ドルカシリーズについて

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 コニカ 1型2型と外観(一部機構を含む)が非常に似たカメラとしてドルカシリーズが有名です。
 これは宮崎繁幹氏が著書「クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年」の30ページでドルカ 2の写真を掲載したからでしょう。
 しかしドルカシリーズを明確に調べた資料は少なく、発売元の東京光研株式会社も現存していませんので正確な情報を残しておこうと思います。

 入手してみると種類が多い上に細かな仕様変更が繰り返されている様です。

ドルカ35 IとIIそれぞれの最終型とされる(現時点で決定的証拠はありません)タイプS

1. ドルカ35(Dolca 35)

 距離計を持たないドルカ35のうち最初期に作られたシリーズを指す。
 後に2型とU型が作られた為、1型と区別される様になる。
 ここでの表記はコニカ同様に基本アルファベットで記載するが、実際にはギリシャ文字で統一されている。

確定情報

 ドルカ35の発売時期は1953年2月説、[出典1-13, 出典1-14.]3月説[出典1-14.]があるが、アサヒカメラの1952年(昭和27年)12月号で新製品として紹介され、[出典1-1.]翌1953年(昭和28年)1月号からアサヒカメラとカメラ毎日で新発売広告が展開されており、同時に東京カメラ株式会社の新年挨拶を兼ねた広告にも掲載されている事から、[出典1-2.]1952年12月から1953年1月の発売と見るのが自然である。
 (1953年1月号は1952年12月に発売されている)

 [出典1-2.]アサヒカメラ 1953年1月号広告

 同時に宣伝されているコロン・フラッシュガンについてはこれ以前より広告は掲載されていた。
 例えばアサヒカメラ1952年1月号の158ページにもミカド商会名義で見られる。

 発売時期について補足する。
 2月発売説を唱えたのは戦後日本カメラ発展史であるから、そもそも信憑性に欠けているし、粟野氏も同誌の内容から推測された可能性が高い。
 3月発売説に関しては光画月刊1953年3月号のSOPT LIGHT[出典1-4.]でドルカ35が取り上げられたのを見て新発売と解釈したと思われる。
 しかしよくよく読めば同記事はあくまで最近発売された機材をまとめて紹介した記事であり、今月発売の最新機種紹介といった類ではない。
 また同誌でドルカ35の広告が掲載されたのも3月号であった事から光画月報のみを資料として判断した場合、3月説が生まれてもおかしくないのである。

[出典1-3.]光画月刊 1953年3月号広告

 さて、ドルカ35のアサヒカメラ誌上における記念すべき初回広告のキャッチコピーはご覧の通り過激なものであったが、流石に時勢的に良くなかったのか翌月以降は以下に変更となった。
 このアサヒカメラ誌上の広告は発売元の表記が小変更されながら2月号143ページ、4月号197ページ、5月号137ページに掲載されている。

 [出典1-5.]アサヒカメラ 1953年4月号広告

 以下にドルカの基本性能を初回広告[出典1-2.]より抜粋する。

[出典1-2.]

 最後のダイカストボディの精度部分が読めないが、これはスキャン時の不都合ではなく管理人所有の原本も読めないので不明1/100ミリと判明した。
 尚、精度に関しては初回広告のみであり、以降は数値を書かず「堅牢精密」という表記に変わっている。
 宣伝文句として解りやすくしたのであろう。

 上記出典資料には書かれていないがシャッター銘はNIPOLと表記され、メーカーによると「ニポルシャッター」である。

 ドルカ35シリーズを語るにはその外観抜きにしては始まらない。
 誰の目にもモチーフがコニカ 1型である事は明らかである。

左側がKonica 1型、右側がDolca35

 とはいえ完全なコピー機ではなく、デザインと寸法、機能を参考にした上で独自設計しているのか、各パーツの固定方法や内部パーツの形状に違いが見られる。
 細かな話をすればシャッターのチャージレバーを倒す方向も逆向きである。
 また、ドルカ35の発売時期がコニカが2型に進化してから1年近く経過している為か、一部はコニカ 1型より改良されている。
 例えば標準的なアクセサリーシューを装備していたり、セルフタイマーが備わっていたり、距離計の指標がメートル表記とフィート表記の両方があるといった点である。[出典1-6, 実機確認.]


