず、当てもなく開いた口を閉じる。
反論すべきという理由もない反骨心だけが、初春の心の中で、水面に浮かぶ葉の如く不安定に揺れていた。

「ねぇ」

そんな気持ちを知ってか知らずか、アスカはそう言って二人へ振り返る。ふわりと天使の輪が浮かぶ栗色の毛が揺れて、煤けた空色のスカートはバルーンを作った。
綾乃と初春は、しかし思わずアスカの面構えを見て息を飲んだ。
疲れ果てた、或いは泣き出しそうな。そんな、指で触れれば崩れかねない曖昧な表情が端正な顔に浮かんでいたからだ。
それは彼女の迷いだったのか、一瞬見せた弱みだったのか。
何れにせよ、その表情は次の瞬間にはいつもの気丈なそれへと変わっていた。
廊下には、窓から漏れた星明かりが菱形に切り取られて差している。
その光はまるで壇上を照らすスポットライトの様に、三人を包み込んでいた。

「それでもアンタ達は、正義になりたい?」

アスカの問いに、二人の少女達は考える。
誰かから恨まれても、石を投げられても、それが正義かどうかも分からなくても、正義を掲げる覚悟が、自分にはあるだろうかと。
小さなことでも、そう、ゴミを拾ったにも拘らず偽善と罵倒され、倒れた自転車を直しただけで犯人ではないのかと勘繰られ。
全く見返りがなく、損しか無くとも正義だと胸を張れるだろうか。
本物に、全てを仇で返されても平気なのだろうか。少しでも、腹が立たない保証なんて、あるのか。
利が目的ではないのだと、“してあげたのに”と、僅かでも思う心は、本当に無いと言い切る事が、果たして出来るだろうか。
出来ないというのなら、それは本当に、真の正義なのか。

「……私、は……」

初春は瞳を閉じる。瞼の裏側は、夜より深い漆黒の闇だった。辺りには、星一つありはしない。

とぐろを巻きながら、思考の海で光が、正義が歪み、闇へ、深淵へと沈んでゆく。光の届かぬ、暗闇へ。空気の尽きた、死の底へ。
待って下さい、と初春は闇海の中で叫んだ。声の代わりに、ごぼごぼと口からあぶくが吹き出す。冷たい水が、容赦無く細い白い四肢から体力を奪ってゆく。
もたつく足をばたつかせ、初春は必死に届けと手を伸ばした。けれども指先の隙間をくぐり抜け、少女を嘲笑うように正義は堕ちてゆく。
待って。初春は叫んだ。声はやはり水に掻き消えて、泡沫の向こう側。
暗闇に飲まれてゆく正義を、濁りきった視界で見届けながら、ただ、思考の海中をゆらゆらと彷徨う。
初春は堪らず身震いをした。得体の知れぬ茫漠とした不安だけが、やはり胸の芯をきりきりと痛め付ける。
怖い。
そうだ。何時だって怖かったのだ。
正義が何処か遠く、自分の手の届かぬ彼方へ、消えてしまうことが。
理由と行先を失って、海原を漂うことが。
風紀委員という舵を、失うことが。
初春はゆっくりと瞼を開く。正義の正体は、きっと、少なくとも綺麗なものなんかじゃあ、ないのだろう。
だけど、それでも見つけ出して、認める必要がある。

……あの日あの時あの場所で、確かに私の中で何かが“せいぎ”になったのだと思う。

でもその先があった。その先の正義だって、本当は“せいぎ”でしかなかいのかもしれない。
なればこそ正義のその先の、何かがきっとあるのだ。そしてそれは、今度は自分自身で掴み取る必要がある。
何かに頼るのではなくて。
何かに、自分を変えてくれると期待するのでもなくて。
誰かの言葉に、約束に、導かれるわけでもなくて。

初春は瞳を静かに開いた。開く視界の先には、窓の外で煌めく、何を祝福するわけでもない、数多の星の海。

「少し、待ってくれませんか」
初春は言った。
「……解らないんです。私はきっと、まだ何も知らない雛鳥だから」

嗚呼、だけど。
だけど何時だって雛は、やがて飛び方を見つけて巣を飛び立つのだ。

「考えなさい。誰かの言葉でも、何かの決まりでもない、アンタのその花が咲いてる平和な頭でね」

“正義”の先の何か、私に、見せてよ。アスカは笑ってそう呟くと、踵を返して前に進みだす。

だから、彼女は気付けなかった。
初春飾利の顔だけでなく、杉浦綾乃の顔に、黒い影が差していたことを。






時は戻り、フードコート。ここで漸く状況は回転し、止まっていた時計は動き出す。

「うわ、つめたっ。……アレ? 水、こんなとこまで溢れてきてるわね」
不意に、綾乃が呟いた。アスカが覗き込むと、その水は鉄のシャッターの向こう側から、隙間を通って滲み出してきているようだった。
「多分、スプリンクラーの水でしょ。……雑巾とか無いの?」

アスカが言った直後、初春の思考を何かが乱した。混線したように、クリアだった思考がノイズと共に濁りだす。
どくん、と心臓が跳ね、嫌な汗が背筋をつうと流れた。頭のなかで、警鐘が鳴る。水。スプリンクラー。……本当に?
スプリンクラーが作動したのは、一階のはずだ。此処は三階。
スプリンクラーから溢れた水が染みてくるなど、ましてやそれが今頃になって流れてくるだなんて、有り得ない。
ならば、どうして? 決まってる。そんなことを出来る人間は、そんなことをする人間は、一人しか、いないじゃないか。
もしも。もしも、敵が水を使って人を感知することが出来たなら。もしも、この水がそうなら。

ざざあ、と、ポケットの中からノイズの音。見なくとも、画面の文字は想像できた。デッドエンド。自分達の、死の未来。

「違う!! それは!!」

初春が咄嗟に叫ぶ。え、と間の抜けた声が綾乃の口から漏れた。
辛うじてその真意に気づいたアスカも、叫んだ張本人の初春も、反応が二歩遅かった。




「みぃつけた」




何処からか聞こえた声に、ぞわり、と三者の全身に立つ鳥肌。生暖かい舌で全身を舐められるような不快な感覚が、肌を包む。
瞬間、どう、とフードコートの入り口の方から大きな音がした。いや、音というよりはそれは強い衝撃に近い何かだった。爆音か、或いは重力か。
体の芯まで音が伝わり、びりびりと妙な圧力が肺を押す。空気と、壁と、天井と、床が、何かに恐れるように震撼した。
揺れる世界に身体のバランスを崩され、弾き飛ばされながらも、三人のうちアスカだけは、その状況を確りと双眸で把握していた。
鉄のシャッターを水圧で破壊し尽くしてもなお、緩まることのない出鱈目な速度で水流が部屋に入り込んでおり、
また、砂埃と濁流の嵐の中、廊下に、一人の人間が立っていた事を。
羽織っているフード付きのカナリアイエローの雨合羽は、きっと道中で入手したのだろう。

アスカは目を細める。黄色は幸せの象徴とか言うけれど。残念、こいつだけは例外。何が幸せなものか―――ねえ、死神、御手洗清志。

「―――――――――――――――――――――逃げろッッッ!!!!!」

叫んだのは、アスカだった。
体勢を崩した初春と綾乃が、ここで漸く状況を、奇襲を理解する。
そうしてアスカを、その視線の先の御手洗を、その醜悪な顔を見て、二人は明確な死の予感に戦慄した。

「早く!!!!」

アスカが間髪入れず叫ぶ。
「い、嫌です!!」
真っ先に反論したのは、最もアスカから遠くまで濁流に弾き飛ばされた綾乃だった。アスカは目線だけで周囲の状況を確認し、溜息を吐く。
「意地ぃ張ってる場合じゃないでしょ! 馬鹿ッ!!」
「でもそんなこと見捨てるのと同じです! そんなの出来ない!!」

ばたばたと近づいてくる音に、アスカはうんざりしたように舌を打った。
ふと後ろを見れば、綾乃は直ぐ側まで近づいてきている。アスカは自分の頭にふつふつと熱い血が上るのを感じた。

「近づくな! 的が一箇所に絞られるだけよ! つべこべ言わず逃げなさい馬鹿ッ!」
「でも、でもッ!!」
「でもじゃないわよ!! いいから逃げろっての!」

アスカは側に寄る涙目の綾乃を払いのけると、横目で御手洗を見る。目の前に、水兵が迫っていた。
いつの間に、と、疾い、が重なり、体が一瞬強張る。その隙を見逃すほど、御手洗は生易しくはなかった。
人型をした水兵の蹴りが、アスカの土手っ腹へめり込み、インパクトと共に体を弾き飛ばした。

「誰も逃がさないよ」

綾乃と初春は、思わず口をぽかんと開けた。
アスカが胃の中のものを空中にバラ撒きながら、まるで人形か何かのように数メートル吹き飛び、フードコートの椅子と机をなぎ倒しながら、沈黙する。
一拍置いて、綾乃の黄色い悲鳴が上がる。最悪の状況だ、と初春は思った。

「うるさいな、お前」

御手洗は無表情のまま通路に立ち尽くし、三体の水兵をフードコートの内部へ放つ。無抵抗の綾乃を、その三体は蹂躙せんと跳びかかり―――

「させ、ませんッ!!!!」

―――白煙が、それを阻害した。

「初春さん!?」

綾乃が見ると、初春の手には、赤い大きな円筒と、黒いノズル……消火器が、握られていた。
初春は重そうに抱えていたそれを放り投げると、綾乃の手を取り引っ張る。

「逃げましょう、皆で!!」

初春は叫んだ。二の句を待つこともなく、瞬く間に消火剤はもうもうと辺りを満たし、この場にいる四人の視界を封じていった。
初春は煙のまだ届いていないアスカの元へと駆け寄り、アスカの頬を叩く。アスカは何度か咳き込み血液混じりの唾を吐くと、不快そうな顔をしながら腰を上げた。

「痛ったァ……だから早く逃げろっつったのよ、このっ、馬鹿……」
「式波さん、血が!」

狼狽える綾乃の言葉に、アスカは口元を拭う。血に染まるシャツを見て、舌を打った。内蔵をやられてはいないだろうけど、一撃でこのザマだ。

「大したこと、ないっての……別に腹、痛くないし。口の中切っただけよ」
「でも、血が!」
「煩いッ! アンタらは逃げなさい。さぁ、走って! 早く!!」
「何言ってるんですか!? 皆で逃げるんです!」

震える金切り声で叫んだのは、初春だった。アスカは違和感を感じて、少女の顔を見る。
一番冷静そうな彼女の顔は、しかし冷や汗でぐっしょりと濡れ、双眸は何処か焦点が合わず、紫色の唇はぶるぶると震えていた。
拙いな、とアスカは眼を細めた。同時に、部屋の中をざあざあと雨が降り始める。
いいや、雨ではない。煙にスプリンクラーが発泡したのだ。これでは折角の白煙が晴れるのも時間の問題だな、とアスカは思う。
やれやれ、そろそろ仲間ごっこも潮時か。

