花火の夜の物語 前編
「いったいどうしたってのよ、私――」
いつもの公園の、いつもの自販機の前で、いつものように彼と待ち合わせ。
今日はこれから恋人、上条当麻との花火見物デートなのだが。
美琴は上条との待ち合わせ場所に向かう途中で、はぁっと大きくため息をついた。
楽しみにしてたデートだからと、わざわざホテルの部屋でお気に入りの浴衣に着替えてきたと言うのに。
「――うっかり携帯を忘れてくるなんて、ねえ」
少しでも早く、彼にこの浴衣姿を見せたくて。一刻も早く、彼に会いたくて。
今日のデートを、ずっと楽しみにしていたのだから。
そんなうきうきした気持ちを抑えきれず、待ち合わせ場所のいつもの公園へ向かう途中、道半ばまでやって来た時、はっと気がついた。
時間を確かめようと巾着やら袂を探ってみたが、ゲコ太デザインの手慣れた感触はどこにも無かった。
急いで飛び出してきたから、部屋に置いてきた制服のポケットに、大事な携帯電話を入れたままにしてしまったのだ。
幸いにも財布だけは忘れなかったから、電話はどこか公衆電話から掛ければと思ったが、今はとにかく、待ち合わせまでの残り時間を知りたかった。
どこかに時計はないかと、辺りを見回したその時。
「――――っ!」
すぐ横の路地の奥で、なにやら不穏な気配がし、同時に悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
展開した電磁波レーダーに感じられるのは、その暗闇の先にある複数の人の反応らしきもの。
思わずその方へと一歩踏み出しかけた時、上条との待ち合わせまで、あまり時間が無い……という迷いが美琴の中に生まれた。
気付かなかったことにして、このまま公園へ向かえば、おそらく時間には間に合うだろうと思う。
今から恋人との楽しい時間が待っているのだ。それは誰にも邪魔をされたくはない。
それに、この目の前から続いている薄暗い路地の奥に待っているのは、何も悲劇だとは限らない。本当に、単なる気のせいかもしれないのだ。
「…………」
そんな内心の囁きを、緩みかけた足を、しかし美琴は、振り払うようにして闇の奥へと歩みを進めていた。
自分の恋人なら、何の躊躇いも無く路地の奥へと駆け込んでいくだろう。
この先に何も無ければ良い。だが、もしもそこに、助けを求める者がいたとしたら。悲劇に襲われようとする者がいたとしたら。
例え自身が不幸に巻き込まれるのだとしても、彼は、恋人は、上条当麻は、損得抜きに行動するのだ。
目の前に『助けたい』と思う相手がいるからという理由だけで、十分に拳を握る力になるのだから。
(――こんな迷いが出ちゃうようじゃ、私もまだまだ当麻には追いつけてないってことよね)
電磁波レーダーで様子を探りつつ、路地の奥へと足を向けながら美琴は思う。
元々の正義感では、自分だって上条に負けてはいない。
だが、とっさの時に迷いが出るようでは、まだまだ彼に並び立てるような器ではないのだろうと。
「LEVEL5」でありながら、「LEVEL0」の恋人にかなわない。
そんな未熟な自分を思い知らされて、御坂美琴は更なる成長を誓うのだ。
上条当麻の恋人として、相棒として、パートナーとして。いつだって彼の隣に立てるように。
(――絶対に、負けないんだからっ。いつか、きっと……)
忘れもしないあの11月の夜。
上条当麻が、無事にロシアから帰ってきたときのことだ。
差し伸べた手を振り払い、まだやることがあると言って、一人、巨大な要塞と共に目の前で北極海へと消えていった上条に、叫ぶことしか出来なかった自らの不甲斐なさ。
もう二度と上条を、好きな男を、大切な人を、目の前で失うような思いはしたくないし、そんな危地へ向かおうとする彼の役に立ちたい。
何よりも、彼を助けたい。
そんな想いに突き動かされ、あの時もまた、どこかへ出かけようとする上条の手を掴んだのだから。
(あの後、結局また、置いてきぼりにされちゃったけどさ……)
それでもハワイから帰ってきた後、一端覧祭の最中、上条を窮状から救い出すために、北欧神話の『戦乙女(ワルキューレ)』によく似た能力者と戦った。
何よりもその騒動の中、上条が撃たれて大怪我を負っていたのを知った時、美琴は無力感と絶望にも似た焦りに襲われた。
幸いにもサンドリヨンのおかげで、応急処置は出来てはいたものの、上条が、傷ついていくことに内心、我慢がならなかった。
だが一方で美琴は、そんな上条を止められない。止めるつもりもない。
(惚れた弱みってヤツ……なのかしらね。――っていうか)
少なくとも自分の恋人は、そんな『小さな』枠に収まって安堵するような男でないことは確かなのだ。
ゆえに自分に出来ることは、ただ彼の背中を叩いて送り出すことだけ。
むしろ他の誰よりも彼の思いを知っているのだから。
あの日あの時、上条の芯に触れることが出来た自分だからこそ、例え心で泣いていても、笑って彼を送り出してやれるのだと。
