LIBRARY@801 萌える書籍と映画のまとめ
真山青果「枕頭」
最終更新:
library801
-
view
一
東京を発つ時命じて置いた××社の二十円は電報為替で武内から送つて来た。旅中印形を持合せぬゆゑ旅籠屋《はたごや》の主人に裏書させて辛《や》つと受取つた。しかし○――君の分が未だ達《つ》かぬ。某社と某婦人雑誌社から寄来《よこ》す筈になつて居て、原稿は最う疾《と》うに行つて居るのだ。それが無ければ二人の旅籠《はたご》銭に差支へるのである。○――君は僕に気の毒がつて、今度は武内宛にその督促方を依頼してやつた。然かも二度、一度は端書、一度は電報。それなのに、その武内からも何んの返事がなかつた。
明日《あす》の朝だらう、晩だらう、あの気端《きはし》の廻らぬ男だから、悠々として普通の為替《かはせ》に組んだかも知れない、と今日まで三日を待通した。何んの便りも無《なか》つた。
今朝の郵便時も過ぎた。
「君、僕は今日何うしても帰るよ。帰つたら直ぐ電報で送らせよう。」と、僕は確《しつか》りした決心を○――君に話した。
十二月の十七日である。晩い朝飯を済《すま》して、僕等二人は日向の縁側に茶を飲んで居た。今日は珍らしく風も凪いだ。庭の赤土に山茶花《さゞんくわ》がホロ/\と散つた。
「然し、帰つたッて仕事は出来まい。あと十二三枚なら此方《こっち》で書く方が好いんだがな。」と、○――君は背中を丸く膝を抱いてパフ/\巻煙草を吸つて居た。寝起きの目に煙がしみて辛さうであつた。
「東京へ著いたら、今夜は武内の下宿で徹夜してでも書上げるさ。」
「直ぐ家を持つかね。」
「家は野澤と武内が二人して探してある筈なんだ。」
「然うかね。」と、○――君は達《た》つて僕を止める事も出来なかつた。
僕等は新年ものゝ原稿を書くために、四日前の十三日の晩、偶《ふ》と思立つてこの鎌倉へ来たのだ。然し土地が珍らしいのと日の短かいのに、仕事は予定の三分の一も出来なかつた。三四回趣向を取換へて、僕は辛《や》つと四十枚のうち三十枚ばかりを書いた。○――君は七八枚の端物《はもの》を一つ書終つたゞけ、長い方の続きには未だ手も著《つ》かない。
二人とも気ばかり焦つて、夜だつて碌々酒も飲まない。時々喰消化《しょくこなし》に二三番づつ碁を囲むぐらゐなものであつた。僕は毎日の日課を克明《こくめい》に毎日絵はがきに書いて、それを武内まで報じて居た。酒を飲まぬことを何より誇つて書いた。
一人だけ勘定をすますのも変なものだ。大凡《おおよそ》見積りの旅籠銭を○――君に托することに決めて、僕は原稿や雑記帳取纏めて居る。主《あるじ》にもその旨を話した。
所へ、素足に縁側を踏んで、眞岡木綿の紋付を著た、歯の白い色の黒い、五分刈の青年が入つて来た。
「貴方M――さんですか。武内君に頼まれて来ました。」と縁側へ跼《しゃが》んだ。
僕は著物を著換へながら、「武内から、何んです。」と座敷へ導き入れて尋ねた。
「武内君が寂しいから、直ぐ先生に帰つて下さいッて、昨日こゝの友人の所へ来る暇乞《いとまごひ》に武内君の下宿へ行つたら然う云つてでした。僕は三上《みかみ》と云ふ武内君の友人です。」と云ふ。
あの武内に友人のあることは聞かなかつた。今まで一度もそれらしい人と往来したのを見た事が無い。果して、名古屋時代ある地方雑誌の上での未見の友であつたと云ふ。二三日前に相互に東京の宿処を知合《しりあ》つたのであつた。
三上と云ふ青年の話でも委しい事は判らなかつた。たゞ二三日来ひどく悪寒《さむけ》して、昨夜なぞは蒲団を何枚掛けてもガタ/\顫《ふる》へて、背筋が板のやうだと自分に云つて居たと云ふ話だ。また、「何うも身体の工合が変だ。」「或ひは東京ぢゃ健闘が出来ないかも知れぬ。」「先生が居ないと死ぬやうだ。」と恁麼《こんな》話もあつた。無論、一昨日あたりから服薬して居ると云ふ。
「生意気云つてやがる。誰と健闘するんだ。横町の赤犬とでも健闘しろ。」と僕は腹筋を捻《よ》つて噴出《ふきだ》した。然し、この時偶《ふ》と思浮かんだのは、今より七日ほど前、僕に向つて、「盗汗《ねあせ》が二晩ばかり続きましたが、何処か悪るいンぢゃありますまいか。」と心配さうに尋ねた事がある。
「気を付けて、牡蠣《かき》を喰べるが好い。盗汗《ねあせ》の薬だから。」と教へて置いた。
「今は下宿屋だから駄目です。先生、早く家を持つて下さい。」
「好し/\。」と喜ばせた。
「えツ、えツ。」と刻《きざ》み様《ざま》に頸筋を反《そら》に擡《もた》げて、美しい顔、美しい目を輝かすのが、何時も僕の言葉に酬ゆる渠《かれ》の表情であつた。
○――君とその三上君に送られて、僕は午後一時発の新橋行き直行列車に乗つた。途中雪の下の書籍店から太陽の臨時増刊を一册購つて懐《ふところ》にした。
「ぢゃ、何うか直ぐ電報為替でね。」と、○――君は繰返しプラツトホームで然う云つて居た。
