「ちっ、キリがねえな」
群れ寄る妖鬼を切り払いながら、
芹沢鴨は毒づく。
妖へと戻った玉梓と剣客達の闘いは続いているが、戦闘力だけで言えば玉梓では一流の剣客に対抗しようがない。
仏が万能といってもその属性は智と慈に偏り戦神的側面は強くないし、成仏前の玉梓も武よりは謀と美で人を惑わす妖女であった。
故に一流の剣客達と対峙して玉梓に出来るのは呪力を妖物に変えて彼等を襲わせる程度の事。
剣客達がその気になれば、一気に玉梓の元に斬り込んで決着を付けてしまうのも難事ではなかろう。
彼等がそうせずにいる最大の原因は、玉梓と因縁を持っている
犬塚信乃が闘いを躊躇している事。
「何故だ、玉梓!お前は確かに成仏した筈……」
妄執から解放された筈の玉梓が悟りを捨て再び妖として現れた事を、信乃は容易には受け入れられなかった。
加えて、玉梓の側も持てる力を十全に出し切ってはいないように見え、剣士達はしばし様子を見ていたのだ。
だが、弱いとはいえ斬っても斬っても生まれ続ける妖怪達の相手を延々とさせられて、芹沢の忍耐はあっさりと尽きる。
「下がれ、雑魚共が!」
怒号と共に芹沢が渾身の気迫を放つと、急ごしらえの妖怪達はひとたまりもなく消し飛ぶ。
そして、妖女を護る存在がなくなったのを好機と見、剣士達の一人、
千葉さな子が玉梓に近付く。
この時、さな子が一気に殺到して居合でも放っていれば、玉梓は呆気なく滅したであろう。
だが、信乃の心を慮ったさな子は、玉梓に斬り付けるのではなく、生かしたまま抑え込む事を狙った。
剣で斬り込めば玉梓に対応の暇を与えず斃せていただろうが、生け捕りにしようとした分だけ接敵が遅れ、敵に時間を与える事になる。
さな子も死角から飛び掛かる事で隙を補おうとしたのだが、それは玉梓が「成仏した」との信乃の言葉をあまりに軽視した策。
仏というものは居ながらにして十万億土を隈なく照らし三千世界全てを見渡して粒子一つの動きに到るまで把握するという。
如来の座を去り仏の慈悲と徳を捨てた玉梓だが、この感知能力までは失くしていなかったのだ。
危機を察した玉梓は、法力……いや、既に妖力と言うべき持てる力を一気に開放し、戦場となっている城全体を作りかえる。
仏典によれば時の流れは六道の各々で異なり、地上の一劫は天界の一日、天界の一劫は地獄の一日に過ぎぬという。
また仏の身の丈は高々数十万億那由他恒河沙由旬に過ぎぬのに、その座す蓮華の一葉一葉は無限の広さの三千世界を内包するとされる。
このように時も空間も一定ではなく、仏の叡智・魔の狡知があれば時空を歪めるのは難しい事ではない。
玉梓の咄嗟の施術により、さな子との数歩の距離は無辺の宇宙を無数に束ねたより遠くなり、瞬間が永劫にまで引き延ばされたのだ。
これにより玉梓はさな子の組み付きを防いだのだが、急場の事ゆえに己の周囲のみならず城全体の空間をその統御下に置いていた。
通常ならば玉梓の妖力を考えれば城の一つや二つを余分に抱え込もうと問題にもならない。
だが、今回が通常と違ったのは、城の中に玉梓や彼女と対峙する剣客達も知らない間に、一人の、異常な人間が紛れ込んでいた事。
その人間は、「満」即ち三千大千世界全てを埋め尽くしてもなお余りある程に巨大な気概を内に秘めていたのだ。
偉大な仏であれば十万億土を一度に照らす事も可能だが、玉梓は外部からの神力で成仏し妖術により仏の座を下されただけの妖物。
その妖力は三千世界一つ分を統括するのが精々であり、それを上回る気力を持つ剣士を取り込んだ事であっさりと破綻。
容量以上の物を無理に詰め込もうとして破れた袋の如く、玉梓も内包していた想いを吐き出した。
