とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part4

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 上条は、不安だった。もちろんそれは今台所に立っている、多少酔っ払って
いるらしい御坂美琴についての不安である。
 断っておくが彼女の手付きが怪しいわけではない。美琴はいつにも増して
迅速な動きで酒の肴を準備している。では何が不安なのかというと、その
合間に幾度と傾けられているビール缶である。
ナイフを取ってはビールを飲み。ビールを飲んではチーズをつまみ。チーズ
をつまんではビールを飲み……。ぱきょりと缶が潰れる音を聞いて、上条は
二本目が空いたことを知る。背後を通り過ぎ、美琴がベランダへと歩いていく。
水でも汲みにいくみたいになめらかな挙動だ。

美琴としても仕方のない部分はあるのである。

(わ、わわ私ったらなんてことしてんのよっ! いくらお酒を飲んだからって
あんな、あんな……。でもあの時のアイツ、ホントにちょっとかわいかったかも
――っていやいやニヤつくんじゃない私の顔。あーもう、こんな顔見られちゃったら
どうすんのよ? ……飲むしかない。飲んで、酔って、それでごまかすしかない。
それであわよくば――あああ・あわよくばって何よ何を期待してんのよ私は
馬鹿じゃないの!?)

 そんなことを思いながらビリビリ漏電していて、それも上条の不安の種だった
のだが、とにかく彼には預かり知れぬそんな事情が美琴にはあって、ちょっぴり
ヤケ酒気味に杯を空けているのだった。

 上条は頭をかいて、天井を見上げる。彼もすでに二杯目に突入していた。
なんだかビールは美琴が大量に消費しそうだったので缶チューハイの方である。
美琴が機敏な動作で冷凍庫の氷を容器に移し替え、数本の酒をテーブルに準備
した辺りで、上条はいろいろ諦めたのだった。どうにでもなーあれ、と唱えて
見えない何かに向けて乾杯する。それはいつか制裁を受ける未来の自分に対して
なのか、それとも今を祝福してのことなのか、上条にはわからない。

(不幸……か)

 上条は思って、何とはなしに右手を見る。幻想殺し。異能の力を殺す代わりに、
幸運や神の加護までをも打ち消してしまうという力。だが上条は呪いと言って
良いようなこの右手で、いくつもの活路を見出してきた。ともすればありえなかった
かもしれない未来をも守ってきた。それが不幸であるはずは、ない。大体いざ
そんな瀬戸際に立って、自分の運が良いや悪いやといった瑣末な事柄を思い
浮かべたことなどなかった。

 もしかすると、と思い至ったのはふいなことである。そして浮かんだそばから、
それは蟻のように上条の思考に群がる。

 自分の目にあった事件は、そこに関わった人たちの背負った悲劇や不運は、
全て自分が原因で起こったことではないのか? いずれ上条当麻と関わるから、
誰かにその悲劇が「与えられる」。上条当麻という「不幸」に、触れるから。

 馬鹿馬鹿しい。そう上条は笑う。

(んなことあるわけねえっての。いくら不幸体質だからってありえねーよ、
そんなオカルト。だいたい、「幻想を殺す」イマジンブレイカーがそんなわけの
わからない効果を及ぼすこと自体、つじつまが合わねーんだ。うん、過去に
向き合ってがんばってる奴らに対して不謹慎だよな、こんな考え)

 けれども上条は、考える。否定を信じ切れずにいる。自分を茶化せず不合理
と言うしかできないのが、その良い証拠だった。ちょうど遠い国の戦争がお前
と無関係でないと言われた時のように、どうにも無視できない黒い考えは上条
の心を掴み、離さずにいる。

少し、酔っているのかもしれなかった。もともと台所で気絶していたことも
あり、冷えた身体がまだ芯まで温まっていないから、余計に後ろ向きなことを
考えてしまうのかもしれない。上条は一度身震いをして、腕をさすった。
まとわりついた悪い考えを払うように、じっと目をつぶって。

