それから最終確認も終わりいつでもお客を受け入れられる体制となった
現在午後9時45分、開店時間まであと15分
女子社員と気が利く社員は柵の中で子タブンネの管理とお客様への対応
ざんす男と体格がいい社員は裏方で物品の搬入とクレーム対応役割が分かれた
入場受付とレジ係は専門の店員が他の部門から特別に呼ばれて担当している
「テイツ君、ちょっといいかな」
「ん?何かあったざんすか店長」
「もう既にイベントが目当てのお客様が50人ほど入口に集まっているんだよ
ドドッと入ってくるだろうから、受付が一人じゃあとても間に合わないよ」
「フェ?了解ざんす、それじゃヤマジ君、私たちも受付に入るざんす」
ざんす男と体格のいい社員は整理もそこそこに準備室を出て
レジ係に事情を話しその横に入った
二人が受付の段取りを確認してるうちに開店時間の10時になり
開店を告げる放送とともに客たちがドッと押し寄せた
「えーと、あそこだ!」「うわー!すごいいっぱい!」「ね、ね、早く入ろ!」
男の声女の声、子供の声大人の声
さまざまな声がガヤガヤと混じり合い、多くの足音と共に会場へ近づいてくる
今までに見たことも聞いたこともないほどの大勢の人の群れに、
柵の中の子タブンネたちはブルルと身震いした
「ヤマジ君!お客さんを二列に並ばせるざんす!」
「はい!」
体格がいい社員は机の裏から抜け出し、メガホンを片手にお客さんを待ち構える
ちなみにメガホンは気が利く社員が使いそうだな用意していたものである
「どうか走らずにカウンターの前に二列にお並びくださーい!
タブンネは沢山ございますのでどうか焦らずに順番をお待ち下さーい」
「さあさ、入場はこちらで受け付けてるざんすよ、坊ちゃん兄ちゃんお嬢さん方
駆けず慌てず真っすぐに並んでチョーダイませませ!」
体格のいい社員の指示でバラバラだった客は二列に並び、
先頭の客がさっそく入場受付を始めている
このイベントの一番最初の客は若いカップルであった
「ご入場ありがとうございます。こちらが場内のタブンネに与えるフーズとなります」
「へぇー、何かビスケットみたいだねぇ」「ねね、早く入ってあげてみようよ」
ここでこのイベントの詳細を説明しよう
まず入場希望者が受付で入場料(200円)を払うと紙袋に入った餌が貰え
それを持って場内に入り子タブンネたちにその餌をあげながら一緒に遊んで
気に入った子タブンネがいたらその場で購入が出来るという仕組みだ
入場者に配られる餌は直径10センチ程の煎餅型の餌が10枚
見た目はビスケットだがフルーツに似た匂いと味のタブンネ好みの餌だ
デパート内のポケモンショップでも「ポケビスケ」という商品名で普通に売られている
無くなっても10枚100円で場内の係から追加購入も可能だ
ショップで買えば50枚で300円なので結構ぼったくっている
注意事項もあり、タブンネを傷つける行為、会場以外で購入した餌を与えるなどの行為をした場合
軽微な時は注意で済むが悪質な場合は会場から退場させられてしまう
場内の子タブンネの値段はどれでも1匹2万円。こちらは相場よりもだいぶ安く設定している
さて、場内に入ったカップルだが、
彼氏は入ってみて改めて実感した子タブンネの多さに少々気押され、
彼女の方はどこを見渡しても愛くるしい子タブンネという状況に目を輝かせていた
一方子タブンネ達の方はというと、多くの人間の気配に怯えてしまい
逃げるようにおろおろと歩き回っていたり隅っこに固まって震えていたりと
とてもお客さんをもてなせるようなムードではない
「・・・なんかみんな怖がってないか?」
「うん、でもとりあえず餌をあげてみよーよ」
物は試しと彼女は餌の端をサクッと折り、
近くでこっちを見ていた子タブンネの足もとに投げて落した
「ミッ!?」
何か得体の知れないものが突然自分に向って飛んできたものだから
子タブンネは驚いてぴょんと小さく飛び上がり
そのま落ちた餌に背を向けてとてとてと逃げ出してしまった
「プッwクw」「あーw逃げちった」
餌を食べなくて残念という気持ちはあったが
子タブンネが逃げる時の滑稽な姿にカップルは思わず笑みが零れた
白い尻尾をフリフリと揺らしながら
短い脚をチョコチョコ動かして必死に走る姿はまるでオモチャのようだ
走っているはずなのに人間が歩くより明らかに遅いのも微笑ましい
「ミィー?」
さっきの子タブが逃げてから間もなく、他の子タブンネが餌に興味を持って近づいてきた
怪訝な顔をしながら両手で餌のかけらを拾い上げ
鼻に近付けて匂いを嗅いでからすぐにサクサクと齧り始めた
この煎餅型の餌のかけらは子タブンネにとっては見たこともない物体で
会社の安フーズとも野生下での食物とも似ても似つかぬ外見だったが、
香料のお陰で匂いを嗅いでから餌だと判断するのに時間は要さなかった
チャプチャプと舌を鳴らしながら美味しそうに咀嚼する音は周りの子タブンネの視線を集めた
「ミィ!ミィィィィィィ!!」「ミッミ!」
カップルが「あっ、食べてる」と喜ぶ間もなく
先ほど逃げて行った子タブンネがあの走り方で走って戻ってきた
さっき飛んできたのが食べ物だと気づいて急いで戻ってきたのだ
そして「それは僕のだぞ、返して!」と言わんばかりに
手の中の食べかけの欠片を引っ張って奪い取ろうとしている
もちろん食事中の子タブンネも抵抗し、キーキーと奇声を上げての喧嘩に発展してしまった
「ミキーッ!!ミキーッ!!ビーッ」「ミッミギミィ!キピーッ!!」
「おー、チビなのにけっこう激しくバトるね」
喧嘩の最中に餌は砕けて散り散りになってしまい、
目的を見失って際限なくエスカレートしていくかに思えた
「喧嘩はダ~メっ!ほらほら、ごはんはこーこ」
「ミ!」「ミッ!」
しかし、見かねた彼女が餌を差し出すと子タブンネたちはぴたりと喧嘩を止め
喧嘩相手から手の上の餌へと視線を移す
拾い食いンネは見知らぬ人間を恐れて受け取るのを躊躇ってしまったが
逃げンネは差し出されたそれに迷わず食いついた
「ミフーッ!フーッ!フーッ!」
「おっ、食いつきいいねぇ」
逃げンネは自分の手で受け取ることも忘れて、彼女の手から餌をムシャムシャと食べた
食べる事に集中しすぎてて頭を撫でられても全く気にしないほどだ
実は逃げンネは甘えっ子で好き嫌いが激しい個体であり
先ほど出されたクズ野菜を一かじり程しか食べてなかったのだ
その為今朝からずっと空腹で、これほど食べるのに必死なのである
だが彼女はそんな事露知らず、頭を撫でても平気なのを見てある事を思いついた
「はーい、こっちだよ~」
「ミィミィ、ミーイ!ミ゙ー!!」
食べてる最中の餌を口から離して逃げンネが届かない所に高く上げる彼女
逃げンネはジージーと抗議しながら
取り上げられた餌に手を伸ばしながらぴょんぴょん跳ねて必死に取ろうとしている
餌に注意が集中した隙に、彼女はさっとお尻に手を回して片手で逃げンネを抱き上げてしまった
「ミミミッ!ミッ!」
「わっとと驚かせちゃってごめんねー、次はここでご飯だよ」
抱きあげられた瞬間、逃げンネは驚いてジタバタ暴れたものの
遥か上へと取り上げられたはずの餌が眼前にあるのを見ると
我慢できなくなって抱っこされたまま餌を食べ始めた
最初は高さと人の腕の感触に緊張してこわばっていた逃げンネだったが
徐々に慣れてくるとリラックスして彼女に体重を任せるのだった
「ミィミィミィ~♪」
餌を一枚全部食べ終わったので彼女は逃げンネを芝の上に下ろそうとしたが
逃げンネは彼女の服の胸元をしっかりと掴んで離そうとしない
落ちそうになって抱きなおすと、
胸に顔を埋めながらミィミィと母親に甘えるような声で鳴いている
実は抱っこされてる時に触覚が胸に触れ、
「可愛い」「いい子」などの逃げンネに対する好意の感情が伝わっていたのだ
その好き嫌いの多さ故にあの会社の第二飼育室に入れられ
小便臭い衣装ケースの中で味気ない餌を食べるだけの生活送っていた逃げンネ
愛情には美味しい食べ物よりもずっとずっと飢えている
久方ぶりに出会った自分に好意を向けてくれた者から絶対に離れたくないのだ
「ん?アタシの事気に入ってくれたの…?」
「ひょっとしてママだと勘違いしたんじゃないかな?」
「へぇ~、アタシがタブちゃんのママ…」
『ひょっとしてママだと勘違いしたんじゃないかな?』
この一言が仇となり、後でこの彼氏は逃げンネを2万円で購入する事となる
「フミィ…」
「あ、お前にもエサやんなきゃな」
彼女が逃げンネを抱っこして一緒に遊ぶ中、拾い食いンネはそれを羨ましそうに見ていた
不憫に思った彼氏が餌を一枚突き出して渡そうとしたが
拾い食いンネは引きつった顔で後ずさりして餌から遠ざかってしまう
「ん?手からは怖いか、なら投げてよこすぞ」
「ミィ!」
彼氏は餌を投げて拾い食いンネの足もとに落とすと、素早く拾って食べ始めた
「ミッミ!ミーミ!」「ミィーミィー!」「ミッミミミー!」
拾い食いンネに触発され、人間を怖がって見ているだけだった子タブンネ達も
鳴いたり跳ねたりして「食べ物をちょうだい」とアピールしだした
それに応え、彼氏は餌を割っては投げ、割っては投げと繰り返す
このイベントには彼女にせがまれて半ばイヤイヤながら来た彼氏だったが
自分の投げた餌にあのチョコチョコ走りで群がっていく子タブンネ達を見て
「なかなか面白いな」と不覚にも思ってしまったのであった
場内ではこのカップル以外にも多くのお客たちが子タブンネへの餌やりを楽しんでいる
全ての子タブンネが「ここに来る人間は餌をくれる」と認識するのに、そう時間は掛からなかった
イベント開始から3時間程過ぎ、12時を回る前には場内もお客で一杯になっていた