「……手負いの私を抱えて逃げるって? 冗談はよしなさいよ。早く逃げなさい。私のことはいいから、早く。
 いい? バラバラに逃げるのよ。生存確率を少しでもあげる為に。後方通路にはいったら二手に別れなさい。外で落ち合うの。携帯があるから大丈夫よね?」
「でもッ!!」
初春が鼻水を垂らしながら泣き叫ぶ。
「走りなさい……このままじゃ、皆仲良くあの世行きよ」
「嫌です!!!!!」
アスカの顔から笑みは消えている。本気で言っているのだ、と綾乃は理解した。
綾乃は背後を振り返る。晴れてゆく煙の向こうに、畝る水の化物と、黄色い悪魔が立っているのが薄っすらと見えた。
「走れッ!!!!!!!」
「嫌だッ!!!!!!!!!」
間髪入れず初春が叫んだ。今にも壊れてしまいそうな、酷く不安定な表情だった。アスカは大きく息を吸う。




「走れえェえぇエェぇぇェェぇえエぇェェェぇぇえェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェッ!!!!!!!!!!!!!!!」




天からの一閃、青天の霹靂。
雷が、綾乃と初春の脳天を打った。
その声に二人は肩を、体を、心を震わせる。断末魔の様なそれは最早願望の類ではなく、命令にさえ感じられた。
心、違う。或いは、いのち。その言葉には、命や魂のような何かが篭っていた。
二人は潤む瞼を必死に拭い、踵を返す。従わなければならない。本能でそれを理解したからだ。
まさに、脱兎の如く二人は暗闇へと駆け出す。納得のできないまま、ただただ背後を振り返らず、風のように後方通路へと駆け抜ける。

「そうよ、それでいいの……あんたらまで死なせちゃ、私の立つ瀬が無いっての」

誰もいなくなった部屋に立ち、アスカは天井を仰ぐ。スプリンクラーから溢れる雨を顔に受けながら、アスカは溜息を零した。
同時に、ぱちぱちぱち、と乾いた拍手の音。アスカは咄嗟にキッチンから拝借しておいたナイフを抜いて振り返った。
白い粉塵の向こう側に、ぼんやりと黄色の影。二秒遅れて白煙が晴れ、そいつは姿を現す。

「かっこいいね。正義のヒーローのつもりかな?」

悪魔の様に冷酷な笑みを浮かべながら、御手洗清志はそこに立っていた。

「はっ」
アスカは少年を鼻で笑う。
「笑わせてんじゃないわよ。アンタこそ英国紳士のつもり? その割には餓鬼臭いけど。身分不相応もここまで来るとギャグね」

御手洗はその言葉に、被っていたフードから頭を出し、にかりと嗤う。
紳士。自分には似合わない台詞だ、と思った。身分不相応、か。成程言い得て妙だ。

「僕は外道じゃあないからね。でも残念。お前もあいつらも、此処で死ぬんだぜ。今頃光子がどっちかを追ってるはずさ」

成程それであの女狐が居なかったのか。存外ヤバイかな、こりゃ。
アスカは内心そう思い舌を打ったが、いいや、とすぐに思い直した。
信じる事くらいしてやらなければ失礼だ。それに、こいつを一瞬でのして助けに行けば良いだけなんだから。
ま、それが出来れば苦労はしないんだけど。

「あーら、本当にそうかしらね? あんたみたいなモヤシに私、負ける気しないけど?
 それに、あまりあの子達を舐めない方が良いわよ。“窮鼠猫を噛む”……確か、日本の諺よね?」

アスカは額に脂汗を浮かべながら、不敵に笑った。裏打ちのない口上は、虚勢以外の何物でもない。
勝率は、正直な話、ゼロに限りなく近い。アスカ自身それを理解していた。自分では勝てない。半ばその現実を認めてしまっていたのだ。
勝てない勝負はしない。戦士ならば当たり前の事だ。それを、どうして守らなかったのか。
アスカは苦笑する。不思議な感覚だった。少し前まで、誰かを殺そうとしている自分が、何故こんな下らない事をしているのだろう。
私は、誰の為に戦うんだっけ?
アスカは自分に問う。
誰の、為?

「へぇ。博識なんだ。でも、どれだけ腕っ節に自信があっても無駄だぜ。僕の水兵は無敵だからね」

余裕そうに初焼き肩を竦ませる御手洗に向かって中指を立てながら、アスカは自分を見た。
語弊がある表現だが、鼻息を荒くしている自分の背の向こう側で、冷静に自分を客観視しているもう一人が居たのだ。

「無敵っつー台詞はかませ犬の常套句なのよねぇ」

降り止まぬスプリンクラーの雨に濡れたスカートを絞りながら、アスカは呟く。
御手洗は表情だけで嘲笑った。前髪から、忙しなく水が滴る。

「ほざけよ。直ぐに挑発すら言えなくなる」

腰を低く落とし、アスカは懐からもう一本、ナイフを取り出した。
右に長めのナイフ、左に短いナイフを構え、じりじりと距離を詰めてゆく。ナイフの切っ先を、雫が滑り落ちた。

「つべこべ言わずかかってきなさいよ、クソガキ」
「言われなくともそうしてやるよ、クソアマ」

ぱちん、と御手洗が指を鳴らした。それを合図に五体の水兵が濡れた地面から立ち上がる絶望的な景色を見ながら、アスカは自嘲する。
自分がやった事は、何の事はない、ただの自己犠牲だ。
それを果たして、“守る”と言えるだろうか。自分が死んで、彼女達を逃がす時間稼ぎになったとして、それは、彼女達を守ったのだと、胸を張って心の底から言えるだろうか。
いいや、言えないだろう、とアスカは水兵の初撃を紙一重で避けながら思った。言える筈がない。
チナツにやられた事を、自分はあの二人にしようとしているのだ。この荷を全て無責任にほっぽり出して、あの二人に横から投げつけようとしているのだ。

「どこまで逃げ切れるかな?」

そこまで考えたところで、空気を震わせる生暖かい声に現実へと引き戻される。
はっとした瞬間には、既に目前へ鞭のようにしなりながら迫る水兵の薙ぎ払い。
かろうじてそれをジャンプで躱すと、アスカは中空でナイフを流れる様に投げた。
右手の一本、左手の一本、更に懐から三本。
風を切るように投擲された計五本は、具現した水兵の脇をすり抜け、御手洗の体へと正確に照準を定めていた。

取った。

アスカは空中で身を翻しながら、そう確信した。
水兵の弱点は、術者が手薄になる事にある。能力に絶対の信頼を置き、かつ完全に攻撃を水兵に任せている御手洗は、安全圏でポケットに手を入れ仁王立ち。
懐は完全にガラ空きだ、とアスカは睨んでいた。故に狙うならば先ず本体から、と。

二秒と満たぬ滞空時間の狭間で、しかし―――――――――そのアスカの考えは、見事に打ち砕かれる事になる。
瞬きすら遅い、そんな圧縮された時間の中、朧げな星明りに反射するナイフの切先の向こう側。
御手洗の姿が、その表情が、アスカの網膜に焼きついた。
息すら飲めぬ刹那、二人の視線がナイフの軌跡越しに交差する。

違う。

アスカは思考を経由せず、半ば本能で誤りを理解した。
何故なら五本のナイフの弾丸を前にして、その絶体絶命な状況を前にして、けれども御手洗は―――笑っていたのだ。
御手洗が羽織るカナリアイエローの雨合羽。その隙間から、フードから、ボタン掛けから、袖から。細かい縫い目から。
彼を守る様に、或いは閉じ込める様に水が咲き、彼を中心として瞬く間に球体状の水のヴェールを作り上げた。

疾い。

アスカは舌を打ちながら思った。疾過ぎる。用意していなければ到底出来ない対処速度だ。
投擲されたナイフ達が虚しく水の壁に呑まれてゆく様を細めた見ながら、アスカは着地する。
読まれていた。アスカは苦虫を噛み潰す様に歯を軋ませる。その事実は百戦錬磨であるはずの彼女にとって、少なからず屈辱に値した。

「残念だったね。遠距離で僕を直接狙うのは想定済みだぜ!」

御手洗はくつくつと笑いながら吐き捨てる様に叫んだ。水のドームに浮かぶナイフを一本手に取ると、御手洗はそのままナイフで薙ぎ払う様に、水流のドームを解除する。
ナイフの軌跡に沿って弾ける数百の細かい雫の向こう側を、アスカが居るはずの着地点を、御手洗は睨んだ。

そう。
居る、はずの、だ。

瞬間、御手洗は思考に一瞬の空白を余儀無くされた。
二秒。
御手洗が状況を理解するまでに要した時間だ。
何故居ない、どこへ消えた。逃げたのか。そう思ったのが半秒。
もし、水兵の盾とナイフを目晦ましに利用したとすれば、と仮定を立てるまでに1秒。
ならば、敵は死角。背後だ。そう結論付けるまでに、半秒。
その二秒間があれば、アスカには十分過ぎた。



「でも、私の方が一枚上手ね」



死角からの妖艶な声と同時に、強い衝撃と鈍い痛みが御手洗の背を走った。
恐る恐る御手洗が頭を下げ背後を見れば、鬼の形相のアスカと目が合う。確りと握られた果物ナイフは、深々と背に突き刺さっていた。

「アンタの手品、シーマンとやらは、オートじゃなくリモート系の操作能力。それは一回目の戦闘で解ってた。
 幾らあんたが賢くたって、だったらせいぜい動かせるのは五体が限度だろうって目算もあった。
 だから、先ずは本体を狙う。咄嗟の対処でまず間違いなく他の五体は動きが止まるから。
 次に、目を奪う。リモートなら、目視は絶対条件よね? その証拠に、アンタはわざわざ戦場に出向いてきてる。
 あの水のドームは悪手よ。アンタねぇ、わざわざ自分で死角作っちゃだめでしょーが」

アスカはナイフを刺したままぐるりと回転させ、にかりと嗤った。一泡吹かせてやった、そんな表情だった。

「敗因は、アンタが馬鹿だった事よ。覚えときなさい」

御手洗は崩れ落ちる様に、がくりと膝を床につく。
ただ。



「……は、……だ」



ただ、誤算があったとすれば。

「馬鹿は、お前だ」

アスカに誤算があったとすれば、それは御手洗の雨合羽の下の水兵が、一匹だけだと思っていた事だろう。
内臓の中から震え上がる様な、心臓の中から血が凍りつく様な、そんな冷たくねっとりとした声色で、御手洗は嗤う。
アスカは反射的にバックステップで距離を取った。
拙い。
そう思った時にはもう遅い。カナリアイエローの雨合羽がばさばさとはためき、隙間という隙間から、水が溢れ出す。