「どうしたの? とうま」

 だから声が聞こえるまで、インデックスには気が付かなかった。下からこちら
を覗きこんで、怪訝に眉根を寄せている。

「なんだか苦しそうな顔してるよ、とうま。具合が悪いの?」

 上条は驚いてしばらく表情を動かせないでいて、再びインデックスが首を
傾げた頃にやっと顔を綻ばし、首を振った。

「なんでもねえよ、ちょっと酔っただけだ。ていうかお前いつ起きたんだ?」
「ついさっきだよ。なんだか良い匂いがしたから目が覚めて、それでとうまに
噛み付こうと思ったら様子が変だったから……」
「おいインデックス。どうして俺はいきなり噛み付かれそうになってんだ?」
「だってとうまが私に内緒で美味しいものを食べてると思って、というかその
ジュースは何なんだよ? やっぱりとうまは私に隠れて……」
「おわあ! 待て待てインデックス! これは単にお前が寝てたから誘わなかっただけで……そもそもお前酒なんて飲めんのかよ!?」
「問答無用というやつかも! 聞く耳持たないんだよ!」

 ぎらりと牙をのぞかせたかと思うと、次の瞬間インデックスが飛びかかって
くる。いくらウニ頭とはいえそのまま酒の肴にされてはたまらない上条はなんとか
インデックスの肩を掴み、奇襲を阻止した。だがなおも猛攻は続いており、しかも
床に倒れて覆いかぶさられるような体勢で防御しているから、上条はかなり不利だ。

(このままじゃやられる!?)

 直感した上条は状況を打開するため、身体を捻り、インデックスごと床の上
を回転した。彼女の体重は軽めだし男女の力の差もあるので、難しいことでは
ない。マウントポジションで腕を取り、形成は逆転する。手を噛んで脱出しよう
とするインデックスはさながら怒り狂った猛犬のごとくであり、正直言って
まだまだだいぶ怖かったが、上条はひとまず息をついた。

(か、噛みつき回避成功! でもとりあえずは安心だけどこっからどうしよう?
今手を離したら骨まで持っていかれかねないし、となると疲れるまで暴れさせて
から解放するのが得策なのか? 魚釣りみたいなやり方だが俺とこいつの体力差
ならできないことはっていうか、あれ? この状態なんかヤバいぞ? なんだか
俺が女の子を押し倒しているみたいな……あ、気のせいかなインデックスの目が
違う気がする。噛みちぎってやるって感じじゃなくなってる気がする。
え? え? ええ?? 何これなんだろ何なんだろすごい罪悪感がでてきた
心なしかインデックスの顔が赤く――ゲフゥッ!!)

 痛いというよりはむしろ「熱い」衝撃が、上条の後頭部を襲った。

「ア・ン・タはあああ! ちょっと私が目を離してる隙にいったい何をおっぱ
じめようとしてんのよこのケダモノ!」
「ち、ち、ちがう御坂誤解だ! 俺はただおのが身を守ろうとしただけで全く
下心なんて! って、いや、あの御坂さん? その右手に持っている今にも
ジュージュー言いそうなフライパンはいったい何なんでせう? まさかさっき
もそれで殴って――ちょ、タンマ! なんで振り上げるんですか使い方とか
間違ってますってマジでそれは痛いとかそんなレベルじゃすまなあ、あっ、あっ、
ごめんなさいごめんなさいごめんなさ――痛え!!」

 完全に美琴に目を奪われてガードを下ろしていた上条の皮膚に、ついにイン
デックスの牙が届く。喰い込んでくる痛みに身をよじり、上条はカーペットを
転げ回った。そうしてがら空きになる背中にフライパンが――。

「熱い! 痛い! 熱い! 痛い! 熱い! ふ、ふっ、不幸だァァあああ!!」

 夜のアパート、絶叫はどこまでも木霊したが、当然救いの手は差し伸べられない。
世界中のどんな神さまにだって、上条を助けてやることなどできないのだ。
……それを否定してくれる誰かは、もしかするといるかもしれないのだが。

