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日本でのマンガ規制 - (2007/01/12 (金) 11:39:47) の最新版との変更点
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*Anti Comics Campaign
以下は
『Pulp Demons: International Dimensions of the Postwar Anti Comics Campaign』Edited by John A. Lent、Published by Fairleigh Dickinson University Press
収録の論文
「Comics Controversies and Codes: Reverberations in Asia」John A. Lent
(「コミックスの議論と規制:アジアでの反響」)
からの抜粋引用である。
国外の研究者から日本の現状がどのように考えられているかのサンプルとして参考にされたい。
まずイントロダクションとして軽くこの論文の趣旨説明がなされる。
ここではとりあげられた4ヵ国とアメリカの関係が簡潔にまとめられ、アメリカのアンチコミックスキャンペーンとアジアでのそれが有機的に関連づけられている。
>ここから
1950年代のアメリカのアンチコミックスキャンペーンはその栄光の日々においてアジアの4つの国における同種のキャンペーンの勃発の格好の刺激剤になったと言ってよいと思われる。フィリピンではアメリカの影響力がことに強かった――フィリピンは48年に渡ってアメリカの植民地であり、文化的な制度にせよ、生産物にせよ、アメリカをその目標にし、それに近づこうとする傾向が強かった。台湾は冷戦におけるアメリカのアジア戦略の要となる国であり、よき「お客様」だった。韓国は朝鮮戦争における米軍の基地であり、日本は第二次大戦後の一時期(1945-51年)米軍の占領下にあった。これらのアメリカの影響力の強いアジアの国々ではアメリカのアンチコミックスキャンペーンをその強い論拠としてマンガの悪影響を巡る議論が燃え上がったのである。
これら4ヵ国ではその犯罪、暴力、セックスに関する描写によって槍玉にあげられ、子供への悪影響を非難された。この三点を批判するにあたって、その言い分を正統化するために運動推進の背後にいる人間たちは児童保護者グループ、宗教団体、もしくは政府機関としての資格を持っていた。フィリピンではこの運動の結果、アメリカのコミックスコードに酷似したコードがコミック業界内で制定され、台湾と韓国では政府によってガイドラインが制定された。しかし、のちに台湾と韓国ではマンガ家たちが公的なガイドラインの撤廃と自主規制への変更を求める運動をはじめている。
コードやガイドラインはあからさまで行き過ぎた暴力やセックスの描写に歯止めをかけるためのものだ、しかしそれらは同時に国政を安定させ、土着の文化や価値観を新しい海外からの「それ」から守るためのものでもあった。韓国と台湾において警戒すべき「それ」とは日本のマンガの流行だった、なぜならそこに描かれたセックスとバイオレンスはそれらの国々おいてまったく異質なものであったし、それに加え自国のマンガ家たちの職を奪うものでもあったからだ。
この章ではアメリカでの議論が進行し、自主規制がおこなわれた時期におけるフィリピン、台湾、韓国、日本でのアンチコミックスキャンペーンの歴史とその現状にフォーカスを当てている。併せてより最近のコミック規制運動である香港の状況を紹介する。もちろん先の4つの国においても議論は現在も進行中である。
>ここまで
どうやら著者John A. Lent氏はフィリピンマンガの専門家らしく、一番紙幅が割かれ、内容的に詳しいのはフィリピンの事情である。
日本についての部分はほぼ全面的にフレデリック・ショットの著書『Manga! Manga! The World of Japanese Comics』および『Dreamland Japan: Writing of Modern Manga』の記述に準拠している。ただし里中満智子のインタビューは作者自身によるもの(注釈を見ると特に発表されてもいないようだ)。なお、ショットの『Manga! Manga!』の翻訳(オーム社)は持っているはずなのだが、どこにあるのかわからないので訳文とのつきあわせはしていない。その他現段階では書かれていることについての裏はとっていないので、悪しからず。
中にマンガの焚書事件についても簡単な言及がある。
>ここから
日本
