一八八八年、秋、某日、夜、倫敦、ホワイトチャペル、路地裏。
深く白い霧と、重く黒い噴煙に包まれた、欲望の都の暗部。
「ハッ……ハッ……ハ、ハハッ、ハハハハハハハハハハハッ!!」
――――人が死んでいた。
否、否、それはいささか不足した表現となるだろう。
厳密に言うなれば、
人が殺されていた。
元も顔立ちも、年齢も、性別すらも判別不能なほどに顔面をグチャグチャに破壊された死体が、ロンドンの路地に転がっている。
殺人である。
殺人鬼による殺人である。
嗚呼、嗚呼、語るに及ばず。
十九世紀におけるロンドンの殺人鬼と言えば、もはや挙がる名はひとつしかあるまい。
死体を無遠慮に踏みつけ、ナイフを片手に哄笑するこの男こそ、正体不明の伝説的殺人鬼、切り裂きジャック――――――――ではない。
そして同時に、それもまた否である
「これでッ! これで……これでッ!」
興奮気味に、男は月に吠える。
暗雲の奥で淡く輝く三日月が、男と死体を嘲笑っている。
「――――――――俺が、二代目ジャック・ザ・リッパーだッ!!!」
嗚呼、その通り! これこそ今宵の真実!
転がる死体は、真なるロンドンの恐怖! 地獄より来たりし娼婦殺し! 永遠なる正体不明の正体!
ジャック・ザ・リッパーの通り名でロンドン中を震え上がらせた、世界で最も有名な殺人鬼のその末路!
であればそれを下したこの男こそ、初代ジャック・ザ・リッパーを乗り越えることでその名を簒奪した新たなる恐怖!
殺人鬼は闇に消え、闇より再び現れる。
継承された恐怖の通り名は、どこまでも冒涜的にロンドンの路地裏に響いていく。
「アンタの大ファンだったよ! ずっと! アンタみたいになりたかった……だから、こうして夢が叶ったんだ! 夢は叶う! 必ず!」
興奮気味にまくし立てる“二代目”の言葉に、返される言葉はない。
そそくさと鼠が脇を抜け、黒猫が興味無さげに尾を振ってそれを眺めるのみ。
けれども、今はそれだけのオーディエンスで十分だった。
やがてロンドン中が……否、世界が! この新たなるジャック・ザ・リッパーに怯え叫ぶオーディエンスとなるのだから!
「クフッ、フフ、ハハハハハ……いやぁそれにしても、まさかアンタの正体が――――」
……そして、次の瞬間。
嗤う“二代目”の胸から、
槍の、
穂先、
貫いて、
鮮血、
呆然、
吐血と、
驚愕。
「――――あっ……がっ……?」
槍が引き抜かれて――――糸が切れたように、男は力なく倒れ込む。
「――――――――ご苦労さん。お前さんの腕前は永遠に語り継がれるだろうさ……この私、三代目ジャック・ザ・リッパーの先代としてな」
重なる死体を、やはり彼は足蹴にした。
闇に消え、闇より現れた恐怖の名は、再び闇に消えて闇より現れ――――銃声。
「ふん、なら俺は“四代目”か、ガッ!?」
「ハッハァー! これで俺様が“五代目”のジャック・ザ・リッ」
「パァン! こんなチンピラにその名前はやれないねっ! アタシが“六代目”としてちゃあんとジャック・ザ・リッパーを、をを、お、おおおおおおおおお」
「ほっほっほ……この毒は特別製での。“七代目”ジャック・ザ・リッパーのワシにかかればこの……ウゲーッ!?!!?!?」
「この、狂人どもめ……! なにが“七代目”だッ! ロンドンはお前らの遊び場じゃないんだぞ! それをあぱっ」
「……飛んで、“九代目”になるのか? これは……む。なっ、き、貴様、それは……! や、やめてくれ! なんでもする! なんでもするから……!」
「ダメだね。さてこれで私が“十代目”ジャック・ザ・リッパーとして……」
――――こうして。
切り裂きジャックの名は、永遠に霧の中へと消えていくことになる。
――――――――――――――――――本当に?