窓から射す光で起き上がってみると、ちょっと身体がだるかった。たぶん
二日酔いとは違うものなのだろうと、自分の知るその症状と今を照らして
みて、美琴は思う。

寝ぼけ眼で辺りを見回せばそこは上条当麻の部屋のベッドで。隣に眠るイン
デックスの、小鳥のような寝息が聞こえていた。
午前6時過ぎ。休日の朝は、穏やかな陽射しと共に幕を開けている。そんな中
美琴はいつもより早起きで、そこはいつも寝起きするベッドとは違っていて、
なんだかもどかしい気持ちになって布団を身体に引き寄せた。ゆうべと同じ光景
が今朝にも広がっているという事実は、存外に少女の胸を高鳴らせる。

(そ、そっか。私、アイツの家に泊まっちゃったんだ。それも酔っ払って
無理やり……。やっぱり迷惑だった、かな?)

 今さらになってそんなことを思う美琴である。当初は気にしていなかったが、
一夜明けて振り返ってみるとけっこう面倒をかけた気がした。

(黒子に心配かけちゃったかな。電話した方が良いんだろうけど、たぶんまだ
寝てるわよね)

 酔って動けなくなりつつも、記憶の方はしっかりしていた美琴である。イン
デックスが美琴の友人、上条がその兄と偽って白井黒子に連絡したのも、きちんと
憶えていた。それはもちろん上条に説教したことも憶えているということで、
自分がしたことも口にしたことも同様である。そういう記憶を取り出すにつけ、
美琴は奥歯がむず痒くなるのを感じ、布団の中に顔を隠してしまう。いっそ
忘れたい過去だったが、それはそれでもったいないのよね、と真面目に思い
直してしまって一人きりで照れたりしている。

 袋小路のようだった「思い出しはにかみ」からようやく抜け出すと、時計の
長針は十五分を指していた。美琴はまだ眠っているインデックスを起こさぬよう
そっとベッドを抜け出すと、顔を洗いに、洗面所に向かう。

 バスルームのドアを見つめて警戒するように身体をこわばらせつつ、洗面台
の前に立つ。湯を出し三回ほどすすいで洗顔を終えると、下の棚からタオルを
取り出す。顔を拭いて脇のタオル掛けにそれをかけると、鏡の横の戸棚に目を
向けた。

(戸棚の、二段目っと)

 ちょっと背伸び気味になって覗くと、あるのは予備の歯ブラシだ。いつのまにか
上条家の日用品の配置をすっかり把握しているわけだが、そこに意識は至らない。
記憶通りの場所にあったことをちょっぴり喜びつつ、美琴はゲコ太と同じ緑色の
柄のそれを取り出して、歯磨きを始める。

 二分後、口をすすぎ、なんとなくもう一度顔を流して、タオルで水気を拭き
取る。少し乱れた髪を手ぐしで整えたら、後はもう洗面所に用事はなかった
はずだが、美琴は立ち去らない。盗み見るように横目で、浴槽に続くドアを
見つめてみる。

 別に、やましい気持ちがあるわけではなく。なんとなく、本当にただなんとなく
なのだと、自分に言い訳してみる。いつのまにか美琴は、バスルームのドアを
開けていた。
 そっと浴槽を覗きこめば、場違いに敷かれている布団がある。

(今さらだけど、ホントにここで寝てんのねー)

 上条は足を曲げ身体を丸めてうずくまっていて、どう見ても窮屈そうだ。
夏場は暑く冬には寒そうな印象を与えるのだが、この先どうするのだろう。
いや、もしかしたらかまくらと同じでふたを閉めれば案外温かいのかもしれ
ないし、一見するよりも平気なのだろうか。
 つらつら考えに耽りながら、やっぱり美琴が眺めるのは上条の寝顔だった。
身体を丸めているため必然的にそれは横顔であり、鼻のあたりまでは毛布を
かぶって隠れていた。浴槽が狭いだけ、という見方もあるが、布団の乱れが
少ないのを見ると意外に寝相は良いのかもしれない。