反コミックス運動は現代日本のコミックブック(マンガ)に対してもおこなわれている。最初のそれは1950年代半ばに社会的なマンガ批判の高まり、というよりはアメリカと日本の緊密な同盟関係の影響からアメリカのそれを模倣するようなかたちで起こった。だが、いっぽうで1950年代の日本のマンガ家たちはこの国のそれまでの歴史の中では存在したことのなかった表現の自由を楽しんでいた――なにしろ新憲法のもとで検閲から解放されたのだ――彼らは自分たちの仕事を批判されるようなものを描いてはいなかった。フレデリック・ショットが書いているように、日本のコミックスは
「1960年代の到来に先だって大半の子供向けコミックスはすでに今日のアメリカのコミックスのようなものになっていた。バランスのとれたモラリスティックなヒーローたちがぺージを支配していた。反抗は大人たちに限られ、許容されていた。」のである。
現実に1950年代半ばの「悪書追放運動」の最初のターゲットにされたのは安っぽいエロ雑誌の類からなっており、コミックスがそのリストに追加されたのは、岡山市で起きたPTA(Parents Teachers Association)による焚書事件からのことだ。このとき彼らはコミックブックを火のなかに放り込むことを決めている。この運動は「売らない、買わない、読まない」というモットーを掲げていたからコミック業界に対してプレッシャーをかけることにはなったが、ほとんどとるに足らない結果しかもたらさなかった。この日本のケースについてショットは
「子供たちはマンガを読み続け、出版社はその関心をしっかりつかんで離さなかった。しばらくすると両親は子供たちからマンガを取り上げるのをあきらめてしまった」
と書いている。
1960、70年代になるとセックス、暴力、スカトロといったタブーの問題がコミックスの世界にも忍び込んできた。特にこれは少年雑誌におけるギャグマンガと貸本屋市場でのアクションマンガのジャンルで多くの問題を引き起こした。初期のギャグマンガでのこの種の問題は権威をおちょくるパロディの存在であり、多くの場合それはスカトロ的な要素があったが、暴力やエロスが問題ではなかった。永井豪の『ハレンチ学園』は1968年に子供向けのマンガにエロティシズムを持ち込み、日本のPTAから非常な非難と憤りをもって迎えられた。その物語では生徒や教師が裸で学校を走り回り、授業中に麻雀に興じる姿が描かれている。
暴力の問題はアクションマンガにおける非常にリアリスティックな描写が生み出したものだ。それは「首が転がり、目玉が剥かれ、血の雨が降る」ようなものだった。1960年代に貸本市場が廃れると、貸本市場のマンガ家たちは週刊、もしくは月刊のマンガ雑誌に移動した。彼らはその移動の過程で彼らの仕事として知られている暴力とリアリズムを少年マンガに持ち込んだ。少年マンガはいまや「グロテスクに描かれた死と飛び散る血のシャワー」に覆われたものになった、そして「蛆のたかる死体の山で人々がお互いに喰いあうシーン」が描かれており、少年マンガも少女マンガもすでに「キス、ヌード、ベッドの中の恋人たち、ホモセクシャル、スカトロ」までなんでもあり、ないのは直接的な性交描写だけ。
1960年代以降、PTAやその他のマンガを批判する人々は再び無益な批判の声を上げはじめた。1963年には一時的に何人かのマンガ家や業界の代表者たちがコミックスの中味を浄化し、より「人間的で良心的な」コミックスを子供向けにつくっていくことを表明したが、ショットが書いているように「それは嵐のただなかで叫び声をあげるようなものだった」。彼はそれがどのようなものだったか、こんな風につけくわえている。
“県政のレベルでPTAや「青少年を守る会」の番犬たちは何回にも渡ってマンガ雑誌を詳細に調べあげた。不買運動の推進に有利なことや警察へ苦情を持ち込めるような内容に関してなにか見つけたら、彼らは出版社にメッセージを送りつけ、条例の施行を迫った。新しい政治的影響力を確保した日本のマイノリティグループの活動はよりアクティヴなものだった。日本居住の朝鮮人、アイヌ(日本先住民族)、部落民(「見えない」階級、かつての被差別民)、そして精神的、身体的なハンディキャップを負った人々の保護団体、彼らは差別される日々の中から新しい自覚を育ててきた。彼らは攻撃すべきだと思われる対象をすばやく見つけだし、小売店主や流通業者に圧力をかけ、即座に雑誌や本の売り上げにダメージを与えることが出来た。”