仏典に曰く、世界が千集まりて小千世界となり、小千世界が千で中千世界、それが更に千集まって三千大千世界となると。
単純計算だと十億の世界となるが、実際にはこの場合の「千」は多数である事を喩えただけの言葉で実数は無量とも無限とも言われる。
三千世界即ち仏国土は仏の数と同じだけ存在すると言われるが、仏の数多さは如来の名を只管に羅列した仏名経なる経典が存在する程。
しかも仏というのは一名一仏ではなく、同名の仏が恒河沙の単位で集うという凡人なら混乱必至の事態も頻繁に起きているとか。
恐らく、娑婆世界と、そこから十万億の仏国土を隔てているという阿弥陀の極楽浄土も仏の視点で見ればごく近所でしかないのだろう。
この三千世界の微小な構成要素でしかない一世界ですら、内部に六道四聖の十の界を内包し、人間界はその一つに過ぎない。
天上界や地獄・仏界が人間の住む宇宙より遥かに広大な事を考えれば、全ての世界を合わせた広大さは人の想像を遥かに超える。
小さな惑星一つでも似た人間が三人は居ると言われるのだから、多数の世界を見渡せば誰かと瓜二つの存在など一体どれ程いる事か。
つまり全ての世界を見渡し永遠に存在し続ける仏は、知人に似た者や似ているようで実は違う者を数え切れない程に見知る道理。
無論、本来ならば仏は知人に似た人だからどうこうなどという妄執からは解き放たれているのだから問題にはなるまい。
しかし、玉梓の如く然るべき修行や徳を積まず一足飛びに成仏した仏となると執着を完全に捨てきれていなくても無理からぬであろう。
簡単な祈りや念仏、或いは神仏側からの一方的な働きで悟りを得てしまう事の弊害は信乃の仲間である犬江親兵衛も指摘している。
仏とてその程度の道理は百も承知であろうが、理に反すると知っていても哀れな存在を見れば救ってしまうのが仏の慈悲なのだ。
かくして玉梓は十分な本覚なきままに仏と成り、そのせいで妖術師により仏の座から引きずり降ろされるという前代未聞の経験をした。
仏僧の説く所では、天上は快楽に満ちた世界である故に、死に際してその楽しみを失う苦しみは無間地獄をも上回るという。
天上界ですらそうであるならば、仏としての解脱と悟りを喪った玉梓の苦痛はどれ程であっただろうか……
御前試合の舞台となっているこの島は、元は玉梓が治める三千世界の中の辺境にあったごく小さな土地であった。
そんな島が玉梓にとって特別な地となったのは、領主と重臣が彼女の嘗ての夫神余光弘や山下定包によく似ていたから。
と言っても全くそっくりだった訳ではなく、その証拠に彼等は民を慈しみ、民に深く慕われ、良く領地を治めていたのだ。
それが神余や山下もあと少しだけ善の端緒に恵まれていれば名君名臣になれていたのではと思わせ、玉梓の心を慰める。
心に慰められるような悔恨がある事自体、玉梓の仏としての不完全さを示しているが、ともかく当時の玉梓は彼等を寵愛し加護した。
だが、繁栄していた島は、突如として別世界から現れた野武士の一団によって皆殺しにされたのだ。
異なる仏国土からの来訪者というのは、仏の感覚で言えばそう稀な存在ではない。
しかし、彼等が伏姫と八犬士に瓜二つな集団となれば、その襲来が偶然ではなく何者かの悪意によるものである事は明白だろう。
おそらく無量の世界の中から選び抜かれたのであろう彼等は、本当に犬士達とよく似ており、ただその性は邪悪且つ残忍であった。
武芸も本物の犬士には及ばずとも相当の物であり、仏の加護を受けた島民をごく短い期間で虫けらの如く皆殺しにしてのけたのだ。