(無防備な顔は相変わらずだけど、やっぱり寝顔って雰囲気違うなあ。見たとこ
寝てる時は大人しいみたいだし、なんだか普段とのギャップが……)

 そして、なんとなく背後を見る。左右に視線をやって、当然なことながら
そこにはタイル状の壁しかないのであるが、美琴は頷いて深呼吸する。

 触ってみたくなったのだ。

 主にほっぺたとか耳を、つついたりとか。

(こいつはぐっすり寝てるし、誰も見てない! 絶対にバレない! 行ける!)

 何が行けると言うのか。誰も美琴にはツッコめないので、軌道が修正される
ことはない。縁に左手を置いて支えて、潜り込むように美琴は浴槽に身を乗り
出す。恐る恐る人指し指は伸び、上条の頬に――触れた。

(はー。体温けっこう高いんだ、こいつ。骨が張って固いところはあるけど、
ほっぺたはけっこう柔らかい……ていうかそれなりに触り心地良くてなんだか
愛くるしいような錯覚までしてきたわ。鼻とかつまんだらどうなるんだろ?)

 気付けばいたずら心まで芽生えてきた美琴である。通常、ラブコメには「お約束」
というものがあって、この場合でいうと美琴が触れるか触れないかというところで
上条が目を覚ましたりするわけだが、果たして今回それは発動しない。なぜなら、

「んあ、……あれ、御坂? 何でお前が」

 まったく別の「お約束」が、この場を支配していたからだ。

 上条の頬に指を突っ込んだまま、美琴は固まる。全身総毛立ち汗が噴き出して
いたが、すくんだように身動きが取れずにいる。

「なんていうか、起こしにきてくれたのか?」
「いや、えと、ええと、その。そう! なんか早くに目が覚めちゃって、アンタ
まだ起きてるかなあーって! あははは!」
「上条さんとしてはそろそろその指を離して欲しいのですが。ちょっと話し
にくい」

 と言いつつ彼は何気なく、美琴と見つめ合っている視線を下に外す。すると
何を見つけたのか驚愕した様子で目を見開き、すぐさま後ずさった。美琴の指
から頬が離れ、上条は、両目を隠そうとするように顔に手をやる。

「ちょ、おま、御坂! 起きがけにそれはちょっと刺激が!」

 もともとデリカシーがないと言われている男である。言わない方が良いこと
まで、つい、慌てると口にしてしまう。
 解説すると、美琴自身あまり気にしていなかったのだが、ワイシャツは第二
ボタンまで解放されていた。さらには浴槽に潜り込んでいたわけで、美琴は
かなりの前傾姿勢を保っている。となると胸元がどのような状態になるかは
推して測るべしである。
眼前の動揺っぷりに眉根を寄せつつ美琴は上条の視線を追ってみて、そして
悲鳴を上げた。むろんはだけた胸は隠される。

 残念ながら左手で。

 小学生でもわかることだが、一定以上乗り出した身体が左手という唯一の
支えを失った場合どうなるか。いや、背筋や腹筋や反射神経によってどうにか
なることもあるだろうが、そこは咄嗟のことである。成すすべなく浴槽に落ちる
というのが普通だろう。
 すなわち上条の上に。

 ぎゃああ!と美琴があまりのことに暴れて、上条は大物の魚を釣り上げた時
のような格闘を強いられた。ようやく身体の自由を取り戻して美琴が落ち着く
と、ぐいっと上条の頭は掴まれる。

「……見たわね?」
「さ、さあ? 見たって何のことでしょう? 上条ちゃんは馬鹿だからわから
ないのですー」
「わ・た・し・に・言・わ・せ・る・気!?」
「いや、あのその。そりゃあちょっとはね、見えてしまったと言うべきか」
「どこまで見えたの?」
「あ、あははー、どこまでってそんな」