その人手は場内だけには留まらず、会場を囲う柵の周りもずらりと見物客が取り囲んでいる
この頃になると子タブンネ達も大勢の人の群れに慣れていき
入場者が餌を見せると周りに集まってきてミィミィとねだるようになった
手を振ったりとび跳ねたり、ミィミィと甘え声で鳴く事はもちろん
客のズボンやスカートを掴んで引っ張ったり、足に抱きついたり
踊るように腰をフリフリと振ったり、瞳を潤ませながら上目遣いで見つめたりと
子タブンネたちのアピールは個性豊かで入場者たちを飽きさせない
客たちもそんな子タブンネたちに夢中になって餌を奮発し
生体の購入希望者も予想を遙かに上回る多さであった
子タブンネ達のお陰もあるが、会場に来る見物客が増えたのにはもう一つ理由がある
このイベントの目玉、べビンネの授乳体験ショーの開催時間が間近であるからだ
『ご来店のお客様に連絡いたします
本日、午後1時より、タブンネの赤ちゃんの授乳体験を開催いたします
まるで天使のように愛らしい赤ちゃんタブンネたちを、この機会にぜひともご覧ください』
現在12時45分
この放送が流れた瞬間、場内で接客の仕事をしていた女子社員はブルッと身震いした
緊張しやすい性格だというのにこのイベントの司会進行を任されていたからだ
ざんす男と体格のいい社員もまた放送を聞いて受付の仕事を合間を見つけて抜け出し
ショーの準備をするべくに場内へと入っていった
「うう… とうとうこの時間が来てしまいました…」
「まーまー、いつも通りの接客みたいにやれば大丈夫ざんす
ミナツくんがベビィちゃん取りに行ったみたいざんすから、こっちの用意を済ますざんすよ」
気が利く社員は事前に決めていた段取りの通りに場内を抜け出し
ベビンネを連れてくるべく準備室に戻って来ていた
「ミフ?フフフゥ?」
「よしよし、ちゃんと息してるな
赤ちゃんをママから無理やり引き剝がすんだから、これくらいの準備はしておかないとね」
準備室のチビママンネは手足を結束バンドで縛られ
首には首輪がキツめに巻かれ口にタオルの猿轡を噛ませられていた
ベビンネを会場に移す際に抵抗される事を予想し、寝ている隙に拘束しておいたのである
来場者に叫び声が聞かれてしまう事も危惧し猿轡も噛ませておくという流石の用意周到さだ
ベビンネたちはチビママンネに何が起きてるかよく分かっておらず
寝ていたりキョトンとしていたりベビ同士でじゃれあっていたりとのん気なものだ
その様子を見て気が利く社員は順調にいきそうだとほくそ笑み
用意していたガーゼに白い液体を染み込ませ、一匹でボーッとしていたベビの眼前に差し出した
「チィ?チッ?… チィィ!」
しみ込んだ液体の匂いにべビンネは即座に反応し、
気が利く社員の手にしがみ付いてガーゼをチロチロと舐めはじめた
ガーゼに染み込ませた液体とは練乳を多量に混ぜたミルクだ
甘さと乳臭さが溶け合った野生には無いであろうその魅力的な香りは、
そろそろ空腹になってきたベビには効果抜群
それ以外の事は頭に入らなくなるほどすっかり虜だ
気が利く社員は意識がガーゼに集中してるうちにべビを抱き上げ
用意していた特大の買い物カートにそっと置いた
買い物カートなのだが籠を載せる部分に毛布のクッションを敷き
その上にシーツを掛けてあるベビ運搬用の特別仕様だ
見ようによっては乳母車か小さめのベビーベットにも見える
「チッチッチィ♪」「チッチ♪」「ピィィ!」
気が利く社員は上記と同じ手法で次々とべビンネをカートに載せていく
載せられたベビンネたちは初体験の買い物カートの上で困惑してるだろうと思いきや
皆シーツに顔をくっつけてスンスンと匂いを嗅いでいる
ベビたちの気を紛らわす為にシーツにも数か所練乳ミルクを染み込ませておいているのだ
ベビが抱きあげられる度にチビママンネはフーッ、フーッと荒い息を吐いた
本当は大声で威嚇したいのだが猿轡と首輪で声が出ないのだ
カートの上のベビンネは今のところ4匹
授乳体験ショーは1日2回、計4回行うので今回は19匹のうちの5匹を使う
「ん、あの小っちゃいのにするか…」
どのベビを連れていく目移りしてるうちに
気が利く社員はチビママンネの陰に一際小さいベビがいる事に気づいた
もちろんあの小ベビンネの事である
小さな子供に授乳体験をやらせるには丁度いいと考えた気が利く社員は
他のベビにやったのと同じようにガーゼを近づける
この時、チビママンネは憤怒の表情で睨みつけて威嚇したのだが
全然怖くも何ともなかったので気にも止められる事も無かった
「チィィ…」
「よし、食いついた」
もし、この時小ベビンネが気が利く社員を拒絶したり怖がって泣いたりしたら
気が利く社員は連れて行こうなどとは思わなかっただろう
だが運悪く、この時小ベビンネは目が覚めるか覚めないかの合間で寝ぼけていた
そして匂いに惹かれ、チュウチュウと
本能のままにガーゼに吸いついてしまったのだ
すかさず他の気が利く社員が抱き上げ、カートに入れようとしたその時
「ブフーーッ!!! ブフーーッ!!!フーーーーーー!!!!」
チビママンネが拘束されたまま暴れだしたのだ
コイキングの如くバタバタと跳ねまわり、バンバンと足や頭を床に叩きつけて
その眼は血走り、口の端から泡を噴き、鼻血まで出して
例え怖くないタブンネであろうとも、誰が見ても一目で分かる激昂だった
その激しさにカートの上のベビもベビーサークルのベビ中のも
全てのベビがビクッと驚きピタリと動きを止めた
一瞬の沈黙の後チッチッ、チッチッ、と困惑しだしてオロオロと脅えている
そして怒りを向けられた張本人である気が利く社員はというと
確かに暴れだした瞬間はその豹変ぶりにびっくりはした
…のだがすぐに冷静さを取り戻し、チビママンネの首を踏みつけて鎮圧した
「フッ… フゥゥ… フ…」
「駄目じゃないか、ママが赤ちゃんを怖がらせるような事をしちゃ…」
チビママンネは身をよじらせて抵抗したが、靴底が首から離される事は無く
白目を剥いてビクビクと痙攣しだした段階でやっと解放された
「ふー、…借り物を死なすわけにはいかないな」
そう判断した気が利く社員はチビママンネの首輪のベルトの穴を一つ緩めてやり
泣きそうになってる子タブンネたちには練乳ミルクを染み込ませたガーゼを
買い物カートの真ん中に投げ込んでやる事で事なきを得た
…カートの上、密かに目を覚ましてブルブルと震えている小ベビンネを除いては
その頃、会場では授乳体験ショーの準備が整っていた
司会担当の女子社員はインカムマイクを装着して段取りを確認中
ざんす男と体格のいい社員は周りの子タブンネを除けながら会場の片隅を用意していた柵で囲い
場内の一角に子タブンネたちが入ってこれないスペースを作り上げ
そこに5枚のレジャーシートを敷いた上に大きな座布団を5つ並べた
ずいぶんと簡素であるがこれが授乳体験ショーを行う会場である
「
お楽しみ中の所失礼いたします、
只今授乳体験の赤ちゃんタブンネを運搬中ですので誠に恐縮ですが通り道をお開けください
怯えてしまいますのでこのカートの周りでの大声を出す、覗きこむなどの行為はご遠慮願います」
準備が終わって少しすると気が利く社員がカートを押しながら場内へ戻ってきた
先程のチビママンネへの暴行など微塵も感じさせない涼しげな表情だ
注意したのにも関わらず、
一足早くベビンネを見ようと周りはにお客さんたちがぞろぞろと群がっていく
ベビンネはさぞかし驚いてるだろうと思いきや、
カートが揺れ進んでいるのが楽しくてチィチィと笑って喜んでいるのであった
約一匹を除いては
「チッチャ…」「カワイー」「フワフワ…」「ホシイ…」
見ることができた客たちの声を抑えた静かな歓声の中、
ベビンネ達とお湯に入ったミルクを載せた買い物カートは柵のそばに横付けされた
ざんす男と体格のいい社員はショーを目前に増えた入場希望者に対応するため受付へと戻り
気が利く社員はショーのアシスタントをするためここに残った
ここで授乳体験ショーの簡単な流れを説明しよう
まず会場の中からベビンネにミルクをあげてみたい子供を募集し
希望者が多かった場合にはくじ引きで決める
そして選ばれた子供は座布団に座りながらベビにミルクをあげるという順だ
『お客様にお知らせいたします
只今、午後1時より、1階中央イベント広場におきまして、赤ちゃんタブンネの授乳体験ショーを開催致します
滅多に見られない赤ちゃんタブンネの愛らしい姿を、この機会にぜひともご覧ください』
開始を告げる放送と同時に、二人の社員によって場内の客たちが柵の前に誘導され
客の整理が済むと柵の中の女子社員によって授乳体験ショーの開始が宣言された
最初のショーを見にきたお客様たちへの挨拶は滞りなく終わり
その後に女子社員がカートからベビンネを出し、
お客様たちに見せながら座布団に座らせていくという段取りなのだが
カートの中のベビンネを覗き込んだ瞬間、女子社員はギョッとした
「チィィィィ… チィィィィ…」
不思議そうな顔で自分を見上げるベビンネ達の中に
一匹だけ片隅で丸まって震えている小さなべビがいたのだ
それがあの臆病でママッ子の小さなベビンネであることは女子社員にもすぐに分った
この子が見ず知らずの子供に触られると、その瞬間大泣きする事は想像に難くない…
女子社員の頬に冷や汗が走る
しかし大勢のお客様たちに前で不安な顔を見せる訳にはいかず
無理やり笑顔を作りながら次の段取りに進める
『はい、一匹目はこのベビちゃん!とっても甘えん坊さんなんですよ~』
「チィ?」
手始めに大人しそうなべビンネを籠から抱き上げると、お客様たちからワーキャーカワイーと歓声が上がった
