洒涙雨 2 ―中編―
上条と美琴が乙姫と美鈴に抱き締められたり羽交い絞めにされたり、美鈴が上条に抱きついて美琴が吠えたりした、その後。
「……この状況は一体何……?」
右腕を美琴に。左腕を乙姫に掴まれ、なされるがまま、まるで連行でもされている気持ちで上条は歩く。
連行、という言葉が出てくるのはきっと右が原因だ。美琴が顔を赤くして怖い顔で顔を見てきたかと思えば、すりすりと体全体で反対の腕を掴むようにしている乙姫を、羨ましそうな恨めしそうな顔で見ている。
「きゃー、両手に花なんて羨ましー!」
その中、美鈴は状況と美琴の心境を完璧に理解しているがゆえに茶化す。
「片方は美鈴さんの娘でしょ!?」
「ちょっとアンタ! この子、アンタのなに!?」
「キャッ! 美琴ちゃんったら聞き方がだ・い・た・ん!」
「ちょっと黙ってて!?」
火に油を注がんばかりの美鈴に上条は叫ぶ。
しかし美琴は母の声は聞こえていないのか、ただ上条の顔を言葉では言い表しにくい、それでも不満は伝わってくる表情を浮かべ、睨みつけるように見つめる。乙姫は乙姫で、上条の腕に全身を押し付けご機嫌だ。
「私? 私はお兄ちゃんの妹だよ!」
「い、妹!? アンタ! 妹といつもこんなにくくくっ付いてるの!?」
「違う! 乙姫は俺の従妹! 俺は完全無欠に一人っ子です!」
「でも妹だよ! 前は一緒のお布団に寝てたしね。あ、そうだお兄ちゃん! 今日、久しぶりに一緒に寝ようよー!」
「勝手に話しを進めないでください乙姫さん!?」
上条が抗議を訴える間も力いっぱい上条の腕を振り回しながらねだる乙姫。
乙姫の言葉を受け、本人とその感情を向けられている当人以外には明白な理由で、美琴は顔を赤くして激怒する。
その数歩後ろでは美鈴がそれはそれは楽しそうな顔で場の成り行きを眺めている。
「んなっ!? いいい一緒に寝るって!? そそそそんなのダメに、決まってるでしょ!!」
「えーなんでー?」
「なんでって、それは……」
乙姫の自然な返しに言葉が詰まる美琴。それを見下ろすのは、美琴の起死回生を祈っている上条の暑さとは異なる理由で汗を浮かべている顔。
困った顔をしている美琴に乙姫は何を思ったのか、爆弾を燃料付きで投下する。
「あっ、そうだ! せっかくだから美琴お姉ちゃんも一緒に寝ようよ!」
名案を思い付いたと思っている乙姫の顔は輝いている。しかし、それを聞いた上条と美琴の表情は固まった。そして美鈴はすっごい笑ってる。
時が止まった上条と美琴はたっぷりと間をおいてから言葉を発した。
『…………………………は!?』
「いいわよ美琴ちゃん! 母が許す! だから一緒に寝ちゃいなさい!」
『アンタ何バカな事言ってんの!?』
母親にあるまじき事を楽しそうに笑いながら言ってくれた美鈴に、上条と美琴はついに親への敬意とかそこら辺を投げ捨てた怒鳴り声で突っ込む。
突っ込まれた方は気にした素振りを見せずに笑いながら、乙姫を後ろから包み込むように抱きしめ、上条から優しく引っぺがす。
「冗談に決まってるじゃない~。乙姫ちゃんも、あんまりお兄ちゃんたちで遊ばないのね」
なされるがまま、美鈴の腕の中に収まった乙姫は彼女の腕を下から抱え込むように掴みながら、キョトンとした顔をして見上げていた。
「遊ぶって?」
(あら。この子、天然でしてたのね)
驚いた様にも見える美鈴の顔。しかしその顔はすぐに楽しそうな顔へと変わる。きっと、娘と未来の息子候補を一緒になっていじり回す未来を想像しているのかもしれない。
現在進行形でいじる気満々な美鈴さんだけども。
「それより!」