 美琴だって別に、ワイシャツ一枚でいたわけではない。下着代わりに半袖の
Tシャツを身につけていて、ただそれは下着ゆえに襟元があまりぴっちりして
いるものでもなかった。ついでに言うと、多くの女性は就寝時にブラジャーなど
着けない。血行に悪いし型崩れの原因にもなるからだ。
 まとめると、上条の瞳が「どこまで」捉えたのかは全くの未知数である。
乙女の沽券に関わることと言っても過言でなく、美琴は真赤になって詰め
寄っている。

「それよりも御坂、俺の身動きが取れないんだが」
「それよりって何よアンタ。いくらなんでも失礼でしょ」
「確かにその通りだ。悪かったと思う。謝ろうとも思う。でもな、上条さんは
思うんだ。ひとまずこの謎の密着状態を解除しないことには色々とダメなんじゃ
ないかと」

 言われて、美琴は改めて今の惨状を省みてみる。交錯する足、毛布一枚を
隔てて接する身体、目と鼻の先にあるとある少年の瞳。
 ……昨日の映像がフラッシュバックしてきてみるみる耳まで赤くなるレベル5
である。ぶっちゃけ意味不明な光景だった。窓はゆるやかな光をたたえ、バス
ルームの匂いはわずかに湿り、やや肌寒い空気に触れる中で、絡み合う温度は
生々しい。多分にマニアックなシチュエーションに美琴の頭は着いていけて
おらず、上条を上目遣いに睨んだまま固まってしまう。

 他方、いっこうに好転しない事態に上条は狼狽するばかりだ。

「ええと、御坂。今した会話は理解してる?」
「ば、ば、馬鹿。当たり前でしょ。アンタ私を何だと思ってるのよ」
「早くどいてくれ……。なんだかだいぶ息苦しい」

 いろいろ釈然としない御坂ではあったが、どうも真面目にぐったりしている
ようだったので起き上がる。身体を踏まぬようにそろりそろりと浴槽から抜け
出して、まだ布団にうずくまる上条を見下ろした。

「つーかアンタ。本気で眠そうね」
「まあ……けっこう、遅くまで起きてたし」
「私が寝たのって12時半ぐらいだったわよね? そっからまだ起きてたの?」
「そう。だいたい、2時前ぐらいかな、寝る準備に入ったの。いやあ……色々、
あったのですよ、ははは」
「色々って、アンタがそう言うのってなーんか疑わしいのよねえ。ま、いいわ。
ひとまず寝ときなさい」

 自分の寝ている隙に、今度はインデックスとどんな馬鹿をやったのかと呆れ
ながら、美琴は言う。

「もう一時間ぐらいしたら。朝ごはん、作ってあげるから。何食べたい?」
「うーん。あんまり、食欲がないです」
「なーに、二日酔いとか? なんにしても食べないことには元気なんて出ないわよ。
ま、心配しなくてもインデックスの食いっ気に当てられたら嫌でも食べたくなるかな。
なにより私が作った朝ごはんなんだから……って、もう寝てる?」

 相当眠かったのかな、と美琴は首を傾げる。怒りはまだ残っていたはずだが、
いつもと違う上条の様子にすっかり消沈してしまっていた。低血圧なのかしら
と考えてみて、自分の知らなかった彼の一面を知ったようでちょっぴり嬉しい。
その感情に合わせて美琴の頬はゆるみ、微笑んで、上条に言う。

「――おやすみなさい」

 むにゃむにゃと動かした上条の口が「おやすみ」と、なんだか自分に返事を
しているように見えて、美琴は満足げな面持ちでバスルームを出た。

 それからテレビを見たり漫画を読んだりして、しばらく時間を潰す。
 空腹を感じ始めたのと、予約セットしておいた炊飯器が音を鳴らしたのは、
同時だった。何とはなしに手に取っていた洋書から顔を上げ、美琴は時間を
確認する。夢の中でも炊飯器の音に反応したのか、「ごっはん、ごっはん……」
とインデックスは寝言を言っていた。