その迫力にビクッと驚いたべビンネだが、
その声に自分に対するポジティブな感情が含まれてるのを次第に理解していき
座布団に座らせると笑って体を揺らしながら両手を振り大喜びするのであった
そのかわいらしい姿に客たちもさらに深く虜になっていく
ちなみに「甘えん坊」というのは無個性だと面白くないというざんす男の提案で無理やりでっち上げた個性である
『では、次のべビちゃんは…
その後小ベビンネ以外の4匹のベビンネの紹介が終わり、座布団に座らせられた
座布団の上のベビンネたちは先程のと同じように客の歓声に喜ぶのと
座布団のふかふかした感触が気に入ってゴロゴロ寝そべってるのとで二通りに分かれた
そして遂に最後のベビ、あの問題の小ベビンネが紹介される順番になった
(だいじょうぶ、だいじょうぶ、怖くない、怖くないよ…)
女子社員はそう念じながら丸まったままの小ベビンネにふわりと優しく手を触れる
その手にプルプルと震えている感触が伝わった
(怖くないよ、お腹すいたよね… おっぱいの時間だよ…)
子べビンネは震えながら起き上がり、恐る恐るといった感じでゆっくりと顔を上げた
何だかんだでお腹は空いていたのである
その顔は未だ溢れ続ける涙でグショグショに毛が濡れて
客に見せるのがはばかられる程に見るも哀れな有様だ
『このベビちゃんはとっても臆病で泣き虫な子なので、少しの間お静かにお願いしますね』
女子社員は優しくそっと小ベビンネを抱き上げ、自分の体に密着させながら座布団へと運ぶ
腕の中の子ベビンネはキュッと目を瞑り、小さな手で女子社員の制服を掴んで横顔を胸に押し当てていた
その優しい心の音だけに集中して見知らぬ音への恐怖から逃れようとしているのだ
実は小ベビンネ女子社員には少しだけではあるが懐いていた
今朝にチビママンネと一緒に洗ってあげたのが要因で、
女子社員はチビママンネの味方だと小ベビンネ思っているのだ
「チィ!… チィッチ!… チヂ!」
女子社員が座布団に下ろそうとすると小ベビンネは嫌がり
離れたくないと服を強く握りしめ、女子社員から離れまいと抵抗した
今の小ベビンネにとっては女子社員だけが唯一の頼りなのである
しかし小さなベビンネの握力などたかが知れたもの
女子社員がちょっと引っ張っただけでツルッと滑って手が離れ
そのまま座布団の上に座らされてしまった
「チッチャーイ…」「スゴイカワイイ…」「ママーカッテー…」「ナカナイデー…」
大勢の客たちのガヤガヤとした声の洪水が無防備となった子ベビンネに四方八方から襲いかかる
その大半は泣きそうになってるのを励ましたり、可愛らしさを誉めたりしてる声なのだが
百以上もの人の声が混ざりあって迫力すら感じさせる騒音と化したそれは
小ベビンネの幼すぎる心に声に込めた感情を感じ取らせる余裕を与えなかった
「チィッ… チィィ…」
小ベビンネは座布団の上でうずくまって泣きだしてしまった
座布団に顔面を埋め、両手で耳を押さえ
まるで周りを取り囲む大勢の人間たちが発する声や存在感から必死に身を守ろうとしている様だ
その口からは絞り出すようにチィチィ、チィチィと悲痛な声を吐き、チビママンネに助けを求めている
姿は見えなくとも、どこか近くにいて絶対に自分を助けてくれると信じ切っているのだ
しかし手足拘束+気絶では今度ばかりは無理そうだ
(マズイ… こいつは選ぶべきじゃなかった…)
この様子を横から見ていた気が利く社員は自分がベビの選択を誤ったことを即座に理解した
しかし、自分の手が必要となるくじ引き抽選は目前に迫っている
ショーを抜け出して準備室に戻り、別のべビンネを連れてくる猶予は既に無かった
『はい、最後の子はちょっとご機嫌斜めだったけどみんな元気なタブンネちゃんですね~
でも大変!、このタブンネたちはお腹がペコペコなのです!
今日は、会場に来てくれた元気な子供たちにミルクをあげるのを手伝ってもらいま~す
それじゃあ、タブンネにミルクをあげてくれるお友達、手をあげてー!』
女子社員の呼びかけに「ハーイ」と大勢の子供たちの元気な声が返ってきた
希望者が予想より遙かに多かった為、くじ引きのくじが足りなくなるなどのトラブルもあったが
どうにかこうにかベビンネにミルクをあげる5人の子供が決定した
小学校高学年の女の子に、やんちゃそうな幼稚園児の男の子
低学年の小太りの男の子に、同じくらいの優しそうな女の子
そして内気そうな幼稚園児の女の子である
『じゃあ、どの子にミルクをあげるか、みんなで決めようね』
子供たちの自己紹介を済ませた後、どのベビンネに授乳させるか決めるという流れになった
べビンネの詳しい特徴を説明すると
第二飼育室に居た離乳期の大きいべビンネが1匹に
座布団の上でチッチと喜んでいるベビと、ボーッと呆けてるベビ、マイペースに座布団の紐で遊んでいるベビ
この3匹はチビママンネとそのお隣さんが産んだベビだ
そしてあの問題の小さなベビンネである
そんなベビたちを前に子供たちがワイワイと自分の担当を決めだした
「おれこのでっけーのがいい!」
「わたしー、これがいい」
「おれこれにするー!」
離乳ベビ、呆けベビと遊びベビの担当はすぐに決まった
それぞれやんちゃ園児、優しそうな園児、小太りが担当することとなった
「えと、えーと、」
「… 私はこれにするね」
残ったのは小ベビンネと喜びベビであるが
内気な子がうーんうーんと悩みながらも小ベビンネをじっと見てるので
高学年の女の子が察して喜びンネの方を選び、
結果的に内気な女の子に小ベビンネが当てがわれることとなった
女子社員は内心、分別がありそうな高学年の女の子に小ベビンネを担当して欲しかったが
当人の優しさが仇となそれは叶わなかった
『えー、それじゃあ、みんなでタブンネちゃんを抱っこしてみましょう!』
いよいよベビンネを触れるとあって子供たちのテンションは上がり、目がキラキラと輝いている
最初に抱っこの仕方を女子社員に教えられるのは、遊びベビを担当した小太りの男の子だ
指示には素直に従って座布団に正座かあぐらで座ったあとベビを膝に乗せ、
転げないように片手で背中を支える
遊びベビは小太りを気に入ったらしく、あぐらの上で笑顔になって両手を降りながら喜んでいた
男の子の体型がタブンネの成獣の
ソレに近いから親しみを感じるのだろう
男の子もそれを見て嬉しそうな顔をしている
抱っこさせた後で感想を聞くのが台本に書いてある流れである
女子社員はインカムからマイクを取り外して男の子に向けた
『タブンネを抱っこしてみて、どんな感じですか?』
『たべる!!!』
『食べちゃだめです!』
予想外過ぎる返答に会場はどっと沸いた
小太りの子供の母親は赤くなった顔を両手で覆いながら恥ずかしがったが
周りにいた子タブンネたちも言葉の意味は分からないがミッミッと釣られて笑っていた
次はやんちゃ園児だが、先程と同じように足の上に乗せて抱っこさせたのだが
抱きかたが雑で離乳ベビもバタバタといまいち落ち着きがない
触覚を引っ張ったりなどイタズラしないように注意した後で感想タイムである
『触ってみてどうですか?、タブンネちゃんあったかいですよね~』
『たべる!!!』
再びお客さん達がどっと沸いた
女子社員なりに変な答えが返ってこないように誘導したつもりだったのだか全くの無駄だった
そして三番目、優しそうな園児と呆けベビである
呆けベビは太ももの上でも大人しく、園児の抱きかたも上手でなにも問題は無いように思えた
これなら心配ないと女子社員は安心してインタビューを始める
『タブンネちゃ『たべないよ!!!』
まさかの不意打ちにまた客たちも大笑いだ
座布団に座って横に並んで客を笑わせるという構図はあの長寿お笑い番組のようである
次は喜びベビと高学年の女の子の組み合わせであるが、
抱っこもそつなくこなしベビも変な事する事もなく
最後のインタビューも無難に終わった
そして最後に残ったのは問題の小ベビンネと引っ込み思案な女の子の組み合わせである
『この子はとっても怖がりな子だから、触るときはそっと静かに触ってください」
抱っこするときはこの子が大好きって心の中で思いながら優しくです』
女子社員の入念な指示に、内気な園児は黙ったままこくりと頷いた
そして座布団の前にしゃがみ、震える小べビンネに手を伸ばす
女子社員はどうか泣かないでと心で祈りながら、園児と小ベビ固唾を飲んで見つめていた
しかしその祈りは通じず、子ベビンネに手が触れた瞬間
「ヂィィーーーーー!!! ビィィーーーー!!!!」
甲高い悲鳴とともにハイハイで園児から逃げ出し、座布団からゴロンと転げ落ちてしまった
360°からの騒音に必死で耐えてた所にいきなり知らない人に触られてパニックになってしまったのだ
頭から落ちてしまった小べビを見て園児は焦り、慌てて抱き上げたのだがそれもいけなかった
「ギギュルゴッブ!ブミギュェェェ!!!」
子べビンネのパニックは更に酷くなり、手の中で激しく暴れ
びっくりした園児はつい手を離してしまい、子べビンネは手から落ちてしまった
女子社員も一瞬焦ったが、落ちたところは座布団の上だったので子ベビンネに怪我はなかった
「ヂーッ! ヂヂーッ!! ヂッヂッ! ヂー!!」
座布団の上の子ベビンネは仰向けのままギュッと目を瞑って顔を逸らしながら
園児に向かって空に両手を突き出し、チーヂーと激しくわめきだした
それまるで園児に向かって「もうひどいことしないで」と懇願しているようだった
「ウッ… ヒグッ…」
内気そうな園児は泣き出してしまった
ミルクをあげるはずだった小べビンネに嫌われてしまった悲しさと、落としてしまった罪悪感からだ