もっとも厳格な規制は1990年代になってはじめてつくられた青年向けのエロティックなマンガに関してのものだ。日本国刑法175条(もしくはそのコミックスへの適用解釈)のもとで「大人の性器、陰毛、そして性交は図像的に描写されてはならなかった、そしてそのことは書かれていないもうひとつの裏の意味を包含しているように思える。それは子供の性器、特に「マンガ的な」デフォルメを施されたものは許容範囲なのではないか」。けれどもいくつかのエロティックなコミックスの出版社は実際に警告を受けた、そのいっぽうでさらに少数の出版社は依然としてうまくやっており、1970年代から80年代にかけて様々なテクニック(性器をシンボル化したりエアブラシ処理で隠すなどの技法)を用いることで圧力団体や警察からのプレッシャーに立ち向かい続けていた。
ガイドラインがほぼ消滅したことに象徴されるように、日本でのマンガをコントロールしようという動きは80年代末にはほとんど破産してしまっている。ショットは日本のコミックプロデューサーたちが性的刺激をかきたてるのに必死になるのと同時にメインストリームのマンガ雑誌(10代の少年少女、もしくはより幼い子供たちに向けてつくられたもの)ににその要素を持ち込み、作品中にロリコン(ロリータコンプレックス)的な味付けを加味していったのではないか、と感じている。「大人の男が非常に大人らしい行為を成熟した女性に対しておこなうかわりに……性的対象はだんだん「キュート」で若いそれに移りかわっていった」そうショットは示唆している。
こうした傾向は1988-89年にコミックブック「中毒患者」が引き起こした三人の就学前の少女の殺人事件以後、ますます非難の目で見られるようになっていった。彼は犠牲者の一人の「一部」を彼女の両親に送り付けた際、自分のフェイバリット・マンガ・キャラクターの名前をその偽名に用いている。親や権力者たちはコミックスに対してより厳しい見方をするようになり、そこで自分たちが発見したものにおぞけをふるった、そうしてまたそれを規制するための運動がはじまったのである。「子供をマンガから守る会」が何人かの主婦によってつくられると、その有害なコミックスを排斥しようという運動はすぐに国中に広まっていった。「守る会」にはPTA、主婦、フェミニストグループ、そして政治家たちが参加し、よりマンガに対して厳格な地方条例が施行され、出版社、編集者、そして同人誌でエロティックな作品を発表する作家たちがその標的になった。この運動の1950年代の運動のそれとよく似たモットー「見ない、読まない、読まさない」は日本全国のゴミ箱に書かれ「有害図書問題」を廃棄する場所となった。
事件が引き起こしたリアクションは他にもあった。1990年9月4日の朝日新聞はその社説であまりにも多くの「悪質なマンガ」(この社説では50%以上のマンガがセックスシーンを含んでいるという統計を引きあいにだしている)が存在すると表明し、国民の関心をこの問題に向けさせようとしている。この朝日新聞の記事は行政レベルでの規制の上に、一般での議論の高まりと一部のコミック出版社での自主規制の動きを呼び起こした。母親たちによってどのようなコミックスが出版されるべきではないかについての議論は多くの地方に広がっていき、すぐに性的表現に特化したコミックスに対して怒り狂った母親たちのグループが国会議員の事務所に怒鳴り込むようになった。たいていマンガについての再検討をおこなった上で議員たちはこの反コミックス十字軍を自分も支持することを表明した。いくつかの都市では有益なコミックスまでが禁止と取り決められた。こうした多くの勧告の背後にはマンガが若者による若者のための表現である、という一般的な考え方がある。1991年には出版社はもっとも問題とされる本を回収し、自主規制システムを導入した。その過程で子供向けの作品での性的表現は弱められ、そうでない作品には「成年コミック」のラベルがつけられることになった。
こうした規制への反対運動は1992年に顕在化した。石ノ森章太郎や里中満智子といったトップ作家たちが「マンガ表現の自由を守る会」を組織したのである。里中はセックスや暴力の描かれたマンガを子供に与えることが不適切であることを一方で認めながら、こう語っている。「こうした表現はいくらかは大人向けの作品においては必要なものでしょう。バランスが必要なのです」彼女はさらにこう言う。
“問題は子供向けのマンガと成人向けのそれが書店の同じ場所で売られていることです。これをなんとかしようとするなら、「成人向け」の内容とはなにかをよりはっきりさせなければならないでしょう。
地域によってはこの問題に警察が干渉しようとしました。1991年9月にその事件が起こったとき、私は彼らは干渉すべきではない、と思ったのです。私はこうした警察の行動をやめさせるための全国的な運動をはじめました。マンガ家や出版社に呼びかけ、マンガにおける表現の自由を守る会を組織したのです。私たちは広く一般に参加を呼びかけました。この行動は警察の介入を不適切だとする一般的な関心を呼び起こすのに成功したと思います。
