「確かにさ、気にはなってたんだよね」
しゅうう、とかすかな音を立てて注がれるサワーに目を落としつつ、美琴は
言う。
言う。
「アンタだって未成年だし、何で冷蔵庫にそれが入ってるんだろうってさ。
結局聞きそびれてたけど」
結局聞きそびれてたけど」
グレープフルーツ・フレーバーのサワーだったが、色はジュースと違って
無色透明だ。アルコール独特の臭いがちゃぶ台に現れてくる。
無色透明だ。アルコール独特の臭いがちゃぶ台に現れてくる。
「隣の住人にさ、妹に見つかったらマズイから隠しておいてくれって言われた
んだ。まあ隠すっつってもベランダだけどな。冷やしていたのはまあなんとなく。
場所代としていくつか飲んで良いって言われてるし」
んだ。まあ隠すっつってもベランダだけどな。冷やしていたのはまあなんとなく。
場所代としていくつか飲んで良いって言われてるし」
今さら言わずもがな、学園都市とは学生の街である。比率にしてその数は
八割。当然そうなってくると、風俗関係を始めとした法規に関わってくる物品
は広くNGということになる。実際、酒たばこ類はコンビニ・スーパーなど
身近な施設では扱われていないし、それを扱う自販機もほとんどない。少なくとも
上条は見たことがなく、年齢認証機能があったにしろ、美琴のような発電系
能力者などに看破されてしまう可能性は十二分にある。というか言ってしまえば
その一言に尽きるのだ。どれだけ対策を施したにせよ、学生の能力開発を行う
学園都市にあっては、必ず漏れが生じてしまう。
ならば、最初から置かなければ良い。そうすれば面倒な問題は自動的に解消
される。
だがここでジレンマになってくるのは、学生ではない残り二割の住民だろう。
風俗というものが需要にしろ供給にしろ求められてしまう必然は歴史が証明して
いるし、大体こういうルールを考えた偉い人たちだって、会議が終わればちょっと
一杯行きませんかとなるわけである。労働者の精神的ケアを考えるなら、全撤廃
というのはなかなか難しいやり方だ。
八割。当然そうなってくると、風俗関係を始めとした法規に関わってくる物品
は広くNGということになる。実際、酒たばこ類はコンビニ・スーパーなど
身近な施設では扱われていないし、それを扱う自販機もほとんどない。少なくとも
上条は見たことがなく、年齢認証機能があったにしろ、美琴のような発電系
能力者などに看破されてしまう可能性は十二分にある。というか言ってしまえば
その一言に尽きるのだ。どれだけ対策を施したにせよ、学生の能力開発を行う
学園都市にあっては、必ず漏れが生じてしまう。
ならば、最初から置かなければ良い。そうすれば面倒な問題は自動的に解消
される。
だがここでジレンマになってくるのは、学生ではない残り二割の住民だろう。
風俗というものが需要にしろ供給にしろ求められてしまう必然は歴史が証明して
いるし、大体こういうルールを考えた偉い人たちだって、会議が終わればちょっと
一杯行きませんかとなるわけである。労働者の精神的ケアを考えるなら、全撤廃
というのはなかなか難しいやり方だ。
そこで苦肉の策なのかは知らないが、学園都市でなされているのはゾーニング
というものである。これは別に他の地方都市と事情は変わらない。たとえば
全面規制を施したとして、それでは不満が内に内に蓄積され、どこか管理者側
の見えない場所でそういういかがわしいものがなりを潜めることになる。結果、
社会不安が増大し、気軽に街を出歩くこともできなくなるだろう。
密林にたとえてみよう。密林には様々な危険が存在する。凶暴な肉食獣や
毒性を持った植物・虫など外的な危険だけでも数多い。不安だ。では、どうすれば
この危険性を解消できるのか?