 改良点になるのか不明なのは底部にある巻戻しロック解除ボタンで、一般的なボタン方式のコニカ 1型に対して、ドルカ35では傾斜付きのダイヤルを90度回転させる事で解除ボタンを押す少し変わった手法を取り入れている。[実機確認.]
 最晩年のS型ではダイヤルを廃したコニカ 1型と同じシンプルな構造となった。[実機確認.]


 とはいえ連動距離計が省略された目測カメラであり、ファインダーで正確なフォーカスが出来ないし、シャッター開放時間も1/200秒までしかサポートされていない。[出典1-6, 実機確認.]
 それでもレンズはコニカを範とし、Hexarに準じたTessar構成の50mm F3.5を選択、沈胴式の鏡胴(距離調整方式は1/4回転)と、スペック上はコニカ 1型の下位グレードモデルと同等であり、薄いながらコーティングも施されている。(広告ではフルコーテッド・コメイルとコニカを真似た名称が見られる)[各広告, 実機確認.]
 しかし同時期のコニカ 1型に施された「コニコート・ヘキサー」はおろか、それ以前の「コーテッド・ヘキサー」にも及ばず、最初期の製造番号でいえば10000前後のコーティングレベルである。
 これは決して小西六贔屓で評価しているのではなく、また個体による差でもない。
 (ドルカ35を10台以上入手してレンズを確認してみたが全数同じレベルのコーティングであった)
 が、大手メーカー以外では一般的な次元かもしれない。
 レンズ銘としてKOMEIL(コメール、広告によってはコメイルとも書かれている)を与えられている。[出典1-6, 出典1-14, 各広告, 実機確認.]
 シャッターにコダック式のシンクロターミナルも備えているから、一般的な使用においては何ら不都合はなかったと思われる。

 特筆しておきたいのは、コニカ 1型を強く意識していた為にドルカ35も堅牢なダイカストボディを備えている点である。
 下の写真は左側がドルカ35、右側がコニカ 1型である。


 ご覧の通り完全な模倣であるが、故に堅牢さまでもが忠実に再現されている。[出典1-6.]
 この時代に作られた(大手メーカー以外の)カメラの多くは町工場で作りやすいプレス加工のボディであり、わずかな衝撃でフィルム面とレンズの平行調整が狂いやすかったが、コニカ 1型がそうである様にボディ強度がある為極めて堅牢であった。
 ボディ強度があって初めてレンズの性能も活かせるのであるから、ここを疎かにしているカメラとは性能において明らかに一線を嚇すのである。


 しかしボディの外周はコニカ 1型が八角形の形状だったのに対し、ドルカ35は所謂ライカタイプの楕円形を採用している。
 が、軍艦部の上面はコニカ 1型と同じ八角形に近づけているので接合部がやや不自然に見える。[実機確認.]

 尚、ドルカがコニカ 1型を参考に開発されたと見なす根拠として、藤本栄氏の特許であるフィルム巻止装置がついている点が挙げられる。[出典1-6, 実機確認.]
 このフィルム巻止装置はコニカ 1型の大きな特徴であり、これを模倣したカメラは珍しい。(東興写真株式会社のWindsar等があるが一般的ではない)

 発売価格は当初の広告より13,500円で専用ケースが1,000円。[出典1-2, 出典1-5, 出典1-6.]
 (カメラ年鑑[出典1-6.]ではケース代込の価格で掲載)
 同時期のコニカ 1型のHexar 50mm F3.5仕様が25,000円であったので、性能に多少目をつぶれば随分と安価でお買い得といえる。

[出典1-7.]1953年9月時点での販売価格(日本フォトサービス社の広告)

 店頭値引き額は1,000円程だった様である。

 1953年10月になると価格が500円下げられた。[出典1-13.]

 ドルカ35は1953年11月に2型が登場すると区別する意味で1型と呼ばれる様になるが性能的な変化は無かった。[実機確認.]

 ドルカ35 1型に変化が訪れるのは、翌1954年の8月である。[出典1-9.]