◆ ◆ ◆
現代、某月、某日、朝、東京、マンションの一室、キッチン。
ピピピ、と鳴り響く目覚まし時計はとっくのとうにノックアウト。
窓から差し込む陽光を全身で浴び、鼻歌交じりにエプロンを着付け、片手で卵を割ってフライパンに放り込む。
熱した油がパチパチと音を立て、透明だった白身をその名の通りのカラーリングに変えていく。
スリッパのつま先で床をトントン、リズムを取って。
同時にチン、と音を立てたのはトースター。パンを吐き出し、香ばしい匂いがキッチンを包む。
さぁ、パンが焼けたのだからメインディッシュも急がなくては。
なんにせよ、目玉焼きは片面焼きに限る。なにせ半熟以外に人権など無いのだ。
黄身が固まりきらないうちに火を止めて、トーストの上に目玉焼きを滑らせて、事前に淹れておいたコーヒーをカップに注いで。
最後に冷蔵庫から醤油を取り出して、これで最高にゴキゲンな朝食の完成。
当初に比べて冷蔵庫の食品も随分減ってしまったが、まぁまるまる四日も持ったのだから十分過ぎるぐらいだろう。
――――波佐見・ペーパーストンはそんなことを考えながら、やはり上機嫌なまま朝食を食卓に並べた。
エプロンをつけたままなのはご愛敬。別に見る人がいるわけでもない。むしろわざわざエプロンをしたことを褒めて欲しい。
波佐見の体にはいささか大きなエプロンは随分と使い込まれていて、このエプロンの持ち主が料理好きだったことを伺わせる。
探偵だった母譲りの性分か、波佐見はこうしたちょっとしたコトやモノから人物の人となりに想いを馳せるのが好きだった。
そんなことを考えながら、彼女は優雅に新聞を開く。
使い込まれた古新聞。……の、ように見えるけれど。
『
“一八八八代目”ジャック・ザ・リッパー、未だに足取り掴めず!』
『当代ジャック・ザ・リッパー、その
名の保有期間は三年目に突入。決定的な正体は掴めず』
『キリ番だからかな。結構みんな遠慮してるんじゃねえか。でも、俺はやるよ。俺の魔人能力『ジェット突き』は神速の突き攻撃。次のジャック・ザ・リッパーは俺しかないって思ってる(殺人鬼・男性)』
その新聞に載った記事は、ジャック・ザ・リッパーにまつわるものばかり。
それも、“一八八八代目”なる者の名が並ぶ。
記事に目を通しながら、波佐見はコーヒーをひと啜り。
「うん、ひとまず安泰かな……う、にが」
当然のようにノンシュガーの苦みが口中に広がり、若干顔をしかめた。
食器の配置などから察するに家主はノンシュガー派だったようだが、実のところ波佐見は甘党である。
家主の生活スタイルは尊重する主義だが、たまには主義を崩すことも考えるべきか……そんなことを考えつつ、トーストで口直し。
すると、足元からワンとひと鳴き。
テーブルの下に視線を向けてみれば、不機嫌そうに唸るコーギー犬の顔。自然と波佐見の表情が緩んだ。
新聞を畳んで丁寧に置いて、テーブルの下に体を入れる。
頭を撫でようと手を伸ばせば、ぐるると警戒の声色。苦笑でまた頬が緩む。
「どうした犬丸くん。中々慣れてくれないね」
犬丸、と呼ばれたコーギーはやはり唸り声を上げたまま、ジリジリと後退した。
嫌われたものだ、とさらに苦笑。
それで少し悪戯心を起こし――――波佐見は掛け声と共に、手を軽く振った。
「――――――――じゃーんけーん」
……それは、誰もが知る子供の遊び。
グー、チョキ、パーの三つ巴。掛け声と共に手を出して勝敗を決める、初歩的な遊び。
「ぽんっ!」
出した手はパー。
それに呼応するように、犬丸は“おすわり”の姿勢を取る。
幾度か試してみてわかったのだが――――これは彼なりの“グー”であるらしい。
「よしぽんっ!」
続いてチョキを出せば、犬丸は四肢を投げだして床に張り付く。パー。
「ぽんっ!」
そして最後にグーを出せば、ひょいと前足を持ち上げて立ち上がるちんちんでチョキ。
……をすれば、テーブルの下なので犬丸は頭をテーブルにぶつけ、ぎゃんと鳴き声をあげて転げまわった。
「ははっ、犬丸は真面目だなぁ!」
からからと笑って、波佐見は転がる犬丸を撫でまわした。
三戦三勝――――この利口なコーギーは、テーブルの下で立ち上がれば頭をぶつけるということはわかっていたはずだ。
それでも、犬丸は立ち上がった。
否、立ち上がってしまった。
本人の意志とは、どこまでも無関係に。
犬の愛撫もほどほどに、波佐見はトーストと目玉焼きを平らげ、コーヒーとの格闘を再開する。
諦めて砂糖を入れるべきか、それとも意地を張ってこのまま飲み干すべきか。
そんな些細なことに思考を巡らせる穏やかで優雅な朝――――――――
「――――――――――――――――――――。」
――――――――その終わりを告げる、静かな人の気配。
波佐見はスッと視線を玄関へと向け、音も無く席を立ち――――銃声。六度。
