城下町における富士原なえか・オボロ・新免無二斎の変則的な三つ巴は、上泉伊勢守という剣聖の登場で一時中止を余儀なくされた。
三人の剣士の本能が、伊勢守の圧倒的な格とでも言うべきものを察知し、軽挙を戒めたのだ。
だが、剣客の魂を持たぬ者、或いは下手な介入が己の確実な死を招くと知っても自身の命より優先すべき使命がある者には話は別。
四人の剣士が睨み合う中へ、更に忽然と生じようとする新たな気配……いや、むしろ妖気と呼ぶ方が的確か。
しかし、戦場に更なる存在が増える事を、場を支配している伊勢守は望まない。
伊勢守の腰から鍔鳴りの音が響くと、次の瞬間には現れようとしていた気配は跡さえ残さずに消え去る。
「俺の刀!?」
混乱した状況の中にあっても、さすがにオボロは伊勢守が差した刀が己のものである事を瞬時に見抜く。
「左様か。ならばお返し致そう」
言うと、驚くべき事に伊勢守は、腰に差した刀を鞘ごと抜くと、オボロに向かって放ったのだ。
「何をする!?」
刀を返される形となったオボロは驚き、空中で愛刀を拾いざま伊勢守の方へ駆け寄ろうとする。
自ら得物を手放すという絶好の隙を見せた伊勢守に対し、なえかが殺到する構えを見せていたからだ。
しかし、オボロが伊勢守となえかの接触を阻む事は不可能。
刀を掴んだオボロは、いつの間にか無二斎が自身の死角に回り込み仕掛けようとしていた事に気付く。
伊勢守が唐突にオボロに刀を投げ渡すという真似をしたのは、何も単純に刀を持ち主に返そうというだけの行動ではなかった。
剣聖の圧倒的存在感に加え自身の刀を所持していた事でオボロの注意が他から逸れたのを察知した無二斎は既に動いていたのだ。
オボロの虚を衝く無二斎の仕掛け、単なる警告では間に合わないと見た伊勢守は、自ら丸腰になる危険を冒して剣を投げ渡す。
そしてオボロの投げられた剣を受け取る動き自体が、伊勢守の意図したとおり無二斎の奇襲に対する迎撃の動きとなる。
奇襲に失敗した無二斎と、奇襲を破ってから無二斎の攻撃に気付いたオボロは、一瞬だけ動きを止めるが、すぐに激しくぶつかり合う。
その間に、富士原なえかの剣聖への挑戦は始まっていた。

受け取った剣を抜きざま、突き出された十手と激しく絡み合わせるオボロ。
続いて繰り出される剣の一撃を回避したオボロは、もう一本の刀で斬り付けて無二斎を退かせる。
一息付いたオボロが伊勢守となえかの方を見遣ると、丁度なえかが一撃を受けて受け身も取れずに吹き飛ばされるところであった。
無手の状態で襲われた伊勢守がとった対処はごく単純、拳の一撃で対抗したのだ。
拳法の奥義を窮めた訳でもない伊勢守が簡単になえかを撃退できたのは、なえかの技がいわば歪であるから。
剣客達の闘いを見、感じる事で、一流の剣士の如き動きを見に付けたなえかだが、所詮は模倣であり不完全な技。
素手の攻撃への対処を身に付けておらず、そのせいで剣で対抗するよりも簡単に撃退される事になった。
「やり過ぎだ!」
なえかを庇った影の事を未だに気にしているオボロは咄嗟に駆け寄って少女の身体を検めるが、何処にも傷はない。
確かに水月の急所を強打された筈なのに内蔵破裂どころか痣さえ出来ていないなえかの身体。
無手の専門家ではないとはいえ伊勢守ほどの達人の一撃をあそこまでまともに受ければ無傷で済む筈がないのに。
訝るオボロだが、伊勢守は今度は無二斎と戦闘状態に入っており、とても問い質す暇はない。
「ちっ!?」
更に、伊勢守に打ち倒されたなえかも、闘争本能に突き動かされるまま起き上がりつつオボロを攻撃。
素早く後退して身構えるオボロだが、なえかの動きの意外な鈍さに戸惑いを感じていた。