そんな事を考えていると、いつの間にか正面に立っていた愛娘がまだ上条の腕を引っ掴みながら仁王立ちしていた。
「何でコイツの従妹と知り合いなワケ?」
美琴の質問というよりは詰問に美鈴はチラッと上条の様子を伺う。
美琴に腕を掴まれていて恥ずかしそうな顔をしているが、彼女の質問には同意のようだ。頷いている。
「まま、それは戻ってから話し――」
「ま、待って母さん!! そ、それは投げたら父さんがー!?」
美鈴の声を遮る、大の大人の情けなくも切羽詰まった悲痛な叫びが辺りに木霊する。
それにはさすがの美鈴も驚き、4人ともその悲鳴の方へ慌てて向き直る。けれど、乙姫は呆れたと言いたげな表情だった。
彼らの視線の先には、砂地に深々と突き刺さった白の日傘。それを寸での所で回避した、砂浜にへたり込んでいる上条の父、刀夜。
「あらあら、刀夜さん。避けちゃダメじゃないですか。あらあら、どうしましょう。私、お昼御飯を投げないといけないのかしら」
お札の人もびっくりしそうな陰影を笑みに加えながら、それでも上条の母、詩菜は朗らかに笑っている。それが何とも怖い。砂地とはいえ、深々と突き刺さっている傘がそれを更に際立たせる。
それを記憶喪失後初めて見た息子と、隣に立つ美琴は正直に思った。
(般若……)
とっても失礼な事を思っているが、それを仮に口に出していても反論は来なかっただろう。
息子にそんな風に思われているとはつゆ知らず、詩菜はただ無言で、しかし瞼を薄らと開けながら笑みを浮かべて刀夜を見つめる。
その薄らと開いた瞼の奥に何を見たのか。刀夜は至極怯えながらなんとか弁解しようと手を顔の前で大きく振る。
「お願いですからもう投げないでください! 話し合いでいきましょう!?」
「あらあら、嫌だわ刀夜さんったら。私が何で怒っているのか忘れてしまったのかしら」
「そ、それは父さんのせいじゃ……!」
そのやり取りで大方の事情を察した上条と美琴は、驚愕や恐怖を通り越しやれやれと呆れてそれを見ている美鈴と、もう見なれている乙姫へ視線を移した。
その視線に気づいた乙姫が普段と同じ調子で応えた。
「んーと、おじさんがまた女の人にフラグを建てちゃったんだって」
『なるほど……』
その言葉に上条と美琴は納得するが、美琴は呆れと怒りが混ざった複雑な感情を視線に乗せ上条を横目で見る。
そうしていると、上条たちの姿に気付いた刀夜が藁にも縋る気持ちでその事を奥様に畏みながら進言していた。
「え、えーと母さん? 美鈴さんたちも戻ってきたし、ほらっ、当麻たちも来たみたいだからやめませんか……?」
指さしながら言う刀夜の言葉に、詩菜はその指の先へ視線をやる。
それぞれ複雑な表情でこちらを見ている上条たちの姿を視界に入れるや否や、先ほどまでの笑みなど初めからなかったかのように、令嬢の様な爽やかな笑みを浮かべる。
「あらあら、はしたないところを見せてしまいましたね。ごめんなさい」
潮風に靡く髪を抑え、口元に手を当てこれまた令嬢の様に笑いながら言う詩菜の傍では、九死に一生でも得たかのような顔をした刀夜が胸に手を当てて深いため息を吐いていた。
数度息を吐いてようやく落ち着いた刀夜は、立ち上がりシートを手で示しながら着席を促す。
その手に促されて荷物を持った美鈴と乙姫が、シートに焼きそばを始めとした昼食を置いていく。
「わざわざ買いに行ってもらってすいません、美鈴さん」
「いえいえ、気にしないでください。楽しかったですし」
言いながら横目に映るのは愛娘と、いつまでそのままでいるつもりなのか、未だ手を掴まれている未来の息子(予定)。
「私はー?」
「乙姫ちゃんもありがとう」