己の寵愛した者達が次々と殺されるのを見続けた玉梓は堪え切れず、遂に自ら降臨して偽犬士達を無間地獄に突き落とすに到る。
慈悲の存在である仏が悪行を為す者に罰を加えるという例は、確かに無いでもない。
だが、それも本質的には慈悲の心から来るものであり、罪人を地獄へ落とすのも、その悪縁を浄化し悟りへと導く為の布石の筈。
対してあの時の玉梓は、寵愛する者達が無惨に殺された怒りと、己の思い出の中の犬士を汚す者達への憎しみだけで動いていたのだ。
己の負の感情を満たす為だけに他者に苦痛を与える者は既に仏ではなく、かくして玉梓は妖魔として復活した。
以上が、玉梓が仏の座を引き摺り下ろされ、再び魔の者となるに到る物語である。
「玉梓……」
解き放たれた玉梓の心に触れる事で、剣士達も彼女の体験と悲哀を、少なくともその一端を感じ取る事が出来た。
だが、それで何が出来るだろう。
信乃は、既に宿敵でも成仏した筈の存在でもなく、哀れな一人の女としか見れなくなった玉梓を前にただ逡巡するしか出来ずにいる。
「どうも、招いてもねえ客が来てるようだな」
静寂を破ったのは、芹沢の言葉。
確かに、先程の玉梓の術を破ったのがこの場にいる誰かではなく、何者かが城内に侵入しているらしい事は他の者も感じていた。
剣客が接近しているのなら、そちらの方が戦闘力で言えば玉梓より遥かに警戒を要する相手なのは明らか。
「私が見て来ます!」
真っ先に駆け出したさな子に石川五ェ門も続こうと向き直り……己の動きに驚愕する。
「これは……!」
動きが軽いのだ、闘いで受けた傷や疲れが全くないかのように。
他の者も、自身の身体から疲れが消え、活力に満ちている事に気付く。
「あいつ……玉梓の力のせいか?」
剣桃太郎は複雑な表情で玉梓を見遣る。
妖怪が癒しの力を振るうのは物語の中では珍しくないが、彼女は怒りと憎しみから仏の座を捨て妖魔となった存在。
にもかかわらず、他者の気迫に呑まれかけ、咄嗟に放出された力が癒しの属性を持っていたという事は、彼女の本性は……
「石川君と剣君も行って来い。あの女の相手は犬塚君一人で充分だろう」
「貴殿はどうされる?」
気怠そうに命じる芹沢に五ェ門が聞き返すが、答えは……
「俺はここで犬塚君が女をどうあしらうか見物させてもらおう」
一人だけ楽をしようという芹沢の言葉に五ェ門はかっとして詰め寄ろうとするが、向き直る芹沢の動きを見て異常を悟る。
玉梓の力で他の者は活力を取り戻したのに、どうして芹沢だけは僅かに向きを変えるのすら大儀そうなのか。
思わず言葉を呑み込んだ五ェ門の肩を、同じ事に気付いた桃太郎が叩く。
「ここは二人に任せよう。……頼んだぜ」
既にさな子が向かっている以上、ここで言葉を交わし時間を無駄にする余裕はないし、桃太郎の推理が正しければ既に言葉は無意味だ。
二人は様々な想いを込めて芹沢を一瞥すると、さな子を追って走り去った。
桃太郎達がさな子に追い付いた時、既に彼女と侵入者・
東郷重位の戦いは始まろうとしていた。
と言っても、さな子が重位を発見して名乗り終えるより早く重位は斬り掛かろうとしたのだから、遅れはごく僅かであったのだが。
「受けるな、外せ!」
遅れが僅かだったお蔭で、重位が初太刀を振り下ろすより早くそのとんぼの構えを見てアドバイスを叫ぶ事は出来たのだし。
桃太郎の言葉に咄嗟に従い、重位の踏み込みを後ろに跳躍して回避するさな子。
次の瞬間、空を切った重位の剣が寸前まで彼女が立っていた床を粉砕し、さな子は桃太郎の助言の正しさを認識する。
「やはり示現流か」
己の流派を言い当てられて桃太郎を睨み付ける重位。