[出典1-9.]日本カメラ 1954年8月号広告

[出典1-10.]日本カメラ 1954年9月号広告

 まず、日本カメラ誌上に広告が、続いて同誌9月号の新製品で紹介されるドルカ35 1-A型である。[出典1-9, 出典1-10, 出典1-11.]
 これは1型に独立型の距離計を内蔵したもので軍艦部に専用の刻印が打たれた。[出典1-11, 実機確認.]
 同時期、レンズ銘が2型同様にKOMEIL(コメイル)からNIPOOL(ニッポール)に改められた。[出典1-10, 実機確認.]
 ただし、1-A型であってもKOMEIL銘の個体も存在する。[実機確認.]

 1-A型発売後も距離計の無い従来の1型も並行生産されたが、2型の登場後も軍艦部に1型を示す刻印は最後まで打たれる事は無かった。[実機確認.]

軍艦部背面(上ドルカ35、下ドルカ 35 1-A型)

 距離計の関係でフィルム巻止装置のボタンがコニカ 1型の様に背面に移動した。[実機確認.]
 この距離計は通常のファインダー中央に二重像が表示されてそれを合致させる一般的な方式であるが、距離計を合致させてもフォーカスは連動しない。
 また逆に本体のレンズを前後させても二重像は動かない。
 要するにフレーミング用ファインダーを共有する単独距離計である。
 一般的な単独距離計と同じく、フォーカス用ダイヤルを回して二重像が合致した所でダイヤルの数字を読んでレンズの指標を合わせて撮影する。[実機確認.]

 このタイプAから軍艦部側面傾斜位置に(距離計調整穴目隠し用?)ビスが設けられる。(上写真参照)[実機確認.]

 この1-Aと並行して、或いは後年、従来の目測型も生産されていた様で、小変更された軍艦部の目測式ドルカ35も存在している。
 それは背面に移されたフィルム巻止装置の開口部を化粧板で塞いでいるのが特徴である。[実機確認.]

軍艦部背面(晩年)

 つまり軍艦部のベース加工は1-Aに準じた物が作られ、仕様に応じて化粧板が付けられていた事を意味する。

[出典1-12.]1955年12月の店頭価格表

 発売から3年近く経過しても1目測式のドルカ35は売られていた様である。

シャッター意匠の変化

 ドルカ35はシャッターの意匠がいくつも存在し、時系列で並べたものが上の写真である。
 コニカ 1型同様シャッターの製造番号順とボディの製造番号順は食い違っている。
 最終型ではドルカ35 Uとパーツの共有化が図られた様である。
 主な流れとしては、ドルカ35無印→シャッターの意匠変化→軍艦部がA型と共有された関係でビス穴開口と背面に盲板→シャッター意匠がU型と共有し刻印文字が小さくなるといった具合である。[実機確認.]
 レンズのコーティングに関しては最後まで変化していない。[実機確認.]


未確定情報

  • 初回広告で何故コロナフラッシュガンと同時掲載なのかはわかっていない。
  • 最晩年に1型は2-S型に準じたエプロン形状に移行したが、呼び名としてSが付いたかどうかは不明である。

資料

  • [出典1-1.] (1952.12). 新・製・品・メ・モ アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 12月号.
  • [出典1-2.] (1953.1). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 1月号. PP.216.
  • [出典1-3.] (1953.3). 掲載広告 光画月刊 株式会社光画荘(株式会社写真工業出版社), 3月号. PP.290.
  • [出典1-4.] (1953.3). 掲載広告 光画月刊 株式会社光画荘(株式会社写真工業出版社), 3月号. PP.316.
  • [出典1-5.] (1953.4). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 2月号. PP.197.
  • [出典1-6.] (1953.9). カメラ年鑑 1953年版 株式会社日本カメラ社, PP.7, 47.
  • [出典1-7.] (1953.9). 日本フォトサービス社広告 フォトアート臨時増刊_35ミリ・カメラ全書_研光社, PP.141.
  • [出典1-8.] (1953.10). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 10月号.
  • [出典1-9.] (1954.8). 掲載広告 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 8月号. PP.146.
  • [出典1-10.] (1954.9). 掲載広告 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 9月号. PP.58.
  • [出典1-11.] (1954.9). 国内新製品ニュース 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 9月号. PP.149.
  • [出典1-12.] (1955.12) カメラ店頭価格表 サンケイカメラ 株式会社サンケイ出版, 12月号. PP.202.
  • [出典1-13.] (1971). 日本写真機工業会編. 戦後日本カメラ発展史 東興社, PP.185.
  • [出典1-14.] 粟野幹男(1985). レンズの話 11 コメールとニッポール Camera Collectors News カメラコレクターズニュース社, 2月号. PP.5-10.


