小ネタ 行きはよいよい帰りは……
「不幸だ……」
二月の二十五日。上条当麻は今にも消えてしまいそうな表情で、帰路を独りとぼとぼと歩いていた。
彼には犬に噛まれたような痕もなければ、空缶で転んだ際にできるたんこぶもない。では、何が彼を不幸たらしめているのか?
今日という日を考えれば答えは簡単。二月二十五日――そう、国公立大学の前期試験が行われる日である。
「っと、あいつにメールしとかなきゃな」
あいつとは学園都市第三位、レールガン、電撃姫、そして今では上条の恋人である御坂美琴のことだ。
彼は携帯電話を取り出すと、かじかんで震える手で新規メールを作成する。
彼は受験に望むに当たって、美琴に勉強を教えてもらいっていた。彼女の教え方は、上条にはそこらの教師よりも分かりやすく感じた。そして彼の成績も徐々に上がっていき、絶対に無理だろうと思っていた憧れの大学でさえ、模試でB判定がつく程度にまでなった。そのときには、ふたりでハイタッチを交わした。
それなのに――それにもかかわらず、今日の本試験で彼の不合格は明確なものとなった。いくつか理由はある。
まず、バスが並んでいて十分遅刻したこと。やたらと鉛筆が折れたこと。マナーモードにしたはずの携帯電話がいきなり鳴り出したことなど。
「結局、言い訳だけどな」
最も悪かったのは、簡単な公式をひとつ、忘れていたことだった。
今年の問題は比較的難しかったようで、その問題以外は壊滅的な状態だった。逆に言えば、その問題さえ解ければ後は天命を待つのみだ。
しかし、その問題も、彼は公式を忘れて芋蔓式に間違えたのである。
これで、少なくとも彼の中では、どう客観的に見ても合格はなくなった。
メールの内容は、試験が終わったことと、感謝の言葉。
彼自身も、身が裂けそうな程悔しくはある。しかしそれ以上に、このことを報告する時の彼女の顔を想像すると、申し訳なさで胸が締め付けられるのだった。
震える指でメールを送信。
返信を待つうちに、男子寮に着いてしまった。
不幸に見舞われないように注意しつつ階段を上るり――手摺で指に棘が刺さったものの――部屋の前まで来た。
そこで違和感。鍵が開いている。
(ま、泥棒に入られたところでインデックスは二月いっぱい小萌先生が預かってくれてるし、上条さんちには金目のものなんて何もないからいいんですけどねー)
そんな軽い気持ちでドアを開けるとそこにいたのは、今は泥棒よりももっと会いたくない人だった。
「おかえり、当麻。お疲れ様」
「ただいま……って、どうして上条さんのお宅に美琴センセーがいらっしゃるのでせうか?」
「アンタが落ち込んでないかって見にきてあげたのよ」
「……それはどーもありがとうございます」
不幸だ。心で呟いたが、流石の上条も口には出さない。
「……その様子だと、駄目だったみたいね」
バレたのは上条が目に見えて落ち込んでいたからなのか、それとも美琴が彼をよく見ているからなのか。恐らく両方だろう。
無言の肯定を上条が返すと、美琴はちょいちょいと手で自分の前に座るよう促した。
重い足を引き摺って、上条は美琴と対面になるように腰を下ろした。
「お疲れ様」
「……多分、落ちたけどな」
「……ぷっ」
ぷっ? 上条が訝しげに視線を上げると、笑いを堪えて肩をひくひくさせている美琴が目に入った。
「……えっと、流石にそれは酷くないか?」
「ふふ、ごめんごめん。でもさ、不謹慎で悪いけど、ちょっと嬉しいなって」
「はい? 何で俺が大学落ちてお前が喜ぶんだ?」
「だって……浪人するんでしょ?」
「両親と相談してからじゃないとなんともいえないけど、したいとは思う」
「なら、私とアンタはひとつ学年差が縮まるわけでしょ? 嬉しくないわけないじゃない」
「さいですか……」
上条は、とりあえず美琴が笑顔なのでいっかと思えた。
ただ、それでもやはり一度手の届きそうになった夢が遠ざかっていくのは、非情で辛いものだったのだ。
知らずに、彼の心には擦り傷ができていた。
「でもアンタはさ」
それまでのからかうような声とは一変、優しく諭すような声色で彼女は上条に語りかけた。
「当麻は悔しくて、情けなくて、辛いわよね? なんで無理やり平静を装うとするのよ。私はアンタの、上条当麻の彼女なのよ? もっと頼ってくれたっていいじゃない」
上条は一瞬呆けたような顔をして、それから徐々に手が震えだした。
「……俺はさ、正直一年前までは大学なんてどうでもいいと思ってた」
「うん」
「だけどさ、美琴に言われて勉強をし始めたら結構興味が湧いてきて、行きたいって思った大学があったんだ」
「うん」
「そこなら学園都市内だし、判定も問題なかったはずだった。だけど、今日受けてきて、終わった瞬間に駄目だって分かった」
「うん」
「美琴に申し訳ないってのもあったけどさ、それ以上に、自分が情けなくって、悲しくて」
そこまで言い切って、上条は美琴に抱きしめられた。
彼は黙って美琴に抱かれ、静かに嗚咽を上げていた。
美琴が抱きしめる力を強くすると、堰を切ったかのように涙が流れた。上条は、恥ずかしさなど一欠片も感じなかった。
美琴は、そんな彼を強く強く抱きしめて好きな人を感じていた。
「悪いな、みっともない姿見せちゃって」
「全然。アンタが他の女に媚び諂っているときよりもよっぽど格好良かったわよ」
「どんな認識してんだ!」
「そんなに元気ならもう大丈夫ね」
「……ありがとな、美琴」
「ん」
「それと、他の人に移り気したことはないからな。俺はおまえ一筋だっての」
彼は感謝の意も込めてギュッっと彼女を抱きしめた。
「ふ」
「え?」
「ふにゃー」
「え、ちょ、もしかして漏電!?」
結果的に、彼は彼女を抱き続けなくてはいけなくなった。
(不幸だ、なんて言えないよな。幸福だー!)
上条には、浪人生活も楽しいものになるなんていうあてのない予感がした。