そこで、重位の死角から接近していた五ェ門が仕掛けった。
構え直す間がなく重位は跳び下がって躱した……と見えた時、その周囲の壁や床に剣閃の痕が走る。
五ェ門の狙いは初めから重位を斃す事ではなく、ひとまず城から追い出す事。
重位のような剛剣の使い手と城内で闘えば、城の構造を揺るがし、そうなれば上にいる仲間達にどんな影響があるか。
それに、凄まじい気迫を放つ重位が近くに存在する事自体が、玉梓を脅かし、信乃の接触を難しくしているのだ。
堅固に作られた城とはいえ、巨大なビルや塔をも簡単に寸断する五ェ門と斬鉄剣の前では一溜りもない。
まして、今は玉梓の力により五ェ門も、更には刃こぼれした斬鉄剣までもが回復し本来の切れ味を取り戻している。
重位が居た辺りごと、城の一角が崩れ、重位は地面に落下して行く。
空中では雲耀の太刀に不可欠である強烈な踏み込みは至難。
その隙を衝いて追い討ちしようとする五ェ門だが、玉梓の力で活力を得たのは城内にいた重位も同様。
重位は充実した気力を放出して五ェ門にぶつけ、空中でよろめいた五ェ門が体勢を立て直している間に着地。
遅れて地に降り立った五ェ門に仕掛けようとするが、身軽に舞い降りたさな子が二人の間に立つ。
「ここは私に任せて下さい。北辰一刀流には示現流への対策がありますから」
示現流が御留流だと言っても、幕末にもなれば多少は箍も緩む。
江戸に出て天下に名を知らしめようとする示現流の剣士も幾人かは存在し、千葉周作は彼等と対戦した事もある。
その時の経験から示現流に有効だと言い残した技を重位相手に試そうと言うのだ。
重位の側も、示現流への対策があるという言葉が出た瞬間からその剣気はさな子に向けられ、五ェ門達は眼中にない様子。
最初に重位と対峙したのもさな子であるし、五ェ門と追い付いて来た桃太郎は、ひとまずさな子に任せ見守る事にした。
重位が城から出た事で、玉梓への圧力は減じ、嘆く想いの放出も一応は止まる。
だが、放出が止まったとしても玉梓の悲哀が消えた訳ではなく、ただ内に秘められただけの事。
どう接するべきか信乃が更に悩んでいると、芹沢がゆったりとした動きで前に出た。
気力の大きさだけなら重位程ではないが、鬼気を帯びた芹沢にはまた別の迫力があり、玉梓の防衛本能が反応。
と言っても、ただの妖魔怪物を繰り出しても一蹴されるのは先程の経験で分かっている。
また、あんな出来事の直後では玉梓自らが闘える程に気力は回復していない。
この危機に、玉梓は己の知る最強の存在を具現化し、芹沢に立ち向かわせた。即ち……
「……俺達か」
玉梓が創り出したのは、犬塚信乃をはじめとする八犬士、或いはそれと瓜二つの姿を持つ戦士達である。
犬士は里見家を呪う者であった玉梓にとっては宿敵であり、八房であった彼女にとっては子に等しい存在でもあった。
彼女を迷妄から救いだし成仏させた者達である一方、彼女を仏の座から引きずり下ろしたのも彼等の並行存在だ。
そんな犬士達にどんな感情を抱くべきか玉梓自身にも決められずにいるが、ともかく彼女にとって犬士が重要で強大な存在なのは確か。
故に、芹沢に脅かされた玉梓が繰り出す最後の頼りが犬士達であるのは当然と言えよう。
「気を付けろ!」
信乃の警告が届くと同時に、玉梓の犬士達は芹沢に殺到し、駆け抜ける。
「ふん、温いわ!」
しかし、八方から挟撃を受けた芹沢は無傷。
逆に敵の一人から一瞬で奪い取った鉄扇で己を悠々と扇いで言う。
「所詮は紛い物よ。犬塚君、見せてやるが良い」
芹沢の命令に従ったと言うより、「紛い物」という言葉の響きに無視できないものを感じて信乃は前に出た。