「二人も仲間を散らせた癖に、背後を防御しておかないわけがないだろ」

予想外の出来事に強張るアスカの全身へ、溢れ出した水が蛇の様に絡みつく。
アスカは、抵抗せず諦めた様に笑った。

「あーあ。私の、負けね」

……ああ、そうか。

目前に高速で迫る化け物を、腕と足を舐める様に絡まる水の触手を見ながら、アスカはようやく理解した。

呪いだったのだ。

自己犠牲は、呪いだった。生き残った人間に深い傷と自責と後悔を強い、“守る”事に異様なまでの責務を感じさせる、呪いだ。
何で、それを今更。
守る事に躍起になって、任された事を枷にして、役割を、役者になって履行していた事に、今更気付くなんて。
死んだところで、この役割が移動するだけなのだ。
守っているのではない。呪いを掛け直しているだけだ。残った者はまた自分を犠牲にして誰かを助ける。その連鎖だ。
そうする事でしか、この心の痛みも、罪も、傷も、癒えないのだ。


「参ったわね、ホント」


顔が化物の水面に沈んだ瞬間、アスカはナイフを水中で手離しながら苦笑した。

視界が濁り、口からぼこぼことあぶくが出て行く。ゆらゆらと水に揺れる髪の向こう側に、屈折した星の光を見た。
冷たい海の中でアスカは、当然の様に抵抗をしなかった。無駄だと理解していたし、色々な事が心底うんざりだった。
死を享受しているのかもしれない、とアスカは思った。……死を、享受?
……本当に?
脳裏で真っ赤なワンピースを着た小さな女の子がけたけたと狂った様に黄色い声で嗤う。
ぼろ切れの様なぬいぐるみを大事そうに抱きながら、女の子は不意に嗤うのを止めてアスカ自身を睨んだ。

うそつき。

そいつはただ一言、そう言う。
がぼり。口から大きな泡。酸素が、足りない。苦しくなって、目をかっと見開く。苦しい。苦しい。くるしい。嫌だ。
だれか、誰か。だれか、おねがい。たすけて。
水面から出ようと、手足でがむしゃらに水を掻いた。水面は訪れない。
嫌だ。アスカは叫んだ。嫌だ!
早く。くるしい、くるしい。いや、いやだ。嫌っ。いや。いきたくない。しにたくない。死ぬのは、嫌。
こんなに苦しみながら、どうして私が死ななきゃいけないの。孤独に、誰にも愛されずに、どうして、私が。

アスカは血走った目をぐるりと動かす。靄がかかった水のヴェールの向こう側の少年と、目線が交差した。
アスカはそいつに向かって手を伸ばす。殺してやる、と言ったが、声にはならず泡沫と消えてゆき、代わりに大量の水が口と鼻の中を逆流していった。

こんなに苦しいなら、いっそ助けなければよかった。アスカは歯を剥き出しにしながらそう思った。
あいつらを犠牲にして、生き抜けばよかった。私は、私の為に戦って、私の為に生きたかった。
どうして、何の為に、そこまで。あいつらを守っても、私には何もないのに。そんな事最初から理解してたのに。

でも、そう。じゃあ、なんで私は守ったのだろう。本当に呪いだったのか、そうじゃないのか、それが私の正義だったのか。
嗚呼、解らない。解らない。

ねぇ、ママ。わからないよ。わたし、どうすれば、よかったの。

アスカは落ちてゆく意識の底で、死への恐怖の中で、それでもなお考え続けた。
憎悪と、後悔と、憤怒と、そして満足感が入り混じるイドの底へ、落ちてゆく。堕ちてゆく。

正解は、誰にもわからないブラックボックスの中。














沸き上がる罪悪感に顔を伏せ、ただ、逃げる。
身体が、火を噴く様に火照っている。喉は干上がった湖の様にからからで、髪の毛の先から足のつま先まで、全身の全てが酸素を欲していた。
ぜぇ、ぜぇ、と体で息をする様に、水面に口を出す魚の様に、ぱくぱくと間抜けな顔で空気を吸う。
心臓は少ない酸素を身体の先の先までくまなく送ろうと、今にも爆発しそうな音を上げながら、胸の中心で跳ねていた。
びっしょりと、全身は生温い汗で濡れていた。シャツが肌にびったりと張り付いて、酷く気持ちが悪い。

酸素が、足りない。
少女は先ず、痺れて感覚が無い手脚を全力で振りながら、そう思った。
霞む視界、縺れる足、震える手。暫くして何かに躓き、盛大に倒れ込み地面へ顔を擦った。かっと目を見開き、少女は全身を震わせる様に息を吸う。
四肢が立ち上がる事を拒否していた。乳酸が溜まった足が、ぶるぶると悲鳴を上げる様に痙攣している。
限界だった。もう、走れない。少女は己の体力の無さを呪った。

「っばァ゛! がっ、はぁ、がぁ、はぁ、ハァッ! アバァっ、ハァ……んくッ……はぁ、はっ、ハァ! うっゔ……ゔゔゔゔゔぅッ……!!」

止めてしまった。止まってしまった。
少女は、初春飾利は、身体をくの字に曲げて喉の奥から、肺の奥から、肺胞の一つ一つから、内蔵を捻じ切る様に様に叫んだ。
止まりたくなかった。走る事だけをただ真っ直ぐに考えていたかった。足も、思考も、目線も、ただ前だけを見て、前だけに進みたかった。

「ゔゔゔゔっ……ぐぅぅぅぅ゛ッ……!!」

がんがんと、初春は頭を何度も床に打ち付け、水っぽく咳込むと、身体を小さく丸めた。
涙と鼻水で顔を情けなく汚しながら、唇をぎりぎりと噛む。鉄の味がした。
なんて、情けない。なんて、無様。初春は血を絞り出す様に嗚咽を漏らした。

「な゛に、が、ぜい゛ぎっ……!!」

腹の底から、初春は叫んだ。打ち付けた額から、脂汗と血が滲む。

「ばも゛れ゛ばい゛ッ……だれ、びどり゛ッ……!!」

正義が聞いて呆れる。お前は、誰も守れない。ただの尻尾を巻いて逃げた負け犬だ。
最低の、人間だよ。少女の中で蠢く影が嘲る。
逃げたのだ。初春飾利は、式波=アスカ=ラングレーを見捨てて、あの状況から無様にも逃げ出したのだ。
迷いも何も関係あるものか。信頼も何もあるものか。あの地獄へ、一人の少女を置き去りにしたのだ。自分の命欲しさに、殺したのだ。それが結果だ。
そんな正義があるものか。そんな正義が居るものか。そんな人間が、生きていいものか。

……でも、あの状況ではああするしかなかった。そうでしょ? 私は何も悪くないよね?

胸の奥にぽっかりと空いた穴の奥で、影がそう言ってけたけたと嗤う。

ひとりでも生きなきゃいけないもん。だから、1人くらい居なくなったって平気平気。全員が死ぬより、よっぽど良いでしょ?
仕方ないよね。だって私、弱いもん。助けられないんだもん。だから、見捨てたんだよね? ねぇ、違う?

影が馬鹿にする様に言った。
やめて。初春は叫ぶ。やめてください。
声にならない絶叫がデパートの中に響いた。堪らなくなって、初春は嗚咽を漏らしながらがりがりと床に爪を立てる。
痛い。指先も、頭の中も、心も。胸が抉られる様な酷い鈍痛に、初春は堪らず競り上がる何かを吐き出した。
びたびたと吐瀉物が床を濡らす。鼻の奥から、つんと酸の臭いがした。何度か胃の中のものをぶちまけて、初春は震えながら深く息を吸う。
汚い。そう思った。自分も、正義も、世界も、現実も。全部、全部、濁っていた。視界に映る全てに吐き気がする。
助けて、と初春は小さく呟いた。だれか、だれか。

「だれでもいいんです……だすけて……おじえでぐだざい……わだじ、どおずれば、よがっだんでじょおが……」

静まり返った空気は何も答えない。此処には誰も居ないのだ。
お調子者のスカート捲り魔も、突っ走りがちの正義感の塊のような親友も、そんなメンバーを纏める、みんなのヒーローも。
初春は嗚咽を漏らしながら、咳をした。脳裏に浮かぶのは、あの人の大きな背。私の、一番だいすきな、親友の背。

……佐天さん。貴女なら、どうしますか。

初春はその背に訊いた。彼女は手をひらひらと翻し、解らない、とこちらに背を向けたまま言った。

……解らないわよ、そんなの。その時にならなきゃ解らない。それに、私、初春じゃないから。
でもね。少なくとも、その時にやりたいって思った事をするんじゃないかな。正しいとか正しくないとか、きっとそーいうのじゃ、なくってさ。

彼女は続けた。力がなくても、未来が決まっていてもですか、と初春は間髪入れずに言った。
彼女は頷きながら振り返る。とびきりの笑顔だった。

当たり前じゃない。初春、忘れたの?
“想いを貫き通す意思があるなら、結果は後からついてくる”。ねえ、そうでしょ?
……だから、いってらっしゃい。

その言葉に、はっとした。胸の奥がじんと熱くなり、全身が震える。目が醒めるようだった。頬が打たれるようだった。
そうだ。そうだった。そうだったんだ。
ふらふらと立ち上がり、初春は笑う膝に鞭を打つ。ぐしゃぐしゃになった目と口元をぐいと拭うと、初春は情けない顔で背後を振り返った。
廊下の向こうまで、漆黒よりも濃い暗闇が続いている。
死の淵へと続く茨道だ。進めば、二度と戻れない。願いにも背くことになる。失望されるかもしれない。何も出来ないかもしれない。
初春は酸味の残った鼻水を啜りながら、足を床に擦りながら後退った。
怖い、でも。

―――いま、私が思う、やりたいこと。

初春は目を閉じる。赤みを帯びた闇があるだけで、そこにはもう親友は居ない。
でも、十分だった。夢幻でも、妄想だろうが、十分だったのだ。

「いってきます」

ポケットの携帯から、砂嵐に似たノイズが走る。未来が変わった瞬間だった。













杉浦綾乃は走っていた。この場で最も正義に対して無知である彼女もまた、葛藤の迷路の中を突き進む。
心臓が胸を突き破って、飛び出しそうだった。周りの景色から、色が抜け落ちて見えた。周りの音は聞こえない。
匂いも何も感じず、自分の荒い呼吸と心音だけが、鈍く体の中を反響していた。何処を走っているのかも、何故走っているのかもよく判らない。
本当に、これが正しかったのだろうか? その疑問だけが、ぽっかりと空いた胸の中に寂しく転がっている。

「あ゛っ」

足を絡ませ、床にべちゃりと無様に倒れこんだ。ぜえぜえと全身で空気を吸いながら、綾乃は拳を握った。
走る事を止めた瞬間に、初春さんはちゃんと逃げたのだろうか、とか、式波さんは無事だろうか、とか、月並な心配ばかりが頭に浮かんできた。
そうじゃない。綾乃は倒れたままかぶりを振った。
私はそれでいいのかって事、杉浦綾乃。あんたの正義はなんなのって話よ。