二
新橋に著いたのが午後の三時。○――君の為めに××社へ廻り、牛込見附に電車を下りた時は最う薄暗かつた。
ある洋食屋に晩飯をすまして、財布を見ると費残《つかひのこ》しの小銭が二円に足らない。紅屋《べにや》へ入つて土産の西洋菓子を一円だけ折に包ませた。
東榎町の下宿栄進館へ俥を著ける。入り口のガラス戸を明けようとすると、内から太田君がそこにある下駄を穿掛《つきか》けて飛び出して来た。声を潜めて、
「些《ちょ》いと。」と表へ僕を連れ出す。声が顫へて居た。
「何んです。」
「今も未だやつています。電報を御覧でしたらう。」
「いゝえ、見ません。」
「今朝ッから甚《ひど》く咯血しましてね、それが可也《かなり》大量なんです。突然入つてお驚きになると不可ませんからお話しますが、でも、好い所へ帰つて下すつた。私一人で何うしようかと思つて居たところです。」
「野澤は?」
「今介抱して居ます。」
「で、私の所へ、鎌倉へ何んと電報を打つて下すつたのです。」
「武内咯血、帰れ。外に打ちやうがありませんでね。」
僕は足がブル/\顫へて、下駄が脱げさうになつた。
太田君は今国元《くにもと》へ電報を打たうとする所ゆゑ、僕は先づそれだけは止めた。そして、武内の部屋へ通らうとすると、宿屋の注意で部屋を下座敷《したざしき》に移したと云ふ事で、その方へ案内された。
「下宿屋なんで実に無情なもんです。直ぐ引取つてくれと云ふんです。」と僕の耳に囁いた。
梯子段《はしごだん》の直ぐ下、薄暗らい部屋の障子を開けた。武内は身体を半分蒲団の外へ乗出して、向ふ向きに寝て居た。野澤は敷蒲団に座つて背筋をもみ下げて居たが、チラと僕を見上げた眉は訴へるやうに顰《ひそ》んだ。
「何うしたい、武内。」僕は態《わざ》と元気の好い声で懐手《ふところで》のまゝ、笑ひながら枕元へ寄つた。
病人は頭を擡《もた》げて自分を見た。両の頬は汗で冴々しく赤く、フツクリした瞼は腫れ上がつて居るやうに見えた。向ふを見て、独り泣いて居たのではないかと思つた。
「先生、血。」と小さな声で云つて、面《おもて》を垂れた。著物の肩から襟に血がベトリとこびり付いて居る。枕許の新聞張りの壁際にはパイナツプルの空鑵が二つ、両方に三分目ほど泡立つて居た。書き掛けの原稿が蓋になつて居た。
「好い、好い。心配するな、何有《なアに》、気管が破れたんだ。」と僕は野澤を摺《ず》らせて、膝を被蒲団《かけぶとん》の中へ入れた。
「えッ、えッ。」と勢《せい》なく首頷《うなづ》いて、「朝から二度、今も。」と潤《うる》んだ大きな目に凝つと僕の顔を見上げた。
「黙つて居ろよ。俺が帰つて来れば大丈夫ぢゃないか。寂しかつたか。」と笑つて、渠の手を握つた。熱かつた。
首で答へて、僕の顔ばかり見詰めて居る。叱られはせぬかと恐れるやうな、落付かない目付であつた。部屋は青模様の花莚《はなござ》を敷詰めた四畳半の女中部屋であつた。著て居る蒲団も前に著て居たのでは無い。襟垢《えりあか》の付いた綿の固い酷《ひど》いものであつた。武内の蒲団は送り状だけ先に達《つ》いて荷物は未だ著かなかつた。
二階に居る朝鮮人どもが、ドシ/\と梯子段を上り下りするたび、室は船のやうに揺れるのであつた。
「先生、こゝの御飯は不味《まづ》くッて。」と病人が僕に云ふ。
「飯は途中で済んだ。その代りビールでも飲まして貰はう。俺ァ酒でなくちや駄目だ。酒を飲まないからお前血なぞ吐くんだ。早く癒《なほ》つて飲め。」
病人はニツコリして頷いた。
「M――さんが帰つて見えたので、急に元気付きやがつた。」と、傍に居た太田君が袖口で鏡を拭き拭き笑つた。
三
宿へ頼んだ酒の用意の出来る間、僕は太田君と武内のもとの部屋なる二階へ上つて相談した。太田君は宿の措置《しうち》を憤《いきどほ》つて、これは至急何処かの病院へ入院させねばなるまい。それには国の親元へ電報して誰か呼寄せる必要があると云ふ。然し僕は不同意だ。何れ入院はさせるにしても、国を騒がすほどの事ではない。自分が飽迄引受けると達《た》つて言張つたので、太田君も為方《しかた》なく同意した。
太田君は早稲田文科の人、武内とは同郷の人である。
髪を長く梳《わ》けて、黒羅紗《くろらしゃ》の前掛した、若い宿屋の主人《あるじ》が揉手《もみで》しながら入つて来た。「ひイ、ひイ。」と返辞する癖のある、至つて克明らしい男であつた。岐阜の西在《にしざい》の出生とか云つた。
亭主は座敷を移した事ばかり切りと僕にあやまつて、この部屋より閑静ではあり、それに那処《あすこ》ならば近傍《あたり》が静かだからと、言訳をして居る。
「何しろ伝染病だからね。」と太田君はヅキリと厭味を云ふ。
「いゝえ、決してそんな訳では御座いませんが、お客様に依りましてはその、実にいやがる方も御在《ござい》ますので。」
「好いよ、だから今M――さんとも相談して明日にも直ぐ入院させるから。」