いくつかの地方では「子供の教育に悪い」マンガの販売を禁じる条例が制定されています。これらの地方では警察が不適切であると考えたマンガを没収することが出来ます。書店主たちは逮捕されることを恐れ、ある作家が警察とトラブルを起こしたと聞けば、もうその作家の作品を仕入れようとはしなくなります。大阪と名古屋の二県では警察がいつでも書店に介入することができます。
自分の作品が書店から排除される危険に気付くと、何人かのマンガ家はセックスと暴力を作中に登場させることをやめてしまいました。結果的にこれはよいことだと思います――マンガ表現の質を向上させるという意味においては。私自身はセックスと暴力を描くことが悪いことだとは考えていません、それが大人向きのものだったら。セックスと暴力を作品で描くかどうか――これはプロとして働く私たちにとって最大の問題なのです。私はこのことについてもう5年から10年のあいだずっと考え続けてていますが、いまだに結論は出せません。”
この議論はひとまず1990年代半ばに書店が「成年コミック」の扱いをとりやめ、年少者向けの雑誌がもっとも露骨な「ロリコン」ものを放逐することで決着した。しかし、成人向けのエロティックな作品は1993年に陰毛と性器の描写に関する禁止が解かれたのに見られるようにますます具象的になっている。ショットはマンガのモラリティーの問題は1950年代のアメリカでそうだったようなレベルに達することはないのではないかと感じている。彼はその理由としてこんなことを言っている。
“マンガが今日の日本社会の中で確立している地位を見ると、1950年代のアメリカで引き起こされたような過剰な反応は起こりそうにない。けっきょく作家の興味と大衆的な関心の間でバランスをとるのが日本流の結論の出し方であり、やり方なのだ。猥褻論議の決着もこうやって混乱したまま終わっていくのだろう。”
>ここまで
いちおう結論も訳出しておく。
>ここから
結論
アメリカで、そしてフィリピンと日本で、また台湾や韓国で起こったマンガの子供への悪影響に関する議論はアメリカのコミック業界には10年間のオーバーホールを強いる結果となった。これらアジアの4ヵ国でのコミックスへの抗議は両親、宗教関係者、政治家たちがコミックブックが潜在的に隠し持つ身体的、精神的な悪影響を懸念してのものだった。
アメリカでのコミックスのプロフェッショナルたちの反応は、政府の介入を予想し、それに先駆けて自主規制コードをつくってしまおうというものだった。彼らはまた実際に政府の介入があったときにもすぐに対応している。フィリピンの状況はこのアメリカのケースに非常に近いものだ。マンガ家たちは厳格なコードを制定し、それに合格したコミックブックに検定済みのシールを貼りつけた。韓国でもごく早い時期からマンガ家協会が組織され、自主規制コードが導入されている。
日本を除くすべての国では出版に政府が介入したことがあり、どの場合でもそれは戒厳令下や独裁体制のもとでのことだった。台湾での戒厳令は1949年から1987年までの長きにおよび、同じ時期、韓国は入れ替わり立ち替わりの独裁体制を経験している。フィリピンの戒厳令は1972年に導入され、この時期のコミックブックからはセックスと暴力が完全に追放されていた。コミックスは台湾と韓国においては、政府や元首からその価値を認められ、真剣な関心を寄せられるメディアだった。このためその製作は徹底的に検閲された。しかし、曖昧な検査基準、厳しい労働量、効率の悪い評価システムなど、政府の監視下でのコミックス製作は作家たちの仕事の仕方にもそぐわなければ、狙っている読者層にもそぐわなかった。この場合、問題は日本のマンガだった。台湾と韓国において、日本マンガはそのセックスと暴力への傾倒から道徳的、文化的価値観への脅威と看做されていた。しかし両国ともにその存在を抹消し、影響力をコントロールしようという努力は完全に失敗した。
1980年代末からセックスと暴力を規制するためのガイドラインの存在はこの4ヵ国すべてにおいてさほどの脅威ではなくなってきた。日本、フィリピン、韓国ではではこの種の規制はほとんど消滅してしまったと言っていい。こうした変化の一部は民主的な政治形態の広がりにあると言えるだろうが、同時にそれはグローバリゼーションの進行に起因するものだろう。衛星と新しい情報技術の登場によって、国際的な取り引き、委任、協定の可能性を開いた。これによって好ましくないメディアや文化的所産を排斥することはほとんど不可能になった。もはや「なにが許されるべきか」は家庭で考えられるべき問題になったのである。
>ここまで
*Anti Comics Campaign
以下は