女子社員は咄嗟にインカムを外し、園児の目線の高さにしゃがんで慰めの言葉をかけるが
その悲しみの涙はその程度では止まりそうにない
このイベントを楽しみにしてただろうに、 それがこんな悲しい思いをさせてしまうなんて…
自分がフォローしなきゃいけないというのに、女子社員の目からも涙が零れ落ちそうになったその時
「お姉さん大変だよ!お腹を空かせた赤ちゃんタブンネがもう一匹見つかったんだ」
スピーカーからいきなり男性の声が響く。その声の主は気が利く社員
予備のインカムを装着し、片手で大きいベビンネを抱いている
観客の視線が子どもたちに集中してる隙に代わりのベビンネを取りに準備室へ戻っていたのだ
抱かれているベビンネは小ベビンネよりもだいぶ大きく、その身長は35㎝程だ
ベビだというのに肝が据わったやつで、いきなり群衆の真ん中に連れ出されたというのに怯みもしない
『そうだ、君がミルクをあげてくれないかな? 君は優しそうだからタブンネも安心して飲んでくれるよ』
男性社員は半ば押しつけるような形で代理ベビを園児に差し出す
園児はまた怖がられてしまうんじゃないかと抱くのを躊躇ったが
触ってみても怖がらないのを見て、恐る恐るではあるが両手で受け取った
「チィ~?」
園児に抱っこされた代理ンネは不思議そうにその顔を見つめ
そして頬に小さな手でペタペタと触れた
泣いてるのが気になって、代理ベビなりに慰めようとしているのだ
(よし、やはり選んで正解だった。こいつは大当たりのタブンネだ)
気が利く社員は闇雲に適当なベビを持ってきたわけではない
チビママンネが気絶し、残されたベビたちが泣きじゃくる中、
この代理ベビだけが泣くことなく傍にいた小さなベビを撫でて慰めていたのだ
他の大きいベビの例に洩れずあの地獄の第二飼育室を生き延びてきた強いベビなのだが、
その中でもかなり強靭な精神力と奇跡的な優しさを持っている個体と言える
「えへっ… えへへ…」
内気な園児が笑った、まだ頬に涙の筋は残っているが、とりあえずは大丈夫そうだ
代理べビもにっこりと笑顔になった
涙を止められて嬉しいのと、園児の笑顔に釣られたのとが両方が合わさった笑顔だ
女子社員も観客の大人たちも泣きやんでよかったとほっと胸を撫で下ろした
園児と代理ンネに客の注目が集まってるこの隙を気が利く社員は逃さない
座布団の上の小ベビンネをつまみ上げて手で口を塞ぎながらカートまで運び
シーツの上に載せてからそれを風呂敷のように包み、小ベビンネを客の目から隠してしまった
「チィ、チィ… チィ…」
小ベビンネはシーツの風呂敷に包まれる事によって客の視線から消え、
騒音がいくらか和らいだ事で少しだけ落着きを取り戻していた
しかし恐怖そのものは消えること無く、布の中の暗闇でプルプルと震え続ける
ちなみに気が利く社員は隙間が開くように結んだので窒息の心配はない
『おっと、ここで新たな赤ちゃんタブンネが登場です~。とってもいい子ですね~
あ、泣いちゃった小ちゃなタブンネちゃんは、ちょっと休んでてもらいましょう
それでは!皆さんもタブンネたちもお待ちかねのミルクのお時間です!』
内気な園児と代理ベビも座布団に収まり、二人の社員の手で子供たちに哺乳瓶が配られた
哺乳瓶を目の前にしてベビたちは乳を吸う形に口をすぼめながら膝の上で慌ただしく動く
子供たちもそれを抑えながらも早くあげたいとウズウズしている様子だ
女子社員がミルクのあげかたを説明した後、ようやくその時はやってきた
『それじゃあみんな、タブンネにミルクをあげましょ~』
待ってましたと子供たちが哺乳瓶の吸い口をベビンネの口元に近づけると、
ベビンネ達も同じことを思いながらすぐに吸いついてゴクゴクと飲み始めた
自分の腕の中で一生懸命ミルクを飲むベビンネの姿に、子供たちは皆感動し、うっとりとしている
…約一名を除いては
「おー、すげーのんでる!!」
「チィップ!ヂビ!」
『あーっ!それ取っちゃダメですよぉ!!』
それを見たとき、想定外の事態に女子社員も思わず叫んでしまった
なんと、やんちゃな園児が哺乳瓶の吸い口を外して流し込むように飲ませているのだ
自分やベビが零れたミルクで濡れるのも全く気にせず、子供特有の手加減の無さで
この悪ガキ、膝の上の離乳ベビに夢中すぎて飲ませ方の説明を全く聞いて無かったのである
さぞかいベビも苦しんでるだろうと思いきやそうでもない、
容赦なく流し込まれるミルクに負けじとビールの一気飲みのようにグビグビと飲み続けている
やはり第二飼育室出身のベビは強い
「やったいちばんだ!いくぞたぶんね~!」
「ピギュッピィィ~~」
女子社員は投げ捨てられていた吸い口を拾ってから哺乳瓶を取り上げようとしたが、既に遅かった
中身が少なくなってくるとやんちゃ園児は哺乳瓶の角度を上げさらにミルクの勢いを強めた
これには流石の離乳ベビも限界で、瓶の中のミルクが全て無くなったその瞬間…
「ヂブルッブ…ブギェェェェ~~!!!」
『きゃあああああああああ!!!!』
離乳ベビの口からミルクが噴水のように噴き出し、目の前にいた女子社員に直撃してしまう
顔からスカートまでビショビショのミルクまみれでひどい有様だ
離乳ベビの方はというとあまりダメージは無かったようで
少しハァハァと息を荒げた後は特に何事もなくいつもの様子に戻った
むしろ離乳ベビ本タブの気持ちとしてはミルク飲んだはずなのに空腹なままな事の方が問題である
それを察したのか、トラブルの張本人であるやんちゃ園児の第一声は…
「おかわり!」「チィ!」
『ダメです!!』
最初の授乳体験ショーは、お客様の大爆笑のうちに幕が閉じられた
一回目の授乳体験ショーが終わった後、現場は渾沌とした状況に陥っていた
ざんす男と気が利く社員は内気な園児とその両親にペコペコと謝り
その横で女子社員がミルク臭いままでやんちゃ園児の母親に謝られ
やんちゃ園児は父親に怒られながらも離乳ンネを買ってと駄々をこね
内気な園児も両親の陰に隠れながらも代理ベビを抱いたまま離さないでいた
ちなみにベビンネの売値は25000円と子タブンネよりもだいぶ高い
「やだいやだい!チーチーをうちにつれてかえるんだぃ!」「チッチィィ!」
「ダメに決まってるだろうが!ほら、離しなさい!」
父親によって無理やり引きはがされる離乳ンネとやんちゃ園児
やんちゃ園児が泣いたのはもちろんのこと、
何故か離乳ンネも別れを惜しむかのようにチーッ、チーッっと泣き出した
ひどい事されたとはいえ久しぶりに抱っこされた事で懐いてしまったらしい
「ねぇ、ねぇ、いーでしょ、クリスマスいらないから、ちゃんとおせわするから、おねがい」
極度の引っ込み思案で、欲しい物もやりたい事もなかなか自分から言い出さなかった内気な園児
それが時折詰まりながらも次から次と言葉を吐き、代理ベビを飼いたいと懸命におねだりをしている
タブンネを買うつもりは毛頭無かったが、今までに無い必死なお願いに心が揺らぐ両親
その揺らぎを狙ったかのように放たれたざんす男の鶴の一声が止めとなった、
「まあ~お詫びと言っては何ざんすが、お嬢さんも頑張ってくれた事ざんし
ここはいっちょ18000円にマケちゃうざんす!」
その後、内気な園児はモンスターボールを大事そうに胸に抱きながら両親と一緒にデパートを後にした
急な18000円の出費は少々サイフが痛かったものの、娘の満面の笑みに両親も嬉しそうだ
一方、社員たちは授乳ショーの後始末の最中である
女子社員は着替えに行ったので対格のいい社員が加わり
ベビたちを買い物かごに入れて邪魔にならない所に置いてから
噴き出したミルクを拭き取り、スピーカーを隅に寄せ、
座布団とレジャーシートも汚れがないか確認してから箱に入れて隅へ
「準備中ざんすので、ベビィちゃんの展示販売はもう少々お待ちくださいざんす~」
残る4匹のベビはショーに使った柵内で放し飼いにされ展示販売される
サラになった柵内に寝床代りの四つ折りにした毛布を置き、柵の格子に給水器を設置すると
あっという間にベビンネの展示スペースの完成だ
「チィチ?」「チッチ!」「チィチィ… チィチィ…」「チィ~♪」
広くなった柵内に放された4匹のベビンネたち
遅いミニ四駆のように柵の内周に沿ってハイハイする遊びベビ
チビママンネが恋しくなって不安そうな表情な呆けベビ
ミルクの汚れの跡をペロペロ舐める離乳ベビ
何かが面白いらしくペチペチと手を叩きながら笑う喜びベビ
ワヤワヤと騒がしい環境だがベビたちは変わらずにマイペースだ
『只今より、ベビータブンネの展示販売を開始いたします
残り4匹と数が限られておりますのでご希望の方はお早めにお申し付けください』
気が利く社員が展示販売を始めるとメガホンで告知すると、すぐに柵の周りに人だかりができた
どのお客さんもベビンネの可愛らしさに夢中といった様子だ
玩具のようにハイハイし続ける遊びベビを子どもたちは面白がり
潤んだ目で見つめてくる呆けベビに女性たちは母性本能をくすぐられ
柵の格子に捕まり立ちしながらチィチィとおねだりする離乳ベビにはいくつもの餌が差し出され
喜びベビも多くの笑顔を向けられて興奮し、体を揺らしながら大喜びだ
大人気の4匹ベビだが、社員たちには最後に残された問題がある
ショーの邪魔をしてくれたあの臆病な小さいベビンネをどうするかだ
今はシーツの包みの中で静かにしているが、布越しに少しでも手が触れるとビービーと泣き喚くのであった
女子社員も着替えて戻り、4人で小ベビンネをどうするべきかを話し合った
「ケージにでも隔離して、注意書きを付けた上で若干値引きをして販売しましょう」
「待って下さい!このままあのちびちゃんをここに置いておくんですか!?