亭主は呉々も言訳して、揉手しながら降りて行つた。
「先生、先生が居ないと武内君が寂《さび》しがりまして。」と野澤が迎へに上《あが》つて来た。ビールの用意も出来たと云ふ。
昨夜太田君の処へ遊びに行つた時までは何んの事も無く、たゞ少々顔色が悪るかつた、身体が懶《だ》るく寒くて耐《たま》らぬとて、太田君の外套を著《き》て戻つた。そして、三上君が遊びに来た時でも、別に然《さ》う大した事も無く、臥《ね》ながら元気好く話して居たとの事であつた。
「肺でせうか。」と太田君には恐れる色があつた。
「無論肺でせう。」
「ぢゃ余り接近しないやうになさるが好いですよ。貴方も然う御丈夫らしくも無いからして。」と心配する。
「なアに。」と僕は下へ降りた。果物《くだもの》と天ぷら蕎麦《そば》を肴に、ビールが病室に搬ばれてあつた。僕は火鉢に火をカン/\おこさせて、そこに胡坐《あぐら》を掻《か》いた。病人は凝つと自分を見て居た。
「飲むぜ。鎌倉ぢゃ禁酒したけれど、お前がそんな顔して見せるから、僕は反抗して飲むんだ。何うだ、この色。」と琥珀色《こはくいろ》に沸泡《あわ》立つコツプを病人の目先に突付けた。
武内はニツと笑つた。そしてコン/\と咳入《せきい》るのである。
太田君が著物を著換へに帰ると云ふので、僕は財布の底を叩いて、晒木綿《さらしもめん》、氷嚢《ひょうのう》、氷、瀬戸の痰壺《たんつぼ》、重曹《ぢうさう》、そんなものゝ買入れ方を頼んだ。
「然し、何うだ、お父さんへ知らせて、来て貰はうか。」
「え。」
「それとも俺に介抱《かいはう》されるか。それンばかりの病気で国を騒がすこともあるまい。癒《なほ》つてから一緒に国へ帰るさ。何うだ。」
「先生の方が好いです。」
「好し、それぢゃ呼ばないよ。然し、お前は余り温順《おとなし》過ぎて不可ない。病気の時は我儘をするものだ。俺に遠慮して居ちゃ不可ないぞ、好いか。何んでも我儘云つてくれ。俺ア喜んで我儘さしてやるぜ。」
「えツ、えツ。」と咳入りながら例の如く頷《うなづ》いた。瞼に涙が光つた。
「何か喰べないか。」
「サイダア。」
野澤は宿からサイダアを取寄せて病人へ飲ませた。咽頭《のど》の音がコクリ/\と鳴つた。
僕はたゞ病人の元気付くやうな元気の好い話を※[#「志」のくずし字、読みは「し」]い/\ビールを四本まで明けた。スツカリ酔つて了つた。そこへ太田君が帰つて来て、是非寝ろとすゝめるゆゑ、後を托《たく》して二階の部屋に暫時《ざんじ》眠る事にした。
野澤が水を持つて暗い枕元へ来て座つた。
「先生、財布に金が些《ち》つともありませんか、明日の朝、××社へでも行つて事情を云つて借りて来ませうか。」
「書くよ、あと十二三枚あれば、完結するんだから。」
「だつて、明日は朝つから銭《ぜに》が要るんですからね。」
「大丈夫だつてッたら、煩《うる》さいな。」
「然うですか。」と野澤は不安さうに下りて行つた。
酒の勢《いきほい》でグツスリ寝込んだ。三時には起して貰ふ約束である。書半《かきさ》しの三十幾枚それまでに浄書するやう野澤に頼んだ。
四
午前三時、三時半、四時。野澤は幾度も起しに来たが、酔は強くて目が醒《さ》めない。原稿の事が気になりながら、矢張りウト/\して居た。
「もう五時半です、お願いでせうけど、代つて起きて下さい。今日は書いて頂かないと困りますから。」と今度は太田君が代つて起しに来た。
「今直ぐ起きますから。」と云つて置いて、又三十分ばかり寝床の温味《あたゝかみ》を貪《むさぼ》つて居た。
起きた。押入を明けて、行李の中から武内の綿入を出して被《はお》つた。
下座敷の病室には、煤気《すゝけ》障子にランプが明るかつた。ブリキの金盥《かなだらひ》、濡手拭、鉄瓶、そんなものが廊下にならんで居た。
「どうだ。」と障子を明けて入る。病人は向《むか》ふ向《むき》の顔をもたげて、僕をチラと見た。未だ上気して居る。
部屋の隅ッこへ、抽斗《ひきだし》を抜いた武内の机を持出して、そこで、太田君と野澤が僕の原稿を浄書してあつた。汚ない四畳半は傍の丼やら、茶道具、敷物、足の踏入れどころも無いくらゐである。枕頭の畳はグツシヨリと水に濡れて居た。
「大変な元気でしてね。先生が見えると違つたものです。」と太田君は病人に聞えるやうに、故《わざ》と大きな声で笑つた。
些《ちょ》いと脉を見て火鉢の傍《そば》に座《すわ》る。相変らず頻数《ひんすう》であつた。
「何うもお睡いところをお起し申して済みません。その代り湯を沸かしてあります。お好きなお茶を※[#「」87-8]《いれ》ませう。」と番茶を真黒くじて烙《はう》じて、濃いお茶を※[#「」87-8]《いれ》てくれた。
香ばしい茶の匂は、酒に爛れた咽頭《のど》を爽かに流れた。僕は三杯も四杯も、殆んど鉄瓶の空虚《から》になるほど飲んだ。少しは目が覚めた。