2. ドルカ35 2型(Dolca 35 II)


中期の標準的仕様

確定情報

 アサヒカメラと日本カメラの1953年(昭和23年)11月号にドルカ35 2型の広告が掲載される。[出典2-1, 出典2-2.]

[出典2-1.]アサヒカメラ 1953年11月号広告

 しかし、アサヒカメラに掲載されているカメラは従来のドルカ35で、2型のスペックは一切書かれずに定価のみ掲載されていた。
 一方で日本カメラの広告では2型の写真が掲載されているので、アサヒカメラの広告は発売ギリギリに作られたと思われる。

[出典2-2.]日本カメラ 1953年11月号広告

 尚発売時期については1953年8月説[出典2-9.]もあるが、粟野氏によると上の広告をもって11月発売としている。[出典2-10.]
 上記8月説を唱えたのは例によって戦後日本カメラ発展史であるから無視してよい。

 シンプルに表せば2型とは1型のファインダーに連動距離計を組込み、沈胴式の鏡胴を廃止し固定鏡胴とし、コダック式からドイツ式に改めたシンクロ接点をレンズシャッターからボディに移設したものである。[実機確認.]
 しかしそれ以外の性能は1型に準じ、シャッターボタンもボディ側ではなく1型同様レンズに付いている点がボディレリーズへ進化したコニカ 2型と大きく異る点である。[実機確認.]
 従ってドルカ35は2型になって、初めてコニカ 1型の性能に追いつたといえる。

 外観は1型がそうであった様に、コニカ 2型を模したデザインになっている。
 それにしてもシクロ接点の位置が絶妙である。[実機確認.]
 とはいえ1型と同様にボディは楕円形であり、底部が異なるだけでパーツ的には従来と変化がなかった。[実機確認.]
 しかしレンズの沈胴機構は省略され、コニカ 2型の様なギミックは無い。[実機確認.]

 実際にドルカ35 2型が登場する広告は12月号からで、ここで従来のドルカ35に1型という名称が与えられている。

 [出典2-3.]アサヒカメラ 1953年12月号広告

 先の通りこのタイミングで広告でドルカ35にIの文字が割当られたが、製品そのものにIの刻印は見られない。
 ドルカ35 2の価格は15,500円で専用ケースが1,000円だった。

 2型発売後の1954年1月よりドルカ35の広告はアサヒカメラ上に見られなくなり、それまで広告があまり掲載されていなかった日本カメラ中心に展開される。
 同時に紹介記事も同誌で見られる様になった。
 面白い事に晩年のカメラ雑誌によく見られた広告主に有利になる記事を雑誌が書くという関係が既に始まっている。
 一方、広告を掲載しなくなったアサヒカメラ誌上にドルカ35の記事が載る事はなかった上、新製品として紹介される事もなかった。
 追ってカメラ毎日に掲載されていた広告スペースもページ半分から丸々1ページ掲載へと拡大された。
 これが東京光研株式会社の意思によるものか、発売元である各社の意思によるものかは不明である。(この頃よりケンコー寫眞用品株式会社が販売に参入しているという変化点がある)
 蛇足であるがカメラ毎日に掲載された広告だけは他の雑誌のものとイメージが異なっていた。(発売元は三光商会)

 1954年4月、日本カメラにドルカ35 2-Aの広告が掲載され、同誌の内外新製品ニュースでも紹介された。[出典2-4, 出典2-5.]
 2型と主な違いはレンズの明るさがF3.5からF2.8になった事位である。[出典2-5.]
 とはいえ構成は依然として3群4枚のTessarであり、Hexanonの様なHeliar型(Dynar型)ではない。[出典2-5, 各広告.]
 日本カメラ1954年7月号の特集記事[出典2-6.]に「裏蓋は取外し式」と書かれているが、実際は蝶板式で誤りである。

 ドルカ35 2-A型の価格はケース付きで19,000円とこれまで見られたケース別売りの表記がなくなった。[出典2-4, 出典2-5.]

