夕暮れ狸

海龍社没落事件の続きのお話です。


――――――


「はぁ、今日も疲れただ」

 ある日の夕暮れ、いつも通り軍の訓練を終えた佐吉は、大きく伸びをしながらあくびをした。
 佐吉が軍に入隊してから約3年。人より寿命の短い狸にとっては果てしなく長い年月である。佐吉にとって、訓練時間は気の遠くなるような長さであり、今日とて彼の胃袋は、既にキュルキュルと悲鳴を上げていた。

「今日のご飯、何だったべか……」

 訓練後の夕食、彼はそれだけのために毎日の訓練を乗り切っていると言っても過言ではない。夕食に想いを馳せていると、隠している尻尾がふわふわと揺れる心地を覚えたのだった。
そんな所に、初老の男性が声をかける。

「佐吉、今時間あるか?」
「伍長!如何なされましたか」
「そう固くならなくてもいい、自然体で話してくれ」
「ん、わかりましただ」

 伍長と呼ばれたその男は苦々しく笑うと、声を顰めて話し始める。

「八十神千鶴の事は知っているか」
「ヤソガミ?ああ、この前の作戦の」

 思い当たったのは、先日人伝に聞いた『海龍社没落事件』のことであった。
人による人の大量殺戮と拉致監禁。彼は作戦に参加していなかった身ではあるが、神も恐れぬその所業に人間の持つ凶暴性を再確認したところであった。
しかし、野生動物が狩りをするのと同じで軍人も妖怪を狩り捕縛する。そう考えている佐吉にとって、その出来事も同族が対象となっただけで、至って他人事なのであった。

「そいつも可哀想だが、おら達も仕事だで。運が悪かったべなぁ」
「彼女の件だが、我々の部隊で働く事になったそうだ」
「……ん?」

 真顔で告げられた言葉に、佐吉は眉を顰める。

「生きたまま捕縛することに成功したことは聞いただろう?あれから息を吹き返してな」
「待で、ちょいとばかし超展開すぎねだか?」

 まさか家族を友人を、自身の大切な人達を皆殺しにされた人間が、その犯人に仕えるなんてとても考えられない。
もし自分がそんな事を強いられたら。―――狸は旧友の顔を思い浮かべ、小さく身震いした。

「そしたら事ありえねえべ」
「それがな、目を覚ました彼女は全てを忘れていたようだよ。軍の事も、自分の事も思い出せないらしい」
「……記憶喪失、っつー奴か?」
「そういうことになるな。何も知らない彼女を軍で育て、その力を利用したいそうだ」
「あー」

 記憶がないなら軍への恨みもある筈がないし、諸々の話も説明が付く。
それにしても初めて現実で聞いた事柄に、珍しいこともあるものだと自己完結した。

 ……という所で話が終わればよかったのだが。

「理解してくれたなら話は早い。君が彼女の教育係に任命されたそうだよ」
「……んん?」
「城の研究者直々の任命だそうだ。名誉な事だぞ?是非頑張ってくれ」
「伍長待つだ、頭こんがらがってきた。そいつ神子じゃねか?」
「そうだが」
「変な力もってるんだべ?」
「そうだな」
「そうだなじゃねえだ!おら呪われるのだけはごめんだで!」

 顔色を変えて、抗議の声を上げる佐吉。いつだって自分の身が危ぶまれる事は怖くて仕方がないのだ。
伍長はそんな様子の佐吉を見て、やれやれと息を吐いた。

「わかったわかった、今度美味しいあんころ餅の店連れてってやるから」
「なん?」
「繁華街にある、月光茶屋って店なんだけどな。都一の美味しいあんころ餅が食べられるって話題なんだ」

 あんころ餅。柔らかな餅がつやつやとした小豆に包まれたあの菓子は、佐吉が一番好いてやまない甘味である。
それも都一の美味しさ。佐吉の心は揺れていた。危険からは離れたいが、空腹が冷静さを欠く。

「それに、そこのあんこ餅は黄金色に輝いているそうだよ」

天秤が、完全に傾く音がした。

「……仕方ねえの」
「そうか!よろしく頼んだぞ!」

 食べ物の誘惑には勝てなかった化け狸。事の深刻さに気付くのは、もう少し先のお話。




登場キャラクター
  1. 佐吉
  2. 八十神千鶴

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最終更新:2015年07月03日 06:25