答えは簡単、虎が怖いなら檻に入れれば良いのである。密林を動物園化する
こと、これがゾーニングのキモだ。学園都市では風俗や酒たばこ関係の物品が
取り扱われるエリアを点々と設けており、その手の施設もだいたい集中している。
こうすれば警備の目も届きやすく、事件の発見にも対応にもコストがかからない
という寸法である。子どもによる犯罪が取り沙汰されることの多い学園都市では
あるが、それとは対照的に、大人の突発的な犯罪とその被害は意外なほど少な
かったりする。治安維持機構が貧弱なように見えて、実際法制の整った部分では
きっちり働いているのだ(それがたったの2割しかカバーできない事実には
反論のしようもないが)。
というものである。これは別に他の地方都市と事情は変わらない。たとえば
全面規制を施したとして、それでは不満が内に内に蓄積され、どこか管理者側
の見えない場所でそういういかがわしいものがなりを潜めることになる。結果、
社会不安が増大し、気軽に街を出歩くこともできなくなるだろう。
密林にたとえてみよう。密林には様々な危険が存在する。凶暴な肉食獣や
毒性を持った植物・虫など外的な危険だけでも数多い。不安だ。では、どうすれば
この危険性を解消できるのか?
答えは簡単、虎が怖いなら檻に入れれば良いのである。密林を動物園化する
こと、これがゾーニングのキモだ。学園都市では風俗や酒たばこ関係の物品が
取り扱われるエリアを点々と設けており、その手の施設もだいたい集中している。
こうすれば警備の目も届きやすく、事件の発見にも対応にもコストがかからない
という寸法である。子どもによる犯罪が取り沙汰されることの多い学園都市では
あるが、それとは対照的に、大人の突発的な犯罪とその被害は意外なほど少な
かったりする。治安維持機構が貧弱なように見えて、実際法制の整った部分では
きっちり働いているのだ(それがたったの2割しかカバーできない事実には
反論のしようもないが)。
しかし、どれだけ対策を施したとしても悪い大人というのはいるもので、
こうしてあらゆる経路を経て上条家の冷蔵庫に缶チューハイが納められたり
するのである。まあ上条家の場合は、魔術・科学両サイドの二重スパイという
ちょっと反則気味なルートを通ってきたので、「悪い大人」とはあまり関係ない
かもしれない。
こうしてあらゆる経路を経て上条家の冷蔵庫に缶チューハイが納められたり
するのである。まあ上条家の場合は、魔術・科学両サイドの二重スパイという
ちょっと反則気味なルートを通ってきたので、「悪い大人」とはあまり関係ない
かもしれない。
とにかく重要なのは、今部屋の中にはアルコール飲料が存在していて、
それはグラスに注がれる他に使い道などないという一つの事実である。
それはグラスに注がれる他に使い道などないという一つの事実である。
「じゃあ乾杯!」
「ん、乾杯」
「ん、乾杯」
同年代だけで酒を飲むというのは初めてのことなのか、美琴はちょっと
テンション高めだ。共犯者チックな心境がそれに拍車をかけているのかもしれない。
……先ほど発生した謎のピンク空間を思い出すまいとしてという可能性も十分
にありえるのだが、上条はその仮説を意図的に排除する。
テンション高めだ。共犯者チックな心境がそれに拍車をかけているのかもしれない。
……先ほど発生した謎のピンク空間を思い出すまいとしてという可能性も十分
にありえるのだが、上条はその仮説を意図的に排除する。
「缶チューハイってのは初めて飲むけど、要は味の薄い炭酸みたいな感じなのね。
なんだかちょっと水っぽいというか」
「苦手か? というか酒飲んだのは初めてか、御坂は」
「ううん、嫌いじゃない。お酒は、まあまだ14だけどさ、飲む機会がなかった
わけでもないのよ。正月にはお屠蘇も甘酒も飲むし、実家でそういう祝いの席
だと、どうしても酔っ払った大人が勧めてきたりするもんね。焼酎とかウイスキー
とか、私は日本酒なんかが結構好きかな」
なんだかちょっと水っぽいというか」
「苦手か? というか酒飲んだのは初めてか、御坂は」