だが自分には『LEVEL5(超能力者)』として戦う力がある。
これまで想像すら出来ないような『世界の闇』と戦ってきた、上条の背中を守ることが出来るのもまた、自分なのだ。
彼の心からの笑顔を見たいと思うからこそ、いろいろ文句はあれど、その想いだけは貫かせてやりたいと美琴は願う。
それこそが、上条が上条当麻らしくあるためなのだから。
やがていつしか気が付けば、上条をなんとしても守りたいという想いが、自分の心を埋め尽くしてしまっていた。
彼が自分をどう思っていようと構わない。むしろ友達としか思っていないだろうと。
それでも美琴は、もはや自分の心をさらけ出すことに躊躇いはなかった。
その先に悲劇が待ち受けているのだとしても、この想いを止めることが出来なくなっていた。
そしてついにこの気持ちを、愛しいと思うこの心を、その年のクリスマスイブに、美琴は上条に告白した。
――その結果、今、こうして上条と恋人関係にあるわけだが。
だが実のところ、本当の意味で、彼と肩を並べられることが出来ているかと言えば……
(少しは……出来ているとは思うけど……)
恋人はそんな自分の想いを知っているからこそ、危険な戦いには巻き込みたくないという。
自分はそんな彼を助けたいから、一緒に付いていくと迫り、結局いつものように言い争いになって、どちらかが折れることになる。
とはいえ、ほぼ九割で美琴の言い分が通り(上条曰く、泣く子と何とやらには勝てないのだとか)、残りの一割は上条に気付かれないよう、美琴がこっそり付いていき、現地でバッタリというサプライズ。
もちろんそんなことが出来るのも、いろいろと協力者がいるからなのだ。
上条家の居候にして、今や美琴の親友であり、恋敵(ライバル)でもある『ちびっこシスター』ことインデックス、『妹達(シスターズ)』、更には浜面仕上に、なぜか舞夏の義兄までもが、こっそりと美琴へ情報を流してくれる。
これで幾度と無く、上条の危機を救うことも出来たが、逆に上条に救われることも多々あったりすることで、むしろ負担になっていやしないかと不安なのだ。
(ま、まあ、お互い様ってトコロ、ならいいんだけどね)
今も彼に付いて行こうとする度に、上条との押し問答が起こることが結果を物語っているのだろうと思う。
結局は押し切って、無理やり上条に付いていくか、あるいはこっそりと彼の後を付けていくかしないと彼の助けになれないのだ。
(そんなに私は、頼りないか……。でもっ……いつか、きっと……)
自分から手を伸ばし続けなければ、彼に届かないという現実を目の前にしても、美琴は決して挫けない。
努力して「LEVEL1」から「LEVEL5」まで昇り詰めた彼女だからこそ、目の前のハードルを飛び越えることに心を折られないのだ。
彼を信じ、自分を信じて努力すれば、いつか必ず報われるときが来ると知っているのだから。
(当麻の方から手を伸ばしてくれるようになるまでっ……私はっ……)
そんなことを考えているうちにも、辺りに何やら剣呑な雰囲気が漂い始める。
美琴はやがて思考を止めると、闇を照らす稲妻のごとく、その空気を切り裂くように飛び込んでいった。
「遅い……」
携帯で時間を確認しながら、上条当麻は呟いた。
いつもの公園の、いつもの自販機の前で、いつものように彼女との待ち合わせ。
今日はこれから恋人、御坂美琴と花火見物デートの予定、だったのだが。
夏の夕暮れは、学園都市のビルというビルを真っ赤に染め上げて、クライマックスを迎えようとする時刻。
東の空にはすでに一番星の瞬きが見えている。
「なに、やってんだ……アイツ」
今日の上条は、珍しく時間に遅れることもなく、待ち合わせ場所に着いて、待っているはずの恋人の姿を探すが、そこに目指す彼女はいなかった。
いつもなら自分が待ち合わせに遅刻して、彼女から「遅い」と電撃付きで叱られているはずなのだ。
彼女の傍へと駆け寄る自分の姿を見て、満面の笑みを浮かべる可愛い恋人がいるはずだったのだ。
なのに、――なぜか美琴は、ここにいなかった。
初めのうちは、珍しいこともあるもんだな、と思い、たまには待ってみるのも悪くないかと上条は軽く考えていた。
だがそれが、約束の時間を十五分過ぎ、三十分を過ぎても彼女は現れない。
電話もなく、メールひとつも寄越さない美琴に、彼は珍しくイライラを募らせることとなる。
「始まっちまうじゃねえか、花火……」
そう呟くと、上条は携帯を取り出すと、美琴の番号にかけた。
が、呼び出し音は鳴るものの、一向に彼女が出る気配はない。ただ虚しく呼び出し音が鳴り続けるだけ。
「………………」
美琴が携帯を手放すなんて、まずもって考えられないことだ。
ならば彼女が電話に出られない理由。それは一体……。
日が沈み、夜の帳が下りてあたりを闇が包む直前の、人気の無い公園のはずれ。
通り過ぎる人の顔もわからなくなるような暗闇が迫りつつあるこの刻に、姿を現さない恋人と、誰も出ない電話。