剣聖上泉伊勢守に対し、新免無二斎は己の持てる技を最大限に駆使して挑んだ。
無二斎が持つ得物は剣と十手。
通常の二刀流や十手二本で闘うのと違い、特性の違う二種の武器を同時に使いこなすのは無二斎にとっても負担は相当なものとなる。
だが、今の無二斎はその労力を少しも意識していない。
伊勢守ほどの達人と相対する事で、冷徹な無二斎ですら無意識に昂揚しているのだ。
昂揚は常以上の速度を無二斎にもたらし、同時に生まれる粗雑さは二本の武器による手数と二種の武術による変化が補う。
無二斎の技は、通常の二刀流のように攻撃と防御を分担したり、同時または連続して層の厚い攻撃をするものとは趣きが別。
二種の武器が全く異なる拍子と癖をもって各々に伊勢守に襲いかかる。
ある意味では達人二人と闘うのにも似ているが、その場合と違って伊勢守が攻撃できる敵の身体は一つしかない。
攻防の機会の差が圧倒的である為に戦闘の展開は一方的なものへとなって行く。
となれば、伊勢守としては、数少ない攻撃の隙を効果的に衝き質で量に対抗するのが唯一の勝機。
但し、全ての攻撃機会を逃さず最善の経路で攻撃するという事は、無二斎にこちらの剣の軌道を読まれ易くなるのと同義。
数十の応酬の後、遂に伊勢守が繰り出した剣が無二斎の十手に捉えられた。

無論、十手に絡め捕られたと言っても、伊勢守の持つ剣が簡単に折られたり奪われたりする筈もない。
逆に無二斎の十手を抑え込み、対応に僅かな失策でもあれば瞬時に十手を跳ね飛ばすか破壊するかしようと力を加える。
それに対して無二斎は、あっさりと十手を手放す。
無二斎には初めから、伊勢守と武器の扱いや力の制御の技量で真っ向から伊勢守と競うつもりなどなかったのだ。
二刀流や二本の十手を操る技法は、無二斎にとって敵に隙を作る為の手段に過ぎない。
剣客として超一級の腕を持つ無二斎であるが、天下には目の前の剣聖のように己より数歩は優る名人が存在している事は知っていた。
そして、決闘に於いて勝負を分けるのは、必ずしも腕の良し悪しではないという事も。
相手がどんな達人であっても、毛一筋程の隙を作り的確に衝く事さえできれば、技量差を覆して打ち勝つ事が可能なのだ。
とはいえ、自身を上回る技を持つ達人に対し、何の犠牲も払わず衝くべき隙を見出すなどまず不可能。
つまり、これこそが無二斎が両手に武器を持つ事を好む理由の一つ。
武器が二つあれば、その内の一つ、或いは場合によってはそれを持つ腕ごと犠牲にして作った隙を、もう一方の得物で叩く事ができる。
この戦法の為に、片手だけで振るう武器に、両手で操る武器と同様の威力と変幻自在さを籠められるように鍛錬を積んで来た。
十手を捨てて伊勢守の剣の勢いを一瞬あらぬ方に逸らした無二斎の剣は、そうして鍛えた片手斬りの技を以て、伊勢守の首を襲う。

無二斎の剣が伊勢守に届く直前、何時の間にか伸びていた伊勢守の空の手が、無二斎の手首を掴む。
十手に剣が捉えられた瞬間、伊勢守もまた片手を柄から離し、無二斎の剣を取りに来ていたのだ。
無二斎がそれに気付かなかったのは、伊勢守が片手で並の達人が両手を使うより遥かに精密に剣を使ったせい、というだけではない。
如何に伊勢守が常識を超えた使い手であっても、片手同士で競り合えば片手技を重点的に鍛えた無二斎に分があったろう。
いや、仮に伊勢守が両手を使っても、剣による攻撃までの一瞬ならば、十手で伊勢守を抑え込める見込みは十分にあった。
しかし、自身と伊勢守の格の差を知る無二斎は、まともに競り合って体勢を大きく崩され、剣の攻撃まで妨げられる事を恐れたのだ。
そしてその無二斎の心理……真っ向勝負ではなく奇手によって隙を作ろうとする事まで伊勢守は予想済みだったのだ。
無二斎は伊勢守の技が己より優る事を看破して恐れたが、読みの面でも伊勢守の方が一枚上手だったと言えようか。