『Pulp Demons: International Dimensions of the Postwar Anti Comics Campaign』Edited by John A. Lent、Fairleigh Dickinson University Press刊
収録の論文
「Comics Controversies and Codes: Reverberations in Asia」John A. Lent
(「コミックスの議論と規制:アジアでの反響」)
からの抜粋引用である。
国外の研究者から日本の現状がどのように考えられているかのサンプルとして参考にされたい。
まずイントロダクションとして軽くこの論文の趣旨説明がなされる。
ここではとりあげられた4ヵ国とアメリカの関係が簡潔にまとめられ、アメリカのアンチコミックスキャンペーンとアジアでのそれが有機的に関連づけられている。
> 1950年代のアメリカのアンチコミックスキャンペーンはその栄光の日々においてアジアの4つの国における同種のキャンペーンの勃発の格好の刺激剤になったと言ってよいと思われる。フィリピンではアメリカの影響力がことに強かった――フィリピンは48年に渡ってアメリカの植民地であり、文化的な制度にせよ、生産物にせよ、アメリカをその目標にし、それに近づこうとする傾向が強かった。台湾は冷戦におけるアメリカのアジア戦略の要となる国であり、よき「お客様」だった。韓国は朝鮮戦争における米軍の基地であり、日本は第二次大戦後の一時期(1945-51年)米軍の占領下にあった。これらのアメリカの影響力の強いアジアの国々ではアメリカのアンチコミックスキャンペーンをその強い論拠としてマンガの悪影響を巡る議論が燃え上がったのである。
> これら4ヵ国ではその犯罪、暴力、セックスに関する描写によって槍玉にあげられ、子供への悪影響を非難された。この三点を批判するにあたって、その言い分を正統化するために運動推進の背後にいる人間たちは児童保護者グループ、宗教団体、もしくは政府機関としての資格を持っていた。フィリピンではこの運動の結果、アメリカのコミックスコードに酷似したコードがコミック業界内で制定され、台湾と韓国では政府によってガイドラインが制定された。しかし、のちに台湾と韓国ではマンガ家たちが公的なガイドラインの撤廃と自主規制への変更を求める運動をはじめている。
> コードやガイドラインはあからさまで行き過ぎた暴力やセックスの描写に歯止めをかけるためのものだ、しかしそれらは同時に国政を安定させ、土着の文化や価値観を新しい海外からの「それ」から守るためのものでもあった。韓国と台湾において警戒すべき「それ」とは日本のマンガの流行だった、なぜならそこに描かれたセックスとバイオレンスはそれらの国々おいてまったく異質なものであったし、それに加え自国のマンガ家たちの職を奪うものでもあったからだ。
> この章ではアメリカでの議論が進行し、自主規制がおこなわれた時期におけるフィリピン、台湾、韓国、日本でのアンチコミックスキャンペーンの歴史とその現状にフォーカスを当てている。併せてより最近のコミック規制運動である香港の状況を紹介する。もちろん先の4つの国においても議論は現在も進行中である。
どうやら著者John A. Lent氏はフィリピンマンガの専門家らしく、一番紙幅が割かれ、内容的に詳しいのはフィリピンの事情である。
日本についての部分はほぼ全面的にフレデリック・ショットの著書『Manga! Manga! The World of Japanese Comics』および『Dreamland Japan: Writing of Modern Manga』の記述に準拠している。ただし里中満智子のインタビューは作者自身によるもの(注釈を見ると特に発表されてもいないようだ)。なお、ショットの『Manga! Manga!』の翻訳(オーム社)は持っているはずなのだが、どこにあるのかわからないので訳文とのつきあわせはしていない。その他現段階では書かれていることについての裏はとっていないので、悪しからず。
中にマンガの焚書事件についても簡単な言及がある。
>日本
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> 反コミックス運動は現代日本のコミックブック(マンガ)に対してもおこなわれている。最初のそれは1950年代半ばに社会的なマンガ批判の高まり、というよりはアメリカと日本の緊密な同盟関係の影響からアメリカのそれを模倣するようなかたちで起こった。だが、いっぽうで1950年代の日本のマンガ家たちはこの国のそれまでの歴史の中では存在したことのなかった表現の自由を楽しんでいた――なにしろ新憲法のもとで検閲から解放されたのだ――彼らは自分たちの仕事を批判されるようなものを描いてはいなかった。フレデリック・ショットが書いているように、日本のコミックスは