「ううん、嫌いじゃない。お酒は、まあまだ14だけどさ、飲む機会がなかった
わけでもないのよ。正月にはお屠蘇も甘酒も飲むし、実家でそういう祝いの席
だと、どうしても酔っ払った大人が勧めてきたりするもんね。焼酎とかウイスキー
とか、私は日本酒なんかが結構好きかな」
歳のわりにずいぶん渋いものをお好みになる、と上条は思ったが深く言及はしない。
「ねえ、他には何があるの? 話を聞く限り量はあるみたいだけど、まさかこれ
一種類ってことはないでしょ?」
「うん? いや、箱で渡されたからチューハイはこれだけだな。あとはビール
しかないけど」
「ビールあるんだ! それってさ、もらってもいいのかな?」
「え、別に良いけど冷やしたりしてないぞ。冷蔵庫になかっただろ?」
一種類ってことはないでしょ?」
「うん? いや、箱で渡されたからチューハイはこれだけだな。あとはビール
しかないけど」
「ビールあるんだ! それってさ、もらってもいいのかな?」
「え、別に良いけど冷やしたりしてないぞ。冷蔵庫になかっただろ?」
上条が言うや否や、美琴はごくごくと残りのサワーを飲み干してベランダに
向かう。「ひゃー寒い!」と悲鳴を上げながら笑って、ビールを二本取ってきた。
向かう。「ひゃー寒い!」と悲鳴を上げながら笑って、ビールを二本取ってきた。
「ドイツでは基本常温で飲むもんよ。それに本場とは違うっつっても冷やし
すぎるとダメって聞くし。今日は外がかなり寒いから、意外と適温なんじゃない?」
すぎるとダメって聞くし。今日は外がかなり寒いから、意外と適温なんじゃない?」
美琴はまだちびちびグラスを傾けている上条の前に二本の内の一本を置いて、
自分の分は早速プルタブを開けた。ごくごくと飲みっぷりよく喉を動かす。
自分の分は早速プルタブを開けた。ごくごくと飲みっぷりよく喉を動かす。
「ぷはあっ! この、缶から直接飲むっていうの、昔からやってみたかったのよね。
かっこいいって言っちゃったらもう、それは誤解なんでしょうけど。大人って
感じがして、いいなあって思っていたわけよ」
かっこいいって言っちゃったらもう、それは誤解なんでしょうけど。大人って
感じがして、いいなあって思っていたわけよ」
美琴の気持ちはわからないでもないので、上条は頷いておく。
「そうだ」
つい、と美琴は顔を動かし、台所に視線を向ける。
「どうした、美琴」
「すっかり忘れてたわ。お酒っていったらおつまみよね、美琴さんがなんか
作ってあげよう」
「あー。今日買ってた菓子で良いんじゃねえか」
「インデックスのおやつの足しに買ったのよ、あれ。まあ後日噛み付かれたい
ってんならそうするけど」
「すっかり忘れてたわ。お酒っていったらおつまみよね、美琴さんがなんか
作ってあげよう」
「あー。今日買ってた菓子で良いんじゃねえか」
「インデックスのおやつの足しに買ったのよ、あれ。まあ後日噛み付かれたい
ってんならそうするけど」
片側の頬だけ引きつらせて滑稽な顔になった上条を見て、美琴はぷっと吹き出す。
「冗談よ。材料の余りもあるし、ついでに明日の朝食も作っとこうか?」
「うーん、晩飯作ってもらってるしそこまで甘えるわけにもなあ」
「遠慮すんなバカ。私が作るって言ったら作んのよ。大人しく座ってなさいな」
「うーん、晩飯作ってもらってるしそこまで甘えるわけにもなあ」
「遠慮すんなバカ。私が作るって言ったら作んのよ。大人しく座ってなさいな」
美琴は愉快そうに上条の頭をわしゃわしゃ撫でると、台所に立って冷蔵庫の
中身を確認する。
中身を確認する。
「あー基本はやっぱり揚げ物かなあ。今日使った油の処理はまだだし。
っていうかアンタが頼み込むから残してあるけどさ、油は一回一回変えないと
身体に悪いし、味も落ちるわよ」
「そういうところを構ってられないのが下宿組なんです! お嬢様にはわから
ないんです!」
「ほんとに。わっかんないなあ。ま、ウチの寮は食事にお金がいらないから
根本的に生命の危機に瀕することもないもんね。あっ、チーズ料理主体で良い?