無視した訳ではないが、されたと思った乙姫が手を上げた所に刀夜は父親の顔で彼女の頭を優しく撫でまわす。その下には満足そうな乙姫の笑み。
刀夜の隣に立ちながら詩菜はまだ砂浜に立っている2人を手招きする。上条と美琴も手招きに応じ、シートへ上がる。
「あらあら、当麻さんったらいつの間に美琴ちゃんとそんなに仲良しになったんですか?」
暖かく微笑んでいる詩菜の言葉に少しの間キョトンとする上条と美琴。が、何を言っているかすぐに気付いて、雷に打たれたかのように体をビクッと動かす。
『っ!?』
慌てて手を離す上条と美琴を詩菜は母親の顔で朗らかに微笑む。
「私余計な事言っちゃったかしら」
「母さんっ!!」
「あらあら、当麻さんに怒られちゃいました」
座りながら顔を赤くする上条の言葉を受けても、詩菜はそれでも笑みを絶やさない。むしろ嬉しそうな顔をしている。
その傍では、借りてきた猫以上に体を小さくして大人しくなっている美琴が、声もなくちょこんとシートに座り込む。さりげなく上条の隣に。
自分が座った場所に気付いて、さらに体を小さくして耳まで赤くする美琴を母は見逃さなかった。
「美琴ちゃ~ん、顔真っ赤~」
にしし、と意地の悪そうな笑みを浮かべる母に美琴は食ってかかる。
「うっさいわよ!」
「美琴ちゃんかーわいっ!」
「だからうるさいわよ! それより! 何でコイ……っ、ああ、えと……」
いつもの様にコイツと上条を呼びきる前に、寸での所で美琴は口を閉じる。両親を前にコイツ、と呼ぶのは憚れた。が、それはそれで困る。ぶっちゃけ、上条の事をなんて呼べばいいのかわからない。
今までずっと上条の事を、コイツとか、アンタとか呼んでいたので、今さら改めて彼の名前を呼ぶのがすごく恥ずかしい。
そんな感じでもじもじしていると、美琴の心中を正確に理解している美鈴は小さく笑いながら、彼女が聞きたい事を代弁する。
「美琴ちゃんが聞きたいのは『何で当麻くんの家族と一緒にいるのか』でしょ?」
「そうそれよ! なんで!?」
美琴の隣で上条もしきりに頷いている。
美鈴は袋に入っていたトウモロコシなどを出しながら答える。
「元々は私たちだけの旅行だったのよ」
『――?』
美鈴の言葉に上条と美琴は仲良く首を傾げる。
元々は、詩菜と美鈴だけの奥さんの息抜き旅行の予定だったのだ。ちなみに旦那はお留守番。それが詩菜の、当麻さんは夏休みはどうするんでしょう、という一言で、両家族そろっての旅行へと転がっていた、という訳だ。
御坂家の大黒柱こと旅掛は例によって海外へ出張中。
「じゃあ何で私たちに内緒にしてた訳?」
美琴の質問に母はあっけらかんと答えたものだった。
「面白そうだから!」
笑顔で言う美鈴に、ああそうですか、とぐったりとした面持ちで上条と美琴は肩を落とす。
その間も着々と昼食の準備は進み、焼きそばを並べている乙姫の隣では、詩菜がシートの重し代わりに置かれたカバンからおにぎりを取り出し、刀夜はクーラーボックスから冷えた飲み物を取り出す。
その光景を視界に収めながら、上条は思った事を素直に口にした。
「美鈴さんって、面白い人だよな」
「その言葉、熨斗付けて返してあげるわよ」
その呟きが耳に入った乙姫が、熨斗ってなにー、と聞いているのを耳に入れながら、保護者たちは素知らぬ顔で並べていく。
何で素知らぬ顔をしているかというと、さっきの旅行のいきさつ。あれ、実は全て嘘だったりするから。
ぶっちゃけ、いつまで経ってもくっ付かない存外甲斐性の無い2人をどうにかしてくっ付けてやろうかとこの旅行を思い付いた、という理由だったりする。
丁度いい事に、彼らが泊っている旅館は今日、ちょっとしたイベントがあるし。