「八時か……。アイツもこの子も全然起きてくる兆候ないけど、そろそろ何か
作ろうかな」

呟いて、美琴は冷蔵庫を覗く。リクエストもなかったことだし、夕食の作り
置きでも良いと思っていたが、昨日おつまみ代わりに出したのもあって、二人
とインデックス分には明らかに足りない気がした。どうもイチから作る必要が
あるようだ。

「アイツ朝弱いみたいだし、食べやすいものの方が良いかな。となると固形食
よりは流動食系で、ご飯と食べ合わせの良いもの……」

 始業式の日のんびりと登校していた上条の姿を、美琴は思い浮かべる。

「オーソドックスに行くならおみそ汁だけど、あれって、朝で食欲ない時って
なんか気が進まないのよねえ……ていうか、豆腐がないんじゃ駄目だわ。乾燥
わかめはあるけど、おみそ汁はやっぱり豆腐。ジャガイモも悪くないけど」

 ついでに言うなら、朝食にみそ汁を作るということにはなんだか妙なメッセージ性が
あるように思えたのも、気が引ける一因だった。

「卵は残り二個かあ、玉子焼きにしようと思ったけどこっちも微妙だなあ。
でもそろそろ使っちゃいたいし、うーん。昨日のでだいぶ計画崩れてる気がする」

 もっとも気付いた時には冷蔵庫をインデックスが完食していたりするので、
食材が計画通りに消費された試しなどないのだが。基本的に参加するのは夕食
だけなのでいちいち食事計画を立てることにあまり意味はなく、それでもなん
となく余りものを何に使うかまで考えて買い物してしまう美琴である。
 結局、にらなど微妙な食材が余っていたり、中華ダシの素なんかがあったので、
中華風あっさり卵スープを作ることにした。一品ではさみしいので、昨日の作り
置きも加えることにする。

 で、だいたいそれが完成しかけた8時15分、インデックスが起きだしてくる。
匂いにつられたらしい。

「あれー朝なのになんだかすごく良い匂いがするんだよ? トーストの匂いが
しないんだよ?」
「おはよ、インデックス。そういやこの家ってパン派なんだっけ」
「おはようみこと。朝ごはんは大抵トースト一枚だけど、一カ月周期で変わって
いくんだよ。スティックパンが一つの時とかもあるし、仕送りの時期と関係が
あるのかも」
「大食らいの割にひもじい生活送ってんのね、アンタ。寄生する相手によっちゃ
もっと満足させてもらえそうなもんだけど」
「それはそうだけど、私がとうまと一緒にいるのはご飯の問題じゃないから、
その想定にはあまり意味がないかも」

 あっさりライバル宣言ともとれる発言をするインデックスだった。実際、
こんな厄介なシスターが学園都市で身を置く場所など、内外の事情を含めて
上条当麻のもとぐらいしか存在しないのが現状であり現実なのだが、それでも
美琴はどぎまぎしてしまう。こんなふうに理屈もなく上条当麻のそばにいよう
とする彼女を見ていると、あいまって美琴も、彼のことを強く意識してしまう
のである。物事の重要性は希少性をもって示されることが多い、ということだ。
失って初めて気付くと言い換えても良い。

 美琴は、インデックスに言う。

「朝ごはん、もうできてるから。準備する間にアイツ、起こしてきてくれない?」
「わかったー」

 と言って洗面所に続くドアを開けようとしたインデックスを、美琴は引きとめる。

「そういやさ、昨日私が寝た後って何があったの? アイツ、けっこう遅くまで
起きてたみたいだけど」

 探りも含めての問い掛けだった。美琴ともそうであったように、仮にゆうべ
上条とインデックスの間に秘め事があったとすれば、彼女は何らかの兆候を
見せるのではないかと。
 思ってはいたのだが、返答はあっさりしたものである。