上条は、プチッと終話ボタンを押すと、思わず唇をかみ締める。
その瞬間、彼の胸の中へ、するり、と魔が滑り込んだ。
真夏にもかかわらず、少年の身体にゾクリと鳥肌を立たせるほどの冷たさが、胸の中に出来た錘のような塊となっている。
それは、ずっと世界の深いところで戦ってきた少年の勘のようなものか、はたまたこの『学園都市(まち)』の闇が自分達へと、その魔手を伸ばしている予兆なのか。
上条は、この街から『闇』というものが消えたとは思っていない。
むしろここ、科学の街に『人』が住まう以上、その『人の心』から生み出される『闇』は、いつ、その牙を自分達へ向けないとも限らないのだから。
少なくとも自分の傍にいて欲しい、誰よりも愛しい少女は、そんな科学の闇に捕らわれかけたことだってあるのだ。
「美琴…………」
黄昏時は逢魔が時。
薄暗い夕闇のベールのため、人の顔が見えない時間に、ぼんやりとした物影から、異形のものが生み出されるような感覚を覚える。
近づいてくる人影は、果たして人か、魔物か。
一日のうちで、忌まわしく、不吉な感じのする時間帯に、人は己の心を通して、魔物を見る時があるのだと言う。
ここは科学の街であり、オカルトなど一顧だにされないのだとしても、『闇』は常に心の中に存在する。
公園の街灯は、明るく辺りを照らしてはいるが、その光は人の心の奥底はもちろん、茂みの向こう側さえも届かない。
上条には、その闇の中で、誰かが、そう、大切な恋人が助けを求めているような感覚に襲われていた。
『上条当麻は、御坂美琴とその周りの世界を守る』のだと、彼女から愛の告白を受けたその日に、改めて心に誓ったのだというのに。
一向に姿を見せない恋人を探しに行こうとしたが、なぜか彼には、その一歩が踏み出せない。
ここでひょいと道を間違えたりしたら、もう二度と彼女に会えなくなりそうな気がして、どうしても足が竦んでしまう。
このまま待つのがいいのか、探しにいくのがいいのか、自分でもその感情を制御できなくなっていた。
まとまらない思考を、何とか無理やりにまとめなければと思ってはみても、矛盾を孕んだ考えが頭の端々で、様々な衝突を繰り返すだけ。
だからこそ、彼は己の心に問いかける。
もし自分の目の届かないところで、美琴の身に何かあったら、自分はどうするのか。
私も一緒に戦えると言い、当麻の背中は私が守るだなんて言われ、その戦乙女さながらの凛々しい姿に、つい惚れ惚れと魅入ってしまうほどの恋人であるのだとしても。
この街の頂点に君臨する、超能力者の彼女に限ってまさか、とは思いはするものの、それでも美琴は普通の女の子なのだ。
自分の知らないところで傷ついてやしないかと、ずっと心配しながら待つことが、実はこんなにも辛いことなのだと、上条は今、初めて理解できたような気がした。
誰かを助けたいと、後先考えずに飛び出して、あげくに死の寸前まで追い詰められることだってしょっちゅうな、こんなバカな自分に文句を言いつつ付き合ってくれる。
いつだって、笑って背中を叩いて送り出してもくれる。
「あいつ……もしかして」
自分が傍にいない時、ずっとこうして、こんなに心配して、こんな辛い時間を過ごしていたのか、と上条は思った。
「そりゃあ……付いていくって言うはずだよなあ……」
思えばこれまでも、幾度となく美琴には助けられてきた。
何の能力もなく、ただ『打ち消す力』だけを持った非力な自分が、一人きりならとても敵わないような相手と戦うことが出来たのはなぜか。
ヒーローだなんて大層なものではないけれど、どこにでもありそうな小さな物語の主人公として。
いや、数多の群像劇に出演する一人として。
『救済の物語』を織り成すたくさんの糸を紡ぎ出せたのは、ひとえにそれは、彼女、――御坂美琴という支えがあったればこそ、とようやく心から理解できたような気がした。
いつでも、どこでも、どんな時でも信じて頼れる大切な存在。相棒。パートナー。
何よりも――愛すべき恋人。
なんとしても守りたい、その笑顔を。心を。想いを。
「ははっ……確かにこりゃ、同じ道を歩いていくしかねえよな……」
いつのまにか、御坂美琴という存在が、自分にとってかけがえのないものになっていたことに、上条の心が大きく揺さぶられる。
言い知れぬ不安と、心配に苛まれ、更には彼女を失うことの恐怖が、ギリギリと彼の心を締め付けていく。
「美琴…………」
ふと口をついて出た恋人の名を呟きながら、彼はぎゅっと、右手のこぶしを握り締める。
いつもとは逆に、置いてきぼりにされたような心境に、慣れていない上条の心に不安が沸き立っていくのだ。
「………………」
そんなじっと待つことの不安に、心が押しつぶれそうになった上条が、もう一度、足を踏み出そうとしたその時、
――――ドドォォォオオオン!!!!
お腹に響くような大きな破裂音と共に、真っ黒だった周囲のビルの窓が、一斉に明るく輝いた。
~~ To be Continued ~~