「はっ、はアッ……わ、はあッ……わた、し……ハァ!……私、……違う……」

綾乃はゆっくりと立ち上がると、目の前を見た、下に降りる階段だ。これを降りきれば、安全に外へ出ることが出来る。
アスカはそれを望んだのだ。自分の身を呈して、与えてくれたチャンス。無駄にする訳にはいかない。
死になくなければ、降りればいい。初春だってそうしてるはずだ、と綾乃は汗を拭った。
今更戻るだなんて、むざむざ死ににいくようなもの。まだ、当分そちらへ行くつもりはないと、誓ったばかりじゃないか。
だったら、答えは出ているはずだった。彼女を見捨てて生き残る。それだけの、単純明快なお話。

「でも…………私が、見た、い、のは、そんな……未来、じゃ……」

一瞬の葛藤。階段を降りようとした瞬間、その隙をつくように、悪魔は現れた。




「あらあら、かけっこはもうお終い?」




聞こえた声に、慌てて綾乃は振り返った。窓を、月明かりを背に、女が、相馬光子が立っている。
咄嗟に距離を取ろうとするよりも早く、光子の拳が綾乃の無防備な鳩尾を抉った。

「か、ぐ……ぁ、か、はっ……」

堪らず体をくの字に折る綾乃の顔を全力で蹴り飛ばすと、光子はくすりと笑った。
綾乃にとって、それは初めてに近い殺意のある暴力だった。容赦も情けも微塵もないその悪意の塊に、綾乃は床をのたうち回る。
痛い、痛い、痛い!!! 綾乃は胃液を吐きながら思った。呼吸ができない。息を吸えても、吐くことが出来ない。
視界がホワイトアウトして、じんじんと体の内側から、内蔵を刺すような鈍い痛みが迫り上がる。
続いて、網膜の裏側に火花が散った。訳もわからず、地面をバウンドする。
今度は視界が一瞬、ブラックアウトした。畳み掛けるように、灰色の砂嵐が視界を走り抜ける。
顔を殴られたのだと理解するまで、数秒を要した。慌てて顔に手を当てると、鼻から信じられないくらいの血が流れていた。
痛さよりも、先ずは熱さが顔に広がった。続いて僅かに遅れて痛みが襲う。焼けるような激痛と、炙られるような熱だった。
周囲の状況を把握するよりも早く、綾乃は此処からどうにかして逃げることを先ず考えた。敵わない。殺される。そう思った。
鼻から血を無様に垂らしながら、綾乃はなんとか逃げようと階段の方へと転がる。

「うふ、まるで芋虫ね」

光子はそんな綾乃に跨ると、その細い首へと手を回した。首がゆっくりと閉まる感覚を、綾乃は初めて体感する。
顔の奥が膨張するような、喉の奥が熱くなるような、そんな感覚だった。徐々に頭の中をぼうっと、靄がかかってゆく。苦しい。息ができない。

「ば、な…離、ぜッ……!!!!」

それは、綾乃の精一杯の抵抗だった。首を絞める光子の横腹を、思い切り右手で殴る。油断していたのか、光子は悲鳴を上げて簡単に首から手を離した。
その隙を見計らうように、綾乃は全力で体の上の光子を投げ飛ばした。黄色い叫び声と共に、何か転がるような音が耳に入る。




ばたばたばたばた、ごきゃり。




―――嫌な音だった。
びっくりするくらいに呆気無く、彼女達のキャットファイトは雌雄を決してしまう。それも、不運な事故という、あまりにも拍子抜けする形で。
何が転がって、どうなったのか、綾乃には直ぐに想像がついた。その鈍い音が何を砕いた音なのか、想像できないほど綾乃は馬鹿ではなかった。
ふらふらと立ち上がると、綾乃は数回、水っぽく咳をする。息を吸うと、鼻からどばどばと血が溢れてきた。
朧げな視界が次第に晴れていき、綾乃はここで漸く周囲を見渡す。
自分が階段の踊場に立っていることに気付き、そして、その階段の下で相馬光子が頭から血を流して倒れている事を、改めて把握する。
一瞬卒倒しそうになるが、綾乃は手摺に捕まり、なんとか立ったままこの惨状を理解した。

「ち、違うわよ……私じゃない、私のせいじゃ……」

覚束ない足取りで綾乃は階段を降り、光子の元へと駆け寄った。頭から血を流しながらも、ひゅう、と苦しそうに光子は呼吸をしている。

「……まだ、生きてる」

綾乃は自分の無意識の言葉にはっとした。最初に思った事が、助けたい、ではなく、まだ生きている、だった事に、思わずぞっとする。
ざわざわと、何か背後から黒く蠢くものが、近づいて来ていた。それに身を委ねてしまうことがどれほど容易く心地良いのか、綾乃は本能的に理解出来ていた。
綾乃が次に思ったことは、今なら止めを刺せる、だった。生きていたことに胸を撫で下ろす感情など、微塵も持ち合わせていなかった。
自分だって、敵を倒せるのだと。これで正義になれるのだ、と思ったのだ。しかし、そんな彼女の思考を悪と断言することは誰にもできない。
それをアドレナリンとドーパミンの過剰放出に寄る、正常な思考の欠如と結論付けるのはあまりに短絡的で、
寧ろ先刻まで自分を殺そうとしていた相手に対する感情としては至極真っ当な部類であったし、剰え相馬光子は、間接的にアスカの仇であった。
この時点でアスカが無事かどうかなど、綾乃にとっては些細な問題であり、遅かれ早かれまず間違いなくその未来は在るのだ。
綾乃はアスカの死の未来を覚悟していた。相馬光子達を仲間の仇と認識するにはそれだけで十分だった。

「貴女さえ、居なければ」

綾乃の目から、光が消えてゆく。氷のように冷徹に、綾乃は光子を見下した。どくん、と心臓が跳ねる。
ふつふつと憎悪と怒りの感情が、全身に湧いてくる。ぞわりと身の毛がよだつのを、綾乃は冷静に感じた。
全身が黒く、泥色に染まってゆく。それが生まれて始めて持った殺意の感情なのだと理解するまで、時間はさして掛からなかった。
最早膨らみすぎたその感情を抑えることなど、中学生の綾乃には出来ない。
仲間を失った憎しみと虚しさの捌け口に、目の前の死に損ないほど調度良い存在<悪役>は居なかったのだ。
彼女を生かす選択肢など、最初からありはしなかった。だって、正義のヒーローは、いつだって悪役を倒すのだから。

正義なんだ、と、綾乃は自分を納得させるように小さく呟く。
私が正義になるんだ。悪を倒す正義の味方に。私が正義で、わたしが、わたしを、私だけが。私が、やるんだ。皆の仇を取るんだ。


「私だって」


闇の中、少女は足を踏み出した。ふらふらと、誘蛾灯に向かう蝶々の様に、そこへと歩く。
それの、相馬光子の側に立って、少女は自嘲した。心の中で、暗い感情がぐるぐると渦巻いている。
激しい後悔が、肉に牙を剥いていた。少女はふと思う。私は此所に来て何をしただろうか。
ただのうのうと生きてきただけで、あの二人と違って、ちっとも立派じゃない。
正義なんて、持ってすらいなかった。

「正義に、なれる」

式波さんは凄いですよね。誰よりも強くって、勇気もあって、冷静で。
初春さんも凄いですよね。直ぐに作戦を組み立てて、咄嗟の判断も理に適ってて、ちゃんと正義感があって。
本当は、二人は私を見捨てて助かることだって出来たはずなのに。
でも、そうしなかった。ねえ式波さん。私なんかを助けて、それで貴女は満足でしたか。
あの時、私を庇ったから手負いになったんですよね。私がいなければ、助かったんじゃあないの?
初春さんは参謀、式波さんは切り込み隊長。私の時、何で言い淀んだんですか?
本当は、私はマスコットなんかじゃなくて、捨て駒だったんじゃあないですか?
私には何もない。強さも、勇気も、冷静さも、判断力も、正義さえも。
マスコットだなんて、誰にでもできるじゃないですか。
意味を下さい。役割を下さい。価値を下さい。怖いの。一人になりたくないの。私は、そこに居てもいいですか。

ああ、違うの、そうじゃない。はは。何考えてるの私。馬鹿みたい。そんなこと、どうでもいいじゃない。
……でも、もう居ないから。私の知り合い、みんな死んじゃったんだよ。
嫌だよ。怖いよ。一人は嫌だ。死にたくないよ。もう、誰も喪いたくない。私のせいで、誰かを喪いたくない。
私からこれ以上、何も奪わないでよ。

「この人を」

厚い自責の念と負の感情が、ずっしりと覆い被さる。下唇を強く噛み、私は堪らず自分の体を強く抱いた。
顔を腕の中へ埋めてみる。暖かさが呪わしい。渇き切った笑い声が耳に入った気がした。震えていたのは間違なくなく、私の喉。
瞳を開いた。ぴくりと動く目の前の殺人鬼を見て、私は固唾を飲む。喉がごくりと音を上げた。
しんと世界は静まり返って、まるで世界中に自分達しか居なくて、今までの事は全部夢なのではないかと、ふと思った。
でも、夢だなんて、そんなはずはない。これは現実で、私は敵に止めを刺せる。今なら、まだ、間に合う。
皆の仇をとって、私は、漸く皆と同じ、正義になるんだ。


「殺せば」


暗い影の中、少女は目を見開いて、ぽつりと呟く。震える指先を、ゆっくりと彼女の首に回した。
小さな正義<殺人鬼>が、産声を上げた瞬間だった。
















言いましたよね。アスカさん。私が馬鹿なんだって。私の正義なんて、法がないここじゃあ、何の役にも立たないって。
その通りだと思います。私の正義は、借り物でした。私は風紀委員を大樹にして、影に隠れて正義のヒーローごっこをしていただけなのかも知れません。
守られた世界で、役割を演じて安心する事で、変われた気になっていただけだったのかもしれません。
私、弱い自分から、普通の自分から、少しでも変わりたいから風紀委員に入ったんです。

“己の信念に従い、正しいと感じた行動を取るべし”

白井さんが教えてくれた、大切なこと。私も、自分の信じた正義は決して曲げないと、あの時、誓いました。
ぼんやりとしていた“せいぎ”が、霧に隠れた道が、見えた気がしました。でも、それはきっとまやかしでした。
私の道は風紀委員で、私の正義は風紀委員。私の居場所は風紀委員。じゃあ、私から風紀委員を取ったら、一体何が残るのでしょうか。
それを考えるのが、怖かった。居場所も、道も、依代も。全部失うのが、怖かった。
でも、もうこの島には何もない。だから、きっと旅立たなきゃいけないんです。飛び立たなきゃいけないんです。
自分で正しい事を決めて、向かうべき道を切り開いて、自分の居場所を決めなきゃいけないんです。

あの、御免なさい。私、やっぱりそろそろ行かなくちゃ。とろいから進むのはカタツムリみたいに遅いけれど。
道が見えないから、真っ直ぐは飛べないかも知れないけれど。空には星もないから、ゴールも道標も、見えないけれど。
でも嫌なんです。もう、誰も喪いたくない。いつまでも逃げていたくない。
逃げて助かって、やりたいこともできなくて。それで、何があるんですか。誰が救われるんですか。
アスカさんはそれで満足ですか、自分一人だけ死んで、それで本当にいいんですか。