玉梓製の犬士達も、芹沢より信乃こそが自分達の宿敵だという事を本能的に察したのか、一斉に襲いかかって来る。
太刀を跳ね上げ、受け止めようとする棒ごと斬り、十手で引っ掛けられた剣を自ら捻って折ると手元に残った欠片を瞬時に突き刺す。
繰り出された槍を手繰り寄せて柄を叩き付け、芹沢が投げた刀を受け取ると殺到する敵に大きく一閃。
一つ一つの応酬を書き出すと長々と戦っていたように見えるが、実際に戦闘に掛かったのは瞬き一つにも満たないごく短い時。
ただそれだけの間に、信乃は八人の敵をあっさり斬り伏せて見せたのだ。
一瞬の内に闘いを終えた信乃は、その勢いのままに宣言する。
「玉梓……俺は、俺だ。似たような者が他に居ても、お前と闘った犬塚信乃は俺だ!」
玉梓が創り出した犬士達の元が本物の八犬士なのか、それに似た賊達なのか、それは玉梓自身にも判然としていなかった。
元々、霊を分け異なる立場で関わった為に玉梓の犬士への感情は混乱していたのに加え、果心の送り込んだ偽の犬士達。
犬士に対するあまりに強く、相矛盾する感情の為に、玉梓の犬士への認識さえも混濁し惑乱していたのだ。
その混乱の程は、全く別世界のさして似てもいない「犬塚信乃」まで島に呼んで復讐の対象とした事からも窺えよう。
だから玉梓の創った犬士が本物を再現したものか、島に現れた偽物の模造なのかは、つい先ほどまで不分明であった。
だが、犬士の一人である信乃が、芹沢の援けが多少はあったとはいえ、簡単に八人を倒して見せた事で事態ははっきりする。
あの八犬士は所詮、偽者、それも本物の犬士には遠く及ばない紛い物に過ぎなかったのだ。
そして、たったこれだけの事実が、玉梓に救いを与える事になる。
無数の世界に住む無量の存在の中には、良く似た存在の組み合わせがいくらでも見付けられる。
信乃にもその理屈はわかるし、それ以前に彼は己が人の作った物語の絵や文字の精ではないかという疑いすら持っていた。
だが、信乃はその葛藤を乗り越え、自分は自分だと宣言したのだ。
仏であった玉梓は、異なる世界の良く似た存在、即ち並行存在が因縁の糸で結ばれ、別の存在とは言えない関係にあると知っている。
にもかかわらず、信乃の宣言を聞いた玉梓は、それを真実だと受け取った。
彼女にとっては、仏の智慧よりも犬士の言葉の方が遥かに重要で信じられるものだったのだ。
本物の犬士と島を襲った賊が別の存在ならば、島の悲劇を理由に犬士を恨む理由は皆無。
賊を退治した為に仏の座を喪ったという事実は変わらないが、今の玉梓にとってそれは些細な問題。
結局、玉梓を苛んでいたのは仏云々ではなく、外道に堕ちた犬士達の姿と、犬士達を恨まねばならないという事実の方だったのだろう。
賊が犬士と無関係ならば、それを滅ぼす為に仏を捨てる事など、玉梓にとっては大した代償ではないのだ。
信乃の言葉に納得し復讐の炎から救われた次の瞬間、玉梓の全身から今度は地獄の炎が発する。
元々、人としての玉梓の行いは罪深く、本来ならば処刑された彼女はそのまま地獄へ落ちる筈であった。
地獄行きを免れたのは、怨念の力により玉梓が妖力を獲得したからこそ。
その後、玉梓は成仏し、続いて魔に堕ち……常に仏か魔の力に守られていた為、地獄に落ちる事はなかったのだ。
しかし、信乃の言葉によって救われた事で玉梓は魔性を失い、となれば当然、地獄へ落ちる事になる。
炎に包まれ地の底へ落ちて行こうとした玉梓を、信乃より早く芹沢が横合いから抱き上げると、いきなり唇を奪う。
