2007/08/26 [会う聞く話す]水俣市長 宮本勝彬さん=熊本【読売】


 ◆産廃処分場に断固反対「何もないところに危険持ち込む」 水道水水源地、生活に悪影響 
 水俣市南部の山林で民間業者「IWD東亜熊本」が進めている産業廃棄物最終処分場建設計画に対し、市は建設阻止の旗振り役を務めている。運動の中心になっているのは昨年2月の市長選で現職に大差をつけて初当選した宮本勝彬市長(63)だ。計画に反対する理由や計画をストップさせる手段などについて聞いた。また、同市で問題となっている国の環境基準を超えたダイオキシン汚染土砂の処分問題について今後の方針も尋ねた。
 ――計画に反対する理由を聞かせてください。
 「水俣は人類史上に残る水俣病という悲惨な公害が起こり、生命の受難を経験した。それらを礎として、新たな夢のあるまちをつくるのが市長の私に課せられた責務。計画は水俣の息の根を止める暴挙と言ってよく、あまりにも厳しい仕打ちと思う。産廃処分場の必要性は理解するが、適地とは言えない。市民の生命、財産、健康を害する恐れがあることも事実であり、受け入れられない」
 ――IWD側は県環境影響評価条例に基づく環境影響評価準備書を作成し、2度にわたる住民説明会を開催するなど着々と計画を進めています。建設を阻止する具体的な方策は。
 「計画がいかに危険性をはらんでいるかを科学的な根拠の下で証明する。そのために専門家にもお願いしている。環境への影響が少ないと主張する準備書の矛盾点も指摘する。それらの積み重ねで会社に勇気ある撤退を促したい」
 ――とは言うものの、許認可権を持つ県は、法律の要件を満たせば設置を認めるとの立場です。
 「県が認めないよう計画の危険性をいろいろな角度から科学的に証明していく」
 ――市は「産廃阻止!水俣市民会議」をつくっていますが、民間の計画に対し、行政の中立、公平性という観点で問題はないですか。市の考え方を「地域エゴ」という指摘もあります。
 「処分場は周辺への影響が少ない所につくるべきだ。計画場所は市民だけでなく津奈木町、対岸の天草市御所浦町への水道水の水源となる水俣川の上流域であり、生活への影響を考えれば適地とは言えず、反対するのが当然。また、水俣病が起こった歴史を考えれば、地域エゴという指摘は理解できない」
 ――ただ、チッソ水俣工場が汚染源のダイオキシン問題に関しては、市は県と共に最終処分場をつくる計画を進めています。
 「ダイオキシン汚染土砂は、今、目の前にある危険なものを処分する話。IWD側の計画は、何もない所に危ないものを持ち込むものであり、根本的に次元が違う。水俣港や百間(ひゃっけん)排水路などに堆積(たいせき)する汚染土砂は1日も早く、安全に処理しなければならない」
 ――一部の市民は無害化処理を求めています。
 「無害化は今の技術では困難と聞いている。現在、セメント固化による処分を住民に説明しているところであり、早期解決につながればと思っている」
 ――最後に聞きます。「水俣病の教訓」とは何でしょうか。そのための市の役割は。
 「行政、事業者、市民……。それぞれの立場での教訓があるが、共通しているのは人間の生命が何より優先されなくてはならないということ。水俣病によって多くの人が社会的、精神的に苦しみ、我々は二度と環境を汚染してはならないことを学んだ。このことは人類の未来への大きな教訓だと思う。水俣の役割は、環境に特に配慮したまちづくりを進めること。そのことが水俣病で亡くなった人たちに報いることになると確信している」

 〈記者の感想〉
 ◆今後問われる真価 
 「賛否は中立」。産廃最終処分場建設計画に関し、市長選直前までそう言い続けた現職の前市長に対し、当時は市教育長だった宮本さんが「断固反対」を掲げて立候補を表明したのは2005年11月。現職の強力な後援会組織に草の根の戦いを挑み、産廃阻止の訴えが大きなうねりとなって圧勝した。その後は公約通り、産廃阻止を市の最重要課題に位置づけ、専門家による独自の環境影響調査などを実施している。
 IWD東亜熊本の本社は市内にあるが、背後には東京の親会社が存在する。その親会社の社長らとも会い、計画の白紙撤回を直談判するなどの行動力に強い決意を感じる。法廷闘争も辞さないとする姿に市民の期待も大きい。
 環境影響評価準備書に対して市が集めた意見書には国内外から3万3432通が寄せられた。市の人口は約2万9000人で、関心の高さをうかがわせた。
 ただ、会社側は「水俣病の教訓」を生かし、世界に誇れる安全な処分場を建設するとの方針を示す。市長の真価が問われるのは、計画が本格的に進むこれからだ。(白石一弘)