無二斎の腕を捉えた伊勢守は、柔術の要領で崩しに掛かる。
下手に堪えようとすれば武器を奪われるか手の関節を外される危険がある……そう判断した無二斎は、自ら宙に跳んだ。
投げられた勢いを身体の捻りに変換する事で空中で体勢を建て直し、同時に身体の捻りを利用して剣の鞘を抜く。
無二斎は投げられる自身の軌道を計算して跳んでおり、鞘を構えた瞬間に居るのは丁度、伊勢守の剣が届かない位置。
好機を逃さず無二斎が必殺の突きを繰り出すと、伊勢守は無二斎を掴んでいた手を放し、防御に出る。
だが、鞘とはいえ上からの渾身の攻撃を、無手で受け切るのは如何に無刀取りを長年研究して来た伊勢守でもまず不可能。
伊勢守の志を継いだ柳生の無刀取りも、素手で剣を正面から受けるような状況を作らない事を極意としているくらいだし。
完全には決まらずとも、鞘の一撃で指の一本二本でも折る事が出来れば、剣の勝負に於いて圧倒的な優位となるのだ。
しかし、鞘を突き出した無二斎が感じたのは、意に反して鋼の硬い感触。
感触の正体は、伊勢守によって宙に跳ね飛ばされた筈の無二斎の十手。
遠く跳ね飛ばす勢いを見せておきながら、伊勢守は直前で力の具合を制御して十手を軽く跳ね上げるに留めておいたのだ。
そして、自分の死角を取ろうとする無二斎の動きを逆用し、今まで自らの身体で十手を隠していた。
またも無二斎の計算と奇策の上を行った伊勢守は、十手で鞘を絡め、もう一方の手に持った剣を振り翳す。
無二斎も解放された手の刀を構えるが、大地に立つ伊勢守と空中に投げられ崩れた体勢の無二斎では勝負は見えている。
咄嗟に十手で絡められた鞘を手放し、両手で刀の柄を握る無二斎。
確かにこの状況では、両手の力に空中から落下する勢いを乗せる事で伊勢守の技を押し切る以外に無二斎の勝ち目はないだろう。
だが、ここで無二斎が繰り出そうとしているのは剣撃ではなく蹴り。
剣同士の真っ向勝負ではやはり伊勢守には勝てないと踏んだ無二斎は、片脚を犠牲にする覚悟を決めたのだ。
気を張って痛みと衝撃に耐えさえすれば、空中でなら足を失う事による影響を無視して闘う事が出来る。
蹴りで伊勢守に防御の一手を消費させ、そこへ渾身の剣を放つというのが伊勢守の作戦。
仮にそれで伊勢守を斃したとしても片脚ではこの御前試合を生き延びるのは難しいだろう。
それを承知の上で仕掛ける事を無二斎に決意させる程、伊勢守との勝負、そして剣聖に勝利した者という栄誉は魅力的だった。

蹴りを放とうとする無二斎に鞘が飛ぶ。
無二斎が手放した鞘を、伊勢守が十手を使って飛ばしたのだ。
渾身の一撃で鞘ごと斬る事を試みる選択もあった筈だが、無二斎はここでも真っ向勝負を避ける。
身を捻って鞘を躱し、その反動を使って当初の予定通り蹴りを繰り出す。
しかしこの動きで一瞬、伊勢守の姿が顔の間近を飛ぶ鞘の陰に隠れ、一瞬だが無二斎の視線から外れた。
その為、無二斎は蹴りが何にも当たらず外れる時まで、伊勢守が移動して己の死角に回り込んだことを感知し損なう。
伊勢守の位置を気配で探る事も出来ず、剣と咄嗟に空中で掴んだ鞘で自身の死角を薙ぎつつ着地する無二斎。
当然、そんな適当な一撃が伊勢守の位置に偶々合致するような幸運には恵まれず、地を一転した無二斎の眼前に十手が突き出される。
……柄を向け、無二斎に当たる直前で止められた十手が。

「貴殿は若い。まずは己の技を突き詰める事を考えられては如何か?」
「……」
無二斎は、伊勢守の問い掛けに無言のまま、差し出された十手を掴むと後退する。
高名な師匠や門地に恵まれている訳でもない、無二斎のような剣客が名を成すのは簡単ではない。
一番の早道は、やはり既に高い名声を得ている武芸者に挑み、打ち倒して己の強さを証明する事であろうか。
と言っても、高名な武術者は腕が立つだけでなく、弟子に守られ貴人の庇護を受けている場合も多く、挑戦するだけでも困難。
少ない機会を確実に活かし、素人目にもわかりやすい形での勝利を得ようとすれば、どうしても奇策に頼る事になる。
もしくは、敵の技を詳細に研究して、流派の精華を盗みその相手専用の返し技を編み出すか。
無論、奇手や嵌め技とて兵法の内ではあるが、やはり技と力で相手を正面から捻じ伏せるのが剣の本道。
なのに強敵との対戦で搦め手ばかりに頼っていては、折角の技を磨く機会を自ら捨て去っているのと同じ事。
それで基礎となる技の進歩が遅れれば、必然的により奇策に頼らざるを得なくなる。
己がこのような悪循環に陥りかけている事は無二斎自身も薄々気付いており、伊勢守はその心の隙を衝いたのだ。
無二斎には功利心が人並み以上にあるが、かと言って武術を窮めようとする求道の心に欠けている訳では決してない。
強敵に確実に勝つ為の策略が、当理流の技を深める妨げになっているとすれば……
「……」
無言のまま、無二斎は差し出された十手を引っ手繰ると、後ずさりして立ち去った。
次に姿を現すとき、無二斎の戦い方に何らかの変化が見られるのだろうか。

