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南越後攻略戦 - (2010/01/13 (水) 06:50:48) の編集履歴(バックアップ)


南越後攻略戦

南越後攻略戦(みなみえちごこうりゃくせん)とは永禄12年に行われた姉小路家が上杉家の春日山城を攻略した戦い。糸魚川の戦いより後に行われた合戦の総称である。永禄11年12月から同12年2月までの糸魚川の戦いは該当項目を参照。大きく分けて三回の戦いで構成される。

参加兵力及び戦力評価

姉小路方75692
主力
先手隊:足軽隊12500:柴田勝家本願寺顕如小島職鎮 
越前隊:騎馬隊10192:朝倉宗滴紅美鈴朝倉義景 
雑賀隊:鉄砲隊9500:鈴木重秀(雑賀孫一)鈴木重兼鈴木重泰  
紅魔隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜レミリア・スカーレット佐々成政

第一後詰
播磨隊:鉄砲隊5000:黒田孝高伊吹萃香レティ・ホワイトロック
近江隊:鉄砲隊5000:浅井長政磯野員昌アリス・マーガトロイド

第二後詰
越中隊:足軽隊12500:柴田勝家小島職鎮真柄直隆
本願寺隊:足軽隊11500:本願寺顕如鈴木重意原長頼

上杉方約50000(延べ人数で重複あり)
迎撃隊
旗本隊:騎馬隊12000:上杉景勝斎藤朝信
柿崎隊:騎馬隊6000:柿崎景家
村上隊:騎馬隊6000:村上義清

再迎撃隊
旗本隊:騎馬隊9500:上杉景勝斎藤朝信

再々迎撃隊
旗本隊:騎馬隊6000:上杉景勝斎藤朝信

再々々迎撃隊
旗本隊:騎馬隊7500:上杉景勝四季映姫・ヤマザナドゥ

合戦までの経緯


先の糸魚川での合戦の結果、上杉方に夥しい死傷者がでたため、姉小路家と上杉家の前線において著しい戦力差が発生した。朝倉宗滴は魚津城に帰城後、日をおかずに速攻を決定した。数日の休息と補給を終えるとすぐさま越後へ出陣した。前の戦いと違って越後への道は確保されており、季節も春であったので進軍は比較的スムーズであった。彼らは青梅から能生、そして越後の中心地である府内、そして春日山城へと向けて順調に進軍していった。3月20日頃、先行していた朝倉宗滴率いる越前隊が春日山城城下町、越後府内に侵入した。しかし、同じ頃、上杉家の迎撃軍が春日山城から出陣した。総大将は上杉景勝1万2千。副将として斉藤下野も参陣していた。そして柿崎景家6千、村上義清6千がこれに続いた。朝倉宗滴は一旦兵を引き、全軍を越後府中の郊外へと集結させた。上杉方も越前隊を追ってここに布陣。両軍は3月25日には布陣を終えた。

郊外での戦い

3月28日未明、柿崎景家隊が姉小路家本陣、朝倉宗滴の陣へ朝駆けを仕掛けたことで戦いの火蓋が切られた。当初は上杉方が地形と騎馬の機動力を生かして先手を取る事が多く、姉小路家はそれを守備する形となった。柿崎隊が越前隊を抑え、景勝隊、村上隊が姉小路家の先手足軽隊に激しい攻撃を加えた。対する先手足軽隊は敵が強勢の間は守勢をとり、引き上げようとしたタイミングで攻勢にでた。姉小路家の足軽は弱兵であり、これは柴田勝家や本願寺顕如という名将たちでも強兵上杉騎馬隊との差を埋めることはできなかった。よって景勝隊の前に多大な被害を受けた。しかし一方で景勝隊も彼らの粘り強い用兵によって足止めを喰らい、かつ疲労を強いられた。その間に姉小路家は鉄砲隊を左右に展開し、退却途中の疲労した景勝隊の兵を討ち減らした。両者は幾度もこのような戦闘を繰り返し、互いに損害を出しあった。先手足軽隊は4月10日、村上隊の突進で2500もの被害を受けた直後、景勝隊の猛攻で3500にまで削られた。ここにおいて先手足軽隊は一時魚津に撤退を決めた。
しかし景勝隊も連日の戦いで無理をしすぎていた。先手足軽隊を追う際に疲労から多数の脱落者を出し陣が乱れた。そこを紅魔隊に狙い打たれたのである。姉小路方は後詰1万が到着しており、足の止まった景勝隊は雑賀、紅魔、近江、播磨の四部隊の集中砲火を浴びた。柿崎隊も村上隊もこれを支援する暇もなく、4月13日景勝隊は雑賀鉄砲隊によって壊滅した。本隊を失った上杉方の残った2隊も退却を開始した。この際、村上隊は越前隊を一手に引き受けていた柿崎隊を先に退却させ、追いすがる越前隊へ一撃して退却を行うなど見事に殿軍の役目を果たした。