切れてるチーズが余ってんのよ」
「ていうかそれ、何で買ったんだ。だいたいいつも使うのはスライスチーズだし」
「だってー。こういうのってCMとか見るとふいに食べたくなるじゃない」
「で、余ると」
「むう、使ってないわけじゃないわよ別に。実際残り3分の1ってとこ。チーズ
って食材として手頃だからすぐに使いがちなのよね。そういうの気を付けよう
と思ってたら自然と使う機会も減るし」
っていうかアンタが頼み込むから残してあるけどさ、油は一回一回変えないと
身体に悪いし、味も落ちるわよ」
「そういうところを構ってられないのが下宿組なんです! お嬢様にはわから
ないんです!」
「ほんとに。わっかんないなあ。ま、ウチの寮は食事にお金がいらないから
根本的に生命の危機に瀕することもないもんね。あっ、チーズ料理主体で良い?
切れてるチーズが余ってんのよ」
「ていうかそれ、何で買ったんだ。だいたいいつも使うのはスライスチーズだし」
「だってー。こういうのってCMとか見るとふいに食べたくなるじゃない」
「で、余ると」
「むう、使ってないわけじゃないわよ別に。実際残り3分の1ってとこ。チーズ
って食材として手頃だからすぐに使いがちなのよね。そういうの気を付けよう
と思ってたら自然と使う機会も減るし」
意外とこだわりを見せている美琴である。なまじ彼女はもともとレベル1から
レベル5まで上り詰めたという努力の天才であるせいか、自身に課せられた課題
について出来うる限り良い結果を示そうという傾向がある。事実、彼女が夕食
を作りに来始めてから二週間が過ぎたが、その間に鍋や包丁などの数が増えた。
甲斐甲斐しいというべきか、日頃暇つぶしにも食品売り場を回ったり料理器具
を手に取ったりしているようで、その向上心には上条も頭が下がる思いである。
こういうことを何の苦もなしに行うところが、彼女が優秀な学生たるゆえんな
のだろう。
レベル5まで上り詰めたという努力の天才であるせいか、自身に課せられた課題
について出来うる限り良い結果を示そうという傾向がある。事実、彼女が夕食
を作りに来始めてから二週間が過ぎたが、その間に鍋や包丁などの数が増えた。
甲斐甲斐しいというべきか、日頃暇つぶしにも食品売り場を回ったり料理器具
を手に取ったりしているようで、その向上心には上条も頭が下がる思いである。
こういうことを何の苦もなしに行うところが、彼女が優秀な学生たるゆえんな
のだろう。
「ていうかストップ、御坂」
「んー? なあに―?」
「んー? なあに―?」
と訊き返しながらも、美琴は冷蔵庫を漁るのをやめない。
上条自身焦ってすっかり忘れていたのだが、そもそも年長者の責任としても、
美琴はそろそろ寮に帰すべきだった。酒を誘ったのは強引かもしれなかったが、
それも「おとまり」という事態を回避するために仕方なくだったのだ。このまま
酒宴状態になってしまえば美琴は本当に帰るに帰れなくなり結局は何も変わらなく
なってしまう。ただでさえ摂取したアルコールの分だけ、リスクはさっきよりも
増しているのである。
美琴はそろそろ寮に帰すべきだった。酒を誘ったのは強引かもしれなかったが、
それも「おとまり」という事態を回避するために仕方なくだったのだ。このまま
酒宴状態になってしまえば美琴は本当に帰るに帰れなくなり結局は何も変わらなく
なってしまう。ただでさえ摂取したアルコールの分だけ、リスクはさっきよりも
増しているのである。
「さっきも言ったけど、お前もう帰った方が良いって。ほら、コートも貸して
やるし寮まで送ってってやるし。それがイヤならタクシーとかさ」
「……」
やるし寮まで送ってってやるし。それがイヤならタクシーとかさ」
「……」
美琴は返事もせずに冷蔵庫を閉じて立ち上がると、上条を見た。それは楽しみに
水を差されて不満そうにしているでもなく、無表情でこちらを見下ろしていて、
上条はちょっと身体を引いてしまう。
水を差されて不満そうにしているでもなく、無表情でこちらを見下ろしていて、