続けて六度の銃撃音が響き、扉の鍵が破壊される。
蹴破られる扉。轟音。飛び込む人影。
ハンチング。トレンチ。男性。大柄。手には刀。
それは弾丸のように飛び込み、刀を下段に構えたまま滑るように家の中へと侵入する。
対して波佐見は慌てず騒がず、飲みかけのコーヒーをマグカップごと投擲――――斬撃。マグカップ真っ二つ。暗褐色の液体が床にぶちまけられる。
侵入者の足が止まった。構えは再び下段。ハンチングの下から、油断なく波佐見を睨む。犬丸が怯えるように吠えた。
「……いらっしゃい。過激なノックだったね」
「――――貴様に対してならば穏やかすぎるぐらいだろう、“一八八八代目”ジャック・ザ・リッパー」
呼ばれた名に、波佐見はニィと口の端を吊り上げる。
そして、構える。
拳を構え、足を開き、腰を落とす。
英国伝統式護身格闘術、バリツの構え。
「どちらかにとっての最期だ。私のことはご存知みたいだし、そちらのことを伺っても?」
「……シャーロキアン探偵クラブ所属、剣竹刀。愛する女を貴様に殺された、一匹の復讐鬼だ」
「ああ、どうりで……私の『献身的な新聞社』の探知網に引っかからないわけだ。場所はどうやって?」
「初歩的なことだよ、殺人鬼。探偵は足で犯人を捜す。……それから、『献身的な新聞社』は貴様のものではない。我らシャーロキアン探偵クラブの管理する遺物だ」
「昔に母さんが盗み出して、私が成人した日にプレゼントしてくれた。今は私の物だよ」
「親子揃って、戯言を……ッ!」
――――シャーロキアン探偵クラブ。
かの名探偵、シャーロック・ホームズの意志を継承し――――“悪と謎を追跡し続ける”ことを誓う、探偵たちの同盟組織。
その刺客。
……かつては、波佐見の母もそこに所属する探偵だった。
ひょんなことから“一八八七代目”ジャック・ザ・リッパーであった父と恋に落ち、組織を裏切ったりもしたが――――まぁ、些細なことだろう。
その際に母が組織から盗み出した魔人装備こそ、この『献身的な新聞社』と呼ばれる古新聞。
かつてある魔人記者が出版したこの新聞は、所有者の望む情報を毎日二度に渡ってお届けする。
「『献身的な新聞社』の能力で襲撃者を察知し、逃げ隠れてきたのだろう。父である先代を殺害して以来、三年……当代のジャック・ザ・リッパーは随分と臆病だな」
その条件として、“求める情報の所有者が、その情報を発信したいと思っている”必要がある。
……けれど、波佐見を……その名を狙う連中は、大概の場合発信の意志を持っている。
それは新たにジャック・ザ・リッパーの名を継ぐことを世界に発信したい殺人鬼であり、その捕縛を以て遺族たちへの償いとしたい探偵や警官であり。
あるいは組織的に動く追跡者であれば、その時点で“情報をグループ内に発信”するために掲載基準を満たす。
彼らの襲撃予定は詳細に記載され、波佐見はその度に悠々と逃げ延びてきた。
故に波佐見を狙うのであれば、それは単騎でなくてはならぬ。
故に波佐見を狙うのであれば、それは誰にも知られぬことを覚悟せねばならぬ。
故に波佐見を狙うのであれば、それは仕損じた時に後に続く者を用意できぬ。
そして、故にこの剣竹刀という男は――――この孤独な復讐を誰にも伝える気がないために、波佐見の探知網を見事に回避してのけている。
「武人じゃあないからね。私は殺人鬼だ。……まぁ、殺人が好きってわけでもないけれど」
「……なら、なぜ鞘子を殺した……!」
「鞘子……鞘子……ああ、もしかしてあのハッカーのお姉さんかな? あの人は面白い生活スタイルだったねぇ。布団のかけ方が特徴的で……」
「――――――――所詮は殺人狂いに違いなしか。いい。今ここで、断つ。……鞘子の仇――――ッ!」
裂帛の気合い。
竹刀が刀を下段に構えたまま、滑り出す。
彼の魔人能力『剣道三倍弾』は、弾丸を己に打ち込むことで剣道の実力を一時的に三倍に引き上げる異能である。
それを既に、五度の重ね掛け。六度の銃声はそのために。一発は、扉を開けるために。
即ち現在の彼の剣道力は、三の五乗で二四三倍。
並の魔人剣士二四三人分の剣道力を以て、二四三倍の歩法を繰り出している。
波佐見は無手。
彼女がバリツの達人という情報は既に掴めている。
けれど、剣道三倍段――――剣術は徒手格闘の三倍に匹敵する。
「じゃん」
即ちさらに三をかけ、七二九倍の実力差があると言っていい。
「けん」
それだけの差があるならば、間違いなく白兵戦では竹刀に分があるはずで――――
「ぽんっ!」
対して波佐見は、なんのけなしに両手でチョキを繰り出し――――――――同時に竹刀の手が開き、彼は刀を取り落とした。
「…………ッ!?」
ありえない。
戦闘中に刀を手放すなど、ありえるはずがない。
ならばこれは、彼女の魔人能力。
しかし、どのように?