 ドルカ2型と2-A型は以下のバリエーションがある事を確認している。[実機確認.]
 この情報は粟野氏の記事[出典2-10.]と異なるが、後年になり別仕様が発見された為である。

 ・レンズ銘 KOMEIL, ファインダー枠なし
 ・レンズ銘 KOMEIL, ファインダー枠あり
 ・レンズ銘 NIPOOL, ファインダー枠なし
 ・レンズ銘 NIPOOL, ファインダー枠あり

 この仕様が混在して存在しているのもコニカと似ていて面白い。
 以上から工場でパーツ単位の先入れ先出し管理が行われていなかった事が推測出来る。
 従ってこれらの製造番号も前後している。

 当時の掲載されている写真を見る限り、このレンズ銘とファインダー枠の変更決定は2-A型発売直後と推測出来る。
 新製品紹介記事の2-AはNIPPOLレンズにファインダー枠なしであった。[出典2-5.]

 翌1955年、カメラ毎日1月号の新製品ニュースに唐突にドルカ35が掲載された。

 東京光研では三五ミリ・カメラの「ドルカ35」を新発売した。(以下略)

 この様な書出しで始まるものの、ここで紹介されているのは1-A型(本文では単にA型と記載)、2型、2-A型と一通りの機種が揃っていた。
 1-A型は勿論、2-A型が発売されて半年以上経過しての新製品掲載には疑問を感じる所である。
 私個人の憶測と断った上で書くが、これは販売促進を狙った宣伝であったと見ている。
 下の広告通り1954年8月の段階で上記モデルは勢揃いしている。

[出典2-7.]日本カメラ 1954年8月号広告

 (例えばコニカ 1型2型と比較して)比較的安価でTessar構成のレンズで撮影を楽しめる事や、掲載記事の大きさや扱いから登場時にはそれなりのアピールポイントがあったドルカ35シリーズも、1955年に至りネオカ35等に代表される1万円を切る距離計付きカメラが増えてくると急激に競争力を失っていく。
 もはやボディレリーズすら持たぬドルカ35は変革を必要としていた。

 ドルカ 2型については、宮崎氏が著書「クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年」でコニカのそっくりさんとして紹介している。[出典2-11.]

 文章未執筆

未確定情報

 文章未執筆

資料

  • [出典2-1.] (1953.11). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 11月号.
  • [出典2-2.] (1953.11). 掲載広告 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 11月号. PP.40.
  • [出典2-3.] (1953.12). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 12月号.
  • [出典2-4.] (1954.4). 掲載広告 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 4月号. PP.53.
  • [出典2-5.] 松田二三男(1954.4). 内外新製品ニュース 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 4月号. PP.159.
  • [出典2-6.] (1954.7). 最新国産カメラの特徴と性能紹介12種 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 7月号. PP.113.
  • [出典2-7.] (1954.9). 掲載広告 日本カメラ 株式会社日本カメラ社, 9月号. PP.58.
  • [出典2-8.] (1955.1). 新製品ニュース カメラ毎日 株式会社毎日新聞社, 1月号. PP.186.
  • [出典2-9.] (1971). 日本写真機工業会編. 戦後日本カメラ発展史 東興社, PP.185.
  • [出典2-10.] 粟野幹男(1985). レンズの話 11 コメールとニッポール Camera Collectors News カメラコレクターズニュース社, 2月号. PP.5-10.
  • [出典2-11.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカII型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.30.