一旦お母さんタブンネの所に返してあげないと可哀そうです!」
「まぁまぁチカちゃん、仕入れ値が一万円近い商品をいつまでも裏にしまっおく事はできないざんすよ
会場に置いておけば物好きな客が買ってくれるかもしれないざんし、
それにマーマさんの傍で落ち着くのを待ってたら在庫のままで終わってしまうざんすよ」
「じゃあ、じゃあ、お母さんタブンネをここに連れてきて一緒に居させてあげましょう
そうすればおちびちゃんだって…」
「売る時どうするんだい? 赤ん坊を母親から引き剥がすような真似、お客さんにさせられないよ」
気が利く社員のこの発言で、女子社員は言葉に詰まり口を噤んでしまった
その眼前でどうやって売るのが一番いいかを議題に話し合う男性社員たち
話の中で小ベビンネの心情を省みられる事は全くと言っていいほど無かった
無理にでも展示して販売する方向で話は決まりそうだったが、
女子社員は他の社員たちの話が頭に入ってこない
憤りと罪悪感が混ざったもやもやで胸が詰まるような感覚に苦しめられていた
「わざわざケージを用意しなくても、今日のところはこの買い物カゴに入れておけばいいんじゃないかな?」
「あー、いい考えかもざんす。お客さんからも見えやすいざんしね
お漏らし対策にペットシートでも入れておけば十分ざんしょ」
「水も置いておかないと、哺乳瓶に満タンにして横にして置いておけば自分で飲むでしょう
あと保温も必要です。カイロを一つ入れておきましょう」
話し合いながらの作業で完成した買い物カゴケージ、とても無骨で殺風景な作りである
気が利く社員はカートの上のシーツの風呂敷を解き
目を丸くして驚く小ベビンネを鳴かれる間もなく掴んで素早く買い物かごの中に移した
「チッ…? チチィ… チィ!」
移された小ベビンネは籠の中を周回するようにペタペタと這いまわった
震えながら小さな手を懸命に前に出し、涙まで流しながら
チビママンネを必死に探し回っているのだが、それに気がつく者は誰もおらず
「環境が急に変わって戸惑ってるんだな」程度にしか思われていなかった
「それじゃ、子ベビンネの管理はチカさんに任せるざんす。
まぁ~管理といっても、接客の合間に様子を見るくらいで十分ざんすよ」
「チカさんには少し慣れてるみたいだしその方があのチビにとってもいいと思うんだ」
「へぇっ… は、はい」
「じゃあ俺は注意書きを作ってきます」
とつぜん名前を出されて反射的に返事をしてしまった女子社員
言われずとも世話は自分でする覚悟だったのだからこれは都合がいい
「それじゃみんな、仕事に戻るざんすよ~」
ざんす男は受付へ、体格のいい社員は小ベビンネの注意書きのポップを作りに事務室へ
気が利く社員と女子社員はフーズやタブンネ購入券が入った鞄を下げ、接客のため会場内に残った
「すみません、タブンネを買いたいのですが」
「餌くださーい」
「このタブンネ欲しいんですけど」
女子社員はすぐにでも小べビンネを慰めてやりたかったが、忙しさがそれを許さなかった
入場者はどんどん増えていき、それに伴いタブンネや追加餌の購入希望者も増える
矢継ぎ早にやってくる客の対応に追われ、とても小ベビンネに構ってやれる余裕はなかった
「チィッグ… チィッグ! チィー!」
30分程接客し続け、ようやく合間ができて買い物籠に目をやると、
小ベビンネは網目の隙間から小さな手を必死に伸ばしていた
頬を網目にギュッと押し付け、体を震わしながら力いっぱいに
その伸ばす手の先にあるのは、チビママンネのいる準備室の扉
母親の声を雑踏の中から聞き分け、悲痛にそれを求めて絶対に届かない手を懸命に伸ばしている…
小ベビンネの極端なママっ子ぶりを知っていた女子社員には一目でそれが分かった
その悲壮な様に同情する暇もなく、べビンネを抱いた客が女子社員の元へやってきた
「すいません、この赤ちゃんタブンネが欲しいのですけれど」
「あ、はい、それではこちらのカードをタブンネちゃんと一緒に場外のレジ係にお渡しください
そこでお会計が済んだ後お好きな種類のモンスターボールにお入れ致します」
腕の中のベビンネは嬉しそうに笑っているが、時折チラチラと準備室の方を気にしている
この笑いながら売れていくべビンネも、いつかは母タブンネを恋しがって泣くのだろう
仕事だから仕方ないと自分を無理やり納得させていたが、なんと残酷な事をしているのだろうか…
丁寧に接客をしながらも、女子社員は引き離された親子の切なさを想い、密に涙を飲んだ
「フーフ、フーフ、フ?」
所変わって準備室の中、意識を取り戻したチビママンネは部屋の外に自分の子供たちの声を聞いていた
笑い声、空腹を訴える声、寂しがる声、そして、切実に自分を求めるか細い声
それがあの一番自分の手が必要な可愛い小ベビンネであることはすぐに判った
悲しみ、不安、寂しさ、恐怖、餓え… 様々な苦痛が入り混じった悲痛極まるわが子の声
そんなものを聞いて黙っていられるチビママンネではない
「ム、ムギィィィ!グッ!ギィィ!ガァァ!!」
何としてでもその声の元へ向かうべく立ち上がれぬままバタバタと足掻く
拘束を力任せに引きちぎろうとして手首と足首には血が滲み
限界まで涎が染み込んだ猿轡を噛み締めて臭い滴をポタポタと床に落とす
執念の鬼と化したチビママンネの姿に周りのベビンネたちは怖がり震え上がった
しかしその努力も虚しく拘束が破れる気配がないまま体力だけが消耗していき、
やがて息を切らし、暴れるのを止めてフゥフゥと深く呼吸をする
その時、チビママンネは別の大変な事に気がついた
笑っているべビの声がここからどんどん遠ざかっていく事に
その瞬間、あれだけ滾っていた血の気がスーッと引いていく
「フミ…? フミィ… フミ、フミ、フィィ…」
「行かないで、ママのところに帰ってきて、」と口の端から必死に声を吹き出して懇願するも
その愛しい声はどんどん遠く小さくなっていく
そして立ち止まる事もないままタブンネの聴覚すら届かなくなる所まで遠く離れ
ベビンネの声は完全に聞こえなくなってしまった
「フ… フ、フ、フミィィ…」
ベビの声が途切れた瞬間、チビママンネの目からぶわっと涙が溢れる
全身に悪寒が走り海老のように体を丸め、震えながら自分の無力さを痛感した
連れて行かれたベビはチビママンネの実子なのである
痛みに耐えながらタマゴを産み、雨の日も風の日も休むことなく大切に温め、初めて孵した8匹のわが子
未だ帰らぬ大好きなパパンネとの愛の結晶、
誰も欠かす事無く自分の手で大切に育て上げ、
立派に成長した姿をいつか帰ってくるパパンネに見せてせてあげなきゃいけなかったのに…
チビママンネはベビと夫に心の中で何度も何度も詫びた
「ヂッ… ヂグ…」「ビッ、ビッ… ビィィ・・」「ヂビィィィィ!ビャァァァァ!」
「ミグッ… ヒグッ… グィィ…」
悲しみが伝染したかのように、部屋のベビたちが一斉に愚図りだす
しかし、悲しみに沈んだ今のチビママンネにベビをあやす気力は既に無く
泣き声のオーケストラが準備室内に響いた
その後2時間が過ぎ、部屋から連れ出されたべビたちの声は次々と遠ざかって消えていき
最後に残った小ベビンネの声も段々と聞こえなくなってくる
しかしそれは他のベビのように遠ざかっていくからではなく
弱って声を出せなくなってきているのと、小ベビの周りにある何かに遮られているからだ
度重なるお別れにチビママンネは憔悴し切り、顔から表情を無くし死体のようにぐったりとしている
「チィチ… チィチ…」
そんなチビママンネに一匹のベビンネが弱弱しく這い寄り、
何かを催促するように背中をくいくいと両手で押し始めた
その下半身は軟便にまみれ、ハイハイの跡を緑褐色に汚している
「フ…?」
「チ?チィ♪」
その感触に振り返ったチビママンネが見たもの。それはベビンネの笑顔だった
死んだように動かなかったチビママンネが自分に振り向いてくれたのが嬉しかったのだろう
頬にカピカピの涙が乾いた跡を残し、下半身が排泄物で赤くかぶれかけていても
その笑顔は何一つ穢れの無い、安堵と愛に満ちた満面の笑みであった
「フィッフィ…」
それが目に入った瞬間、チビママンネの瞳から涙が溢れた
悲しみに負けてベビたちを放置してしまった後悔と
この無力な自分でもこの子たちは頼ってくれてる、自分はまだ母親の資格があるんだという感動の涙だ
ずっとお尻を汚したままで痒かったろうに、辛かったろうに…
その笑顔に報いる為、チビママンネはズリズリとお腹を床に擦りつけながら這い出し、行動を開始した
手足の拘束も猿轡も、わが子を奪われた悲しみでさえも今のチビママンネを止めることはできない
「フィッフィッフィ~!」
「チィチ!チィチ!」「チッチッチ~♪」「チッチィッチッチ~」
その後のチビママンネは鬼気迫る勢いででベビの世話に向かった
排泄物で汚れたベビたちを自分の顔や腕をこすりつけて次々と奇麗にし、
息を詰まらせながらの決死の子守歌で泣いてるべビをあやし
眠るベビがいたら血流が止まりかけて痺れる両手で必死に掴み、汚れていない場所へ移動させる
汚物が染み込んだペットシートの上を体重を乗せて這いまわったため、