私は、嫌です。

私は弱いし、何が出来るかなんて解らない。アスカさんにも怒られるに違いない。でもきっと、無様に逃げるよりは百倍マシ。
未来なんて、どうなるかなんて知ったことですか。そりゃあ生きなくちゃいけないんでしょうけど、だって、ね。
想いを貫き通す意思があるなら、結果は後からついてくる。そうでしょ、白井さん。佐天さん。御坂さん。
だから、だから。





「―――――――――――――――――だから、私は此処に来たんです」





少女はぼそりと、飴玉を転がす様な声で呟く。
それは余りにもか細く、か弱く、儚く。
しかしそれでいて何よりも鋭く、凛として、一本の槍のように真っ直ぐだった。

少年は、御手洗清志は想定外の乱入者に泡を食った。いや、ただ乱入されただけでは御手洗とてそう激しい動揺は見せないだろう。
問題は、少女の、初春飾利の胸の中にあった。初春の胸には、水兵に囚われていたはずの式波・アスカ・ラングレーが、無傷で抱かれていたのだから。

「な、何だ……? 何をした……?」

水兵は“消え”ていた。アスカに止めを刺したと油断して少し目を離した隙に、綺麗さっぱり、最初からそこには何もなかったかのように、消えていたのだ。

「……な、ん、でよ……」

口から白い泡を吐きながら、アスカが息も絶え絶え、そう零した。
何故、此処に戻ってきたのか、と。呪うような、ホッとしたような。様々な感情に混沌のした視線が、初春に突き刺さる。

「……アン、タ、馬鹿ァ……?」
「はい、馬鹿です!!」

初春ははっきりと言った。アスカは思わず目を丸くする。

「私、馬鹿なんです、ホントに。でも、自分が犠牲になって私達を逃すだなんて、式波さんはもっと馬鹿です!!
 あとでこっぴどく叱ってあげますから、絶対に生きて下さい!!! 自分を犠牲にだなんて、そんな悲しいこと、絶対にもうさせません!!」

微塵も悪びれる様子もないその口調に、アスカは苦しそうに笑う。
水を出し尽くしたスプリンクラーが放水を止め、辺りは静寂に包まれた。アスカはゆっくりと紫色の唇を開く。

「開き直り……って、ワケぇ……? 今更無力なアンタが、何しに、来たのよ……」
「まず、答えを、言いに」
「答え……? 正義になりたいか、ってヤツ……? なによ、やっぱり……正義の、味方に……なりたいの、アンタ……? だから、来たっての……?」

初春は、口をへの字に曲げながらアスカを静かに床へと横たえる。
少しだけ頬に触れると、白くきめ細かな肌は、氷のように冷たかった。

「いいえ。それは違います。だって私は、」
「おいっ、僕を無視するなよ! 何だ、何をしたんだお前ッ?! 能力者か!?」

会話に割ってはいったのは御手洗だった。初春は振り返ると、アスカを庇うように手を広げる。

「……私は、ただ友達を助けに来ただけですよ」
「そんなことを聞いているんじゃあないっ!! 僕の水兵をどうやってッ」
「教える義理はありません」
「馬鹿が……図にのるなよ! どうやってやったか知らないが……そうマグレが都合よく何度も続くと思うな! 丸腰のお前なんかに、何が出来る!」

声を荒らげ、歯を剥き出しにして叫ぶ御手洗へ、初春は頷く。何も出来ないのだと認めるような素振りは、御手洗の神経を余計に逆撫でた。
こめかみに青筋を浮かべる御手洗へ、けれども初春は慄くこともせず口を開く。

「はい。何も出来ません。何も出来ませんよ、私には。誰かがいないと、何も出来ません。今だって、怖くて堪らないんです。
 膝は笑ってますし、歯だってががちがち音をあげて、拳も震えてます。私は、いつだって誰かに、何かに守られてばっかだったから。
 でも、だから」

初春は一息吐くと、胸に手を当てて唾を飲み込む。

「今度は私が、助けたい。そう思っちゃ、駄目ですか。
 何も出来なきゃ、助けたいと思っちゃ、駄目ですか。力がなければ、駄目ですか。正義じゃなきゃ、駄目ですか。
 ううん、きっと、それは違う……違うんです。それより大切な事を思い出したから。
 私には……ただ―――――――――――――みんなが、必要だから」

初春はその手を力強く握った。
震える掌を隠すように、意志の強さを示すように、恐怖に負けてしまわぬように。

「ええ、確かに私は弱いですよ。能力はからっきし。運動だって、下手っぴ。
 精神だって、あのビデオを見てやられちゃうくらい。ちっとも、強くない。誰かの助けがなかったら碌すっぽ戦えません。
 能力者には勝てないし、誰かを倒すため、なんて考えたこともないんです。
 思えば私は最初から終わっていました。だって自分が負ける姿しか、想像できなかったから」

「待て。そんなことよりお前、見たのか。あのビデオを」

御手洗が狐に摘まれた様な表情で呟いた。初春は眉間に皺を寄せながら頷く。

「はい。貴方も、見たのですか」

疑問を投げて、少しだけ、初春は目を閉じる。
あの悍ましい邪悪な映像が、心の奥にある黒い何かを責める様に、網膜の裏にフラッシュバックした。

「……ああ。お前は、何を思った」御手洗が唸る様な低い声で訊く。「少なくとも、今まで通りではいられなかったはずだろ?」

初春は瞼を開く。御手洗は彼女の表情を見て、無意識的に息を飲んだ。現れた双眸があまりに澄んでいたからだ。
二対の宝石は光を失わず、どこまでも真っ直ぐに、この世界を見ていたからだ。

「どうして」
思わず御手洗は、かぶりを振りながら震える声で呟いた。
「おまえ、どうして、そんな、かおが、できるんだ」

「どうして、ですかね。でも、あのビデオは……その、価値観……と言ったらいいのでしょうか」

初春はぽつぽつと、一言一句に納得する様に零す。

「確かに、それはがらっと変わってしまいました。見えていた世界が、まるで違って見えました。
 世界は汚くて、善意なんて嘘っぱち。早く人間は、この星の為にも死ぬべきだと……あんなの見せられたら、きっと誰でもそう思うと思います」

瞬間、カカカ、と渇いた哄笑がフロアの中に谺した。
それは人として発する笑みにしてはあまりにも異質で粘着質な、獣的笑い声。
人並の感情は疾うに失せ、しかしそれでいて無機質ではなく、極限まで生物的。或いは、本能的。そんな魔獣の咆哮にも近い笑いだった。
あるものは、そう。黒よりも暗い底知れぬ狂気だけだ。これはきっと、同族に向けた狂気の笑みなのだ。
初春は半ば反射的に半歩飛び退いた。ざわり、と脳天から爪先に駆け抜ける悪寒。毛穴という毛穴が全て広がるような、得体の知れない気持ち悪さ。
少女が“身の毛もよだつ”という言葉を生まれて初めて体感した瞬間だった。
邪悪の権化のような表情の中心には、溝色をした酷く虚ろな目が、初春を、その奥の黒い感情を睨んでいた。
底が無く吸い込まれそうなその瞳は、全てを見透かされているようで初春は思わず目を逸らす。御手洗はくつくつと肩を震わせていたが、やがて息を深く吸い、溜息を吐いた。
そうして、唾で糸を引く口を開くのだ。

「そうだろ。そうだろうさ。お前、解ってるじゃないか。それは正しい考え方だぜ。お前となら仲間にもなれたかもしれない。
 お前が言うように、人は死ぬべきだ。善人ぶってるだけで、全員中身は酷いもんさ。性善説なんて糞食らえだね。
 自分達が平和な日向で生かされてるから、ついつい錯覚しちまってるだけなんだぜ」

御手洗は一歩一歩初春に近付きながら、その能面のような表情に弧を浮かべ、続ける。

「誰もが人の本質を知らされず脂ぎった餌を貪り食って、平穏を約束された籠に良いように飼われて、
 のほほんと過ごしている……その餌や籠がどうやって出来ているのかすら碌に知らずに、いいや、知ろうとすらせずに!
 温厚無知とはまさにこの事さ。誰しもが全員、罪すら知らずへらへら笑いながら、正義だの平等だの好き勝手ほざいて生きてやがる!
 どれだけ面の皮が厚いんだか見当もつかないね! 奴等は全員、平和ボケした肥え豚共だ! 見ているだけで反吐が出る!」

御手洗は血眼になりながら叫んだ。初春は膝を震わせ、涙を目に浮かべていたが、いいえ、と強い口調で呟く。
引けなかった。引いてはならない戦いだった。

「確かに、そうかもしれません。その気持ちも理解できます。でも、そうじゃない人だっている。
 これは受け売りですけど、貴方が思っているよりも、人間は強いし、優しいんです。
 あのビデオは、汚い部分だけを抜き出して記録した、言わば洗脳道具みたいなものじゃないですか。
 アレに影響されて人を殺すだなんて、作成者の思うがままですよ」

少女は彼の中に、かつての自分を見る。目の前に居るのは、きっと幾つかの未来のうちの一つだった。
瞳を閉じれば、血に染まった自分が浮かび上がる。彼と同じように、人を殺して回る自分の、憐れな姿が。

「ふざけるなよ」(ふざけないで下さい)

目の前の少年の言葉を聞きながら、嗚呼、と初春は喉の奥で唸る。重なったのは、自分の声。
きっと私も、私みたいな人間に説得まがいの事をされたら、同じ科白を吐き捨てるのだろう。
そして、殺すのだろう。泣きながら、笑いながら。

「何が優しいもんか。お前、あのビデオを見たんだろ?」

御手洗が乾いた笑みを浮かべながら、初春へと震える声で問いかけた。初春はそれを真っ直ぐに見据える。
御手洗はウェーブのかかった髪を掻き上げながら溜息を吐いた。まるで冬の曇り空のように重く、冷たい溜息だった。

「……生きたまま錆びた鋏を背に入れられ、腸を引きずりだされる人魚を見たか?
 その隣でグラスワインを飲みながら、快楽に堕ちた表情でステーキを食べるどこぞの王族は?
 拘束された子供の前で、ゆっくりと足から捻り潰される妖獣の親子は見たか?
 血と涙と肉を飛び散らし、断末魔を上げながら助けを求めるその母親の目玉へ、鼻歌交じりで螺子を撃ち込む人間の表情は!?
 皮を剥がれ、痙攣しているところへ煮え滾った酸をかけられている鬼の子は!?
 その様子を下手な踊りだと下品に嗤い、優雅に友人と記念撮影する人間の雌餓鬼は見たか!?
 産まれたての子供を目前で掘削機でジュースにされ、それをチューブで無理矢理飲まされる母親を見たか!?
 その表情を見ながら、全部飲めるか賭けて遊ぶ下賤な人間共を見たか!!?」

御手洗は汗だくになりながら、血走った目をかっと見開いて叫ぶ。唾を撒き散らしながら、牙をむ剥き出しにしながら、両手を前に出しながら。
その形相は人としての何かを捨てた、憎悪の具現だった。