【ほノ肆 城下町/一日目/午後】

【新免無二斎@史実】
【状態】健康
【装備】十手@史実、壺切御剣の鞘@史実、打刀(名匠によるものだが詳細不明、鞘なし)
【所持品】支給品一式
【思考】:兵法勝負に勝つ
一:宮本武蔵を探す
二:己の剣を見つめ直す

伊勢守が無二斎と対峙している間、オボロは富士原なえかの攻撃を凌ぎ続けていた。
と言っても、なえかの攻撃を躱すのに大した困難があった訳ではない。
特に最初の内は、なえかの動きは伊勢守の当身のせいで明らかに鈍っていたのだから。
オボロが見た限りでは、なえかの身体に損傷はなかったが、あれだけの勢いで撲られれば身体は無傷でも精神に動揺があって当然。
特になえかの場合、精神にかなりの負担がかかり弱っているようでもあるし。
お蔭でオボロにとっては攻撃を回避するのが楽になったが、同じ要因が伊勢守の意図を実現させ難くさせている事も悟る。

なえかの攻撃には、単に伊勢守の拳撃による痛みや衝撃のせいと言うのでは説明できない、鋭さの欠如があった。
剣士なら誰しも、才に恵まれた者なら赤子の頃から持ち、そうでなくとも修行の過程で必ず得る筈の武術者特有の鋭さ。
なえかも今は未熟とはいえ、いずれ一流の剣客に成長し得る素質を持つ少女であり、動きには相当の鋭さがあったのだ。
この鋭さは、いわば剣士の本質であり、たとえ疲れ傷付いたとしても失われる筈のないもの。
なのに、伊勢守の当身を受けてからしばらくの間、なえかの動きからは鋭さが失われ、素人と見紛う程であった。
つまりおそらくは、それこそが伊勢守の目論見なのだろう。
単になえかを斃すのであれば、拳を普通に急所に叩き込んでいれば済んだ事。
わざわざ身体を傷付けないよう配慮したという事は、オボロと同様に、伊勢守もなえかを救おうとしていると見て間違いない。
そしてその為に伊勢守が選んだのが、彼女の身体を傷付けずに剣客としての鋭さのみを失わせる技。
今のなえかは、剣客達と接触した事で過度な刺激を受け、彼女の内に秘められていた剣士としての素質がいわば暴走した状態。
もし彼女の剣客達との出会いがより穏当だったり、心の支えとなる者が傍に居れば、真っ当な剣客として覚醒も有り得たのだが……
歪んだ形での剣客としての目覚めがなえかの正気と命までも脅かしている今、剣客としての素質を摘むのも已むを得ないという訳か。
その考えはオボロにもわかるが、問題は伊勢守の攻撃が彼女の剣士としての資質のみならず命までも奪ってしまいかねない事。
如何に剣聖でも、拳で打つ程度ではなえかの動きを一時的に鈍らせる程度が精々のようだ。
だが、更に激しい攻撃を仕掛ければ、既に崩壊寸前の少女の精神はとても保つまい。
通常なら有り得ないとされる、自らが死んだという認識により命を喪うという事態すら、今のなえかならば起こり得るだろう。
彼女を救うには……