「さっ、食べましょっか」
そんな両親の思惑の渦中に居るとは知らない2人は、美鈴のその言葉で並べられた昼食を前に皆と一緒に手を合わせ食べ始める。
右に美琴、左に乙姫という何とも落ち着かない食事をしている上条に、詩菜からおにぎりを受け取った刀夜が話しかけた。
「そういえば当麻。お前、願い事は書いてきたか?」
「願い事?」
おにぎりを頬張りながら不思議そうに顔で父を見返す。
「何だ、お前。知らないのか?」
「今日、私たちが泊っている旅館は七夕のイベントをするらしいですよ」
刀夜の言葉を引き継いだ詩菜のその内容に上条は首を傾げる。
右側で美琴がピクっと動いたのを横目に、上条は徐に美琴の着ているパーカーから携帯を取り出す
「ちょ、ちょっと何するのよ!?」
「ああ、悪い。パーカーのポケットに携帯入ってんだ」
ただでさえ近い上条の体が急接近してきて顔を赤くする美琴をしり目に、携帯を開いて今日の日付を確認する。カレンダーには8月6日。
七夕と言うと7月7日というイメージが強い。人によっては1月遅れの8月7日の方が思い浮かぶか。どちらにせよ、8月6日に七夕というのは変な気がする。
「ここの旅館ってね、珍しい事に毎年旧暦に則ってやってるみたいなのよ」
上条のその疑問に、もう氷が解けてジュースとなっているかき氷を飲んでいた美鈴が答えてきた。
気の抜けた返事をした後に、上条は頬張っていたおにぎりを全て飲み込み、美琴が差し出してきたお茶を一口飲んでから、何となく右へ新しい疑問を口にする。
「旧暦って、8月7日じゃないのか?」
「旧暦は今と暦の作り方が違うから今の暦から見ると毎年日がずれてるのよ。アンタが言ってるのはあくまでも旧暦風。月遅れの行事の事よ」
「そりゃまた何ともややこしい事だな」
今度は焼きそばに手を伸ばしつつ、どこか余所余所しい美琴に相槌を打つ。
彼らの泊っている旅館は上条曰く『ややこしい旧暦』に則っているため、七夕が毎年異なる。今年みたいに世間とは大差ない日だったり、大きく離れて月末だったりする事もある。
それはともかく、七夕という事もあって旅館のロビーと敷地内の庭には大きな竹が飾られていて、宿泊客や通りすがった人達が思い思いに短冊に願いを書いていく。
(あー、そういやあったかも。乙姫に散々振り回されて疲れてたからロビーのとこあんま覚えてねぇんだよなぁ)
上条は焼きそばを啜りながら旅館に着いた時の事を思い出す。
頑張って思いだせば、ロビーのひと際広い所に何か黄緑っぽいものがあった気がしなくもない。海に来る時も周りを見ないでロビーを素通りしたし、庭は行ってないから分からないし。
「ねえねえ、お兄ちゃんはどんなお願い事するの?」
「そーだなー」
まるでハムスターみたくトウモロコシを齧っている乙姫の言葉に、思わず箸を止めて唸りながら考え始める上条。
それを微笑ましく眺めるほぼ正面に居る上条夫妻の隣では、美鈴が右隣に座る美琴の肘を自分のそれで軽く小突く。
「(ねね、美琴ちゃん。もしかして、知ってる?)」
ひそひそと小声で話してくる母の声に、ピクッ、と分かりやすい反応を示す娘。
言葉よりも雄弁に語るその反応に母は何やら意気込んだ表情を浮かべ、小声ながらも楽しそうな声で娘へ言葉を掛ける。
「(じゃあ美琴ちゃん、レッツゴーよ! お母さん応援してるわ!)」
「(お、応援って何よ!?)」
「(え、それはもちろん~、未来の息子を連れてきてね♪ って事よ!)」
「はぁ!?」
ぶっ飛んだ事を言ってきた母の言葉に、美琴は素っ頓狂な叫びを上げる。それで注目を浴びて恥ずかしそうに体を小さくしつつ座るも、母へのひと睨みは忘れない。