>「1960年代の到来に先だって大半の子供向けコミックスはすでに今日のアメリカのコミックスのようなものになっていた。バランスのとれたモラリスティックなヒーローたちがぺージを支配していた。反抗は大人たちに限られ、許容されていた。」のである。
> 現実に1950年代半ばの「悪書追放運動」の最初のターゲットにされたのは安っぽいエロ雑誌の類からなっており、コミックスがそのリストに追加されたのは、岡山市で起きたPTA(Parents Teachers Association)による焚書事件からのことだ。このとき彼らはコミックブックを火のなかに放り込むことを決めている。この運動は「売らない、買わない、読まない」というモットーを掲げていたからコミック業界に対してプレッシャーをかけることにはなったが、ほとんどとるに足らない結果しかもたらさなかった。この日本のケースについてショットは
>「子供たちはマンガを読み続け、出版社はその関心をしっかりつかんで離さなかった。しばらくすると両親は子供たちからマンガを取り上げるのをあきらめてしまった」
>と書いている。
> 1960、70年代になるとセックス、暴力、スカトロといったタブーの問題がコミックスの世界にも忍び込んできた。特にこれは少年雑誌におけるギャグマンガと貸本屋市場でのアクションマンガのジャンルで多くの問題を引き起こした。初期のギャグマンガでのこの種の問題は権威をおちょくるパロディの存在であり、多くの場合それはスカトロ的な要素があったが、暴力やエロスが問題ではなかった。永井豪の『ハレンチ学園』は1968年に子供向けのマンガにエロティシズムを持ち込み、日本のPTAから非常な非難と憤りをもって迎えられた。その物語では生徒や教師が裸で学校を走り回り、授業中に麻雀に興じる姿が描かれている。
> 暴力の問題はアクションマンガにおける非常にリアリスティックな描写が生み出したものだ。それは「首が転がり、目玉が剥かれ、血の雨が降る」ようなものだった。1960年代に貸本市場が廃れると、貸本市場のマンガ家たちは週刊、もしくは月刊のマンガ雑誌に移動した。彼らはその移動の過程で彼らの仕事として知られている暴力とリアリズムを少年マンガに持ち込んだ。少年マンガはいまや「グロテスクに描かれた死と飛び散る血のシャワー」に覆われたものになった、そして「蛆のたかる死体の山で人々がお互いに喰いあうシーン」が描かれており、少年マンガも少女マンガもすでに「キス、ヌード、ベッドの中の恋人たち、ホモセクシャル、スカトロ」までなんでもあり、ないのは直接的な性交描写だけ。
> 1960年代以降、PTAやその他のマンガを批判する人々は再び無益な批判の声を上げはじめた。1963年には一時的に何人かのマンガ家や業界の代表者たちがコミックスの中味を浄化し、より「人間的で良心的な」コミックスを子供向けにつくっていくことを表明したが、ショットが書いているように「それは嵐のただなかで叫び声をあげるようなものだった」。彼はそれがどのようなものだったか、こんな風につけくわえている。
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>“県政のレベルでPTAや「青少年を守る会」の番犬たちは何回にも渡ってマンガ雑誌を詳細に調べあげた。不買運動の推進に有利なことや警察へ苦情を持ち込めるような内容に関してなにか見つけたら、彼らは出版社にメッセージを送りつけ、条例の施行を迫った。新しい政治的影響力を確保した日本のマイノリティグループの活動はよりアクティヴなものだった。日本居住の朝鮮人、アイヌ(日本先住民族)、部落民(「見えない」階級、かつての被差別民)、そして精神的、身体的なハンディキャップを負った人々の保護団体、彼らは差別される日々の中から新しい自覚を育ててきた。彼らは攻撃すべきだと思われる対象をすばやく見つけだし、小売店主や流通業者に圧力をかけ、即座に雑誌や本の売り上げにダメージを与えることが出来た。”
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> もっとも厳格な規制は1990年代になってはじめてつくられた青年向けのエロティックなマンガに関してのものだ。日本国刑法175条(もしくはそのコミックスへの適用解釈)のもとで「大人の性器、陰毛、そして性交は図像的に描写されてはならなかった、そしてそのことは書かれていないもうひとつの裏の意味を包含しているように思える。それは子供の性器、特に「マンガ的な」デフォルメを施されたものは許容範囲なのではないか」。けれどもいくつかのエロティックなコミックスの出版社は実際に警告を受けた、そのいっぽうでさらに少数の出版社は依然としてうまくやっており、1970年代から80年代にかけて様々なテクニック(性器をシンボル化したりエアブラシ処理で隠すなどの技法)を用いることで圧力団体や警察からのプレッシャーに立ち向かい続けていた。