こんな事を考えていたせいか、オボロが自らに危機が迫っている事に気付くのが僅かに遅れてた。
間合いを外してかわした筈のなえかの裏拳がいきなり伸び、オボロに迫って来たのだ。
と言っても、これはなえかがオボロにも予想外の技を繰り出して間合いを稼いだ訳ではない。
なえかが自身の肉体の強度も考えず身体を酷使した為に、遂に腕の関節が外れ、結果として間合いが伸びただけの事。
咄嗟に伊勢守から返されたばかりの刀で受けようとするオボロだが、受け切る前に刀が折れ、なえかの拳がオボロを打つ。
なえかの、しかも攻撃の途中で意図せず関節が外れた攻撃にオボロの刀を砕く威力が秘められていたなど有り得ない筈。
先程の伊勢守の鍔鳴りで傷んでいたのか、それとも無二斎の十手と絡んだ時か、或いはそれ以前の……
原因は幾つも考えられるが、ここは主人の意を汲んだ刀が自ら壊れる事を選んだ、と考えるべきかもしれない。
不意を衝かれたオボロは普通に攻撃を受けようとしており、成功した場合、なえかの手は完全に破壊されていたかもしれないのだから。
殴られつつもオボロはなえかの胸を蹴って宙を舞い、後方に大きく跳んで間合いを外す。
無論これはなえかの追撃を避ける為の動きだったのだが、実際にはなえかの追撃は一拍遅れ、オボロが既に着地した後。
未熟な剣士ならいきなり腕の関節が外れれば痛みや驚愕に気を取られ、動きを一瞬止めてしまう事もあるだろう。
だが、オボロの見た所、なえかが攻撃を遅らせる程に気を取られたのは、外れた関節などではなく……
オボロがなえかを救う方法を考え付いたのは、この瞬間であった。

「おい!」
伊勢守が無二斎を圧倒し追い払った直後、オボロは伊勢守に声を掛ける。
「何とかあの女の心に隙を作ってやる。やれそうならやってみろ」
言うと、返答も待たずにオボロはなえかに飛び掛かった。
なえかも迎撃するが、その動きは伊勢守の拳撃を受けた後とはまた別の意味で鈍い。
腕の負傷のせいもあるが、片腕だけでなく無茶な動きのツケが来て全身が壊れかけているのだ。
元の頑丈な体と持っている宝珠の力で今まで保たせて来たが、限界は目前まで迫っていた。
時間が限られている事をあらためて悟ったオボロは、なえかの渾身の突きをすぐには避けず、迫って来る刃を見据える。
オボロの狙いは、なえかの突きを寸前まで引きつけてから急に避ける事で、刃に己の残像を貫かせる事。
先程、己の拳がオボロの顔面を直撃した際、なえかは確かに動揺し、体勢を崩したオボロへの追撃すら忘れた。
拳が刀を砕いた上で顔に当たり、オボロが攻撃の勢いに逆らわず跳んだのを見て、相当の打撃を与えたと錯覚したのだろう。
酷使して関節が外れる程に腕が傷んでいたせいで、感触で当たりの強さを判定する事すら出来なかった、というのもあるかもしれない。
何にしろ、なえかは自分がオボロを傷付けたと思い込み、その認識に気を取られて一瞬とはいえ、闘う事を忘れたのだ。
素質は高くとも真剣勝負の経験すら碌にない少女だ、己の手で人を酷く傷付け、殺す事はなえかにとって非常に重大な出来事。
残像を貫きオボロを殺したと錯覚すれば、少なくとも一瞬、なえかの心は己の殺人へと向かい、闘いを忘れる筈。
意識が闘いから外れた瞬間に攻撃すれば、そしてそれで身体が傷付かなければ、攻撃された事にすら気付かないだろう。
この手でなえかの精神を崩壊させる事なく伊勢守の技を決めようというのがオボロの目論見。
オボロは、全神経をなえかの持つ刀へと集中させた。

「!!?」
前方から迫る刃をギリギリまで引き付ける事に集中していたオボロは、衝撃で初めて、背後から己に突き立った刃に気付く。
その刃は、先程の裏拳で破壊された、オボロ自身の愛刀の切っ先。
なえかは自身の髪の毛を触手のように操り、刃に絡み付かせて死角からオボロに突き立てたのだ。
これは明らかに、直前の伊勢守と無二斎の立ち合いで使われた相手の意識と感覚の死角を衝く技の模倣。
オボロも伊勢守達の闘いは見ていたが、なえかがこの勝負から彼等の技法を学んでいたというのは想定外。
闘いの最中、なえかの五感全ては目の前にいるオボロの動きを見切ろうとする事に集中していた筈なのだから。
しかし、オボロには知り得ない事であったが、才能を開花させ人の域を超えつつあるなえかは、既に数十の感覚を持つに到っていた。
使い慣れた五感ではオボロを追いつつ、なえかは残る幾十もの感覚の大半で伊勢守と無二斎の決闘を見詰めていたのだ。