3. ドルカ35 U型


確定情報

 ドルカ35 2型に等倍の独立ファインダーを搭載したカメラで外見的にはコニカ 2型よりもスクリューマウントライカに近くなった。
 日本写真機工業会編 戦後日本カメラ発展史[出典3-4.]には1960年9月発売と書いているが、下の広告は5年前の1955年12月号に掲載されているので完全に間違いであろう。
 ※同誌には誤りが多く資料としての価値は低いので注意が必要である。
 CAMERA 臨時増刊 国産カメラ全集 1956年版(1955年12月発売)に9月下旬発売と書かれているのを誤って記載したのかもしれない。[出典3-2.]

 [出典3-1.]カメラ毎日 1955年12月号広告

 翌月になると広告が1/3に縮小される。
 [出典3-3.]カメラ毎日 1956年2月号広告

 これ以降の広告は現在確認出来ていない。

 ドルカ35 Uの価格は9,500円でついに1万円を割った。
 この頃、ネオカ35に代表される1万円以下の大衆機が相次いで発売され、相場を睨んだ設定だった事が伺える。


 ドルカ35 U最大の特徴がこのファインダーである。
 ドルカ35は2型の時点で、当時としては先端の連動式距離計がフレーミング用ファインダー内に写し出される構造を採用していた。
 しかし、U型では旧式化している連動距離計とフレーミング用のファインダーが独立した...所謂スクリューマウントライカと同じ構造に戻っている。
 戻っていると書いたが、過去にこのタイプを作っていないのでかえってコストが掛かったのではないだろうか。
 CAMERA 臨時増刊 国産カメラ全集 1956年版では何故か「一眼式距離計連動」と記載されているが一眼式ではない。
 恐らくドルカ35 1型に対して、距離計を合わせるだけでレンズも連動しますよという意味で書いたのであろうか。


 ここに来てレリーズは進化し、コニカ 2型相当となった。
 つまり、レリーズボタンが巻上げノブ横に備わるがシャターチャージはレンズシャッター部分に残る構造である。


 バックドアに備わるフィルム圧板は、コストダウンなのか金属地のままである。

 このカメラについては情報が非常に少ない。
 300 Leica copies[出典3-5.]の350ページに少し記事があるので触れておく。

 The two round eyes of its rangefinder merit the Dolca to be presented in this book. It has also Leica style knobs and top shape... but on the other hand, its curved frontplate is (happily) quite specific.
 The Nipol shutter reminds the Camel (see Camel chapter on page 168) . Would this Dolca be an offspring of the Kikuca, itself a Camel descendant?
 (以下訳)
 そのレンジファインダーの2つの丸い目は、この本で紹介するドルカのメリットです。また、ライカ風のつまみやトップの形状を持っていますが、その一方で、その湾曲したフロントプレートは(嬉しいことに)かなり特殊なものとなっています。
 ニポルシャッターはキャメルを彷彿とさせる(168ページのキャメルの章を参照)。このドルカは、キャメルの子孫であるキクカの子孫でしょうか?

Camel Model II

 この場では168ページのキャメルの詳細については割愛させて頂く。
 上の文章では「子孫でしょうか?」と書かれているが、断じてそれは無い。
 先ず、キャメルというカメラが登場した時、既にドルカ35は市場に出ていた。
 そして構造が全くドルカ系統と異なっている。
 また、キャメル(コメックス、ロレックス、キクカ35等の同型機)は、ボディがプレス構造であり、ギヤもガリガリといった具合である。
 たまたま、同じNIPOLシャッターを使用していたに過ぎない。
 この本を編集した方はおそらくキャメルを触っていないのだろう。
そもそもドルカ35Uのフレーム等は、ドルカ35と共有部品であり、発展型である。

NIPOLシャッター

 ただ、ニポルシャッターを採用している事から、キャメル系列カメラの製造工場が近くに存在していた可能性はある。
 いずれにしても300 Leica copiesは比較的新しい本なのと、基本的にライカコピー機の解説が中心である故、そこまで正確な内容ではない。

 文章未執筆

未確定情報

 文章未執筆

資料

  • [出典3-1.] (1955.12). 掲載広告 カメラ毎日, 12月号. PP.167.
  • [出典3-2.] (1955.12). 最新版 国産カメラ展望 CAMERA 国産カメラ全集 1956年版 株式会社アルス, PP.39.
  • [出典3-3.] (1956.2). 掲載広告 アサヒカメラ 株式会社朝日新聞社, 2月号. PP.198.
  • [出典3-4.] (1971). 日本写真機工業会編 戦後日本カメラ発展史 東興社, PP.185.
  • [出典3-5.] (1990.9) 300 Leica copies:And Cameras Showing Some Resemblance to the Leica FOTOSAGA(France), PP.250.