朝つからの介抱に疲れた野澤は僕の後に入《はい》つて寝かした。太田君は居ては仕事の邪魔だらうと遠慮して、
「ぢや直ぐ来るよ。」と病人へ挨拶して帰つた。
「先生。」と病人は僕を呼ぶ。
「何んだよ。」と近々と顔を見せた。
「お父さんへ電報を打つて、来ないやうにして下さい。僕ア先生が居れば好い。」と僕の手に縋《すが》つた。
「好し。」と潤《うる》む声を紛《まぎ》らせて、「その代りウンと我儘を云ふか。」と、さも元気らしく云つた。
「僕云ふよ。屹度云ふから。」
「好い/\、黙つて臥《ね》て居ろ。君は僕の一人の弟だ。」と云つて聞かせると、病人の若い美しい顔は輝いて見えた。
自分は机へ戻つて、原稿紙を机の上に舒《の》べたが、頭がボツとして筆が取れない。二行書いては消し、三行書いては消し、何うしても書けない。
帳場の方では誰か起きたやうだ。便所《はゞかり》へ行く音が聞えた。
五
仕事は何もこれに限らぬ。これを失敗してもこの次も、次の次もある。何うであらうと投げて書く事と腹を決めて、手当りまかせに書出した。今は六時二十分である。八時までには十二三枚を書上げて、直ぐ俥《くるま》を飛ばして金に※[#「志」のくずし字、読みは「し」]なければならぬ。
万年筆はサラ/\と原稿紙に鳴つた。病人は時々起返つて僕の顔を凝《じ》つと見て居る。此方から気が付かれると、紛《まぎ》らすやうにニツと笑つて目を瞑《つ》ぶる。
「凝《じ》つとして寝て居るんだぞ。今に太田君も来るから。」
「えツ。」と頷く。
紙数を読みながら書いて五枚ばかりになると、台所に下女が起きたやうだ。暗い所でゴス/\味噌を擦《す》る音が聞えた。チ、チ、チ、と雀が窓の外に鳴く。
病人はまた咳入り初めた。
僕は起《た》つて窓の雨戸を繰明けた。明方の白い光はスツと病室に流れて、室の中をシダラなく見せた。窓の外は濕々《じめ/\》と青苔の生えた小庭で、竹皮やら紙屑やら、そこら中に散《ちら》ばつた。
病人は顔に汗をかいて臥《ね》て居る。朝明《あけ》の光りは、いとゞ肌白い病人の顔を真蒼に見せた。唇のみ真赤である。たゞ一日の咯血に余程面痩《おもやつ》れして、その顔を老けて見せて居た。
「苦しいか。」
「汗が出て。」
「待つて居ろ。」と僕は鉄瓶とタオルを持《もつ》て洗面処へ行つた。自分は手の切れるやうな水で顔を洗ひ、タオルは鉄瓶の湯に固《かた》くしぼつた。
顔を拭いてやる。病人は子供のやうに温和《やさ》しく目を閉ぢて、僕のするやうになつて居た。枕下の顎に凝血《ぎようけつ》して中々落ちなかつた。
「胸を拭いてやらう。」
病人は云はれる通り胸元《むなもと》を開《はだ》けた。氷嚢がスツカリ溶けて湯のやうに息を立てゝ居た。外に下宿屋の神さんがしてくれたと云ふ、手拭包みの生豆腐《なまどうふ》、それも触れば熱いほどであつた。
脇下《わきのした》へ手を廻して、胸から背から、頸までスツカリ拭いて、著物の前も好《よ》く合《あは》せてやつた。その間も病人は絶えずコン/\と咳入つて居た。
「先生、手を。」と出す。タオルを金盥《かなだらひ》に洗出して拭いてやつた。
「何うだ、好い心持だらう。」
「汗で気味が悪るかつた。」と嬉《よろこ》ぶ顔から、温い湯気が冷却した朝の空気へスウと立昇るのである。
「先生、お父さんの電報。来たつて為方《しかた》がないし、好《い》いですか先生。」と大きな目を見上げる。
「煩《うる》さい奴だな。大丈夫だつたら大丈夫ぢやないか。黙つて病人らしく傍《はた》のする通りになつて居るもんだ。」
「はい。」
「今日は入院するなり、新しく家を持つなりして、こんな下宿になんか置かない。安心して居るんだぞ。」
「僕、先生が鎌倉から帰らないので、本当に寂《さび》しかつた。」
「馬鹿野郎! 三四日居ないのに寂しがるやうで何うする。それよか、最《も》う薬を飲む時分だらう、飲ましてやらう。」
水を湯呑に汲んで、粉薬《こぐすり》の袋を解いた。病人は半分床の上に起返つて、口を横にして薬袋紙《やくたいし》を唇に叩いた。白い粉薬は口の端を零《こぼ》れて汚い蒲団の上に落ちた。
水を飲ましてやると、コクリ/\と咽頭《のど》を鳴らして飲む。
僕は机に座つて又書初めた。書き書く中にツイ夢中になつて、七時半頃にはもう十四枚を書終つた。一時間に八枚から書いた訳である。自分ながら驚いた。
「完」と筆太く書終つて、「あつと、これで出来た。」と原稿を平手で叩いて、大きく叫んだ。
「それは何処なんです。」と先刻《せんこく》から凝《じ》つと僕を見詰めて居たのだ。
「雑誌よ。」
「来月のですか。」
「あゝ。」
「好いなア。」と病人も喜んだ。
僕はこの稿料を受取つて、帰り路に買整へて来べき品々を、蒲団、スウプ、パイナツプル、半紙、タオル、石鹸、痰壺、平野水《ひらのすゐ》、枕、とそれ/″\紙片《かみ》に思出しながら書付けた。
「牛乳屋が参りました。幾合貰ひませう。」と宿の女中が障子の外から僕に聞いた。