一体どのような能力で、竹刀は刀を取り落としている?
「――――私の魔人能力『操り忍形』は、糸を絡めた相手を自在に動かすことができる――――」
「……欺瞞! ならば俺は踏み込めるはずがない! 貴様の能力はそこまで都合のいいものではない!」
「お見事。流石は探偵さんだ」
「どこまでもふざけてくれる……!」
刀を拾う――――余裕は、ない。
高まった剣道力はそのままだ。ただ、剣がないだけだ。
歩法はまだ生きている。再び滑り出す。当然、竹刀は探偵としてバリツも修めている。
フットワークで相手をかく乱し、テムズ式ストレートパンチを繰り出し――――――――
「じゃんけん、ぽんっ!」
――――――――繰り出された波佐見のカウンターパンチに、どうしてか人差し指を突き出してしまい、指が派手な音を立てて折れた。
「ぐ、がぁぁぁぁぁ……!」
かち合う拳と拳。であるはずだったもの。
それがどうだ。
竹刀の拳は人差し指と親指が起き上がり、人差し指は波佐見の拳に破壊された。
「おっ、“カッコいいチョキ”派閥か。……中指も行く予定だったんだけど」
「き、貴様……貴様の能力は……!」
呻きながら、必死にファイティングポーズを取る。
負けられない。
死んだ恋人のためにも、剣竹刀は負けられない。
だと言うのに。
だと、言うのにッ!
「うん。御明察の通り、私の魔人能力『不竦』は――――相手をジャンケンで負かすだけの、単純な能力だ」
この単純な能力が、突破できない――――――――!
「じゃんけんぽん、っと」
必死に取ったファイティングポーズすら、彼女が繰り出す“チョキ”の前ではただの平手に変換される。されてしまう。
動揺した隙に距離を詰められ、足払いで転倒させられる。
手をついて、受け身を取って、起き上がり「ぽんっ!」――――市内の手が握り拳に。手が付けない。咄嗟に受け身が取れない。
「はい、じゃあおしまいっ」
そのまま距離を詰められ、襟首を掴まれ――――ぽい、と無造作に。
竹刀の体はベランダへと放り投げられ、窓をブチ割って外へ。
体が柵を超えて外へ。
ここは高層マンションだ。高い。落ちれば、死。
咄嗟に手すりを掴む。直後に理解できる。死ぬ。
今、波佐見がチョキを繰り出すだけで――――竹刀は自らこの手すりを離し、落ちて死ぬ。
「かたき討ち、か……まぁ、残念だったね。調査能力はよかったみたいだけど、私の能力まで解き明かしてから来るべきだった」
「――――はっ、は、ははっ!」
「……発狂したかな。ここも引き払わないとな……まあ、潮時だったけど……」
「――――――――弱いな、ジャック・ザ・リッパー!!!」
竹刀は、叫んだ。
「…………なに?」
「こうして俺を倒して、また逃げるのか! また闇へと帰るのか! それでジャック・ザ・リッパー? その名を? ははっ、笑わせる!」
叫ぶ。嗤う。
そこに意味があるのか、本人にもわからない。
「――――――――今この街では、数多の殺人鬼が集っている!」
「……それが?」
「逃げるのか、“一八八八代目”。……殺人鬼の頂点が、決まろうとしているぞ。その催しから背を向けるのか、ジャック・ザ・リッパー」
「…………繰り返すけど、私は武人ではないよ。頂点とか、そういうのに興味は――――」
「――――――――であれば、“一八八七代目”も、その前も、大したことのない人物だったのだろう。倫敦の切り裂き魔も、堕ちたものだ、とな」
「……………………………………………」
「地獄で待っているぞ、ジャック・ザ・リッパー。忘れるな。俺たちは、必ずお前を――――――――」
「…………ぽんっ」
刃。
切り裂きジャックの刃物は、命の綱を断ち切った。
それから――――――――数刻後、この部屋には警察の立ち入りが入る。
高層マンションから落下死。
部屋の中には成人男性と高校生の親子の死体と、コーギー犬の死体が発見される。
犯人は不明。
目下捜索中。
――――――――東京に、霧の街の悪夢が潜む。
最終更新:2019年11月30日 20:41