上条はちょっと身体を引いてしまう。
「アンタ、どうせまたつまんないこと考えてるんでしょ」
つかつか歩み寄るとビールの缶をちゃぶ台に置いて、美琴は上条の真正面に
正座する。その表情は、何かの事件に巻き込まれて帰ってきた上条を見る時の、
インデックスのそれに似ていた。上目遣いに、唇は、「今からあなたに文句を
言いますからね」と言わんばかりに引き結ばれている。心配と苛立ちと歯がゆさが
混ざった、けれども怒りに身を任せているわけではない。決して「怒る」のでは
なくむしろ「叱る」のだと、そう語りかけてくるような表情だ。
ふいうちの仕草にやられてしまって、上条はうっかり居住まいを正してしまう。
グラスを置いて、身体の向きを改め、美琴と同様に正座する。
正座する。その表情は、何かの事件に巻き込まれて帰ってきた上条を見る時の、
インデックスのそれに似ていた。上目遣いに、唇は、「今からあなたに文句を
言いますからね」と言わんばかりに引き結ばれている。心配と苛立ちと歯がゆさが
混ざった、けれども怒りに身を任せているわけではない。決して「怒る」のでは
なくむしろ「叱る」のだと、そう語りかけてくるような表情だ。
ふいうちの仕草にやられてしまって、上条はうっかり居住まいを正してしまう。
グラスを置いて、身体の向きを改め、美琴と同様に正座する。
「アンタって、いつもいつも不幸だ不幸だーって言ってるよね」
「あー、まあ、そう言わないとやっていられないと言いますか……」
「私もそれはわかる。アンタは実際ツイてないし」
「なんか面と向かって他人に認められるとそれはそれでショックだなあ」
「あー、まあ、そう言わないとやっていられないと言いますか……」
「私もそれはわかる。アンタは実際ツイてないし」
「なんか面と向かって他人に認められるとそれはそれでショックだなあ」
がっくり肩を落とす。まあ、あくまでこれもポーズでしかなく、何も本気で
がっくりしているわけではない。
話しぶりからして美琴だってわかっているのだろうが、上条の「不幸だー」
という口ぐせは一種の処世術に近いところがある。悲劇の喜劇化といえばわかり
やすいだろうが、上条が日々の凄惨にいちいち真正面から挑んでいればそれだけで鬱屈してしまうというものだ。だからここで上条は、自分から「不幸だー」
と発言してみる。そうすることによって自分をパロディ化して、ある種の現実逃避を
利用しながら事態をポジティブに乗り切ろうとしているのである。後ろ向きに
なることによって前向きになる、と言えば逆説的なやり方ではあるが、実際
上条が不幸に見舞われてもウジウジせずに済んでいるのはこれによるところが大きい。
だから、上条にとって「不幸」というのはただのポーズであって、生きる上での
基本姿勢というわけではないのだ。上条はそれを伝えようとして、しかし美琴に
遮られる。
がっくりしているわけではない。
話しぶりからして美琴だってわかっているのだろうが、上条の「不幸だー」
という口ぐせは一種の処世術に近いところがある。悲劇の喜劇化といえばわかり
やすいだろうが、上条が日々の凄惨にいちいち真正面から挑んでいればそれだけで鬱屈してしまうというものだ。だからここで上条は、自分から「不幸だー」
と発言してみる。そうすることによって自分をパロディ化して、ある種の現実逃避を
利用しながら事態をポジティブに乗り切ろうとしているのである。後ろ向きに
なることによって前向きになる、と言えば逆説的なやり方ではあるが、実際
上条が不幸に見舞われてもウジウジせずに済んでいるのはこれによるところが大きい。
だから、上条にとって「不幸」というのはただのポーズであって、生きる上での
基本姿勢というわけではないのだ。上条はそれを伝えようとして、しかし美琴に
遮られる。
「どうせさ、今だって私を早めに帰しとかないとあとあと面倒になっちゃうって
思ってるんでしょ。黒子やらにとっちめられて不幸だー、みたいな感じでさ」
「いや、そりゃまあ否定はできないけど。俺だってそこまで自分のことばっか