その睨みにひるむどころか、楽しそうな眼差しを返す美鈴に美琴は小声で食ってかかる。
「(このバカ母! アンタ何言ってんのよ!?)」
「(あはは、ごめんごめん。美琴ちゃんが可愛いからつい♪)」
「(つい、じゃないわよ!)」
「(まま、それより。当麻くんには言わないの?)」
「(い、言うって何をよ……)」
と、拗ねた様な口調で尻すぼみになる美琴の言に、美鈴はやれやれ、と小さくため息を吐きつつ軽く肩をすくめる。
この子の事だから、上条への想いは気付いている事だろう。上条への反応や態度を見ればそれはほぼ間違いない。ただ、それがなんて言う名前なのかはまだ気付いていないのだろう。
(美琴ちゃんってば変な所で鈍いからねぇ~)
急に何かを悟ったかのような顔をする美鈴。それに怪訝な表情を向ける美琴をしり目に、母はそう思う。
ここで母には一つの悩みが。美琴の抱いているその感情の正体を教えてあげるべきか、自分で気付くのを待つべきか。
もちろん、自分で気付くならそれに越した事はない。けれど、勝手きわまる願いだが、美琴には今日この日にこの場所で上条へ言って欲しい。
(じゃないとわざわざこの旅館を選んだ意味がなくなっちゃうわよ)
この旅館には一つの伝説、と言うと誇大表現になるが、その類の事がある。
その中身はひどく在り来たりな物ではある。だが、その由来となっている出来事が恋愛とは縁遠い事なのだ。それが伝説となっている事にご利益を感じている人が意外といて、話題となっている。
その話を知って、美鈴たちはこの旅館に決めたのだ。
(うーん、どうしたものかしらね~)
ペットボトルのお茶を飲みながら人知れず、という訳ではないが悩む美鈴。隣から飛んでくる娘の怪しむ視線は自然に無視している。
そして悩んでいるもう1人は何か閃いたのか、バッと顔を上げる。
「お願い決まったの、お兄ちゃん?」
「おう! 決めた! タイムセールに遅れない!」
意気揚々と力強く言った上条の願い事に、場の空気が何とも言えない微妙な物へ、そして生ぬるいものへ変わっていく。
1人その変化に気付かない上条は、得意満面にガッツポーズなんかしている。
しかしこれは上条にとっては相当に切実なお願いなのだ。苦学生たる上条にとって、タイムセールに間に合う如何はそのまま死活問題に直結するのだ。
「お前、もうちょっとなぁ……」
呆れを隠さない父の言葉に上条はムッとするがここは譲れない。詩菜と美鈴と乙姫も刀夜と同じような表情をしているが、何と言われようと譲らない。
美琴は上条の性格から言いそうな事が推測出来ていたので、3人ほどの呆れはない。それでも、実際に聞くとやはり脱力してしまう。
「別にいいだろー。俺の願い事なんだからさ」
美琴達のその反応が多少は気に触ったようで、上条は少し斜に構えてそう言う。
「まぁ、お前がそれでいいなら父さんたちは構わないけど……」
それでも、他にもいろいろあるだろ、という思いを消し切れず惜しむ様な声になってしまう。
刀夜のその言葉でこの話はここまで、という空気が流れ始め、空気は食事を始めた頃のそれに戻った。
しばらく続いた昼食の途中、いつの間にかトウモロコシからイカへと標的を移し、中々噛み切れないイカと闘っている乙姫の姿に微笑みながら、上条は箸を置く。
「さて、と~」
言いながら上条は膝に手をついて立ち上がる。
「なんだ当麻。もう食べないのか?」
「おにぎりもまだありますよ?」
刀夜はおにぎりを頬張りながら、詩菜は同じ物を上条へ差し出しながら意外そうに尋ねる。
チラッと見まわすと全員が似たような顔をしている。