 ◇みやもと・かつあき 熊本市出身。東洋大文学部卒業後、中学の国語教師として水俣第二中に赴任。市内6中学校で教べんを執り、3小中学校では校長も務めた。人生の半分以上を水俣で過ごし、「水俣は心のふるさと」と話す。根っからの野球好きで、高校時代は野球部主将。教師時代は熱血監督としてチームを指導した。教育長職を辞し、昨年2月の市長選で初当選。就任直後に市役所に産業廃棄物対策室を設置したほか、官民一体の「産廃阻止!水俣市民会議」もつくり、会長に就いた。同会議は現在55団体が加入し、市民一丸となって反対運動を進めている。市政運営に際しては「小さくても輝く街、ほっと安心できるぬくもりのある街」を目指す。同市長野町に妻と2人暮らし。

 写真=産廃最終処分場建設計画に対し「法廷闘争も視野に入れている」と話す宮本市長

2007/08/05 【この人に】坂本ミサ子さん【朝日】


  ――水俣市に計画された産業廃棄物の管理型最終処分場建設について、事業者は国の基準を満たす安全な施設だと言います。反対の理由は

  本当に安全と言い切れるのですか。水俣病問題は50年以上続いています。チッソの製造工程は国の基準を満たしていたのに「公害の原点」とされる水俣病が起きた。

  市の水がめの山間部に産廃施設を造れば、飲み水が汚染される可能性があります。その水が海に流れれば、ようやく回復してきた海が再び汚される。そんな故郷を子や孫たちには残せません。

  ――反対のきっかけは

  計画が出た約3年前、各地の施設を見て回りました。北九州市では、全身にじんましんができ、処分場の作業員がやめたと聞きました。東京では、産廃を下ろすダンプカーから粉じんが巻き上がる様子を撮ったスライドを周辺住民から見せてもらい、10年間で肺がんやぜんそくの患者が増えたという話を聞きました。

  施設を造り始めたら、途中で止められない。立ち上がるしかないと考え、反対する団体を作りました。いま多くの市民団体が連携し、「産廃阻止! 水俣市民会議」として運動しています。

  ――市民会議には立場や意見の違う人たちが集まった。坂本さんは水俣病問題に距離を置いてきたようですが

  水俣病問題では長い間、公の場で意見を口にしてこなかった。理由は、色んな考え方の人がいる婦人会の会長を長年務めていたことと、夫がチッソの技術者だったから。

  62~63年のチッソの労働争議で組合が分裂し、ストに参加しなかった第2組合だった夫と私たち家族は親しい知人や親類から「裏切り者」とののしられました。自分の中でチッソを守りたい気持ちが強くなり、水俣病問題では口をつぐむようになりました。

  一方で、患者の痛みは強く感じていました。約30年前、華道で指導した20代の患者女性は午前中いっぱいかけて、やっと5本の花を生けた。手が震えながらも一生懸命で、抱きしめたい思いでした。

  夫の会社を擁護したい気持ちと水俣病患者の苦しみ。複雑な思いでした。夫が退職していた15年ほど前、ある人から「現実から目をそらすな」と強く諭され、少しずつ水俣病のことを口にできるようになりました。環境問題にもかかわり始め、産廃問題では水俣病の教訓を踏まえるようになりました。

  ――水俣にとっての産廃問題とは

  水俣病の歴史は人間関係を複雑にしました。私と同様に水俣病について、あえて言わない、触れないという市民はいたと思います。考え方や立場は違っても命の大切さを肌で感じてきた50年だったことは間違いない。

  産廃問題は、この50年の教訓を生かせるかどうかが試されています。市民の中で、お互いの違いを乗り越えないといけないし、現に乗り越えていると思います。子や孫の命を守るという一点でつながっている。地域のこと、将来のことを多くの人が深く考えるようになったとも思います。

  80歳を迎えた今も、戦時中に多くの同世代が亡くなった記憶が鮮明に残っています。私だけ、のほほんと生きているわけにはいかない。この問題で何とか光を見つけたいと思うし、見つけられると思います。

  さかもと・みさこ 27年、水俣市生まれ。市内の地区婦人会長を30代から務め、85~93年に市婦人会長。04年に「水俣の命と水を守る市民の会」の会長。市と市内の約50団体で作る「産廃阻止!水俣市民会議」の理事。今年まで30年以上、華道を教える。趣味は読書。長女の家族とともに4人で暮らす。

  産廃処分場の建設反対は、「地域エゴ」と言われるかもしれない。細かい分別収集やリサイクルに取り組む水俣とはいえ、産廃はよそで処分される。県内の管理型処分場は数年で満杯になるといい、建設は喫緊の課題とされる。

  「それでも、どうしてまた水俣に」。水俣病に襲われ、命を奪われ、人間関係まで壊されてきた街の人々の声は悲しげな叫びにも聞こえる。患者や家族らだけではなく、坂本さんのような水俣病をあえて口にしてこなかった人々にも共通の思いだろう。

  各地で起きている産廃施設阻止の運動は、自然と命を守る闘いと位置づけられている。水俣も同様だが、同時に耐えられないほど傷ついた心を、これ以上、引き裂かれたくないという人々の切実な願いが込められている。

  坂本さんはインタビューの間、2度ほど涙をふいた。これまで長く封じこめてきた複雑な思いがあったという。ただ、言葉は終始、濁らず潔かった。静かな強い覚悟を感じた。(稲野 慎)



最終更新:2007年11月28日 14:34