考えてるわけじゃねえよ?」
「わ、わかってるわよそんなの。あーもーちょっと黙ってなさいアンタ」
思ってるんでしょ。黒子やらにとっちめられて不幸だー、みたいな感じでさ」
「いや、そりゃまあ否定はできないけど。俺だってそこまで自分のことばっか
考えてるわけじゃねえよ?」
「わ、わかってるわよそんなの。あーもーちょっと黙ってなさいアンタ」
うーむやっぱりちょっと酔っているんだろうか、といきなり説教モードに入った
美琴に向き合いつつ、上条は思う。酔わせてしまうと家に置いておくしかないわけで、
図らずもおとまりは達成されるわけで、普段の関係を考えるにつけ酔った美琴に
何かした・してないみたいな諍いが出現しそうだった。ちょっと気が重い。
美琴に向き合いつつ、上条は思う。酔わせてしまうと家に置いておくしかないわけで、
図らずもおとまりは達成されるわけで、普段の関係を考えるにつけ酔った美琴に
何かした・してないみたいな諍いが出現しそうだった。ちょっと気が重い。
上条の思いを知ってか知らずか、美琴は語気を荒くする。
「私が言いたいのは! 不幸だ不幸だって言っても仕方ないとかそういうこと
じゃなくて! どうして今の何の関係もない出来事まで不幸に結び付けようと
すんのよってこと。アンタ勝手に自分を未来の、起こるのも知れないような
不幸と結び付けてんじゃないわよ!」
じゃなくて! どうして今の何の関係もない出来事まで不幸に結び付けようと
すんのよってこと。アンタ勝手に自分を未来の、起こるのも知れないような
不幸と結び付けてんじゃないわよ!」
上条は目をみはって、美琴のことを見る。
「アンタだって、自分が幸せだって思う瞬間ぐらいあるんでしょ? 自分が
けっこう幸福に暮らしているってことぐらいわかってるんでしょ? どうして
それを、不幸と地続きに考えちゃうのよ」
けっこう幸福に暮らしているってことぐらいわかってるんでしょ? どうして
それを、不幸と地続きに考えちゃうのよ」
上条は別に美琴が言うように考えているわけではない。
考えているわけではない、が。
考えているわけではない、が。
「特売の卵が買えたら幸せじゃない。でもそれが割れちゃったら不幸でしょ。
そこを分けて考えてみたって良いじゃない。卵が割れて不幸だ。でも特売で
買えたことはあんたにとってラッキーだったんだって、そう捉え直すのは決してナシじゃないと思うのよ、私は。だってそれがアリじゃなければ全部がナシ
になっちゃうじゃない。人はいつか死ぬんだって言ったら全てが無駄になっちゃう
ってことじゃない。アンタだって、そんなことは信じないんでしょ?」
そこを分けて考えてみたって良いじゃない。卵が割れて不幸だ。でも特売で
買えたことはあんたにとってラッキーだったんだって、そう捉え直すのは決してナシじゃないと思うのよ、私は。だってそれがアリじゃなければ全部がナシ
になっちゃうじゃない。人はいつか死ぬんだって言ったら全てが無駄になっちゃう
ってことじゃない。アンタだって、そんなことは信じないんでしょ?」
上条は、絶句している。美琴が泣いていたからだ。酔ったせいか感極まって
いるのか、理由は様々だろうが、ぽろぽろと玉になった涙が、彼女の頬を流れて
いる。
知らなかったわけではない。上条は、人がこんなふうに涙を流すことがある
のを、知らなかったわけではない。誰かが何かを悲しむのは、自分とは違う
別の誰かについて思いを巡らすからであり、しかもその要因は怒りだ苦しみだと
一つに絞れないことを上条は理解している。けれどもそれが自分に向けられる
という事態を想像したことは、なかった。
上条は歯噛みする。感情は胃の中で渦を巻き、不甲斐なさが胸をつついた。
美琴を苦しめている当の自分の振る舞いに、気が付けなかった。それを指摘する
ように、美琴の言葉は続いている。しゃくりあげながら、たどたどしく声を
紡いでいる。
いるのか、理由は様々だろうが、ぽろぽろと玉になった涙が、彼女の頬を流れて
いる。
知らなかったわけではない。上条は、人がこんなふうに涙を流すことがある