「んー、何もなかったと思うけど。私はみことが寝ちゃってからはそんなに長く
起きてなかったし、とうまが何時に寝たのかも知らないよ」
「あら、そうなの? じゃあアイツ、一人で何やってたんだろ」
「それも知らない。でもみことはとうまにお礼を言った方が良いかも。憶えて
ないかもしれないけど、酔い潰れてたみことにお水を飲ませたり、介抱したのは
とうまなんだよ」
「……それはまあ、憶えてるわ。あとで謝って、うん、ちゃんとお礼も言う」

 インデックスはにっこりと頬笑み、それから首を傾げた。もう良いのか、と
訊ねているのだろう。美琴は頷き、朝食の準備に戻る。洗面所のドアが開いて、
閉まり、「とうまーとうまー」と唄うように言うインデックスの声が聞こえた。

(一人で晩酌して、遅くまで起きてたのかしら?)

 普通に考えるならばその線だろうが、「美琴を介抱したのが上条」という事実
を鑑みると話は変わってくる気がする。若干やけ気味に飲んでいた美琴に対し、
最後の方ではずいぶん心配をかけてくれていたようだったし、もしかしたら
美琴とインデックスが眠った後にも、看病してくれていたのではないか、と。

 そしてその可能性に思い至った途端、きゅんと美琴の胸はすぼまるのである。

(え、ちょっと待って。じゃあアイツが寝不足なのってもしかして、私のことを
看ててくれたから……? ちゃんと言わなかったのも、余計な気を遣わせない
ように、ってこと?)

 きちんと説明しなかったのは疲れていたから、という解釈ももちろんありえた
はずだが、このような推測をしてしまってはもう止まらない。美琴はエプロン姿
でお玉を持ったまましゃがみこみ、赤面した頬を両手で抑えた。唇が閉じよう
もなさそうにわなわな震えていて、映像でお見せできないのが惜しまれるほどの
超絶可愛いポーズである。

「みこと! ちょっと来て! とうまが……」

 そんな折、聞こえたのはインデックスの声だった。悲鳴に近い、切迫した叫びだ。

「とうまが倒れた!」
「――ええ!?」

 弾かれたように美琴は台所を飛び出し、二人のもとへ向かう。バスルームを
覗けば、浴槽に背を持たせてぐったりとしている上条がいた。転んだ時に打った
のだろう、ツンツン頭の額に血が滲んでいる。気絶しているというわけではなく、
ため息のように深い呼吸を繰り返していた。

 ひとまず頭を打って失神したというわけではないことがわかって、美琴は安堵
する。だが、それは逆に外傷以外の症状が現われているということでもあった。

 インデックスは彼の額に触れて、言う。

「とうま、すごい熱」

 その報告に、美琴はショックを受ける。先ほどまで舞い上がっていた自分が
硝子のように砕かれるのを感じた。彼に駆けよらねばと、それだけ思うのだが
動揺は身体を動かさない。空っぽのはずの胃がずんと重くなった気がして、肘が
震えた。

「とにかくベッドまで運ばなきゃ! 手伝って、みこと。……みこと?」

 いまだ立ち尽くしているのを怪訝に思ったらしく、インデックスが呼びかけて
くる。はっと顔を上げて、美琴は上条に駆け寄った。頬に手を寄せ、どうして
気が付かなかったのかと歯ぎしりする。その一連の動作をインデックスは眺めて
いて、やがて言った。

「早く運ぼう。とうま、苦しそう」

 美琴は頷き、二人で上条の肩を担ぐ。力の抜けた身体はひどく重く、背中に
伝わってくる体温は熱かった。負担をかけぬようにと注意を払って歩くのだが、
一歩足を動かすごとによろめいて、それは美琴の心境を表わすようだった。

 上条当麻が風邪を引いた。
 ともすれば、自分のせいで。


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