4. 全ドルカ35に関連すること


4-1. 製造元

 各広告によると東京光研株式会社となっている。
 現在の住所に照らしてみると、東京都荒川区西日暮里1丁目62番地付近と思われる。
 この近くには小岩井光学レンズ研究所という会社(1934年9月創業)が当時あって、写真機のレンズを製造していたという記録が残されているが、同社は廃業している為東京光研向けのレンズを製造していたのかまでは確認する資料が無く定かではない。
 この場では可能性として記しておく。

4-2. 発売元

 当時の資料、及び広告を見ると複数の発売元が見られる。
 三光商会、横浜カメラ商事(光明堂)、ケンコー寫眞用品株式会社(ケンコー・トキナーではない)である。
 発売元の一社である三光商会は東京都荒川区西日暮里5丁目3番地の一角という東京光研株式会社のお膝元であった。
 ケンコー寫眞用品株式会社(1954年2月頃より発売元に加わった)は東京新町と大阪南区にあり、西と東でドルカ35を販売した。


4-3. ドルカの輸出について

 初出はアサヒカメラの1953年11月号131ページで「世界ニ渡ルドルカ」と銘打った広告が掲載され、以降このコピーは幾度となく広告で使われている。
 また最初広告に描かれた絵は洋上を進む貨物船であった。
 これは暗にドルカが輸出された事をアピールするものと解釈出来るが、記録として輸出を裏付けるものが無く、私(当サイト管理人)はどう解釈すべきか困惑していた。
 戦後復興の最中カメラ輸出は外貨を得る手段であったが、全てのカメラメーカーが輸出をしていた訳ではない上に、ドルカ35に関しても海外市場で見る事がまず無い。
 そもそも輸出をしていたのならば、輸出開始等もっとアピールして良いのではないか?とも思うのだ。
 輸出出来るカメラを製造してたとなればそれはひとつのステータスといえた時代である。

 「世界ニ渡ル」とは輸出なのか?
 それとも単に誰かが日本の土産に購入して持って帰ったのを輸出と錯覚させるような文句に置き換えてアピールしたものなのか?
 そもそも本当に海外に持ち出されたのか?

 東京光研株式会社が現存しない事、小規模なメーカーであった事で資料が発見されておらず、ドルカ35の海外輸出の答えは永遠に出ぬものと思う。
 粟野氏がカメラコレクターズニュース1985年2月号「レンズの話 11 コメールとニッポール」で以下の様に書いているがあくまで氏の憶測による記述である。
 これは名前のイメージだけでドル化、米入るとしただけで根拠とする資料が無く眉に唾して読んでいるが、果たして真実はどうだろうか。

ドルカという名前が対米輸出を意識付けられたようにコメール(コメイルと広告に表示された時もあった)もまた「米入る」から来ていると思う、あまり良い名前ではなく「故滅入る」とも読みとれるので、ドルカ35・オリジナル(I)型から初期のII型のみで中止され...(以下略)

 2020年の夏も終わろうかという頃、以前取引したアメリカのショップより「コニカと似ているカメラがあるのだが買わないか?」という話が私の元に届く。
 それはとある物件(不動産)を処分している中で発見された。
 親族によると祖父が使っていたカメラらしいというので写真を送って貰うとそれはなんとドルカ35であった。

アメリカで発見されたドルカ35

 製造番号:38796、レンズ番号:29021。
 このドルカ35は間違いなくアメリカに渡ったドルカである。
 勿論、このカメラがアメリカで発見されたからと言って直接輸出されたかどうかという結論には結びつかない。
 しかし、「世界ニ渡ルドルカ」があった事だけは証明されたのだ。

 そして2機目の「世界ニ渡ルドルカ」が到着した。
 製造番号:38930、レンズ番号:29326であった。

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最終更新:2021年07月16日 23:41