「朝三合、晩に二合。」と僕は答へた。
東京を発つ時命じて置いた××社の二十円は電報為替で武内から送つて来た。旅中印形を持合せぬゆゑ旅籠屋《はたごや》の主人に裏書させて辛《や》つと受取つた。しかし○――君の分が未だ達《つ》かぬ。某社と某婦人雑誌社から寄来《よこ》す筈になつて居て、原稿は最う疾《と》うに行つて居るのだ。それが無ければ二人の旅籠《はたご》銭に差支へるのである。○――君は僕に気の毒がつて、今度は武内宛にその督促方を依頼してやつた。然かも二度、一度は端書、一度は電報。それなのに、その武内からも何んの返事がなかつた。
明日《あす》の朝だらう、晩だらう、あの気端《きはし》の廻らぬ男だから、悠々として普通の為替《かはせ》に組んだかも知れない、と今日まで三日を待通した。何んの便りも無《なか》つた。
今朝の郵便時も過ぎた。
「君、僕は今日何うしても帰るよ。帰つたら直ぐ電報で送らせよう。」と、僕は確《しつか》りした決心を○――君に話した。
十二月の十七日である。晩い朝飯を済《すま》して、僕等二人は日向の縁側に茶を飲んで居た。今日は珍らしく風も凪いだ。庭の赤土に山茶花《さゞんくわ》がホロ/\と散つた。
「然し、帰つたッて仕事は出来まい。あと十二三枚なら此方《こっち》で書く方が好いんだがな。」と、○――君は背中を丸く膝を抱いてパフ/\巻煙草を吸つて居た。寝起きの目に煙がしみて辛さうであつた。
「東京へ著いたら、今夜は武内の下宿で徹夜してでも書上げるさ。」
「直ぐ家を持つかね。」
「家は野澤と武内が二人して探してある筈なんだ。」
「然うかね。」と、○――君は達《た》つて僕を止める事も出来なかつた。
僕等は新年ものゝ原稿を書くために、四日前の十三日の晩、偶《ふ》と思立つてこの鎌倉へ来たのだ。然し土地が珍らしいのと日の短かいのに、仕事は予定の三分の一も出来なかつた。三四回趣向を取換へて、僕は辛《や》つと四十枚のうち三十枚ばかりを書いた。○――君は七八枚の端物《はもの》を一つ書終つたゞけ、長い方の続きには未だ手も著《つ》かない。
二人とも気ばかり焦つて、夜だつて碌々酒も飲まない。時々喰消化《しょくこなし》に二三番づつ碁を囲むぐらゐなものであつた。僕は毎日の日課を克明《こくめい》に毎日絵はがきに書いて、それを武内まで報じて居た。酒を飲まぬことを何より誇つて書いた。
一人だけ勘定をすますのも変なものだ。大凡《おおよそ》見積りの旅籠銭を○――君に托することに決めて、僕は原稿や雑記帳取纏めて居る。主《あるじ》にもその旨を話した。
所へ、素足に縁側を踏んで、眞岡木綿の紋付を著た、歯の白い色の黒い、五分刈の青年が入つて来た。
「貴方M――さんですか。武内君に頼まれて来ました。」と縁側へ跼《しゃが》んだ。
僕は著物を著換へながら、「武内から、何んです。」と座敷へ導き入れて尋ねた。
「武内君が寂しいから、直ぐ先生に帰つて下さいッて、昨日こゝの友人の所へ来る暇乞《いとまごひ》に武内君の下宿へ行つたら然う云つてでした。僕は三上《みかみ》と云ふ武内君の友人です。」と云ふ。
あの武内に友人のあることは聞かなかつた。今まで一度もそれらしい人と往来したのを見た事が無い。果して、名古屋時代ある地方雑誌の上での未見の友であつたと云ふ。二三日前に相互に東京の宿処を知合《しりあ》つたのであつた。
三上と云ふ青年の話でも委しい事は判らなかつた。たゞ二三日来ひどく悪寒《さむけ》して、昨夜なぞは蒲団を何枚掛けてもガタ/\顫《ふる》へて、背筋が板のやうだと自分に云つて居たと云ふ話だ。また、「何うも身体の工合が変だ。」「或ひは東京ぢゃ健闘が出来ないかも知れぬ。」「先生が居ないと死ぬやうだ。」と恁麼《こんな》話もあつた。無論、一昨日あたりから服薬して居ると云ふ。
「生意気云つてやがる。誰と健闘するんだ。横町の赤犬とでも健闘しろ。」と僕は腹筋を捻《よ》つて噴出《ふきだ》した。然し、この時偶《ふ》と思浮かんだのは、今より七日ほど前、僕に向つて、「盗汗《ねあせ》が二晩ばかり続きましたが、何処か悪るいンぢゃありますまいか。」と心配さうに尋ねた事がある。
「気を付けて、牡蠣《かき》を喰べるが好い。盗汗《ねあせ》の薬だから。」と教へて置いた。
「今は下宿屋だから駄目です。先生、早く家を持つて下さい。」
「好し/\。」と喜ばせた。
「えツ、えツ。」と刻《きざ》み様《ざま》に頸筋を反《そら》に擡《もた》げて、美しい顔、美しい目を輝かすのが、何時も僕の言葉に酬ゆる渠《かれ》の表情であつた。
○――君とその三上君に送られて、僕は午後一時発の新橋行き直行列車に乗つた。途中雪の下の書籍店から太陽の臨時増刊を一册購つて懐《ふところ》にした。
「ぢゃ、何うか直ぐ電報為替でね。」と、○――君は繰返しプラツトホームで然う云つて居た。
二