> ガイドラインがほぼ消滅したことに象徴されるように、日本でのマンガをコントロールしようという動きは80年代末にはほとんど破産してしまっている。ショットは日本のコミックプロデューサーたちが性的刺激をかきたてるのに必死になるのと同時にメインストリームのマンガ雑誌(10代の少年少女、もしくはより幼い子供たちに向けてつくられたもの)にその要素を持ち込み、作品中にロリコン(ロリータコンプレックス)的な味付けを加味していったのではないか、と感じている。「大人の男が非常に大人らしい行為を成熟した女性に対しておこなうかわりに……性的対象はだんだん「キュート」で若いそれに移りかわっていった」そうショットは示唆している。
> こうした傾向は1988-89年にコミックブック「中毒患者」が引き起こした三人の就学前の少女の殺人事件以後、ますます非難の目で見られるようになっていった。彼は犠牲者の一人の「一部」を彼女の両親に送り付けた際、自分のフェイバリット・マンガ・キャラクターの名前をその偽名に用いている。親や権力者たちはコミックスに対してより厳しい見方をするようになり、そこで自分たちが発見したものにおぞけをふるった、そうしてまたそれを規制するための運動がはじまったのである。「子供をマンガから守る会」が何人かの主婦によってつくられると、その有害なコミックスを排斥しようという運動はすぐに国中に広まっていった。「守る会」にはPTA、主婦、フェミニストグループ、そして政治家たちが参加し、よりマンガに対して厳格な地方条例が施行され、出版社、編集者、そして同人誌でエロティックな作品を発表する作家たちがその標的になった。この運動の1950年代の運動のそれとよく似たモットー「見ない、読まない、読まさない」は日本全国のゴミ箱に書かれ「有害図書問題」を廃棄する場所となった。
> 事件が引き起こしたリアクションは他にもあった。1990年9月4日の朝日新聞はその社説であまりにも多くの「悪質なマンガ」(この社説では50%以上のマンガがセックスシーンを含んでいるという統計を引きあいにだしている)が存在すると表明し、国民の関心をこの問題に向けさせようとしている。この朝日新聞の記事は行政レベルでの規制の上に、一般での議論の高まりと一部のコミック出版社での自主規制の動きを呼び起こした。母親たちによってどのようなコミックスが出版されるべきではないかについての議論は多くの地方に広がっていき、すぐに性的表現に特化したコミックスに対して怒り狂った母親たちのグループが国会議員の事務所に怒鳴り込むようになった。たいていマンガについての再検討をおこなった上で議員たちはこの反コミックス十字軍を自分も支持することを表明した。いくつかの都市では有益なコミックスまでが禁止と取り決められた。こうした多くの勧告の背後にはマンガが若者による若者のための表現である、という一般的な考え方がある。1991年には出版社はもっとも問題とされる本を回収し、自主規制システムを導入した。その過程で子供向けの作品での性的表現は弱められ、そうでない作品には「成年コミック」のラベルがつけられることになった。
> こうした規制への反対運動は1992年に顕在化した。石ノ森章太郎や里中満智子といったトップ作家たちが「マンガ表現の自由を守る会」を組織したのである。里中はセックスや暴力の描かれたマンガを子供に与えることが不適切であることを一方で認めながら、こう語っている。「こうした表現はいくらかは大人向けの作品においては必要なものでしょう。バランスが必要なのです」彼女はさらにこう言う。
>
>“問題は子供向けのマンガと成人向けのそれが書店の同じ場所で売られていることです。これをなんとかしようとするなら、「成人向け」の内容とはなにかをよりはっきりさせなければならないでしょう。
> 地域によってはこの問題に警察が干渉しようとしました。1991年9月にその事件が起こったとき、私は彼らは干渉すべきではない、と思ったのです。私はこうした警察の行動をやめさせるための全国的な運動をはじめました。マンガ家や出版社に呼びかけ、マンガにおける表現の自由を守る会を組織したのです。私たちは広く一般に参加を呼びかけました。この行動は警察の介入を不適切だとする一般的な関心を呼び起こすのに成功したと思います。