奇麗になっていくベビたちとは対照的にチビママンネの身体は無残に汚れていく
そうして1時間ほどの苦闘の結果、ベビたちはすっかり清潔なピンク色を取り戻し…
「さて、次はどの子を連れていくかな」
「フィッ!?」
今現在午後4時前、本日2回目の授乳ショーへの出品に何とか間に合ったのであった。
「フィッ、フ、フィィィ~ン!」
「うわっ、汚っ!こっちくんな!」
チビママンネは気が利く社員にずりずりと這い寄り、ベビを連れてかないでと懇願するが
気が利く社員はその汚さにたじろいで思わず身を引いてしまう
そしてさっさと奇麗どころのベビをカゴに回収し、逃げるように準備室から出て行く
二度までも子を奪われた母の悲痛な叫びは、猿轡とドアと雑踏にかき消されて誰にも聞こえる事はなかった
2回目の授乳体験ショーはベビたちがややご機嫌斜めだったものの
大したトラブルもなく順調に終わった
小ベビンネはカゴに入れられてからずっと放置されていた
世話係の筈の女子社員は接客やトラブルの対応に追われて会場中を右から左へと忙しく歩き回り
気にしてはいたのだが小ベビンネに目を向ける余裕がなかったのだ
そして、イベント終了の時間も間際の午後6時手前の事である
「ねぇねぇ、何か持ってるよ?怖がりなタブンネだって」「へぇ~、でも見た感じそうでも無くない?」
「ミッミィ~♪」
客がまばらになったにも関わらず、今日一日の疲れからボーッとしてた女子社員
その耳へ不意に客の会話が流れ込んできた
話の内容に何か違和感を感じて声の方に目を移してみると、
女性二人組の客とその足元で餌をねだる1匹の子タブンネが
その子タブンネは両手で薄いプラスチックの板のようなもの…
デパートで使っているポップを両手で大事そうに持っている
会話の内容からして、小ベビンネの籠に付いていたポップだというのは容易に分かった
恐らくイタズラで取ってきてしまったのだろうということも
「ミッミィッ!ミッミッミッ!ミィ~ン!」
「それは大事なものだから返してください~
…あっ、すいません、イタズラで取っちゃったみたいなんです」
「あらら、大変ですね~」
ポップを取り返そうと女子社員が引っ張ると子タブンネも引っ張り返して抵抗した
何が琴線に触れたのかは分らないがけっこう気に入っていたのである
もちろん子タブンネの握力で引っ張り合いに勝てる筈もなく、ポップはあっさりと手から離れてしまう
「フ、フ、フミィィ~ン!」
「よしよし、おやつあげるからご機嫌直してね」
「あっ、お心遣いありがとうございます」
せっかく気に入ってた玩具を取り上げられ、子タブンネは泣きだしてしまう
それを憐れみ、二人組のうちの一人が子タブンネに頭を撫でながら餌をあげて慰めた
女子社員はお礼もそこそこにポップを戻すために小ベビンネのカゴへと早足で戻ったのだが
そこに待っていたのは目を疑う光景だった
「え、うそ、これって…」
小ベビンネがいるはずの買い物かごの中にに見えたのは、山盛りのゴミ
餌の袋や餌の破片、買い物袋や空のペットボトルまで大量に捨てられていた
上からも横からも外から小ベビンネの姿は見えない、ゴミの底に埋まっているのだ
「うわわわわわ、ごめんなさい、ごめんなさい・・・!」
女子社員はゴミをかき分けて小ベビンネを探した
お客様が見ているというのも憚らず涙を流し、無我夢中で謝りながら
ゴミの底、空き袋の中に残ってたフーズの粉が溜まった場所で小ベビンネは見つかった
全身の毛皮は使用後のほこり取りの如く粉まみれ、顔は涙や鼻水に粉が付着して見るも無残なグチョグチョに
ただ、悲惨な姿になってはいるが幸いにも怪我はしていない
なぜこんな事になったのかというと
買い物かごケージのあまりにも質素すぎる作りに、
小ベビが小さい上に怖がって隅っこであまり動かなかったので客からよく見えなかったのと
注意書きのポップを子タブンネに取られてしまったという要因が運悪く重なり
そこに誰かが気まぐれで餌の欠片を放り込んだのが切っ掛けで
客たちは小ベビンネのケージをゴミ入れと勘違いしてしまったのである
「チィ… チィ…」
「かわいそー」「なんでごみ箱から?」「だれか捨てたの?」
野次馬と化した客たちが見守る中、ゴミの中から抱きあげられた小ベビンネ
瞼に粉がびっしりと付着し、開けられなくなった両目からタラタラと涙を流し続ける
その涙は粉が目に沁みたからだけではない
悲惨な姿の小ベビンネを抱いて指で丁寧に粉を取り除きながら、
女子社員は様子を見に行けなかったことを深く後悔した
『店内のお客様にお伝えします。
只今を持ちまして本日開催のイベント「タブンネと遊ぼうMiMiパラダイス」終了とさせて頂きます
誠に恐縮ですが、会場内のお客様は、速やかに会場内からご退場くださいますようお願い申し上げます」
小ベビンネのに着いた粉を取り終わらぬうちにイベント終了の時刻となった
未だ半泣きで粉を取り続ける女子社員の所へに気が利く社員が駆けつける
「チカちゃん、終わりの時間だ。その子は一旦置いといてお客様を出してあげないと」
「は、はい!」
小ベビンネをどこかに置いて仕事に移らねばならなくなった女子社員だが
買い物籠はゴミで一杯のままで片付けなければ戻せない
仕方がないのでゴミの上に持ってたハンカチを敷いてその上に小ベビンネを置いて客の誘導へ向かう
「チッチ… チッチ…」
女子社員に抱かれていた時にはほとんど動かなかった小ベビンネだが
ハンカチの上に置かれてから少しすると弱々しくもぞもぞと動き出した
音がゴミに遮られる事が無くなってチビママンネの声がよく聞こえるようになったからだ
粉に塞がれた目もまだ見えるようにはなっておらず、(小ベビにとっては)過酷な環境で心も体も弱りきっている
それでも母に会いたい一心で小虫にも等しい力を振り絞り、声がする方向へとゆっくりと這っていく
そしてそのままハンカチから外れ、誰にも知られる事なくゴミの中へと落下してしまった
「え?あれ?いない?!」
誘導を終えて戻ってきた女子社員は小ベビがいない事に驚き焦ったが
ゴミの中に手を突っ込んで手探りで探すとすぐに見つかった
再び助け上げられた哀れな小べビは女子社員の腕の中でチィーチィーとか細く鳴き続ける
聞いているだけで胸が締め付けられるような切ない鳴き声で
それが母親を呼ぶ鳴き方だということを女子社員は心に沁みて分かった
まぶたにこびりついた粉に塞がれているが、きっと涙も流しているのだろう
いてもたっても居られず、小ベビンネを抱きながらざんす男の所へ駆ける
「お願いします… 早くお母さんの所へ帰してあげないと、この子は…」
「まぁ~、そんな泣かなくてもいいざんすよ。…ふむ、確かにけっこう弱ってきてるざんすねぇ。
じゃあチカちゃんはこのベビィちゃんをマーマさんに返してあげて、
それからチビちゃんたちの回収に合流するざんすよ」
女子社員の目に涙を浮かべながらの懇願、それはあまりにもあっさりと聞き入れられた
そのやり取りを横から聞いていた気が利く社員が準備室に戻ろうとする女子社員を呼び止めた
「ちょっと手間だけど、母タブンネの方もかなり汚れちゃってたから一緒に洗ってあげて
子タブンネの回収作業は僕たちだけで進めておくから」
「え? お母さんタブンネもですか?」
女子社員はなぜチビママンネも洗ってあげなければいけないほど汚れてるのだろうかと疑問に思ったが
これといって納得がいく答えが出ないまま準備室ののドアを開ける
その時目に飛び込んできたのは、「かなり汚れちゃってた」という軽い言葉からは想像できるはずもない惨状だった
「なに… これ…」
目の前にある汚れきった使用済みのモップの塊のようなもの
それがチビママンネだと女子社員は最初見たとき理解できなかった
その塊は塞がれた口の端からフゥ、フゥ、と苦しそうに息をしながら
泣くベビンネのウンチがついた尻に自分の頬を擦りつけていた
よく見ると両手足は結束バンドで縛られ、そこから血が滲み出ている
何でこんな事になっているのか、誰が縛ったのか、いろいろな疑問が女子社員の頭の中を回ったが
「早く助けてあげないと」という思いが先立ち、小べビンネを近くにあった座布団に置いてチビママンネの側へ駆け寄る
ポケットからハサミを取り出して手足の拘束を切り、いろいろな液が染み込んで最悪に汚いタオルの猿轡も外した
女子社員が助けてあげた瞬間、チビママンネの曇りかけていた瞳からぶわっと涙が溢れた
「ンミーッ!ンミーッ!ンミィィーッ」
「痛い、痛い、痛い!やめてーっ!」
拘束から解放された瞬間、チビママンネは女子社員を両手でバシバシと叩きだした
「赤ちゃんが連れ去られる時近くにいたはずなのに、何で助けてくれなかったの?」
ただその思いからくる悲しみと怒りからの攻撃であった
だが、涙を流しながらのそれは怨敵に対する怒りの反撃というよりかは
小さな子供が駄々をこねて母親を叩いてしまっているという様相に近い
「痛いよ、やめて… やめてよぉ…」
だが、弱い方とはいえ成体のポケモンに本気で叩かれればかなり痛い
叩かれた箇所は赤くなり、手についていた血や汚物は制服や髪を容赦なく汚していく