「あんま腹減ってなかったし、海で泳ぎたかったから。あ、おにぎりは後で食いたい」
「あ、ちょっと待って。私も行く」
そう言ってサンダルを履いて海へ行く上条。その背に少し慌てた感じの美琴の声が届いた。
美琴は飲んでいたお茶を置き、パーカーを脱いでサンダルを履いて小走りで彼女を待っている上条へ駆け寄る。美琴が隣に来てから上条は改めて海へ歩いていく。
「あんまり沖まで行かないでくださいねー」
心配する詩菜の声に背中を向けて、上条はおーと気の抜けた返事と共に美琴の分も含めて大きく手を振る。
小さくなっていく家族の声を背に、美琴は楽しそうに上条の隣を歩く。
海は本当に久しぶりだ。学園都市には海そっくりのプールがあるが、やはりそれはプールでしかない。海の独特の開放感も、泳いだ後の爽快感もない。
「お前、海好きなのか?」
波打ち際まで来たところで、そのはしゃいだ様子に気付いた上条が口を開く。やっぱり美琴の姿を直視しないまま。いい加減慣れてもいいと自分でも思うのだが、一向に慣れる気配がない。何故だろう。
「うん、好きよ。アンタは?」
ちゃぷ、と足を海に濡らし水の冷たさを堪能し、腰を屈めてぱしゃぱしゃと小さく水遊びをしながらそう言う美琴の言葉を背後に、上条はそのままじゃぶじゃぶと深い所へ歩いていく。
「んー、正直わかんねぇな。俺、海ってこれで2度目だからさ」
ヴェネチアの時を含めれば3回になるが、果たしてアレを数に入れていいのか。
まぁそれはいいとして。前回は浜辺で眺めていただけで終わったので、実際に海で泳ぐのはこれで初めてだ。
腰まで海に浸かりながら、その水の冷たさと間近で感じる潮風と匂いを全身で確かめるように、少しその場に立ち尽くす。
「ふーん、じゃあ好きになりなさい」
「命令かよ……」
隣に立ち水平線を見ながら偉そうに言う美琴に、上条は呆れ交じりの笑みを浮かべる。
さー泳ぐぞー、と息まいていた美琴が何かに気付いて隣の顔を見上げる。
「なんだよ?」
「いや、アンタって泳げるの?」
「まぁ、たぶん人並みには」
やっぱり美琴を直視しないまま言って、上条はクロールで少し沖へ泳いでいく。
自分で言った通り、人並み程度で大して速くもない。その事にホッとした半面、物足りない思いが最近読んだ漫画のワンシーンと一緒に浮かび上がってくる。
「……泳ぎを教えるとか、そんな事してみたかったな」
海やプールではほぼお決まりのアレだ。それでなんか良い雰囲気になっちゃったりするアレだ。それを仄かに期待していた美琴だが、眼前で楽しそうに泳ぐウニに砕かれた。
流れる思考の中、自然と出てきた『泳ぐウニ』という単語に思わず噴き出す。
まぁ、泳げるなら泳げるで別の楽しみ方があるからまるっきり残念、という訳でもない。
「どう? 好きになれそう?」
泳ぐのが疲れたのか、仰向けで海にぷかぷかと浮いている上条の傍によって、美琴は浮き輪代わりに彼の腕を掴む。掴む時に少し逡巡したが、意気込んで掴む。
それで少しバランスを崩したが、すぐに立て直して青空を眺めながら上条は言う。
「なれそうだな~。こう、ただ浮かんでるのも気持ちいいしな」
「ならよし」
「さっきからなんか偉そうだな、お前」
ほんわかとした空気の中、互いに笑みを浮かべながら交わすその言葉。
美琴にとって、上条には海を好きになってもらった方が嬉しい。この先、また上条と一緒に海に来る事が無いとは言い切れない可能性があるという、美琴の期待がある以上、好きになってもらわないと困る。
(そ、そう! あくまでも可能性の話よ! 今日みたいな日が無いとも限らないし、その時コイツが海が嫌いだと私も楽しめないし! コイツの為じゃないわよ私の為よ!)