のを、知らなかったわけではない。誰かが何かを悲しむのは、自分とは違う
別の誰かについて思いを巡らすからであり、しかもその要因は怒りだ苦しみだと
一つに絞れないことを上条は理解している。けれどもそれが自分に向けられる
という事態を想像したことは、なかった。
上条は歯噛みする。感情は胃の中で渦を巻き、不甲斐なさが胸をつついた。
美琴を苦しめている当の自分の振る舞いに、気が付けなかった。それを指摘する
ように、美琴の言葉は続いている。しゃくりあげながら、たどたどしく声を
紡いでいる。
「無責任なこと、しないでよ」
「?」
「わ、私にこれを教えたのは、アンタなんだから。『実験』が終わって、あの子
たちが救われて、でも大勢は死んじゃって、……それでも笑ってて良いんだって
言ったのは、アンタなんだから! それを忘れて、今の幸せまで忘れて、無責任な
ことは言わないでよ。私はほんとに、アンタに、救われたんだから!」
「御坂……」
「?」
「わ、私にこれを教えたのは、アンタなんだから。『実験』が終わって、あの子
たちが救われて、でも大勢は死んじゃって、……それでも笑ってて良いんだって
言ったのは、アンタなんだから! それを忘れて、今の幸せまで忘れて、無責任な
ことは言わないでよ。私はほんとに、アンタに、救われたんだから!」
「御坂……」
上条は腕を伸ばし、頬の涙を拭ってやる。それから美琴の頭に手を置いて、
左に分けた髪を梳くようにして、撫でた。
左に分けた髪を梳くようにして、撫でた。
「ごめん、御坂」
「ほんとに、なんだから。馬鹿」
「うん、ごめん」
「私がいるってこと、忘れないでよ。アンタのこと大切に思ってる人なんて、
いくらでもいるんだから。絶対にいるんだから」
「ほんとに、なんだから。馬鹿」
「うん、ごめん」
「私がいるってこと、忘れないでよ。アンタのこと大切に思ってる人なんて、
いくらでもいるんだから。絶対にいるんだから」
不器用に放たれた言葉は全て本音なのだろうと、思う。だから上条は驚いて
いた。美琴の言ったことをまるで知らなかったわけではないが、自分とは違う
別の人間がそのことを教えてくれるということは、今までになかった。「お前は
ここにいて良いんだ」とずっと叫び続けていた上条当麻は、初めてこう言われた
のだ。「お前はここにいて良い」と。御坂美琴によって。
いた。美琴の言ったことをまるで知らなかったわけではないが、自分とは違う
別の人間がそのことを教えてくれるということは、今までになかった。「お前は
ここにいて良いんだ」とずっと叫び続けていた上条当麻は、初めてこう言われた
のだ。「お前はここにいて良い」と。御坂美琴によって。
しばらく頭を撫でてやって、ビールもきっとぬるくなってしまった頃に、
美琴は泣きやんだ。何度もぬぐってやった頬は赤く、しきりに鼻をすすっていた。
美琴は泣きやんだ。何度もぬぐってやった頬は赤く、しきりに鼻をすすっていた。
「落ち着いたか」
「うん」
「良かった」
「うん」
「良かった」
上条は美琴から手を引く。あ、と美琴はか細く声を上げて、空中で止まった
上条の手に、目を向ける。何事かと思って止まってしまった腕を、美琴は両手に
取ると、その手を頬に当てる。
上条の手に、目を向ける。何事かと思って止まってしまった腕を、美琴は両手に
取ると、その手を頬に当てる。
「アンタの手。冷たくて気持ちいい」
「上条さんの手はアイスノンですか」
「ふふ、違うけどね。お酒を飲んだからか、それとも泣いちゃったせいなのかな。
なんだか熱が出てきちゃった。顔が熱くて、もしかしたら恥ずかしいのかも」
「上条さんの手はアイスノンですか」
「ふふ、違うけどね。お酒を飲んだからか、それとも泣いちゃったせいなのかな。
なんだか熱が出てきちゃった。顔が熱くて、もしかしたら恥ずかしいのかも」
濡れた瞳で見つめられて、上条はどきりとする。ふと気が付いてみると、
相手に手が触れられる距離というのは意外と近いわけで、しかし離れようにも