「全部見たなら理解できるはずだ!!! 正義のヒーローはこの世に居ないってな!!!!
 何が強さだ、何が優しさだ!!! 人は笑いながら人を殺せる!!!!
 何の罪もない子供を平気で拷問した挙句見捨てる事も!!
 命乞いする女の皮膚を剥ぎながら強姦する事も!!!
 欠伸をしながらストレス発散に妊婦の腹を蹴り飛ばす事もッ!!!!
 本当は人間なら誰でもできるんだぜ!!!!!
 俺 達 が 、 知 ら な い だ け で な !!!!!!!!!!」

裏返り、掠れた声がデパートの中を反響する。アスカは水っぽく咳き込むと、イカれてるわ、と小さく呟いた。
それでも、初春は引かなかった。全身で呼吸をする鬼を目の前にして、それでも初春は逃げない。
恐怖、それもあったが、初春が先ず抱いた感情は同情や憐憫の類だった。
目の前にいるのは一匹の獣であり、しかしやはり同時に、かつての自分だったからだ。

「……そうですね。私もそうだったので、よく分かります」
「なら、なんでそいつを守るッ!!!? どうして豚共を殺さない!?!?」

御手洗は頭をばりばりと掻きながら、アスカを指差して叫んだ。アスカはぎょっとしたように体をびくりと震わせる。



「誰かを助けたい心に、理由は要りますか」



莫迦か、こいつは。

アスカは肩で息をしながら、その発言に対して真っ先にそう思った。敵も同じように、目を丸くして口をぽかんと開けている。当然だ。
アスカはゆっくりと腰をあげると、壁に背をどかりと預けて、その恥ずかしい台詞を吐いた莫迦女の背を見る。凝視せずとも判るくらいに、小さなその背は震えていた。
お人好しにもほどがある。アスカは咳き込みながらもくつくつと笑う。ビビってるくせに、口上だけは大したものだ。

「私達人間は確かに罪深くて、私も一時は、人殺しの道を歩みました。でも、それはきっと、私が弱かったから」

初春は胸に手を当て、恥ずかしげもなく続ける。
鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面をしていた御手洗は、その言葉にハッとしたように体を震わせ……みるみるうちに、その顔を赤く染めた。

「お前、それは僕も弱いからこうなってるって言いたいのか!?」
「そうです」

侮辱された怒りに叫ぶ御手洗へと、初春は間髪入れず言う。

「人を殺して、私の心は楽にはなりませんでした。友達を殺して、心は晴れませんでした。
 きっと、“そう”じゃなかったんです。得体の知れない罪悪感に支配されて、どうすればいいのか分からなくなって。
 人を殺しても……残ったのは、喪失感と、虚しさだけ。それ以外には何も、なかった。
 私達は全員が誰かを救けることができる、正義のヒーローじゃない。でも、だったら、全員が同じように、悪の魔王じゃない。
 確かに私達が思っているよりも、人間は汚いかもしれない。それは否定しません。ううん、アレを見て、否定なんか出来るわけない。
 でもきっと同じ様に、私達が思っているよりずっとずっと人間は強いし、優しいと思うんです……さっきも、言いましたけど」

初春は息を吸い、前を見る。怒りに震える御手洗とは対照的に、体の震えは何時の間にか止まっていた。

「私達は、きっと弱かった」

初春は力強く言う。
そう、風紀委員に入るより前と、本質的には何も変わってなかった。私は、弱い。

「あんな人間と同じって考えるだけで、自分すら汚らわしくて……あのビデオを、上手く心で受け止めることが出来なかったんです。
 あの女の子も、男の子も、妊婦さんも。目を閉じれば、私を見てきた。お前のせいでこうなったんだって。
 違うと思いたかった。だから自分が正義になって、あの人間とは違うって思い込んで……人の汚い部分を償いたくて、仕方がなかった。
 動かなきゃ、考え続けなきゃ罪の重さに狂ってしまいそうだった。少なくとも、私はそうでした……貴方は、違いますか?」

正義のヒーローは、待ち続けても本当に現れる事はなかった。
どんな時も正義の味方は夢見る子供達の憧れで、大人には見えない存在で。漫画やアニメの中だけの偶像だった。
知るのが怖かっただけだ。認めるのが、嫌だっただけだ。
本当は解っていた。誰もが讃える正義の味方は、ヒーローは……。



「弱さと向き合いましょう。認めてください。私も、貴方も――――――――――――何かを裁く優しい正義の味方には、なれない」



せいぎには、なれない。
アスカは酸素不足にふらつく体と呼吸を落ち着けながら、初春の言葉を腹の中で繰り返す。
正義の味方になりたかったはずの小娘が、そう言った。言い放ちやがったのだ。
「漸く、据えたかぁ」
アスカは小さく零すと、表情だけで嗤った。莫迦も莫迦なりに、答えを見つけてきたのだろう。
さて、とアスカは敵を見やる。譫言のように何かを呟きながらがりがりと腕の皮膚を掻き毟る少年が、焦点を失った目でこちらを睨んでいる。

「違う……違う違う違うッ!! お前なんかに何が分かる! 受け入れてくれる場所も! 友達も! 自分の気持ちを吐ける強さも持ってる、恵まれたお前なんかに!
 お前と僕は違う! 僕には何も無かった!! 居場所も、友達も、心の強さもッ!! 何も、何も!!!
 でも僕には力はあるんだ! 全てを潰す“領域”の力が僕にはある……だから、僕なら出来る!!
 この腐りきった世界を変えられる!! それが一番のお前との違いだ!!! 僕は正しい!!!」

御手洗が腕を振るうと、皮膚に滲んだ血が床にぱたぱたと飛び散った。瞬間、水浸しの床から弾けるように水がねじ上げがり―――彼の異能、水兵<シーマン>が動き出す。

「くくく……お前がどんな手品を使ったか知らないが、もう通用しないぜ!!!
 さっきまで手足も震えて今にも泣きそうだったお前が、何をするつもりだ!!!???」

御手洗がぱちんと指を弾くと、二体の水兵が初春へと突進した。一匹は初春の頭部を狙い、一体はアメーバ状になり初春の足に絡みつくように飛び掛かる。
死角はゼロ。一切の逃げ場の無い、無慈悲な水の抱擁が華奢な少女を襲い―――――――――――――――――――――――そして、何も無かったかのように消え失せた。

まるでアイスピックで突かれた風船が弾けるように、一瞬にして、且つ、完璧に、水兵は“消えた”。
否、消えたのではない。御手洗は血走った目で辺りを舐めるように見て、その状況を漸く理解した。
文字通り、霧散したのだ。
瞬間、旋風がばさばさと辺りに吹き荒れる。湧き上がる水蒸気、はためくスカート、揺れる髪、舞う花びら。
白く濁った水蒸気のカーテン越しに、二人の視線が交差した。

「守る」

一対の掌を前に翳し、初春は呟く。なんだって、と御手洗は震える唇で零した。

「守ると、言ったんです。殺す為じゃなくて、勝つ為じゃなくて、戦う為でもない。
 私は、守る為に此処に来たんです。誰かを守る為に、此処に立っているんです。
 だから私は、止まらない。救ってみせる。守ってみせる。式波さんも、そして、貴方も」

ぴくり、と御手洗の肩が跳ねる。泣き出しそうな表情が一瞬顔に浮かんだが、やがてそれは直ぐに鬼神のそれへと変化する。
少女の言うことは正論で、同時に、図星だった。自分は弱くて、泣き虫で、どうしようもなくて。
誰かに助けて欲しかった。許して欲しかった。認めて欲しかった。愛して欲しかった。手を差し伸べて欲しかった。
でも、それを、その台詞をお前にだけは。

「僕も、だって?」

友達も、勇気も、居場所も、想いも。
全部持ってるお前にだけは、言って欲しくなかったんだ。

「僕を、守る? 救う?」

僕とお前は同じだ、弱くてどうしようもない奴で、同じに、ビデオを見た。でも、お前は僕と違ってそうなれた、そんな目が出来るようになれた。

「ふざけるな……」

惨めじゃないかよ。馬鹿みたいじゃないかよ。餓鬼の駄々みたいじゃないかよ。
僕とお前の差が、友達と、勇気と、居場所と、想いの差みたいに見えるじゃないか。僕にどうしろってんだ。そんなものは僕にはない。だからそうはなれないってのかよ。
お前らはいつもそうだ。優しくこっちに手を伸ばして、僕らは一緒だとか、お前も守るとか、助けるとか、下らないこと言ってきやがる。
違うんだよ。人と人の間は、どうしようもなく深い水で満ちてる。他人と不安や後悔を分かち合って馴れ合って生きていくだなんて、クソ食らえだ。

「ふざけるなよ……」

そうじゃないんだよ。僕は、“そうなりたいけど、そうなりたくない”んだ。羨ましいだけで良かった。指を咥えて見ているだけでよかった。
お前には、きっとそれは分からないんだろうよ。死ぬまでな。


「ふッッッざけるなぁあァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!」


御手洗は大口を開けて泣く様に叫ぶ。 裏返った声は、びりびりと初春とアスカの鼓膜を揺らした。
瞬間、どう、と館内の空気が揺れる。床の水が畝りながらぐるぐると渦巻き、その中から獣の形をした水兵が初春達へと襲いかかった。
初春は、襲いかかる水獣を一体一体右手で触れてゆく。触れられた水兵は、掌との設置部からぶくぶくと泡立ち、派手な爆発音と共に白い煙と化していった。
その正体は果たして“蒸発”であり、それは彼女の持つ超能力『定温保存<サーマルハンド>』に由来する“分子運動操作”であった。

「ふざけてなんか、ないですよ。やっと見つけたんですから。私だけの、現実を!!」

尤も彼女は本来あくまでレベル1の微弱な超能力者で、せいぜいが物体保温程度の能力限界だった。
彼女は本来の能力である分子運動の操作を、速めることも遅くすることも出来ず、“現状の運動を維持”する事しか出来なかったのだ。
それをここまでの短時間で、水分子の動きを活発化させ水を蒸発させるまでのレベル3後半相当能力に向上させることが出来たのは、
元々彼女がレベル5に負けずとも劣らぬ高い演算処理能力を持っていた故でもあったが、むしろ『自分だけの現実<パーソナルリアリティ>』の観測が、極めて苦手だった事に起因する。

『自分だけの現実<パーソナルリアリティ>』は、妄想、或いは信じる力である。

これは初春飾利の持論であり、それは暗にレベル1である自らの信じる力の無さを肯定していなければ、発することの出来ない言葉だった。
初春は自分が弱い人間だと知っていたし、自分の可能性を信じることが出来ないことも知っていたのだ。
それは彼女がそもそも常識からズレた事象、妄想、願掛けの類を嫌う傾向にある、ある種の数学的理論屋の側面を強く持っている為でもあったが、
また、“とある機構を植物に模し様々な角度から想像する”という彼女独自の計算式と技能が、自分だけの現実の分析に通用しなかった為でもある。
初春はそれ故に、理論や常識で片付けることの出来ない自分だけの現実の観測が極めて不得手であった。
やがて彼女は、能力向上を諦めた。自分にはそれよりもよっぽど没頭でき、他の追随を許さない情報処理の技能があり、また、同時にそれがアイデンティティだったうえ、
何より、内部的要因により自身が変わることは不可能だと確信していたからだ。そうでなければ、何かを変えてくれると期待して風紀委員に入るものか。
初春は外部的要因で能力外の部分を変えようと考えていたし、今までの生活においてそれに不都合はなかった。
むしろ、能力を使う機会そのものが無かったのだ。強い能力を持つ仲間、後ろ盾でもある組織、また自分の生命線である情報処理。それを最大限に発揮できるパソコン。それだけあれば十二分だったからだ。