女子社員は野放図に振り回される腕がお腹に当たってうずくまってしまい
動けぬまま両手で顔を守りながら頑張って耐えるが、絶え間なく続く痛みに涙を流してしまう
「ミィ!ミ?」
誰かがこちらに向かって走ってくる音にチビママンネが気づいた瞬間
その眼前にあるのは黒い革靴のつま先だった
それは何の迷いも遠慮もなく顔面の中心に真っ直ぐに叩き込まれ、鼻先にめり込んでいく
「ミッビフィィ!!!?」
「いたい、いた …え?」
あまりにも突然のキックにチビママンネは為す術もなく吹っ飛び、転がって壁に激突した
この黒い革靴の主は気が利く社員
子タブンネを入れるケージを取りに来たらこの場面に出くわしたというわけだ
「フィッ!ビィッ!ギィッ!ミッ!ミッ!ミフィーー!!!」
「ヂィィィィィィ!!ヂィィィィィィ!!」
チビママンネが身を捩らせて悶絶し、傍に居たベビンネが号泣していても攻撃を緩める事はなく
腹に、胸に、顔に、手足に、ガンガンと踏みつけるような蹴りを入れていく
「もうやめてください!!!」
突然女子社員が両者の間に割って入り、体を覆うようにチビママンネに抱きついて蹴りから庇う
チビママンネは全身が糞尿で汚れきっているが、そんな事を気にはしていられなかった
いきなりの事に気が利く社員は驚き、ピタリと蹴りを止める
「この子はずっと縛られてて、赤ちゃんを取られて・・・
痛くて辛くて、悲しんでただけなんです、なにも悪くないんです、
だから、だから…」
「わかったよ… ごめん、チカさん」
怖くて、痛くて、可哀そうで、混乱して訳がわからなくなってる頭から
チビママンネを庇う言葉を必死に絞り出す女子社員
その言葉も詰まって出てこなくなり、ウッウッと嗚咽して泣き出してしまう
助けてくれた感謝よりも、目の前でポケモンに躊躇いなく暴力を振るう気が利く社員への恐ろしさが勝っていた
ここまで泣かれたとあっては、気が利く社員も足をひっこめるしかない
「ミィ… ミ」
抱きつかれたチビママンネは触れた触覚から女子社員の心を感じ取っていた
慈愛と自分たちに対する罪悪感に満ちた、優しくて暖かいけど悲しい心
なぜ、どうして、自分はこんなに優しい人を泣くまで叩いてしまったのか…
蹴られた痛み以上に、チビママンネの心は罪悪感で重く苦しくなった
「そうだ、赤ちゃんを返してあげないと…」
女子社員はゆっくり立ち上がり、座布団に置いた小ベビンネへとふらふらと歩いていく
その姿は到る所に茶色い汚れが移り、顔に叩かれた痕が残る見るに堪えぬ有様だ
近付くと小ベビンネはチィーチィーと母を呼ぶ声で鳴き始めた
先ほどよりも心なしか鳴き声に力がある。
眼は見えていなくても、母親が近くにいるのが分かるのだ
「ミッ!ミィミ… ミィミ」
「ヂィィィィィィ!!ヂィィィィィィ!!」
「あれ、この赤ちゃんは放っとくのかい?」
べビのけたたましい鳴き声の中でも小べビンネの微かな鳴き声が聞き取れたのだろう
チビママンネはおぼつかない足取りで小ベビを抱く女子社員へとよろよろと歩み寄ってきた
気が利く社員は泣いたまま放置されるベビが気になって一言入れたが
その突っ込みはチビママンネの耳をスルッと通り抜けて行く
「おちびちゃん、ほら、お母さんだよ…」
「チッ!チィィ… ヂィィ…」
「ミィ、ミィ…」
チビママンネと5時間ぶりに再会した小ベビンネ、その胸の中に顔を埋めて泣いた
数時間ぶりに触れた母の毛皮は糞が混じった小便でぐっしょり濡れ、悪臭を放っている
だがそんな事は今の小ベビンネには些細なことだ
間近に聞こえる鼓動の音が与えてくれる「母と一緒にいる」という安らぎ
ただそれだけが今の小ベビンネが求める全てなのだ
チビママンネは優しく鳴いて慰めながら、その小さな頭を愛おしそうにいつまでも優しく撫で続ける
「さあ、次はお風呂の時間ですよ。そこの泣いてる赤ちゃんも一緒に入りましょう」
「僕はケージを持って戻るよ、それじゃまた後で」
折りたたんだケージを何段にも載せた台車を押しながら気が利く社員は出て行き
その後女子社員は特大のタライにお湯を張り、タブンネたちを洗い始めた
女子社員がタライの外からチビママンネを洗ってやり、
タライの中でチビママンネがベビンネ達を洗うという構図だ
もちろんベビがおぼれないよう女子社員が気をつける必要があるが
二匹のべビは呑気なもので、小さくない方は泡まみれのままチビママンネにじゃれついて
小ベビンネは眼に付いた粉が洗い流されて母親の顔が見えるようになり、太ももの上でチィチィと喜んでいる
「ミッミッミ、ミィ」
「ふふ、私のはいいですよ」
女子社員の服の汚れが付いた個所を泡が付いた手でごしごし擦るチビママンネ
自分たちが奇麗になったのに女子社員だけ汚いままじゃ申し訳ないと思ったのだ
その後、タライのお湯を2度も取り換える長風呂とドライヤーの温風によって
チビママンネとベビたちは奇麗な姿を取り戻した
弱っていた小ベビンネもチビママンネに抱きつきながら「チィチ、チィチ♪」と笑っていた
女子社員は汚れた上着を脱いだ後、ベビたちがお腹を空かしてるのを察してミルクの準備を始めた
コポコポと哺乳瓶を湯煎している機械の周りに、部屋のベビ達が集まりだした
長時間ミルクが飲めずにお腹を空かしていたのだ
「チィィ」「チッチ!チッチ!」
「こらこら、熱いから触っちゃダメです」
今の準備室は痛みも苦しみも、汚さも悲しみもない平和そのものの光景だ、
つい先ほどまでべビンネ達が泣き叫び、糞まみれのタブンネがのたうち回っていたのが嘘だったかのように
小さな親子の苦難の時は、今ここに一旦の終わりを迎えたのだ
全てのベビにミルクを与え終わったその後、準備室に受付をやっていた女性社員が入ってきた
「チカちゃ~ん、着替え持ってきたよ~。ミナツ君たちがが早くタブンネの回収に参加してほしいってさ」
「は、はい!着替えたらすぐ行くと伝えてください」
数分で着替えて会場内に戻ると、男性社員三人は子タブンネ達を回収するのに四苦八苦していた
「ヒィ~ッ!チビちゃんたち逃げないでざんすー!」
一匹ずつ捕まえては出入り口を上にして置いた大きなケージに上から入れていくのだが
子タブンネが四方八方に逃げ回ってなかなか簡単ではない
逃げる子タブンネたちを追いかけ回す様がまるで
鬼ごっこのように見え
それを面白がった買い物客達が柵の外を取り囲んで見物していた
「オレの方が泣きたくなってきたよ… あーこら暴れるな!」
「ミィッ、ミィッ、ミィ~ン! ヂビィィィィィィ!!」
体格がいい社員が特に苦戦していて
その大きな体と低い声を子タブンネ達に怖がられて近づくのもままならないのだ
幸い子タブンネの走る速度は遅いので追いかければ捕まえることは容易だが
捕まえたタブンネはまるで肉食ポケモンに捕まったかの如く泣き叫んで暴れ
それを見た買い物客の子供たちからタブンネを苛めるなとヤジが飛ぶのだった
「ビャァアアア!ビィ!」
「よし、これでこの檻は満員か」
気が利く社員は手際がよく、次から次へと子タブンネを捕まえては素早く檻の中へ入れていく
逃げる方向を読んで先回りしたり、大きな音で驚かして動きを止めるなどの小技も駆使し
その効率はざんす男と体格のいい社員の2倍近い
しかし、その速さと引き換えに子タブンネの扱いが少々乱暴で、
急所である耳を掴んだり檻の中に投げ落とすように放り込んだりと作業の度に悲鳴は絶えない
そのため彼もまたポケモン想いの子供たちのヤジを受けるのだった
「遅れてすいません!すぐそっちに入ります!」
「おほ、来てくれたざんすね、1檻に10匹ずつ入れてって欲しいざんすよ
後で数えるから、数を間違わずにきっちり10匹いれていくざんす」
指示を受けた後、早速子タブンネを捕まえようとした女子社員だが
男性社員たちに追いかけまわされていた子タブンネたちはすっかり怯えてしまっていて
女子社員すら怖がって逃げ出すようになっていた
子タブンネを気遣ってやさしく捕まえようとしていた女子社員だったが
そんな力が入らない挙動では一匹も捕まえられない
「怖くないですよー。ミィーミィーミィー…」
「ミ?」「ミィー!」「ミッミッミ!」「ミッピ!」
そこで女子社員は戦法を変え、自分はしゃがんだまま動かずに
チビママンネの鳴き真似をして子タブの方から来てくれるのを待つ作戦に出た
女子社員の綺麗な声質も味方してその目論見は上手くいき
怖がっていた子タブンネたちもよちよちと女子社員の下へ集まってきた
仲間たちが怖い男に捕まっていく恐怖の中、誰かに助けてもらいたかったのである
「ミッミ、ミィ~♪」
「はいはい、この中でゆっくり休んでてくださいです」
集まってきた子タブンネ一匹ずつ抱き上げるように捕まえて優しく檻の中へ入れていく女子社員
その様子はまるで母親に抱っこされているようで、羨ましく見えたのか
自分も抱っこしてとピョンピョンと飛び跳ねながら催促する子タブも何匹かいた
そのタブンネの保育園のような光景に野次馬たちの口角も緩む
その後子タブンネの回収は滞りなく終了したのだが、その後にひとつ問題が起きた
子タブンネの数が売れた頭数を差し引いても1匹足りないのだ
檻のどれかに一匹多く入れてはいないか?