芹沢と玉梓、罪過なら玉梓が優るかもしれないが、心根では今の玉梓よりは芹沢の方がずっと地獄に相応しい。
炎は吸い出されるように芹沢へと移り、玉梓は解放される。
一方の芹沢は炎に苦しむ様子も見せずに笑うと、炎の事か玉梓の唇の事か、「中々のものだ」と評し、玉梓を信乃の方に押しやった。
その玉梓は信乃へ歩み寄り何かを言おうとするが、それより早く身体は薄れ、声も空に溶けて行く。
本来、玉梓はとうに死んだ身であり、法力も妖力も失った今、この世に留まっていられる筈もない。
「玉梓……さらばだ!」
急いで放った信乃の言葉は届いたろうか、玉梓の身体は消え去り、魂は転生する。
自ら福を捨て、過を芹沢に奪われた玉梓の転生先は、やはり人間道であろうか。
だが、犬士への感謝と憧れを抱いて消えた玉梓の来世は、以前よりも徳……特に義に恵まれたものになるだろう。
仏の眼からは哀れで矮小であろうと、今度こそ玉梓は他者にお膳立てされたのではない、自分自身の生を新たに生きる事が出来るのだ。
かくして、この御前試合を整えた玉梓もまた島から去り、遂に島には剣士のみが残る事になった。
「此度は世話になったな」
信乃が芹沢に声を掛けるが返事はない。
「そうか……逝ったか」
【玉梓@里見八犬伝 転生】
【芹沢鴨@史実 死亡】
【残り二十四名】
激しく周囲を動き回りつつ攻撃を仕掛けるさな子に、重位は苦戦していた。
さな子の動きを見て一撃を繰り出すが、その時には既にさな子の動きは変わっており、重位の剣は空しく宙を奔るのみ。
逆に剣を放った後の隙を衝かれ、咄嗟に身を躱すものの薙刀の石突きが小手を掠め、危うく剣を落としそうになる。
もしもさな子が初めから重位を殺そうとしていたなら、既に決着はついていたかもしれない。
劣勢でありながら重位が傷らしい傷も受けずにいられるのは、さな子が重位を殺すのではなく生け捕りにしようと狙っているからこそ。
逆に言えば、後の仲間が控える心強さもあるとはいえ、生け捕りを狙える程にさな子の側が優勢という事。
さな子の動きは複雑で留まる事がなく、一瞬後の位置を予測する事すら至難。
如何に雲耀の太刀が速くとも、剣を構える一瞬の間にさな子は位置を変え、重位の刀が届かぬ地点に移っているのだ。
普通、複雑な動きをするには動き方を考えるのに頭を使わねばならず、その分だけ相手の動きを読む為の集中力が落ちる事になる。
しかし、さな子は完璧に重位の動きを読み、逆に己の動きは完全に重位の予想を裏切り、常に地の利を獲り続けていた。
「あれは北辰一刀流の技なのか?」
見ていた桃太郎が訝しむのも無理はない、さな子が使っているのは後世には伝わらなかった千葉家の秘剣。
家伝の北辰夢想流に伝わる技を千葉周作が改良して一刀流に取り込んだもので、名を九曜剣という。
九曜とは日月と土火木金水の五惑星に、日食を引き起こす不可視の星である羅[目侯]と計都を加えた九つの星を表す。
勿論、周作が活躍した江戸後期には、食は見えない星などではなく月や地球自身が星の光を覆い隠すのだとわかっていた。
それどころか西洋から地動説が伝わり、それに基づいた暦まで作られていたくらいだ。
だが、周作が注目したのは、これら二星に代表される、人が日月惑星の動きを説明するのに要した工夫の数々。
地動説で示される太陽系の構造と星々の動きは、わかってしまえば大枠はそう複雑でもない。
それを説明するのに陰陽師や占星術師・天文学者は架空の天体を考えたり天球に複雑な機構を与えるなど種々の工夫を強いられた。
つまり、単純な理に従った動きでも、その基準を誤解させる事により複雑怪奇な動きに見せる事ができる、と周作は考えたのだ。