> いくつかの地方では「子供の教育に悪い」マンガの販売を禁じる条例が制定されています。これらの地方では警察が不適切であると考えたマンガを没収することが出来ます。書店主たちは逮捕されることを恐れ、ある作家が警察とトラブルを起こしたと聞けば、もうその作家の作品を仕入れようとはしなくなります。大阪と名古屋の二県では警察がいつでも書店に介入することができます。
> 自分の作品が書店から排除される危険に気付くと、何人かのマンガ家はセックスと暴力を作中に登場させることをやめてしまいました。結果的にこれはよいことだと思います――マンガ表現の質を向上させるという意味においては。私自身はセックスと暴力を描くことが悪いことだとは考えていません、それが大人向きのものだったら。セックスと暴力を作品で描くかどうか――これはプロとして働く私たちにとって最大の問題なのです。私はこのことについてもう5年から10年のあいだずっと考え続けてていますが、いまだに結論は出せません。”
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> この議論はひとまず1990年代半ばに書店が「成年コミック」の扱いをとりやめ、年少者向けの雑誌がもっとも露骨な「ロリコン」ものを放逐することで決着した。しかし、成人向けのエロティックな作品は1993年に陰毛と性器の描写に関する禁止が解かれたのに見られるようにますます具象的になっている。ショットはマンガのモラリティーの問題は1950年代のアメリカでそうだったようなレベルに達することはないのではないかと感じている。彼はその理由としてこんなことを言っている。
>
>“マンガが今日の日本社会の中で確立している地位を見ると、1950年代のアメリカで引き起こされたような過剰な反応は起こりそうにない。けっきょく作家の興味と大衆的な関心の間でバランスをとるのが日本流の結論の出し方であり、やり方なのだ。猥褻論議の決着もこうやって混乱したまま終わっていくのだろう。”
いちおう結論も訳出しておく。
>結論
>
> アメリカで、そしてフィリピンと日本で、また台湾や韓国で起こったマンガの子供への悪影響に関する議論はアメリカのコミック業界には10年間のオーバーホールを強いる結果となった。これらアジアの4ヵ国でのコミックスへの抗議は両親、宗教関係者、政治家たちがコミックブックが潜在的に隠し持つ身体的、精神的な悪影響を懸念してのものだった。
> アメリカでのコミックスのプロフェッショナルたちの反応は、政府の介入を予想し、それに先駆けて自主規制コードをつくってしまおうというものだった。彼らはまた実際に政府の介入があったときにもすぐに対応している。フィリピンの状況はこのアメリカのケースに非常に近いものだ。マンガ家たちは厳格なコードを制定し、それに合格したコミックブックに検定済みのシールを貼りつけた。韓国でもごく早い時期からマンガ家協会が組織され、自主規制コードが導入されている。
> 日本を除くすべての国では出版に政府が介入したことがあり、どの場合でもそれは戒厳令下や独裁体制のもとでのことだった。台湾での戒厳令は1949年から1987年までの長きにおよび、同じ時期、韓国は入れ替わり立ち替わりの独裁体制を経験している。フィリピンの戒厳令は1972年に導入され、この時期のコミックブックからはセックスと暴力が完全に追放されていた。コミックスは台湾と韓国においては、政府や元首からその価値を認められ、真剣な関心を寄せられるメディアだった。このためその製作は徹底的に検閲された。しかし、曖昧な検査基準、厳しい労働量、効率の悪い評価システムなど、政府の監視下でのコミックス製作は作家たちの仕事の仕方にもそぐわなければ、狙っている読者層にもそぐわなかった。この場合、問題は日本のマンガだった。台湾と韓国において、日本マンガはそのセックスと暴力への傾倒から道徳的、文化的価値観への脅威と看做されていた。しかし両国ともにその存在を抹消し、影響力をコントロールしようという努力は完全に失敗した。
> 1980年代末からセックスと暴力を規制するためのガイドラインの存在はこの4ヵ国すべてにおいてさほどの脅威ではなくなってきた。日本、フィリピン、韓国ではではこの種の規制はほとんど消滅してしまったと言っていい。こうした変化の一部は民主的な政治形態の広がりにあると言えるだろうが、同時にそれはグローバリゼーションの進行に起因するものだろう。衛星と新しい情報技術の登場によって、国際的な取り引き、委任、協定の可能性を開いた。これによって好ましくないメディアや文化的所産を排斥することはほとんど不可能になった。もはや「なにが許されるべきか」は家庭で考えられるべき問題になったのである。
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