新橋に著いたのが午後の三時。○――君の為めに××社へ廻り、牛込見附に電車を下りた時は最う薄暗かつた。
ある洋食屋に晩飯をすまして、財布を見ると費残《つかひのこ》しの小銭が二円に足らない。紅屋《べにや》へ入つて土産の西洋菓子を一円だけ折に包ませた。
東榎町の下宿栄進館へ俥を著ける。入り口のガラス戸を明けようとすると、内から太田君がそこにある下駄を穿掛《つきか》けて飛び出して来た。声を潜めて、
「些《ちょ》いと。」と表へ僕を連れ出す。声が顫へて居た。
「何んです。」
「今も未だやつています。電報を御覧でしたらう。」
「いゝえ、見ません。」
「今朝ッから甚《ひど》く咯血しましてね、それが可也《かなり》大量なんです。突然入つてお驚きになると不可ませんからお話しますが、でも、好い所へ帰つて下すつた。私一人で何うしようかと思つて居たところです。」
「野澤は?」
「今介抱して居ます。」
「で、私の所へ、鎌倉へ何んと電報を打つて下すつたのです。」
「武内咯血、帰れ。外に打ちやうがありませんでね。」
僕は足がブル/\顫へて、下駄が脱げさうになつた。
太田君は今国元《くにもと》へ電報を打たうとする所ゆゑ、僕は先づそれだけは止めた。そして、武内の部屋へ通らうとすると、宿屋の注意で部屋を下座敷《したざしき》に移したと云ふ事で、その方へ案内された。
「下宿屋なんで実に無情なもんです。直ぐ引取つてくれと云ふんです。」と僕の耳に囁いた。
梯子段《はしごだん》の直ぐ下、薄暗らい部屋の障子を開けた。武内は身体を半分蒲団の外へ乗出して、向ふ向きに寝て居た。野澤は敷蒲団に座つて背筋をもみ下げて居たが、チラと僕を見上げた眉は訴へるやうに顰《ひそ》んだ。
「何うしたい、武内。」僕は態《わざ》と元気の好い声で懐手《ふところで》のまゝ、笑ひながら枕元へ寄つた。
病人は頭を擡《もた》げて自分を見た。両の頬は汗で冴々しく赤く、フツクリした瞼は腫れ上がつて居るやうに見えた。向ふを見て、独り泣いて居たのではないかと思つた。
「先生、血。」と小さな声で云つて、面《おもて》を垂れた。著物の肩から襟に血がベトリとこびり付いて居る。枕許の新聞張りの壁際にはパイナツプルの空鑵が二つ、両方に三分目ほど泡立つて居た。書き掛けの原稿が蓋になつて居た。
「好い、好い。心配するな、何有《なアに》、気管が破れたんだ。」と僕は野澤を摺《ず》らせて、膝を被蒲団《かけぶとん》の中へ入れた。
「えッ、えッ。」と勢《せい》なく首頷《うなづ》いて、「朝から二度、今も。」と潤《うる》んだ大きな目に凝つと僕の顔を見上げた。
「黙つて居ろよ。俺が帰つて来れば大丈夫ぢゃないか。寂しかつたか。」と笑つて、渠の手を握つた。熱かつた。
首で答へて、僕の顔ばかり見詰めて居る。叱られはせぬかと恐れるやうな、落付かない目付であつた。部屋は青模様の花莚《はなござ》を敷詰めた四畳半の女中部屋であつた。著て居る蒲団も前に著て居たのでは無い。襟垢《えりあか》の付いた綿の固い酷《ひど》いものであつた。武内の蒲団は送り状だけ先に達《つ》いて荷物は未だ著かなかつた。
二階に居る朝鮮人どもが、ドシ/\と梯子段を上り下りするたび、室は船のやうに揺れるのであつた。
「先生、こゝの御飯は不味《まづ》くッて。」と病人が僕に云ふ。
「飯は途中で済んだ。その代りビールでも飲まして貰はう。俺ァ酒でなくちや駄目だ。酒を飲まないからお前血なぞ吐くんだ。早く癒《なほ》つて飲め。」
病人はニツコリして頷いた。
「M――さんが帰つて見えたので、急に元気付きやがつた。」と、傍に居た太田君が袖口で鏡を拭き拭き笑つた。
三
宿へ頼んだ酒の用意の出来る間、僕は太田君と武内のもとの部屋なる二階へ上つて相談した。太田君は宿の措置《しうち》を憤《いきどほ》つて、これは至急何処かの病院へ入院させねばなるまい。それには国の親元へ電報して誰か呼寄せる必要があると云ふ。然し僕は不同意だ。何れ入院はさせるにしても、国を騒がすほどの事ではない。自分が飽迄引受けると達《た》つて言張つたので、太田君も為方《しかた》なく同意した。
太田君は早稲田文科の人、武内とは同郷の人である。
髪を長く梳《わ》けて、黒羅紗《くろらしゃ》の前掛した、若い宿屋の主人《あるじ》が揉手《もみで》しながら入つて来た。「ひイ、ひイ。」と返辞する癖のある、至つて克明らしい男であつた。岐阜の西在《にしざい》の出生とか云つた。
亭主は座敷を移した事ばかり切りと僕にあやまつて、この部屋より閑静ではあり、それに那処《あすこ》ならば近傍《あたり》が静かだからと、言訳をして居る。
「何しろ伝染病だからね。」と太田君はヅキリと厭味を云ふ。
「いゝえ、決してそんな訳では御座いませんが、お客様に依りましてはその、実にいやがる方も御在《ござい》ますので。」
「好いよ、だから今M――さんとも相談して明日にも直ぐ入院させるから。」
亭主は呉々も言訳して、揉手しながら降りて行つた。