美琴に腕を掴まれてしまっているため身動きが取れない。
そう思っていると美琴の腕が、上条の首に回される。こつんと、軽い音がした。
相手に手が触れられる距離というのは意外と近いわけで、しかし離れようにも
美琴に腕を掴まれてしまっているため身動きが取れない。
そう思っていると美琴の腕が、上条の首に回される。こつんと、軽い音がした。
「ほら、わかるでしょ?」
「あ、ああ」
「あ、ああ」
火照った美琴の表情を間近で見てしまって、上条はどもった。おでことおでこが
くっついて、そこから美琴の熱が伝っていた。
くっついて、そこから美琴の熱が伝っていた。
「ふふふ」
「どうした、御坂。いきなり笑って」
「目と鼻の先って、こういうことを言うのかな」
「まあ、文字通りだと思う」
「鼻と鼻の先、くっついちゃってるね」
「……」
「どうした、御坂。いきなり笑って」
「目と鼻の先って、こういうことを言うのかな」
「まあ、文字通りだと思う」
「鼻と鼻の先、くっついちゃってるね」
「……」
美琴がそう言うので、上条は瞳をそちらに向けてしまう。それで、その仕草で、
笑われる。「かわいいなあ」と、本当にいとおしげにささやかれて、頬が熱くなる
のを感じた。背中どころではなく全身に汗を噴いて、こめかみに生じたそれが、
思考を埋め尽くしていく。
笑われる。「かわいいなあ」と、本当にいとおしげにささやかれて、頬が熱くなる
のを感じた。背中どころではなく全身に汗を噴いて、こめかみに生じたそれが、
思考を埋め尽くしていく。
「私たち、なんだか――」
美琴の言葉は、紡がれない。そこだけ声には出されずに、あるいは誰にも聞こえない
ような小ささで、呟かれた。上条に、そして美琴にすら聞こえないぐらい、ひそやかに。
そうして上条は、いっそう鼓動が強くなったのを自覚する。
ような小ささで、呟かれた。上条に、そして美琴にすら聞こえないぐらい、ひそやかに。
そうして上条は、いっそう鼓動が強くなったのを自覚する。
見えたからだ。
唇だけが語った美琴の言葉が、上条には見えた。
唇だけが語った美琴の言葉が、上条には見えた。
……キス、してるみたい。
それは頬笑みをこぼす以外に仕様がないような、甘いささやきだった。額に
感じる熱がもうどちらのものなのか、わからない。呼応するように二人の頬は
同様に染まって、吐息が、お互いの唇に当たっている。やわらかいと言う他に
言いようのないような種類の匂いが、シャンプーの香りの奥側に潜んで、上条の
もとまで届いていた。
感じる熱がもうどちらのものなのか、わからない。呼応するように二人の頬は
同様に染まって、吐息が、お互いの唇に当たっている。やわらかいと言う他に
言いようのないような種類の匂いが、シャンプーの香りの奥側に潜んで、上条の
もとまで届いていた。
やっと我に返ったみたいに、美琴は上条から離れる。上条も、きっと美琴も
同じだろう、耳元で鳴らされているかのように心臓が大きく高鳴っていること
に、気が付いた。
美琴は、俯いている。手が、今自分の言った言葉がどこから来たのか探る
みたいに、口許に置かれている。しばらくして、美琴は弾かれたように顔を
上げて、でも上条と目が合ってしまうと少したじろいで、それから言う。
同じだろう、耳元で鳴らされているかのように心臓が大きく高鳴っていること
に、気が付いた。
美琴は、俯いている。手が、今自分の言った言葉がどこから来たのか探る
みたいに、口許に置かれている。しばらくして、美琴は弾かれたように顔を
上げて、でも上条と目が合ってしまうと少したじろいで、それから言う。
「お、おつまみ! 作ってくる……!」
自分の鼓動を信じられないみたいに胸に手をやって、美琴は立ち上がる。
逃げるように小走りになって、キッチンの奥に隠れてしまった。
逃げるように小走りになって、キッチンの奥に隠れてしまった。
「おう……」
そして上条は馬鹿みたいに呆けて、もう誰もいない目の前に向かって、うめく
ような相づちを返した。
ような相づちを返した。