今もさな子は実はごく簡単な理に従ってほぼ無意識的に動いており、彼女の意識は重位の動きを読む事に集中している。
単純な動きは読まれ易く煩雑な動きはキレに欠ける……この板挟みを、己にとっては単調・敵には複雑な動きにより解消する秘技。
示現流のような剛剣に対しては非常に有効であった。
劣勢を十分に自覚しながら、重位は果敢に闘い続ける。
さな子が示現流への対策があると言った瞬間から、この戦いは重位にとって絶対に負けられないものとなったのだ。
単にさな子に敗れるだけなら、それは兵法者として東郷重位が千葉さな子より劣っていたという事でしかない。
だが、示現流用の技に宗家である重位が為す術なく敗れれば、それは示現流そのものの北辰一刀流に対する敗北。
示現流を至上の剣と信じる重位には、そんな結果を受け入れる事は不可能。
絶対に勝たねばという気迫が重位の剣速を更に速めて行くが、己の動きを誤認させるさな子の戦法の前では無意味。
示現流の尊ぶ雲耀の剣速がを嘲笑うかのような展開に重位の怒りは頂点に達し、遂に無意識の封印が解けその真の力が発揮される。
闘いを見守っていた五ェ門と桃太郎は目を瞠る。
それまで優勢に戦っていたさな子が、重位にいきなり斬り捨てられたのだ。
しかも、重位が特殊な技や戦術を用いた訳でもない。
とんぼの構えから、死角に回り込んださな子に身体を捻りつつ渾身の一撃を叩き込んだだけの事。
今までなら、雲耀の太刀といえど身を捻りながらの攻撃では到達までに時間が掛かり、その間にさな子は僅かに移動してしまう。
そして、さな子の変幻自在の動きが半瞬先の位置の予測すら許さなかった故に、彼女は優位に戦えていたのだが……
重位の最後の一撃は、構えたのと剣を振り終えたのが、剣客達の目から見ても全く同時としか思えなかった。
さな子の動きがいくら解析不能でも、一瞬一瞬の位置はわかるのだから、時の流れを無視したような剣の前には無力。
雲耀の太刀を更に極限まで高めたこの剣の凄まじさに、さしもの五ェ門と桃太郎もさな子に駆け寄る事すらできずに硬直。
だが一方の重位も、硬直する二人に斬り掛かるでもなく呆然とした表情を見せ、はっと我に返ると踵を返して駆け去る。
仲間を失った二人の剣士は、重位の後姿をただ見送る事しかできなかった。
【千葉さな子@史実 死亡】
【残り二十三名】
【ほノ参/城外/一日目/午後】
【東郷重位@史実】
【状態】:健康
【装備】:村雨丸@八犬伝、居合い刀(銘は不明)
【所持品】:なし
【思考】:この兵法勝負で優勝し、薩摩の武威を示す
1:次の相手を斬る。
【剣桃太郎@魁!!男塾】
【状態】健康
【装備】折れた打刀
【道具】支給品一式
【思考】基本:主催者が気に入らないので、積極的に戦うことはしない。
1:信乃に同行する。
2:向こうからしかけてくる相手には容赦しない。
3:赤石のことはあまり気にしない。
※七牙冥界闘終了直後からの参戦です。
【石川五ェ門@ルパン三世】
【状態】腹部に軽傷
【装備】斬鉄剣、打刀(刃こぼれ)
【所持品】支給品一式
【思考】基本:主催者の企てを打ち砕く。
一:信乃と合流する。
二:ご先祖様と勘違いされるとは…まあ致し方ないか。
【備考】※ヒナギクの推測を信用し、主催者は人智を越えた力を持つ、何者かと予想しました。
※石川五右衛門と勘違いされていますが、今のところ特に誤解を解く気はありません。
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最終更新:2015年12月29日 13:38