「先生、先生が居ないと武内君が寂《さび》しがりまして。」と野澤が迎へに上《あが》つて来た。ビールの用意も出来たと云ふ。
昨夜太田君の処へ遊びに行つた時までは何んの事も無く、たゞ少々顔色が悪るかつた、身体が懶《だ》るく寒くて耐《たま》らぬとて、太田君の外套を著《き》て戻つた。そして、三上君が遊びに来た時でも、別に然《さ》う大した事も無く、臥《ね》ながら元気好く話して居たとの事であつた。
「肺でせうか。」と太田君には恐れる色があつた。
「無論肺でせう。」
「ぢゃ余り接近しないやうになさるが好いですよ。貴方も然う御丈夫らしくも無いからして。」と心配する。
「なアに。」と僕は下へ降りた。果物《くだもの》と天ぷら蕎麦《そば》を肴に、ビールが病室に搬ばれてあつた。僕は火鉢に火をカン/\おこさせて、そこに胡坐《あぐら》を掻《か》いた。病人は凝つと自分を見て居た。
「飲むぜ。鎌倉ぢゃ禁酒したけれど、お前がそんな顔して見せるから、僕は反抗して飲むんだ。何うだ、この色。」と琥珀色《こはくいろ》に沸泡《あわ》立つコツプを病人の目先に突付けた。
武内はニツと笑つた。そしてコン/\と咳入《せきい》るのである。
太田君が著物を著換へに帰ると云ふので、僕は財布の底を叩いて、晒木綿《さらしもめん》、氷嚢《ひょうのう》、氷、瀬戸の痰壺《たんつぼ》、重曹《ぢうさう》、そんなものゝ買入れ方を頼んだ。
「然し、何うだ、お父さんへ知らせて、来て貰はうか。」
「え。」
「それとも俺に介抱《かいはう》されるか。それンばかりの病気で国を騒がすこともあるまい。癒《なほ》つてから一緒に国へ帰るさ。何うだ。」
「先生の方が好いです。」
「好し、それぢゃ呼ばないよ。然し、お前は余り温順《おとなし》過ぎて不可ない。病気の時は我儘をするものだ。俺に遠慮して居ちゃ不可ないぞ、好いか。何んでも我儘云つてくれ。俺ア喜んで我儘さしてやるぜ。」
「えツ、えツ。」と咳入りながら例の如く頷《うなづ》いた。瞼に涙が光つた。
「何か喰べないか。」
「サイダア。」
野澤は宿からサイダアを取寄せて病人へ飲ませた。咽頭《のど》の音がコクリ/\と鳴つた。
僕はたゞ病人の元気付くやうな元気の好い話を※[#「志」のくずし字、読みは「し」]い/\ビールを四本まで明けた。スツカリ酔つて了つた。そこへ太田君が帰つて来て、是非寝ろとすゝめるゆゑ、後を托《たく》して二階の部屋に暫時《ざんじ》眠る事にした。
野澤が水を持つて暗い枕元へ来て座つた。
「先生、財布に金が些《ち》つともありませんか、明日の朝、××社へでも行つて事情を云つて借りて来ませうか。」
「書くよ、あと十二三枚あれば、完結するんだから。」
「だつて、明日は朝つから銭《ぜに》が要るんですからね。」
「大丈夫だつてッたら、煩《うる》さいな。」
「然うですか。」と野澤は不安さうに下りて行つた。
酒の勢《いきほい》でグツスリ寝込んだ。三時には起して貰ふ約束である。書半《かきさ》しの三十幾枚それまでに浄書するやう野澤に頼んだ。
四
午前三時、三時半、四時。野澤は幾度も起しに来たが、酔は強くて目が醒《さ》めない。原稿の事が気になりながら、矢張りウト/\して居た。
「もう五時半です、お願いでせうけど、代つて起きて下さい。今日は書いて頂かないと困りますから。」と今度は太田君が代つて起しに来た。
「今直ぐ起きますから。」と云つて置いて、又三十分ばかり寝床の温味《あたゝかみ》を貪《むさぼ》つて居た。
起きた。押入を明けて、行李の中から武内の綿入を出して被《はお》つた。
下座敷の病室には、煤気《すゝけ》障子にランプが明るかつた。ブリキの金盥《かなだらひ》、濡手拭、鉄瓶、そんなものが廊下にならんで居た。
「どうだ。」と障子を明けて入る。病人は向《むか》ふ向《むき》の顔をもたげて、僕をチラと見た。未だ上気して居る。
部屋の隅ッこへ、抽斗《ひきだし》を抜いた武内の机を持出して、そこで、太田君と野澤が僕の原稿を浄書してあつた。汚ない四畳半は傍の丼やら、茶道具、敷物、足の踏入れどころも無いくらゐである。枕頭の畳はグツシヨリと水に濡れて居た。
「大変な元気でしてね。先生が見えると違つたものです。」と太田君は病人に聞えるやうに、故《わざ》と大きな声で笑つた。
些《ちょ》いと脉を見て火鉢の傍《そば》に座《すわ》る。相変らず頻数《ひんすう》であつた。
「何うもお睡いところをお起し申して済みません。その代り湯を沸かしてあります。お好きなお茶を※[#「」87-8]《いれ》ませう。」と番茶を真黒くじて烙《はう》じて、濃いお茶を※[#「」87-8]《いれ》てくれた。
香ばしい茶の匂は、酒に爛れた咽頭《のど》を爽かに流れた。僕は三杯も四杯も、殆んど鉄瓶の空虚《から》になるほど飲んだ。少しは目が覚めた。
朝つからの介抱に疲れた野澤は僕の後に入《はい》つて寝かした。太田君は居ては仕事の邪魔だらうと遠慮して、