「兄者のようにはいかないか……」
自嘲したオボロは、刃の突き立った傷がなえかによく見えるよう、身体の向きを変える。
もっとも、視覚などの尋常の感覚以外にも多数の感覚を得ているなえかに対しては無用な気遣いだったかもしれないが。
正面からの攻撃に全神経を集中させている隙に刺された刃は、なえかの剣士としての才を示すように、見事に急所に突き立っていた。
斬人の経験がごく僅かしかないなえかであっても見間違えようのない、完全な致命傷。
己の殺人行為のわかり易い証拠を見せ付けられ、なえかの心はオボロの傷に吸い付けられる。
一方で、彼女の剣士としての本能は、仕留めた上に最期の反撃をする気もない敵よりも、より強大な敵……伊勢守との対決へと向かう。
ここに、富士原なえかの人としての精神と剣客としての本質は完全に乖離し分断された。
「……今だ!」
最後の力を振り絞ってオボロは叫ぶが、これこそ無用な気遣い。
オボロの声が響いた時には、既に伊勢守の剣がなえかの剣客としての魂を斬り捨てていた。

意識を失い地に倒れ伏すなえか。
と言っても、伊勢守の剣はなえかの心身を傷付けたりは一切していない。
なえかが気絶した直接の原因は、腕の脱臼他、激しい戦いによって傷んだ身体のあちこちの痛み。
今までは戦いに集中して痛みなど無視していたなえかだが、今のなえかにはそんな事は不可能なのだ。
先程の一閃で、伊勢守はなえかの奥底、人格よりも本能よりも更に深奥にある本質……剣士としての彼女を、それだけを斬った。
この一撃により、富士原なえかは既に剣客としては死んでいる。
勿論、剣を握る事ができないとか、今迄に覚えた技を忘れてしまったという訳ではない。
過負荷が掛かった身体が治れば、剣を振るう事も、再び修練して更に腕を上げる事さえできるだろう。
だが、もっと決定的な、剣客をただの「剣を使う者」と分ける決定的なものをなえかは失ったのだ。
剣士としての道を喪う代わりに、人として生きる未来を得たなえか。
それが幸いか不幸か……剣士でなくなってしまったなえかにはもう判断する事は出来まい。
ただそれでも、彼女が生き残った事を喜ぶ者は確かに存在するのだ。
「感謝する……」
戦闘が終結し剣気が収まった直後、再び異形の気配がこの場に現れる。
「それ」は、気絶した少女を大事そうに抱えると、一言だけを残し忽然と消失した。
残ったのは、鈍く光る一つの宝珠のみ。

伊勢守が珠を拾い上げてみると、そこに浮かぶのは「信」の一字。
今回、その文字で讃えられるのが相応しいのは、伊勢守よりもオボロであろう。
得体の知れない気配の言葉を信じて暴走した少女を救われるべき存在と思い定め、言葉を交わした事もない伊勢守を信じ命を捨てた。
伊勢守はオボロを見遣るが、既に事切れている。
口元に満足そうな笑みが浮かんでいる所を見ると、最期にあの気配の感謝の言葉を聞く事は出来たのであろうか。
オボロの命を代償とした援護により、漸く一人の少女を救う事の出来た上泉伊勢守。
その間に、一体何十人の剣客が非業に斃れたのだろう。
伊勢守の志す活人剣の道はあまりにも遠く険しい。
こうしている間にも、島の何処かで哀しき剣士達が刃を交え、命を失っているかもしれないのだ。
それでも己が活人剣を完成させられる事を信じて、伊勢守再び茨の道を歩み出すのであった。

【オボロ@うたわれるもの 死亡】
【富士原なえか@仮面のメイドガイ 脱落】
【残り二十名】

【へノ弐/城下町/一日目/夕方】

上泉信綱@史実】
【状態】疲労、足に軽傷(治療済み)、腹部に打撲、爪一つ破損、指一本負傷、顔にかすり傷
【装備】打刀@史実
【所持品】「信」の宝珠
【思考】基本:他の参加者を殺すことなく優勝する。
     一:宮本武蔵とはあらためて勝負する。
     二:機会があれば柳生連也斎の新陰流をもっと見たい。
【備考】※服部武雄から坂本竜馬、伊東甲子太郎、近藤勇、土方歳三の人物像を聞きました。

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最終更新:2015年12月29日 14:00