誰へでもなく自分の中で弁解する美琴。
体は海に浸かっていて冷えているのに、顔はどんどん熱くなっていく。そう、これは別に上条の事を考えているからではなく、太陽のせいだ。と、美琴は思う事にした。
「あ、あの、御坂さん……」
「な、なによっ」
そんな状態で不意に上条に声を掛けられ、若干声が上ずる。それに対し上条の声に僅かに含まれるのは苦悶の表情。
「その、腕が痛いんですが……」
「へ? あ、ごめん!」
言われて美琴はようやく手に力が入っていた事に気付き、慌てて上条の腕から手を離す。
指先に痺れたような感覚が残っているから、結構な力で掴んでいたんだろう。見れば上条の腕にも指の跡が残っている。
「何か考え事でもしてたんだろ? 気にすんな」
上条も痛みを感じている筈なのに、その素振りを見せず、今度は手足を心行くまで広げ大の字で寝るように浮かぶ。
美琴はその隣で、何をする訳でもなくちゃぷちゃぷと波に揺られ一緒に空を眺める。次第に、立ち泳ぎも疲れてきて、上条と同じように体を海に委ねて仰向けになる。
「なー御坂ー」
海で冷える背中と太陽に焼かれる腹のその感覚を感じながら、それでも不思議なくらいに穏やかな内心に釣られ、上条の声は間延びした柔らかいものとなっていた。
その事は上条自身もわかっていた。しかしそれ以上に、何とも心地よい衝動を上条の心は感じていた。
初めての感覚だった。美琴が隣に居る事が、こんなにも心地よく落ち着いて、それでいてどこか気恥ずかしいと思う。そんな感覚は。
「んー何よー」
応える美琴も上条と同じような声音で返す。若干、彼女の声の方が柔らかいか。
ぷかぷかと穏やかな波に揺られているのは体だけではなく、心までもがその波に揺られている気が美琴はした。
穏やかな空気に身を浸し、波に心を委ねているからだろうか。美琴を不思議な感覚が襲っていた。
(ああ、そっか……)
あれだけ自身の心を襲っていた衝動が穏やかになっていく。けれど強さは静かに、だが確かに増している。
あれだけ複雑に絡み合っていた糸がほどけていく。そして一本の太く強く、そしてしなやかな想いへと紡がれていく。
暑いくらいのまぶしい日の光を一緒に浴びて。
ひんやりとした海の冷たさを一緒に感じて。
時おり鼻を突く潮の匂いを一緒に嗅いで。
耳を打つ波と海鳥の声を一緒に聞いて。
隣にコイツがいる事を一緒に想って。
「俺さーこういうのがさー」
上条のほんわかした声を聞きながら、紡がれた想いを自覚する。
「こういうのがー?」
波に揺られて偶に触れる上条の指にときめく。けれど前みたいに鼓動が早鐘を打つ事はない。
苦しさも、切なさもない。心にあるのは優しく暖かい、たったひとつの感情。
(こんな簡単な事だったんだ……)
紡がれた想いを自覚すれば、今まで彼女を襲っていたたったひとつの感情が、こんなにも簡単にわかって、こんなにも嬉しく思える。
上条の低くて力強くて、とても優しくて暖かい声が美琴の心に届く。
「しあわせーなんだと思うなー」
しあわせそうに、あんまりにもしあわせそうに言うものだから、美琴の顔が破顔する。
でも、それでも対抗意識を持ってしまうのは、きっと自分が素直じゃないからだ。
「そうねー」
自分は、上条に負けないくらいしあわせだ。いや、きっと上条よりもずっとしあわせだ。
だって、自分はこんなにも。
(コイツの事が『好き』なんだから……)
破顔しながら眠る様に目を閉じる。
知らなかった。好きって、こういう事なんだ。
こんなにもあたたかい事なんだ。
こんなにもやさしい事なんだ。
こんなにもうれしい事なんだ。
(コイツを『好き』になるのって、こんなにもしあわせな事なんだ……)
きらめく太陽と鮮やかな水色の下、気付けば2人は互いを離さないよう固く手を握っていた。
「……うーん、これは声を掛けられない雰囲気……」
2人から少しばかり離れた所。そこに美鈴はいた。
そろそろ旅館へ戻ろうと、2人を呼びに来たのだが、来てみれば近付けない空気が。
困っている筈の美鈴だが、その顔にあるのは嬉しさだけだった。