しかし、この島はそれを尽く拒絶した。風紀委員を、パソコンを、仲間を、法を、正義を、夢を、希望を、アイデンティティを。少女から、全てを無残にも取り上げた。
外部的要因を全て失った初春飾利には、最初から、壊れてしまうか、内部的要因により決断と成長をする二択しか残っていなかったのだ。
彼女は一時は壊れてしまったものの、紆余曲折を経て結果的に今、成長と決断を迫られた。
それは彼女にとって想像を絶するストレスでもあったが、同時に自分だけの現実と改めて対峙するチャンスでもあった。
この舞台上では、信じるものが、自分の倫理観と意思以外に殆ど存在しないからだ。

そして、最終的に初春飾利は自分の正義観と、自分が出来る可能性に向き合い、彼女なりの現実へ足を進め、飛び立った。
理屈よりも、分かっている未来よりも、理想と信念と、“今”を優先したのだ。今しかない。式波・アスカ・ラングレーの言葉通りだった。
そうして彼女はがむしゃらに足を動かし、闇を突っ切り、此処へと辿り着く。

目の前に化物が、それに取り込まれたアスカが居たのを見て、初春は全く迷わなかった。
彼女を守る。助け出す。それだけを理由に、限界寸前の足に鞭を打ち、走った。走った。走り抜けた。
水兵に触れた瞬間、初春は不思議と何をどうすればアスカを救い出せるのかを手に取るように把握できた。
助け出すという目的が、助け出す為の手段に転じたのだ。
彼女が持つ救う為の手段はその能力しかなかった。打開策らしいものを何も用意せずに突っ走った事が功を奏した。
自分なりの現実、答えを見つけ出し、彼女を助けられると根拠も無く信じた彼女は、故に自分の可能性、能力をも信じることが出来た。
その瞬間、彼女の能力は持ち前の演算能力を以って、数段階の爆発的進化を遂げる。

初春飾利の能力は、一見熱操作に見えるが、しかしその真髄は、熱ではなく分子運動の操作にある。
沸点と融点の操作だけでもそのポテンシャルは目を見張るものがあるが、もっとごく単純な話、彼女には“液体操作”が可能だった。
これは偶然にも御手洗清志の水兵と能力が合致するが、しかしその操作力には歴然の差があった。何故なら御手洗清志の水兵には、水の操作はできても水の状態の操作まではできないからだ。
即ち、水兵に出来るのはあくまでも水の状態を維持する程度までの分子運動操作。
しかし初春は、水の運動のみならず状態をも操れる。分子運動を停止させて凍らせる事、活発化させて沸騰させる事。
ただ、初春には複雑な操作や遠隔操作が出来なかった、水で人形を作るような真似は出来ないし、水を使って敵を感知したり、離れた場所で生物のように動かす事は出来ないのだ。
いずれにせよ、初春は御手洗の水兵に触れた瞬間、“水分子を操る権利”をその操作力の強さで奪い取る事が出来た。

初撃は、初春とて迷いがあった。水に囚われたアスカを助け出すには、水を蒸発する行為はNGだ。そんな暴挙に出れば、彼女を助け出すどころか火傷では済まない事態になる。
しかし、水分子の流れを操作して、水兵をアスカを中心に外部へ放射状に爆散させる事なら、初春の能力でも可能だった。
故に彼女は、熱運動ではなく、分子そのもの、水流を操作してアスカの奪取を成功させた。

操作力にて、初春飾利の“定温保存”は“水兵”の完全なる上位互換。
故に彼女の両手は、彼にとっての“幻想殺し”足り得る。
初春は、この島最強の能力者を自負する御手洗の、唯一の天敵だったのだ。

「アンタ、馬鹿ァ……?」

襲いかかる水兵を軒並み沸騰させ水蒸気へと気化させる初春の背へ、アスカが呆れたように訊く。

「ええ、馬鹿です! おまけにとろいし、涙もろいし。でも、それが私だった!!」
「開き直っただけで……何にも、変わってないじゃ……ない、のよ」

鼻息を荒くして口を開いた初春の吐いた科白を、アスカは苦しそうに笑った。
いいえ、と初春は応える。辺りには白雲と熱風が立ち込めていた。

「変わりましたよ。あの時の質問にだって、答えられます」

あのときのしつもん? アスカは胸中で繰り返し首を傾げたが、直ぐに独りごちた。きっと、階段で訊いた正義の話だ。

「答えは、No。だって私、正義のヒーローじゃないですから。
 私は私にできることしかできません。間違えることもあるし、助けられる人しか助けられない」
「自分勝手な……理論、垂れてんじゃ、ない……っての」
「ええ。自分勝手なんです。悪いですか?」

初春が、肩で息をするアスカへと振り向く。アスカは思わず息を呑んだ。こんな状況で、こんなにも良い笑顔をする人間を、彼女は初めて見たからだ。

「だって、正義じゃないんですから。私は、“私”。
 正義じゃない。ヒーローじゃない。風紀委員じゃない。奇跡の申し子でも、主人公でもない」

向日葵の様な笑顔をアスカに向けたまま、初春ははっきりと言う。自分が正義では、ないのだと。

「分かったんです。夢は夢で、何処にも存在しなかった。あるのは私の意思だけ。
 私がそうしたいから、そうする。それで良かった。小難しい事なんて何もなかった。それだけで良かった。
 私の正義は、私のエゴ。私が気に入らないから、そうするんです。そう考えたら見返りがなくっても、石を投げられても、罵倒されても仇で返されるのも納得出来た。
 だって世界の為じゃないから。皆の為じゃないから。それでいいんですよね、式波さん。貴女の言う正義って、そういう事ですよね?
 此処に法が無いって言うなら、私が法になります。ねぇ、それだけじゃあ、ダメですか?」
「……もう一回、言葉で聞かせて。この空の下に、正義はあると思う?」

アスカは彼女の疑問に肯定も否定もせず、俯いたまま再びその問いを訊く。初春は少しだけ考えるように指を顎に当て、やがてかぶりを振った。


「いいえ。あったのは、埃をかぶった小さな想いと、それを貫き通す、カビ臭い意思だけです」


「……そう。それがアンタの現実なのね」
「はい。それが、私だけの現実です」

アスカは顔を上げると、苦しそうに笑った。憑き物が取れたような、何かに納得したような、そんな表情だった。

やがて立ちこめる白い水蒸気が晴れ、霞んだ闇の向こう側から、カナリアイエローが、少年が姿を見せる。

「死ぬ覚悟は、出来たか?」
少年は訊いた。
「救われる覚悟は、出来ましたか?」
少女は訊き返す。
「そこを、どけ」
少年はこの世に呪詛を吐くように呟く。対する少女は不敵に、世界に挑戦状を突きつけるように笑った。
ポケットから、未来の変わる音。初春は画面を見ることはしなかった。

「いいえ、残念ですけど―――――――――――――――――――――――――――――――――――」


いつも、守られてばかりだった。いつも、裏方ばかりだった。いつも、足手まといになってばかりだった。
そんな主人公になれなかった最弱の反撃が、今、始まる。


「――――――――――――――――――――――――――――――――ここから先は、一方通行です」


この空の下に、正義は無かった。ヒーローも、居なかった。汗と土と、血に塗れた現実が、全てを墓の下に沈めていった。
だけど、想いは死なない。意思は死なない。錆びて汚れ、それでも鈍く光る魂だけが、そこに真っ直ぐ立っていた。

その結果を彼女たちの探していた本物の正義と呼んで良いのなら、これも、きっと、正義の物語。










【F-5/デパート/一日目 夜】

【式波・アスカ・ラングレー@エヴァンゲリオン新劇場版】
[状態]:左腕に亀裂骨折(処置済み)酸欠(現状戦闘不可) 腹部にダメージ 全身ずぶ濡れ
[装備]:ナイフ数本@現実、青酸カリ付き特殊警棒(青酸カリは残り少量)@バトルロワイアル、使えそうなもの@現地調達
   『天使メール』に関するメモ@GTO、トランシーバー(片方)@現実 、ブローニング・ハイパワー(残弾0、損壊)、スリングショット&小石のつまった袋@テニスの王子様
[道具]:基本支給品一式×4、フレンダのツールナイフとテープ式導火線@とある科学の超電磁砲
風紀委員の救急箱@とある科学の超電磁砲、釘バット@GTO、スタンガン、ゲームセンターのコイン×10@現地調達
基本行動方針:エヴァンゲリオンパイロットとして、どんな手を使っても生還する。
1:現状をどうにかする。
2:スタンスは変わらないけど、救けられた借りは返す。
3:ミツコに襲われているであろうアヤノの安否が気になる

[備考]
※参戦時期は、第7使徒との交戦以降、海洋研究施設に社会見学に行くより以前。
※杉浦綾乃、初春飾利とアドレス交換をしました。

【初春飾利@とある科学の超電磁砲】
[状態]:健康 『定温保存<サーマルハンド>』レベル3 全身ずぶ濡れ
[装備]:交換日記(初春飾利の携帯)@未来日記、交換日記(桑原和真の携帯)@未来日記、小さな核晶@未来日記?、宝の地図@その他、使えそうなもの@現地調達
[道具]:秋瀬或からの書置き@現地調達、吉川ちなつのディパック
基本行動方針:生きて、償う
1:みんなを守る。
2:辛くても、前を向く。
3:白井さんに、会いたい。
[備考]
初春飾利の携帯と桑原和真の携帯を交換日記にし、二つの未来日記の所有者となりました。
そのため自分の予知が携帯に表示されています(桑原和真の携帯は杉浦綾乃が所有しています)。
交換日記のどちらかが破壊されるとどうなるかは後の書き手さんにお任せします。
ロベルト、御手洗、佐野に関する簡単な情報を聞きました。御手洗、佐野に関する簡単な情報を聞きました。
アスカ・ラングレー、杉浦綾乃とアドレス交換をしました。

※ 『定温保存<サーマルハンド>』レベル3:掌で触れたもの限定で、ある程度の温度操作(≒分子運動操作)をすることが出来る。温度設定は事前に演算処理をしておけば瞬間的な発動が可能。
                      効果範囲は極めて狭く、発動座標は左右の掌を起点にすることしか出来ないうえ、対象の体積にも大きく左右される。
                      触れている手を離れると効果は即座に解除され、物理現象を無視して元の温度へ戻る。
                      温度に対する耐性は、能力発動時のみ得る事ができる。
                      温度設定の振り幅や演算処理速度、これが限定的な火事場の馬鹿力なのかは後続書き手にお任せします。