城下町での戦い

さて、姉小路軍は野戦において勝利したものの、すぐさま春日山城へ軍を進める必要は無かった。春日山城に篭る戦力は多くなかったし、上杉軍の主力も遠く奥州津軽まで遠征中で、近隣に姉小路方の脅威となる兵力がほとんど存在しなかったのである。姉小路家は着実な方法を取った。春日山城の城下町である府内には関東管領館や譜代の大身家臣の館など多数の武家屋敷が存在していた。上杉方はここに少数の兵を篭めていた。姉小路方はこれらの施設を虱潰しに攻めて一つ一つを焼き払ったのである。そこに4月28日、突如上杉景勝が騎馬9500を率いて出陣した。副将は同じく斎藤朝信。景勝隊は関東管領館(御館)を攻撃中の越前隊に襲い掛かった。しかし、これは兵力差からあまりに無謀であった。幾重にも陣をしいて待ち構えていた姉小路鉄砲隊によって瞬く間に壊滅に追い込まれた。5月23日、姉小路方は城下町を完全に制圧。春日山城は孤立した。越前隊は未だ継戦能力を有していたが、糸魚川合戦以来常に前線で戦い続けていたことから無理を避けて魚津に撤退。前線は後詰の柴田勝家を主力とする越中隊が勤める事となった。6月10日、姉小路方は、城を背に陣を敷いていた景勝隊6000とぶつかった。兵力差は隔絶しており苦も無く城内へ押し込んだ。

春日山城攻城戦

6月20日、後続の本願寺顕如、鈴木佐大夫率いる本願寺隊が前線に着陣して本格的に攻城が開始された。春日山城は天守こそ無いものの、全山を城と化した広大な城であった。さらにこの戦いの前の整備によって城壁は厚く塗り固められ、石垣も備えて鉄砲を幾ら撃ち込まれてもびくともしない堅城となっていた。城攻めは主に越中隊、本願寺隊の足軽隊が主力となって行った。姉小路の足軽は戦闘力こそ高くないが、工兵としての実力は高い。6月22日には外堀の埋め立てを終え、外門に取り掛かった。ただし、包囲はしておらず四季映姫が近隣諸国から掻き集めた5千の兵を率いての入城を果たしている。そして僅かながらの兵力の補充を受けた景勝は6月24日、越中隊の攻城を妨げるために四度目の出撃を行った。しかし、逆に紅魔隊の銃撃で半数を失う事態に陥った。攻城に移ってからの足軽隊の働きは目覚しく、特に真柄直隆は春日山城外門である黒金門をこじ開け、味方の来援が来るまで柿崎景家の攻撃から維持するという剛勇ぶりを見せた。
外門が破れてからは姉小路方の攻撃は激しさを増し、7月20日頃に本願寺隊が内門である千貫門を確保。これまでは足軽隊の支援に徹していた姉小路鉄砲隊も一挙に本丸へ攻め込んだ。ここに至っては城は防御の意味を成さず、レミリア隊によって僅か半日で残った4千余の城兵たちは掃討されてしまった。
7月20日、築城以来始めて春日山城は落城した。

この戦いの影響

上越後は戦略上の要地であり、長尾上杉家父祖伝来の地で権威の象徴であった。ここを失ったのには国人達への動揺もあった。その最も顕著な例が佐渡で、佐渡は国ごと姉小路家に寝返ることとなった。他の上杉家家臣達は決して裏切らないよう、起請文を謙信に提出している。この戦いで上杉家が失ったものは物質的なもの、精神的なものをを含めて莫大であった。(その詳細は後述)
一方の姉小路家は戦略上の要地を得、北信濃からの侵攻路を確保した。ただし、経済的利益は都市が兵火に焼かれて8割以上が焼け落ちて都市機能がほぼ失われたこと、商人達も逃げ散った事、以上の要因で直江津湊から上がる利益が激減したこと、などから上杉氏時代と比べれば攻略した時点ではかなり減少している。とはいえ、金山の利益や農村から上がる利益も含めれば莫大なものとなった。
武田氏にとっては、姉小路家との国境がさらに増えた事で信濃の重要性が増した。

上杉家にとっての南越後の重要性

謙信にとって、南越後地方が最大の蔵入地であった。謙信には領土欲が乏しいため、他国を攻めても気前良く負けた側の領地の多くを安堵した結果、広い版図ほどには上杉家自体の直轄領は増えなかったのである。よって、実に4割近い直轄領が南越後に集中していた。上杉家譜代の重臣達も同様である。直江津の港やその周辺の都市から上納される運上金、金山の富、周辺農村で栽培している青苧の収入は莫大で、版図を広げた後も収入に占める割合は小さいものではなかった。
また、権威の点からも重要であった。長尾上杉氏にとっては最初に土着した長尾景恒以降200年の本拠で、そこを領するというのは越後長尾家当主という特別な意味があった。また、春日山城も為景が城主となって以来の本城であった。謙信への敬称『御実城様』の実城とは春日山城の中心部分を指す。また、代々の菩提寺林泉寺も春日山にある。城下の府内には御館といって関東管領上杉憲政が住んでいた館があり、憲政が出奔した後には謙信が政務をとる政庁と定められていた。
長尾上杉家にとっては他に代えがたい地であったといえる。

逸話