社員たちは動き回るピンクとクリーム色の極彩色に目をチカチカさせながら数えなおしたが
檻の中の子タブンネの数に間違いは無かった
「もしかしてして万引き?」
「それならまだ明らめがつくざんしょ
ほかの売り場に逃げ出して忘れたころに腐乱死体なんて事があったら大変ざんす!」
「…! とにかく探しましょう!」
慌てて探し始めた社員たちだったが、消えた子タブンネは意外なほどあっさりと見つかった
イベント会場の片隅、授乳体験ショーで使う様々機材が置かれている場所
そこに置いてある重ねられた座布団の隙間で発見された
かなり怖がりな子タブらしく、自分が見つかった事を認識した途端ガタガタと震えだした
「ふぇー、かなり怯えてるみたいざんすね。ここはチカちゃんに任せるざんす」
「はい、やってみます …ほーら、怖くないですよ~ ミィーミィーミィー…」
「ピィィ!!」
女子社員はそっと手を差し伸べて、子タブンネの方から触れてくるの誘おうとしたが
この臆病な子タブンネはそれすら怖がり、悲鳴を上げて目を背けてしまう
さっきは有効だったチビママンネの鳴き真似もまるで効果が見受けられない
「うう、ぜんぜん近寄ってくれないです…」
「だったら力ずくで行きましょう。僕が座布団を剥がすから、ヤマジくんが捕まえて」
「おう、わかったぜ」
女子社員は止めなければと思ったがこの二人の動作は素早く
制止の声が喉から出る前にサッと座布団を持ち上げられ、
それから寸分の間もなく子タブンネは体格のいい社員に抱えあげられてしまう
その身長は50cm強。イベントで売られてる子タブンネの中でもかなり大きい方だ
「ミギュルビッピ!!ブヂィィィィ!!!」
「結構チカラ強ええぞ! なんだこいつ!?」
腕の中で恐慌し、激しく暴れる子タブンネ。その力は他の子タブンネとは一線を画していた
しかし体格のいい社員も力自慢、どんなに暴れても腕の中からは逃すことはない
口の端から泡を吹き、涙も鼻水も尿も垂れ流し、狂った声で絶叫し、シビルドンの如く激しく体をくねらせ…
3分近くもの狂ったような大暴れの後、臆病な子タブンネはやっと大人しくなった
うつろな目で舌をだらんと出しながら、ハァーハァーと過呼吸気味に苦しそうに大きく息をしている
「しかし… あの赤ん坊だけじゃなく大きい方にもこんなのが居るとはなぁ…
ある程度の個体差は仕方がないとはいえ、限度というものがあるよ」
「それにしてもちょっと度を超えた臆病さざんす。タブンネの群れのいじめられっ子かなんかざんすかね?」
その異様な様に社員と野次馬たちは心の病気だの知的障碍者だの出まかせのような論を口々に語り合った
しかし、ここにいる人々の誰もがその正体に気づくことは出来ないだろう
この臆病物がその勇猛さからほかの子タブンネたちから尊敬され、大人タブンネたちがその将来を期待した
「勇者」と呼ばれていた子タブンネであることに
だが元勇者の肩書など人間たちには関係なく
問題はこの怖がりぶりでは他の子タブンネに混ぜて売ることもできないということだ
このままでは客が餌をやることすらままならないだろう
「この際業者さんに返品できないか問い合わせてみては?」
「いやー、それが仕入れる時に返品、交換は無しという契約をしてしまったざんすよ
急な話だったとはいえ面目ないざんす」
「そうだったんですか、…だったら後で電話して対処法を聞いてみます」
男性社員たちが扱いを決めあぐねている中、女子社員にはある妙案が思い付いた
「準備室のお母さんタブンネに預けてみてはどうでしょうか
あの怖がりな小さいタブンネだってお母さんが近くにいると安らいでますし・・・」
「ふむ、いい考えざんすね。あのマーマさんは自分の子でないベビィちゃんにも優しかったざんすから」
こうしてチビママンネに預けられる事が決まり、体格がいい社員は勇者ンネを抱えたまま準備室へ
突然入ってきた大きな男にチビママンネは少し驚き、咄嗟に腕で覆って抱いていた小ベビンネを庇った
「おっ、子守り頑張ってるな。大変なところ悪いけどこいつも世話してくれよなー」
「ミー?」
「ミ… ミ… ミ…」
ベビを守る体制のままのチビママンネの眼前に、勇者ンネがそっと置かれた
体格のいい社員の手から離れてもなお、がたがたと脅え続ける勇者ンネ
床に突っ伏したまま「チィチィ、チィチィ」と震えた声で鳴き続ける
チビママンネは慰めてあげようと優しく声をかけたが、何の変化も反応も見られもない
「ミィー…?」
「うーん、こりゃ駄目かなぁ…」
「チィチ!、チィ!」
体格がいい社員とチビママンネが困って首をかしげていると
一匹の大きいベビンネが勇者ンネへの所へよちよちと歩いてきた
このべビは勇者ンネと同じ群れのベビンネで、顔見知りでもある
そして勇者ンネの頭の前に座り込み、嬉しそうに頭をペチペチと叩く
幼すぎる故に様子がおかしいのもわからず、純粋に再開を喜んでいるのだ
「チィチ、ミィ…?」
「チッチ!」
勇者ンネは顔を上げ、涙で霞む瞳に見知っているベビンネが映る
その瞬間、目の前が真っ白になり、冷気とも電流とも思える何かが頭の中を駆け巡った
「ゴ゙ギュルボッググゥィェエ!!ギュルルルルイギギギギギ!!」
「チチィッ!?」
勇者ンネはまるで狂ったブレイクダンスのように滅茶苦茶に暴れまわった
ピンク色の怪物がベビンネを喰い殺す光景が
フラッシュバックしパニックを起こしたのだ
血のあぶくを吹きながらのベビの断末魔も、肉が骨から剥がされ噛み千切られる音も
骨が見えるまで食いちぎられたベビの顔も、血まみれの口から吐き出される血生臭い吐息も
すべてがはっきりとした幻覚となり、目の前で起こってるかの様に感じられていた
狂乱ぶりに驚き、べビンネは高速でハイハイしてチビママンネの所へ逃げ
小ベビンネは訳も分からず泣き叫んだ
「な、なんだ?こいつ赤ん坊がキライなのか??」
「ミーッミー? ミー?!」
余りに突拍子もない事態にチビママンネも体格がいい社員も訳がわからないでいる
べビに危険が及ぶかもしれないので、チビママンネは小べビンネを離れた所に置いてから
どうにかして宥めようとしたが
(子タブンネにしては)力が強いので抱っこして抑えることができず
それどころか闇雲に振り回された手足が何度も顔面に当たってかなり痛い目を見た
「あっ、大丈夫か? うーむ、こいつでダメなら俺があやしも上手くいくはずがないし…
…そうだ、あれを使おう」
体格がいい社員が目をつけたのは、部屋の片隅に逆さに置かれていた消化用と書かれた大きなバケツ
早速持ち上げてフッフと溜まっていた吹き飛ばし、暴れる勇者ンネの近くに寄って狙いを定める
そして疲れて動きが鈍った隙を突き、一気に上から被せてしまう
「ガキュイィィィブギッバ!!ギュビグィィーー!!」
暗闇のバケツの中、勇者ンネはさらに恐怖し一層激しく暴れ
ガンゴンとバケツに体を打ち付ける音が部屋中に響く
その激しく耳障りな音をベビンネ達は顔を引きつらせて怖がった
体格のいい社員が体重をかけバケツを押さえ続けると、やがてその音は止んだ
「ふぅ… やっと静かになったか。でも大人のタブンネに預けてもだめとなると
一体どうすりゃいいんだろうな…」
体格がいい社員は芝生の点検と清掃など他の仕事もあったので
勇者ンネをバケツの中に残したまま準備室を出て行ってしまう
次にをどうするかはとりあえず後回しにする腹づもりなのだ
「ミィミ…」
泣きやんだ後もベビ達は怖がってバケツに近づこうともしなかったが
チビママンネはどうしてもバケツの中の勇者ンネを放っておく気にはなれなかった
体格がいい社員には何も聞こえなかっただろうが
「チィチィ、チィチィ」と今にも消えそうなか細い声で必死に鳴き続けているのだから
この鳴き方は子供が母親を求める時の鳴き方。それも幼いベビンネの鳴き方である
こんな大きい子がこんな鳴き方をするのは異常だ
それにこの声の奥には、尋常じゃないほど深い恐怖の感情が聞き取れた
「ミィミ、ミィー」
チビママンネはどうすればいいか少し考えた後、優しく上から覆いかぶさるようにバケツを抱きしめた
本能による偶然か、それはタマゴを温める時の体勢と似ている
「チィチ…? チィ…?」
暗闇のバケツの中に、トクントクンとチビママンネの心臓の鼓動が響く
人間にはただの心音にしか聞こえないだろうが、勇者ンネはその音に不思議な安らぎを覚えていた
まるで産まれる前のタマゴの中、優しい母親に暖められている時のように
その命の音は、恐怖で壊れかけていた勇者ンネの心に少しずつ平穏を取り戻させていく
「ミィー♪ ミミミーミミミー♪ ミミミー♪」
「チ… ミ…?」
鼓動に続き、チビママンネの子守唄がバケツの中に優しく響く
その優しい歌声を聴いてるうちに、勇者ンネの瞳から涙が流れてくる
恐怖や悲しみからの涙ではない、だがとても熱くて切ない涙だ
やがて胸が熱くなり、息も苦しくなってくる
「この優しいタブンネに会いたい」
だんだんとその欲求が心の中で抑えられなくなっていく
「ミミィ!ミィ!ミィーッ!!」
「ミッミッ!」
その欲求は頂点に達し、勇者ンネは何が何でも出ようとバケツをガタガタと揺らす
心の中で愛が恐怖に打ち勝った瞬間である
チビママンネはその心を察し、バケツを倒そうと試みる
自分の背丈ほどもある巨大なバケツで苦戦はしたが何とか横倒しに出来て、中の勇者ンネが露になった
滅茶苦茶に暴れたせいで毛並みはボサボサ、顔は涙でくしゃくしゃで酷い見た目である
「ミ、ミ、ミ… ミビィィィィイイイ!!ヂィィィィイイイ!!ビュワァァァッエ、グミィィーー!!!」
「ミーミ、ミーミ」
勇者ンネはチビママンネの胸に飛び込みミンミンと泣いた
背丈の差が35cm程度しかなく、傍から見ると親子というよりかはまるで姉弟である
生まれた年月だって半年ほどしか離れていない
それでもチビママンネの心は子供を慰める母親のそれで
勇者ンネはママに甘えるベビと同じだった
その後、勇者ンネは30分近くも泣き続けた
捕食者への恐怖、救えなかったベビへの罪悪感、弱い自分への絶望…
心に積もった暗いもの全てが涙となって溢れ出し、チビママンネの胸へと吸い込まれていく
そんな勇者ンネをチビママンネは全てを許し、いつまでも優しく頭を撫で続けるのだった
それからまた時は流れ、仕事がひと段落ついた女子社員が様子を見にきた
体格がいい社員がチビママンネでも駄目でしょうがないからバケツに閉じ込めてきたというので
心配で居ても立ってもいられなかったのだ
「ミーミーミィ…」
「あれ、その子はさっきの子…」
部屋に入った女子社員が最初に見たものは、チビママンネの周りでベビンネに混ざって眠る勇者ンネの姿だった
その様子からは先ほどの狂気は全く感じられない、とても安らかな表情で寝息を立てている
「ふふ、大丈夫じゃないですか。ヤマジさんは大きいのにせっかちさんです」
安心して軽口を叩きながら、女子社員は再び仕事へと戻っていった
最終更新:2017年08月20日 20:20