【御手洗清志@幽遊白書】
[状態]:全身打撲(手当済み) 右瞼に切り傷 全身ずぶ濡れ
[装備]:雨合羽@現地調達
[道具]:基本支給品一式、ブーメラン@バトルロワイアル、ラムレーズンのアイス@ゆるゆり、鉄矢20本@とある科学の超電磁砲、水(ポリタンク3個分)@現地調達
基本行動方針:人間を皆殺し。『神の力』はあまり信用していないが、手に入ればその力で人を滅ぼす。
1:獲物を始末する。
2:相馬光子と共に参加者を狩り、相馬光子を守る。そして最後に相馬光子を殺す。
3:ロベルト・ハイドンと佐野清一郎は死亡したので、同盟は破棄。
4:あかいあくま怖い……。
[備考]
※参戦時期は、桑原に会いに行く直前です。
※ロベルトから植木、佐野のことを簡単に聞きました。





















物語というものは、何も綺麗に終わるものばかりではない。
それは正義の英雄譚でも例外ではなく、それに漏れず、この話も綺麗には終わらない。
綺麗なものだけ視界に入れようだなんて、虫が良すぎるのだ。
誰しもが思っている以上に世界は汚くて、本当はあのビデオだって、誰かにそれを伝えようとして作られたのかもしれない。
光の裏に必ず影が出来るように、綺麗な物語の外にあるものは汚い物語だ。
誰も彼もが少なからずそれを見ないように蓋をして、視界に入れないようにしてしまっている。
いつもの道、いつもの空気、いつもの平和。その裏ではゴミ溜めが腐って蛆が湧き出ている事を、知るべきなのに。

「ぁ、ぐ……ぅっ」

閑話休題。正義というものは、一つの形にするのが難しい。式波=アスカ=ラングレーが言ったことは、恐らく、そういう事だった。
法を元にした大多数の正義は、“せいぎ”である。形のない、人間の作り出した規律を守らせるための偶像である。
それは“常識”や“都合”と置き換えてもいいかもしれない。
それは最早、正義とは言えない。リアリストである彼女にとっての正義感――便宜的にここではそう言うが――が出す答えは、即ち、そういう事なのだろう。

「ぉ、……ご、っ……あ゛……」

ただ、どうだろう。存外そういう正義の形を一方的に否定する事は、一概に出来ないのではないだろうか。
“せいぎ”があっての“正義”だと、言えないだろうか。
屁理屈や理想論者だと言われるかもしれない。
それでも、“せいぎ”すら碌に考えた事の無かった人間が、“正義”に辿り着けるかと言われれば、それは酷く難しい問題だ。
足し算を学んでない人間が掛け算を出来ないように、物事にはそれなりの順序というものがある。

「……っ、ぁ゛、お、ねが………ぃ、だ、……」

誰しもが考え付く正義は、大多数の場合“せいぎ”だ。そのせいぎを目の前で否定されては、堪ったものではない。
彼女の正義の根源を知る由は無いが、それでも、“せいぎ”を信じてきた大多数である少女には、彼女の正義感は、大きく捻じ曲がって見えた。
しかし彼女の話が的を射ていたのもまた、事実である。だから、少女は“正義”を掲げざるを得なくなった。
式波=アスカ=ラングレー、初春飾利。本当の正義を探す二人を前に、劣っている自分が嫌だったからだ。
しかし少女は思い出すべきだった。足し算も知らない餓鬼が挑戦したところで、掛け算が上手く解けるわけがないのだと。

「………っ、………ぁ゛、げ…が……ッ」

テレビで見る正義のヒーローは、誰も彼もから感謝される立派な人だ。
しかし誰かが言ったように、やはりヒーローは街を壊すし、多分、人だって知らないうちに殺している。
敵だって、警察に渡さずに滅ぼしているのだ。法と倫理は何処へ行ってしまったのだろうか? いいや、そんなの関係ないのだ。
それが正義のヒーローの条件だからだ。庶民的で常識的なヒーロー像を、誰が求めるというのか。
毎朝、ゴミの分別をチェックして主婦に注意する正義のヒーローに、誰が憧れるだろう。
かと言って、敵の怪獣が、例えば人型をしていたらどうだろう。命乞いをしてきたらどうだろう。
それを殺す事は、果たして罪になるのだろうか。
殺さなければ皆が殺されてしまうとしても、罰を受けなければならないのだろうか。
少女の腕に力が入った。一つ一つ迷いを断ち切る様に、殺す為に、ゆっくりと捻じあげる。

「……………だ……ず……………て……パ……………パ………」

嗚呼、いずれにしても、それは自己満足。誰かではなくて、自分が納得できるか、否かなのだ。
せいぎも正義も、そこにはきっと関係無い。
守る為だ。少女は握る手を万力の様に強く締めながら思った。自分と皆を守る為だ。守る為に戦う事は、正義だ。正義なんだ。
少しだけ痙攣して、白い泡がぶくぶくを手の甲を伝う。
ぐるりと白眼を向いたそいつは、やがてぴたりと時を止めた様に動かなくなった。
呆気無い。人の死とはこうも簡単なものなのか。想いも、願いも、全部そこで終わってしまう。
終わったのだ。一人の女の物語が。回想もなく、一人称視点もない。情けも容赦もありはしない。
願いも想いも意思も命も平等に、全てがそこでぱったりと途切れたように死に尽くし、完結していた。

一分か、十分か。どのくらいの間、握る両手に力を込めていただろう。息を止めて一心不乱に考えていただろう。
はっと思い出した夜に、綾乃はマウントポジションから慌てて立ち上がった。ふらふらと逃げる様に後退り、膝を折る様に倒れこむ。
じんじんと熱を持つ掌と、舌をべろりと出して無残に転がる人型の何かを見る。肩で息をして、そいつを見た。
動かない胸、開いた瞳孔、合わぬ焦点、濡れた下半身、震えぬ口、鬱血した首、だらりと垂れた手足、青白い蝋人形の様な肌。
昼下がりの日曜日、お父さんと一緒にテレビドラマで見た様な、よくある殺人事件のよくある現場。
違うのは、自分が発見者でも探偵でもなく加害者で、被害者にブルーシートがかかっていない事くらい。

「私、正義でいいのよね……?」

正義を貫き、悪を滅ぼす。いつだってそれはヒーローの台詞で、だけど、いつだって崖の上で極悪非道の犯人が言ってきた台詞。
涙を流して、笑いながら、少女は泣いた。これでいい。これが正義だ。何も悪くない。自己防衛だ。生きる為だ。仕方がなかった。
悪を倒したんだ。賞賛される立派な行動じゃないか。きっと、みんなも褒めてくれるよ。
誰も殺さずにみんなで生き残る方法を見つけたい。そんなの無理だって、本当は思ってたよね。
自分だけは殺さないとか、誰かに悪を倒してもらおうとか。そんな卑怯なこと、少しは考えてたよね。
それを自分から動いたんだから、凄いことじゃない。ねぇ、だから、誰か。
だれか。だれでもいいから、私を褒めてよ。

お願いだから……誰か……だれか……。

「……助けて……」

震える唇で、絞るように呟く。
向こう側から、ぱたぱたと足音が聞こえた。来訪者が、彼女の元へと訪れる。

「お前……杉浦綾乃、だな」

嗚呼、でも、遅かった。正義の主人公が薄幸のヒロインを助けに来るには、何もかもが、誰も彼もが、遅過ぎた。
遅過ぎたのだ。



この空の下に、正義は無かった。ヒーローも、居なかった。汗と土と、血に塗れた現実が、全てを墓の下に沈めていった。
だから、正義の空席に座して悪を討つ。血濡れて汚れ、今にも黒く染まりそうな魂だけが、そこに婉曲して立っていた。

月に英雄、星には勇気、熱き血潮に正義の剣。歯向かう者へ、スノードロップの花束を。
戦おう、始めよう。踊ろう、狂おう、歌おう。誰かが死ぬまで、誰かが喪うまで。最期の一人になるまで。
最後に残った者が、正義となるのだ。異を唱えるものは殺してしまえ。
何時の時代もそうだった。正義のヒーローは、戦場で生き残った者だけが、語ることを許されるのだから。

だから、これも、正義の物語。











【F-5/デパート/一日目 夜】

【杉浦綾乃@ゆるゆり】
[状態]:健康(まだ少し濡れている)
[装備]: エンジェルモートの制服@ひぐらしのなく頃、吉川ちなつの携帯電話
[道具]:基本支給品一式、AK-47@現実、図書館の書籍数冊、加地リョウジのスイカ(残り半玉)@エヴァンゲリオン新劇場版、
    ハリセン@ゆるゆり、七森中学の制服(びしょ濡れ)、壊れた携帯電話、使えそうな物@現地調達
基本行動方針:みんなと協力して生きて帰る
1:―――――――――――――――――
[備考]
※植木耕助から能力者バトルについて大まかに教わりました。
※アスカ・ラングレー、初春飾利とアドレス交換しました。

【常盤愛@GTO】
[状態]:右手前腕に打撲 、全身打撲
[装備]:逆ナン日記@未来日記、即席ハルバード(鉈@ひぐらしのなく頃に+現地調達のモップの柄)
[道具]: 基本支給品一式×6(携帯電話は逆ナン日記を除いて3台)、学籍簿@オリジナル、トウガラシ爆弾(残り6個)@GTO、ガムテープ@現地調達、パンツァーファウストIII(0/1)予備カートリッジ×2、 『無差別日記』契約の電話番号が書かれた紙@未来日記、不明支給品0~6、風紀委員の盾@とある科学の超電磁砲、警備ロボット@とある科学の超電磁砲、タバコ×3箱(1本消費)@現地調達、木刀@GTO、赤外線暗視スコープ@テニスの王子様、
ロンギヌスの槍(仮)@ヱヴァンゲリヲン新劇場版 、手ぬぐいの詰まった箱@うえきの法則
基本行動方針:なかったことにせず、更生する
1:状況把握をして、メールの送信者を助ける
2:浦飯に救われてほしい
[備考]
※参戦時期は、21巻時点のどこかです。
※浦飯幽助とアドレスを交換しました

【浦飯幽助@幽遊白書】
[状態]:精神に深い傷、貧血(大)、左頬に傷
[装備]:携帯電話
[道具]:基本支給品一式×3、血まみれのナイフ@現実、不明支給品1~3
基本行動方針: もう、生き返ることを期待しない
1: 状況把握をして、御手洗をぶっ飛ばす
2:常盤愛よりも長生きする。
3::秋瀬と合流する
[備考]
※常盤愛とアドレスを交換しました





【相馬光子@バトル・ロワイアル 死亡】
【残り14人】



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ガーネット 杉浦綾乃
ガーネット 式波・アスカ・ラングレー ストレンジカメレオン
ガーネット 初春飾利 ストレンジカメレオン
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錯綜する思春期のパラベラム(前編) 御手洗清志 ストレンジカメレオン
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最終更新:2021年09月12日 18:00