「ぢや直ぐ来るよ。」と病人へ挨拶して帰つた。
「先生。」と病人は僕を呼ぶ。
「何んだよ。」と近々と顔を見せた。
「お父さんへ電報を打つて、来ないやうにして下さい。僕ア先生が居れば好い。」と僕の手に縋《すが》つた。
「好し。」と潤《うる》む声を紛《まぎ》らせて、「その代りウンと我儘を云ふか。」と、さも元気らしく云つた。
「僕云ふよ。屹度云ふから。」
「好い/\、黙つて臥《ね》て居ろ。君は僕の一人の弟だ。」と云つて聞かせると、病人の若い美しい顔は輝いて見えた。
自分は机へ戻つて、原稿紙を机の上に舒《の》べたが、頭がボツとして筆が取れない。二行書いては消し、三行書いては消し、何うしても書けない。
帳場の方では誰か起きたやうだ。便所《はゞかり》へ行く音が聞えた。
五
仕事は何もこれに限らぬ。これを失敗してもこの次も、次の次もある。何うであらうと投げて書く事と腹を決めて、手当りまかせに書出した。今は六時二十分である。八時までには十二三枚を書上げて、直ぐ俥《くるま》を飛ばして金に※[#「志」のくずし字、読みは「し」]なければならぬ。
万年筆はサラ/\と原稿紙に鳴つた。病人は時々起返つて僕の顔を凝《じ》つと見て居る。此方から気が付かれると、紛《まぎ》らすやうにニツと笑つて目を瞑《つ》ぶる。
「凝《じ》つとして寝て居るんだぞ。今に太田君も来るから。」
「えツ。」と頷く。
紙数を読みながら書いて五枚ばかりになると、台所に下女が起きたやうだ。暗い所でゴス/\味噌を擦《す》る音が聞えた。チ、チ、チ、と雀が窓の外に鳴く。
病人はまた咳入り初めた。
僕は起《た》つて窓の雨戸を繰明けた。明方の白い光はスツと病室に流れて、室の中をシダラなく見せた。窓の外は濕々《じめ/\》と青苔の生えた小庭で、竹皮やら紙屑やら、そこら中に散《ちら》ばつた。
病人は顔に汗をかいて臥《ね》て居る。朝明《あけ》の光りは、いとゞ肌白い病人の顔を真蒼に見せた。唇のみ真赤である。たゞ一日の咯血に余程面痩《おもやつ》れして、その顔を老けて見せて居た。
「苦しいか。」
「汗が出て。」
「待つて居ろ。」と僕は鉄瓶とタオルを持《もつ》て洗面処へ行つた。自分は手の切れるやうな水で顔を洗ひ、タオルは鉄瓶の湯に固《かた》くしぼつた。
顔を拭いてやる。病人は子供のやうに温和《やさ》しく目を閉ぢて、僕のするやうになつて居た。枕下の顎に凝血《ぎようけつ》して中々落ちなかつた。
「胸を拭いてやらう。」
病人は云はれる通り胸元《むなもと》を開《はだ》けた。氷嚢がスツカリ溶けて湯のやうに息を立てゝ居た。外に下宿屋の神さんがしてくれたと云ふ、手拭包みの生豆腐《なまどうふ》、それも触れば熱いほどであつた。
脇下《わきのした》へ手を廻して、胸から背から、頸までスツカリ拭いて、著物の前も好《よ》く合《あは》せてやつた。その間も病人は絶えずコン/\と咳入つて居た。
「先生、手を。」と出す。タオルを金盥《かなだらひ》に洗出して拭いてやつた。
「何うだ、好い心持だらう。」
「汗で気味が悪るかつた。」と嬉《よろこ》ぶ顔から、温い湯気が冷却した朝の空気へスウと立昇るのである。
「先生、お父さんの電報。来たつて為方《しかた》がないし、好《い》いですか先生。」と大きな目を見上げる。
「煩《うる》さい奴だな。大丈夫だつたら大丈夫ぢやないか。黙つて病人らしく傍《はた》のする通りになつて居るもんだ。」
「はい。」
「今日は入院するなり、新しく家を持つなりして、こんな下宿になんか置かない。安心して居るんだぞ。」
「僕、先生が鎌倉から帰らないので、本当に寂《さび》しかつた。」
「馬鹿野郎! 三四日居ないのに寂しがるやうで何うする。それよか、最《も》う薬を飲む時分だらう、飲ましてやらう。」
水を湯呑に汲んで、粉薬《こぐすり》の袋を解いた。病人は半分床の上に起返つて、口を横にして薬袋紙《やくたいし》を唇に叩いた。白い粉薬は口の端を零《こぼ》れて汚い蒲団の上に落ちた。
水を飲ましてやると、コクリ/\と咽頭《のど》を鳴らして飲む。
僕は机に座つて又書初めた。書き書く中にツイ夢中になつて、七時半頃にはもう十四枚を書終つた。一時間に八枚から書いた訳である。自分ながら驚いた。
「完」と筆太く書終つて、「あつと、これで出来た。」と原稿を平手で叩いて、大きく叫んだ。
「それは何処なんです。」と先刻《せんこく》から凝《じ》つと僕を見詰めて居たのだ。
「雑誌よ。」
「来月のですか。」
「あゝ。」
「好いなア。」と病人も喜んだ。
僕はこの稿料を受取つて、帰り路に買整へて来べき品々を、蒲団、スウプ、パイナツプル、半紙、タオル、石鹸、痰壺、平野水《ひらのすゐ》、枕、とそれ/″\紙片《かみ》に思出しながら書付けた。
「牛乳屋が参りました。幾合貰ひませう。」と宿の女中が障子の外から僕に聞いた。
「朝三合、晩に二合。」と僕は答へた。